大江健三郎『個人的な体験』の英訳出版および受容 と評価に関する分析・考察
著者 日暮 勇太
著者別名 HIGURASHI Yuta
ページ 1‑117
発行年 2020‑03‑24
学位授与年月日 2020‑03‑24
学位名 修士(国際文化)
学位授与機関 法政大学 (Hosei University)
URL http://hdl.handle.net/10114/00023379
指導教員:リービ英雄教授
岩川ありさ専任講師
論文題名:大江健三郎『個人的な体験』の 英訳出版および受容と評価に 関する分析・考察
国際文化研究科国際文化専攻修士課程
日暮勇太
論文要旨
国際文化研究科国際文化専攻 日暮勇太
本論文は 1994 年に日本人として史上二人目となるノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の
『個人的な体験』の英訳が英語圏の読者によってどのように受容・評価されたかについて分析 および考察を行なう。その目的は文芸評論研究の観点から、オリジナルのテクストとは異なる 文化・言語圏の読者による批評と感想を読み解くことで、世界文学作家としての Kenzaburō Ôe 誕生の起源、そして人間の感性に向けられた普遍的主題を持った現代世界文学の成した異文化 と異言語の〈越境〉の像を明らかにすることにある。
研究の背景として、デビューから 60 年を経た大江健三郎の膨大な作品、あるいは作家自身に 関する評論・研究は、国内外を問わず数多くが行なわれてきた。現在、大江作品は数十以上の 言語に翻訳・出版されており、これは大江とその作品を捉える視点が日本と日本語の〈外部〉
にも存在していることの証左であると言えよう。しかし、日本国内の既存の大江研究において
「日本国外の国や言語圏における受容・評価」に焦点を当てた調査や論考は、大江と海外作家 あるいは作品との関連性を論ずる上で、あくまで副次的な要素として扱われるのみであった。
それ故、「何故、大江文学が海外で評価されたのか」という問いに対する答えの多くは、海外文 学に多大な影響を受けていた作者、または既存の日本文学と比べて海外文学的な文体や内容を 指摘するのみであり、それが異文化・異言語と対峙した時にどのように受け止められ、どのよ うな批評を受けたのか、具体的な事例の言及にまでは至っていないのが現状である。しかし、
国際化・ボーダーレス化が謳われて久しい現代において、多くの言語への翻訳と世界各国での 出版が相次いでなされている日本文学が「一つの国民と一つの言語」のみによって所有される という前提は、もはや通用しなくなっていると言える。故に、こうした時代の中での文学研究 の新たな視座の獲得・拡大という意味を込めて、異なった言語圏での批評の研究という形式を とり、日本文学を取り巻く〈外〉の視点についての分析・考察を試みるのである。
本研究の第 1 章では大江健三郎作品が英語圏に現れる以前、即ち戦後日本文学英訳の黎明期 について紹介する。これは大江がこれまでの日本文学とは異なった作家として英語圏で受容・
評価されるにあたって、それに至るまでの〈既存〉とは何であったかを明らかにすることで、
逆説的に大江の新規性とは如何にして見出されたかを明らかにする。戦後のアメリカにおける 日本文学の英訳出版の先駆けとなり、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫といった作家を英語 圏に紹介した出版社クノップ社と、その計画を担当した編集長ハロルド・シュトラウス。彼等 による 50 年代の黎明期、そこに現代作家である安部公房が加わった 60 年代の転換期、やがて 世界の中でその存在を認知されるようになった日本文学に対するノーベル文学賞授与をめぐる 諸々の出来事と 1968 年の川端の日本人史上初となる受賞、そして彼等の死による一つの終焉、
英訳という観点から見た新たな文学史の存在が明らかとなっている。第1章では「世界の中の
日本文学」が成立するまでの約 20 年間を作者、翻訳者、編集者に焦点を当て、その時代に確立
されたものの意義について論じる。
Matter
』について紹介し、その分析・考察を行なう。1964 年、日本で出版された『個人的な体 験』は作者である大江の私的な体験をモチーフとし、当然、 「障害をもった赤子の父親となった 現代青年の懊悩と救済」という特異な主題とその意外な結末は当時の文壇からの激しい賛否を 巻き起こした。一方、当時日本に留学していたネイスンはこれを原文で読み、「現代世界文学に 対する大きな貢献となる」と確信、その英訳に取り組むことになる。共に戦後より活動を開始 し、同時代の東京に住み、同じ文学的理念を共有した〈同志〉の関係を構築した作者と翻訳者 の協力よって、1968 年に英訳『
A Personal Matter』は出版に至った。その英訳は大胆な〈意 訳〉や〈スラング〉を用いることによって、原文のニュアンスを保ち、時に原文をより洗練 し、その表現性を高めることを可能にするものであった。主に第2章ではそれが具体的にどの ようなものであったかを比較を交えながら例示し、解説を行なうものとする。
第 3 章では『
A Personal Matter』が英語圏での出版直後にどのような受容・評価を受けたか について紹介し、分析・考察を行なう。かくして出版に至った『
A Personal Matter』は、その 直後から「ニューヨーク・タイムズ」をはじめとした有力紙で批評を受けることになる。その 内容は時に「アメリカ文学に通じるもの」として受容され、時に「戦後日本文学の精華」とし て評され、 「『個人的な体験』は完璧な現代小説としてなしうる最高の水準にほぼ達している」
という既存の日本文学には用いられない言葉での賛辞であった。こうした様々な批評を踏ま え、英語圏の読者にとって『
A Personal Matter』とは何であったのか、彼等の批評と日本の批 評とは何が異なっていたのか、作品の〈共感〉と〈普遍性〉とはどのようなものであったのか について分析・考察を行なう。
そして、終章では結論として英語圏における大江とネイスンと『
A Personal Matter』の意義
について、またそれが英語圏における現代日本文学の受容・評価にどのような影響をもたらし
たのかについて、一つの結論を導き出すものとする。そして、今後の課題としては本作の研究
の結果と、その方法自体によって見出された疑問と仮説、将来の研究がどのような形式をとる
のかについての構想を立て、簡単に論ずるものとする。
目次
序章 ──日本の外の日本文学____________________________1 第1節 研究概要_________________________________1 第2節 研究方法_________________________________3 第3節 先行研究_________________________________4 第4節 研究構成_________________________________5
第1章 大江以前──戦後日本文学英訳の黎明_____________________6 第0節 序論──1968年のクロス・ライン _____________________6 第1節 クノップ社とハロルド・シュトラウス____________________8 第2節 50年代の黎明期──谷崎、川端、三島の時代________________12
第1項 谷崎潤一郎 ______________________________13 第2項 川端康成 _______________________________15 第3項 三島由紀夫 ______________________________17 第3節 60年代の転換期──安部、そして大江___________________21 第4節 ノーベル文学賞と日本人作家 _______________________22 第5節 一つの終焉──文豪の喪失 ________________________25 第6節 「第一の日本文学」の遺産 ________________________27
