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―『阿毘達磨識身足論』の無我論証に基づいて―

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仏教内部における無我をめぐる論争の原因

―『阿毘達磨識身足論』の無我論証に基づいて―

飛 田 康 裕

1

仏教内部における無我をめぐる論争の原因

―― 『阿毘達磨識身足論』の無我論証に基づいて ――

飛田 康裕

11.. 問問題題のの所所在在

釈尊の教説の中には、「三法印」と呼ばれる根本的教義のあることが知ら れている。この三法印は、仏教を他宗の教説から区別する標幟とさえ言われ ることのある教義である。尤も、これらは、厳密に見れば完全に仏教独特と までは言えないが、仏教の特色を如実に示すものであるということについ ては異論を差し挟む余地はあるまい。

そして、この三法印の一つに、“sarvadharmā anātmānaḥ”という命題がある。

この命題は、インドにおいては言うに及ばず、仏教の伝播した地域において も広く親しまれ、漢字文化圏においては漢訳仏典を通して「諸法無我」なる 標語で知られている。なお、この命題に関しては、仏教徒のみならず、イン ドの他宗の人々も、これを仏教独自の思想と承認していた。

しかしながら、この“sarvadharmā anātmānaḥ”という命題の解釈には、釈尊 の入滅(ca. 紀元前4世紀)より幾ばくも経たぬ内から、二種のあることが 知られている。すなわち、この命題は、或る場合には、「一切法非我」(あら ゆる事物は個人原理でない)と解釈され、また或る場合には、「一切法無我」

(あらゆる事物の中には個人原理がない)と解釈されているのである。さら に、この二種の解釈の歴史的前後関係については、既に先学により考察がな され、当初は「非我」(個人原理でない)と解釈されていたものが、時を経 て、「無我」(個人原理がない)と解釈されるようになっていったことが明ら かになっている。これに係わる代表的な研究としては、中村[1966]が挙げ られる。要約すれば、以下のように示すことができよう。

まず、「非我」「無我」の原語は、パーリ語では“anattan-”であり、サンスク リット語では“anātman-”である。そして、これらは、文法上の解釈に則って、

「我ならざる[こと]」(非我)という意味と「我を有せざる[こと]」(無我)

という意味の二義に解することが、元来、可能である1

1 中村[1966; 3, 10-4, 6]参照。

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次に、初期仏教の聖典においては、“anattan-”なる語は、専ら、「我ならざ る[こと]」(非我)を意図して用いられていたと言える。というのも、初期 仏教の聖典においては、“anattan-”を “attan-”(我)と見なすことが排斥され る2が、この際に“anattan-”として想定されているものが、「名称と形態」(nāma- rūpa-, 名色)、「自己の身体」(sakkāya-/ *svakāya-, satkāya-, 有身)、「形成力」

(saṅkhāra-/ saṃskāra-, 諸行)、「五種の構成要素」(khandha-/ skandha-, 五蘊)、

あるいは、「個人の連続的存在」(santāna-, 相続)などであるからである。

これらのうち、「名称と形態」なる概念は、ウパニシャッド以来、現象世 界のありとあらゆるものを総称する呼称である。ウパニシャッドにおいて は、アートマン(ātman-, 我)の存在することはもはや自明の事柄とされる が、「名称と形態」はこのアートマンの世界展開の結果として出現するもの である。そして、単一3にして絶対的主体4なるアートマンに対して、この「名 称と形態」は多様な差別相を有し対象化される事物である。このような思想 史的背景を考慮すれば、仏教においても、“anattan-”あるいは“anātman-”なる 語によっては、「我がない[こと]」(無我)ではなく、「我ならざる[こと]」

(非我)が意図されていた、と判ぜられる5

次に、「自己の身体」なる概念は、いわゆる肉体のみに限られず、精神作 用をも含む個人存在を意味する。初期の仏教においては、この「自己の身体」

を“attan-”(我)と見なすことを特に力を入れて排斥し、自己の身体の断滅を 目標とした。しかしながら、このような見解は、仏教固有のものではなく、

同時代のアージーヴィカ教やジャイナ教にも共通するものである。そして、

このアージーヴィカ教やジャイナ教においては、実体としての“attan-”ある いは“ātman-”(我)の存在が認められており、「我がない[こと]」は決して 主張されない6。このことを考慮すれば、“anattan-”あるいは“anātman-”なる語 は、仏教においてもまた、「我がない[こと]」(無我)ではなく、「我ならざ る[こと]」(非我)を意味した、と類推される7

2 中村[1966; 17, 5f.]参照。

3 例えば、辻[1990; 72, 6-12]参照。

4 例えば、辻[1990; 62, 13-63, 10]参照。

5 中村[1966; 18, 12-19, 2]参照。

6 中村[1966; 53, 3-54, 11]参照。

7 中村[1966; 19, 3-20, 12]参照。

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さらに、仏教において独特の専門用語が構成されるにつれて、「名称と形 態」あるいは「自己の身体」なる概念は、「形成力」あるいは「五種の構成 要素」「個人の連続的存在」などといった術語を用いて表現されるようにな る。しかし、内容としては、いずれの場合も、先と同一の道理を説明してい るにすぎない。よって、“anattan-”あるいは“anātman-”なる語は、やはり、「我 がない[こと]」(無我)ではなく、「我ならざる[こと]」(非我)を意味し た、と解される8

このことより、初期の仏教においては、“anattan-” あるいは“anātman-”な る語によって「我でない[こと]」(非我)が説かれているのであって、決し て「我がない[こと]」が説かれているのではない、と結論付けられる9

ただし、仏教のアートマン観について眺めるとき、ウパニシャッドやジャ イナ教などの釈尊以前の諸思想においては、いずれも、アートマンが形而上 学的実体として説明されているのに対して、初期の仏教においてはアート マンが何であるかということについては一貫して沈黙が守られている。よ って、このことよりすれば、アートマンについての形而上学説明を全く与え ないという態度こそが仏教のアートマン観の特徴を示していると言うこと ができる10

以上が中村[1966]の要約である。

なるほど、このように思想史的に観ずると、初期の仏教における“anattan-”

あるいは“anātman-”なる語は、「我ならざる[こと]」(非我)と解されるよう である。しかるに、「諸法無我」なる教義を取り扱う際には、再考が必要と なる。何となれば、非我とされるものが、限定的な事物ではなく、「一切法」

(sarvadharma-)であるからである。すなわち、“anattan-”あるいは“anātman-”

