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ロバート フロストの 詩 における 歩 くことの 意 味 寺 尾 勝 行 1 フロストの 詩 を 読 んでいて 気 づくことは 詩 の 話 者 (そしてそれ 以 外 の 登 場 人 物 も)が 歩 いている 場 面 が 非 常 に 多 いと 言 うことである 筆 者 の 考 えでは フロストの 詩

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Title

ロバート・フロストの詩における歩くことの意味

Author(s)

寺尾, 勝行

Citation

愛媛大学法文学部論集. 人文学科編. vol.34, no., p.141-161

Issue Date

2013-02-28

URL

http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/handle/iyokan/1912

Rights

(2)

ロバート・フロストの詩における

歩くことの意味

寺 尾 勝 行

 フロストの詩を読んでいて気づくことは、詩の話者(そしてそれ以外の登場 人物も)が歩いている場面が非常に多いと言うことである。  筆者の考えでは、フロストの詩においては、歩くということが単なる好みの 問題を越えて、詩のあり方や書き方そのものに関連していると思われる。フロ ストの詩においては、「歩く」ということが十分考慮に値する問題である、と いうのが本論の基本にある問題意識である。  以下では、フロストの詩において歩くことが持っている意味を考え直してみ ることで、彼の詩の特徴・特質がいくらかでも明らかになり、さらに広くは彼 のアメリカ詩人としての意義がいくらかでも明らかになればよいと考えてい る。

 先ずは単純に、フロストの詩には、話者が歩くという描写が頻繁に現れると いう事実の確認から始めたいと思う。

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 例えば、長詩 "The Mountain"「山」の冒頭近くに次のような箇所がある。   And yet between the town and it I found,

  When I walked forth at dawn to see new things,

  Were fields, a river, and beyond, more fields.  (ll. 7-9. )1)

  だがしかし、夜が明けて新しいものが見れないかと散歩に出かけた時、   町とそれ(=その山)との間に私は見つけた、   野原と、一本の川と、そしてその向こうにさらなる野原があるのを。  この詩は一種不思議な山をめぐっての詩である。話者は、何かの用事があっ てこの山の麓に夜になって到着し、宿泊したのだが、その翌朝「新しいものが 見れないかと」散歩にでかける。現代の我々もよくやるように、公務出張の宿 泊先で、ジョギングがわり、気分転換のために散歩にでかけたということでも あろうか。  この後話者は、地元の農夫と思しき人物に偶然に出会い、かみ合っているよ うでかみ合っていない、想像力豊かな会話(或いはほら話のやりとり?)が続 く。しかしそちらの、農夫と話者とのやりとりこそ実はこの詩全体の中心を占 めるテーマではないのかと思われる。散歩はあくまで詩の中心的テーマに到る までの前置きのような形で置かれていることに注意してもらいたい。

 また、長詩 "The Black Cottage"「黒い小家」は次のような書き出しで始まる。   We chanced in passing by that afternoon

  To catch it in a sort of special picture   Among tar-banded ancient cherry trees,

  Set well back from the road in rank lodged grass,

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  私達はその日の午後通りがけにたまたま、   タールを帯状に塗った、年経たサクランボの木々の間、   道から十分奥まったところ、すっかり根付いて生い茂る草の中に、   ある種特別な一枚の絵でも見るようにして、   丁度その時話しをしていた小さな家を目に止めた。……  フロストの詩における歩行には、いくつかの共通する特徴が見られる。その 一つは例えば、明確な目的を敢えて持たない歩きであることが多いというこ とである。そのため、歩行が出てくる詩にはしばしばこの詩にもあるように "chanced to" だとか "happened to" あるいは "accidentally" という語が一緒になっ4 4 4 4 4 て4見られることが多いのである。  この長詩においても、牧師と話者が世間話をしつつ歩いていると、それまで 「話題に出していた小さな家が、たまたま通りがかりに目に入」る。そしてこ こでもまた、 丁度詩「山」と同じように、詩全体の中心的なテーマはといえば、 タイトルにある「黒い小家」とその住人であった老女なのであって、歩くこと はあくまでその中心的テーマに到るまでのきっかけに過ぎない。  フロストの詩において、話者は実際的な目的を持たず、とにかく歩き始める ことが多い。言い換えると、フロストの詩の話者(あるいは登場人物たち)は 盛んに歩くのであるが、それは何か実生活上の必要に迫られてとか、移動する 目的があってということがまれなのである。  そのようなフロストの詩における歩くことの無目的性は、比較的有名で、し ばしばアンソロジーにも収録される詩 "After Apple-Picking"「林檎摘みの後で」 においてもまた明瞭に見て取ることができる。

