●[2011-06-29]発想の基礎 シリーズ102
予想発想法
キーワード : 予想力を訓練するには幾何学が最適。
「予想発想法」
これは、数学創造における最大の発想法です。定理は予想から得られるからです。
本には定理が先に書いてあってそれから証明という形になておりますが、
現実は、何か真理がありそうなテーマを限定してから、あれこれと帰納法的な試行錯誤で探る。
その後で幸運にも定理らしい姿が見えはじめる。
しかし、それは本当かどうかは分からないから、いろんな角度から真実性を確かめる。
最後に、どうやら本当らしいと確信してから証明に入ります。
本と現実は逆なのです。本当らしいというのは予想と呼ばれます。
このように、数学ではまず予想し次に証明する思考形式が主体です。
予想は論理的に導かれるものではなく、かならず既存知識の論理を超えた直感があります。
それゆえに、数学は直感の学問と呼ばれます。
しかし学校数学では、まず解を予想してから考えなさいとは教えない。
また解へのシナリオをイメージしてから(これも予想といえる)考えなさいとも教えない。
真逆の教え方をしております。
一方スポーツなんかでは、スーパースターのプレーという解が見えています。
そこで、そういう風になれるように練習をすることができる。つまり、学習と結果が順の関係です。
しかし数学は逆の関係ですから、ここにも数学嫌いが多くなる原因があります。
解でも証明でも、まず予想や見通しを立ててから考える練習をすればいいのですがそうでない。
その最大の理由は、予想の立て方を教えられないからです。
歴史に残る大数学者は、年齢に関係なく先輩大数学者の著書から直接学んでいる。
要するにそういう機会があり、学んだのは現在のような教科書や入試問題ではない。
原典のような書物には、著者の思考の流れが書いてあり、
スポーツのスーパースターのプレーを見るのと同じ順の学習ができる。
ここに大きなギャップがあります。原典の著者は予想力を最大限に駆使して真理を掴んでいますから、
職人が先輩から自ら学びとるコツのようなものを感じ取ることができる。
予想の立て方や各種のテクニックにも触れられる。
予想力は洞察力と言い換えてもいいものです。
我々も、知識を学ぶだけでなくこれを他に応用しようとしたら、
予想だけでなくもっと曖昧な直感を使うことになる。決して論理的に一直線に解決できることはありません。
論理的にスイスイできるものは、大した話しにはならない。
こう考えますと、学びの核心はいかにして正しく価値ある予想を生み出せるようになれるか。
ここにあることが分かります。
この予想力を練習するのに最適なものは、幾何学の問題です。
なによりも予備知識が少ない利点があり、それでいながら直感的な発想力を発揮しないと解けない。
1時間で解ける問題でも、数週間かかるかも知れない。
答えが分かってしまえば、1分も要しない思考プロセスを何十時間も費やして模索する。
こんなに最適な思考訓練は、他にはめったにありません。
問題を解けるまでに膨大な学習が必要だったりしては、現実的ではありません。
その幾何学が、この数十年前から学校教育から激減している。
ということで、思考訓練と数学だけに限らない的確な予想力を養う意味で 幾何学を復活させることは、非常に価値あることと考えております。
●寺田寅彦先生も、数学は語学と同じだといっているが、誰も寺田先生に数学を教えなかったのではないか。
語学と一致している面だけなら数学など必要でない。それから先が問題なのだ。
人間性の本質に根ざしておればこそ、6千年も滅びないで来たのだと知って欲しい。
数学に最も近いのは百姓である。種をまいて育てるのが仕事で、
そのオリジナリテイは「ないもの」から「あるもの」を作ることにある。
数学者は種を選べば、後は大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種の方にある。
これに比べて、理論物理学者は指物師に似ている。
人の作った材料を組み立てるのが仕事で、そのオリジナリテイは加工にある。
●
小中学生の教育法
まず、何を学ぼうとしているかの全体のシナリオを知ることなくして、
理解が深まることはないということが一つの根拠です。
そのために、何度も全体を読み返して「一体何の話しだ」ということを把握できれば、
暗黙的に8割は理解しています。
次に学習対象の裏表(何故その考え方が有効なのか?)を、正確に学ぶのはそこからです。
数学でも、自力で再現できるまでこれを繰り返すのです。
学校で学ぶものは大体5回から10回の繰り返しで熟成する場合が多いものです。
それから、全体の手順というシナリオを確認して行く。
代表的な問題例でこういうことを50問もやれば、実力は飛躍的に強化され、
応用力も思考力もついて来ます。
このようにまずは自分で解を再現できることを目標にするのです。
無意味な繰り返し練習は、逆に思考力を狭くしてしまいます。
大事なことは、進化できるような学び方です。従って、ワンパターン学習は最悪です。
スポーツでも、一流選手は常に進化発展できるように 柔軟性と応用力を身につけながら練習していたはずです。
*中学受験には関係ありませんが、英語でも、まず日本語文を読んでから英語文を読む。
学校教育はこの逆ですが、学校と反対の方法をやりますと非常に効果的です。
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もし、英語でもこのような教育法をしますと、一年間の教科書は2週間もあれば終わってしまう。
だから教育システムが破壊される。
それゆえに勉強は難しいと、学習困難になるようなチンタラ教育をしている。
だから教師も仕事をやっていられる。
私はそう考えています。コンピュータの教育でも同じことです。
コンピュータ教育でも、学校教育型をしているところが多いので、当然教育効果が出て来ない。
退屈な教育法になっており、学習者は嫌になるだけです。
そこで、無意味な教育を補うカムフラージュとして試験(情報処理試験を代表として)を用意する。
試験のためにという、間違った目標で眼くらまし、ニセの学習意欲を煽っているだけであります。
