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22 蜘蛛の糸 の原典とその著者について安田保雄 蜘蛛の糸 は大正七年七月の 赤い鳥 創刊号に発表され 後短篇集 傀儡師-(大八 一)に収められたものである この名作の原典につき これまでの研究の経過をたどってみると 吉田精一博士は昭和十七年十二月刊の三省堂版 芥川龍之介j でこの作品にふれ 蜘蛛の

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(1)

22

「 蜘 蛛 の 糸

」 の 原 典 と そ の 著 者 に つ い て

安 田

保 雄

「蜘蛛の糸」は大正七年七月の『赤い鳥』創刊号に発表され、

後短篇集『傀儡師-(大八、一)に収められたものである。

この名作の原典につき、これまでの研究の経過をたどってみる

と、吉田精一博士は昭和十七年十二月刊の三省堂版『芥川龍之

jでこの作品にふれ、

「蜘蛛の糸」は執筆後、当時「赤い鳥」の編輯助手をしてゐ

た小島政二郎に、「御伽話には弱りました、あれで精ぎり一杯

なんです、但自信は更にありません。」(五月十六日)と書き送

ったやぅに相当苦心はしたらしいが、それも明るい朗らかな童

話ではなく、彼一流の暗い人生観が生かされてゐる。人間性に

内在する利己主義の救はれなさに絶望しつ、も、猶突放し切れ

ない心持が、美しい花や、美しい空に飾られたこの童話の底を流れてゐるので

あ る

。 と

述べて

お ら れ る

が、未だその原典にはふれず、このことは戦後

の河出文庫本『芥川龍之介』も変らなかった。

ところ、が、昭和三十三年一月刊の新潮文庫本『芥川龍之介j杧 なると矿記の文の中に

材料は「カラマゾフの兄弟」第七篇第三「I本の葱」であって、仏典めかした

と こ ろ に

彼の知恵と創意'が働いて

い る

と挿入され、はじめて「蜘蛛の糸」の原典に言及しておられる。

なお、島田謹二氏の「芥川龍之助とロシャ小説」(_比較文学研

j昭四三、九)に拠れば、

一九五〇年の初めに、青山学院大学教授西村稠氏はドストヱ

フ ス キ ー

f

の カ

ラ マ ー ゾ フ

兄弟,"第二卷七篇

「 ア リ ョ ー

'

ン ヤ

の第三章「葱」の中にある童話によって芥川氏はr蜘蛛の糸

j

を書いたと筆者にむかって語られた。

と あ る と

ころを

み る と 、

昭和二十五年頃には既に「一本の葱」説

が行われていたよぅである。

吉田博士は、ひきつづき、角川版「近代文学鑑賞講座」第十一

巻『芥川龍之介』(昭三三、六)と『鑑賞と批評J(昭三七、五)

の中で「一本の葱」説を敷街して居られるが、「一本の葱」と「蜘蛛の糸」を比較し、

こ の

「神」を「お釈迦様」にし、「意地悪婆さん」を「カン

ダタ」に置きかぇ、「一本の葱」を「くもの糸」に転じ「火❿

(2)

23

湖」を「血の池地獄」にして、すべて日本人に親しい仏教の地

獄極楽のバックにはめこんだのが、芥川の腕であった。それは

美しく洗い上げられて、原文にない香気を放つものとなった。

と評され、これが定説視されて其後に至った。

ところが、最近になって、吉田博士自身が自説を訂正し、昭和

四十二年三月刊の「写真作家伝叢書」

7

の「芥川龍之介」の中

で、

かれの童話の傑作「蜘蛛の糸」にも種があり、その材源はポ

1ル=ヶー著の「カルマ.Iの中の「TheSpiderweb(脚

蛛の糸)によったものらしい。(山口静一氏の発見による。)

