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銭 恂 資 料 集

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Academic year: 2021

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(1)

銭   恂   資料集

年譜︑著述・寄贈図書目録

早稲田大 学図書館

理 資料管 課  

(2)

                       

(3)

          目                 次

 

(4)

          二・

著述図

                                                                      ・・・・

九四

 

 

   

      四

銭 恂 寄贈図書 の 現 況

                                                          ・・・・

七二○

 

 

          二

・ 翻 刻

                                  ・・・・

一七一

 

 

﹃ 清 國 人 錢 恂 寄 贈 図 書 目 録 ﹄

          三・解説

                                                                                      ・・・・

八一八

 

 

          一・影印﹃清國人錢恂寄贈

図 書目録﹄

                                  ・・・・

一一三

 

 

書 目 録

          三・解説

                                                                                      ・・・・

四一○

 

 

          一・自著解題

                                                                              ・・・・

八九

 

 

                                                                                                    ・・・・

 

 

概説

                                                                                                ・・・・

一一

 

 

Ⅲ・寄贈 図書目録

                     

Ⅱ・著述図書目録

                 

Ⅰ・年譜

                                                                                        ・・・・

二一

 

 

人名索引

                                                                               

・・・・

i  

 

・ 附

  ﹁銭恂氏寄贈書籍﹂

︵ ﹃早稲田 学報﹄第五十四号

  掲載︶

・・・・

二一八

 

 

   

(5)

         

            序

 

(6)

                       

(7)

            ﹁銭恂監督官は︑

日本に遊 学す る 学 生た ち の 出立にあたり︑ こ の書 を贈る ︒ この 日に 固く 約束 をかわした ︒ いつの 日 かこ

の書付を見 て 銭監督官の御厚意 を知っ て ほしい︒光緒二十五年︵一八九九︶二月

  鼎芬記﹂

 

︵念劬太守監督︑游學日本學生當行︑贈此︒ 此日相期之厚︒他日相思之勤可知也︒已亥二月

  鼎芬記︶

 

右は︑清末 の 外交官︑ 銭恂︵一八五三〜一九二七︶が︑明治三 十四年︵一九○一︶三月に寄贈した書籍の ひと つ︑ ﹃ 左 文

襄公奏稿﹄ 第 一 冊 封面裏に︑ 書 き 付 け ら れて いる言葉 で あ る︒ 銭恂は︑ 湖北省から日本に派遣される中国人留学生の監督官

とし て 光 緒二十四年 ︵ 一八九八︶ 十 二月に︑ 初来日した︒ 銭恂 が帯同してき た留学生のうち ︑ 三名が明治三十二年 ︵ 一八 九

九︶ 九月に︑ 早稲田大学の前身 で あ る東京専門学校に入 学 し て いる ︒ そ の 留 学生た ち の た めに︑ 留 学先の 学 校に書籍 を寄 贈

する こ と を事 前に 約束 し ︑ 約束 相手 である 鼎 芬 に よ り 先 の 文章 が 記 さ れ たの である ︒ この 約束 は ︑ 二 年 後に 果 た さ れ た ︒ そ

し 百年以上の時 を経 て︑私た ちも︑あらため て 銭 恂の厚意に思い到るの である︒

 

国 内 外において ︑ こ の 清末 の一外交官に関す る論文や 刊行物 等 ︑ ま と ま った著作物は︑ 未 だ 数 少ない︒ 清末 の外交史を 紐

解く上 で ︑ 誠 に注目すべき 人物で あ り︑ 今後︑ 学 内外の研究活 動に お い て︑ 本書 が微力たり と も基礎資 料 と し て 貢献 する こ

あれば︑早稲田大学図書館資料管理課と して 心からの喜びで あ る︒

 

と が

   

  館の漢籍コ 築 の礎を ョン シ ク レ 当 本 贈し︑ 寄 三千七百冊にも及ぶ漢籍を 草創期の早稲田大学図書館に︑ は︑ 書 いた銭恂に

つい て ︑ 彼が記した文 章︑また彼の同時代人による記録を収集 し︑検証した資料集 で あり︑内容は︑年譜︑著述図書 目 録︑

そして 当 館に残された自筆寄贈図書目録の翻刻 で ある︒

     

               

て  

(8)

                       

(9)

         

  概

    説  

       

 

(10)

                                             

(11)

  一・銭恂に つ いて

  銭恂

(Qian Xun)

は︑ 咸豊三年

(

一八五三

)

十二月十二日に︑ 浙江省湖州府帰 安 県 ︵ 現浙江省湖州市︶ で 生 まれ︑ 民 国十六

(

一九二七

)

一月二十 三日に逝去 し た︑ 清代の外交 官 である ︒ 父は︑ 銭 振常

(

一八二五

-

一八九八

)

といい︑ その 兄︑ 銭 振 倫

(

八一六

-

一八七 九

)

は︑翰林院 や 国子監の 官吏を歴 任した︒銭恂の異母弟︑銭玄同

(

一八八七

-

一九三 九

)

は︑古 文 学者 とし て 名 高く ︑銭 恂の 子 ︑ 銭稲孫 は ︑ 文 学者 とし て︑ ﹃ 源 氏 物 語﹄の 中 国語訳 を 初め て 試 み た 人 物 とし て知 られ ている ︒ 銭 振 倫 の 曾

孫にあたる銭仲聨

(

一九○八

-

二 ○○三

)

は ︑ 当代中 国 にお ける 著 名 な学者 で ある ︒さ らに︑銭 玄同 の子︑銭 三強︵一九 一 三

-

一九九二︶ は ︑ 中 国の 原子力科 学の父 と 称される科 学 者 で ある︒ こ のよ うに︑ 呉 興銭 氏は︑ 現 代中国におい て︑ 政治︑ 外 交 ︑

科学等の分野 で 優 れた人材を 輩 出した名家の ひと つ と し て 知られている︒さらに︑銭恂の妻︑単士釐

(

一八五八

-

一九 四 五

)

は︑ そのいくつかの著作や 銭恂 と共にした行動により︑ 近 代的 な 識 見を そな え た 女性のさき が けと して ︑ 中 国で は現在で も

評価の高い人物で ある︒ な お︑ 本書冒頭に︑ 錢恂纂 ﹃ 呉興錢氏家

﹄ 等 により 作 成 し た ﹁ 呉興銭 氏 系図﹂ を 掲げ た ︵ 図版7︶ ︒

さ て ︑ 銭 恂が外交官 と し て 活動した清代末期は︑ 新しい国づくりへの転換期︑ 革 命へ と続く道のり で あ る︒ すなわち ︑ 生

年の 咸豊 三 年 三月に は 太平天 国 軍が南京 を占 領︑光緒 九 年

(

一八八三

)

十一 月に 清 仏 戦争勃 発 ︑ 光 緒二 十 年

(

一八九四

)

日清 戦

争︑光緒 二 十六年

(

一九○○

)

義和 団 の 争乱︑ そ して 宣統三 年

(

一九一一

)

十月︑武昌蜂起により辛亥革命がは じ ま り︑ 中華民 国が成 立 する ︒ こ の激 動の 中国近代におい て は︑ 李鴻章 や張之 洞︑ 康 有 為 や 梁啓 超︑ 孫 文 や袁世凱等︑ 現在に い たるま で 連

綿 と 研究対象 となっ て いる著名な人物が輩出されたが︑ そ の下 で は ︑ 銭 恂のよ う に︑ 現場 で の 実務 を 担 う︑ 数多くの人物が

彼等 を支えていた︒現在で は︑そのよ う な実 務家は︑一 般 には 名前すら挙げられないという観があるが︑当時におい て は ︑

それな り に名 のと おっ た存在で あっ た︒ こと 銭恂について は︑ 早稲田大学 図 書館 にと って ︑ 漢 籍コ レク シ ョ ン の 礎を 築い た

功績により︑末永く顕彰され る べき 人物で あ る︒

第一 期 は ︑誕生 か ら 光 緒十 八年

(

一八九二

)

︑四十歳ま で ︑ 薛 福成の も とで浙江省にある天 一 閣楼の蔵書につ い て︑目録の 編纂にたずさわ り ︑その後︑薛氏 随って ヨ ー ロ ッパ に渡航した時期 で ある︒ に

第二期は︑ 光 緒十九年

(

一八九三

)