第2章 『A Personal Matter』(1968)________________________29 第1節 大江健三郎と『個人的な体験』(1964)___________________29 第2節 翻訳者ジョン・ネイスン _________________________33 第3節 英訳『A Personal Matter』 ________________________36 第1項 〈題名〉の問題 ____________________________36 第2項 英訳とその技法 ____________________________38 第1目 主人公「鳥」 ____________________________39 第2目 夢想から現実へ ___________________________41 第3目 隔絶された鳥 ____________________________43 第4目 火見子との過去、そして現在 _____________________45 第5目 鳥の自己憐憫 ___________________________47 第6目 「嘔吐」する鳥 ___________________________49 第7目 妻の憂慮、夫の欺瞞 _________________________51 第8目 〈変心〉の兆し ___________________________53 第9目 鳥の自己選択 ____________________________55 第3項 結末部分をめぐって __________________________57 第4節 ネイスンの翻訳の意義 __________________________60
第1節 〈現代日本文学〉が現れた時 _______________________62 第2節 英語圏の書評 ______________________________64 第1項 エドワード・G・サイデンスティッカー「A Letter from Japan」
(『The New York Times』1964 年 10 月 16 日号) ____________64 第2項 広告記事(『The New York Times』1968年6月16日号) _________67 第3項 エリオット・フレモント=スミス「Two from Japan ─A Curiosity and a
Discovery」(『The New York Times』1968年6月17日号)________71 第4項 ドナルド・リチー「Oe’s New Novel in Superb Translation. Cream of Postwar
Japanese Fiction.」(『The Japan Times』1968年5月15日号)_______75 第5項 ウェブスター・ショット「Anti-Hero by Japan’s Hot Novelist」
(『LIFE』1968年8月18日号)______________________82 第6節 ジョシュ・グリーンフェルド「Number one writer」
(『The Chicago Tribune』1968年10月25日号) _____________87 第7項 アンソニー・スウェイト「Made in Japan」
(『The Times Literary Supplement』1969年4月24日号)__________91 第8節 ジェフリー・ウルフ「What It Did To People When They Dropped the Bomb」
(『The Tampa Tribute』1968年6月30日号)______________95 第3節 分析・考察_______________________________100
終章_______________________________________107 第1節 結論__________________________________107 第2節 今後の課題_______________________________111
参考文献_____________________________________113
1
序章
──日本の外の日本文学 1. 研究概要本論文は1994年に日本人として史上二人目となるノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の
『個人的な体験』の英訳が英語圏の読者によってどのように受容・評価されたかについて分析 および考察を行なう。その目的は文芸評論研究の観点から、オリジナルのテクストとは異なる 文化・言語圏の読者による批評と感想を読み解くことで、世界文学作家としての Kenzaburō Ôe 誕生の起源、そして人間の感性に向けられた普遍的主題を持った現代世界文学の成した異文化 と異言語の〈越境〉の像を明らかにすることにある。
研究の背景として、デビューから60年を経た大江健三郎の膨大な作品、あるいは作家自身に 関する評論・研究は、国内外を問わず数多くが行なわれてきた。現在、大江作品は数十以上の 言語に翻訳・出版されており、これは大江とその作品を捉える視点が日本と日本語の〈外部〉
にも存在していることの証左であると言えよう。しかし、日本国内の既存の大江研究において
「日本国外の国や言語圏における受容・評価」に焦点を当てた調査や論考は、大江と海外作家 あるいは作品との関連性を論ずる上で、あくまで副次的な要素として扱われるのみであった。
それ故、「何故、大江文学が海外で評価されたのか」という問いに対する答えの多くは、海外 文学に多大な影響を受けていた作者、または既存の日本文学と比べて海外文学的な文体や内容 を指摘するのみであり、それが異文化・異言語と対峙した時にどのように受け止められ、どの ような批評を受けたのか、具体的な事例の言及にまでは至っていないのが現状である。ここで 考えられる問題点というのは、大江に関する研究──大江のみならず、他の日本人作家を扱う 研究においても同様に言えることでもあるが──の多くは、その想定している読者を「日本語 を理解する日本人」と暗に限定してしまっているということにある。しかし、先述の通り国外 にて多くの読者を獲得し、遂にはノーベル文学賞を受賞するに至るまで評価された世界的作家 の作品が、受賞後も「国(ネイション)」の内部のみでの読解という前提に留まり続けること 自体が理に適わないものであり、現代における文学の解釈としても不十分なものである。更に 言えば、こうした〈閉鎖的〉な文学観と言うものは作者の意図にも反するものにもなりうる。
受賞の前年、1993年5月25日に大江はニューヨークのパブリック・ライブラリーにて講演を 行なっているが、その講演名は「回路を閉じた日本人でなく」1というものであった。その中で 大江は「望むと望まないとにかかわらず、日本人はもう日本人のみの閉じた回路を保つことは できなくなっています。それならば、私たちは近代化以来なしとげられることのなかった、本 当に世界に向かって開いた文学をつくり出す意思を積極的にかためねばなりません。日本文学 を多様性で沸きたつものにきたえなおさなければなりません」と語り、言語的・感覚的に広く 世界に開かれた日本文学の在るべき像を提言している。こうした筆者自身に根差した〈外部〉