と言つておられる。

「山口静一氏の発見」といぅのは、おそらく、昭和三+八年四

月刊の「成城文芸J

32に発表された「蜘蛛の糸」とその材源に関

する意見」を指すものであろぅ。今それに拠って、山口氏の詳細

を極めた研究を要約すると次の如くである。

カンダクと蜘蛛の糸の話をふくむ仏教的因果応報の物語「*ル

マ」は、トルストィの翻訳によって世界的に知られた'が、原作者

はドィツ生まれの東洋哲学者ポールケーラス(püulCarus1852

-1919)で、彼が編輯発行人でアメリカのシカゴで刊行していた 雑誌:TheOpencourt:三六八号に一八九四年に初めて発表さ

れたものである。そして、翌一八九五年(明治二十八年)にこの

「カルマJは初めて単行本として日本で刊行されたが、これには i八九三年九月シカゴで世界宗教会議が開催された際、日本代表

の円覚寺派管長釈宗演と知ったことが一つの契機となったと推測

される。日本版rカルマjは東京の長谷川書店をオープン.コー

「 比

較 文

学 」

卜社の代理店とし、山水画家鈴木華邨の挿絵を入れ、いわゆるク

レープベーパー版として刊行された。しかし翌一八九六年(明

治二十九年)にはこの英文の書物が再版されるほどの売行きを示

したのである。そして、一九〇三年(明治三十六年)になると、

「カルマjは改訂されて、オープンコートの本社 の代理店ICeganPaul社から出版されたのである。 山口氏はこのよぅに述べて、?I'heOpenoourt:に掲載された

-warma

ATalewithaMoral: :の原文(カルマI)と、日本

版の再版本?Karm

ffi.AStoryofEslyBuddhism--(カルマI)

とシカゴ版の:^arma

: AStoryofrauddhistEthics:(カル

マm)とを対校した本文をあわせ掲げて、その間の大きな相違に

注意し、

このことは、芥川が直接に材源として利用したものが、トル

ストイ訳の「カルマ」や雑誌「才1プンコート」所載の「力

ルマI」日本版の「カルマI」乃至一九◦三年版の

「 カル

I

」で

ある

立証す足るものである。

とし、「蜘蛛の糸」研究に劃期的な業績を示されたのである。

ただし、筆者の調べたところによると、現在国会図書館に蔵せ

られているPaulCarusの'-ICarma

: AStoryofEffirlyBud

- dhlsm:は明治二+八年+二月七日発行の初版本で、全+八頁の小

冊子であり、いわゆるクレープ■ベーパー版で鈴木華邨の彩色の

挿絵が入っているが、山口氏の言ぅよぅな、後のシヵゴ版に「黒

白で正確に複写して」入れてある挿絵とは図柄が異なっているも

(3)

24

「蜘蛛の糸」の原典とその著者について

のがあり、またシカゴ版にあって初版本には見られない挿絵もあ

る。そればかりか本文の上でも大きな相違がある。

すなわち、その目次は

Devala’s Rice-cart

BusinessinBenares

AmongtheRobbers

TheSpiderWeb

TheBequest of aGoodKarina

問題の第四章

"

TheSpiderWeb山口氏が日本版

WhenBuddha, theLord, heard the prayer of thedemon

sufferinginhell, hesaid: 'Kandata, didyoueverper­

formanact of kindness? It willnowreturntoyouand

helpyoutoriseagain. But youcannot berescued

unlesstheintensesufferingswhichyouendureascon­

sequencesof yourevildeedshavedispelledallconceit

of selfhoodandhavepurihedyoursoul of vanity, lust,

andenvy'

"Kandataremainedsilent,for hehadbeena cruel

man, but theTathagatainhisomnisciencesawall the

deedsdonebythepoorwretch, andheperceivedthat

onceinhislife whenwalkingthroughthewoodshehad

seenaspidercrawlingontheground, andhethought to

himself, ‘1 willnot stepuponthespider, for heisa

harmlesscreatureandhurtsnobody.'

"Buddhalookedwithcompassionuponthetortures of Kandata, andsent downaspideronacobwebandthe

spidersaid‘Takeheldof thewebandclimbup.'

ころが、これは芥川の「御蛛の糸」関係できわめて

重要な箇所であるが、国会図書館蔵の初版本では、

WhenBuddha, theLord, heardtheprayerof the

demonsufferinginhell, hesent downaspiderona

cobwebandthespidersaid: ‘Takeholdof theweb

andelimbup'.