  But I am done with apple-picking now.(l. 6.)(68)3)

  . . .

  I cannot rub the strangeness from my sight   I got from looking through a pane of glass

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  I skimmed this morning from the drinking trough

  And held against the world of hoary grass.  (ll. 9-12.)(68)   しかし、林檎摘みはもう終わりだ。     ・・・   私は視野からあの奇妙さを取り去ることができない   飲み水桶から今朝掬い、白っぽい草の世界に対して   掲げた一枚のガラス(状の氷)を通して得た光景のあの奇妙さを。  林檎摘みを題材とする詩だが、ll. 9.-12. は林檎摘みに出かける途中でも、林 檎摘みの作業の一環でもない。l. 6. で「林檎摘みはもう終わった」と言ってい ることからもそのことは明かである。その日の朝、家畜の飲み水桶からガラス 板状の氷をすくい上げたと話者は言っているが、そもそも朝早くから話者は何 をしていたのだろうか。― 散歩としか考えようはないのである。もちろん、 思い屈するところがあり、気を紛らわせるために歩きに出かけたのであろうと いった心理的な読み込みをすることは不可能ではないが、いずれにしても、早 朝からリンゴを摘むためでもなく、ましてや後の行に出てくる飲み水桶から氷 を掬い取り「世界に対して掲げてみる」ことが目的であった4 4 4 4 4 4わけではない。  しかし、なぜフロストの詩の話者は歩くことにこだわるのであろうか。  さしたる目的もなく歩き出した人がその後どうなるのか?それを見てみれ ば、このこだわりの理由が見えてくるのではなかろうか。

 前節ではフロストの詩において、話者がしばしば特に明確な目的を持たずに 歩き出すことが多いということを指摘した。  本節ではさらにそれに加えて、フロストの詩における歩きには寄り道的性格 が強いということを指摘したい。寄り道的性格は、無目的的性格と近親性があ

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るが、全く同じものを指すという訳ではない。無目的であるということは、と りあえずは歩き出す時点で目的があるかどうかに言及したものであり、寄り道 的であるとは、歩き始めて以降、歩いている途中でのことに言及しているとい う違いがある。ただしこの二つは、目的地を定めぬまま出発し、またその途中 途中で思わぬもの(=出発時には予期していなかったもの)に遭遇し、そこか らまた新たな展開を導き出すという意味で、連続的な繋がりを持っている、と でも言っておけばよいであろうか。  無目的的であると言い、寄り道的性格があると言っても、詩全体の展開を追 わないと実際にそうであるかどうか判断できないではないか(断片だけ見せら れても当否の判断はできない)と言う向きもあろうかと思う。少々引用が長く なるが、1篇の詩全体を視野に入れつつ、詩の展開の仕方と歩くことという観 点から議論を進めたいと思う。  扱う詩は "Birches"「樺の木」という詩である4)

  When I see birches bend to left and right   Across the lines of straighter darker trees,

  I like to think some boy’s been swinging them.  (ll. 1-3.)