への意識を批評や研究でも踏襲するならば、それに応答し得る方法が求められるのは自明のこ とであろう。そして、人、物質、文化、思想、これらの国家間での移動・交流が自由かつ高速 化した時代、かつての近代を遥か後方に置き去った〈現代〉にて行なわれる文学とその批評と
1 大江健三郎「回路を閉じた日本人でなく」(『あいまいな日本の私』1995年,岩波書店)
2 う。
現代の世界で流通する文学が、言語・文化的に多様な背景を持った読者によって受容される ことの意義を論じたものとして、比較文学者のデイヴィッド・ダムロッシュの著書『世界文学 とは何か?』にて提示された三つの世界文学の定義が挙げられる2。それは以下の通りである。
一、世界文学とは、諸国民文学を楕円状に屈折させたものである。
二、世界文学とは、翻訳を通して豊かになる作品である。
三、世界文学とは、正典(カノン)のテクスト一式ではなく、一つの読みのモード、すな わち、自分がいまいる場所と時間を越えた世界に、一定の距離を取りつつ対峙すると いう方法である。
この主張において特徴的なのは、世界文学とはその内容の如何で決定されるものではなく、
反対に読者の「受容」によって見出されるものとしていることにある。ダムロッシュはその例 としてジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』を挙げ、その内容が極めて「地域的(ローカ ル)」な主題を取り扱っているにも関わらず、多くの言語に翻訳され、世界文学として今日の 文学に影響を与え続けている事実に言及している。事実として、読者が未知の言語の作品を読 むためには一つの「翻訳」を経る必要があるが、一方で「読む」という行為は端から個々人に 依存する以上、その受容の「型」を一つに規定することは出来ない。故に翻訳された文学作品 とは、各々の国の言語・文化的背景を持つ個人によって読まれ、そこで新たな意味を獲得し、
遂にはその地の作家や文学にも影響を与える。つまり、世界文学とは全てがドストエフスキー あるいはプルーストのような作品である必要はなく、むしろその内容の混然一体とした「多様 性」の状態こそが今日の世界的であるとも言えるのである。こうした「受容」の多様な様態に こそ、ダムロッシュは「世界文学とは何か」を見出したと言えるのである。
そして、ダムロッシュの論を援用するならば、今日の世界の中の「日本文学」もまた、日本 で生まれ日本語を母語とする人々のみによって所有される──「正しく」読まれ、理解され、
評価される──事柄ではないということが言えるだろう。事実として、村上春樹や吉本ばなな の著作が海外にて多くの読者を獲得し、自身もドイツ語による創作を行なう多和田葉子の作品 がドイツ国内にて自国の文学と同等に評価がなされ、日本国内でも人気を誇る桐野夏生、川上 弘美、小川洋子、平野啓一郎といった作家の作品が相次いで翻訳され、諸外国で多くの反響を 呼ぶなど、海外にて日本文学は既に言語や文化の差異を越えた位相にて受容がなされている。
また、近年では「日本語で書かれた文学」という概念も外部へ開放されたものとなっている。
アメリカ国籍で英語を母語としながら、日本語での創作を行なうリービ英雄をはじめとして、
同じく英語話者のアーサー・ビナード、中国語を母語とする楊逸や田原、台湾籍の東山彰良や 温又柔、イラン出身のシリン・ネザマフィといった外国籍の日本語作家も現れ、彼等は独自の 視座から創作を行ない、日本文学に新たな風を吹き込んでいる。無論、彼等の創作の動機とは
2 デイヴィッド・ダムロッシュ「ありあまるほどの世界と時間」(『世界文学とは何か』秋草俊一郎訳,2011 年,国書刊行会,pp.431-464)
3
それぞれの経験に基づいた多様なものであるが、元々は外国語である日本文学に魅力を感じ、
所謂「言語の壁」を越え──あるいは最初からそのようなものはなかったかのように、異言語 での執筆を行なう作家の存在とは、まさしく海外における日本文学の受容の発展の産物である と言えるだろう。もっとも、こうした文学の言わば〈越境〉の状況というのは近現代より多く の翻訳が既に行なわれてきた西洋文学、あるいは二十世紀において多くの移民や亡命者の作家 によって母語以外で書かれた(書かざるを得なかった)文学作品の例にもある通り、世界的に 見れば決して珍しいものではない──逆を言うならば、日本文学がこの現象・状況を知覚する ことが出来る段階にようやく移行したとも言えるだろう。
こうした「変化」に関して、文学者の沼野充義は次のように語っている。「半世紀以上続い た戦後の時間を経て、日本文学は大きく変わった。いや、変わったのは、むしろ、日本文学を 取り巻く環境と日本文学の『境界』のほうだったのかもしれない。(中略)その結果、従来は かなりはっきりしていた日本文学の境界が少しあいまいになってきたように見える。それはま た、世界文学から孤立しているわけでもなければ、世界文学とまったく異質なものでもない、
まさに世界文学の一部として、日本文学を見ていく機運にいやおうなしにつながらざるを得な い」3。沼野が指摘した通り、「境界」が曖昧なものとなり、日本文学が「一つの国民と一つの 言語」のみによって所有されるという前提がもはや通用しなくなった以上、その批評の方法も 更新が求められるだろう。そして、それは〈視座〉を広げ、理解と無理解の先入観に捕らわれ ない多言語の〈読み〉を前提とした批評にあるのではないかと筆者は主張するのである。
以上の理由により、筆者は国際化・ボーダーレス化が謳われて久しい現代における文学研究 の新たな視座の獲得・拡大という意味を込めて、異なる言語圏での批評の研究という形式をと り、日本文学を取り巻く〈外〉の視点についての分析・考察を試みるのである。
2. 研究方法
本研究では、大江健三郎の『個人的な体験』(1964)のジョン・ネイスンによる英訳『A
Personal Matter』(1968)を取り上げた、英語圏の批評家やジャーナリストによって書かれた書
評・感想記事(The New York Times、The Washington Post、The Times、The Japan Times、
その他の英文記事)の読解を調査・分析の基盤とする。いずれの英文も日本国内では翻訳され ておらず、自力での日本語訳が必要となるため、誤訳や読み間違いのないように細心の注意を 払って英訳は行なうものとする。また、少数ながら存在する大江の海外受容に関する先行研究 の調査・分析も、並行して行なう。なお、研究にあたって『個人的な体験』は原文および英訳 の双方で熟読を行ない、国内におけるそれらの批評も含め、十分な理解を前提とする。
加えて、本研究では英語圏における大江と『個人的な体験』の特異性とは何であったのかを 具体的に証明するために、書評研究に先行する形で「戦後の日本文学の英訳出版」について、
そして英訳『A Personal Matter』の翻訳の技法についての紹介と分析・考察も行なう
3 「世界の中の日本文学──越境、それとも境界の変化?」(沼野充義『W文学の世紀へ 境界を越える日本語 文学』,2001年,五柳書院,pp.13-40)
4
本研究の主題である「大江健三郎の作品の海外での受容」について焦点を当てた論考は、現状 行なわれていない。より厳密に言えば、既存の大江研究においては「海外でも高く評価されてい る」という文字通りの事実が挙げられるのみで、肝心の評価の内容について詳細に調査・分析を 行なったものは殆ど過去には見られないという意味である。大江の海外評価について取り上げた 数少ない文献として、1968年に『個人的な体験』の英訳が出版された際、英文学者で文芸評論家 の武田勝彦が「國文學: 解釈と教材の研究」1970年5月号で発表した論考「西欧の日本文学研究」
4が挙げられる。武田は英訳出版直後の批評を扱った最初の日本人評論家であり、『A Personal
Matter』のネイスンによる序文と、「土旺評論」上のロバート・ハス、トミ・ハス夫妻による批評
