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Vol.68 , No.2(2020)040Nguyen Tuong Giang「智顗の三観思想における「仮」について――天台維摩経疏を中心に――」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

― 764 ― 印度學佛敎學硏究第六十八巻第二号   令和二年三月 二一六

智顗の三観思想における

﹁仮﹂

について

天台維摩経疏を中心に

N

GUYENGUYEN

T

uong G

iang

はじめに

三観とは従仮入空観・従空入仮観・中道第一義観という三 つ の 観 法 1 で あ る。 智 顗 ︵五 三 八 ︱ 五 九 七︶ は 最 晩 年 2 に﹃維 摩 経﹄ を注釈する際に、別行本﹃三観義﹄ と ﹃維摩経玄疏﹄ ︵以 下﹃玄 疏﹄ ︶ 三 観 解 釈 章 と﹃維 摩 経 文 疏﹄ ︵以 下﹃文 疏﹄ ︶ と に お い て 三 観 を 取 り 上 げ て い る。 ま た、 維 摩 経 疏 以 前 に も、 ﹃摩 訶 止 観﹄ ︵以 下﹃止 観﹄ ︶︵五 九 四 年︶ 破 法 遍 3 に 三 観 を 取 り 上 げ て い る。 し か し、 ﹃止 観﹄ と 維 摩 経 疏 ︵具 体 的 に は﹃玄 疏﹄ 三 観 解 釈章︶ とでは三観の解釈がやや異なる。

﹃摩訶止観﹄破法遍と

﹃玄疏﹄三観解釈章

﹃止観﹄破法遍に智顗は﹁従仮入空破法遍﹂ ﹁従空入仮破法 遍﹂ ﹁中道第一義破法遍﹂と述べる。一方、 ﹃玄疏﹄三観解釈 章では﹁今この別相三観を釈すとは即ち三別と為す。一には 従仮入空観、二には従空入仮観、三には中道第一義諦観を明 か す な り 4 。﹂ と 述 べ る。 こ こ に 見 ら れ る よ う に、 ﹃止 観﹄ は ﹃玄疏﹄の﹁観﹂という用語を使わず、 ﹁破法遍﹂という。周 知 の よ う に、 ﹃止 観﹄ 破 法 遍 は 実 践 修 行 方 法 に 焦 点 が お か れ て い る。 ﹁衆 生 は 顛 倒 多 く 不 顛 倒 少 な し、 顛 倒 を 破 し て 不 顛 倒 な ら し む。 故 に 破 法 遍 と い う の み 5 。﹂ と 実 践 的 な 修 行 方 法 と 位 置 づ け ら れ て い る。 こ れ に 対 し て、 ﹃玄 疏﹄ 三 観 解 釈 章 は、 ﹁三 観 を 用 い て 維 摩 詰 の 名 を 釈 す 6 ﹂ と し て﹃維 摩 経﹄ の 経題が三観によって説明され、教理的に述べられる。このよ う に、 ﹃止 観﹄ 破 法 遍 と﹃玄 疏﹄ 三 観 解 釈 章 に 説 か れ る 三 観 とは目的が違う。 ﹃止観﹄ の説く三観は観行門であ り 7 、﹃玄疏﹄ の説く三観は教相門として経典を解釈するものである。教観 二門それぞれに三観が立てられていると考えられる。

  ﹁従仮入空﹂

における仮

﹁従 仮 入 空﹂ は、 仮 を 観 察 し て 空 の 理 に 入 る こ と で あ る。 ﹁従仮﹂ の方法とその過程は、 ﹃止観﹄ と ﹃玄疏﹄ で異なる。

(2)

