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近 世 日 本 に 於 け る 「 楊 家 将 演 義 」 小 説 の 伝 来

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はじめに   日本における「楊家将演義」 1)の認知度は、現代においても依然として高くはない。近年、ようやく本邦初となる完訳本2)が刊行されたことによって、長く低迷していた『楊家将演義』に対する認知度も、僅かずつではあるものの上昇の気配を見せてはいるが、長年に渡って内容はおろか「楊家将演義」という言葉すら一般には知られていない状態であった。これは、そもそも「楊家将演義」小説が、「三国演義」や「水滸伝」などと同時期に日本へは伝来しなかったことに起因するのであろうか。

人気を博し、読本などの好資料となったことは周知の通りである。 禄二年に出版された『三國志』や、この「水滸伝」などが翻案されて ける。近世日本に於いても、『三國志通俗演義』の翻案小説として元 学の中心を成し、清代以降も営々と書き続けられ多くの読者を持ち続 て章回体小説という形式が成熟した明代から清代前期には長編白話文 一つでもある。講史小説とも称されるこれら演義小説は、中国におい 演義」と並んで最も受容された講史小説とも称される中国白話小説の て「水滸伝」が挙げられる。この「水滸伝」という作品は、「三国3)   「楊家将演義」小説が、大きな影響を与えた演義小説のひとつとし に判明している事実も多い。(4) さまざまな中国白話を唐話学習の教本に使用したことなど、現在まで であったこと、更には、岡島冠山を代表とする唐話の指導者たちが、 大きかったことや、京都の禅宗の僧侶たちによって唐本の翻訳が盛ん 読本などに多くの優れた作品がある背景には、中国白話文学の影響が か伝わることはなかったとの意見も散見される。しかし、近世日本の の漢学者たちも概してこの白話を読み下せず、当時の日本には僅かし が、文語ではなく当時の俗語を交えた白話で書かれており、元禄前後   このような翻案小説については、従来その粉本となる中国講史小説

  ならば、近世日本へは未伝来との意見もあるこの二系統の明刊本「楊家将演義」小説も、近世の日本へ伝来していた可能性があるのではないだろうか。そして、もし、伝来していたのであれば、江戸期の文献の何処かに書籍名を確認できるのではないだろうか。更には、近世日本の文学作品、特に中国白話小説の影響が強いとされる繰人形浄瑠璃の台本や読本などの通俗文芸の中に、何らかの形で受容されている可能性も想定し得るのではと考え、本稿にて伝来調査をおこなうこととした。

  そこで、これらを調査、確認するにあたり、中国の白話小説「三国

東京外国語大学国際日本学研究 第 2 号 Tokyo University of Foreign Studies Japan Studies Review №2

近世日本に於ける「楊家将演義」小説の伝来

― 江戸期の文献に見る中国白話小説の痕跡 ― 平原真紀

キーワード:舶載書目、書籍目録、江戸文学、軍談小説、楊家将演義

(2)

演義」や「水滸伝」の近世日本への伝来や伝播、並びに受容の過程を手掛かりとし、まずは江戸期の文献に見る「楊家将演義」小説の書籍名の調査をおこなっていくものとする。尚、『南宋志伝』の一部にも楊家将説話が含まれ、『南北宋志伝』としても刊行されていることから判断し、この『南宋志伝』も『北宋志伝』や『楊家府演義』と共に調査対象とする (5)

一、調査の方法と対象

  近世日本における二系統の明刊本「楊家将演義」小説の伝来と伝播を辿ろうとするとき、いったいどのような方法を辿っていくべきであろうか(6)。日本に伝来し、広く伝播を遂げた「三国演義」や「水滸伝」の近世日本への伝来の痕跡を辿るならば、まずは近世江戸期の鎖国政策を考慮すべきであろう。鎖国政策下の近世江戸期の日本において漢籍が伝来して市中へ伝播するには、長崎出島での唐船貿易や対馬藩と朝鮮との貿易、そして、薩摩藩と中国沿岸部との琉球国を介した貿易が、正規の手続きによる基本的な伝来ルートであった。また、鎖国下の江戸期では、外国書籍全体に対して、禁書としているキリスト教などの書籍に対する検閲政策をおこなっていた為、日本への外国書籍の出入りは厳しく管理されていたことから、禁書検閲に関連する輸入漢籍の書籍目録類が多く現存しているはずである。

  鎖国政策下の江戸期には、長崎の出島へ唐船が唐本(漢籍)を舶載して入港すると、通常であれば唐船頭から舶載目録とは別に、積荷にある書籍の目録(齎來書目)が提出される。その後、一般の積荷であれば、唐船貨物の粗荷役によって唐人屋敷内の新地蔵経由で精荷役の後、国内へ入荷となるが、書籍類は全て、船荷とは全く異なる経路を辿る。舶載書籍の「齎來書目」が提出された後、貞亨二年以前であれ ば書物改役春徳寺へ、以降であれば中島の聖堂へ運ばれて書物改めが行われる。この書物改めでは、全ての舶載書目を一冊一冊、一葉一葉、キリシタンの記述がないかの吟味をおこなうため、非常に時間を要する作業となる。  元禄六年以降には、さらに一冊ごとに「大意書」と称される書物概要を記したものが作られるようになる。この大意書がある程度まとまると、江戸の老中へと送られて、老中による見分を経て入荷の可否が決められ、その結果がまた長崎へと通達される 7)。この老中からの許可を得て初めて、入港した漢籍が商売の対象となり、荷受け作業に入ることができる。また、大意書が江戸へおくられている間に、「書籍元帳」と呼ばれる齎來書目の再確認を兼ねた正確な書籍目録が作成され、これを基に全ての舶載書籍の売買をおこなっていくことになる。更に、老中からの許可が下りた後にも、多くの手続きと取引を経たのちに、日本各地へと書籍が配送されるため、これに関わる目録類も多岐に渡って作られる。  そこで、現存する舶載書目類が最も多いであろう、長崎出島における漢籍の入荷状況から調査を進めるべきだと判断し、貿易品としての漢籍を唐船持渡書などの舶載書目類から調査に着手することとした。尚、現在までに、これら齎來書目で現存が確認できるものは36 艘分、大意書は和綴冊子状のものが