から光緒二十九年

(

一九○三

)

︑ 五 十一 歳ま で ︑ 張之 洞 の もとで学 堂の経営 にたずさわ り ︑

銭恂の人生は︑その活動 内 容により︑大き く 四つの時期に分け られる と 思われる︒

(12)

からな ﹁寄贈図書目録﹂ ある で 学校に寄贈した図書記録の翻刻 恂が東京専門 銭 て そし ︑ 著述図書目録﹂ ︑﹁ 譜﹂ 年 ﹁ 本書は︑  

る︒ その後︑ 湖北から日本へ留学す る学生の監督官とし て 日本に 派 遣された時期 で あ る︒ 光緒二十九年には︑ 妻 で あ る単士釐と

ともに ロ シ ア を訪問 し ている ︒

第三 期は︑ 光 緒三 十年

(

一九○四

)

から宣統元年

(

一九○九

)

︑五 十 七 歳 ま で の 時 期 で ︑ 光 緒 三 十 三 年

(

一九○七

)

から出使荷 蘭 大臣と して オラ ン ダ へ︑ 続 い て 出 使 義 国 大臣と して イタリ ア へ 赴 任し た︒ 外 交 官と して の活 動 が 最も 充 実 して い た 時 期 だろ

う︒

第四期は ︑宣統 二 年

(

一九一○

)

︑五十八歳 以 降︑ 外交官を 退き ︑ 七 十五 歳 で 逝去す る まで の時 期 で ある︒ 民 国 期 にお いて

は︑浙江図書館の館 長 に就任︑それから教育部に 関わる仕事に従事し︑民国三年

(

一九 一四

)

には︑ 六 十二 歳 で 参政院 参政 に られて い る︒ 任じ

なお︑ 二 ○○九年︑ 邱 巍氏著 ﹃

吴兴钱

家・ ・ 近 代 学

文化家族的断裂与

承﹄ ︵杭州

  浙江大学出版社︶

が刊行された︒ 同

書は︑ 呉 興銭氏に関す る初め て の研究書 で あ り︑ 銭家の関係者を含め︑ 良質 な資料を渉猟し︑ 銭恂について も多くの頁数を

費や して い る ︒ 本 稿 に おいて 記 述が 不足 して い る と 思 わ れ る︑ より学 究 的な 考 察 は ︑ 邱 氏 の 書 を 是 非 ︑ 参考 にして も らい た

い︒本稿も︑邱氏の著書による成果を︑大いに参考させていただいた︒

︵一︶ ﹁ Ⅰ・年譜 ﹂

銭恂について は︑ 現在 にいたるま で まと まった伝記資料が数少 なく ︑ 人 物事典 の 類 い に お い て は︑ いった い どのよ う な資

料 に 拠って 記 事が 書かれて い る のか ︑ 不 分明な 点 が 多 く見受け られ る︒ そこで ︑ 銭恂自 身 が記し た り︑ 銭恂について 同 時 代

の人た ち が記した資料をあつめ︑ そ れらを 時 系列 をおっ て 記述 する こ と ︑ す な わ ち年 譜の かた ちに ま と め あ げ た ︒ 記 述 に お

いて は︑ 今後 の研究に資す るため︑ 資料索引と し て も 利用 でき るよう に ︑ 典 拠資料について は ︑ 原 文あるいは原文収載資料

名を︑ で き る かぎり明記した︒

二・ 本書につ いて

 

(13)

本稿の骨格をなす のは︑左記A〜Eの五つの資料で あ る︒

A・北 京 燕 山 出 版 社 か ら 二 ○ ○ 七 年 に 影 印 刊 行 さ れ た ︑ 錢 恂 纂 ﹃

興錢恂家乘﹄ ︵ ﹃清代民 國 名人家譜選刊﹄ 第 三四巻収載︶ ︒

B・張之洞の全集三点︒すなわち ︑

① ﹃張文襄 公 全集﹄ ︵台北 文海 出版社 影 印版 民國五二︶

② ﹃張之洞全集﹄ ︵石家庄 河北人民出 版 社 一九九八︶

③ ﹃張之洞全集﹄ ︵武漢 武漢 出版社 二○○八︶

で あ る︒ 本 稿 で は 民国 期に出 版 され た①を 底 本と し︑ 銭恂に関す る 記 事 をでき る かぎり抜き 出し︑ そ れ に は収載されて いな

い記事について は ②︑ ③から採用し︑ 原 文 の まま掲載した︒ そ の際︑ 標 点は︑ 主 に②によった︒ 現 時点において は︑ ③武漢

 

版が 最新で あ り︑ 収録文 献 も︑ 河北版に比べて 三 ︑ 四 七三件も多く収録して い る と ︑ 編纂者 の ひと り で ある趙徳馨氏は同書

 

の ﹁ 前言﹂ で 記し ている が ︵武漢版の総 文献数は 一四︑ 四 五三件 だ と い ︶ ︑ 武 漢版 では収録 を省かれた銭恂の ﹁ 電 牘﹂ ︵電

 

信文︶もいくつかあり︑一概に武漢版のみに準拠 す る こと は で きない︒

 

C・

本書につ て は︑ 当館に 左 記の刊 本 が所蔵され て いる ︵請求 記 号 文庫一五

-

イ一 七八 ︶︒ ﹃清季外交史料﹄

清光緒朝外交史料 二一八巻・巻首・校勘記 第一 集

北平

  總發行人

  王希隱

  民國二一年一月

  初版     百十二冊

          *当館所蔵分において

は︑巻十一

- 十二︵

第六冊︶ ︑巻十七

- 十八︵

第 九冊︶を 欠く︒

          第二集

    清

北平

  總

行 人

  王希隱

  民國二二年十月

  初版     二十四冊

 

宣 統 外 交 史料 二四巻・校勘記

西巡大事記

  一一巻・巻首・校勘表         附刊

   

北平

  總發行人

  王希隱

  民國二二年一月

     

 

初版 十二冊

清季外交史料索引

  一

二 巻 ・ 清 季 條 一 覽 表 ・ 校 勘

       

約 記 十二冊

清季外交年鑑四巻・清代約章 分 類表

  一巻・校勘記

四冊

(14)

北平

  總發行所

  外交史料編纂處

  民國二四年

  初版  

しかしながら︑ 全冊数が百五十冊を超え る もの で あ り︑ テキストと し て の 利便性を考慮して ︑ 北 京の書目文献出版社から一

九八七年 に出 版された影印本︵ 全五冊︶を ︑ 本稿の記述 で は用い る こと にした︒

 

D・錢恂著 ﹃二二 五 五 疏 ﹄

︵ ﹃

近 代 中 國 史 料 叢

﹄ 第 五 四 輯 第 五 三 五 所 載

文海 出版社 影 印版 民國五九︶ ︒

台北

E・上海圖書館編 ﹃汪 康年師友書 札 ﹄ 全四冊 上海 上海古籍出版社 一九八六

-

一九八九

本書は︑張之洞に仕え︑その後︑雑誌﹃時務報﹄を創刊し︑その経営 に 携わった汪 康 年

(

一八六○

-

一九一一︒字は梁卿︑ 穣 卿 ︑ 号 は毅伯︑ 恢 伯 ︶ の も と に送 られ てきた書信の翻刻 集 で ある ︒ 銭 恂の書信は︑ 四十八通︑ 収 録され て おり ︵第 三冊 二

九九五〜三○二七頁︶ ︑銭恂自身の時局に対 す る考え︑張之洞に対 す る 複雑 な感情︑外交部に対 す る不満や 批判︑さらには

心 の ささえと して キリ スト 教の経 典 を 読 ん で いたことなど ︑ 赤 裸々 に心情が綴られて い る 部分があり︑ 銭 恂の性格︑ 人 間性

を考 える上 で ︑貴 重な資 料 である ︒

以上︑資料 A とEは︑年譜記事全般について ︑資料Bは︑主に 日本で 活 躍し て い た時期に ついて ︵ 第二期︶ ︑資料C とD

出使荷蘭大 臣 ︑続い て 出使義 国 大 臣 の任につ い て いた時期 ︵第 三期︶に関 す る基本資料 で ある ︒ は︑

さらに︑イ ン ターネット情報による銭恂の記事︑すなわち ︑

  ( 一 )   光緒三十二年︑教育部から査学委員

とし て ジ ャ ワ に 派遣されたこと

 