こうした本物でない教育は、非常に多い。
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英語文全体をまず日本語イメージで全体把握していますので、何を言っている主旨が予め分かっております。
だから、英語文も俯瞰的に読める。
当然知らない単語も推察できる。こうして、今度はその英語文一ページ程度を暗記する。
日本語 文で全体を理解しているので、それは比較的容易です。少し練習すれば慣れます。
すると一ページ程度の英文は、大体暗誦できるようになります。
一ヶ月も続ければ格段に記憶力も強化される。
歴史も同様で、歴史の場合は更に要所の出来事をいくつか選定して、
その要所全体を何度か繰り返して頭にいれ、次にその要所から前後の出来事を知るようにする。
そして要所を中心にして全体を繰り返す。
この要所は、プログラムロジックのジェネラルフローと同じ基本設計のようなキーストーン全体です。
そのキーストーンの要所だけを5回も繰り返し眺めれば、概略は大部分頭に入ります。
日を改めて、一度覚えた全体を時々繰り返す。
こうすると忘れていた箇所があってもすぐ思い出すようになります。
国語はやはり3回から5回全文を読んで、何が文意のポイントかを言わせる。
そこから、文章全体の構成(起承転結)を把握させる。
次に自分自身の意見(見解)を述べさせる。これでOK。
基本的に暗記物は、歴史や英語のようにすれば概ねOKです。
*数学は、寝る前に考えさせてから就寝する。
すると睡眠中に頭が活性化し、勝手に頭が良くなるようになる。
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小中時代はこれが基本です。中学も2年生になれば、自分で解の予想
(決定)と予想解(仮に決めた決定解)にいたるまでのシナリオを立てる。
「こうして、あーすればできる」というシナリオヲ描くようにする。次にそれを確かめる。
このような学習法も取り入れる。これは、そのまま大人になるまで通用する非常に有効な創造的思考法です。
実際、ほとんどの仕事現場は大体そうしているものです。
*それゆえ仕事のできる人というのは、全体の状況を把握してから、問題解決すべき解を正しく予想し、
それを実現するためのポイントを見出せる人で、
次にそれらのポイントをつなげた概略のシナリオを描ける人たちです。
これは、歴史の勉強法と基本的に同じ方法です。
*仕事の場合の「正しい解」とは、次の発展につながる解のことです。
解が出たらそこで終わりというのではなく、その解から次の問題意識が生まれるような、
そういう発展力を秘めた解を導くことです。
それには、そうなるような「問題意識」を模索してから「問題を立てる」のです。
営業思考がその典型と考えます。
経営者の発想法もこれです。だから経営者と営業マンは同じ。
技術者であれば、その範囲だけで終わるアイデアや発想でなく次に繋がる 汎用性のあるアイデアや大きな発想を求める。企画発想も同じ。
この意味で「問題意識」、つまり「どう見るか」という着眼の程度が 解の程度を決めているということになります。
「問題意識がつまらなければ解もつまらない」
という原理が厳然としてあります。
ー以上 木村昌之 発想法
●失敗学に見る数学思考
キーワード : 解への思惑をシナリオ化する。主観的情報が役に立つ。
「はじめに」
畑村洋太郎氏の「失敗学」の記述の中から、数学と同じ考え方を抽出して、その関連性を述べます。
失敗学は、この世の大きな失敗を防止し、回避する点に視点があります。
だが数学では、殊更に失敗の原因を探ることは特別な状況でない限り重視せず、
成功要因を模索することが主たる思考形式です。
その思考形式は帰納法と呼ばれ、試行錯誤的な思考実験です。しかしこの 思考実験がなかなか思い浮かばない点に数学思考の大きな特徴があります。
一般に、解決への手がかりが非常に少ないのです。
こうして考えますと、失敗学と数学思考には関係がなさそうに思えるのですが、
実は重要なところで大いなる共通点があります。
「失敗学の記述からの考察」
(1) 失敗は成功の母。 失敗は( ハインリッヒの法則で) 成長する。
*数学を考える場合は、通常失敗の連続です。この多くの失敗を踏み台にして、
様々な紆余曲折の後に解に到達する。概ねそういうものです。
多くの失敗を生み出せなければ、逆に思考停止状態に陥ります。
それゆえに、類推、連想、空想を駆使して解へのルートを探るわけです。
最初から論理的な思考で解決できる事柄は、さして数学的価値のないものです。
数学に限らず、失敗と成功は対立する関係ではなく「補完的関係」です。
この意味で「失敗は成功の母」と呼ばれるように、
失敗は次の進歩発展への素材というのが本当の姿と考えます。
つまり、失敗事例が踏み台になって徐々に変身し、かつ成長してやがて成功となる。
(2) 失敗は起こって当たり前と考える。
*どの分野でも、何か考えれば常に正解のホームランということはありませんで、大抵は空振りが多い。
バットにかすれば次の飛躍のヒントや足がかりになるのですが、現実には思うように行かないのが普通です。
ですから、失敗するのは当たり前のことなんだと思っていないと、
数回の失敗であきらめてしまうことになります。
湯川博士は、100アイデアを出すと1つくらいは役に立つものがある。
だから思考をやめるわけに行かないと語っておりました。
いつも不思議に思っていることなんですが、肉体を使う練習は沢山の失敗を繰り返しながら毎日できます。
しかし頭を使う場合は、何度か試みてできないと、頭の中が真っ暗闇になったようになり、
あきらめてしまう傾向が強い。
この問題点です。この違いは意外と奥が深く、
人間の本性にかかわる機能に根ざしているように思っております。
肉体の訓練では、あーいう風になれればいいのだと、
目標が明確に見えているからやる気も出るというような、単純な話しでないと思うからです。
この問題点は、「努力のありかた」にかかわる重要なテーマであろうと考えます。
(3) 企画の「 裏プラン」 に着目すること( ノウハウは表プランには無い).