と、「ニューヨークタイムズブックレビュー」上のジェイムズ・トバックによる批評を翻訳し、作 者や作品に対する各々の主張を紹介している。武田は『個人的な体験』に対しては「この作品の 基本的状況から見れば自由と責任、青春と成熟、孤独と集団のテーマなどが具体的に表明されて しかるべきであったが、実際には表明されていない。文体も大胆な隠喩、平凡さ、婉曲などの表 現で汚されているため、如上の目的はなお一層妨げられている」と否定的な立場であったが、自 国の文学作品をめぐる〈外〉の視点を新たな発見をもたらすものとして真摯に向き合う方法は、
本研究にも通じる貴重な先行研究であったと言えるだろう。
また、他の日本人作家についての「海外での受容」に関する研究は、既に行なわれているもの もある。例えば、日本人として初のノーベル文学賞を受賞した川端康成や、その川端を上回る海 外での知名度を誇る三島由紀夫、デビュー当初より翻訳作品が多数出版され、今日も世界的に注 目を集めている村上春樹といった著名な作家は「海外にてどのように受容・評価されてきたのか」
という主題での論考が多く見られる。特に村上春樹に関しては、芳賀理彦による著書『アメリカ は日本文化をどう読んでいるか: 村上春樹、吉本ばなな、宮崎駿、押井守』5の「日本文学の新し いイメージ──アメリカにおける村上春樹の受容」の中で、作品の英訳と英語圏での批評の分析 を交えながら、異言語・異文化に晒された現代日本文学が如何にして評価を獲得するに至ったの かを詳細に論じている。その中で芳賀は80年代において既に日本文学の正典(カノン)となった 谷崎、川端、三島を挙げ、それらが日本の伝統文化に依拠した作風であるのに対して、ポップ・
カルチャー的な村上春樹が新しい日本文学として注目を集めたと論じている。一方、芳賀の研究 はその「カノン」である三人の作家の活躍し1950 年代から70年代初頭までと、80 年代の村上 春樹の出現に注目しており、彼等の間に英訳出版された日本文学──大江や安部公房、井伏鱒二 など──に対する言及が殆ど見られないため、そこは本研究によって補足することになると考え られる。本研究では芳賀の研究における歴史的文脈から遡り文学の〈受容・評価〉を考察すると いうスタイルが取り入れられると言えるだろう。
上記した二つの論考は間接的に本研究に関わっているものであるが、他の研究においても同様 に利用出来るものが存在すれば、積極的に論を展開する上で用いられるだろう。
4 武田勝彦「西欧の日本文学研究」(國文學 : 解釈と教材の研究」1970年5月号,學燈社)
5 芳賀理彦「アメリカは日本文化をどう読んでいるか : 村上春樹、吉本ばなな、宮崎駿、押井守」(2019,春風 社)
5 4. 研究構成
第1章では大江健三郎作品が英語圏に現れる以前、つまり戦後日本文学英訳の黎明期について 紹介する。これは大江がこれまでの日本文学とは異なった作家として英語圏で受容・評価される にあたって、それに至るまでの〈既存〉とは何であったかを明らかにすることによって、逆説的 に大江の〈新規〉性とは如何にして見出されたかを明らかにするものである。戦後のアメリカに おける日本文学の英訳出版の先駆けとなり、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫といった作家を 英語圏に紹介した出版社クノップ社と、その計画を担当した編集長ハロルド・シュトラウス。彼 等による50年代の黎明期、そこに現代作家である安部公房が加わった60年代の転換期、やがて 世界の中でその存在を認知されるようになった日本文学に対するノーベル文学賞授与をめぐる 諸々の出来事と 1968 年の川端の日本人史上初となる受賞、そして彼等の死による一つの終焉。
第1章では「世界の中の日本文学」が成立するまでの約20年間を作者、翻訳者、編集者に焦点を 当てて論じる。
第2章では大江の『個人的な体験』の翻訳者ジョン・ネイスンによる英訳『A Personal Matter』 について紹介し、その分析・考察を行なう。1964年、日本で出版された『個人的な体験』は作者 である大江の私的な体験をモチーフとし、当然、「障害をもった赤子の父親となった現代青年の懊 悩と救済」という特異な主題とその意外な結末は当時の文壇からの激しい賛否を巻き起こした。
一方、当時日本に留学していたネイスンはこれを原文で読み、「現代世界文学に対する大きな貢献 となる」と確信、その英訳に取り組むことになる。共に戦後より活動を開始し、同時代の東京に 住み、同じ文学的理念を共有した〈同志〉の関係を構築した作者と翻訳者の協力よって、1968年
に英訳『A Personal Matter』は出版に至った。その英訳は大胆な〈意訳〉や〈スラング〉を用い
ることによって、原文のニュアンスを保ち、時に原文をより洗練し、その表現性を高めることを 可能にするものであった。主に第2章ではそれが具体的にどのようなものであったかを例示し、
解説を行なう。
第3章では『A Personal Matter』が英語圏での出版直後にどのような受容・評価を受けたかに
ついて紹介し、分析・考察を行なう。かくして出版に至った『A Personal Matter』は、その直後 から「ニューヨーク・タイムズ」をはじめとした有力紙で批評を受けることになる。その内容は 時に「アメリカ文学に通じるもの」として受容され、時に「戦後日本文学の精華」として評され、
「『個人的な体験』は完璧な現代小説としてなしうる最高の水準にほぼ達している」という既存の 日本文学には用いられない言葉での賛辞であった。こうした様々な批評を踏まえ、英語圏の読者 にとって『A Personal Matter』とは何であったのか、彼等の批評と日本の批評とは何が異なって いたのか、作品の〈共感〉と〈普遍性〉とはどのようなものであったのかについて分析・考察を 行なう。
終章では結論として英語圏における大江とネイスンと『A Personal Matter』の意義について、
またそれが現代日本文学の〈受容・評価〉にどのような影響をもたらしたのかについての総括を 行なう。そして、今後の課題としては本作の研究の結果とその方法自体によって見出された疑問 と仮説について、将来の研究がどのような形式をとるのかについての構想を立て、簡単に論ずる ものとする。
6
第1章 大江以前──戦後日本文学英訳の黎明
0. 序論 ──1968年のクロス・ライン
序章でも触れた通り、今日の日本文学は国内のみならず国外でも多くの読者を獲得しており、
所謂「世界で読まれる日本文学」という言説とは、研究者や熱心な読者でなくとも多くの日本人 が漠然と理解し、共有している事実と言える。しかし、この「世界で読まれる日本文学」という もはや〈紋切型〉となった言説において決定的に欠如しているのは、その内部で起こった過程に 対する詳細な言及である。ある言語で書かれた文学が、異言語に翻訳され、異国にて出版され、
そこで読者を獲得する。未だ顧みられなかったその過程に関する分析・考察とは、原文の言語圏 だけでは見出されなかった新たな観点をもたらすものだと考えられる。
1994年、大江はノーベル文学賞受賞記念講演「世界文学は日本文学たりうるか?」(後に書籍 化1)の中で以下のように語っている。
私は、三つのラインに日本文学を整理して、日本文学がどのように外国文学と、あるいは世 界文学と関係しているかということを論じたのです。
第一の日本文学は、世界から孤立している。東西ヨーロッパからも孤立しているし、アメリ カかもラテン・アメリカからも切り離されている。(中略)それを代表するのは、谷崎潤一郎で あり、川端康成であり、三島由紀夫でありました。そして、このラインは川端さんがノーベル 賞を受けたことで、すでに世界の文学として認められていた、といってよろしいのではないで しょうか?