( 二 )   宣統二年︑湖州府中学堂の代理校長となった

こと

  ( 三 )   民国二年︑中

華民国 の 国歌制定にかかわったこと

 

を記事に加 え ︑ 活 字 文 献による関連資料も確認した︒ た だ し︑

( 三 ) について

は︑ 記事が如何なる資料を 典拠 とし て記された

か︑現時点 で は不 明 で ある︒

 

も の

        最後に

︑ 本稿は︑ 一点の雑誌 記 事︵實藤 恵秀﹁ 日 華 學 堂の 教育

- 留日學生史談

  ( 五

亞文化圏﹂第﹁東三巻第二号

) ﹂

[ 昭和

数 に ら れた 資料と 作 業 時 間 よる ん ものな の で ︑ 調 査 資料 限 へ ︶を の資 除き ︑す べ て 当 館 所蔵 料 い を 用 い て 作 成し た︒ た

]

や︑ 資料の検証及び読解等について ︑ 不 足かつ不分明な部分が 多々あるかと思われる︒ 今 後︑ 研究者の方 々 による御教示を

賜る こ と を︑ 心から 願 う次第 で ある ︒

 

(15)

    記述内容は︑大き

く四つの部分 に分け ら れ る︒すなわち ︑

 

明治 三一年

(

一八 九八

)

︑ 銭 恂は清国留学 生監官として来日 し︑翌年六 月 ︑東京専門学 校 を 訪 問 し ︑ 大隈重信ととも に 校 内

を参 観した︒ 明治三四年

(

一九○一

)

六月号 の ﹃早稻田學報﹄ ︵ 第五四号︶には︑ ﹁錢恂氏寄贈 書籍 ﹂ と して ︑ 早 稲田大学 設立 の挙 に 賛 同し ︑ 漢 籍を 寄贈 して い た だ い たと して ︑ そ の 書 目が 三 頁 にわ た り 掲 載 され た︒ 翌年 一 月 にも ︑ 銭 恂か ら 再 度 ︑ 大

部の図書が 寄 贈された︒こ の二回 に わ た る寄贈 の 記録が ︑ ﹃清 國 人 錢 恂 寄 贈 図 書 目 録 ﹄ とし て︑ 当 館 に 残 さ れ てい る ︵ 請 求

記号 ト一○

- 二六九二

- 二︶

︒ ﹁ 清國人錢恂寄贈日本東京専門學校大學科漢文書之目録

    明治

三十四 年 三月二十四 日

  錢恂﹂と

巻首に記され︑半葉十二行の料紙 十 七張の版心には︑ ﹁錢恂在 日本 國所譯録﹂と印刷されて お り︑記 述 内容から も銭 恂の 自

筆 で ある と 判 断 で き る ︒ た だし︑ 寄 贈図書の受入 ・ 整 理作業 を 担 当 した で あ ろう当時の図書館員の加筆による と 判断される

部分もある︒ さらに第十八張 の 料紙 ︵ 縦 二四 ・ 三 セン チ︑ 横一六 ・ 七セン チ ︶ の 版心 には ﹁早稻 田 大學圖書館﹂ と 印 刷され

て お り︑ 図書館員による と 思われる記述がある︒ 目録は︑ 厚手の紙二枚を 表 ・ 裏 表紙にし て ︑ 料紙全十八張を 冊 子体に袋 と

じに したもの であり︑大 き さは縦二七 セ ンチ︑ 横 一九・二 セ ン チ で ある︒表紙 に ﹁清國人錢恂寄贈図 書目録﹂ と 墨 書 さ れ︑

表紙裏には﹁ 昭和三十八年十二月十四日本館作製﹂ と ︑本目録が冊子体に仕立 て られた年月 日 が記され ている ︒

 

本稿の構成 は ︑大 き く 二つの 部 分 か らなる︒ま ず 最 初 に﹁ 一・ 自著 解題﹂ と し て ︑銭 恂が編 纂 し︑民 国 十年

(

一九二 一

)

に 刊行された ﹃

興錢恂家乘﹄ に記されて い る自著解題を 掲げた︒ 銭恂自身が自著に関して ︑ いかな る 経緯 で 出 版されたのか︑

また自身がど のよ うな感想 をもっ て いたのか︑ う かがい知る こ とができ る︑ 重要な記事 で ある︒ 次 に︑ ﹁二 ・ 著 述図書目録﹂

は︑ まず ︽光緒〜民国期刊本︾ と し て ︑ 清末から民国初期に刊 行された銭恂の著述図書に関す る目録と ︑ そ の解説を 掲げた︒

光緒間から民国初期に 出版された刊 本につ い て は ︑ 当 館所蔵本︑ さ らに ﹁全 國漢籍デ ータベース﹂ を利用し て ︑ 東京︑ 京 都︑

神戸に 所 在する各 館の所蔵 を 確認した上 で ︑実際に 足 を は こ び︑ 一点 一点 を手に と り︑ 調査 をお こなった ︒ ︽ 当代︾ は ︑ 現

代にお け る影印︑翻刻 本等に関 する目録 である ︒

なお本稿は︑ ﹁銭恂年譜﹂ と題し て ﹃早稲田大学図書館紀要﹄ 第五六号

(

二○○九

)

に掲載した文 章に︑ 加 筆︑ 修正を 加 えた もの である︒

︵二︶ ﹁ Ⅱ・著述図書 目録 ﹂

︵三︶ ﹁ Ⅲ・寄贈図書 目録 ﹂

(16)

    なお︑

本 稿は︑ ﹁ 早稲田大学開校期にお け る 銭恂の寄贈図書について ﹂ と 題 し て ﹃早稲田大学図書館紀要﹄第五五号

(

二○

○八

)

に初出した文 章に︑加筆︑修正を 加 えたもの で あ る︒

    ︵四︶図書館員による追記︵第一八張︶

      ︵三︶第二回寄贈図書目録︵第

一五〜一七 張 ︶

      ︵二︶第

一回寄贈図書送付 リスト︵第九〜一四張︶

      ︵一︶第一回寄贈図書分類目録︵第一〜八張︶

 

・ 本 文の字体は︑ 原則 とし て当用漢字に統一した︒ た だし︑ 註 記等にお ける引用資料の 本 文︑ 書名等の字体およ び目録本文

は︑原文表記のまま と した︒ と い う区分けで あ る︒ 第一 回寄贈図書に関して は ︑ ︵ 一 ︶ と ︵ 二︶の二つの記 述 がな されて い る︒ ︵一 ︶ ﹁ 分 類 目録 ﹂ に つい

て は ︑ お そらく中国 に おいて ︑ 書架 に並べ ら れ た 図書を ︑ 銭恂 が寄贈用に選別しながら記述したもの で あ ろ う︒ その後︑ 搬

送用に図書 を 梱包しながら内容 を記したものが ︵ 二︶ ﹁送付 リ スト﹂ で ある と考える︒ そ の根拠は︑ 第 九張表にある ﹃明史﹄

の書名の 後に︑ ﹁ 史凡二十四種︒ 今 之送上二種︒ 其他二十二種︑ 遅 日補送﹂ ︵史書は二十四種あり︑ 今 その うち の二種を送る︒

その他の二 十 二種は後 日 送 る︶と 記 されて い ることで あ る ︒さらに︑銭恂の妻 ︑ 単士釐の 著作︑ ﹃ 癸 卯 旅行記﹄ によ れば︑

一八九九〜 一 九○二年 の間︑中国と 日本 の間を 煩 雑に往復して い たという記述があり︵巻上冒 頭部分 ︶ ︑一八九九年の 初 来

日以降︑多 忙 な 銭 恂は ︑日本 に ず っ と留 まって い たわけ で はないこ と が わか る︒ 第二回寄贈図書に関 し て は ︑ ﹁ 分 類 目録﹂

を作成 す る余裕がなかったの だ ろう︑梱包 す る箱 ごと の内容を記す に と ど ま っ て いる︒

 

以上︑ 本 稿は︑ 銭 恂の寄贈本に関す る記録とし て 残された ﹃清國人錢恂寄贈図書目録﹄ を翻刻 す る と と も に︑ それに基づ

い て 二 ○ ○七 年に お こ なっ た 寄 贈図書 の 所 蔵 調査 をも とに ︑ そ の 現 況 を 報 告 する もの である ︒ さ ら に ︑ 参 考 資 料 とし て︑ 文