なる語によって表明されるこの種の言明の本来の趣旨が「非我」(我でない こと)を意図したものであったにせよ、「一切法」(sarvadharma-)の意味す るところが何によっても限定されない全ての存在する事物であったとする ならば、「一切法非我」(あらゆる事物が我でないこと)は「一切法無我」(あ らゆる事物の中に我がないこと)と同義となる。よって、「非我」(我でない

8 中村[1966; 21, 3-22, 1]参照。

9 中村[1966; 24, 1ff.]参照。

10 中村[1966; 51, 7-54, 16]参照。

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こと)であるためには、「一切法」の指し示す範囲が何らかのかたちで限定 されていなければならない。しかるに、この「一切法」は、そもそも、何ら かのかたちで限定されていると考えられるべきか。あるいは、何によっても 限定されていないと考えられるべきか。そして、この「一切法」が何らかの かたちで限定されているとしても、その限定の範囲は如何ほどと理解され るべきか。このことが問題となる。中村[1966]を引き合いに出して例える ならば、以下のように言えよう。「名称と形態」「自己の身体」などといった 限定的な事物を主題としている場合には「非我」を意味した術語も、無限定 の「一切法」を主題とした場合には、話者が「非我」を意図していたとして も、実質的には「無我」と同義となってしまう。よって、「非我」であるた めには、ここにおける「一切法」が「多様な差別相を有し対象化される」な どといった何らかの条件によって限定されていなければならないことにな る。つまり、単に「一切法非我」と言われる場合にも、多様な差別相を有し 対象化される一切法が非我であること、すなわち、多様な差別相を有し対象 化される事物に限ってはすべてが非我であることが意図されていると理解 されなければならないことになる。しかるに、仮に以上のようなかたちで限 定されているとしても、ここにおいて主題の限定に用いられる「多様な差別 相を有し対象化される」などという条件はウパニシャッドなどに由来する ものであるので、仏教徒がこのような範囲での限定を意図していたかにつ いては、やはり、改めて検討する必要がある。

さらに、“sarvadharmā anātmānāḥ”という言明が初期の仏教においては「一

切法非我」(あらゆる事物が我でないこと)を意図するものであったという ことを容認するとしても、アビダルマの段階に到るや、この解釈は明らかに

「一切法無我」(あらゆる事物の中に我がないこと)の方へと傾倒していく。

例えば、説一切有部(以下、有部と略す)における現存最古のまとまった無 我論証は『識身足論』「補特伽羅蘊」に現れる11が、そこにおいては、明らか

11 有部におけるまとまった無我論証としては、『識身足論』の議論が現存最 古のものと考えられる。しかるに、単発的なものとしては、以下に示す『集 異門足論』の議論も古い無我論証の例と言える。『集異門足論』T26, 386b5-

8/ 386c25-28: 諸有情、諦義勝義、不可得不可近得、非有非現有。但於諸蘊界

處由想等想假言説轉。謂為有情那羅意生儒童命者生者養者士夫補特伽羅(も ろもろの有情(*sattva-)は、[一切智を有する世尊によって、ありのままに]

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に、アートマン(我)を主題とし、それが存在しないこと(無我)を論証し ようとしている。そうであるとすれば、“anātman-”の解釈方法が「非我」(我 でない)から「無我」(我がない)へと転じていったのは、なぜか。このこ とが問題とされなければならない。

ところが、以上のような問題について検討するにしても、ニカーヤや阿含 経の無我論は説明が短く淡泊であるため、これらを相互に比較し、その相違 点について考察することが容易ではない。そこで、小稿においては、有部に おける現存最古の無我論証という意味で比較的に古く、しかも、対論者との 討論形式で議論が展開するという意味で対比が容易な『識身足論』「補特伽 羅蘊」に現れる無我論証を対象とすることにする。そして、そのうちでも、

「一切法」への限定のあり方が顕著に知られる箇所を特に選んで検討する。

また、この研究の目指すところは以上のような問題について論究すること であるが、小稿においては、まず、有部の無我論証と対論者の有我論証とを 分析して、双方の主張の特徴について正確に理解し、さらに、この無我をめ

知覚されうるもの(可得, *labhyamāna-)でなく、目の当たりにされうるもの

(可近得, *upalabhyamāna-)でないので、諦義(真理たる事物, *satyārtha-) として勝義(最高[の智]の対象, *paramārtha-)として、現に存在するもの

(有, *vidyamāna-)でなく、存在するもの(現有, *saṃvidyamāna-)でない。

[しかしながら、]「有情」(*sattva-)、「那羅」(*nara-)、「意生」(*manuja-)、

「儒童」(*mānava-)、「命者」(*jīva-)、「生者」(*jantu-)、「養者」(*poṣa-)、

「士夫」(*puruṣa-)、あるいは、「補特伽羅」(*pudgala-)という、表象され

たもの(想, saṃjñā- = 名称)、構想されたもの(等想, samajñā- = 呼称)、仮 構されたもの(假立, prajñapti-)、言語上で表現されたもの(言説, vyavahāra-) が 、[諦 義とし て勝 義とし て存 在す る五 ]蘊 (*skandha-)・[十 二] 処

(*āyatana-)・[十八]界(*dhātu-)に対して起るのである)。また、無我論 証ではないが、この無我論証と同様の発想により、知覚されないことを理由 に存在を否定する古い論証は、以下に示す『法蘊足論』にも見られる。『法

蘊足論』T26, 484a22ff.: 無尋無伺者、謂第二靜慮。尋伺、不可得不現行、非

有非等有。故名無尋無伺(「尋も有せず伺も有せず」とは、第二静慮(*dhyāna-) である。[その第二静慮においては]尋(*vitarka-)や伺(*vicāra-)が[第 二静慮について悉く知る者によって、ありのままに]知覚されうるもの(可 得, *labhyamāna-)でなく、目の当たりにされうるもの(現行, *upalabhyamāna-) でないので、[第二静慮において尋や伺は]現に存在するもの(有, *vidya- māna-)でなく、存在するもの(等有, *saṃvidyamāna-)でない。そのゆえに

[第二静慮は]「尋も有せず伺も有せず」と説かれるのである)。

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ぐる論争が何を直接的な原因として始まったかについて追究することにす る。

22.. 『『識識身身足足論論』』「「補補特特伽伽羅羅蘊蘊」」ににおおけけるる有有部部のの無無我我論論証証とと対対論論者者のの有有我我論論証証 22..11.. 有有部部のの無無我我論論証証のの分分析析ととそそれれにによよりり知知らられれるる有有部部のの意意図図