第二のラインは、世界の文学からまなんだ者たちの文学です。(中略)世界文学からまなんで、
日本文学をつくって、できることならば世界文学に向かってフィードバックしたい。そのよう に願っている作家たちのグループであります。(中略)このラインには、大岡昇平がいました。
(中略)そして安部公房がいました。そしてこのラインの後尾に私の文学があると思います。
第三はどういうラインかと申しますと、村上春樹、吉本ばななラインと私はそれを呼んでい るのです。(中略)これは、世界全体のサブカルチュアがひとつになった時代の、まことにティ ピカルな作家たちだと私は思います。
ここで大江の論じた「三つのライン」とは、国外における日本文学の〈受容・評価〉の差異を 考える上でも有用な補助線として成立している。「第一の日本文学」である谷崎、川端、三島の作 品はまだ「世界から孤立」したものであり、その「孤立性」を利用しながら西洋語圏に浸透し、
そして「1968年」の川端のノーベル文学賞受賞によって世界の中の「文学」として認められるに 至った。「第二の日本文学」である大岡や安部、そして大江は自国の文学よりも世界の文学に学び、
それを自作に反映させ、「第一の日本文学」以後の世界と向き合い、とりわけ安部と大江は彼等と 同じ「現代世界文学」として評価された──それも大江の日本人二人目となるノーベル文学賞の
1 大江健三郎「世界文学は日本文学たりうるか?」(『あいまいな日本の私』,岩波書店,1994年,pp.208-209)
7
受賞によって結実したと言える。そして、2019年時点の日本文学とは「第三」のラインに位置し、
村上や吉本、更には彼等以降の作家は海外でも対等なサブカルチャー的な消費物として現代世界 の中で違和感なく読まれている。このように、大江の語った「ライン」とは、「海外における日本 文学受容」の時代区分をかくも明確に形成していると言えるだろう。
そして、本章では英語圏において、この「第一」と「第二」のラインが交差した「1968年」に 至るまでを論じてみたい。「1968年」、これは日本の近代文学と戦後現代文学が各々の成し遂げた
〈精華〉という点で交差した重要な年である。前者の近代文学の〈精華〉とは、1968年10月の 川端康成の日本人史上初となるノーベル文学賞受賞である。川端は明治以降の近代文学の伝統を 受け継ぎながらも、昭和期には〈新感覚派〉として独自の表現を模索し、『雪国』や『千羽鶴』、
『山の音』といった傑作を創出、そして「1968年」にその才覚を遂に世界で認められるに至った。
一方、後者の戦後現代文学の〈精華〉とは、1968年5月の大江健三郎の『個人的な体験』の英訳
『A Personal Matter』の出版である。所謂「戦後世代」の大江は学生時代、既存の日本文学以上
にアメリカ文学や戦後フランス文学を耽読し、そこからインスピレーションを受け、戦後という 不安定な時代を生きる同時代の青年の苦悩を描いた実存主義的な作品を相次いで発表、そして
「1968年」にその特異な才覚が国外に向けて発信されるに至ったのである。
この二つの出来事──川端の受賞による近代文学の伝統の〈結実〉と大江の英訳出版による戦 後現代文学の〈萌芽〉──が交差したという意味で、「1968年」とは重要な年であったと言える。
そして、この二つの出来事は「世界の中の日本文学」の存在を、同じ日本人作家の全く異なった 領域の作品によって示すものでもあったと言えるだろう。
無論、二つの出来事が重なったこと自体は全くの偶然の産物である。しかし、後述する谷崎、
川端、三島による〈伝統性〉に裏打ちされた作品が英訳出版され、日本文学に対するおおよその イメージが確立されたことと、こうした伝統性とは異なった位相から生まれた現代文学が翻訳・
紹介され、〈既存〉のそれとは異なった価値観を持ったものとして評価されたことは、全て英語圏 の読者による〈受容〉という同一線上で起こったことであり、彼等にとっては時間的な連続性の 上で起こった事実である。言い換えれば、〈既存〉の日本文学という概念が英語圏で打ち立てられ ない限り、〈新しい〉現代日本文学の〈受容〉は成立し得なかったということである。これは後の 歴史──『A Personal Matter』は英語圏のみならず世界各国で高く評価され、70年代以降大江は 世界的作家として活躍し、1993 年に日本人として史上二人目となるノーベル文学賞を獲得する
──を俯瞰して言えることであるが、日本文学の伝統的な作家と新しい作家、二つの偉業の達成 と始まりが交差したという意味で、やはり「1968年」とは重要な年だと言えるのである。
では、その「1968 年」に至るまで、1955 年の戦後の日本文学の英訳の開始から具体的に何が 行なわれてきたのだろうか。「以前」と「以後」の差異を明確にすることは、前者で成されたもの の意義を示し、後者の作家である大江の特異性を浮き彫りにすることにつながると考えられる。
故に本章では「戦後日本文学英訳の黎明」という観点から、そこで起こった事柄の詳細について 論じていく。ここで一つ確かに言えるのは、1955年から1975年に至るまでの約20年間もまた、
作家、翻訳者、編集者の各々の目的ないしは野心の交差によって形作られた時代であったという ことである。
8 1. クノップ社とハロルド・シュトラウス
アルフレッド・A・クノップ社(以下クノップ社)は1915年にアルフレッド・A・クノップと その妻ブランシェ・クノップによってアメリカのニューヨークに設立された出版社である。設立 当初、クノップ社はヨーロッパ語圏の翻訳文学の出版に注力しており、フランスのモーパッサン やロシアのゴーゴリなどの大作家から、まだ英訳されていない無名の作家の英訳出版を手掛けて いた。また、その出版に際してクノップ社はその装丁や広告にも力を入れ、商業出版として読者 の注目を集めることにも意識を向けていた。こうした独自の精力的な取り組みからクノップ社は 伝統あるアメリカの出版業界の中で急成長を遂げることに成功した。更に、クノップ夫妻は外部 から優秀な編集者をスカウトし、社内で彼等の個人的な関心に基づいた「出版プロジェクト」を 許可した──これが後の「日本文学英訳出版プログラム」にも反映されることになる。この自由 な方針により、クノップ社は文学のみならず音楽や絵画、歴史書といった多種多様なジャンルを 取り扱う出版社として、読者からの認識と評価を獲得することにも成功した。そして、こうした 計算されたマーケティングの手法と幅広いジャンルの出版によって、クノップ社は商業的な成功 を収め、戦前のアメリカの文化の中心たる出版社としての地位を築いたのであった。2
そして、戦後の日本文学の英訳出版を取り仕切り、英語圏のみならず国外全体での受容の発展 に最も貢献した編集者がクノップ社のハロルド・シュトラウス(1907-1975)である。1971年に シュトラウスは「出版編集人として日本文学をひろく海外に紹介した功績」3から第19回菊池寛 賞を受賞している。だが、シュトラウスに関する日本語の文献資料は少なく、翻訳プログラムを 通じて彼と交流のあったエドワード・G・サイデンスティッカーやドナルド・キーンなどの翻訳 者の自叙伝や英文学者で文芸評論家の武田勝彦による論考「海外における近代日本文学研究」の 中で、シュトラウスの名と活動は断片的に記録されている。また、国外ではLarry Walker の論文
「UNBINDING THE JAPANESE NOVEL IN ENGLISH TRANSLATION: The Alfred A. Knopf
Program, 1955-1977」(2015)の中で、クノップ社とシュトラウスの活動についての詳細な調査・
分析がなされている。本項では上記したそれらの文献に基づいて、クノップ社とシュトラウスの 戦後の日本文学英訳出版の事始めについて紹介する。