末に﹁銭恂氏寄贈書籍﹂ ︵ ﹃早稲田 学報﹄第五十四号

  掲載︶の影印頁

を 附した︒

 

三・凡例

[

全体

]

(17)

・註は︑本文中

[

年譜

]

に ︵ ︶で 示 し た︒

・本文 の 年 月 日は︑陰 暦に統一し た ︒したが っ て 日 本 人 等による資 料 に記 載さ れた年 月 日 は ︑陰暦に 換算した︒ そ の場 合︑

︵ ︶で 陽暦を 補 っ た ︵ 参 考 資 料 鄭鶴聲編﹃近世中西史對照表﹄上海

  國立編譯館

  民國二五︶

・年齢は︑原則と して 数え年で 記した︒

・ 本 文に お い て︑ 年月 日が明ら かな記事 は︑ 記事先 頭 に ○ 印を ︑年あるいは年 月 のみが明らかな記 事は △ 印を 附した︒

・註において ︑ ﹃ 張文襄公全集

﹄ ︵ 台 北   文海

出版社

  民國五二︶は︑

﹃全 集﹄ ︑ ﹃ 張之洞 集﹄ ︵苑書義︑孫華峰︑李秉新主編

 

石家庄

  河北人民出

版 社

  一九九八︶

は ︑﹃河北版全集﹄

︑ ﹃ 張 之 洞 全 集

﹄ ︵ 趙 徳 馨 主 編     武漢

  武漢

出版社

  二○○八︶

は ︑﹃武

 

漢版全集﹄ 記 し た ︒

 

と表

[

寄贈図書目録

]

・ 本 文中︑検索の 利便 を図るため ︑ 各書 名の 頭に 整理番号 を附した ︒原本には書 名の冊 数 下に︑ ﹁ 合﹂の 文 字 を ○ で 囲ん だ

直径三ミ リ ほ ど の 印が押され て いる︒おそらく︑当時︑寄贈図 書 と 目録を付 き合わせた際︑押されたもの と 推 察 され る︒

た だ し︑ この 印が押され て いない図書もあり︑その場合︑註記に﹁ 合印なし﹂ と 記した︒

・翻 刻文 の字体 は ︑原 則と して 原文 の表記ど お り にしたが︑略字等︑適宜改めた箇所も若干ある︒

・本文中に︑*印を つ けて 注記を 入 れた箇所がある︒

・各張 の 表・裏 の 末 尾 に は ︑ そ れ ぞ れ ︑

﹂ ︵ ○

︶ ︑

﹂︵ ○裏︶ と 記し︑ 行が 空いて い る箇所 に ついて は ︑﹁ ○行空欄 ﹂ と 記

した︒

・銭恂寄贈図書中︑請求 記 号の前に︽特︾ と 記されたもの は︑当館の貴重書庫に収蔵されている資料 で ある︒

四・謝 辞

本書の作成にあたり︑ご協力いただいた皆様に感謝申し上げま す ︒

﹁著述図書目録﹂ 部分 について は︑ 蔵書を閲覧利用させて いた だいた一橋大学図書館︑ 東 京都立中央図書館︑ 国 立国会図

(18)

                                科学 人文 大学 か 京都 た ただい い て っ 国立公文書館︑ は 便宜を に 前 事 特に︑ 京大学東洋文化研究所に︒ 東 洋文庫︑ 東 書館︑ 研

附属 漢字情 報 研究セン ター ︑神 戸市立中 央図書館利用サ ービス課の担当者様には︑あらため て 御 礼申し上げま す︒ 究所

最後に︑ 寄贈図書目録の記述お よび漢文資料の読解について ︑ 貴重な 御 指導をいただいた︑ 復 旦大学図書館古籍部 ・ 呉 格

教授には心から感謝申し上げます︒

写 本 稿︑接受復旦大學圖書館古籍部呉格老師教導︒特此致衷心感謝︒

 

︵資料管理課

    高木理久夫︶

 

(19)

                                         

Ⅰ・年

    譜

 

(20)

                                             

(21)

    咸豐三年

( 一八

五 三

)         一歳    

○十二月十二 日︑ 銭振 常

( 一

と正妻姚氏

)

( 二

の子 と し て 誕 生 ︑ 字 は 念 劬

)

( 三

︒幼 名 は 学 嘉

)

( 四

︒原 籍 は 浙 江 省 湖 州 府 帰 安 県 ︵ 現

)

浙江省湖州 市 ︶

( 五

︒号・別称・室名として︑

蹞步

主人 ︑受茲堂 主人︑太 公︑ 積頤 齋が あ

)

( 六

︒ )

 

( 一 )   錢恂纂﹃

吳興錢氏家乘﹄

( 六五

) によれば

︑銭恂の父︑銭振常は︑道光五年( 一八二五

) 四

月二十五日に生まれ︑光緒二四

 

( 一八九八

) 八月九日に

逝去する︒経歴に関しては︑﹁道光十年︑取入湖州府學︑旋補廩膳生︑捐納訓導︒同治六年丁卯

 

並補行甲子科中式本省郷試舉人︒十年辛未︑科中式貢士︑以主事籤分︑禮部恩詔累晉授中憲大夫︒光緒八年︑辭官南︑

 

遂不出︒宣統元年︑以子恂官贈光禄大夫﹂と記されている︒県の学校に置かれる官吏でる訓導︵﹃大漢和辭典﹄巻十

  三  

九四頁︶や︑科挙の試験制度中︑郷試に及第した挙人︵﹃アジア歴史事典﹄第二巻一二九

- 一三○頁︶になり︑文

書業務に

 

携わったらしいが︵﹁以主事籤分﹂︶︑後代︑職官年表等に名が掲載されるような官はいておらず︑光緒八年にはそ職に就の

官職も辞している︒また︑曹述敬著﹃钱玄同年谱﹄には︑銭振について﹁同治间

( 丁卯

···举人︑又任绍兴书院山长 )

 

晚年又江苏扬州︑苏州的书院山长﹂と記している︵年譜一頁︶︒

  ( 二 )   諱名

は姚佩玖︑字は次珩︵﹃吳興錢氏家乘﹄七七頁︶︒﹃吳興錢氏家乘﹄︵六五頁︶には︑姚氏について︑﹁配氏姚爲︑海寧

 

庠生︑福建縣丞師濂公仲女﹂とある︒海寧州︵現浙江省海寧市︶の庠生で︵府学・県学の生員︒科挙の第一次試験に合格

 

した者がな︒﹃大漢和辞典﹄巻四

  五六

一頁︶︑福建の県丞︵県の長官であ知県﹂の補助官︒植捷雄等共編﹃中國外

 

るる﹁田

交文書辭典

  ( 清末篇

) ﹄三三頁︶と

なった師濂公の次女︒道光八年

( 一八二八

) 九月生まれ︑

同治三年

( 一八

六四

) 六月逝去︒

  ( 三

﹃吳興錢氏家乘﹄八一頁︒

  )

四) ﹃清國錢恂寄贈図書目録﹄︵早稲田大学図書館所蔵︶の記述より︒

 

︵( 五

)   錢實甫編﹃清代

職官年表﹄第四冊三三八一頁︒

  ( )  

同甫編﹃清人室名別稱字號索引

( 增補

) ﹄下冊九

一九頁︒

 

六楊廷福︑楊

                                     

同治 八 年

( 一八

六 九

)           十七歳

 

(22)

    ○一月 日︑先妻董氏  

 

 

( 一八

五 一

- 一八

八 二

) が死去

( 一

)

 

○ 正 月 恂 撰﹃韻目 表一巻﹄が 刊 行される

( 一

)

 

△帰安県学 に 入学

( 一

)

 

( 一 )   ﹁同治八年己巳取

入歸安縣學﹂︵﹃吳興錢氏家乘﹄八一頁︶︒県学は︑州学︑府学︑明清社学等と同じ官学で︑前近代の教育

機関のひとつ︒帰安県学の開設時期は不詳︒宋代に州学に附設される︒十五世紀以後︑逐次︑ととのえられ︑清光緒初め

には大成殿等の建造物が備わる︵﹃湖州市教育志﹄三七- 三八頁︶︒

光緒 五年

  ( 一八

七 九

)         二十七歳

 