『識身足論』においては、無我論証の現れる「補特伽羅蘊」に先立って、

「目犍連蘊」が陳述される。そこにおいては、「現在と無為の事物のみが存 在するものであり、過去と未来の事物は存在しないものである」と主張する 対論者が登場する12。そして、その対論者に反論するために、定説者である 有部が、「[ありのままに13]知覚されるがゆえに14」という論証因を用いて、

「過去かつ未来の事物15が、[個別のあり方を有して16]存在する」ことを論 証する。いわゆる三世実有論証である17

これを分析すると、三世実有論証では、まず、「或るもの(A)が[ありの ままに]知覚される場合には、それ(A)は[個別のあり方を有して]存在 する」という論理的包摂関係が前提となっている。そして、次に、論証因と なる「[ありのままに]知覚される」というあり方が論証の主題である「過 去の事物」かつ「未来の事物」に所属するということ(論証因の主題所属性)

が、対論者にも容認されることにより、論証が成就する。なお、ここにおけ る論理的包摂関係については、「[個別のあり方を有して]存在する事物を原 因として、[ありのままの]知覚という結果が生起する」という因果関係が 根拠となっている18。この論理的包摂関係とその根拠となる因果関係につい てまとめると、以下の図のように示すことができる。

12 拙稿[2006; §2.2]参照。

13 拙稿[2006; §3.2, §3.3]参照。

14 拙稿[2006; §2.4]参照。

15 拙稿[2006; §2.3, §2.6]参照。

16 拙稿[2006; §3.4]参照。

17 拙稿[2006; §2.1]参照。

18 拙稿[2006; §2.5]参照。

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三世世実実有有論論証証((定定説説者者))のの論論理理的的包包摂摂関関係係のの根根拠拠ととななるる因因果果関関係

[個別のあり方を有して]存在する事物(原因)(結果)[ありのままの]知覚

《1-1》

三世世実実有有論論証証((定定説説者者))のの論論理理的的包包摂摂関関係

([ありのままに]知覚される [個別のあり方を有して]存在する)

《1-2》

以上のごとく、この論証の直接的な目的は、過去かつ未来の事物が存在す ることを論証することである。しかるに、実のところは、この論証を通して、

「ありのままの知覚」のあり方を確立させることが意図されている。すなわ ち、この三世実有論証は、過去の事物を対象とする知覚であれ、未来の事物 を対象とする知覚であれ、あらゆる「ありのままの知覚」について、個別の あり方を有して存在する事物を原因として生起する知覚という唯一の基準 を以てして、これを規定することを潜在的な目標としているのである19

さて、『識身足論』では、この「目犍連蘊」が陳述された後、これに続く

「補特伽羅蘊」において、無我論証が叙述される。このような章立てとなっ ているのは、この無我論証が、先の三世実有論証において確立された「あり のままの知覚」を用いて、個人原理であるプドガラ(*pudgala-)を否定しよ うとする試みであることを暗示している。まず、有部による無我論証を端的 に示す「補特伽羅蘊」の本文を以下に示す。

『識身足論』T26, 543c6ff.:

性空論者、作如是言――「諦義勝義、補特伽羅、非可得、非可證、非現 有、非等有。是故、無有補特伽羅。」

[定説者である]性空論者(*svabhāvaśūnyatāvādin- = 有部)は、以下の ように言う――【定説者】「諦義(真理たる事物, *satyārtha-)として、

勝義(最高の[智の]対象, *paramārtha-)として、個人原理(補特伽羅,

*pudgala-)は、[一切智を有する世尊によって、ありのままに]知覚さ

19 拙稿[2006; §4]参照。

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れうるものでなく、目の当たりにされうるものでないので、[個人原理 は、]現に存在するものでなく、存在するものでない。この故に、個人 原理は、存在することがないのである」と。

これを分析すると、この無我論証においては、まず、「或るもの(A)が

[ありのままに]知覚されうるものでない場合には、それ(A)は諦義・勝 義として存在するものでない」という論理的包摂関係が前提となっている。

そして、次に、論証因となる「[ありのままに]知覚されうるものでない」

というあり方が論証の主題である「個人原理」(*pudgala-)に所属するとい うこと20(論証因の主題所属性)が、対論者にも容認されることことにより、

論証が成立する。

しかしながら、この論証には、検証すべき問題点が二つある。一つ目は、

そもそも、この論理的包摂関係が成立するか否かという点であり、二つ目は、

「諦義」(*satyārtha-)あるいは「勝義」(*paramārtha-)という用語が如何な る概念を指し示しているかという点である。

まず、ここで前提となっている論理包摂関係は、先述の三世実有論証の場 合と同様に、「[個別のあり方を有して]存在する事物を原因として、[あり のままの]知覚という結果が生起する」という因果関係(《1-1》)を根拠と していると目される。しかし、この論理的包摂関係は、この因果関係のみか ら単純に導き出されるものではない。すなわち、この因果関係に基づけば、

「或るもの(A)が存在しない場合には、それ(A)は知覚されない」とい う否定的随伴関係と「或るもの(A)が知覚される場合には、それ(A)は 存在する」という肯定的随伴関係(《1-2》)は真であると言えるとしても、

「或るもの(A)が知覚されない場合には、それ(A)は存在しない」とい う懸案の関係性は、この否定的随伴関係からすれば逆であり、肯定的随伴関 係(《1-2》)からすれば裏であって、必ずしも真であるとは限らないのであ る。

以下に示す事柄は、後に叙述される有部と対論者との討論内容(『識身足

20 論証の主題が存在しないものである場合には、それに所属する如何なる 特性も存在しないはずであるから、存在しないものとされる主題に論証因 を適用することの妥当性も問題とされるべきであろうが、ここにおいては、

この問題は議論されていない。

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9

論』T26, 544a2-16)を分析することにより判明することであるが、有部は、

この論理的包摂関係を導く際に、先に示した因果関係(《1-1》)を基盤とし つつ、暗黙の裡に「知覚する者(世尊)が一切智を有する」という特別な条 件をこれに付加した上で、さらに、“……されううる..る

”という可能性の観点を議 論に盛り込むという操作を行っている21。有部の意図を詳述すると、以下の

21 詳細については別稿を期すが、この概要を示せば以下のようになる。有 部は、小稿で取り扱う範囲の議論が果てた後、自らが論じている知覚のあり 方(ありのままの知覚)と対論者が論じている知覚のあり方(釈尊によって 説示された知覚)との間に齟齬のあることに気づく。そして、「ありのまま の知覚」の何たるかを示すために、「六識身」を例に挙げて、対論者の理解 している知覚のあり方が自らの意図している知覚のあり方と全く異なって いることを示す。そして、取り扱う知覚を「ありのままの知覚」に限定する ことによって対論者による有我論証を斥け、延いては、自らの無我論証の妥 当性を示すことになる(『識身足論』T26, 543c20-544a2)。なお、この「六識 身」とは、個別のあり方を有して存在する色ないし法から生起する眼識ない し意識のことである。ところが、有部は、さらに議論を展開して、この六識 身のほかにも「ありのままの知覚」がありうるかの検証を始める。そこにお いて俎上に載るのが、第七の認識としての「有情識」である。この「有情識」