 「樺の木が、小お暗ぐらい木々が作る直線的な線を横切るように右へ左へと傾いて

いるのを見ると、私は誰か少年がそれらの木を揺さぶってきたのだろうと考え たくなるのだ」と詩は始まる。

 "When I see . . .", "I like to think . . ." と現在時制で書かれているから、通りか かって目にする時にはいつもということであって、ここでもまた樺の木の生え ている場所を通りかかった理由は問題にされていない。樺の木の様子をわざわ ざ見に行ったという可能性も皆無ではないが、"see" という動詞が選ばれてい るところを見ると、「歩いている途中で見かけた」、「目に入った」、という意味 に取っておくのが妥当であろう。

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 タイトルに掲げられていることからも明らかなように、この詩の中心的な話 題は樺の木であり、また導入部はその樺の木で遊んだと想像される少年(ただ し、不特定の少年)について語り始めたはずなのだが、話は一時的にではあ れ、おそらくは別のある時氷雨が降った翌朝話者が目にしたのであろう樹氷状 態の樺の林の描写へと脱線を始める。

  But swinging doesn’t bend them down to stay

  As ice-storms do. Often you must have seen them 5     Loaded with ice a sunny winter morning

  After a rain. They click upon themselves   As the breeze rises, and turn many-colored   As the stir cracks and crazes their enamel.

  Soon the sun's warmth makes them shed crystal shells 10     Shattering and avalanching on the snow-crust ―

  Such heaps of broken glass to sweep away

  You’d think the inner dome of heaven had fallen.  (ll.4-13.)  今問題にしたいのは、こうした寄り道が持つ意味である。  批評家の中には、このような寄り道の部分(寄り道と思われる箇所はこの詩 の中に複数箇所ある)が詩全体に対して積極的な意味を持っていない、つまり 無駄な描写であるとして否定的に捉えるものが少なくない。それらの批評家 は、しばしば寄り道の箇所が欠点であるとして、この詩全体の評価を低いもの と捉えてもいるようだ。  しかし筆者の考えでは、これら寄り道と思われる箇所は、まさに寄り道的な 描写としてしっかりと詩全体の中で機能しており、またこうした寄り道は詩人 フロストが代表作を次々と生み出した一時期を支える重要な詩法であったと思 われる。そして寄り道そのものについて言えば、他のどのような移動手段でも なく、歩いて移動するからこそ寄り道(的思考)が可能になるという意味で、

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寄り道と歩行は密接に結びついているのである。  先ず逸脱部分の描写そのものを味わってみたい。雨が降り、夜の冷え込みに よって樺の枝全体に氷が薄くへばりつく。かすかな風が出ただけで、薄い氷を まとった枝と枝がこすれあいカチカチと硬質の音を立てる。枝がもっと大きく 動くと、ぶつかりあった氷に大小さまざまなヒビが入ることになるが、そのヒ ビに朝日が当たると光は乱反射して様々な色に輝いて見える。やがて朝日の熱 によって氷が溶け、ヒビが既に入っていたこともあり、氷は一気に粉々に砕け ながら、雪崩を打つように地面に落ちる。地面には昨日以前からの雪が堅く締 まって、層状をなして積もっているが、砕け落ちた氷はたわんだ樺の枝の真下 に、ガラス状の山を、枝の伸び具合をなぞる形で積み上げることになるであろ う。  引用部分の訳である。「しかし揺らすことでは、氷雨がするように樺の木を 折り曲げてそのままにすることはない。/あなたもしばしば見たことがあるは ずだ。/雨の後、晴れた冬の朝、樺の木に氷がかぶさっているのを。/風が出 ると樺の木がこすれ合いカチカチと鳴る/木の動きがエナメル状の氷を砕き、 ひび入らせると、/様々な色に変わる。/まもなく太陽の暖かさにより、樺の 木は水晶の殻を/雪の地面の上に雪崩が落ちるように振り落とす― 掃いて 捨てなければならないほどの砕けたガラスの山々、まるで天のドームの内側が 落ちてきたのではないかと思われるほどだ。」  何という美しい光景であろう。また、その美しい光景を描き出し、読者にま ざまざと思い起こさせる言葉遣いの何という確かさだろう。しかも使われてい る語彙がごく身近な、平易な語彙だけであることにも注目してもらいたい。例 えば、l. 5."Often" からl. 14. 末までに用いられた語彙のうち音節が最も長い語 は "avalanching" の4音節だが、その他は大部分が2音節以下からなる基本語 彙と言ってもよいような語である。さらに言えば、複数箇所に出て来る複合 語 "ice-storms" "many-colored" "snow-crust" は1音節ないし2音節の基本語をハ イフンによって結ぶことで出来上がっている。あるいはまた、"click” “As the stir cracks and crazes their enamel.” “the sun’s warmth makes them shed crystal shells/