「舶来書籍大意書戌船」などの関連書目は、いくつか現存を確認できる。 11点のみであるものの、これに関連する   また、これら「齎來書目」や「目大意書(大意書)」、「書籍元帳」、等と共に、「見帳」、「直組帳」、「落札帳」など、漢籍輸入に関わる第一次資料8)としての書籍目録類を初期調査の対象とした。次いで、商舶載船書目類などから、「二酉洞」、「唐本類書考」、「分類舶載書目」、「購来書目」、「舶載書目」、「唐本法帳船来書目」、「唐本書目」、及び「御

(3)

文庫書目」9)などの第二次資料も調査対象として挙げることができると判断した。更に、江戸幕府が所蔵管理する書籍の目録類や蔵書目録などが現存しており、これらの資料を調査することも有効であろうと考えた。

  これは例えば、幕府などでは将軍の書物方が将軍家蔵書の出入り記録を記している『御書物方日記』などがこれに該当する。そこで、江戸時代の各藩における書籍目録類や蔵書目録なども、併せて調査の対象とした

享保新渡書目』 。また、近世江戸期の文人・松岡玄達書写資料の『元禄10

著述書目』などの書目類、ひいては、『学芸大名列伝』 学者集、漢学者集らによる、『慶長来緒家著述目録』や『近世漢学家 をはじめ、幕府とは関わりのない御書物師や御儒11

大名」 大名や前田綱紀や毛利高標、市橋長昭など、所謂書籍の「コレクター に記載の12

に代表される当時の有名な蔵書家個人の蔵書 と称される大名たちの蔵書目録類、大田南畝や木村蒹葭堂13

ろうと判断した。 の調査も有効であ14

  書籍を収集し、それらの題名や大意を含む書誌情報を目録として編纂した、所謂書籍目録というものは、当然のことながら世の中に書物が現れた頃より既に存在していたものである。日本における現存最古の漢籍目録が、九世紀末の藤原佐世撰『日本国見在書目録』という漢籍目録であるのは既に周知の事であるが、この『日本国見在書目録』以降、平安末期の藤原道憲『通憲入道蔵書目録』を筆頭に、様々な書籍目録が記されてきた。但し、これらの書籍目録類は、書籍そのものが一般庶民には縁のない時代のものであったことは言うまでもない。これらの書目類とは別に、書籍が時の権力者や支配者階層の専有物ではなくなった時代、つまり、出版そのものが市井の商売として成立した江戸時代には、書籍目録そのものが販売する価値のある書籍として 陸続と刊行した時代でもある。  このように広範な分野における大量の出版物を世に送り出した江戸時代の出版業界へ目を向ける時、この出版業界が刊行した書目類にも当然目を向けるべきであると考えた。江戸時代において、初めて書籍目録と称されるものが確認できるのは、寛文六年の『和漢書籍目録』である。これ以降、享和元年の『合類書籍目録大全』の刊行に至るまでの、例えば、『増益書籍目録』

、『新増書籍目録』15

目録』 、『辨疑書16

、『書目集覧』17

版書目』と『享保以後大坂出版書籍目録』 、『和漢軍談記略大成』、『享保以後江戸出18

、『日本書目大成』19

20

などの大型書目や漢籍に関する書目類も調査対象に含めることとした

際の調査結果を纏めていくこととする。 。本調査の足掛かりとしては、まず以上の範囲を優先として実21

二、江戸期の資料にみる「楊家将演義」小説

  本節においては、江戸時代における唐船持渡書の文献や書目に、「楊家将演義」小説に関係する書名が記載されているかどうか調査した結果について整理、考察を進めていく。

  前節において江戸期における漢籍の伝来を調査するため、着手すべきは唐船持渡書類であると判断し、現存する「齎來書目」や「目大意書(大意書)」、「書籍元帳」より調査をおこなっていった。様々な唐船持渡書目を調査する中で、宮内庁書陵部所蔵の「舶載書目」に、該当する書名の記載を三点、確認することができた

22

㈠舶載書目

23

  この宮内庁書陵部所蔵「舶載書目」二十七校閲写享保十二年書目

では、 24

(4)

  一、南宋志伝   一、北宋志伝

さらに、

  一、叙鍥南宋志傳演義  の、計三点の書名を確認できる。まず、『南宋志伝』と『北宋志伝』との記載についてだが、書名の前に「兩宋」

ることが分かる 刻玉茗堂批點繍像南北宋傳』と同一、もしくは、同一系統の板本であ より、この板本は、日本内閣府文庫所蔵、明葉崐池刊玉茗堂批點本『新    茗堂」や「序萬暦戊午中秋日玉茗主人題」などの記載があること 誌情報部分を確認すると、「織里畸人校閲」「織里畸人書於玉茗堂」「玉 宋傳』や『南北宋傳』などと総称していた為である。この両板本の書 これは『南宋志伝』、『北宋志伝』の書名で刊行されているものを、『両 の記載が確認できた。25

26

板本であることが分かる 年序刊の金陵唐氏世徳堂本と同一、もしくは同一系統の『南宋志伝』 校訂」、とあることから、この板本が内閣府文庫所蔵の明万暦二十一 誌情報に「癸巳長至日敍」、「姑孰陳氏尺蠖齋評釈」、「編谷唐氏世徳堂   『叙鍥南宋志傳演義』との書名については、この「舶載書目」の書