とは、いわば、個別のあり方を有して存在する有情から生起する認識のこと である。劣勢となっていた対論者は、この議論において、「有情識」の存在 を容認することになる。これに対して、有部は、2種の帰謬論証を用いて反 駁する。このうち、小稿に挙げた暗黙の条件に関わるものは、1つ目の帰謬 論証である。その概略を示せば、以下のようになる――対論者が主張するよ うに「有情識は、世尊によって説示されなかったが、存在する」と仮定した 場合には、「[個別のあり方を有して]存在するものとされる有情識は、[師 拳(秘密)を有しない]世尊よって[ありのままに]説示されうるものでな いがゆえに、[ありのままに]知覚されるうるものでないこととなり、[あり のままに]知覚されうるものでないがゆえに、世尊が無智であること(一切 智を有しないこと)となってしまう」というのである(『識身足論』T26,

544a2ff.)。ところで、この帰謬論証の包摂関係については、存在・知覚・説

示という三者の間に存する因果関係が根拠となっていると推察される。こ の因果関係については、『識身足論』「目乾連蘊」において既に議論がなされ ている(『識身足論』T26, 535b10-26)。そこでは、まずは、個別のあり方を 有して存在する事物を原因として、それをありのままに知る能記心という

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ようになる――[個別のあり方を有して]存在する事物を原因として、[あ

知覚が結果として生じ、次に、そのありのままに知る能記心という知覚を原 因として、ありのままに為された記別という説示が結果として生ずると考 えられている。つまり、[個別のあり方を有する]存在と[ありのままに為 された]説示との間には、[ありのままに知る]知覚を仲介とする間接的な 因果関係が想定されているのである(拙稿[2011; §3.1, §4]参照)。しか しながら、この帰謬論証の前提は、以上の因果関係のみより一筋縄で得られ るものではない。そこで鍵となるのが、先に挙げた2種の帰謬論証の最終的 帰結として示される2つの条件である。それは、「世尊が無智であること(一 切智を有しないこと)となる」(『識身足論』T26, 544a4-10)・「世尊が師拳(秘 密)を有することとなる」(『識身足論』T26, 544a10-16)という帰結である。

この帰謬論証における有部の考え方は、この二条件が如何にして導出され るかを考察することで明らかになる。まず、個別のあり方を有して存在する 事物を原因とし、ありのままに知る知覚が結果として生ずることが自明で あるとしても、通常の場合、事物が個別のあり方を有して存在することは、

必ずしもそれがありのままに知覚されることを含意しない。しかしながら、

それを知覚する者が一切智を有するという特別な条件を付与すれば、可能 性として、それはありのままに知覚されうることになる。何となれば、一切 智を有する者は、存在するものをすべて知覚する者であるからである。よっ て、第一段階として、「或るもの(A)が個別のあり方を有して存在するもの であり、かつ、知覚する者が一切智を有する場合には、それ(A)はありの ままに知覚されうるものである」という論理的包摂関係が得られる。次に、

ありのままに知る知覚を原因とし、ありのままに為された説示が結果とし て生ずることが自明であるとしても、通常の場合、事物がありのままに知覚 されることは、必ずしもそれがありのままに説示されることを含意しない。

しかしながら、それを説示する者が師拳(秘密)を有しないという特別な条 件を付与すれば、可能性として、それはありのままに説示されうることとな る。何となれば、師拳(秘密)を有しない者は、知覚したものをすべて説示 する者であるからである。よって、第二段階として、「或るもの(A)があり のままに知覚されうるものであり、かつ、説示する者が師拳(秘密)を有し ない場合には、それ(A)はありのままに説示されうるものである」という 論理的包摂関係が得られる。以上の2段階の論理的包摂関係を併合して、そ の対偶をとることで、上記の帰謬論証の論理的包摂関係が得られるが、ここ に第一段階の論理的包摂関係として挙げたものが、すなわち、小稿で取り上 げる論理的包摂関係の元である。

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りのままの]知覚という結果が生起する(《1-1》)。よって、もし「或るもの

(A)が[個別のあり方を有して]存在するものであり、かつ、知覚する者

(世尊)が一切智を有する」としたならば、その場合には、「それ(A)は

[ありのままに]知覚されううる..る

ものである」と言える。そして、この対偶を とることで、「或るもの(A)が[ありのままに]知覚されううる..る

ものでない場 合には、知覚する者(世尊)が一切智を有しない(無智である)か、あるい は、それ(A)が[個別のあり方を有して]存在するものでないかのいずれ かである」という論理的包摂関係が得られる。しかも、この論証の特殊性と して、定説者の有部のみならず、対論者も仏教徒であるという事情があるの で、双方が共に容認する仏説に基づいて議論を展開する限りにおいては、原 則的に、「知覚する者(世尊)が一切智を有する」という暗黙の条件が放棄 されることはなく、「知覚する者(世尊)が一切智を有しない(無智である)」

という帰結が選択されることもない。ゆえに、この論理的包摂関係は、便宜 的には、「或るもの(A)が[一切智を有する世尊によって、ありのままに]

知覚されううる..る

ものでない場合には、それ(A)は[個別のあり方を有して]

存在するものでない」というかたちで成り立つこととなる。これをまとめる と、以下の図のようになる。

無我我論論証証((定定説説者者))のの論論理理的的包包摂摂関関係係のの根根拠拠ととななるる因因果果関関係

[個別のあり方を有して]存在する事物(原因)(結果)[ありのままの]知覚

(《1-1》)

無我我論論証証((定定説説者者))のの論論理理的的包包摂摂関関係

([或るもの(A)が個別のあり方を有して]存在するものである

【かつ】[知覚する者(世尊)が一切智を有する]

→[それ(A)はありのままに]知覚されううる..

ものである)

(12)

12

([或るもの(A)がありのままに]知覚されううる..

ものでない

→[知覚する者(世尊)が一切智を有しない(無智である)]【あるいは】

[それ(A)は個別のあり方を有して]存在するものでない)

或るもの(A):

([一切智を有する世尊によって、ありのままに]知覚されううる..

