一 爵令嬢清子と出会い心中するまでが小説の大筋である。 いた明秀は自殺を決心。自殺を決意した後、同じ境遇の山内男 母の旧友の娘原田美子に一目ぼれするが美子に捨てられて傷つ ら成るこの長編小説は、子爵子息藤村明秀は避暑地で出会った 『ドルジェル伯の舞踏会』をモデルとして書かれた。全六章か たこの小説は、レイモン・ラディゲの最後の長編小説である である「花ざかりの森」と比較して「第四の処女小説」と称し 『盗賊』は三島由紀夫初の長編小説である。三島が処女小説
創作ノートには、起稿は昭和二十一(一九四六)年一月二十四日と記されている
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注。しかしながら、雑誌においての初出は第一章は「午前」(昭和二十三年二月号)、第二章は「文学会議」(昭和二十二年十二月号)、第三章は「思潮」(昭和二十三年三月号)、第四章は「文学会議」(昭和二十三年十月号)、第五章は「新文学」(昭和二十三年三月号)にてそれぞれ発表されたが、起稿からは二年間費やしている上に、発表された雑誌も時系列にもばらつきが目立つ。これは三島が作品の製作途中に一 時完成を諦めたことが原因だが
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注、昭和二十三(一九四八)年十一月、第六章の書き下ろしを加えた形で真光社にて起稿からおよそ二年半以上の月日を経て刊行された。三島は「「盗賊」ノオト」において『盗賊』執筆当時を次のように解説している
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注。
私の作品集のあとがきの中で、この作品について書いた私自身の文章を抜書します。
うとする野心を起したのである。 機会に、人をおどろかすやうな一篇の可成長い小説を書か いぜい百八十枚限度の作品しか書けなかつた私は、終戦を れる動機は、純粋なものだけではありえない。それまでせ 活体験から、この小説の構想が生じた。しかし作品の書か 私は満廿歳。東大法学部の学生である。そのころの私の生 「一九四五年、戦争がをはる。その年の十月に妹が死ぬ。
当時まで、私の文学的体験の最大なものは、レイモン・ラディゲの小説であつた。子供らしい夢想から、私はラディゲの向うを張りたいと思つていた」(「「盗賊」ノオトについて」)
『盗賊』の構想が生まれた背景には、敗戦や妹の美津子が腸
三島由紀夫『盗賊』論
田中あゆみ
チフスで病没という当時の三島の「生活体験」があった。そしてもう一人のある一女性との別れも関係していたことも三島は回想している
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注。
た。 ところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつ 「戦争中交際していた一女性と、許婚の間柄になるべき
妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる。(中略)その後の数年の、私の生活の荒涼たる空白感は、今思ひ出しても、ゾッとせずにはいられない。」(「終末観からの出発―昭和二十年の自画像」)
三島が『盗賊』を発表するきっかけとなった背景には、戦後の時代背景の他に最愛の妹の死と「戦争中交際していた一女性」との破局という二人の身近な女性との別離があった。彼女は戦時中三島と交際をしていたが、事情により別れを余儀なくされたという。村松剛は「敗戦が三島にとって終末観の時代の突然の終焉であり、退屈きわまる日常生活の開始だった」ことを指摘し、蘇った日常生活は「彼の愛をも容赦なく呑み込んで行った」と述べている
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注。二人の最愛の女性との別れによる愛の喪失が『盗賊』という作品を生み出したとするならば、『盗賊』という作品の構想の誕生は、少年期の夢の死を意味することになるだろう。『盗賊』という作品は喪失から生まれた作品なのである。