27

 ㈡商舶載書目

28

  次に、国立国会図書館に所蔵の「商舶載書目」

の通り。 家将演義」小説の書名を確認することができた。確認できた書名は次 29からも、計四点、「楊   一、享保十二年未年

  『南宋志傳』一部一套   一、安永八己亥年に『南北宋志傳』一部一套   一、安永元年壬辰年に『楊家府演義』一部一套   一、寛政七乙卯年に『楊家将演義』一部一套   この「商舶載書目」には書誌事項の記載がないため、板本を特定することはできないが、『北宋志伝』系の板本では、享保十二年未年に『南宋志傳』一部一套、安永八己亥年に『南北宋志傳』一部一套、との記載が確認できる。『楊家府演義』系の板本では、安永元年壬辰年に『楊家府演義』一部一套の記載が確認できる。また、寛政七乙卯年に『楊家将演義』一部一套の記載があるが、この年代の『楊家将演義』については、『楊家府演義』系板本であろうと推測できる

30

  以上の江戸期における漢籍輸入の係る舶載船書目録類の調査結果から、二系統の明刊本「楊家将演義」小説が江戸期の日本へ確かに伝来していたことが、複数の書籍目録などの書目類から確認できた。では、これらの書籍は、その後どこに所蔵され、誰が目を通していたのかについても何か痕跡を確認できるだろうか。江戸時代に唐船によって輸入された漢籍ならば、長崎で大意書が作成されているはずである。そこで、江戸時代の幕府資料を調査することにした。すると、江戸時代の幕府御書物方日記(留牒)に、以下のような記述を確認した。

 ㈢幕府御書物方日記(留牒)

  幕府御書物方日記「享保十七年壬子留牒」

載を確認できた。 31では、次のような記

(5)

  留牒  十五    五ノ廿九番エ入    〇両宋志傳通俗演義      十冊  一帙      茶蝋引表紙  白糸  無外題     桃色シュチン      右兵庫頭殿御渡是ハ去末十月廿六日御預ケニ

    成候由被仰渡候御書物ニて候但高其節長崎より     来候御本ハ兩宋志傳ニて候板宜からす候ニ付     荻生惣七郎所持之本差上則此御書物ニて候     長崎より御取寄之御書物ハ荻生惣七郎ヘ被下候     此段為覚被仰聞候由御同人被仰渡候           四月廿七日          松村左兵衛   ここでは、享保十七年壬子年の四月廿七日に、『北宋志伝』系の板本である『両宋志傳通俗演義』が将軍の書物蔵へ入った旨の記述が確認できる。また、この入庫に際して第八代将軍徳川吉宗が、元々所持していた長崎からの板本の状態が良いものではなかったため、荻生徂徠の弟である荻生惣七郎(荻生北渓)、が所持していた板本を献上し、長崎から届いた粗悪品の板本と交換した旨の記載も確認できる。

  これにより江戸時代の第八代将軍徳川吉宗や荻生惣七郎が、この時点で『北宋志伝』系の板本である『南北宋志伝』を所持していたことが確認できる。つまり、二系統の明刊本「楊家将演義」小説は、江戸期の日本へ伝来しており、そのうち『南北宋志伝』が、第八第将軍徳川吉宗の時代に、幕府の書物蔵へ入庫していたのである。また、同じ時期に、荻生徂徠の弟で、儒学者であった荻生惣七郎(荻生北渓)の手元にもこの『南北宋志伝』が所蔵されていたということまでが判明 した。

三、「楊家将演義」小説と『通俗軍談二十一史』

  前節までに、二系統の明刊本「楊家将演義」小説、『北宋志伝』(『南北宋志伝』や『南宋志伝』も含む)と『楊家府演義』の双方が、共に近世の日本へ伝来していたことを、舶載書目や江戸幕府の御書物方日記などの文献に書籍名を確認することで明かにした。では、この両小説は、果たして近世日本の市井においても流通・伝播していたのだろうか。本節においては、近世江戸期における「楊家将演義」小説の伝播の痕跡を調査していく。

  この調査では、日本において初めて翻案された中国白話小説『三國志』に手掛かりを求めることにした。『三國志』は、近世日本において翻案されて非常な人気を博し、その後の「通俗軍談」刊行へと繋がった作品でもある。周知の通り、この「軍談」とは、江戸時代の通俗小説を指し、合戦を題材としたもので、もともとは仏教を庶民に広める目的で行われた唱導という語り物であった

談紀略大成』という書籍目録に辿り着いた。 の日本伝播について、この「通俗軍談」を調査したところ、『和漢軍 へと発展していくことになる。そこで、二系統の「楊家将演義」小説 にした翻案小説である「通俗軍談」(「支那軍談書」とも称す)の編纂 後、様々な軍談小説を世に送り出しつつ、中国の史書や演義小説を基 使い、元禄二年刊行の『三國志』に代表されるこの「軍談」は、その 称されるようになった。中国の演義小説を翻案した際にもこの表記を 盛大に行われた「太平記読み」が、近世江戸期までに所謂「軍談」と 。その後、足利時代に32

 

(6)

㈣『和漢軍談紀略大成』

  『和漢軍談紀略考大成』

としたものであった ところ、この書籍が『北宋志伝』系の板本である『南宋志伝』を粉本 記載を確認できることから、『通俗宋史軍談』の記載内容を確認した の太祖開宝八年まで五代八姓十二君五十年の間の合戦をしるす」との 載が確認できるのだが、この解説部に、「後唐の明宗天咸二年より宗 目が確認できる。更に、その項目の中に「同宋史軍談」との書名の記 先生校の記載があり、その内容に、「漢(マルに漢)通俗軍志」の項 屋善兵衛による歴代出所書目である。また、この目録には、海西鶴峰 とは、東都書林・和泉屋吉兵衛・和泉33