ものでない

→[個別のあり方を有して]存在するものでない)

《2》

次に、有部の考える「諦義」あるいは「勝義」という用語の意味について 吟味することにする。先述の通り、有部の三世実有論証は、あらゆる「[あ りのままの]知覚」は個別のあり方を有して存在する事物を原因として生起 する知覚であるという規定の下で為されたものである。よって、逆に言えば、

その知覚の原因たる個別のあり方を有して存在する事物は、ありのままの 知覚によって知られる対象と規定されることとなる。ゆえに、定説者の有部 からすれば、ここで言われる「勝義」(*paramārtha-)は、「最高の智の対象

22」(*paramajñānārtha-)を意味することとなる。また、同様にして、「諦義」

(*satyārtha-)についても、ありのままの知覚(より厳格に言えば、見道・

修道に属する無漏智)の原因(所縁縁)となるところの、個別のあり方を有 して存在するものという意味での「真理」(satya-)であり、そして、「事物」

(artha-)であるものを意味すると推測される。

以上の考察を踏まえて、有部による無我論証を正確に表記すると、この論 証においては、「個人原理(*pudgala-)は、[一切智を有する世尊によって、

ありのままに]知覚されううる..る

ものでないがゆえに、諦義(真理たる事物)と して、勝義(最高[の智]の対象)として存在するものでない」ということ が意図されていると分かる。

22 Cf. AKVy 1, 9, 20: paramasya jñānasyārthaḥ paramārthaḥ(勝義とは、最高の 智の対象である).

(13)

13

有部部にによよるる無無我我論論証

個人原理(*pudgala-):

([一切智を有する世尊によって、ありのままに]知覚されううる..

ものでない

→諦義(真理たる事物)・勝義(最高[の智]の対象)として存在するものでない)

《3》

22..22.. 対対論論者者のの有有我我論論証証のの分分析析ととそそれれにによよりり知知らられれるる対対論論者者のの意意図図

さて、有部の主張を確認したところで、次に、対論者の主張についても考 察することにする。この「補特伽羅蘊」において、対論者は、有部とは逆に、

個人原理であるプドガラ(*pudgala-)の存在を肯定しようと試みている。以 下に提示する「補特伽羅蘊」の本文は、その有我論証を端的に示す箇所であ る。

『識身足論』T26, 537b2f.:

補特伽羅論者、作如是言――「諦義勝義、補特伽羅、可得、可證、現有、

等有。是故、定有補特伽羅。」

[対論者である]プドガラ論者(補特伽羅論者, *pudgalavādin-)は、以 下のように言う――【対論者】「諦義([世尊によって述べられた]真 実[の言葉]の内容, *satyārtha-)によると、勝義([世尊によって告げ られた]最高[の教え]の内容, *paramārtha-)によると、個人原理(補 特伽羅, *pudgala-)は、知覚されるものであり、目の当たりにされるも のであるので、[個人原理は、]現に存在するものであり、存在するも のである。この故に、個人原理は、必ず、存在するのである」と。

これを分析すると、この有我論証においては、まず、「或るもの(A)が諦 義・勝義によると知覚されるものであるという場合には、それ(A)は存在 するもの23である」という論理的包摂関係が前提となっている。そして、次

23「補特伽羅蘊」において、対論者がこの存在について如何なるあり方を想 定していたかは、審らかでない。しかるに、このあり方に対する対論者の考

(14)

14

に、論証因となる「諦義・勝義によると知覚されるものである」というあり 方が論証の主題である「個人原理」(*pudgala-)に所属するということ(論 証因の主題所属性)が、有部にも容認されることにより、論証が成立する。

よって、ここにおいても、やはり、対論者の意図する「諦義」・「勝義」の 意味が吟味されるべきであり、その論理的包摂関係が検証されるべきであ ろう。

そこで、以下では、まず、対論者の意図する「諦義」と「勝義」の意味に ついて考察することにする。「補特伽羅蘊」では、先述の通り、個人原理

(*pudgala-)の存否をめぐって、定説者(有部)と対論者との間で討論が展 開されていた。ところが、これと同類の討論は、パーリに伝わるKathāvatthu-

(KV)の冒頭にも見出すことができる。以下に示す文からは、KVの定説者 の主張が読み取れる。

KV 1, 26f.:

puggalo n'upalabbhati saccikaṭṭhaparamatthenā ti ― āmantā.

[対 論者が問う――]【対 論者】個人 原 理(puggala-)は、 諦義

(saccikaṭṭh[ena], 対論者の意図:真実[の言葉]の内容/ 定説者の理解:

真理たる事物)として、勝義(paramatthena, 対論者の意図:最高[の教 え]の内容/ 定説者の理解:最高[の智]の対象)として24、知覚され

えは、有学・無学・非学非無学を論題とする討論(『識身足論』T26, 542a8-

542b5)から僅かに窺い知ることができる。これによれば、対論者は、持続

しない五蘊に対して、個人原理(*pudgala-)は持続するので、個人原理は五 蘊と同じではない、と意図しているようである。ただし、五蘊と同じでない と意図するからと言って、個人原理を五蘊と別の実有..

と措定しているかは 明白でない。

24 ここにおいては、「saccikaṭṭhaparamattha-」なる用語が用いられているが、

この語を「saccikaṭṭhaparamatthena」という具格のかたちで使用するとき、対 論者は、“個人原理(puggala-)が知覚される”ということが「真実[の言葉]

の内容」(saccikaṭṭha-)・「最高[の教え]の内容」(paramattha-)に基づいた 事柄であるということを示そうと意図している。ところが、この語が具格の かたちで使用されているのを聞いた定説者は、個人原理(puggala-)が「真 理たる事物」(saccikaṭṭha-)・「最高[の智]の対象」(paramattha-)として知

(15)

15

ないのですか、と。[この問いに対して、定説者が是認する――]【定説 者】仰る通りです(āmantā)[、と]。

これによると、KVの定説者は、「個人原理は、諦義・勝義として25、知覚 されない」ということを是認することが分かる。また、「補特伽羅蘊」にお ける定説者(有部)は、その論証において、「諦義・勝義として26、個人原理 は、知覚されないものである」という論証因の主題所属性を是認していた。

よって、少なくとも形式上、両者は同類の思想を有していると言うことがで きる。

覚されるということが説かれていると理解する。この齟齬は、定説者が対論 者に対して発問し、対論者が定説者に対して応答する場合(註 27)におい ても、なお解消されない。この議論の食い違いについては、続く小稿の本文 において論ずる。