失敗当事者の主観的情報でなければ、 他の人の役にはたたない。
[例] 山岳での遭難事件( 迷ったら動くな、 下に降りるな)
客観的失敗情報は役に立たない。 ( 官庁の各種事故委員会報告は、 役に立たないものが多い)
*この記述は、岡潔が「論文の生命は記述された客観的事実の中にはない。
作者の主観の中にある」という話しと同じものです。ノウハウとは主観的な思惑であり、
思考を推進する意識の流れです。岡潔の言葉を借りれば情緒です。
日常生活の場合では「本音の思惑」となります。
たとえば、5年後に実現することを目標にした革新的なプランを作成する場合、
その9割が手段を書いた頁になり勝ちです。実現したい解を詰めていないのです。
解の姿は、現在どこにもありませんので求める解は最初から見えにくい。
という理由もあって、解が満たすべき条件を厳密に追い詰めない傾向が強くなるのです。
分厚いが、見かけだけの企画書となってしまいます。思考のあり方はこの逆でして、
解の分析(仮解思考:求める解が得られたとしたら、その解はどうあるべきか)に 9割りの時間とエネルギーを投入しなければなりません。
手段の方法論は2の次です。解の姿(思惑)がなかなか姿を現さないので、
周囲からは仕事していないとか、はかどっていないと見られがちになる。
だから、見かけ上書類が増えて行く路線に行ってしまう。
思惑を明確にして解の姿を決定するのは実は非常に大変。そしてそれができたとき、
数百枚の紙は捨てられたった一枚で書かれる。
解の分析を十分にやっていれば、解の意味と価値を納得させよと言われても話しはできる。
しかし、解の検討を疎かにして既存知識での手段ばかりの企画書では相手は納得しない。
価値あると決断した「思惑」を形にすることが、解の設計です。
真の目的(解)は何であるかを明確にしなければ、何をやってもその思考は不毛となります。
(4) 失敗は知識化しなければ伝わらない。
起こってしまった失敗を自分および他人が将来使える知識にまとめること。
*この記述は、中継思考法と同じことを述べております。
何かを次に生かすためには、それを知識として言語表現した形をつくらなければ、
せっかくの経験も智恵も生きて来ないからです。
しかしながら、暗黙知的な名人達人のコツや直感は、
言語として表現するのは難しく人工知能の困難さはここにあります。
(5) 裏プラン: 当初設定したテーマから始まって創造に至る脈絡を記したもの。( これが実は役にたつ!)