︑ 銭

( 一 )   ﹁光

緒五年初刊︒用學嘉名︑學呂公命也︒平所撰此精刊︑亦最早刊﹂︵﹃吳興錢氏家乘﹄九七頁︶︒﹁學呂公﹂とは︑

 

所生最

銭恂の父︑銭振常の兄である銭振倫

( 一八

一六

- 一八

七九

) であ

る︒

   

光緒 八 年

  ( 一八

八 二

)         三十歳

 

光緒 十三 年

( 一八

八 七

)         三十五歳

 

( 一

)   菫氏について

︑﹃吳興錢氏家乘﹄には︑﹁配氏菫爲︑仁和甲子優貢慎言公長女︒生於咸豐元年辛亥十一月十二日

    時︑卒

 

光緒八年壬午正月初八日辰時﹂と記されている︵八二頁︶︒仁和県︵杭州府内の県︒現浙江省杭州市︒﹃大漢和辭典﹄卷一

   

八三頁︶の甲子︵嘉慶九年︶の優貢︑慎言公の長女であるという︒優貢とは︑清の制度で︑三年ごとに教官が在学中の優

 

秀者を朝廷に推挙し︑これを考定した後︑一等者は知県に二等は教職に︑三等は訓導とし︑悪いものは帰郷させるこ

 

の︑

ととした制度であるという︵﹃大漢和辭典﹄卷一

  九

五八頁︶︒

 

(23)

○ 三 月

       

( 一

 

)   翁同龢︵

一八三○

- 一

九○五︶は︑江蘇省常熟県の人︒咸豊朝の大学士であった翁心存の子で︑光緒帝の師傅として活躍

 

 

 

○十月二十 一 日︑長男 銭稲孫

( 一八

八 七

- 一九六六

) が誕生

( 一

)

 

○七月二十 五 日︑異母 弟︵ 側室周 氏 ︶ 銭師黄

( 銭夏︒

一 八八 七

- 一九三九︑

後 の 銭 玄同

) が誕生

( 一

)

 

△こ の 銭 恂撰 ﹃光緒通商 綜 覈表

  中外交渉類要表﹄

(

行される が刊 ︒

)

 

△こ の 年 ︑ 薛福成

( 一

 

) ( 当時︑湖

南按察使

る 天 とりかか に 録編纂 目 の 閣樓藏書 一 る の命 県にあ

浙江寧波 ︑ け 受 を

)

( 二

 

)

 

( 一 ) ﹃

吳興錢氏家乘﹄一○三頁︒

    ( 一 ) ﹃

吳興錢氏家乘﹄一○五頁︒銭稲孫は︑銭恂の日本赴任に伴い︑慶應普通部︑東京高等師範学校附属中学を卒業後︑ローマ

 

大学を卒業する︒民国政府にて教育部主事を皮切りに北京の各大学講師を歴任︑民国二十八年

( 一九三

) には

北京大学本部

 

秘書長に任じられる︒﹃源氏物語﹄の中国語訳を先駆ておこなったが︑文化大革命の混の中で︑その原稿は失われてし

 

け乱

まったと雄﹃中國文化界人物總鑑﹄北京

  中華法令編

印館

 

十五

  七三

- 七三六頁︑

﹃人民中国﹄インター

 

いう︵橋川時昭和

ネット版

2 0 0 7 / 0 4 / 2 6   文潔若︽

﹃源氏物語﹄はいかに訳されたか︾参照︶︒

 

光緒 十 五 年

( 一八

八 九

)         三十七歳

 

( 一) 薛福成 ( 一八三八- 一八九四) は江蘇無錫の政論家︑外交家︒曾国藩の幕僚時︑文筆を以って名を成し︑後年︑李

︑ 年

 

( 一 )   ﹁此兩表︑均光

緒十三年所撰刊﹂︵﹃吳興錢氏家乘﹄九八頁︶︒

 

人︒清末の

鴻章の洋務運動に協力する︒清仏戦争時 ( 一八八三- 一八八五) ︑浙東の地方官として︑現地の軍を率いフランス軍を撃退す

る︵薛福成著安宇寄校点﹃出使四国日记﹄頁︶︒一

( 二 )   蔡佩玲著﹃范氏天一閣研

究﹄︵一五六頁︶︒

 

十 八日︑ 翁 同

( 一 )

もとに﹃

中外交渉類要表﹄ を送り︑好 評 をえる

( 二

)

 

(24)

   

            ( 二 ) ﹁

钱楞仙之子钱恂来京︑送中外交表︑甚好﹂︵陈义整翁同龢日记﹄第四冊

  二二七二

頁︶︒

 

                    した

︒銭恂の父︑銭振倫は︑翁心存の娘︑翁端恩を後妻として迎えたので︑銭恂は翁家に出入りしていた︵﹃アジア歴史事

 

△ 六 月 ︑ 出 使 英・ 法・義・ 比 国 ︵ イ ギ リ ス・フ ラ ン ス ・イ タ リ ア・ベ ル ギ ー ︶ 大 臣 と し て 赴 任 す る 薛 福 成 の 随 行 員 の 一 人 と し

て︵ 身 は﹁ 直隷 候補県丞 ﹂︶

( 一 ) ヨー

ロッパに

渡航する

( 二

 

)

○五月二十六日︑次男銭

( 一八

- 一九三六

) が誕生

( 一

)

 

○ 三 月 ︑ 薛 福 成 の 命により︑ 他 の 随 員と と も にフラ ン スからロンドンに向 け て 先 発する

( 一

)

 

涉杰理﹃

△五 月 一 閣見 存書目四巻首末二巻 ﹄

( 一

刻される が刊

)

( 二

 

)

 

光緒 十七 年

( 一八

九 一

)         三十九歳

 

典﹄第二巻︑邱巍﹃吴兴钱家﹄参照︶︒

 

︑﹃ 天

( 一 )   早稲

田大学図書館所蔵本の封面裏刊記には︑﹁光緒巳丑仲夏無錫薛氏新栞板藏甬上祟實書院﹂とある︒

  ( 二 )   蔡佩玲著﹃范氏

天一閣研究﹄一五六頁︒

 

 

( 一 ) ﹁直隷﹂は

首都に直属する行政区画をい︑﹁候﹂は︑現職官に対し︑官吏の資格を得たのみで未だ実職を得ない者をい

 

い補

う︵植田捷雄等共編﹃中國外交文書辭典

  ( 清末

) ﹄三九

頁︶︒

  ( 二 ) ﹃

薛福成全集﹄中冊収載﹁出使英法義比四國日記﹂巻一および﹃出使四国日记﹄巻一︵二頁︶︒

 

光緒 十六 年

( 一八

九 ○

)         三十

八 歳

○  

( 一 ) ﹃

吳興錢氏家乘﹄一○七頁︒

 

一 日

( 一 ) ﹃

薛福成集﹄中収﹁出使英法義比四國日記﹂巻二および张玄浩︑张英宇标点﹃走向世界丛书

薛福成  

义比四出使英法  

   

全冊載

国日记﹄

( 一一

九頁

) ︒  

(25)

 

    ○四月十五 日 付︑ 薛福 成宛 の 許 景 澄  

( 一

従事 に 図作成に 形勢 の 図及び連邦 地 の りドイツ よ 命 の の ころ許氏 の こ ば︑ れ 信によ 書

)

する

( )

 

△こ の 年 ︑ ロ シアから 航路で帰国 す る

( 一

)

 

△三 の ヨ ーロ ッパ 滞 在 後︑捐 納 に よ り﹁ 同知﹂ か ら ﹁ 知府 分 省 補用﹂ と な る

( 一

)

 

( 一 )   許景澄

( 一八四五

- 一九○○

)   は浙江嘉興の人

︒清末の外交官︒北洋海軍創設のため︑ドイツからの軍艦購入に尽力した︒

 

の︑義和団事変に際して︑その弾圧と対外和睦を主張したため︑一九○○年七月︑処刑された︵﹃アジア歴史事典﹄第

 

二巻

  四二三

- 四二四頁︶

︒当時︑出使俄・徳・荷大臣︒銭恂は︑﹃清國人錢恂寄贈圖書目錄﹄の中で︑彼について︑﹁許氏駐

 