25 先述の通り、有部は、三世実有論証を通して「ありのままの知覚」のあり 方を規定することを潜在的な目標としていた。そして、その規定の際に用い られた唯一の基準は、個別のあり方を有して存在する事物を原因として生 起する知覚という基準であった。よって、知覚のあり方が論点となる場合に は、「個別のあり方を有して存在する事物」が知覚を規定する要件となりう る。一方、三世実有論証の直接的目的は、結果である「ありのままの知覚」

を論証因として、原因である「個別のあり方を有して存在する事物」を推論 することであった。よって、存在のあり方が論点となる場合には、「ありの ままの知覚」が存在を規定する要件となりうる。ところが、「諦義」(真理た る事物)・「勝義」(最高の智の対象)という用語は、「個別のあり方を有して 存在する事物」という要素を主体とするが、「ありのままの知覚」という要 素をもその語の中に内包している。よって、知覚のあり方を論点とするKV の定説者は、「諦義」・「勝義」なる語の有する「個別のあり方を有して存在 する事物」という要素を用いて知覚を規定しようとし、その一方で、存在の あり方を論点とする「補特伽羅蘊」の定説者(有部)は、「諦義」・「勝義」

なる語が内包する「ありのままの知覚」という要素を用いて存在を規定しよ うとしていると言える。よって、「補特伽羅蘊」の定説者の有部は、存在を 規定する要素に比重をおいてこの用語を用いるべきであるが、時と場合に 応じて、KVの定説者のように、知覚を規定する要素に比重をおいてこの用 語を用いること(註26)も理論上ありうることとなる。

26 註25参照。

(16)

16

ただし、KVの定説者の理解する「諦義」(saccikaṭṭha-)・「勝義」(paramattha-)

に関しては、この文脈のみからは意味が審らかではない。よって、これらの 語義については、後世の文献によらざるをえない。そして、これらが明確に 提示されるのは、KVの註釈書(Kathāvatthuppakaraṇa-aṭṭhakathā-, KVA)にい たってからである。その語義は、KVAによれば、以下の通りである。

KVA 9, 21ff.:

saccikaṭṭho ti māyāmarīci-ādayo viya abhūtākārena agahetabbo bhūtaṭṭho.

paramattho ti anussavādivasena agahetabbo uttamattho.

「真理たる事物」とは、幻(māya-)や蜃気楼(marīci-)などのような 虚妄なもの(abhūta-)の有り様(ākāra-)で把握されるものでないもの、

[すなわち、]真実たる[有り様で把握される]対象である。「最高[の 智]の対象」とは、伝聞(anussava-)などを介して[間接的に]把握さ れるものでないもの、[すなわち、]最上の[智によって直接的に把握さ れる]事物である。

これによれば、「諦義」(saccikaṭṭha-)は、真実たる有り様で把握される対 象と解釈され、「勝義」(paramattha-)は、最上の智によって自分自身で直接 的に知られる事物と解釈される。そして、この解釈に即してKVの本文を読 解しても、特に強弁が怪しまれる節もない。このことから、KVの定説者の 理解する「諦義」(saccikaṭṭha-)・「勝義」(paramattha-)の意味は、基本的に、

「補特伽羅蘊」の定説者(有部)と同様と推察される。

一方で、KVの対論者は以下のような主張を展開している。

KV 1, 4f.:

puggalo upalabbhati saccikaṭṭhaparamatthenā ti ― āmantā.

[定 説者が問う――]【定 説者】個人 原 理(puggala-)は、 諦義

(saccikaṭṭh[ena], 定説者の意図:真理たる事物/ 対論者の理解:真実[の 言葉]の内容)として、勝義(paramatthena, 定説者の意図:最高[の智]

の対象/ 対論者の理解:最高[の教え]の内容)として27、知覚される

27 註24参照。

(17)

17

(upalabbhati)のですか、と。[この問いに対して対論者が是認する――]

【対論者】仰る通りです(āmantā)[、と]。

これによると、KVの対論者は、「個人原理は、諦義・勝義として(saccikaṭṭha-

paramatthena)、知覚される」ということを是認することが分かる。また、「補

特伽羅蘊」における対論者は、その論証において、「個人原理は、諦義・勝 義によると(*satyārthaparamārthena)、知覚されるものである」という論証因 の主題所属性を是認していた。よって、ここにおいても、少なくとも形式上 は、両者が同類の思想を有していると言うことができる。

それでは、対論者が「諦義」・「勝義」について如何に解釈するかと言えば、

KVAにおいては、以下のような見解が示される。

KVA 10, 7-11:

yasmā pana bhagavā saccavādī, na visaṃvādanapurekkhāro vācaṃ bhāsati, nāpi anussavādivasena dhammaṃ deseti, sadevakaṃ pana lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedeti, tasmā yo tena vutto “atthi puggalo attahitāya paṭipanno” ti, so ... atthīti laddhiṃ gahetvā ...

なぜならば、[いつも]真実をお語りになり、欺かないことを尊重なさ る世尊が、言葉をお述べになっているのであるから、また、[世尊は、]

伝聞(anussava-)などに基づいて教えをお説きにならず、むしろ、[世 尊は、]神々と人々をご自身で覚知し、目の当たりにされて、[教えを]

お告げになるのであるから、そのゆえに、或るもの、[すなわち、個人 原理(puggala-)]が、「自己を利するために修行する個人が存在する

(atthi)」(KV 13, 26f.; cf. AN II, §95-§99.)と言って、彼の方(世尊)に よって説かれている場合には、そ[の個人原理]は……存在する、とい う誤った見解を把持して……。

これに基づけば、KVの対論者の理解する「諦義」は、いつも真実を語る 世尊によって述べられた「真実(sacca-)[の言葉(vāc-)]の内容(aṭṭha-)」

であり、「勝義」は、世界を自分自身で直接的に覚知した世尊によって告げ られた「最高(parama-)[の教え(dhamma-)]の内容(aṭṭha-)」であったと 推測しうる。

(18)

18

翻って、「補特伽羅蘊」の対論者における「諦義」・「勝義」の解釈に関し ては、「補特伽羅蘊」とKVの定説者が同様の解釈を為すからと言って、「補 特伽羅蘊」の対論者までもが KV の対論者と同様の解釈を為すとは限らな いわけであるが、この解釈を「補特伽羅蘊」に当て嵌めて読解すると、その 文脈によく適合することから、彼らもまた、「諦義」・「勝義」という用語を、

それぞれ、「真実(*satya-)[の言葉(*vāc-)]の内容(*artha-)」・「最高(*parama-)