ハロルド・シュトラウスは大学を卒業後、幾つかの出版社での勤務を経て、1939年にクノップ に入社し、そこで出版部長を務めた。その途中、彼は徴兵義務によって一時職場を離れ、編集者 として培った語学の知識を活用し、情報士官としてヨーロッパ戦線での暗号解読を行なうことに なった。1945 年 5 月のドイツの降伏後、次は太平洋戦線に異動することになったシュトラウス は、その準備として日本語学校に在籍していた。だが、在籍中に終戦を迎えたことで彼は戦後の 日本に送られ、そこで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に所属して日本で流通する出版物の 検閲の担当を務めることになった。この時の経験こそが、ハロルド・シュトラウスという編集者
2 「A Century of Alfred A. Knopf」(PWxyz, LLC.,https://www.publishersweekly.com/pw/by-topic/industry- news/publisher-news/article/66661-a-century-of-knopf.html,最終閲覧日2019-11-30)
3 「菊池賞受賞者一覧(10~19回)」(公益財団法人日本文学振興会,
http://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/kikuchi/list.html,最終閲覧日2019-11-30)
9
が、後にその人生の大半を懸けて成し遂げる仕事を決定することになったのである。
この検閲業務の際に彼は「日本文学」の存在を知り、本国のクノップ社の同僚に宛てた手紙で
「多くの日本の作家や出版社を知っただけでなく、当時の日本にはかなり重要な現代文学が存在 していたことを知ることになった」4と語っている。また、彼は約二年に及ぶ滞在の中で敗戦直後 の日本の姿を観察し、その実情に精通した知識人として帰国後頭角を現すことになった。そして、
その時の経験が後の英訳出版の選考基準にも大きな影響を与えることになった。帰国後、彼は 1946年11月24日発行の「ニューヨーク・タイムズ」に“Japan─the Tradition and the Reality” という題のエッセイを寄稿し、同年出版され話題となったルース・ベネディクトの『菊と刀』の 内容──彼女は実際に日本を訪れず、文献や日系移民の調査で日本人について書いた──を訂正 するように自身が見てきた現実の戦後日本の様相を語っている。しかし、その時の彼の目的は単 にアメリカで戦後日本の知識を披露することではなかったことは言うまでもない。クノップ社の 編集職に復帰したシュトラウスはすぐさま日本文学の英訳出版の事業に乗り出し、戦後のアメリ カ人読者の関心を集めるに相応しい日本人作家とその作品の調査を開始することになった。こう して、約20年もの期間に及ぶ”The Knopf Program of Japanese literature in English translation“、
即ち「クノップ社の日本文学英訳プログラム」は幕を開けたのであった。
初めにシュトラウスはニューヨークから日本滞在中に知己を得た出版社員と連絡を取り、現在 日本でどの作品が流行しているかの調査を始めた。シュトラウスが英訳出版を望んだのは「存命」
の作家による「日本的な小説」(詩や俳句、短歌、エッセイは除く)であり5、この時点で漱石や 芥川などといった日本国内で広く知られている作家の作品、あるいは『源氏物語』や『奥の細道』
といった古典作品は候補から外れていた。最初期の調査の記録によると、太宰治の『斜陽』(1947)、 大岡昇平の『俘虜記』(1949)、谷崎潤一郎の『細雪』(1949)が英訳の候補に挙げられたことが 明らかとなっている──いずれも戦後の復興期の中で娯楽に飢えていた日本人がこぞって手に したベストセラーであり、各々の作家の代表作とされるものである。ところが、シュトラウスは
『斜陽』は「この静的で気難しい日本の小説がアメリカで成功するとは思わない」とし、『俘虜記』
は作者である大岡の心理的な描写が多く見られることから「戦争小説だと一般化が出来ず、読者 からの理解も得られないだろう」とし、『細雪』はその分量と作中で用いられる関西方言の翻訳の 困難から、いずれも出版が見送っている6(これらの作品は、『細雪』を除いて、後に他の出版社 から翻訳が販売されることになった)。シュトラウスは1929年の二葉亭四迷の『其面影』の英訳
『An Adopted Husband』以来となる自社からの日本文学の英訳出版に対し、意欲的でありながら
も、同時に慎重な姿勢をとっていた。日本についてよく知らない者、先の戦争によって今も反感 を覚えている者、文化人である以前に出版人であるシュトラウスはこうした自国の様々な受け手 を想定し、その上で多くの読者を獲得し得る英訳出版を綿密に計画していたのである。
4 Larry Walker「UNBINDING THE JAPANESE NOVEL IN ENGLISH TRANSLATION: The Alfred A. Knopf Program, 1955-1977」(HELDA,Helsinki, University of Helsinki, Faculty of Arts, Department of Modern Languages,2015年,p.38)
5 エドワード・G・サイデンスティッカー『私のニッポン日記』(安西徹雄訳,1982年,講談社現代新書,
pp.63-64)
6 同、注4(pp.51-52)
10
また、シュトラウスは作品を選ぶのと同様にその翻訳者を探す──彼自身は“A Hunt for
Translators”と呼んでいた7──のにも注力していた。その方法として、彼は当時の“The New
Yorker”、“The Atlantic”、“Mademoiselle”などといった文芸を扱う雑誌に自身の日本での体験や 日本文学についてのエッセイを寄稿し、その際に進行中の「日本文学英訳プログラム」に触れ、
それを外部に広めるという取り組みを行なっていた。1954年に雑誌“Publishers Weekly”上に掲載 された書店や卸売業者向けの記事の中で、彼は英語圏の読者に日本文学を届ける上で生じる様々 な障害(言語、文体、文化、方言)について取り上げ、「その挑戦に相応しい翻訳者を四年間探し 求めてきた」8と語っている。事実として、彼は40年代後半から50年代初頭にかけて多くの翻訳 者と接触を図っている。ブリュースター・ホロウィッツ、ハワード・ヒベット、エドワード・G・ サイデンスティッカー、ドナルド・キーン、アイヴァン・モリスなどの人物──その多くは戦中 に軍属の通訳官を務め、戦後になってからは日本文化研究に取り組んでいた──とシュトラウス は手紙などで接触しており、英訳の依頼を取りつけることに成功している。また、彼は出版部長 としてクノップの最大の特徴でもある出版物の「プロモーション」にも気を配っていた。そこで シュトラウスは当時ハーバード燕京研究所の所長を務めており、後の駐日大使となる東洋研究者 エドウィン・O・ライシャワー、幼少期より長らく中国に滞在し、『大地』などの作品で知られ、
1938年にはノーベル文学賞を受賞した作家のパール・バック、戦中は太平洋戦線に従軍し、その 時の経験をモチーフとした小説「南太平洋物語」でピューリッツァー賞フィクション部門を受賞 した作家のジェームズ・ミッチェナーなどの著名人とも交流し、彼等には英訳出版に際して表紙 の推薦文や文芸誌でのレビューを執筆して貰うといった協力を得ることにも成功した。こうして、
シュトラウスは自身の日本文学英訳プログラムにあたって、多くの翻訳者と賛同者、協力者らに よる独自の強固なネットワークを形成し、商業出版に際した地盤を固めていった。これにより、
クノップ社はその後の約20年の中でのコンスタントな英訳出版を可能にしたのである。