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Shattering and avalanching on the snow-crust ―” などに見られる[k]音、[∫]音の 巧みな繰り返しは薄い氷が立てる音をまざまざと実感させてくれるではない か。  しかしながらこのような脱線の箇所をこの詩の弱点であるとする批評家はど うやら少なくないらしい。例えば John C. Kemp の、「これらの経験の、今この 場の発言― とはつまりこの詩ということだが ― に対する関係ははっきり としないまま残される。エリオットやパウンドがしばしば確信させてくれるよ うに、様々な素材が詩の話者の心の中で合体してしまっていると我々読者が確 信できるのであれば、(スクワイアーズが言う)イメージや概念の『相矛盾す るようなごたまぜ』をもっと進んで受け入れることもできるかも知れない[が、 この詩でのフロストはエリオットやパウンドのようには確信させてくれないの で、余り受け入れる気にならない。]」5)(訳の括弧書き内の下線部強調は筆者 による。また、[ ]内は筆者による文意の補足訳である。)という意見はその 代表である。

 Mordecai Marcusもまた、The Poems of Robert Frost: an explication において、 「この詩は、少年達が遊びとして揺らすことで曲がってしまった樺の木と氷雨 によって曲がってしまった樺の木という二つの視点の間を行ったり来たりして いて、テーマ的な縒りあわせがいくぶん不可解なものとなっている。」6)と述 べている。  脱線の箇所について否定的な批評家のほとんどが、この箇所のみに限って言 えば非常に印象的な描写となっていると認めていることも興味深い。要するに そこだけ取り出して見れば優れた描写なのだが、詩全体の中で果たしている役 割が見えてこない、従って詩全体として見るとよい詩とは言えない、というこ となのだ。  しかし筆者としては、これら脱線の部分が、一見して詩全体の中で機能して いないように見えながら、実はちゃんとある役目を果たしていると主張したい と思う。そしてそのような脱線はある意味で非常にフロスト的であり、また大 いに読み味わうべき箇所となっているのだということを指摘したいと思うの

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だ。

 l. 4. "But swinging doesn't bend them down to stay" からl. 13. "You'd think the inner dome of heaven had fallen." の脱線部分について。樺の木に登って揺らす少年の 遊びの話から氷雨の後にできる樹氷の美しさの話への脱線であるが、寄り道 部分を否定的に捉える批評家の中には、特に l. 13. ". . . the inner dome of heaven had fallen." の部分がロマン派の詩人シェリー(Percy Bysshe Shelley)による詩 "Adonais" への言及であると指摘する者もあれば、全く指摘しない者もある。  すぐ後に述べる理由から、詩「アドーネイス」への言及は意図的であったと 言ってよいと考えるが、読者がそこまで読み取らなければこの詩の本当の価値 が理解できないとは筆者は思わない。その根拠についてもまた後から触れるこ ととして、当面の所「アドーネイス」への言及に読者が気付いた場合に詩全体 の流れがどのようになるかを確認しておこう。  議論はさらに寄り道をたどることになるが、煩をおそれず詩「アドーネイ ス」の概要説明と、「樺の木」に関わってくる箇所の引用を行っておく。  「アドーネイス」はキーツの死に際して、シェリーが書き、1821年に出版し た挽歌である。詩は55連からなるスペンサー風スタンザで構成されており、ビ オンやモスコス等ギリシアの挽歌、さらにはミルトンの挽歌である『リシダ ス』等の先行作品の影響を受けている。作品中では、キーツは美と豊穣のギリ シア神であるアドーネイスに仮託される形で登場する。すなわち詩のタイトル に掲げられ、また詩の中でアドーネイスと呼ばれるのは実際にはキーツを指し ている7)  

  Heaven’s light forever shines, Earth’s shadows fly; 461         Life, like a dome of many-coloured glass,