のの、小説が発表された時期と期間を考えていくと驚くほどに 『盗賊』の先行研究は作家論として論じられることはあるも 白』より重要」と評価している 作に関して、豊富な手がかりを提出している点では『仮面の告 少ない。武田泰淳は、「作家が自己の精神を吟味し表現する操
注
注。野口武彦は、『盗賊』はラディゲ風の心理小説という形を取り戦後作家としての再出発を期したが、本質的には三島独特のロマン主義的な死への偏愛を盛り込んだ作品であると見解している
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注。松本徹も『三島由紀夫論』(朝日出版社、昭和四十八年十二月)で同様の見解を示しているが、後に松本は「『盗賊』の完成稿が『苧菟と瑪耶』の系列に位置づけられる」と指摘し、盗賊を執筆する上で「これまで採りつづけ、かつ、深く囚われてしまった純粋無垢な愛への志向を、そのまま徹底的に押し進め、決着をつけることの方に意味を見いだした」とし、「『盗賊』を手早く強引に完結させたことが、『仮面の告白』に取り掛かるのを可能にした」と述べている
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注。佐藤静夫は、作品の中に生の時代としての戦後に対する、死の時代としての優位という構図を読み取ったが、先に述べた野口も同様のことを述べている
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注。田中美代子は、「「盗賊」の神秘の核心は、やはり主人公の、一途に「死」に魅了される心性であろう」と明秀の「死」に魅了される心性に注目し、明秀は「死の王国に逃走」することで明晰な自己を取り戻そうとしたと死の理由について解説している
注1
注。
作品単体について述べた論文は、柴田勝二の「三島由紀夫『盗賊』論─自死という生き方」が存在する。柴田は『軽王子と衣通姫』との差異に注目した上で「『盗賊』の明秀と清子の死も、見かけは情死でありながら、実際はそれぞれの現世への断念が「同時」に形を与えられたにすぎなかった。そうした空
疎さを漂わせつつ、二人の死を差し出しえている点で、『盗賊』はむしろ「成功」を納めた作品となっているということができる」と述べており、明秀と清子の死の描き方で『盗賊』は成功したと作品を評価している
注注
注。
このように『盗賊』という作品についての意見を統括すると、『苧菟と瑪耶』、『軽王子と衣通姫』の系列に位置づけられるという論や主人公の明秀と清子の死について注目した論が主を占めている。主要な論について考えていく上でいくつかの問題点が生まれる。
一つは、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』をモデルにした作品と三島自身が述べているが、作品を論じる上で三島のラディゲについての指摘は取り上げられていない。レイモン・ラディゲは先に少し触れたが、三島が中学生のときに「ショック」を受けて以来成人してから森鴎外の作品に開眼するまで三島を「ラディゲ熱」にさせていた作家である。『盗賊』という作品について考えていくためには三島のラディゲ論について紐解いていく必要があると思われる。
もう一つは、明秀と清子の死について考えていく上で藤村明秀と山内清子という人物について洗い出す必要性がある。
そして、最後に『盗賊』の系譜として『苧菟と瑪耶』、『軽王子と衣通姫』、『仮面の告白』が取り上げられることが多いが、先に触れた武田の「作家が自己の精神を吟味し表現する操作に関して、豊富な手がかりを提出している」という指摘に注目していくと、『盗賊』という作品は、三島の作家としてのスタイルの基礎を確立し、『盗賊』において挙げた問題は、『仮面の告 白』以降の作品にも影響を及ぼしているということではないか。その問題について取り上げていく上でいくつかの作品について触れながら考えていく。 本稿においては、これまでの論を踏まえながら、以上の疑問点を解き明かしていく上で『盗賊』という作品について考えていく。