こうした 10 年近い年月に及ぶ模索と準備の末、クノップ社による最初の日本文学の英訳出版 は大佛次郎の『帰郷』(1949)のホロウィッツによる英訳『Homecoming』に決定した。この作品 が選ばれた最大の要因となったのは、シュトラウス自身が日本滞在中の 1946 年に作者の大佛と 対面し、知己を得たことにあった。帰国後のエッセイの中で、シュトラウスは大佛の家の「能面 を飾り付けた洋風の居間」に感銘を覚え、「伝統の継承とコスモポリタニズムが同居している」9 と指摘しており、作者の大佛のこうした性格が作品にも反映されていると考えた。また、作中の 戦後日本の光景が彼の見た日本のそれと重なるものであったことも、選択の要因の一つであった と考えられる。『帰郷』の内容は「海軍兵学校出身のエリート将校・守屋恭吾は、公金に手をつけ 引責辞職後、祖国には戻るまいと賭博の眼力を養いつつ、欧州各地を放浪していた。やがて、あ る事情から“帰郷"することになった守屋は、大きく変貌した戦後の日本に落胆と義憤を感じる」
10というものであり、日本では1950年に日本芸術院賞を受賞、同年映画化されるなど十分な評価
7 同、注4(p.58)
8 同、注7
9 武田勝彦「〈海外における日本近代文学研究・4〉大佛次郎『帰郷』について」(『國文学 解釈と鑑賞』1966 年12月号,学灯社,pp.130-135)
10「帰郷」(小学館,https://www.shogakukan.co.jp/books/09352349,最終閲覧日2019-11-25)
11
と知名度を誇る作品であった。何よりも、当時「存命」の作家である大佛によって「現代」日本 の荒廃しつつも、海外読者にとっては東洋的でエキゾチックな魅力が描かれた作品であったこと は、シュトラウスの要望にも適ったものであったと言える。そして、シュトラウスは『帰郷』を
「外国には理解しがたい言葉で、読者を無常の世界に引き込むことがある」11と評し、それが英語 圏の読者にも伝わることを願っていたのであった。
1954年10月に雑誌“New World Writing”上に抄録を掲載した後、『Homecoming』は1955年 1月に出版された。これは英訳上の幾つかの問題(「寺」(temple)と「神社」(shrine)の名前の 混用。ただし後に修正された12)を抱えていたものの、シュトラウスが数年に渡って宣伝してきた
「プログラム」の開始に読者の注目が集まり、ハードカバー版は最終的に12,000部の売り上げを 記録するなど、自国では無名の作家による翻訳作品としては異例の成功を収めた。評価の面では、
先述のライシャワーは「『帰郷』は現代日本の代表作家による主要な戦後文学作品の一つである」
13と評し、ジェームズ・ミッチェナーは“A novel which conveys the exactly the many curious states of the Japanese mind which no occidental writer could hope to catch.”「西洋の作家には捉えられ ない、日本人の心の不思議な状態を正確に伝えた小説である」14と評価した。こうして英訳
『Homecoming』は様々な書評で日本の「戦後文学」の嚆矢として評価され、西洋とは異なった
その〈特異〉な存在を初めて英語圏に伝える役目を担ったのであった。
これら良好な反応を受けて、シュトラウスは次なる大佛作品の英訳に前向きであった。しかし、
『Homecoming』を発表した直後、翻訳者のホロウィッツが急死したことで、期待していた翻訳
者の死をシュトラウスは惜しむことになった。また、他の翻訳者が大佛の英訳には関心を示さな かったことからも、シュトラウスの出版計画は若干の修正を余儀なくされた(なお、大佛の英訳 は1960年の『旅路』(1953)のアイヴァン・モリスによる英訳『The Journey』まで見送られる ことになった)。だが、彼は『Homecoming』の英訳とほぼ同時期に、谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』
の英訳をサイデンスティッカーに依頼しており、クノップ社による英訳出版は引き続き進行する ことになった。こうしてクノップ社と編集部長シュトラウスによる翻訳文学市場の獲得、並びに 日本文学の魅力の伝達を目的とした「プログラム」は、入念な計画に基づいて展開していくこと になったのでる。
11 同、注9
12 同、注4(p.62)
13 武田勝彦「〈海外における日本戦後の文学の評価〉」(『国文学 解釈と教材の研究』,学灯社,pp.104-108)
14 同、注9
12
2. 50年代の黎明期──谷崎、川端、三島の時代
翻訳者が急死した大佛に代わり、クノップ社からの英訳出版が行なわれたのは、日本でも高く 評価され、抜群の知名度を誇る谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫の三人の作家であった。
比較文学研究者の芳賀理彦は著書『アメリカは日本文化をどう読んでいるか 村上春樹、吉本 ばなな、宮崎駿、押井守』(2018)で次のように述べている。「1950年代、アメリカの読者は日本 文学や文化に対してある種のエキゾチックなイメージを持っていた。いわゆる『big three』と呼 ばれる、川端康成、三島由紀夫、谷崎潤一郎らのような戦前・戦後の作家を規範として日本文学 の正典(カノン)を作り上げていた」、「そしてこのカノンによって『細やか(delicate)』、『繊細
(subtle)』、『エキゾチック(exotic)』といった、ステレオタイプな日本文学や文化のイメージが できあがり、それは逆に日本人が自分たちの文学や文化について考える際にも、少なからず影響 を与えるほどに強固なものとなった」15。ここで芳賀が指摘した通り、今日の諸外国語圏において 日本文学の「正典(カノン)」とされている作品とは、谷崎、川端、そして三島の三人による作品 だと言って相違ないだろう。事実として、クノップ社の日本文学英訳プログラムの全体を見ても、
とりわけ精力的に出版がなされたのが“big three”、即ち「御三家」たる彼等の作品である。また、
クノップ社からの出版を先駆けに、他のヨーロッパ語圏での翻訳出版が相次いでなされていった という事実を踏まえるに、彼等は海外における日本文学そのものに対する印象の形成に関わった と言っても過言ではない。上記の著書で芳賀は1987年に村上春樹の『風の歌を聴け』の英訳『Hear
the Wind Sing』がアメリカで初めて出版された際に彼が〈特異〉な日本人作家として受容された
要因として、これまでの〈正統〉な作家たる谷崎、川端、三島の強固なイメージとの対照による ものと論じている。ここで芳賀の論に補足するならば、村上が英訳出版された80年代以前より、
60年代頃より英語圏で作品が紹介され始めた安部公房、そして大江健三郎もまた〈特異〉な日本 人作家と評されていたという事実を顧みるに、谷崎、川端、三島らが十年程の期間で急速に日本 文学のイメージを構築したかを物語っているとも言える。つまり、1950年代とは日本文学の英訳 出版の黎明であり、同時に「谷崎、川端、三島の時代」でもあったということである。
当然、英語圏における彼等の受容・評価に際して、クノップ社とシュトラウスの「プログラム」
は大きく影響を与えている。シュトラウスが考えた作家と翻訳者の割り当て、出版のタイミング、
宣伝の方法などは文学作品の地力だけでは補い切れない──戦後日本とアメリカとの政治・文化 的な力関係の不均衡の上では補い得ない──要素を〈補完〉するのものであり、原文の持つ魅力 を最大限伝達するために不可欠の努力であった。それが時に〈エキゾチシズム〉や〈オリエンタ リズム〉の鋳型に嵌り、それを補強することになったのもまた事実である。しかし、この時代の 作者、翻訳者、編集者の三者三様の努力は、十数年後の日本人史上初となるノーベル文学賞受賞 にも関係するものとなる。本節では、1950年代の谷崎、川端、三島の三人の作家の作品が如何に して英訳と関係し、英語圏で評価を受け、黎明期の日本文学の英訳の主流足り得たのかについて 解説を行なう。