、 一4

^ 0 で 301与1発表の初稿と同じく、きわめて簡単に

片づけられているのである。

とすれば、日本版の初版本と再版本との間で、重要な加筆が行

わ れ /:ことが知られる。ただし再版本は残念ながら筆者未見であ

る0

ところが、其後我々を更に驚かせる研究、が発表された。それは

昭和四

-+三年一月刊行の一,東北大学教養部紀要」第七号に発表さ

れた片野達郎氏の「芥川龍之介「蜘蛛の糸」出典考——新資料「因果の小車」の紹介—」である。

片野氏は明治三十一年九月一日、東京の長谷川商店から発行さ

れた釈宗演校閲、鈴木大拙訳述「因果の小車」を紹介し、先ずそ

の目次を次の如く掲げている。

一、Æ婆羅の米車

二、婆羅奈市の取引

三、山賊仲間

(4)

25

四、蜘蛛の糸

五、善根の応報

つづいて、片野氏は各章のあらすじを略述し、特に第四章「蜘

蛛の糸」についてはその全文を掲げて居られるのである、

それに拠ると、日本版:Kara--の初版本と再版本との間にあ

考えられる大きな相違の箇所は、次の如く訳出されている。

かくて仏は、地獄の中に悩める犍陀多の熱望を聞き給ひ宣ふ

やぅ、r犍陀多よ、汝は嘗て仁の行をなしたることなきか、之れ

ば今また汝に酬い来り汝をしC再び起たしに至らむ。

されど罪業の応報によりて厳しく苦しめられ、これによりて始

めて一切の我執を脱し、貪瞋痴の三毒を洗ふにあらざれば、永

劫解脱の期あるべからず。

犍陀多は黙然たりき、彼は残酷なる人なりしが故に、生来嘗て

一小善事をも為さずと思惟したればなり。如来は知り給

所なし。大賊の一生の行為を見給ふに、彼嘗て森の

中をとき、地上に一つの蜘蛛の蠢々たるを見たりしも、

彼は「小虫何の害をもなさず之を踏み殺すも無残なり」と思惟

仏は犍陀多の苦悩を見て慈悲の心に動かされ給ひ、一縷の蜘

蛛の糸を垂れ蜘蛛をして云はしめ給ふやぅ、「この糸を便りて昇

来れ」

これに拠ると、鈴木大拙訳「因果の小車」の原本となったも

のは、シカゴ版は未だ出ていなかつたから、当然日本版の再版本

しかも、注目すべき

原文の

1mandataに、芥川が「蜘蛛の糸」で採用している「犍陀多」の漢

「 比

較 文

学 」

片野氏は、こうした「犍K多」の漢字の表記の一致等から、芥

川の「蜘蛛の糸」の典拠は鈴木大拙「因果の小車J中の同名の説

芥川と、小冊子r因果の小車■一邂逅については、彼、

正五年一二月から翌六年九月まで、および大正七年三月(この

年四月「蜘蛛の糸j執筆)から翌八年四月まで、二度も円覚寺

鎌倉に居を定めたこと、また芥川が、同じく円覚寺に参

禅した夏目漱石(「因果の小車」の校閲者円覚寺管長釈宗演と

の関係は前述)の門下であったどから、小冊子を手

にする機会のあったこと、が想像されるのである。芥川の「蔵書

目録」は筆者未見であるが、もしその中に「因果の小車」の名

が見えずとも、芥川が小冊子を披見した当然考えら

ものであろう。

と、結論を下された。

こうして、「蜘蛛の糸」の典拠の問題は、学者の研究により、

「ヵラマの兄弟Jの「一本の葱」説からPaulCarus:Karma:中、SpiderWeb展開し、更にそれが鈴木大拙訳「因果の小車」中「蜘蛛の糸」移行して、いよいよゴール寸

前にせので

ただ、片野説に強いて難点を言えば、同氏の引用した「因果の

小車」が宮城県栗原郡瀬峯町陽岩寺、田辺峩山老師所持の筆写本

よりの転写で「因果の小車Jの原本に拠ったものでないという点

であろう。

(5)