  Stains the white radiance of Eternity,   Until Death tramples it to fragments. ―Die,

  If thou wouldst be with that which thou dost seek! 465         Follow where all is fled! ― . . . 466     8)

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  「天」の光は永遠にかがやき、「大地」の影は飛び去る。   「生」は多彩なガラスの円ド ー ム蓋のごとく   「死」がそれを踏みくだくまで   「永遠」が放射する白光をいろどる― 死ぬがよい、   もしおまえが、おまえの求めるものと共にいようとするなら!   あらゆるものが飛び去ったあとを追え!   9)  「アドーネイス」のll. 461-466.、連で言えば最終連から4つ前の連で、第52 連の一部である。「樺の木」の特にl. 13. について、「アドーネイス」のl. 462. への言及であると指摘されることが多いが、実際には複数箇所にわたって「ア ドーネイス」に影響されたと思われる語句があって、そのことが「樺の木」に おける「アドーネイス」への言及が意図的であったと判断される一つの理由と もなっている。例えば、「アドーネイス」のl. 462."many-colored" は「樺の木」 のl. 8."turn many-colored" の部分で、また前者のll. 481.-484."that sustaining Love/ Which through the web of being blindly wove/ By man and beast and earth and air and sea,/ Burns bright or dim, . . . " の "the web" "Burns"は「樺の木」ll. 45-46. の "Where your face burns and tickles with the cobwebs/ Broken across it . . ." に("burns" は「アドーネイス」では「輝く」の意味で、「樺の木」では「ひりひりする」 の意味で使われており、いわば換骨奪胎する形で)転用されている。  「樺の木」を書いていた時、フロストの意識の中に「アドーネイス」があっ たと思われるもう一つの理由は、定型詩のリズム、すなわち律に関係する。先 に概略を記したとおり、「アドーネイス」はスペンサー風スタンザで書かれて いるのだが、これは弱強5歩格4行からなるかたまり(いわゆる quatrain 四行 連句)を2つ重ね、9行目を弱強6歩格(俗に言うアレキサンドライン)で締 めくくって1連とするものである。「樺の木」は基本的にゆるやかな弱強5歩 格 iambic pentameterで書かれており、ll. 10-11. などは口語的なリズムを取り 入れていることもあってかかなり弱強調からはずれているが、ll. 12-13. のス キャンを試みてみると、

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 /  /  x / x   / x /  x /     (10音節) Such heaps of broken glass to sweep away

x   / x / x   / x / x x / x    (12音節)

You’d think the inner dome of heaven had fallen. (ll. 12-13) と、ほぼ定型通り弱強調で進行しており、さらには(見ようによっては非常に きらびやかな)決めの比喩である13行目は12音節で締めくくられているのであ る。  さて、「アドーネイス」への言及に読者が気付いた場合に詩全体の流れがど のようになるかであるが、最も理想的な受け止め方は、リチャード・ウィル バーが要領よくまとめてくれているように、「『樺の木』という詩は、全体とし て見ると、実際のところシェリー流の際限のない新プラトニズム的憧れに対す る回答となっているのだ」10)と読む、というものであろう。  地上の生(現世)か、天国(来世)かと言った場合に、来世(Eternity)を 選ぶというのが「アドーネイス」におけるシェリーの立場だとすると、フロス トは天国へのあこがれは持ちつつ(さらにはそちらに「向かって」("Toward", (l. 56)飛び出しつつ)も、最終的には地上を選ぶというのであるから。  ここではまた、詩「アドーネイス」の話者も、「樺の木」の話者も、地上と 天国の選択に逡巡しつつ、ともに受け身的に最終的な選択をする(する羽目 になっていた)という類似も面白い。(「アドーネイス」では "The breath . . . / Descends on me; my spirit's bark is driven,/ Far from the shore . . ." (ll. 487-490.)、 「樺の木」では ". . . till the tree could bear no more,/ But dipped its top and set me

down again."(ll. 56-57.))これほどまでにフロストは「アドーネイス」をなぞ りながら、最終的な選択は「アドーネイス」とは正反対の地上としている。こ こまで類似させながら、正反対の落ちを持ってくるとは、ほとんどパロディを やっていると言ってよいかも知れない。  しかし、と疑問の声がすぐ出てきそうである — 果たしてどれだけの読者 がそこまで読み込むことができるだろうか。フロストはこの詩で、エリオット