[の教え(*dharma-)]の内容(*artha-)」という意味で用いた可能性が十分 にある。

次に、「補特伽羅蘊」の対論者が用いる論理的包摂関係について検証する。

先述の通り、この対論者は、概略すれば、「或るもの(A)が……知覚される ものであるという場合には、それ(A)は存在するものである」という論理 的包摂関係を用いているから、これについては、表面上、有部の三世実有論 証のそれと同様であるかのように見える。よって、その根拠についても、三 世実有論証と同様に、存在する事物と知覚との間に存する因果関係が拠り 所となっているかのように想像される。ところが、『識身足論』において、

対論者がこの因果関係について言及する箇所は全く見当たらない。それど ころか、「補特伽羅蘊」の記述を見る限り、対論者は、むしろ、文脈的要請 から、存在する事物と知覚との関係性を類推しているようである。「補特伽 羅蘊」において、対論者がこの関係性について言及するのは、以下に示す箇 所のみである。

『識身足論』T26, 545b13f.:

補特伽羅論者、作如是言――「有為、可得。無為、可得。補特伽羅、亦 有、可得。」

[対論者である]プドガラ論者は、以下のように言う――【対論者】「[諸 条件によって]作られたもの(有為, *saṃskṛta-)は、[存在するもので あって、かつ、]知覚されるもの(可得)である。[諸条件によって]作 られたものでないもの(無為, *asaṃskṛta-)は、[存在するものであって、

かつ、]知覚されるもの(可得)である。[このことから類推するに、個 人原理が存在するものでなければ、個人原理が知覚されるものである ことも説明できないから、知覚されるものである以上、]個人原理(補 特伽羅, *pudgala-)もまた、[有為や無為と同様に、]存在するもの(有)

(19)

19

であって、[かつ、]知覚されるもの(可得)である」と。

この言及に基づけば、対論者の意図は以下のように推測される――すな わち、諦義(世尊によって述べられた真実の言葉の内容)・勝義(世尊によ って告げられた最高の教えの内容)によると、有為法は、「知覚されるもの」

であり、かつ、「存在するもの」である。そして、無為法もまた同様である。

このことから類推すると、或るもの(A)が「知覚されるもの」であると世 尊によって説示されている場合には、それ(A)は「存在するもの」である と世尊によって意図されているに違いない。そして、今、個人原理(*pudgala-)

が「知覚されるもの」であると世尊によって説示されている。よって、「存 在するもの」でなければ、「知覚されるもの」であると世尊によって説示さ れることの説明がつかない。ゆえに、個人原理(*pudgala-)もまた、「存在 するもの」である、と言うのである。つまり、仏説の整合性を保つためには、

文脈上、個人原理(*pudgala-)が「存在するもの」であることが要請される、

と言うことである。この記述からすると、有我論証の論理的包摂関係につい ては、因果関係に着想を得た有部とは全く別のところで、対論者独自の発想 で考案されたものであるという可能性が高い。

以上を踏まえ、対論者による有我論証を表記すると、この論証においては、

「個人原理(*pudgala-)は、諦義(真実[の言葉]の内容)・勝義(最高[の 教え]の内容)によると知覚されるものであるがゆえに、[文脈上、]存在す るものである」ということが意図されていると推測される。

対論論者者にによよるる有有我我論論証証のの概概要

個人原理(*pudgala-):

(諦義(真実[の言葉]の内容)・勝義(最高[の教え]の内容)によると 知覚されるものである→[文脈上、]存在するものである)

《4》

(20)

20 33.. 有有部部とと対対論論者者のの論論争争ととそそのの直直接接的的原原因因

以上のごとくであるとすれば、「補特伽羅蘊」の討論においてもまた、KV と同様に、定説者と対論者は、「諦義」・「勝義」という同一の用語を用いな がら、それぞれ、別個の概念を意図していたこととなる。すなわち、定説者 である有部は、これらの用語を用いて「真理たる事物」・「最高の智の対象」

を意図しながら自らの主張を述べ、一方、対論者は、これらの用語を用いて

「真実の言葉の内容」・「最高の教えの内容」を意図しながら自らの主張を述 べていたと考えられるのである。

また、このことは、「諦義」・「勝義」という同一の用語を聞いたときにも、

定説者と対論者が、それぞれ、別個の概念でこれを理解することを意味する。

すなわち、対論者の有我論証は、その本意としては、「個人原理(*pudgala-)

は、諦義(真実[の言葉]の内容)・勝義(最高[の教え]の内容)による と知覚されるものであるがゆえに、[文脈上、]存在するものである」という こと(《4》)を意味するが、これを自らの理解に従って解釈する定説者の有 部からは「個人原理(*pudgala-)は、[ありのままに]知覚されるものであ るがゆえに、諦義(真理たる事物)・勝義(最高[の智]の対象)として存 在するものである」という主張として捉えられることとなる。一方、有部の 無我論証は、その本意としては、「個人原理(*pudgala-)は、[一切智を有す る世尊によって、ありのままに]知覚されううる..る

ものでないがゆえに、諦義(真 理たる事物)・勝義(最高[の智]の対象)として存在するものでない」と いうこと(《3》)を意味するが、これを自らの理解に従って解釈する対論者 からは「個人原理(*pudgala-)は、諦義(真実[の言葉]の内容)・勝義(最 高[の教え]の内容)によると知覚されるものでないがゆえに、[文脈上、]

存在するものでない」という主張として捉えられることとなる。そして、双 方は、以上のような齟齬を残したままに、それぞれの意図する概念に従って 議論の応酬を繰り返すこととなる。

ここにおける定説者・対論者それぞれの意図と理解を図にまとめると、以 下のようになる。

(21)

21

《本本来来のの定定説説者者のの主主張張》 《本本来来のの対対論論者者のの主主張張》 勝義――最高の智

の対象

個人原理(*pudgala-):

([一切智を有する世尊によって

あり......りののままままに

]知覚されうるもの でない→最最高..

対象..

とし...して

在するものでない)

勝義――最高の教教え.. の内容

個人原理(*pudgala-):

(最最高........高のの教教ええのの内内容 によ....よるると

知覚 されるものである→[文脈上、]存 在するものである)

《対対論論者者がが理理解解すするる定定説説者者のの主主張張》 《定定説説者者がが理理解解すするる対対論論者者のの主主張張》 勝義――最高の教教え..

の内容

個人原理(*pudgala-):

(最最高........高のの教教ええのの内内容 によ....よるると

知覚され るものでない→[文脈上、]存在するも のでない)

勝義――最高の智 の対象

個人原理(*pudgala-):

([ああり......りののままままに

]知覚されるものであ る→最最高..

対象..