*この裏プランとは、本音の思惑をシナリオ化したものです。
何事も最後までの見通しがなければ上手く行かない。
見通しとは、最初は漠然としていた思惑が概略的なイメージの流れとして形になったもので、
未だ感覚的なものです。
しかし、シナリオ・イメージがあれば何とかなる。
ところが、このシナリオ・イメージまで作るのが難しく、同時にその重要性が余り重視されておりません。
「ここを、こうしてこうやれば、こういう結果となるだろう」。
このようなシナリオが正論なら大抵は解決できる。
例えば、数学問題の解答を示して、なぜそういう手順で推論しているか。
その思惑つまりシナリオを説明する。それを学習者が自分のイメ−ジで繰り返す。
そして自分でも、教えられた思惑を指針にして再現できれば、第一段階を理解したことになります。
まず再現できるまでやる。
そして明日また再現してみる。しかし大抵はできない。何故か。
それは一番大事な主観的思惑が、未だ自分の中で熟成していないからです。
こうして何度かやって定着したら、その問題は卒業。こういう学習法をやり続けますと、
自分流に「解への思惑のシナリオ」が頭の中だけで描けるようになります。
思惑のシナリオは、基本構想(設計)とも呼ばれます。数学思考は、概ねう いうやり方です。これができてから確認のための紙に書く。
(6) 1 迷いメモ : アイデア、 検討内容、 紆余曲折の記録。
2 決定理由メモ : 最終的に決定した理由を記載したもの。
* 迷いメモは、議事録で記録されますが、決定理由メモは案外忘れられていているものです。
やれやれという気持ちが忘れさせる。
しかし、これは非常に貴重な記録となります。解に到達した決定的な誘因は大抵の場合あります。
いわば成功要因のキーストーンのようなものです。何気ないことからのヒント或いは、
隠れていた盲点の発見。更には、理由は分からない突然のヒラメキだったかもしれませんが、
それを記録することは、後でとても役立ちます。
●小松彦三郎氏の言葉
ーー 小平邦彦編 [数学の学び方](岩波書店、1987年初版) −− [小松彦三郎]編からの抜粋。
数学者になってから、東大数学科で3年生以上の学生に数学を教えて来た以外に、数学を教えた経験がない。
そして私を指導教官に選んだ学生は、大学院選抜試験によく落ちるのである。
それがたたって、何年か一人も学生が来なかった時期があった。
学生時代に家庭教師をした中学生、高校生たちも、よく入試に失敗していた。
だから、私から試験の成績をよくする知恵を得ようとしても無駄である。
しかし私を指導教官に選んだ学生たちは、東大大学院入試に失敗して他大学の大学院に行った人達も含めて、
多くが生産的な数学者になっている。
だから私は試験向けの教育は下手であっても、研究者向きの教育は案外上手なのかも知れない。
「セミナーについて」
4年生のセミナーで使うテキストは、基本的なものではあるが一人で読むには、手ごわいものが多い。
既に万人が認める定評のあるテキストは教育効果が高い。
しかし、これらは既に完成し将来あまり大きな発展は期待できない分野が多い。
他方、現在急速に進展している分野には適当な本がなく、講義ノートをテキストとする場合もあるが、
既存の知識は知っていることを前提に証明なども省略されていることが多い。
だから、4年生が読み通すのは容易でない。
もっと極端には原論文をテキストとする場合もある。
これは論文が書かれた時点での数学の常識を知るために、
学生は他に何冊かの本を並行して読まなければならない。
セミナーは概ね学生が輪番でテキストに従って講義し、教官や他の聴講者からの質問を受ける形で行う。
テキストは大体300頁程度で、1年間のセミナー回数は30回くらい。
だから、毎週2時間で10頁のペースとなる。これが容易そうに見えてそうでない。
その理由は以下のようになる。
1 テキストがなかなか理解できない。
(1) その理由は、理解するための予備知識を学生はもっていないことがひとつ。
たとえば、数学で常識とされているコホモロジー論などのホモロジー論である。
これは言わば数学を表現する言葉のようなものであるのだが、
ある標準的なホモロジー代数の本を必死に読んでも、先生からはまだ足りないと言われ、
グロダンデイエクの200頁の論文を教えられて呆然とするというような、いじめられ方をする。
しかしこれには理由がある。 ホモロジー代数そのものは極めて空虚な抽象論であって、
講義で教えようとしても教官も学生も全く身が入らず、結果として身につかない。
そこで、どうしても必要ということが分かってから初めて学ぶ意欲が生じるしろものである。
(2) テキストに誤りや論理の飛躍があって、書いてあるままでは どうしてもついて行けないことが非常に多い。
ユークリッドでさえこの理由で葬り去られて、集合論に代表される数学教育の現代化にとって代わられた。
だが、葬りさった人達が書いたものは完全かというと、そうは行かない。
そういう本は書けないし、たとえ書いたとしても今度は読めないというのが実態である。
良心的な著者は、この飛躍を他書の引用という形で切り抜ける。
しかし、セミナー当番の学生にとっては大変な迷惑である。
引用されている本を読まなければならないし、そこにも引用があればまたそれも読まなければならない。
(3) 著者の思い違いも案外多い。
誤りであることを見極めて類書あるいは原論文にあたって誤りを正すか、