二
先に少し触れたが、三島由紀夫にとってラディゲは重要な位置を占める作家であった。三島がラディゲの作品に出会ったのは、学習院中等科三、四年生の頃。思春期を迎える多感な時期であった。ラディゲの作品に出会った衝撃を三島は次のように振り返っている
注1
注。
そのうち、ちらほら翻訳物なども読むようになつたが、中学三、四年のころ、ラディゲを読んでショックを受けた。しかしそのとき「ドルヂェル伯の舞踏会」が完全にわかつたかといふと、どうもあやしい。何だかわからないが、美しい馬をみて美しいと感じるやうに、作品のいはうやうない透明な美しさははつきり見てゐた。ラディゲの夭折、あの小説を書いた年齢も、私にファイトを燃やさせた。私は嫉妬に狂ひ、ラディゲの向うを張らねばと思つて熱狂した。小説の反古作りに一段と熱が入つたのは、ラディゲのおかげである。私はしばらくラディゲの熱からさめなかつた。(「ラディゲに憑かれて─私の読書遍歴」)
三島が最初に読んだラディゲの小説は『盗賊』の下敷きとな
った作品『ドルジェル伯の舞踏会』であった。『ドルジェル伯の舞踏会』はラディゲの二作目の長編であり、遺作となった小説である。ラディゲは一九二二年五月、ジャン・コクトーと滞在した南フランスのル・ラヴァンドゥの海岸で『肉体の悪魔』の第一稿を終えた後、執筆を開始し、翌年の十月パリに戻り完成させたが、その時点ですでに腸チフスに侵されており、病魔と戦いながら校正を続けたが十二月十二日に校正を完成させることなく二十年の短い生涯を終えた。遺された本作は翌年に刊行された。『ドルジェル伯の舞踏会』はドルジェル伯爵夫人マオを主人公とした一九二〇年代のフランス貴族社会を舞台とした心理小説である。マオの苦悩を主題にマオと惹かれ合う仲になる青年フランソワとマオの夫であるドルジェル伯爵アンヌ、フランソワの母親セリューズ夫人といった登場人物達の心理模様のロマネスクが克明に書かれている。三島は『ドルジェル伯の舞踏会』について以下のように述べている
注1
注。
に抽象的方法的要素だけで成り立たないとすれば、「ドル 的方法のみあらはれてゐるべきである。しかも小説が純粋 事柄であり、従つてこの少年の天才は、小説の純粋に抽象 るおどろくべき世間知は、五十歳の人間にはかなり自明の 及びもつかぬものであるが、十九歳の少年があらはしてゐ 泳の世界的新記録などは、四十歳、五十歳になつた人には 少年の書いた天才的な詩や、天才的な数学上の発見や、水 在で、実はそんなものがあらうとは思はれない。十九歳の ではあるが、「天才的な小説」といふのは一つの逆説的存 「ドルヂェル伯の舞踏会」は、天才のみの書きうる作品 あつた。 のを考えるにつれて、徐々に私の中に芽生えて来た疑問で の、永遠の近似値なのではないか?─これが小説といふも ヂェル伯の舞踏会」は、そのやうな小説の「純粋存在」へ
(「一冊の本─ラディゲ
「ドルヂェル伯の舞踏会」」)
以上の文章は一九五五(昭和三十)年に書かれた文章であるが、少年の日に出会った『ドルジェル伯の舞踏会』という作品について三島自身が導き出した作品についての結論といえる。この時点で三島は三十歳。ラディゲの夭折した年齢からは既に十も年上であった。ラディゲに憧れていた時点での三島は「半ば趣味的に、半ば作者への嫉妬と競争心をもつて」、『ドルジェル伯の舞踏会』にかじりついていたという
注1