34

   周知の通り、一般に「通俗軍談」といえば、中国の白話小説をそのまま邦訳するのではなく、その骨子は正史より採り、演義小説はその脚色の参考程度に留めた作品が多いとされるが、この『通俗宋史軍談』の内容を確認したところ、確かに『水滸伝』や史実からの加筆箇所は多数見受けられるものの、基本的には『南宋志傳』の翻案を内容とするものであった

俗二十一史』という書籍群に辿り着いた。 。この書籍を足掛かりとして更に調査を進め、『通35

㈤『通俗二十一史』「宋史軍談」

  この『通俗二十一史』第一巻

、並びにその第36

17巻「宋史軍談」

を確認することができた 宋志伝』を、徳田武氏が既に、ゆまに書房より邦訳出版していること についても調査をおこなったところ、『宋史軍談』の粉本である『南 37

近世日本に於いての伝播と、現代における邦訳本について確認でき 系の板本であり、その一部に楊家将説話を含んでいる『南宋志伝』の 38。この刊本の調査結果から、『北宋志伝』 宋比志軍談』が『北宋志伝』である可能性についても述べている   の巻末に、『通俗宋比志軍談近日出来』の広告頁があり、この『通俗 た。更に、川浩二氏によると『通俗二十一史』のうちの『宋史太祖軍談』

39

  この論拠として徳田氏は、巻二十・第九十三則に、もともと『南宋志伝』にはない、太祖が天下統一を果たしたものの依然として契丹や河東を攻めあぐねている理由として、自軍の背後に楊業がいるためだと、楊業の存在を示唆していることを挙げている。ただ、この『通俗宋史太祖軍談』が作られて後は、江戸市中において次々に軍談小説が刊行される状況ではなくなり、結局、『五代史演義』や『北宋志伝』、『楊家府演義』などが、日本の読者に広く知られる機会を得ることはなかったとしている。そこで、この調査結果より、更に他の書籍や目録にも「楊家将演義」小説の書籍名を確認できる可能性があると考え、更には、近世日本の文学作品などに「楊家将演義」小説が受容されている可能性についても、これと併せて調査をおこなうこととした。

  以上の調査結果に追記しておくならば、現在までにもう一点、二系統の「楊家将演義」小説の書籍名である可能性が高い資料を確認している。それは、江戸時代に中国白話の学習工具書として編纂され、白話語彙を収集した天明四年序文の『小説字彙』に付されている「援引書目」である。この「援引書目」には、数多くの中国白話小説題目が記されているのだが、川上陽介氏によると、この『小説字彙』は、もともと先行する白話辞書『怯里馬赤』から、その語彙の八割を借用しているとされるため、秋水演主人による語彙の出典典拠については怪しいものがあるともされている

40

  この「援引書目」に記載の中国白話文学作品の全題目の中に、『南北宋則(ママ)』との書名が確認できる。前出の川上陽介氏によると、「どのリストを見ても、かならずと言ってよいほど、いずれかの書名に誤

(7)

字が認められる」とのことであり、一覧表に記載の周囲の書籍名である『続英列伝』や『両漢演義』から類推する時、この『南北宋則』が『南北宋伝』の可能性が高いと推測するものである。但し、この題目名の誤記については、今後更なる調査の必要があるだろう。

四、曲亭馬琴と「楊家将演義」小説

  前節において、『和漢軍談紀略考大成』海西鶴峰先生校の記載の各軍談小説の刊行年度を確認したところ、享保から元禄を中心とした時代の刊行であった。また、前述の商舶載書目の年号も享保であったことも勘案し、享保から元禄にかけて江戸や上方で盛んであった通俗文芸である繰人形浄瑠璃や歌舞伎などの台本作家、「水滸伝」や「三國志」の関連書籍や読本作家など、作品の参考文献や個人の読書記録などに「楊家将演義」小説の書名の有無を調査することとした。これらの対象資料の調査結果、曲亭馬琴・高山蘭山による訳編の『新編水滸画伝』第一の編訳引書部分に記載を確認した。

㈥『新編水滸画伝』

  この『水滸画伝』(『新編水滸画伝』第一)

月』冒頭部分の題詞に辿り着いた。 亭馬琴の作品を一つ一つ調査していったところ、曲亭馬琴『椿説弓張 かに目を通していたということになる。また、この結果を受けて、曲 でなく「楊家将演義」小説の板本の一つである『北宋志伝』にも、確 名を確認することができる。つまり、曲亭馬琴は、『南宋志伝』だけ 統志』や『金瓶梅』などの書名と共に、確かに『南北宋志伝』との書 の編訳引書部分には、『一41 ㈦『椿説弓張月』

42

  この『椿説弓張月』の冒頭に記載の「題詞」全十五種についての先行研究には、曲亭馬琴の自選自集『曲亭馬琴家集』に、この中の一首を採録していることを論拠として、この十五首全てが馬琴自作であるとする意見も見られる

様子が克明に詠まれている。 詞では、主人公源為朝が敵の軍勢を打ち破り、琉球を統一するまでの 。確かに、これら『椿説弓張月』冒頭の題43

  しかしながら、この題詞については徳田武氏によって「これら十五首すべてが馬琴の自作という訳ではない」と指摘されている

ととした 北宋志伝』挿入詩の対比表」を作成の上で、この点の考察を進めるこ らの借用なのであろうか。そこで筆者は、「為朝外傳弓張月題詞」と『南 一体この題詞のうち何首の詩が、『南宋志伝』または『北宋志伝』か 。では、44

『北宋志伝』のどちらの伝の第何回のものかを明記している。 する『南宋志伝』または『北宋志伝』の挿入詩の有無と、『南宋志伝』 詞」全十五首を提示しているが、その下段に、それぞれの漢詩に対応 。この対比表の上段には、『椿説弓張月』冒頭部分の「題45

 

(8)