自分で考えて正しい道を取り戻す他ない。わたしの経験では類書をざっと眺めた後、
自分で考えるのが一番時間の節約になった。
2 テキストが理解できたとする。
しかしこれはセミナー準備の1/3に過ぎない。次にその内容を講義するために、
自分のテキストを作成する仕事に取りかからなければならない。
原テキストの誤りを正し、引用部分を補えば自分用のテキストは倍の200頁にはなっているかも知れない。
ところが、2時間で講義できる分量は大判ノート10頁分がよいところである。
印刷ページでは7頁程度である。
そこで今度は、自分に嘘をつくか飛躍して全体を1/3に縮める必要がある。
講義は説得の一種なのだから、正しい説明をした後は、それを先生や同僚に信用させればよいのである。
完璧な論証は必ずしも最良の方法ではない。
証明が簡単になる特別の場合を扱うとか、代表的な例を挙げてそれについてのみ論ずるほうが 説得的なことがある。しかし、これにも落とし穴がある。
一見ささいな例外とみえるところに、数学の問題点があることは非常に多い。
だから本質を失わないでしかも簡単な例を探すのは、真に数学的な力量を問われることなのである。
3 質問に答える。
質問には、相手が納得するまでいくらでも詳しく議論できる用意をしておかなければならない。
命題の証明は極めて複雑なのが普通であるから、証明を部分的に省略しながら簡潔に説明するには、
相手に論理の森に迷わせない要所要所では、明確な道しるべを提示しなければならない。
そこで細かい議論に入る前に、粗筋を述べて相手に全体のイメージを与えておくことが重要なのであるが、
案外これができない人が多い。
こうして、質問に備えた細かい論証ノートを作成するまでが、2/3である。
4 最後に、講義の練習。
自分のテキストの棒読みではまるで説得力がないから、
私は学生に本もテキストも一切見ることを禁じて、暗記で講義することを強制していた。
このことは、小平先生の言葉によっても裏付けされた方法と思っている。
小平先生は、数学は自分の好きなようにやれるのだから、学生は覚えてやれなければいけない、
とおっしゃっておられた。
もう一つは2時間10頁程度の分量、これは幼稚園児程度の暗記能力である。
その位の記憶能力を持たないで、数学者とは言えないのではないかというのが理由である。
ところが、わたし自身が年をとり暗記講義が覚束無くなってからは、
自分で出来ないことを学生に強要するのはかわいそうになって、
近ごろは学生が1枚位は紙を見るのは黙認するようになってしまった。
世界の指導的数学者はさすがと思わせる説得力があるが、
彼らの多くはちょっとした講義のためにもテキストを作成し、それを覚えておいて、
あたかもアドリブのような印象を与えながら、
すじ書き通り首尾一貫した話をしていることを注意しておきたい。
[研究者となるには]
(1) 後に非常に独創的な仕事をした人々は、学部在学中の成績は必ずしも良くない。
その中には、その人の専門に近い科目の試験に落第して卒業が遅れた人もいる。
試験は本質的に既成の数学の理解を測定するしかないので、他人の数学をよく理解する能力しか分からない。
私の知る範囲では、他人の数学を理解する能力と自分の数学を創造する能力との間には、
大きな相関関係はないようである。
学校で教えられた流儀ではどうしても分からなかったので、
自分流に分かるように努力したら大きな仕事ができたという大数学者は少なくない。
(2) 数学があまり好きでない人はやめた方がよい。
数学の研究は9割が失敗であるから、1割の成功に向けて努力を継続するには 好きでなければつとまらないからである。
(3) 我が強くない人はやめた方がよい。
研究というものは西部開拓者のようなものである。侵略者がいれば実力でもって追い出さねばならない。
どれ一つとっても、気弱ではとても研究はつとまらない。
この点については日本人は真理というものは天が与えるもので、
これが知られれば万人に共有されるべきものとの意識が強い。
西洋人のように、自分が発見したものは自分の私有財産という所有欲が強くない。
(4) 研究者になったらシャニムニ努力するしかない。
先生も、先輩も自分にとっては道具と思い徹底的に利用することである。
しかるべき先生や先輩を持てば、およそ1年ほどで最初の論文は書けるものである。
人は無限の可能性をもってこの現実社会に生まれている。
それゆえ、すべての研究者は未来社会の為に役割を果たすことも期待されている。
すべての研究者は、自分本来の自己を求めなければならない。
そして本来の自分を信ずる人間のみが、大きな能力を発揮することが出来る。
この求める過程で、良き市民であることを多少なりとも外れることも有り得る。
過去に研究者として大成した人達の回想録を読むと、いずれもその人達を大成に導いたのは、
結局は自己の拡大意欲であったようである。
(5) 研究活動の結果を生み出すものは、最後のところは意力である。
数学は、やはりある時期に決心して集中して勉強しなければならない。
また実例を知ることは、理論を知る以上に大切である。
[最近の学生]
最近は、従来から使って来たカリキュラムについて来れない学生が増えて来たので、
カリキュラムをやさしくする事を検討中である。
学生全般の意欲の低下が一番大きな原因である。日本の教育は重大な問題を抱えている。
●幾何学が苦手な人が問題を考える様子を観察すると、