注。そして、「二十歳前にこんな傑作を書き、二十歳で死んだらどんなにステキだらう」と思っていたと振り返っている。三島にとってラディゲは、憧れの作家というだけでなく、夢であり、目標であり、自分のいつか来る未来であったのだと思われる。三島が戦時中に遺言を残したのは、戦時下の暗雲立ちこめる情勢のせいもあるが、ラディゲのように二十歳で夭折したいという願望が大きく胸を占めていたからに他ならない。しかし、三島の二十歳の時点では前年に処女小説集『花ざかりの森』を出版したばかりでまだ表舞台には立っていない状況であった。対抗手段はどのように夭折するかしかない。まだ作家として世に認められていない三島がラディゲに対抗できる唯一の手段、それが名誉の戦死という死に方だったのではないか。だが、三島は入隊先の兵庫県で受けた検査で肺浸潤と診断され、迎えに来た父と「一目散に駆け出し」て汽車に乗って帰郷することで生き永らえた
注1
注。ラディ
ゲより美しい夭折という夢を実現できず、妹と恋人という二人の最愛の女性とも別れた三島に残されたのは喪失と子供時代の夢の死だった。現実世界の別離と思想の世界の別離という二つの別離が『盗賊』という作品の誕生へと繋がったのだ。『盗賊』を執筆することで三島は過去と夢に整理をつけようとしたのである。
三
ここまでは先行研究と三島のラディゲ論について取り上げていくことによって『盗賊』という作品について考えてきた。しかし、作品の最たる核心は明秀と清子の見せかけの情死が導き出す結論についてである。その疑問を明らかにするためには、主人公の藤村明秀と山内清子という二人の登場人物について明らかにしていく必要がある。本章では明秀と清子という人物について考えていくことで、『盗賊』という作品の成功した点と課題について考えていく。
主人公の藤村明秀は藤村子爵の嫡子で大学の国文科を卒業したばかりの青年である。明秀の人物描写については、作品の冒頭で「「自己韜晦的性格」を通じて、古い冒険譚めいた異様な恋愛悲劇を現出することになるのである」と端的に紹介しているが、より深く明秀について述べているのは次の文章である。
明秀は、得た刹那にそれを喪ふことで頭が占められてしまふ性格だつた。否むしろ得る前に喪うことしか考へられなくなる性分だつた。美子をはじめて見た時の戦慄は何であつたか?彼は逸早く彼女を得た時を想像し、更に自分の 手から喪はれた時を想像して戦慄したのに相違ない。世間で空想家と呼ぶ人は中途半端な空想家に過ぎないのだ。彼は空想の中にぬくぬくと安住できる人間である。これにくらべると、明秀の如きは度をすごした現実家であつたかもしれない。可能性も蓋然性もあまり現実的な姿をして現はれるので、彼には空想の余地さへない程だつた。彼の想像力は瞬間的な天賦の推理力ではなかつたのであらうか。何事かが自分の身に起ると彼は悪い想像の極端まで先走りをして、その壁際に身をおしつけて、現実も亦彼と同じコースを辿つてこの壁際まで押し寄せて来ないかと胸を轟かせた。嘗てその波頭は、一抹の不満足を彼にのこしたまま、彼の立ちすくんでいる壁際からはるか彼方で退いてしまうのが常だつた。
前置きとこの明秀の思考について説明した文章からは、明秀の決して明るくはない性格と物事を極端なまでに悪い想像をするネガティブ思考の持ち主であることが明らかにされる。また、明秀は欲しいものがあっても「得た刹那にそれを喪うことしか考えられなくなる性分」としている。それは裏を返せば、たとえ美子を手に入れることに成功していたとしても、美子を手に入れた時点で明秀は美子をどのような形で喪うのかという思考で満たされるということだ。明秀の資質は『ドルジェル伯の舞踏会』においてはヒロイン・マオの資質を受け継いでいる。『ドルジェル伯の舞踏会』において、マオはフランソワに惹かれるが、フランソワに傾く恋情と夫への不貞を怖れ、最悪の事態を怖れ恋心を自ら封じてしまう。マオの物事の喪失を恐れる
心性を三島は明秀に取り込み、マオが進むと予感された恋の悲劇に向かわせた。