― 765 ― 二一七 智顗の三観思想における﹁仮﹂について︵ N GUYEN ︶ ﹃止観﹄では、所観の仮について、 ﹁先ず見仮に従って空に 入 る。 次 に 思 仮 に 従 っ て 空 に 入 る な り 8 。﹂ と 説 か れ る。 こ こ では、見仮と思仮を対象としている。この見仮と思仮は見惑 と思惑、見思の煩悩は三仮であり、仮は虚妄・顛倒であ る 9 と 観じて空に入る。 一 方、 ﹃玄 疏﹄ の 所 観 の 仮 は﹁所 観 の 仮 を 明 か す と は、 二 種 の 仮 有 り 一 切 法 を 摂 す。 一 に は 愛 仮、 二 に は 見 仮 な り 10 。﹂ と述べられる。ここでは、愛仮と見仮を対象としている。愛 と見は愛論と見論になり、魔業と外道業を意味する。愛見の 二論は戯論であり、三仮の相で虚設されたものに過ぎな い 11 と 観じて空に入る。 このように、 ﹃止観﹄と﹃玄疏﹄の所観の仮は異なる。 ﹃止 観﹄ は 見 思 と い う 二 つ の 惑 を 使 い、 ﹃玄 疏﹄ は 愛 見 と い う 二 論を展開している。このような相違があるのは何故であろう か。 ﹃止 観﹄ と﹃玄 疏﹄ の 成 立 時 期 は、 わ ず か 数 年 し か 離 れ ていない。このような短期間で思想が大きく変転する可能性 は 低 い。 今、 見 思 の 二 惑 か ら 愛 見 の 二 論 へ と 変 化 す る 理 由 を、次のように推察することができよう。 ﹃玄 疏﹄ に 説 か れ る 愛 論 と 見 論 を 仮 の 対 象 と す る 根 拠 は、 ﹃維 摩 経﹄ に は、 愛 12 ・ 見 13 ・ 愛 見 心 14 が 説 か れ る。 ま た、 ﹃玄 疏﹄ に 説 か れ る 愛 論 と 見 論 15 と は、 ﹃中 論﹄ 巻 三・ 観 法 品 に﹁戯 論 は二種有り、一には愛論、二には見論なり﹂と述べられてい る こ と に 依 る。 更 に、 ﹃維 摩 経﹄ 文 殊 師 利 問 疾 品 の﹁所 有 及 び諸の侍者を除去 す 16 ﹂という経文に対して、智顗は﹁所有を 除去すとは依報を除くことを表し、及び諸の侍者は愛見正報 を 除 く こ と を 表 す 17 。﹂ と 解 釈 す る。 侍 者 を 除 く の は 愛 と 見 を 除くことであると言う。このように、智顗が﹃玄疏﹄に愛仮 と 見 仮 と い う 用 語 を 使 う の は、 ﹃維 摩 経﹄ の 経 文 に 影 響 を 受 けているのである。 また、 ﹁従仮﹂の観門について、 ﹃止観﹄と﹃玄疏﹄には相 違 が あ る。 ﹃玄 疏﹄ に は﹁析 体 の 二 種 観 門 な り 18 ﹂ と 述 べ ら れ る。 ﹃玄 疏﹄ の﹁従 仮﹂ の 方 法 は 析 と 体 と い う 観 門 に 分 け ら れる。析は拙度として二乗の根性に応ずる方法であり、体は 巧度として菩の根性に応ずる方法であるとされている。し か し、 ﹃止 観﹄ は 体 と い う 観 門 の み で 見 仮 と 思 仮 を 論 じ て い る。体という観門は﹃止観﹄と﹃玄疏﹄の三観の解釈を併用 するが、析という観門は﹃玄疏﹄のみに使われる。このこと について、 ﹃止観﹄ には次のように説く。 生 滅 門 の 如 き、 先 に 析 智 を 用 い て 見 を 断 ず。 後 に 還 り て 析 智 を 用 い て 重 慮 し て 思 を 断 ず。 無 生 滅 門 は、 初 め に 体 見 を 用 い て 空 に 入 る。 後に還りて体思を用いて重慮 す 19 。 破法遍には無生滅の教えを取りあげて仮を破しており、体と い う 観 門 だ け が 論 じ ら れ る。 こ の よ う に、 両 者 の 異 な り は、

(3)

― 766 ― 二一八 智顗の三観思想における﹁仮﹂について︵ N GUYEN ︶ ﹃玄 疏﹄ が 析 体 の 二 つ の 観 法 で 愛 見 を 観 察 す る の に 対 し て、 ﹃止観﹄ はただ体という観法のみで見思を観察する。

  ﹁従空入仮﹂

における仮

﹁入 仮﹂ は 利 他 の 志 を 意 味 す る。 二 乗 と 菩 は い ず れ も 空 に入るが、菩は空が空ではないと知り、空に住せず仮に戻 る。 ﹃止 観﹄ の﹁入 仮﹂ の 観 法 は 見 思 の 惑 を 知 り、 世 間 法・ 出世間法・出世間上上法という薬を識り、病気に応じて薬を 授 け る こ と で あ る と と し て 示 さ れ る。 ﹃玄 疏﹄ の﹁入 仮﹂ の 観法は見仮と愛仮に入ることとして示される。観じ方は﹁従 仮﹂ と ほ ぼ 同 じ だ と 考 え ら れ、 ﹃止 観﹄ の 病 を 知 る 部 分 に 相 当する。 ﹃玄疏﹄は﹁薬を識る﹂と﹁病に応じて薬を授ける﹂ に言及しないが、観成化物には、 深 く 愛 見 と い う 苦 集 の 病 は 無 量 な り、 道 滅 と い う 薬 ま た ま た 無 量 な り と 知 る。 皆 無 量 の 夢 幻 の 如 く、 四 悉 檀 を 用 い て そ の 根 縁 に 赴 き、 病に随って薬を設け る 20 と述べられる。これは﹃止観﹄の﹁薬を識る﹂と﹁病に応じ て薬を授ける﹂に相当する。このように、 ﹃止観﹄と﹃玄疏﹄ における﹁入仮﹂の観法の論述方法はほぼ同じである。つま り、 た だ 見 思 の 二 惑 と 愛 見 の 二 論 と い う 対 象 に よ っ て﹁入 仮﹂ を 論 ず る の み で あ る。 さ ら に、 ﹁従 仮﹂ は 自 利 の 目 的 で ﹁惑﹂ あ る い は﹁論﹂ を 破 し て 空 の 境 界 に 永 遠 に 住 す る。 し か し、 ﹁入 仮﹂ は﹁志 は 利 他 に 存 す る こ と﹂ ま た は﹁薬 病 を 分 別 し て 衆 生 を 化 す る こ と﹂ と さ れ る。 こ れ が﹁従 仮﹂ と ﹁入仮﹂ の相違である。