歐羅巴多年︑於外交之外︑尤研究軍艦製造沿革﹂と記している︵高木理久夫﹁早稲田大学開校期における銭恂の寄贈図書に

 

ついて﹂﹃早稲大学図館紀要﹄第五五号︶︒

 

田書

( 二 ) ﹃走向

世界丛书

成薛福  

出使英法义比四国日记﹄所載﹁出使日记续刻﹂巻之一︵三六七頁︶︒  

   

光緒 十 八 年

( 一八

九 二

)         四十歳

 

光緒 十 九 年

( 一八

九 三

)         四十一歳

 

年間

( 一) ﹁光緒十八年︑以出洋三年期滿︑由捐納同知循例保升知府分省補用﹂︵﹃吳興錢氏家乘﹄八一頁︶︒﹁捐納﹂︵えんのう︶は前近

代中国の制度で︑既定の歳入のほかに財政を補うため︑民に金銭または米穀を納めさせ︑代わりにある官職︑資格︑また人

は優遇をあたえることをいう︵﹃アジア歴史事典﹄第一巻四二三頁︶︒ちなみに﹁同知﹂︵﹁知府﹂の補助官︶は︑正五品官︑

る捐納額は︑同知銀一︑七九○両︑知府銀四︑七八八両である︵許大齢著﹃清代捐納制所載歷屆捐貢監生捐納官職

 

度﹄﹁例

銀數表

二 (

外官﹂より︶︒黄本驥編﹃歴代職官表﹄︑植田捷雄等共編﹃中國外交文書辭典 )

  ( 清末

) ﹄参照︒

 

﹁知府﹂︵府の長官︶は︑第一級の﹁道員﹂に次ぐ︑従四品官がなる外官︵地方官職︶で︑光緒十五年の﹁新海防例﹂によ

(26)

     

○十二月二 十 九日︑張 之洞により推挙する官 吏 の 一人 と し て 奏 上さ れる

( 一

)

 

○十月︑ 張之洞

(

に よ り 昌 に 設立された 自 強学堂 ︵ 現武 漢大学 ︶ において︑ ﹁ 提調﹂

)

( 二

として ︑ 学堂 の 行 政を担当する

)

( 三

)

 

( 一 ) 単士

釐﹃癸卯旅行記﹄二四頁︒

 

( 一 ) 張之洞

( 一八三

- 一九

○九

) は直

隷南皮の人︒光緒帝即位を支持し︑西太后に認められる︒山西巡撫︑両広総督︑湖広総督

 

を歴︒清末政界の重鎮として権勢をふるう︒当時︑湖広総督の地位にあった︵﹃アジア歴史事典﹄第六巻

  二九二

- 二九三

 

頁︶︒

  ( 二 ) 織

田萬撰﹃清國行政法汎論﹄第十一節﹁新設官聽﹂によれば︑晩清期︑﹄所載統括す

 

﹃大清會典以外の新設官庁には事務を

る﹁總辦﹂の下で︑事務の準備補助一切をする提調︵ヨーロッパ人は

  D i r e c t o r   あるいは

  S e c r e t a r y   t o   t h e   B o a r d  

と訳

 

す︶がいるとしている︵四九一

- 四九

二頁︶︒﹃汉语大词典﹄第六巻では﹁官名︒负责管领︑调度的人﹂と記している︵七四

 

七頁︶︒官庁︑企業等における事務担当責任者といったところだろうか︒

  ( 三 ) 程頌萬

﹃十髪盦叢書類稿﹄第八強學編表一

- 二頁によれば︑

﹁提調・・錢恂︑官鹽銜︑分省補用知府︑奏委赴日本監督出

 

運使

洋學生﹂と記されているという︵蘇雲峯著﹃張之洞與湖北教育改革﹄一一一頁︶︒

 

光緒二 十 一 年

( 一八

九五

)         四十三歳

 

光緒二 十 二 年

( 一八

九 六

)         四十四歳

 

( 一) ﹁奏調湖北差委分省補用知府錢恂︒學識淹雅︑才思精詳︒平日講求洋務︑於商務考究甚深︒嗣兩次經出使大臣奏帶出洋︑經

速︑能言能行︑實為切於時用之長才

﹂ ︵

﹁ 保 薦 人 才 摺 并 清 單

光緒二十一年十二月二十九日﹂﹃全集﹄第二冊七九二頁︑﹃河北 說皮毛︑以炫異聞︒臣所見近日通曉洋務之員︑其密實知要︑未有能過之者︒凡委辦一事︑必能澄心渺慮︑審度時勢︑裁斷敏 歷俄︑法︑德︑英國諸國︑並此外各國亦經該員自往遊歷︒於外洋政事學術確能考索要領︑貫澈源流︑期於有裨實用︑不僅傳

版全集﹄第二冊一一一九- 一一二○頁︶︒

(27)

後営洋操薪餉章 する人員 前 軍 ︵﹁護 る規約 す 補給品に関 ︑ 料 給 の に関 ○六月十 軍 設された自強新 創 ︑ して と 提調﹂ 洋操 ﹁ 八日︑  

︶ ︑ 張 之洞 より提示される

( 一

)

   

程 ﹂ を

           

( 一) ﹁札行钱恂禀拟护军前后两营洋操薪饷章程

  附

    光

绪二十二年六月十八日﹂

( ﹃河北版全集﹄

第五冊

  三二

八一

- 三二八八頁

) ︒  

○ 五 月 十 四 砲

           

( 一) ﹁

[ 爲札

委事

] 照得槍炮局

提調奏調差委浙江候補知府劉守祖桂︑現經委赴北洋考究製造局所造槍炮︑無煙藥各項事宜︒所有槍

 

  △十一月︑張之洞により設立され た 武備学堂 において︑提調として学堂 の 行 政 を 担当する  

( 一

)

 

( 一) ﹁並委奏調分省知府錢恂︑浙江候補知聯豫充學堂提調令其考核經費︑約束學生︑整飭一切︑責令各該員等洋教習商酌協府︑

助︑隨時維持︑以期有實效而無﹂( ﹁設立武備學堂摺

  光緒二十三

年正月二十八日﹂﹃全集﹄第二冊八四二

- 八四三

頁︑﹃河

 

流弊

北版全集﹄第二冊一二二八頁

) ︒

 

光緒二 十 三 年

( 一八

九 七

)         四十五歳

 

命により︑ ○二月二日︑張之洞  

() 陳慶年︵一八六二- 一九二九︶は︑江蘇鎮江の人︒両湖書院では﹃兵法史略学﹄を教授する︒彼の日記︑﹃横山郷日記﹄

           

一人 中︑二月初二日の条には︑﹁南皮制军欲收余为门生︑钱念劬来示以意﹂と記されている︵﹃近代史資料﹄总七六号

  一九

四︑

 

 

     

              一九六頁︶

 

二 日 ︑ 銃 局 の 提調に任命される

( 一

)

   

の 湖北武昌両 湖書院に招 聘 するため に︑陳慶年 の も と を 訪 れる

( 一

)

 

炮局提調事務︑現值槍炮廠添機增廠︑擴充製造︑事務殷繁︑亟應添委幹員提調︑以專責成︒査有奏調湖北差委分省補用知府

 

錢守恂︑堪以派充槍炮局提調︑遇事稟商總辦蔡道︑會商駐廠提調沈丞︑精心考究︑妥籌辦理︑如遇重要事件︑仍稟由總辦稟

 

請本部堂核定示遵︒除分行外合亟札委︑札到該守︑即便遵照提調槍炮局事務︑務須妥實經理︑以副委任︒仍將到差日期具

 

報﹂︵﹁札委錢守恂槍炮局提調

    光

緒二十三年五月二十四日﹂﹃河北版全集﹄第五冊

  三四三五

- 三四三六頁

︑﹃武漢版全集﹄第

 

(28)

   

    ○ 七 月 六

           

( 一) ﹁陳養餘言︑道路一門全不能用︑所言鐵路皆係細砕事︑應歸工作門及商務門︒亦無郵政︒此兩事甚要︑滬設法訪求可采

     

        ( 二 ) ﹁台駕來鄂︑適先期奏明出省勘隄工︑僅

派江漢關道及知府錢守接待︑深以爲悵︒回省後︑該兩員稟告閣下來意︑極爲欣悦︒

 