(1) まず分かっている線分の長さや角度などをごちゃごちゃと書き込む。
(2) それを見ながら考えようとしている。
(3) だが、何を考えているのか?、と問われると、説明できない。
つまり、[何かを考えようと考えているだけ]で実は何も思考していない状態と同じなのである。
幾何学を得意とする人が問題を考える様子を観察すると、
(1) まず、問題の意味を理解する。
(2) 次に、遠くの方を見るような目付きになる。
(3) その次に、その問題に適用出来そうな幾つかのツールを連想する。
(4) しばらくすると、その幾つかの中から的確なものを発見する。
(5) 結果として、アッと言う間に問題を解いてしまう。
(6) 図は、ほとんど汚れていない。
つまり、紙にアウトップしないで頭の中でイメージしながら解いている。
・ イメージは、細部ではなく全体像を描く利点がある。
・ 発想法の方法を教えても、もともと発想力のない子供にはそれだけでは効果がない。
だが発想力のある子供達は、ピンと来る。なんだ、いままで自分が無意識にやっていたことではないか、
と納得するからである。
・ 類似性がある2つの問題に対して、発想力のある生徒達は2つの問題に類似性を感じるのだが、
発想力のない子供達は2つの問題に類似性を感じない。
・ 発想力のある子供達を観察した。そこで判明したことは、発想力のある生徒達は、
実は発想力というよりも連想力が優れていた。
例えば、ある問題を解くときに、それと構造のよく似た問題を 記憶の中から呼び覚ますことができると判明したからだ。
そして、発想力のある子供達は、自分は発想力があるとは思っていない場合が多かった。
・ 数学上達の秘訣は、[問題の拡張をする]努力を惜しまないことにある。
問題の条件を少し変えて考えるとか、もっと一般化して考えるとかである。
この努力を通して、いろんな知識や手法が互いに関連性を持ちながら結合し、
一つのストーリーとなって構造化されて蓄積される。
・ 問題の拡張まで行かなくとも、自分が学んだ定理や知識がどのように発展し、
どのように他の分野と関連しているかを、自分で説明できるようになるまで学習するとよい。
そのために数学史は役に立つ。
・ 論理的な能力の不足している人は、[もしも・・・なら]という思考法が大変苦手である。
・ 受験に強い学生は、大まかなやり方を覚えておいて、細かいマニュアルは覚えない。
全体的な流れをつかんだ後は、細部を自分で工夫して構想する間に
自然と多くの問題が解けるようになっている。これは料理の仕方を学ぶのと基本的には同じである。
・ 数学を学ぶとは、自分の中に一つの数学世界を構築することである。
これは、中学生頃から起こり始める。このことは、勉強した知識の意味を考えながら、
自分独自に構造化した知識体系を作ることである。
・ 新しい知識は、自分の構造化された体系の中で新たに位置付けして初めて生きて来る。
ぐんぐん伸びる子供と伸びが止まる子供の違いは、
この知識の位置付け能力とイメージ操作力があるかないかによって決まる。
・ 例え話や比喩で物事を理解しようとする姿勢は、
位置付け能力が発達したすべての人に共通して見られる独特な感覚である。
・ 教師として長い間[出来る子供達]を見ている間に、
数学ができる子供達に共通した次の能力が分かるようになった。
(1) 自分独自の知識構造による数学世界を作っている。
(2) 未知の問題は、この知識構造を座標軸にして考える。
(3) 自分の知識構造と結び付けるために、比喩や例え話に敏感である。
(4) 頭の中に複数のイメージを思い浮かべ、これを自由に操ったり、
つなげたりすることが出来る能力をもっている。
これこそが、数学能力の一番基礎的なものではないかと考えるのである。
・ 自問自答の事例
(1) この新しい概念の意味は一体何だろうか。
(2) この定理を分かりやすい言葉に言い換えると、どうなるか。
(3) この問題は、前にやったあれに似ているな。
(4) この問題をちょっと変えてみると、結論はどうなるだろうか。
(5) 不思議な規則がありそうだ。もっと調べてみよう。
(6) この問題を拡張したり一般化すると、どうなるだろうか。
(7) この新しい考え方は、どんな特徴のある道具だろうか。
(8) この新しい考え方は、どうして考え出されたのだ。
(9) この定理や証明には何か違和感を感ずるが、それは何故か。
(10) この定理は、他のどんな定理と関連しているだろうか。
・ 抽象化した事の本質をイメージできる力がない限り、数学の専門書は読めない。
また、説明されても自問自答の蓄積が無ければピンと来ることはない。
せいぜいが、分かったような気がするだけである。
・ 数学者というのは、一生をかけて数学における悟りを目指す者のこと。
・ まとめ
数学が非常によくできる生徒は、次の3つの特徴をもっていた。
(1) 頭の中に数や図形の状態をイメージ出来、
それらを頭の中だけで動かしながら操作する能力がある、(イメージ力) (2) 意味を意識した構造化された知識体系を、自分流にもっていて、
その世界の中で絶えず自問自答を繰り返しながら、問題を拡張する工夫を凝らしながら、
あれこれと思考している。
(3) 未知の知識に対しては、これをあれこれと言い換えながら、
自分流の知識構造に取り込もうとする。(知識の位置付け)
・ 能力開発の方法(結論)