26

「蜘蛛の糸」©原典とその著者について

最近私は、京都の杉田大学堂書店から刊行されていた雑誌「書

物礼讚j

一)m (大一五、をひもといて、思わず目をみ

はった。それは、同誌所載の神代種亮の「閑談

」中に、次の文

を見つけたからである。

澄江堂の「蜘蛛の糸」は、殆ど有らゅる中等学校読本に採ら

れてゐる。中には篤学者が有って、犍陀多を仏教辞典で調べた

が分らなかったと云ふ人も有る。一切蔵経の何経に出典'がある

問ふ人も有る。作者は之を聞いて「なに、横須賀の古本屋

で一寸立見をして、人名、だけを手帖に書き留めて、そーッと本

を元の棚に入れて店を出ただけサ。藍色の和本だった事は覚ぇ

てゐるが、本の名は::」と言ってゐた。

0

勿論、いたずら好きの芥川のこと、「人名だけを手帖に書き留

めて::j信ずる出来ないが、「藍色の和本」

言っているあたりは案外真実を語っているのではあるまいか。 「蜘蛛の糸」の原本は或は「藍色の和本」ではなかったのか。

そこで、国会図書館に駆けつけ、島田謹二氏もその番号(ニー

七八)を紹介している「因果の小車Jを借り出してみると、後か

ら補修した表紙の次に残されている原表紙

:±、正に、「藍色の和

本」仕立てのそれなのである。

これで、芥川の「蜘姝の糸」の原本は、片野氏

;^紹介きれたと

おり、明治三十一年九月一日、東京の長谷川商店から発行され

た、釈宗演校閲、鈴木大拙訳述r因果の小車j

で あ る こ と

、が 確 認

/:の

で あ る

次に同書に拠り'「蜘蛛の糸」の全文を示そぅ。片野氏の紹介

された耘文とは若干の相違があることを付記する。

蜘 蛛

の 糸

慈悲深き僧がいと懇に摩訶童多の創口を洗ひ清めたるとき、

彼はしきりに懺悔して日く「吾は多くの悪事を働き一善をも行

はず、われ如何にして我執の一妄念より織出したる瀰天の罪網

を遁れ出づべきか、わが業報は我を地獄に導くべし、解脱の御

法は遂に聞くべからず」と

僧「善因善果、悪因悪果は天の道なれば、御身'が今生にてな

せる罪業はめぐりくて来生に報ひきたるべし、されど失望す

ベからず、真の教に帰して、我執の妄念を刈除したるものは、

一切の情念罪慾を離れて、自他利生、円満ならずと云ふことな

r玆に一つの例を示すべし、むかし犍

K

多と云へる大賊ありし

が、懺悔せずして死したるにより地獄に堕落して悪鬼羅剎のた

め に 苦 し め ら れ

、 大 苦 大 悩 の 淵:7:Æ

められたり、七劫波の長き月

日を経たれども此苦境を出ること能はず、時に仏陀あり閻浮提

に現はれて大覚の位に昇り給ひぬ、正にこれ空前絶後の時節、大

千世界を照破したる光明は奈落の底までも徹したりけん、一縷

の光、犍陀多の群にも輝きわたりたれば、彼等の喜び言はんかた

なく生命と希望とをもて活動するに至りぬ、このとき犍

K

多さ

けびけるは「大慈大悲の御仏よ願くは憐をたれさせ給へ、わが苦

悩は大なり、われ誠に罪を犯したれども正道を踏まんとの心な

きにあらず、されど如何にせん遂に苦界を出づる能はず、世尊

願はくば吾を憐み救ひ給へJ

、蓋 し 悪 因 悪 果 は 業 報 の 定 理 に し

(6)