9

『 曲 亭 馬 琴 家 集

』 に

、 こ の 中 の 一 首 を 採 録 し て い る こ と を 論 拠 と し て

、 こ の 十 五 首 全 て が 馬 琴 自 作 で あ る と す る 意 見 も 見 ら れ る

4

3

。 確 か に

、 こ れ ら 『 椿 説 弓 張 月

』 冒 頭 の 題 詞 で は

、 主 人 公 源 為 朝 が 敵 の 軍 勢 を 打 ち 破 り

、 琉 球 を 統 一 す る ま で の 様 子 が 克 明 に 詠 ま れ て い る

。 し か し な が ら

、 こ の 題 詞 に つ い て は 徳 田 武 氏 に よ っ て 「 こ れ ら 十 五 首 す べ て が 馬 琴 の 自 作 と い う 訳 で は な い

」 と 指 摘 さ れ て い る

4

4

。 で は

、 一 体 こ の 題 詞 の う ち 何 首 の 詩 が

、 『 南 宋 志 伝

』 ま た は

『 北 宋 志 伝

』 か ら の 借 用 な の で あ ろ う か

。 そ こ で 筆 者 は

、 「 為 朝 外 傳 弓 張 月 題 詞

」 と

『 南 北 宋 志 伝

』 挿 入 詩 の 対 比 表

」 を 作 成 の 上 で

、 こ の 点 の 考 察 を 進 め る こ と と し た

4

5

。 こ の 対 比 表 の 上 段 に は

、 『 椿 説 弓 張 月

』 冒 頭 部 分 の

「 題 詞

」 全 十 五 首 を 提 示 し て い る が

、 そ の 下 段 に

、 そ れ ぞ れ の 漢 詩 に 対 応 す る

『 南 宋 志 伝

』 ま た は

『 北 宋 志 伝

』 の 挿 入 詩 の 有 無 と

、 『 南 宋 志 伝

』 『 北 宋 志 伝

』 の ど ち ら の 伝 の 第 何 回 の も の か を 明 記 し て い る

【 図 図 一 一

為 為 朝 朝外 外 傳 傳 弓 弓張 張 月 月題 題 詞 詞

」と と

『南 南 北 北宋 宋 志 志 伝 伝』

』 挿 挿入 入 詩 詩 の の対 対 比 比表 表

」( 傍 線 は 筆者 に よ る

こ の 対 比 表 か ら

、 『 椿 説 弓 張 月

』 冒 頭 の

「 題 詩

」 全 十 五 首 の う ち

、 『 北 宋 志 伝

』 ま た は

『 南 宋 志 伝

』 の 挿 入 詩 と 一 言 一 句 違 わ な い も の が 三 首

、 一 部 分 の 語 句 が 書 き 換 え ら れ て い る も の が 十 首

、 合 計 十 三 首 の

4 3

『 曲 亭 馬 琴家 集

』( 自 選自 集

) に 一 首採 録

、「 此 レ 拙著 弓 張 月 初集 ニ 題 ス ル 所、 絶 句 一 十 五篇 ノ 一 也

」 との 記 載 あ り

4 4

徳 田 武 日本 書 誌 学 大 系51

『 日 本 近 世小 説 と 中 国 小説

』 青 裳 堂書 店

昭62.5.25

4 5

こ の 対 比 表を 作 成 す る にあ た り

① 国立 国 会 図 書 館所 蔵 経 国 堂『 玉 茗 堂 批 點繍 像 南 北 宋 志傳

② 東 北 大学 所 蔵 維 経 堂

『玉 茗 堂 主 人 按鑑 批 點 南 北 宋志 傳

③ 国 立故 宮 博 物 院

『楊 家 府 世 代 忠勇 演 義 志 傳

』④ 国 立 国 会図 書 館 所 蔵

『鐫 出 像 楊 家 府世 代 忠 勇 演 義志 傳

⑤ 国 立国 会 図 書 館 所蔵

・ 春 江 堂

『椿 説 弓 張 月

』1911

⑥ 日本 古 典 文 学 大系

『 椿 説 弓 張月

』 岩 波 書 店1962

年 な ど を参 考 と し た

【図一】「為朝外傳弓張月題詞」と『南北宋志伝』挿入詩の対比表」(傍線は筆者による)

(9)

  この対比表から、『椿説弓張月』冒頭の「題詩」全十五首のうち、『北宋志伝』または『南宋志伝』の挿入詩と一言一句違わないものが三首、一部分の語句が書き換えられているものが十首、合計十三首の「題詞」が『南宋志伝』または『北宋志伝』からの借用であることが確認できる。傍線部については、『南宋志伝』『北宋志伝』とは異なる語句が確認できる部分である。この傍線部分の改筆箇所からは、『南宋志伝』や『北宋志伝』に於いて元来挿入されている各情節に合致する内容の漢詩の一部を、『椿説弓張月』に沿った表現に書き換えて、それぞれの「題詞」の内容と、『椿説弓張月』の内容とが整合性を持つように改変していることが明白に読み取れる。以上の調査により、曲亭馬琴の作品『椿説弓張月』の中に、二系統の明刊本「楊家将演義」小説のうち、『北宋志伝』及び、『南宋志伝』に記載の挿入詩が受容されていることを確認することができた。

  このような題詞の借用から、『椿説弓張月』の本文も精読し確認したところ、「巨漢の美男子で弓の名手でもある名家の御曹司」という設定や、「宴席での強引な弓矢の腕比べ」、「次々に現れて求婚する美女達」、「仙女と仙桃と兵法書」、「雲に乗るおぞましい妖怪が加勢する敵軍」、などのプロットやモチーフに、既視感を覚えるに至った。それは、これら『椿説弓張月』の中で描かれているプロットやモチーフに、『楊家府演義』の内容と非常に類似していたものをいくつも読み取ったためであった。換言するならば、この既視感とは、『椿説弓張月』という作品が、二系統の「楊家将演義」小説を受容している可能性があるのではないだろうかという推測でもあった。