とし...して

存在するも のである)

《5》

このように、有部の無我論証は、その本意とは裏腹に、対論者によっては、

「個人原理(*pudgala-)は、勝義(最高[の教え]の内容)によると知覚さ れるものでないがゆえに、[文脈上、]存在するものでない」という主張とし て理解される。

以下に示す「補特伽羅蘊」の本文は、対論者が、以上のような自らの理解 の下に、有部の主張の瑕疵を示すために発した問いである。なお、ここで論 題となっている「慈」という心作用の認識対象は、アーガマ(最高の教えの 内容)によると、「有情」すなわち「個人原理」(*pudgala-)とされるのが一 般的であることが注意されなければならない。

『識身足論』T26, 543c8ff.:

(22)

22

補特伽羅論者、問言――「具壽。慈何所縁。」答言――「諸法、性、有、

等有。由想等想假説、有情。於此義中、慈縁、執受諸蘊相續。」

[対論者である]プドガラ論者(補特伽羅論者, *pudgalavādin-)は、[以 下のように、こちら(定説者・性空論者)に]質問して言う――【対論 者】「具寿(定説者・性空論者)よ。慈(*maitrī-)[という心の働き]

は、何を認識対象(所縁, *ālambana-)とするのですか」と。[こちら(定 説者・性空論者)は、彼(対論者・プドガラ論者)に]返答して言う―

―【定説者】「もろもろの事物(法, *dharma-)は、個別のあり方(性,

*svabhāva-)を有して、現に存在するものであり、存在するものです。

[一方、]有情(*sattva-)は、[その個別のあり方を有して存在する事 物の上に]表象されたもの(想, *saṃjñā- =名称)であり、構想された もの(等想, *samajñā-/ *samājñā- =呼称)であり、仮構されたもの(假,

*prajñapti-)であり、言語上で表現されたもの(説, *vyavahāra-)です28。 以上のような意味で、慈[という心の働き]の認識対象(*ālambana-, 縁)

28 Cf. 『瑜伽師地論』「声聞地」T30, 447a9ff.: 名想婆羅門者、謂、諸世間由

想等想假立言説名婆羅門。/ ŚrBh 2, 252, 17f.: tatra saṃjñābrāhmaṇa iti loke nāma bhavati saṃjñā samajñā prajñaptir vyavahāraḥ(これらのうち、名想婆羅門

(saṃjñābrāhmaṇa-)とは、世間(loka-)における名前(nāman-)、[つまりは、]

表象されたもの(想, saṃjñā- = 名称)であり、構想されたもの(等想, samajñā-

= 呼称)であり、仮構されたもの(假立, prajñapti-)であり、言語上で表現 されたもの(言説, vyavahāra-)である).; PVSPrP 153. 11f.: <bhagavān āha ― tat kiṃ manyase subhūte.> atraiṣā saṃjñā samajñā prajñaptir vyavahāro bodhisattva

iti pañcasūpādānaskandheṣu(世尊は仰った――スブーティよ。[君は、]この

ことをどのように考えるか。ここにおいて、[何であれ、]“菩薩”といわれる ものがある場合、それは五取蘊の上に表象されたもの(名称)であり、構想 されたもの(呼称)であり、仮構されたものであり、言語上で表現されたも のである[ということを]).; ASPrP (AAĀPrPVy) 71, 7ff.: bhagavān āha ― tat kiṃ manyase subhūte<.> atraiṣā saṃjñā samajñāprajñaptivyavahāraḥ pañcasūpādānaskandheṣu yad uta bodhisattva iti(世尊は仰った――スブーティ よ。[君は、]このことをどのように考えるか。ここにおいて、何であれ、“菩 薩”といわれるものがある場合、それは五取蘊の上に表象されたもの(名称)

であり、構想されたもの(呼称)・仮構されたもの・言語上で表現されたも のである[ということを]).

(23)

23

は、[個別のあり方を有して存在する]感覚を有する(執受, *upātta-)

もろもろの蘊(*skandha-)の連続体(相續, *santāna-)です」と。(P)

対論者は「勝義」を「最高の教えの内容」と理解するので、当然、有部も また、アーガマ(最高の教えの内容)によると、慈の認識対象は有情(≒個 人原理)である、すなわち、有情が慈によって知覚されるものである、と容 認すると期待する。ところが、有部は「勝義」を「最高の智の対象」と理解 するので、対論者の期待に反して、慈の認識対象は諸蘊の連続体である(P)

と断言する。

しかるに、有部の意図を代弁すれば、以下のように言えよう。勝義(最高 の智の対象)という観点からすると、個別のあり方(性, *svabhāva-)を有し て存在する諸蘊の連続体こそが、慈の認識対象として存在するものである。

しかも、知覚する者(世尊)が一切智を有するとすれば、諸蘊の連続体こそ が、慈の認識対象としてありのままに知覚されるうるものであることとな る。そして、有情とは異なる諸蘊の連続体が慈の認識対象としてありのまま に知覚されうるということは、有情が慈の認識対象としてありのままに知 覚されうるものでないことを間接的に表す29。よって、ここにおける「慈の

29 ここにおいては、諸蘊の連続体が慈の認識対象としてありのままに知覚 されることが、そのまま、有情が慈の認識対象としてありのままに知覚され ないこととして理解される。すなわち、ここにおける定説者(乃至、対論者)

は、慈の認識対象として知覚されることが期待されている有情の知覚とは 別

別の....の知知覚覚

(諸蘊の連続体の知覚)を以て、有情の非非知...知覚覚

と見なすと言える。

しかしながら、如何なる理論的根拠に基づいて、知覚されるべきものの知覚 とは別別の....の知知覚覚

が、知覚されるべきものの非非知...知覚覚

と同等に扱われるのかとい うことについては、未だ説明がなされていない。

このことが明確なかたちで説明されるのは、遙か後世、6世紀後半から7 世 紀 前 半 に か け て 、 イ ン ド の 仏 教 界 に お い て 論 理 学 を 大 成 し た 法 称

(dharmakīrti-)にいたってからである。法称は、知られるべき事物の非知覚

を論証因とすることにより知られるべき事物の非存在が論証されることを 理論的に説明するが、そこにおいては、知覚されるべき事物の非非知...知覚覚

が、知 覚されるべき事物の知覚とは別別の....の知知覚覚

と同義とされ、さらには、知覚される べき事物とは別別の....の事事物物

とも同義とされている。以下に示す例は、HBにおけ る 法 称 の 言 説 で あ る 。 HB 26, 1-7: upalabdhilakṣaṇaprāptasyānupalabdhir

参照

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