27

て悪をなすものは遂に亡びるに至らざるを得ず、されど徹頭徹

尾、罪悪の化身となれるものはあらず、何となれば此の如きは

本来有り得べからざることなればへょり、而して善行は之れて反

して生に赴くの道なり、われらの|言一行も必ず其終りあれど も、善行の進歩には極あることなし、一小善と雖も其裡には新

しき善の種子あるが故に、生々として長じて己まず、三界に輪

廻する間と雖もわが心を養ふこと限なく、遂に一たびは万惡を

除きて捏樂の域に至らしむるものなり、かくて仏は地獄の中に

悩める犍陀多の熱望を聞き給ひ宣ふやぅ『犍陀多よ汝は嘗て仁

愛の行をなしたることなきか、之れあらば今また汝に酬い来

り汝をして再び起たしむるに至らむ、されど汝は罪業の応報に

よりて厳しく苦しめられ、これによりて始めて一切の我執を脱

し、貪瞋痴の三毒を洗ふにあらざれば、永却解脱の期あるべか

らずj「犍陀多は黙然たりき、彼は残酷なる人なりし、が故に、生来

嘗て一思惟したればなり、されど

給は所なし、大賊の一生の昆給

「小虫何の害をもなさず之を踏み殺すも無残なりj思惟し

「仏は犍K多の苦悩を見て慈悲の心に動かされ給ひ、一縷の

蜘蛛の糸を垂れ蜘蛛をして云はしめ給ふよぅ「この糸を哽りて

昇り来れJと。蜘蛛去れるとき犍陀多は力を盡して糸に鎚りて上

るたるに、不思議や糸は甚だ強くして次第に其身の上方に動く

を認めぬ、然るに俄爾として糸の震ひ動くを覚ぇたれば、彼は

「 比

較 文

学 」

驚きて下の方を眺めたるに彼が仲間の罪人等がその跡を慕

同じく昇り来らんとするなりけり、犍陀多は之を見て驚怖言は

ん方なく思へらく、糸は細くして弱し半にして断絶せんも図ら

れずと、そは多数の人の之に紐りたるによりて延びんとするの

傾ありたればなり、されどその蜘蛛の糸は尚強くして彼を扶く

るに充分なるが如く見えたるこそ不思議なれ、彼は今まで上の

方のみ望み居たりしに、此事ありし以来只下にのみ心を取られ

て、信仰やS乱れ来り如何にしてかく細き糸をもて無数の人々

を扶け上げ得べきかと、一念疑の心動きたれば恐怖の思ひ禁ず

る能はず「去れく此糸はわがものなり」と覚えず絶叫したり

しかば、糸は立刻に断絶して其身はまた旧の奈落の底にぞ落ち

たりける。

「我執の妄念は尚ほ犍陀多の胸中に蟠まり居たりしなり、彼

は上の方に登りて正道の本地に到らんとする決定信心の一念に

如何なる不可思議の力あるかを解せざりしなり、唯是信心の一

念繊きこと蜘蛛の糸の如くなれども、無辺の衆生は悉く之に牽

かれてこそは解脱の道に到るなれ、其衆生の数多ければ多きほ

ど尚ほ正道に帰すること一層容易なるわけなり、されど一たび

我執の念に惹かれてr是は吾がものなり、正道の福徳をして唯

われのみの所有ならしめよ」と思ふことあらんには、一縷の糸は

忽ちに断減して汝は旧の我執の窟宅に陥らん、そは我執の念は

亡びにして真理は生命なればなり、そも何を称て地獄といふ、

地獄とは我執の一名にして、涅槃は正道の生涯に外ならず

僧説法を了りたるとき瀕死の賊魁、摩訶童多は悄然と

く「われを蜘蛛の糸をわれ務めて地獄の

(7)

28

「蜘蛛の糸」の原典とその荖者について

深坑より獄れ出でん

なお、r因果の外車jには、片野氏の紹介された「緒言」のほ

かに、巻末に、「保羅馨蘭士博士小伝」が収められている。

また、日本文で書かれたpëlCassについての貴重な文献と考

次にその全文を示そぅ。

保羅馨蘭士博士小伝

本篇の原書「カルマ」の著者馨蘭士は獨逸の人なり。西暦千

八百五十二年十月十八日ィルゼンブル

tl

生る、ィルゼンブル

ヒはハルツ諸山の間に横はれる一小市なれども、天然の景に富

めるを以て其名高し。博士は有名なる僧侶の一子なるを以て、幼

より宗教上の諸問題には頗る意を注ぎて研鑽を怠らざりしが、

遂に自家独立の意見を有するに至りぬ。是は博士の父によりて

代表せられ的、基督教とは著しき懸隔を有するものな

り。父は其後間もなく東西普魯西亜の国立教会の総監督職に昇進

するに至れり。博士はポニヤの

o

におけるマリエ

h:

教育蔻陶を受けたる後' グ、

及チユ諸大学に入りて研鑽の功を

積み、チユ大学にて哲学博士の学位を受けたり。尋い

で普魯西、索遜のハルレ大学に教員学力検定の公試に及第せ

り。其後徴せられて普魯西亜陸軍の野戦砲兵となるや、上進し

て索遜砲兵隊の予備士官となるに至りぬ。爾後、諸学校の教師

に聘せられて古文学及其外の諸科を教授し来りしに、遂に スデンの兵学校より嘱托を受けて軍んの教育に従事せしが、其

頃「科学、倫理学、及宗教中におけ5純正哲学」なる一小冊子

を出版して基督教の「ドクマ」を批評し、独立の意昆を述べし

かば、長官の忌憚に触れて諭旨免職と職を辞して

又「根本的原因及目的論」と云へる新書を出版し、其序に辞職

の原因を説明せる官文書を公にせり、文書に日く

首座教師博士馨蘭西君は、従来の職を辞する旨申出てたる

之を許し、今回の基督蘇生祭の時に解職する

なりぬ。博士の辞職せる原因は、其宗教上の意昆が吾兵学校

の教育訓練を指導せる基督教の精神と相抵触すると言ふに在

り。博士は去夏一小冊子を著はして宗教上の意見を公にせ

従来は其教授の時たるとざるとを間はず、彼

は此の意見を人に強ひし如き挙動は毫も之れなかりしなり。

吾兵学校に在職中馨蘭西博士は諸課を教授せしが、特に羅

甸語、独逸語、及歴史は其専ら担任せし所なり、而して実地

の才と学識の完きことは、教授中常に見得られたる所なり。

千べ百八十一年二月十七日ドレスデて

Ü遜陸軍兵学校長佐官フォン、ビユーロー。

馨蘭西博土は哲学に関せる著書を出版せしのみならず。二三

の詩集をも公刊せしが、其中に「仏教徒の歌」と云へる一巻あ

博土は日耳曼に位地を失へるより、去りて英,國に航し、+

五ケ月間の生涯を此島国にて過せる後、北亜米利加、合衆國に

上陸せり、時に千八百八十四年三月十七日なりき、新約克に滞在

頃「一元論及改善論」とる因果の法、及倫理に

(8)

29

学上の論文を千八百八十五年に公にせり、之れ、が為め二年を

過ぎて

ス州,ラ、d丨叫の

^

^ 71

^ !—

^シ

へ ゲ 1

—君

の聘する所とな,0、其頃宗教及び心理学上の問題を論議する為

めにとて創立せられたる「才丨プン、コールト」雑誌に従事す

ることゞなりぬ、博士の此業に従ひしは千八百八十七年十二月

一日にして今に至るまで之を継続せり。

ー君と

|||蘭|画博土とは其後又新たに

へる哲学雑誌を発刊し、其第一号を千八百九十年の十月に公に

世界宗教大会の節、博士は科学的宗教を代表して、真理は科

学の研缵し拡張し得る所にして、又此の如き真理にあらざれば

宗教的黙示として吾曹の信憑を博するに足らずとの説を主張せ

り。而して博土は仏教の最も忠実に此の主義に合へるを見て、

かの仏教'が大会場裡に代表せられし夕、有名なる仏教代表者

と共に壇上に現はれて日本仏教僧侶の其宗旨を演ずるを助けた

り0

これを読んで、私の好奇心は別の方向に発展した。それは、ヶ

丨ラスがキリスト教のドグマを批評し、論旨免職になった当時、

その理由を説明した官文書に署名した索遜陸軍兵学校長佐官、フ

名に関してで

千八百八十一年といえばわが明治十四年に相当するが、それよ

り四年後、明治十八年(一八八五)ザクセンの演習に参加した森

鷗外が、その独逸日記八月二十八日の項に、

九時第一大隊とトレプゼンTrebsenに会同し、休憩す。聯

司令官

Leusmann中佐ビュロウ男Baronvon

「 比

較 文

学 」

Buelow

佐 フ オ ン

リ ヨ オ ベ ン

vonLoeben

相 見 る

0

と記している。中佐ビ1

ロ ゥ

男とこの兵学校長とは、或は、同一

人物ではなかったろうか。とすれば、同じく九月五日の頃にドョ

オベンDoebenの古城に泊ったことを述べ、

城主をフォンビユロゥvon

BB

OWと称す。耳順の老人な

り。余等をして其来賓簿に署名せしむ。老人其六女を出して客

を拝せしむマリアMaria(Mimi)は頗る美なり。一女あり。 美目眄たり。イイダIdaと称す。一女あり。眉頭常に愁を帯 ぶ。其名を失す。トオニイToniは瘦軀にして巨眼、アンナ Ansは舆低く額出づ。ヘレ

Helse

は罷癃なり。

と書かれているのは、小堀桂一郎氏が言うように、フオン、ビ

1 ゥaゥ中佐の一族なのてあろう。

この日記に見えるイイダが、鷗外の名作「文づかひ」のヒロイ

ンのモデルとなつていることは周知の事実である。

_外と芥川、これもまた奇縁と言ってよいであろう。

〔追記〕

片野達郎氏ょりのお便りにょれば、論文発表の直後、東京の小林

寿惠氏より「因果の小車」の実物を借覧し、確認されたとのことで

あ る

記して、同氏の研究に改めて敬意を表する次第で

あ る

参照

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