  馬琴に関しては、先行研究や史料

本、果ては医学書や経典に至るまで、和書漢籍を問わず万巻の書を看 や国学、諸子百家のみならず、講史小説や繰人形浄瑠璃や歌舞伎の台 46からも、幼少の頃より儒学 いう共通点である 志伝』と呼応する挿入詩や注釈を執拗なまでに多く書き残していると の中で、馬琴同様に『北宋志伝』の書名を一切出すことなく、『北宋 る。それは、前章までに指摘したように、紀振倫もまた『楊家府演義』 の対比表からは更に、曲亭馬琴と紀振倫の共通点を見出すことができ 勢とも非常に類似した執筆姿勢であるということができる。また、こ とされており、この点は『楊家府演義』の編者である紀振倫の執筆姿 破し、勧善懲悪、因果応報を旨とした道義的で教訓的な作風であった

47

おわりに

  本稿では、まず、二系統の明刊本「楊家将演義」小説が近世日本へ渡来していることを示す記述を、唐船持渡書の「舶載書目」や江戸幕府の「御書物方日記」などの文献に確認した。これによって、二系統の「楊家将演義」小説が確かに近世日本へ伝来しており、第八代将軍徳川吉宗の時代には、『南北宋志伝』が、荻生北渓所持の板本と交換の上で、御書物蔵へ入ったことまでを確認するに至った。

  続いて、江戸時代の出版目録『和漢軍談紀略大成』の『通俗軍談二十一史』の項目の中に『南宋志伝』の翻案小説である『通俗宋史軍談』の書名の記載を確認することができた。この『通俗宋史軍談』の翻案内容については、一般に「通俗軍談とは、骨子を正史から採り演義小説はその脚色の参考に止め、内容を大幅に改作された」とされるような内容ではないことを確認した。この作品は、確かに本文に『水滸伝』や史実からの加筆箇所は多数見受けられるものの、基本的には『南宋志傳』の翻案小説であるということが確認できた。更に、この『南宋志伝』が、徳田武氏によって既に現代日本で翻訳刊行されていることも確認することができた。

(10)

  更に、曲亭馬琴・高山蘭山による訳編の『新編水滸画伝』第一の編訳引書部分に、『南北宋志伝』の書名を確認できただけでなく、そこから曲亭馬琴の『椿説弓張月』冒頭に記載の、全十五首の「題詞」に『南北宋志伝』の挿入詩が十三首も借用されていることや、その一部分を『椿説弓張月』の内容に合わせて改作していることも確認した。これによって、曲亭馬琴の『椿説弓張月』が、『南北宋志伝』の挿入詩を受容した作品であるということが判明した。この題詞の借用姿勢を受け、『椿説弓張月』本文を精読したところ、作品に描かれているいくつものモチーフやプロットに既視感を覚えることとなった。それは、『椿説弓張月』のプロットやモチーフに「楊家将演義」小説、とりわけ『楊家府演義』との共通点を多確認したことによる既視感であった。馬琴による「援引書目」や『惜字雑箋』などの読書記録は諸所に存在しているが、二系統の「楊家将演義」小説の書籍名は未だ確認できてはいない。しかし、たとえ資料に記載がない作品であっても、馬琴の有力な執筆材料となったものが他にも多く存在することは、多くの先行研究によって明らかになっている。

  以上の調査結果より、今後、更に記録文献を調査・確認するだけでなく、実際に両作品のプロットやモチーフを詳細に考察し分析することによって、『椿説弓張月』と二系統の「楊家将演義」小説との間に、何か関係性が見えてくるのではないかと現時点で予測している。本稿による報告は、ここまでで一旦区切りとし、今後、判明した馬琴と紀振倫の執筆姿勢に関する類似点や、漢詩の引用を伏せた改作などの共通点、両作品に共通するモチーフやプロットなどを総合的に調査し、『椿説弓張月』本文における『楊家将演義」小説受容の可能性について、更なる調査と考察をおこなっていくこととする。 (1)本稿においては、主な使用板本として、国立国会図書館所蔵経国堂『玉茗堂批點繍像南北宋志傳』、東北大学所蔵維経堂『玉茗堂主人按鑑批點南北宋志傳』、国立故宮博物院『楊家府世代忠勇演義志傳』、国立国会図書館所蔵『鐫出像楊家府世代忠勇演義志傳』を、適宜利用した。(2)岡崎由美・松浦智子『完訳楊家将演義』上下  勉誠出版2015(3)「楊家将演義」と「水滸伝」の類似点と関係性について、また、「水滸伝」に「楊家将演義」が与えた影響については、中鉢雅量『中国小説研究―水滸伝を中心として―』「第三章楊家将演義と水滸伝」汲古書院・汲古叢書8 1992.8 に詳しい。(4)岡島冠山を始めとした江戸時代の唐話学習の状況については、西原大輔「江戸時代の中国語研究―岡島冠山と荻生徂徠―」『比較文学・文化論集』(9) 1992.7に詳しい。(5)『南宋志伝』と『北宋志伝』の関係、並びに、その詳細な内容や構造、含まれる楊家将説話に関しては、上田望「講史小説と歴史書(2)―『残党五代史演義』、『南宋志伝』の構造と変容―」『東洋文化研究所』第137冊 1999.3、上田望「講史小説と歴史書(3)  ―『北宋志伝』、『楊家将演義』の成書過程と構造―」『金沢大学中国語学中国文学教室紀要』第4 輯1999.4 に詳しい。(6)近世日本における漢籍の調査方法に関しては、大庭脩著者兼編輯『江戸時代における唐船持渡書の研究』関西大学東西学術研究所昭和