○ 二 月九日およ び 二月三十日付で︑ 東 京 滞在中 の 姚錫光

( 一

いて報告を 校教 つ に 況 状 の 育 学 から︑ の よび日本 物お た人 し 触 接

)

受け る

(

)

 

△冬 ︑ の 銭

︵銭 振 倫 の 三 男 ︒ 銭仲 聯 の 父︶ を神尾 光 臣に託 し て日本 に 留 学 さ せ る

( 一

)

 

△十二月︑ 湖 北に来訪 し た 本 陸 軍 大佐神尾 光

( 一

の 接 待を ︑ 張 之 洞 か ら 任される

)

( 二

)

 

光緒二 十 四 年

( 一八

九 八

)         四十六歳

 

従 兄

( 一 ) 単士

釐﹃癸卯旅行記﹄一七頁︒

 

日 臣

( 一 ) 神尾光

臣︵かみお

  みつおみ︑

一八五五

- 一九二七

︶は明治・大正期の軍人︒中国語をび︑日清戦後︑清国公使館付武官

 

二( 一

) 蘇雲峯著﹃張之洞與湖北教

育改革﹄

( 九七 - 九八頁

) よれば︑姚錫光

( 一八五六

-   ) は︑当時︑武備

学堂兼自強学堂の﹁総稽察﹂

 

十 日 ︑上海滞 在中︑張之洞から電信 を 受 ける

( 一

)

 

六冊

  四八 - 四九頁

[   ] の補記は︑

﹃河北版全集﹄による︶︒

 

望在

之書帶來爲要︒諌﹂︵﹁致上海錢念劬

  光緒二十三年七月

十六日戌刻發﹂﹃武漢版全集﹄第九冊二四四頁︶︒

 

学争

補佐官や師団参謀長等を歴任︑旅順攻囲や青島攻略に参戦した︵﹃国史大辞典﹄第三巻

  五六八頁︶

 

督撫不能出所轄省分︑而此等事件非面談不可︒可否請台駕重來鄂省俾得面罄敞國真意︑是東方大關繋事︑不勝盼企之至︒

 

支﹂︵﹁致日本參謀大佐神尾光臣

  上

海蔡道台轉蘇︑杭︑甯波等處探投

  光緒二十三

年十二月初四日巳刻發﹂﹃武漢版全集﹄第

 

貴國與敞國同種︑同教︑同文︑同處亞洲︑必宜交誼遠過他國︑方能聯爲一氣︒現在亟願面商一切切實詳細辦法︑但中國制度︑

 

九冊二七六頁︶︒

 

(29)

○ 三 月 日        

( 一

 

) ﹁東電悉︒

二月時局又變︑鄂款大絀︑故與神尾無所商︑惟學生東行︑此願不改︒遵諭轉達︒恂︒冬﹂︵﹁錢守致日京中國使館

 

  ○ 三 月 六 日  

       

(

 

) [ 爲札

委事

] 照

得湖北創設農務學堂︑延訂美國農學教習二人︑購求種植畜牧事宜︒并設工藝學堂︑延訂東洋教習二人︑一教

 

 

一﹁

                    理化學

︑一教機器學︑購求制造事宜︒業經飭委湖南候補道張鴻順總辦農務︑工藝兩學堂︑奏調差委分省補用知府錢恂充兩學

     

                學堂

管堂委員︑梁令仍兼照料農務學堂︒除分行外︑合亟札委︒札到︑該守即便遵照︑會同張辦農務︑工藝兩學堂︑與

 

道總張

                    道悉

心籌商︑督同汪丞︑梁令妥實經理︑以副委任︒切切﹂札委錢守會辦農務︑工藝學堂

    光緒

二十四年三月六日﹂

 

                    會同總辦

︑與總辦張道籌商妥辦︑以資得力︒前委之同知汪鴻瀛︑委充農務學堂管堂委員︑前委照料之知縣梁敦彦︑委充工藝

                      堂提調在

案︒茲査農務︑工藝兩學堂均屬開辦伊始︑必須久歷外洋者於籌議各項功課辦法︑始能周詳︒錢守應即改委充兩學堂

 

○ 五 ︑ 陳 慶 年に対 し て︑こ の まま では 国が滅び︑民 族が絶 え てしまうと︑時局に つ いて嘆 く

( 一

)

   

月 一 日

( 一 )   ﹃近代

史资料﹄总八一号収載の陳慶年﹃横山郷人日記﹄光緒二十四年五月初一日の条には︑﹁过钱念劬︑言时局︒渠言︒国

家太贫︑则工作鲜︒人过穷︑则食用苦︒平时既无以为养︑有疾无以为医︒废学则日见愚蠢︑为奴则每受鞭笞︒生人之乐尽︑

( 二 ) ﹃晩清

中國人日本考察記集成

  教育考察記上﹄収載の

姚錫光﹃東瀛學舉概﹄一七

- 二二

頁﹁與錢念劬大守

  戊戌

二月初九日

 

十 ︑農務学堂および工芸学堂 の 事 務を任され る ことになる

( 一

)

   

二 ︑ 東 京 の 中 国使館 の 姚 錫 光宛に︑電信を 送 る

( 一

)

 

三十二頁︶︒

 

の役職にあった︒呂順長氏は︑﹃晩清中國人日本考察記集成

  教育考察

記上﹄の﹃東瀛學校舉概﹄解題中︑姚錫光の役職を﹁

 

北武備學堂兼自強學堂總督的身份﹂としているが︑蘇雲峯氏の﹁總稽察﹂という語に従う︒﹁稽察﹂は︑官庁の規律を振

 

するために︑各官庁の事務を検査して︑その誤りをただすことであるという︵植田捷雄等共編﹃中國外交文書辭典

  ( 清末篇

) ﹄  

自日本東京﹂︑﹁再致錢念劬大守

  戊

戌二月三十日自日本東京﹂より︒

 

︵﹁恂十

﹃河北版全集﹄第五冊

  三五七九頁︑

﹃武漢版全集﹄第六冊

  一一八頁︒

[   ] 内の

補記は︑﹃河北版全集﹄に拠る︶︒

 

  光緒

二十四年三月初二日酉刻發﹂﹃武漢版全集﹄第九冊三○二頁︶︒

 

(30)

   

○七月二 十 五 日︑張 之 洞 の 総理衙 門

( 一

宛電 信におい て︑ 日本 へ の 湖北留学生 に帯同 す る こ とが伝 え られる

)

( 二

)

 

○六月 日︑上 海 に︑小田切萬壽 助

( 一

る 宛︑電信を

)

( 二

︒銭恂はこ の 頃︑病中で あ っ た らし い︒

)

 

○六月一日︑張之洞に より推挙 する官吏 の 一 人 と して 推 挙 される

( 一

)

 

( 二  

) ﹁

接日本總領事小田切自日本來電云︑湖北與日本所商派學生赴東及聘各種教習來鄂各節︑望速遣知府錢恂赴東一行︑以便面

 

八 之 送

( 一 ) 小田切萬

壽之助

( おだ

ぎり

  ます

のすけ

  一八

六八

- 一九三

) は︑

明治時代の外交︒明治三十年

( 一八九

) 五月

︑上海領事と

 

保卫之道穷︒国危至此︑恐此后百年︑但有消磨︑华种其将绝乎︒余闻其言︑为之大痛﹂︵一一三頁︶と記されている︒

  ( 一

) ﹁

奏調湖北差委三品分省補用知府錢恂︒該員中學淹通︑西學切實︑識力既臻堅卓︑才智尤爲開敏︒歷充歐洲各國出使大臣隨

 

員︑參贊於俄︑德︑英︑法︑奧︑荷︑義︑瑞︑埃及︑土耳︑其各國俱經遊歷︒博訪深思︑凡政治︑律例︑學校兵制︑工商

 

︑︑

鐵路︑靡不研究精詳︑曉其利弊︑不同口耳游談︒洵爲今日講求洋務最爲出色有用之才﹂︵﹁保薦使才摺并清單

  光緒二十

四年

 

六月初一日﹂﹃全集﹄第二冊八八九頁︑﹃河北版全集﹄第二冊一三一七頁︶︒

 

なり︑明治三十五年

( 一九

○二

) 一月︑総領事に

昇任し︑明治三十八年

( 一九○五

) 三

月まで上に在勤する︒同年七月︑外務

 