おわりに

以上、三観の従仮入空観と従空入仮観とにおける仮につい て﹃止観﹄と﹃玄疏﹄とを検討した。両方の三観の解釈では 仮という用語が不同である。なぜならば﹃止観﹄は実践的な マ ニ ュ ア ル の 方 面 か ら、 ﹃玄 疏﹄ は 経 典 解 釈 の 方 面 か ら 論 じ ら れ て い た か ら で あ る か ら で あ る。 そ の 一 方 で、 ﹁従 仮﹂ と ﹁入 仮﹂ の 観 門 は ほ ぼ 同 じ で あ る。 さ ら に﹃止 観﹄ の 内 容 は ﹃玄疏﹄よりも詳細なものであった。 ﹃止観﹄から﹃玄疏﹄に 至るまで三観の仮の解釈では、新しい思想が展開されるので はなく、観行門と教相門との双方を両立させることが目指さ れていたのである。 1   ﹃維 摩 経 玄 疏﹄ に は、 ﹁第 二 に 三 観 の 名 を 釈 す と は、 三 観 の 名 は ﹃瓔珞経﹄ に出づ。 ﹂新纂続蔵一八・四二三上とある。 ﹃瓔珞経﹄ に は﹁三 観 者 従 仮 名 入 空 二 諦 観、 従 空 入 仮 名 平 等 観。 是 二 観 方 便 道。 因 是 二 空 観 得 入 中 道 第 一 義 諦 観﹂ ︵大 正 二 四・ 一 〇 一 四 中︶ と 述 べ る。    2   佐 藤[一 九 六 一] 四 一 六 頁 に よ る と、 維 摩 経 疏 を 著 述 し た の は 五 九 五∼ 五 九 七 で あ る。    3   ﹃摩 訶 止 観﹄

(4)

― 767 ― 二一九 智顗の三観思想における﹁仮﹂について︵ N GUYEN ︶ 巻 五︵大 正 四 六・ 六 二 上︶ 。    4   ﹃摩 訶 止 観﹄ 巻 五 ︵ 新 纂 続 蔵 一 八 ・ 四 二 三 中 ︶。    5   ﹃ 摩 訶 止 観 ﹄ 巻 五 ︵ 大 正 四 六 ・ 五 九 中 ︶。    6   ﹃玄 疏﹄ 巻 二︵新 纂 続 蔵 一 八・ 四 二 二 中︶ 。    7   野 本 [一 九 七 八] 。    8   ﹃摩 訶 止 観﹄ 巻 五︵大 正 四 六・ 六 二 中︶ 。    9   ﹃ 摩 訶 止 観 ﹄ 巻五 ﹁ 仮 者 虚 妄 顛 倒 名 之 仮 耳 。﹂︵ 大 正 四六 ・ 六 三 上 ︶。    10   ﹃玄疏﹄巻二︵新纂続蔵一八・五二三中︶ 。    11   ﹃ 玄 疏 ﹄ 巻 二 。    12   ﹃ 維 摩 経 ﹄ 巻 二 ︵ 大 正 一 四 ・ 五 四 四 中 ︶。    13   ﹃維 摩 経﹄ 巻 二︵大 正 一 四・ 五 四 四 下︶ 。    14   ﹃ 維 摩 経 ﹄ 巻 二 ︵大 正 一 四・ 五 四 五 中︶ 。    15   ﹃玄 疏﹄ 巻 二︵新 纂 続 蔵 一 八 ・ 五 二 三 中 ︶。    16   ﹃ 維 摩 経 ﹄ 巻 二 ︵ 大 正 一 四 ・ 五 四 四 中 ︶。    17   ﹃維摩経文疏﹄巻一九 ︵ 新 纂 続 蔵 一 八 ・ 六 一 三 下 ︶。    18   ﹃ 玄 疏 ﹄ 巻 二 ︵新 纂 続 蔵 一 八・ 四 二 三 下︶ 。    19   ﹃摩 訶 止 観﹄ 巻 六︵大 正 四 六・ 七 〇 上︶ 。    20   ﹃玄 疏﹄ 巻 二︵新 纂 続 蔵 一八・四二五下︶ 。 ︿参考文献﹀ 佐藤哲英﹃天台大師の研究﹄百華苑、一九六一 野 本 覚 成﹁三 種 三 観 の 成 立﹂ ﹃印 度 学 仏 教 学 研 究﹄ 第 二 六 巻 第 二 号、一九七八 ︿キーワード﹀ 三観、従仮、入仮、仮、摩訶止観、維摩経玄疏 ︵大谷大学大学院︶

 

楠 淳證   著 A五 判 ・ 七五〇 頁・本体 価 格 一三 、 〇 〇〇円 法藏館 ・二〇一 九 年 八 月

慶撰

識論尋思鈔

 

参照

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