(1) 5歳から9歳までに集中的な暗算練習でイメージ力の基礎力を蓄える。
(2) イメージ力をさらに強力にするには、既に理解したつもりの基本的な問題を、
紙に書かずに何回も何回も頭の中だけで解決出来るまで繰り返す。
(3) 知識の位置付けを身につけるためには、
・・ 印象深い短い問題や、問題相互を関連づけたストーリーを そのまま覚えてしまうことによって構造化する。
・・ 次に、大人であれば絶えず自問自答する習慣を付け、子供なら自分の言葉に言い換える練習を繰り返す。
●栗田哲也氏の言葉から
ーー [数学に感動する頭をつくる ]より(2) ーー
・ 算数の面白さに目覚めると算数に熱中する。そうすると理解が速くなる。
難問を解くことに熱中するから数学的思考方法にも慣れて行くし、
同時に彼らの学習方法は自分の能力開発にもなっている。
・ 彼らはきちんきちんとお勉強して来た訳ではないので、ミスもすれば忘れ物も多い。
表面的な行動では、だらし無くダメな子供に見える。
・ 出来る子は、きちんとしたノートを取らない方が多い。
さらに困ることには、ノートを取らない子の方がむしろ出来る傾向さえある。
・ 逆に、コツコツと予習復習しノートをきちんと取る優等生タイプは、
始めのうちはすごく出来るように見えるが、一定のところで伸びが止まってしまう。
親も本人も出来るつもりでいるから、こうしたケースは一番かわいそうだ。
・ 一見優等生タイプは何がダメだったのか?。彼らは、算数や数学のお勉強はしたが、
数学的な能力の開発自体をしていなかったのだと言うしかない。
・ 熱中しなければ、頭の中で図形を動かしたりするイメージ力は身につかない。
コツコツ派は図形はいつまで経っても、紙に書かれた部分的な模様に過ぎない。
だから、だんだん数学が難しいものになって来ると理解できなくなる。
つまり彼らは数学的な能力の開発ではなく、作業力を練習していただけなので
その報いを受けてしまったというだけの話なのである。
・ 海(数学)に入らなくても、船の動かし方を教科書や塾で習えば点は取れる。
これが日本の算数、数学教育の実態だ。
・ なぜ、教科書は能力開発を促すようなカリキュラムになっていないのか?
それは、カリキュラムを作成する有識者たちが、[能力を開発する一般的な方法などはある訳がない]と、
思っているからである。
・ 巷に喧伝されている右脳や連想術、記憶術は、いかがわしい。
また、そうしたやり方での能力が数学に必要だとも思えない。
実際、多くの数学者はそうした類いの能力開発など意識的にしたことはない。
・ 中学入試は教科書を離れた能力を問われるので、初めて実技としての数学を行い、
能力の開発をするチャンスである。
その時期を、塾の作った理解とドリルの練習だけで過ごしてしまうのは、実にもったいない。
実際、高校や大学でゆるぎない数学力を発揮している人達のかなりが、
この時期に熱中して数学に取り組み、数学的な能力の養成をしている。
・ 特に語りたい事は、数ある数学的能力のなかで、カギを握るのは推論力でも発想力でもない。
これらの力は、慣れである程度身につくものだからだ。むしろ大切なのは多くの数学者が述べているように、
[自分で考え自分で工夫する力]
の養成である。
・ この問題はどうやって解くの?、と聞くことから最初のつまずきが始まる。
・ 数学力は学んだことを自分で発展させ、工夫して別の問題を作ったり解いたりする訓練から蓄積される。
しかしその前段階で終わりにしているのが現実となっている。
同時に、思考法や工夫の仕方を教えられる先生がいなくなっていることにも原因がある。
・ 最近の子供を見ていて特に数学で目立つ現象は、[ちょっとした工夫]が出来ないことである。
また、自分の力で長時間考えることができない。それゆえに数学の学力が低下した。
・ イメージを頭に描く訓練を人生の初期段階でやらなかったために、
数学で必要なイメージ力という能力が育っていない子供が多い。その意味でソロバンは役に立つ。
このイメージ力は、中学時代までに訓練しておかないとなかなか身につかない。
・ 数学の出来る子供と出来ない子供の違いは、見かけ上違っている同じ構造の 問題に対して、同じ問題と見ることが出来るか出来ないかに見られる。
・ かなりよく出来る中高生を塾で教えているとき、ときどき (1) 難問を出す。
(2) 5分程度考えさせてから、そこで中断する。
(3) 生徒を指名して、[今、何を考えているの?]と聞く。
すると、
[1] 大抵の子供は、自分が今何を考えているのか意識出来ずに、
ただ漠然と問題を睨んでいるだけだと判明した。
[2] 少し出来る子供は似たような問題を前に見たことがあるので、
その問題と同じような方法で解決出来ないかと考えていた。
[3] もっと出来る子供は、
・・ 多分、帰納法で解決できるのではないかと考えていた。
・・ 手掛かりがないので、まず実験して解の予想をつけていた。
・・ 極端な場合を想定して、手掛かりを見つけようとしていた。
・・ これは、あの定理に関係があるんじゃないかと考えていた。
という答えが返って来る。
そこで、次のようにアドバイスしている。
[1]タイプに対しては、
・・ どんな方法で問題に立ち向かうのか、最初に見通しを立てよ。
・・ そのためには、どんな道具をもっているかを自分で意識化しておかなければならない。
[2]、[3]タイプに対しては、