省を辞職︑十二月には横浜正金銀行顧問︑翌年三月同行取締役となる︵国史大辞典﹄第二巻

  八四二頁︶

 

( 二 ) ﹁請轉小田切

︑西南界石已照章程移妥︒錢恂︒庚︒等語︒庚︒

錢恂稟  

日本界西南一石︑栽時未合章程︑蓋不與徳石︑而  

 

( 一) 正式名称は︑﹁總理各國事務衙門﹂︒外政を司る中央官庁として一八六一年︑北京設けられた︒一九○年︑義和団議定書

 

に一

によって外務部が設けられるまで存続した︵植田捷雄等共編﹃中國外交文書辭典

  ( 清末篇

) ﹄七一頁︶

 

前往︒今部催其速往︑可否於召見後即令該守速回鄂︑以便赴東︑至禱︒應否代奏︒請鈞署裁酌︑并傳知該守

[ 之洞肅

] 有  

商︒並云︑此係外部令其發電︑應即作爲外部之電等語︒查錢恂已遵旨赴京︑日內計已到︑鄂省本與日本議定即派該守帶學生

 

退出徳石之東數十丈︒船津來訴︑恂病中與談︑允函告委員改栽︑改妥即電告︒茲得瞿賡憲來函本日已移妥︑故擬電請代回︑

 

即發﹂︵﹁致上海盛京堂

光緒二十四年六月初八日巳刻發﹂﹃武漢版全集﹄第九冊三三三頁︶︒  

 

外︒﹂

︵ ﹁ 致 總 署   光緒二十四年七月二

十五日午刻發﹂﹃全集﹄第四冊二八七三頁︑﹃河北版全集﹄第九冊七六五一頁︒

[   ] 内の

補記

 

(31)

○ 八 月十六日︵ 十 月一日︶ ︑大隈 重 信︵ 当時外務大臣︶宛︑ 駐 清林権助臨時代理 公使

( 一

の電 信 に よ り ︑ 日 本 訪 問 が 伝 え ら れ

)

( 二

 

○八 月 三 日 ︑ 張 之 洞 か ら 前 日の 電信 につ い て ︑ 返 信 を 受け と る

( 一

)

 

○八 月 ︑ 光 緒 帝 に 謁 見 す る

( 一

︒翌 日︑張 之洞宛 電 信 で 謁 見 の 模様 を える

)

( 二

)

   

(() -) の外交官︒明治三十一年公一八九・大正時代一月より在清国八︶は明治九一九三六○一八けすごんしはや︵林権助一 )

( 二) ﹁去月二十九日本官天津へ出張ノ途次銭恂ニ面會シタルニ同人ハ凡二十日以内ニ日本へ向ケ湖北ヲ出發スル為メ北京ヨリ地

 

( 二 ) ﹁

昨召見三刻︒上詢鄂為詳︑敷奏兵為先︑蒙許可︒議政局必設︑黃有尚書銜充頭等使說︑然病稽滬︒袁臬明後見︑欲請帥入

一 日 伝

( 一 ) ﹁二十四年︑

特旨召見以出使大臣記名

﹂ ︵

吳興錢氏家乘﹄八一頁︶︒

  ( 一) ﹁聞黃有留京入樞譯之說︑故托病辭使︒如黃不去︑或云擬熊希齡︑確否︒袁如擬請召不才入京︑務望力阻之︒才具不勝︑性

 

ニ赴クベシト語レリ

  ︵﹃

銭恂日本訪問ヲ報ズル電報訳文

  大隈

外務大臣宛

  駐

清林臨時代理公使﹄明治三十一年十月一日着

  大  

隈文書

  イ一四

- A八六五

︶︒

 

六七九頁︶︒   は﹃河北版全集﹄による︶︒

 

樞︑外致樞︑譯︑部電全分呈︑或各堂未周知而已上達︒上最喜︑詢近旨均到鄂否︒請嗣後凡新旨宜先電數語︒上意東渡閱

操︑彼定北洋士員︑鄂五︑訂九月望行︒恂稟︒豔

﹂ ︵ ﹁

錢守來電光緒二十四年八月初二日午刻到

﹂ ﹃

全 集

﹄ 第 四 冊 二 八 七 四

頁︑﹃河北版全集﹄第九冊七六五四頁) ︒

情不宜︑精神不支︑萬萬不可︒渠如以鄙人為不謬︑請遇有興革大事︑亦電飭人酌議︑俾得效其管窺︑以備朝廷采擇︑則於時

局尚可有益︑而於鄂事不致廢弛︑尚是盡職安分之道切禱︒江

﹂ ︵ ﹁

致京錢念劬光緒二十四年八月初三日辰刻發

﹂ ﹃ 全 集

﹄ 第

四冊二八七四頁︑﹃河北版全集﹄第九冊七六五四頁) ︒

使館

一等書記官︑同年十月︑戊戌政変により逮捕令の出ていた梁啓超の日本亡命に尽力したという︵﹃国史大辞典﹄第十一巻

(32)

○ 八        

)( 三︶銭恂十七在料理安︵﹄康年師友書札︵﹃汪﹂葬︑無暇他顧死莫追︒現天之恨︑百終廿日早到蘇︑痛先父已不及見︑此恂﹁一

 

 

月二十二日︑九日に亡くなった父︑銭振 常 の 葬送 の た め︑蘇州 に到着 す る

( 一

)

 

三○○四頁︶︒

政府が出費してくれるとい 本 本 日 いていない︑ 届 渡航費用が の へ いまだに日 ○十月十四 ︑ て 宛に届いた書信におい 康年 汪 ︑ 日

 

あ った の だ が︑ どうなっている の かと問い合わせる

( 一

)

 

う 話 も

           

( 一) ﹁十一日示悉︒鄂游學中輟未聞︑恐未必輟︑費取裁撫不確︑此舉本有東人出費説︑嗣爲總署通飭各省照辦︑東人遂悔前議︑

 

然伊政府有俟恂到彼後商學生事︑或尚有意於出費乎︒不然何商之云︒仲良在京有欲自備貲斧偕恂同游之言何從説不許︑

 

︑恂

本無提調︑安頼仲良︑仲良闊綽︑久耳大名︒恂元︒︵十月十四日到︶﹂︵﹃汪康年師友書札﹄︵三︶銭恂二十二

    三○○

六頁︶︒

 

八 ○十一月 日 ︑鄭孝胥

 

( 一

が張之洞に︑ ﹁中国は必ず 分 裂 する︑長江一帯は 日本 のも の と なるだろう︑日本 の 家 来 に なること

)

て もいいこ と だ ﹂ と ︑銭恂 が 吹聴 して いたこ と を伝 える

( 二

)

 

は ︑ と

       

() 一鄭孝胥︵八六○

 

- 一

九三八︶は清︑満州国の政治家︑文人︒当時︑張之洞のもとに出仕していた︵﹃アジア歴史事典﹄六

  三  

る に れ さ 示 指 に う るよ 伝え 移を 推 の 勢 する情 関 英同盟等 ○ 中 十 二月十二日 ︑ 上 海 滞在 ︑ ︑日 張之 洞か ら日本 の 対清 政策

 

( 一 )

︒  

( 一) ﹁須與小田切詢商者數事︒一︑神尾練兵事此時斷難具奏︑可問小田彼尚有何辦法︒即將來能奏︑參謀二字亦必不許︑只可名總

( 二 ) ﹁

钱念劬前在京师一朝士宅中︑昌言中国决必分裂︑如江浙吴楚得为日本所割︑为日本臣妾︑此大幸也︒有湖南京官闻之︑

  商酌武備事宜︑將弁可時往請教︒神尾亦肯來譯書否︒一︑小田在鄂面云︑日本政府有覆電︑已允設法諷令康赴美︒此時不知 教習︒一︑大原云︑武備書須兩年方能譯成︒如何能待此時︒擬多延日本極好武官數人來譯武備書︑人多可以速成︑即可隨時 甚

愤︑告孝胥曰︑再见︑必批其颊︒之不检若此︑亦愿圳慎听其言︒南皮颇栗然︑曰此何等语︑钱守乃妄发耶﹂

( ﹃

郑孝胥日

 

记﹄第二册

    七○

二〜七○三頁︶︒

 

九九頁︶︒

 

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