明秀は美子に弄ばれたことが原因で自殺を決意するが、清子に全く恋愛感情がないという訳ではない。明秀は清子と連れ立って行った倶楽部の新しいメムバアで冗談を返す際に清子が「下を向いて赧くなって笑つてゐるのを可愛らしく」眺めて、『もし僕がこの人を愛することができたら…』という思いを抱いている。作品においては明秀のこの感情を「死を前にした不真面目な戯れ」と表現しているが、明秀はこの時点で美子に抱いたほどの鮮烈な想いではなくとも明秀は清子に惹かれ始めていたと見て良いだろう。その証拠に明秀は倶楽部の帰り道で清子の手を握りしめた際、清子の眉にあらわれた「もつとも端的に男の誇りを傷つけるような苦痛」を見て、『思いちがいだったのだ。この少女が言おうとしたことは、《僕を愛している》ということではなかったのだ。何という無様な真似をしてしまつたのだ』と落胆する。明秀は清子を相手に既に新しい恋を始めていたのである。だからこそ、友人の三宅から美子と三宅の奈良ホテルでの有様を聞き、自殺を決行しようとした際に「只一度美子の顔を見たい」と思うと同時に「清子に会えば寧らかに死ねる気がした」と清子に会う事を思い至ったのだ。明秀は清子への愛を「妹のやうに」とたとえているが、それは清子を恋の相手とすれば、自殺する大義名分がなくなることを怖れてのことに他ならない。初志貫徹するために明秀は清子への恋情に蓋をしたのである。清子から「自殺するのはわたくしなのよ」という言葉を聞いて死の企図を告げ合い、心中する決意を 交わし、実行に至ったのは清子を恋の相手としても自殺という初志貫徹を可能にすることが証明されたからではないだろうか。明秀の死の志向について柴田は「明秀の死への志向は受動的な性格が強く、清子の鞭があてられなければ、明秀は生と死の二つの領域のあわいにたゆたったままである蓋然性が高い」と受動性の高さを指摘している
注1
注。柴田の指摘のとおり、明秀は清子の死の企図を聞かなければ自殺する決意はうやむやに終わっていた可能性は高い。明秀のように己の行動を実行するための意志はあるが、確認作業を行ってから事に進む人物造形は後に書かれる作品の主人公たちにも多く見られる。明秀の自己韜晦的な人物描写は、三島作品の主人公の典型的なタイプの一つになったのだ。明秀という主人公を二年の月日を経て書き上げたゆえに三島作品の主人公の基礎が完成したといっても過言ではない。
ここからは明秀の情死の相手となる山内清子について考えていく。清子は明秀の父の藤村男爵のかつての親友山内男爵の長女である。本篇で本格的に登場するのは第三章からと比較的遅い。清子の登場場面は容姿について克明に表現する手法によって清子という遅く出て来たヒロインを読者に印象付けている。
やや下ぶくれの、古風な雛のやうな顔立ちでありながら、口もとにはなにか意地の悪いほどの頑固な線が秘められてゐて、それが彼女からいくらか女らしさを失わせてゐる代りに、顔立ちに似合はぬ西洋の匂ひを与へてもいた。明秀はむかし美術史の研究室で見せてもらつた古代彫刻の女神像が、これに似た不吉なわるい微笑の線を口もとに折り畳
んでゐたことを思い出した。かふいふ皮肉な微笑は、かへつて屡々純潔な少女が、自分でも意味を知らずに、何の気なしに浮かべてゐることがあるものだ。
明秀を振った美子の容貌については、「嘗て見ぬほど美しい人だつた」の一言で纏められているのに対して清子の容貌に関しての表現はいささか長すぎるようにも感じられる。しかし、この容姿に関しての長い文章こそ清子がヒロインであることの証である。『ドルジェル伯の舞踏会』のマオはフランソワに「美しくて、ひとを軽蔑しているようでうわのそらといった感じ」の印象を与えている
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注。明秀にはマオの自己韜晦的な性格を、清子にはマオが身に纏う雰囲気を与えている。これでマオの系譜を踏む新たな主人公の男女が完成する。しかし、二人にはマオの内面要素は受け継がせても、実際に『ドルジェル伯の舞踏会』の模倣はさせない。清子は無口で大人しい明秀曰く『処女の性質をこの人は過剰に持ち過ぎてゐるらしい』少女である。そして明秀と同じく清子もまた佐伯という男に裏切られた過去を持つ。明秀と清子は過去のいきさつや持つ雰囲気は「兄妹のやうに」似ているが、一つ大きく違うのは、明秀が清子に惹かれているのに反して、清子は明秀に対して決して恋情は持っていない点だ。清子は二人で死の企図を告げ合った際に明秀に次のように答える。