・・ 自分の思考道具を意識化出来ていても、大抵は一つの道具しか思い浮かばないことが多いだろう。
それがたまたま当たればいいが、そうでないと大変な苦労をしながら時間を費やす。
・・ そこで、他のやり方も沢山知っていて、いろいろ試すことができるようにしておこう。
・・ 同時に、ある方法やプロセスがダメと分かった場合、
なぜダメなのかを徹底的に追及することも必要である。
そして全員に対しては、
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1 数学の問題を解く上で、道具となる思考法はだんだんと身につける。
2 だが特に基本となる考え方は、一通り典型的な問題に結びつけて覚える。
3 基本となる思考法を、意識的に使う訓練をしておくこと。
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と言う。
●栗田哲也氏の言葉から
ーー [数学に感動する頭をつくる ]より(1) ーー
・ 教科書には、[どんな風にして算数や数学の能力を身につけるか]が書かれていない。
書かれている内容は、例えて言えばゲームの規則と簡単な戦法の紹介をしているだけで、
これでサッカー選手になれと言っているようなものである。
・ 教科書を、毎日ごく簡単な基本だけを理解しドリルで予習復習を反復練習すれば
それでよしとする勉強は、ただノルマを果たすことが目的のサラリーマンタイプの勉強方法だ。
これでは、最初は優等生でも後で伸びない。
・ スポーツも数学もサラリーマン学習だけではものにならない。必ず熱中する時代がなければならない。
優等生型の勉強では、能力自体はまるで鍛えられず、単に作業する力を養成しているだけである。
・ 数学パズル的な問題をやって面白いと思っても、数学の面白さとは関係ない。
・ 数学ができるようになるには、そもそも数学の素晴らしさを[感じる心]がなければならない。
そのためだけでも大変な習練を必要とする。
・ 数学者は、難しい問題を征服する征服者の喜びを感じるタイプと、
数学は神の知恵に触れるものと考え、奥深い感動を味わう謙虚なタイプとに大別される。
受験数学は、問題を解く数学だから征服型である。
・ 文部科学省の数学カリキュラムは、数学体系のもっとも初歩的な部分を
理解してもらうことを目標としている。つまり、深い感動を味わう謙虚なタイプの 数学カリキュラムになっている。しかし、現実は感動を味わうところまで行かない。
その理由は、感動を覚えるための能力開発そのものを避けているからだ。
受験数学は、数学の体系を理解するという文部科学省の目的の対局にある。
つまり、深い理解でなく問題を解くための技術に最大の重点がおかれる。ここに大きな矛盾がある。
・ 今や、塾や予備校は数学力の能力開発を謳い文句にしているが、
そもそもその謳い文句がいかがわしいのである。生きる力が実体がない概念であると同様に、
数学力なんていう明確な能力は存在しないからである。
存在しない能力開発を宣伝しているから、[いかがわしい]と言うのである。
・ 数学力は、計算力、記憶力、連想力、イメージ力、推論力、工夫力、抽象力、論理力、観察力、構想力、
集中力、洞察力、発見力、発想力、ミス発見力などなどの総合された能力のことである。
これらは、塾や予備校で簡単に身につけられるものではないことは確かであろう。
右脳ブームでやっても無理である。
・ 子供の数学力を伸ばしたいと思って相談に来る母親は、大抵は明確な目的意識が欠けている。
目先の点数を上げるのと、中学入試に合格するのと、数学力を養成することをまったく一緒くたにしている。
数学力という漠然とした能力の開発を目的にするのではなく、具体的な目標を設定する必要がある。
・ 学校や塾、予備校でも伸ばせない能力は工夫力、イメージ力、発想力である。
この種の能力は、解けそうもない問題を自力で熱中して考え抜く経験から熟成される。
しかし、このような学習は一見効率が悪そうに見えるので世間ではあまり評価されていない。
これをやるのは変人位であるが、実はこれこそが頭を開発する本物の学習である。
・ 国際数学オリンピックに出場する高校生を指導した10年の経験から、
1 数学が非常によく出来る生徒は。
彼らは洞察力、発想力、イメージ力が普通の学生に比べて桁外れであり、
授業しながら彼らから勉強させてもらっている。
2 彼らの大雑把な共通点。
2−1 中学受験は、熱心にやり進学校に合格している。
2−2 ピアノか囲碁将棋が趣味である。
2−3 数学の勉強をやるときは、熱中型である。
2−4 きちんとした子は少なく教材管理は出来ない。
2ー5 字が汚い。
2−6 他教科の出来はすごく出来る子と全然出来ない子とバラつく。
2−7 性格はバラバラで共通点はない。
2−8 工夫力、洞察力が特に優れる。
2−9 幾何学が得意な子は、イメージ力も際だって優れている。
2−10 作業する力は、無頓着なタイプと世間並タイプに分かれる。
2−11 物事を比喩的にとらえる感覚を持った者が多い。
・ 5、6歳から小学校3年くらいまではどんどん覚えさせ、どんどん計算練習させる。
その理由は、この年代は理屈抜きで覚える不思議な暗記力がある時期だからだ。
・ 彼らは、あらゆる学びや遊びを通して能力開発も同時に行っている。
・ ピアノや囲碁将棋を通して、彼らは頭の中に言語ではない何らかのイメージを喚起する力を 養成していると思われる。