15 「第1章 日本文学の新しいイメージ」(芳賀理彦『アメリカは日本文化をどう読んでいるか 村上 春樹、吉本ばなな、宮崎駿、押井守』,春風社,2018年,p.26)
13 2-1. 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎(1886-1965)は戦前から戦後にかけて活躍した、日本近代文学を代表する作家の 一人である。デビュー初期の『痴人の愛』に代表される耽美主義的な作品、中期の『春琴抄』や
『陰翳礼讃』といった伝統美に傾倒した作品、後期の『細雪』といった作者の美的感覚の集大成 とも言える作品で有名であり、その作風の変遷も含めて多くの読者から愛された作家というのが 日本における谷崎への認識である。では、文化も言語も異なる英語圏において、谷崎はどのよう に受容・評価されたのだろうか。 ここではそれに焦点を当てたい。
谷崎作品は戦前の1917年に『刺青』(1910)が日本人の手による英訳が東京で出版され、また 1924 年には日本文学研究者のセルゲイ・エリセーエフによって同作のフランス語訳が発表され
──それは後に学生時代のキーンが読むことになった──ているが、本格的に英訳が行なわれる ようになったのは戦後になってからのことである。先述の通り、谷崎は大佛以前から既に『細雪』
が英訳出版の候補に挙がっていたが、その最大の特徴とも言える「関西方言」を理解出来る翻訳 者が見つからないなどの技術的な問題により、英訳はしばらく見送られていた。こうした事情に より、最初に谷崎作品が英訳出版されたのは1955年の『蓼喰う虫』(1929)の英訳『Some Prefer
Nettles』16となった。その内容は「セックスレスが原因で不和に陥った一組の夫婦。夫は勝手気
儘に娼婦を漁り、片や妻は夫公認の間男の元へと足繁く通う日々を送る。関係はもはや破綻して いるのに、子供のことを考えると離婚に踏み切れない。夫婦を夫婦たらしめるものは一体何か。
著者の私生活を反映した問題作」17といったものである。その翻訳者に選ばれたのは当時日本に 滞在し、東京大学にて中世古典研究を行なっていたサイデンスティッカーであり、彼は『蓼喰う 虫』が英訳出版に選ばれた理由を「性格創造がしっかりしていて、(あまりにも異質で、あまりに もエキゾチックすぎるものは避けたほうがよいという)条件にあいそうだった」18からと回想し ている。また、サイデンスティッカーはその出版に関しては「さいわい書評もよく、売れ行きも まずまずだった。もちろん、とてもベストセラーというわけにはゆかない」と評している。事実、
当時のハードカバー版の売り上げは約 5000 部に留まったが、一般の読者や批評家、研究者から の注目を集めることには成功しており、谷崎の英訳出版は継続されることになった。
そして、二年の翻訳期間を経て1957年に出版されたのが『細雪』の英訳『The Makioka Sisters』 であった。その内容は「日中事変が起こり政情は不安定になり始めた日本を背景に、大阪船場の
『上方文化』の伝統の中で生活を営む四姉妹の日々」を描いたものである。その舞台は『帰郷』
のような戦後ではなく戦前のものであるが、政治や戦争の喧騒から距離を置いた四姉妹を優美に 描いた作品──こうした安穏とした作風が戦中に発禁を受けた要因となったのだが──であり、
「日本的な」要素を読者に印象付けるというシュトラウスの出版戦略にも適ったものであった。
翻訳者は『蓼喰う虫』に引き続きサイデンスティッカー──この時には既に彼はシュトラウスの
16 当時サイデンスティッカーが読んだ和英辞書の「蓼食う虫も好き好き」の訳語に“some prefer nettles”とあっ たため、「タデ」よりも西洋でも広く知られる“nettle”「イラクサ」を用いた題に意訳した。(参考文献:エドワ ード・G・サイデンスティッカー『流れゆく日々』安西徹雄訳,時事通信出版,2004年.P.196)
17 「蓼喰う虫」(新潮社,https://www.shinchosha.co.jp/book/100507/,最終閲覧日2019-12-2)
18 同、注5(p.66)
14
「プログラム」の主要な相談相手となっていた──であり、その英訳は問題となった関西方言の 再現は困難であったが、比較的長めの原文を省略することなく英語に移植することに成功したも のとなった。だが、こうした長い準備や努力にも関わらず、出版直後の評価や売り上げは芳しい ものではなかったとサイデンスティッカーは記録している。雑誌「ニューヨーカー」であまりに も「見当はずれ」な批評が出た際には抗議すべきではないかとサイデンスティッカーは主張する こともあったが、シュトラウスは「『ニューヨーカー』に書評が出たこと自体、いい宣伝になる」
19とし、その状況を静観していた。これは谷崎以外の作家の場合も同様であったが、シュトラウス は出版直後の売り上げの数値よりも、作品が文芸誌の批評等で大きく取り上げられることに関心 を置いていたようである──批評家や研究者からの知名度の有無がノーベル文学賞の選考にも 少なからず影響することを理解していたと考えられる。この時にシュトラウスが予見した通りか、
『蓼喰う虫』や『細雪』の英訳は後に谷崎の名がアメリカで有名になり始めてから、改めて注目 されることになる。そして、サイデンスティッカーによる英訳版はクノップ社の日本文学英訳の 中でも長らく着実な売り上げを記録することになった20。
谷崎作品の英語圏での認知は、1960 年に『鍵』のハワード・ヒベットによる英訳『The Key』 が出版されたことで遂に転機が訪れる。「老夫婦の閨房日記を交互に示す手法で性の深奥を描い た」21作品であり、その性的な内容が日本でも物議を醸した『鍵』であるが、英語圏でもその売り 上げと批評はかつてない程の盛り上がりを見せた。ハードカバー版は1962年までに15,000部を 売り上げ、出版の 2 年後にはペーパーバック版が発売される22など、これには多くの読者の注目 が集まっていたことが伺える。また、批評においては文芸批評家のジョージ・シュタイナーは『鍵』
の執筆の要因を「政治上の混乱、社会的動揺が旧来の道徳や審美眼を変動させた」とし、こうし た出来事の結果としてノーマン・メイラーの『裸者と死者』を、「これまでにわいせつな、好まし くないといわれたテーマが世人の間で評判になり、批評家が取り上げるようになった」作品の例 としてウラジーミル・ナビコフの『ロリータ』を挙げ、これらと同様の歴史的な偶然性の上に『鍵』
が存在すると分析している23。この有力な批評家によるコメントを皮切りに、本格的に谷崎への 注目が集まると、クノップ社は彼の長編や短編集を連続して翻訳出版することで、その読者が途 切れないよう努めた。こうした取り組みが功を奏し、谷崎作品は他のヨーロッパ言語にも相次い で翻訳(その中にはサイデンスティッカーによる英訳版からの重訳もある)がなされ、谷崎は日 本を代表する作家として国際的な評価を獲得するに至ったのである。1964 年には日本人として 初めてアメリカ芸術科学アカデミー会員に選出されており、アメリカでの谷崎の評価の高さが伺 えるものとなっている。
なお、記録によると谷崎自身は自作の英訳に対して、相応の関心を抱いていたとされる。谷崎 は1927年に発表された『饒舌録』の中で日本文学の翻訳出版に対し「たとえ飜譯するにしても、
19 同、注15(p.218)
20 同、注5(p.66)
21 「鍵・瘋癲老人日記」(新潮社,https://www.shinchosha.co.jp/book/100515/,閲覧日2019-12-2)
22 武田勝彦「〈海外における日本近代文学研究・3〉谷崎潤一郎『鍵』について」(『國文学 解釈と 鑑賞』1966年11月号,学灯社,pp.146-152)
23 同、注19