らその約束をしてゐたのですわ。 「さうですわ。私たちは出会ひました、私たちは前世か
今日はなればなれに死ぬことはもう意味のないことになりました。(ああ! 私を思ふさま苦しめ思ふさま喜ばせ た佐伯といふ男を、いつか貴下はわたくしがあわてて伏せたアルバムの一頁に御覧になつた筈です。私は生きてゐるうちはあの人を愛することを止めることはできません。この愛の貴重さがはつきりとわかるだけに、私はもう生きてゐることの夥しい浪費に耐へられなくなりました。死といふことは生の浪費ではありませんわね。死は倹しいものです。私は佐伯のために意地悪で吝ん坊な金持の叔母のやうな存在になりたいのです。死といふ手段にまで依つた私の愛の吝嗇が彼を破滅させる日を待つて死ぬのです。)」
清子のモノローグが唯一書かれている返事の歓喜は、あくまでも時を同じくして同じ目的を持つ人間に出会えたという歓喜がもたらすものであり、明秀と同質のものではない。清子が愛するのは自分を裏切った佐伯ただ一人である。清子が生きている限り明秀を愛することはない。清子が明秀と同様少なからず相手を憎からず思っていれば、二人の死は真の情死として成立するが清子に明秀への恋情がない限りあくまでも情死の模倣である。しかし、三島は『盗賊』を執筆中の昭和二十二(一九四七)年当時、情死について「性の問題がからまつて、時と所をことにして生まれた男女が、偶然のめぐみによつて出会ひ、結合し、夫婦生活を営み、いつかは死んでゆく、といふ人生の模倣の形式」と自殺との違いを指摘し、「時を同じうして男と女が手を取り合つて死ぬといふ点で、何ほどか独創的」であり、「単なる模倣ではない人工の行為を通じて、別様の天然自然に到達する芸術的行為であり創造的行為」と述べている
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注。この論は従来の情死の本来の意味とは異なるため違和感があるが、三
島は「形式の問題で、精神の問題ではない」としている。三島は情死の「精神の問題」は省いた上で、心中の持つ芸術性を追求することを推し進めていくのが最良の手段と判断したのだろう。たしかにこの書き方で先に触れた松本の指摘どおり「純粋無垢な愛への志向を、そのまま徹底的に押し進め」ることには成功した。しかし、終章は肝腎の情死の描写はなく、いきなり明秀と清子が情死したという説明で始まる。突然主人公の男女が作品から退場してしまうため作品としての幕切れは唐突である。明秀と清子を突然退場させてしまったために小説として中途半端な幕切れになってしまったことが最大の課題であり、作品が「いかにも頭のなかだけでデッち上げた無理な小説」 注1注と指摘されてしまった最大の要因だろう。『盗賊』は明秀と清子という人物を創り上げたことによる三島作品の主人公像の基礎を作ったという点では成功したが、終章を強引に終わらせた故に大きな課題も残したのだ。
四
これまでは、先行研究、三島本人のラディゲ論、『盗賊』本篇を見ていくことで、『盗賊』について考えてきた。明秀と清子は情死という形でその生に幕を閉じたが、幕切れとしては、ラディゲへのオマージュというよりは、三島自身が創り上げた全くの別物である。
親友同士であった。しかし、藤村子爵は夏に華族会館でかつて じるのは明秀と清子の親達だ。藤村子爵と山内男爵はかつての 『盗賊』という作品で『ドルジェル伯の舞踏会』の役割を演 『 身最も思い入れのある短篇小説『憂国』である。 賊』の系譜を踏む心中小説の進化形の短篇を発表した。三島自 いえる『ラディゲの死』という短編と『軽王子と衣通姫』、『盗 ように三島は『盗賊』の後、真のラディゲへのオマージュとも オマージュとしてはやや説得力に欠ける。それを証明するかの のだろう。しかし、親世代の三角関係は主軸とは外れるため、 とで、『ドルジェル伯の舞踏会』のオマージュとしようとした 中を計画する背景に子爵夫妻と男爵の三角関係を取り入れるこ 再現している。三島は明秀と清子が理想的な恋人同士として心 マオとアンヌのドルジェル伯爵夫妻とフランソワの三角関係を 見せた際に二人に疑念を抱くようになる。親達の三角関係は、 恋人同士であった藤村子爵夫人と山内男爵の恋が再燃の兆しを