41.11 をはじめとして、江戸幕府の為に書物を購入する担当者である書物師と出版業界に関するものとして、上里春生『江戸書籍商史』名著刊行会1965 、蒔田稲城『京阪書籍商史』臨川書店1982 、岡村敬二『江戸の蔵書家たち』講談社1996.3 、長友千代治『江戸時代の

(11)

書物と読書』東京堂出版2001 、藤實久美子「椛山文庫の管理と書物師出雲寺」『学習院史学』31 1993、などを参照した。(7)大意書については、当初はすべての書籍について書かれていたが、渡来する漢籍が増え、同じ書籍が複数回渡来することも起こってきたため、宝暦六年六月からは、二度目以降の渡来書に関しては大意書が不要となった。(8)本稿においては、漢籍輸入に関して、書籍原本を確認の上作成された目録などを「第一次資料」、輸入後の物流・蔵書に係る書籍目録や書籍名の記録を「第二次資料」と定義する。(9)日本における漢籍受容の調査においては、徳川幕府などが文書を保存し、「御文庫」と称される書籍の保管管理を行う場所が存在するため、この「御文庫」から確認することとした。また、この徳川幕府の紅葉山文庫のほかに、日本最古の武家文庫としては、金沢文庫もあげることができる。更に、栃木には中世以来の学校である足利学校があり、上杉憲実によって金沢文庫本を含む宋版などが寄進され、その蔵書の豊かさは周知のとおりである。(

( れている各藩の文庫についても、調査の対象としている。 2010 本漢文学研究』二松学舎大学に詳しい。この中で取り上げら の漢籍目録―外様大名支配下における漢籍の受容について―」『日 10)江戸時代における各藩の漢籍目録に関しては、高山節也「江戸時代

( 11)天理図書館収蔵

( 治郷らが記載されている。 藤孝、徳川宗春、佐竹義和、土井利位、松浦静山、島津重豪、松平 121967 )児玉幸多・木村楚『学芸大名列伝』新人物往来社、には、細川 13)大庭脩『漢籍輸入の文化史―聖徳太子から吉宗へ―』研文出版

1997.1 (

( 松浦静山、朽木昌綱等と、多士済々であったとされる。 淇園、山岡浚明、大槻玄沢、小野蘭山、青木木米、谷文晁、浦上玉堂、 名等で、頼春水、上田秋成、本居宣長、佐藤一斎、細合半斎、皆川 様職業も広範囲で、漢詩人、作家、学者、医者、本草家、絵師、大 ごとのサークルを形成していたとされる。また、蒹葭堂も南畝と同 蔦谷重三郎、市橋長昭、松浦静山、中川忠英などとは、時には分野 小山田与清、塙保己一、伊沢蘭軒、谷文晁、近藤重蔵、鈴木白藤、 上田秋成、山東京伝、狩谷斎、岸本由豆流、清水浜臣、亀田鵬斎、 たちと交遊関係にあり、北川真顔(狂歌堂)、尾藤二洲、恋川春町、 作家、学者、医者、絵師、幕臣、大名等さまざまな職業を持った人 蔵書家として聞こえていたとされている。南畝は、狂歌師、漢詩人、 1749-18231736-1802 として、東は大田南畝()、西は木村蒹葭堂()が、 2002―』雄松堂出版によると、江戸時代後半期を代表する文化人 14)国立国会図書館編『人と蔵書と蔵書印―国立国会図書館所蔵本から

( 源兵衛編による。 1709の数量を記録したもの。また、年に再版されたが、これは丸屋 151696 )河内屋利兵衛編、当時の書林の間で取り扱った書物の値段とそ

( 増書籍目録』には値段付大意が付されている。 161681)山田喜兵衛編、内容は『増益書籍目録』とほぼ同じだが、『新

( 和漢の転籍を索捜するための書籍目録。 乱するため、いろいろ弁明せざるを得ない」との記載があり、広く 171710)中村富平篇、凡例部分に、「疑似と言える書名が多く、大変混

( を収録している。 『寛文書籍目録』、『享保書籍目録』、『宝暦書籍目録』、『明和書籍目録』 181928 )禿氏祐祥編初刊行で、江戸期に出版された『元禄書籍目録』、

19)「享保以後」として、『書目集覧』、『享保書籍目録』、『宝暦書籍目録』、

(12)

『明和書籍目録』を収録している。(

( 収録している。 201979)長沢規矩也・安部隆一編、本書目は上古からの日本伝存目録を

( おこなった。 調査にあたっては、本書に記載の書籍目録を足掛かりとして調査を 1996.3 戸の蔵書家たち』講談社に詳しく、本稿における近世書目の 21)江戸時代の書籍目録の成立や、目録の分類に関しては、岡村敬二『江

( 52.2.101977本』毎日新聞社昭()ほかを、参考とした。  52.2.101977 社昭()・中野三敏「漢文劇作の展開」『江戸文学と日 21.5.1三省堂昭・諏訪春雄・日野辰夫『江戸文学と日本』毎日新聞   1980.5.15 方選書5東方書店、・麻生磯次『江戸文学と中国文学』 22)江戸時代の漢籍輸入に関しては、大庭脩『江戸時代の日中秘話』東 の詳細を示す書類―現在の船舶貿易に係る船積書類や通関書類の 23)舶載書目には、唐船頭から提出される「齎来書目」を始め、積荷 Packing List のような目録―が存在していた。(