ラディゲの死』は、題名通りレイモン・ラディゲの死が主題の小説で昭和二十八(一九五三)年「中央公論」十月号にて発表された。この作品ではラディゲの恋人であったジャン・コクトーが友人のマックス・ジャコブにラディゲの闘病生活と死について語り聞かせるという形で構成されている。三島は作品のあとがきに「この題をして、私は自分の或る心の歴史を暗示させた。ラディゲは、長いこと私の中で暴威をふるひ、私に君臨しつつ、生きてゐた。しかし今では、ラディゲはそれほど私をおびやかさない。彼はすでに、私より十歳も年下の青年である。私を威嚇してゐたラディゲは、やうやく、私の中で死んだのである。」 11注と述べており、ようやく自ら「ラディゲ病」と称するほど熱愛した作家の死を筆で書くことでラディゲという作家に、そして、『盗賊』では断ち切れなかった少年時代の未練
に別れを告げることが出来たのだ。
そして、心中小説としての完成形も『憂国』という形で達成された。『憂国』は二・二六事件三部作の一つであり、昭和三十六(一九六一)年一月に「小説中央公論」にて発表された。『憂国』は軍人武山と妻の麗子の二・二六事件突発の三日目である二月二十八日に夫婦が自刃するまでの「神威に守られた結婚生活」を書いた作品である。登場人物は主人公の武山夫妻だけであり、他の登場人物は直接には登場しない。しかし、その分『軽王子と衣通姫』、そして『盗賊』よりも情死についてシンプルに書かれている。『憂国』は『盗賊』の系譜を踏むという論は現時点での先行研究においては存在しない。しかし心中小説として考えていくと『軽王子と衣通姫』、『盗賊』の系譜を踏襲していると見て取れるだろう。
まず、例を挙げると『憂国』の書き出しは『盗賊』第六章の書き出しを踏襲している。『盗賊』第六章の書き出しと『憂国』(壱)の書き出しを並べてみると次のようになる。
一九三*年十一月*日、藤村子爵家の嗣子明秀と山内男爵の令嬢の清子とが、彼ら自身の結婚式の当夜情死した事件は、忽ちさまざまな揣摩憶測の潮に巻き込まれた。遺書もなく事情をよく知る友人もなかつた。死ぬべき理由と云つたら、彼らが幸福でありすぎたといふことの他には見当たらなかつた。それだけでも十分の理由といふべきだが、世間は「十分の理由」には信を置かないのである。
昭和十一年二月二十八日、(すなはち二・二六事件突発 第三日目)、近衛歩兵一聯隊勤務武山信二中尉は、事件発生以来親友が叛乱軍に加入せることに対し懊悩を重ね、皇軍相撃の事態必至となりたる情勢に痛憤して、四谷区青葉町六の自宅八畳の間に於て、軍刀を以て割腹自殺を遂げ、麗子夫人も亦夫君に殉じて自刃を遂げたり。中尉の遺書は只一句のみ「皇軍万歳」とあり、夫人の遺書は両親に先立つ不孝を詫び、「軍人の妻として来るべき日が参りました」云々と記せり。烈夫烈婦の最期、洵に鬼神をして哭かしむの概あり。因みに中尉は享年三十歳、夫人は二十三歳、華燭の典を挙げしにより半歳に充たざりき。
第六章と(壱)の書き出しは、一方は西暦と日日はぼかされ、一方は元号と日日が明確という多少の違いはあるが、心中した夫婦の死についての記録が淡々とした文体で書かれている点で酷似している。この書き出しの偶然の一致は意図したものなのかは記録は残されていないが、『憂国』が『盗賊』の系譜を踏む心中小説であるという解釈ができる大きな糸口である。
もうひとつの糸口は二組とも死の意志を確認した上で共に死ぬ契約を交わし合う点にある。情死の『盗賊』では、明秀と清子は出会いから暫くして、武山夫妻は新婚初夜と状況はだいぶ異なるが、情死の契約を交わし合う点で共通する。武山と麗子の新婚初夜のやりとりを挙げてみよう。
床に入る前に、信二は軍刀を膝の前に置き、軍人らしい訓戒を垂れた。軍人の妻たる者は、いつなんどきでも良人の死を覚悟してゐなければならない。それが明日来るかもしれぬ。あさつて来るかもしれぬ。いつ来てもうろたへぬ