( 24)宮内庁書陵部所蔵『舶載書目』二十七校閲写享保十二年書目

( を意味する場合もある。 異書籍名を示している。また、『南宋志伝』と『北宋志伝』の合本 25)この「兩宋」とは、『南北両宋志伝』の略名や、『南北両宋志伝』の

( 26  1987.5.15)大塚秀高『増補中国通俗小説書目』汲古書院

( 27  1987.5.15 )大塚秀高『増補中国通俗小説書目』汲古書院

( に係る書類の一つで、舶載書籍名の一覧である。 2822 )この「商舶載書目」についても、注と同様に、船舶積荷の輸入

(  41.11.1 船持渡書の資料関西大学東西学術研究所昭和 29)大庭脩著者兼編輯『江戸時代における唐船持渡書の研究』第三章唐

301982 )黄立振『八百種古典文学著作紹介』 (

( 保十七年壬子留牒」 31)国立公文書デジタル館資料内閣府文庫所蔵江戸幕府書物方日記「享

( に端を発し、大久保彦左衛門による『三河物語』に代表される。 軍談を武道教育に取り入れようと軍書の類を読み聞かせて語ること 32)この唱導は、山鹿素行や由井正雪ら兵法学者たちが、史実としての

( 33)国立国会図書館所蔵『和漢軍談紀略考大成』

( 34)『宋史軍談』の書籍名は、『大坂目録』にもその書名を確認できる。

引用部分について」『中国文学研究』 いては、川浩二「『通俗宋史太祖軍談』の譯者松下氏による増補・ 35)『通俗宋史軍談』の内容、及び、史書類による増補や翻案内容につ

40  早稻田大學中國文學會 2014.12 、に詳しい。(

36  )早稲田大学出版部『通俗二十一史』第一巻明治

44

37)早稲田大学出版部『通俗二十一史』「宋史軍談」明治

44

38)徳田武『新刊出像補訂参采史南宋志伝通俗演義題評』ゆまに書房

1983(

について」『中国文学研究』 39)川浩二「『通俗宋史太祖軍談』の譯者松下氏による増補・引用部分

( 40  2014.12 早稻田大學中國文學會 ついて―『覚世名言』『春燈閙』『燈月縁』ほか」『江戸文学』 40)川上陽介「『小説字彙』「援引書目」に見える中国白話文学作品に

38

2008.6(

(   朋友堂書店昭和2 41  )曲亭馬琴・高山蘭山編訳「新編水滸画伝」『水滸画伝』朋友堂文庫 42)『椿説弓張月』については、国立国会図書館所蔵・春江堂『椿説弓張月』

1911 年を主な板本とし、日本古典文学大系『椿説弓張月』岩波書店 1962 年などを適宜参照した。(

43)『曲亭馬琴家集』(自選自集)に一首採録、「此レ拙著弓張月初集ニ

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題スル所、絶句一十五篇ノ一也」との記載あり。(

44)徳田武日本書誌学大系

( 62.5.25 昭 51  『日本近世小説と中国小説』青裳堂書店

( 1962 説弓張月』岩波書店年などを参考とした。 1911図書館所蔵・春江堂『椿説弓張月』年⑥日本古典文学大系『椿 国立国会図書館所蔵『鐫出像楊家府世代忠勇演義志傳』⑤国立国会 批點南北宋志傳』③国立故宮博物院『楊家府世代忠勇演義志傳』④ 茗堂批點繍像南北宋志傳』②東北大学所蔵維経堂『玉茗堂主人按鑑 45)この対比表を作成するにあたり、①国立国会図書館所蔵経国堂『玉

( ど。 松は感情で書いて居るし、馬琴は知識を以て書いて居る」と記すな ら得た知識」と記し、泉鏡花「岩波書店鏡花全集」においては、「近 46)佐々醒雪は『醒雪遺稿』で、「純粋な江戸の産物ではなく、諸書か 複数確認できる。例えば、『北宋志伝』と第 伝』と同じ場面で、一部のみ書き換えた漢詩を使用している箇所が 47)本稿第四章でも述べた通り、『楊家将演義』の中には、『北宋志

二十二則の同一場面や、『北宋志伝』第 30回と『楊家府演義』 則の同一場面など。また、『北宋志伝』第 4439 回と『楊家府演義』の 別の漢詩を使用しているという点。 の挿入詩が共に、静翁軒によって読まれた楊業の死を悼むそれぞれ 則の、楊業が李陵碑に頭を打ち付けて自害する場面において、双方 18回と『楊家府演義』8

【付記】  本論文は、二〇二一年三月に東京外国語大学大学院総合国際学研究科へ提出した博士論文の一節を基として、大幅に修正を施したものである。 (ひらはら  まき  東京外国語大学大学院 国際日本学研究院 特別研究員)

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The Importation of the Yang Jia Jiang Yanyi in Early Modern Japan:

Traces of Chinese Hakuwa Novels in Edo Period Documents

HIRAHARA Maki KEYWORDS: Chinese bibliography, Book catalog, Chinese vernacular fiction, Edo literature,

The Legend of the Yang family (Yang Jia Jiang Yanyi)

The recognition of Yang Jia Jiang Yanyi in Japan is still not high even today. In recent years, with the publication of the first complete translation of the book in Japan, the recognition of Yang Jia Jiang Yanyi, which had been stagnant for a long time, has been gradually increasing, but for many years, even the term Yang Jia Jiang Yanyi was not known to the general public, let alone the contents.

This may be due to the fact that Yang Jia Jiang Yanyi novels were not introduced to Japan at the same time as Three Kingdoms and Water Margin novels.

However, there are many facts that have been discovered up to now, such as the fact that the background of many excellent works in early modern Japanese reading books was greatly influenced by Chinese white tale literature, the fact that Zen monks in Kyoto were actively translating Chinese books, and the fact that Chinese white tales were used as teaching materials for learning Chinese tales by Chinese tales instructors such as Okajima Kanzan.

If this is the case, then there is a possibility that the two Ming dynasty novels Yang Jia Jiang Yanyi, which some say were not introduced to Japan in the early modern period, may have been introduced to Japan in the early modern period. And if they did, we may be able to find the names of the books somewhere in the literature of the Edo period. Furthermore, it is possible that it was accepted in some form in the popular literature of early modern Japan, especially in the scripts and Yomihon and/or Ningyo Joruri (Puppet theater), which are said to have been strongly influenced by Chinese white novels.

参照

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