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の『荒地』まがいの「現代詩的な」読み方を読者に要求しているのだろうか。 筆者はそうではなかろうと考える。この部分の脱線の読み方の基本は、シェ リー的な極端なロマン主義的なものの考え方、すなわち天国に対するあこがれ を、即地上の生からの離脱(別の言葉で言えば自から命を絶つということ)と 結びつけてしまうのは、想像力の暴走ですよと抑制をかけているのだと受け止 めるだけでとりあえずは十分なのだ。それかあらぬかフロストは繰り返し寄り 道をして強調し、また、これは寄り道である、ユーモアであると強調するの である。(例えば、“But I was going to say when Truth broke in/ With all her matter of fact about the ice storm,/ I should prefer to have some boy bend them . . .” l. 21. な ど。)要するにこの部分は、研究者とか象徴や引用探しに血眼になる現代詩の 熱狂的な信奉者向けに書かれているのではなく、ごく普通の一般読者を想定し て書かれているということだろう。そしてそれが研究者的、かつ「現代詩的」 読みを適用したい、適用せねばならない、と決めてかかる読者には詩の展開が 一貫していなかったり、メッセージが過度に教訓的に見えてしまう要因なのだ と思われる。先に引用した John C. Kemp の反応はその典型である。  だからこそ昂揚したスペンサー風スタンザの弱強調から、同じ弱強調では あっても、アメリカの話し言葉により換骨奪胎させた弱強調のリズム(それは 弱強調のリズムを遠く響かせながら、しかし同時に「いかにも」アメリカの話 し言葉の響きでもあるというリズムになっている)にすぐさま戻り、この詩の 基調(そして基本的な価値観)が進行していくのである11)。これもまたウィル バーの指摘する通り、「フロストの語りかける声がこの詩の中にはあり、彼の 語り方もまた同様にこの詩の中にある。議論の流れはあからさまなまでに気取 らないもの、あるいは気まぐれなものとさえ言ってよい。しかし見かけ上の気 まぐれ歩きの裏には厳格な知性が存在している。詩の言葉は修辞的なあるいは はにかみがちな抒情性のレベルにまで高まるが、すぐさま、時としてユーモア という形を取って、会話的なものに戻る。フロストの詩のユーモアは詩の意味 の一部である。なぜならユーモアは人間には限界があるという感覚から生じる ものであり、それこそがフロストが語っていることだからである。彼の詩は限

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界をわきまえた憧れの勧めである。あるいは精神的に高められた現世主義であ る。樺の木はその理念を完璧に具体化したものであ[る]……。」12)  既に紙幅をかなり食ってしまったので駆け足でこの詩の最終部分について触 れ、この詩の検討を通して言いたかったことをまとめておこう。  幾度も寄り道をし、昂揚しかけたところで日常的な描写や出来事に話を振 られ、ある意味拍子抜けをさせられてきた読者は、詩の大詰め近くになって "Earth's the right place for love"(l. 52), "I'd like to go by climbing a birch tree,/ . . . /

Toward heaven, . . ."(ll. 54, 56)と大仰な表現が出てきてももはや驚かないであ ろう。詩人が目指す比喩の機能するレベルが十分予測できるまでに準備が整っ ているからである。  フロストの詩において、寄り道が単なる無駄なのではなく、重要な役割を果 たしていることが分かったと思う。そして寄り道が価値観の表明ともなってい ることが分かったと思う。加えて、フロストはそうした価値観を、詩の中のリ ズムの変化を通して読者に感じ取らせるような工夫をしているのだということ も確認しておきたい。   寄り道は、それ自体が予期せざる展開を体現していると同時に、次に予期せ ざる展開をもたらすきっかけでもある。その意味で非常にフロスト的なのであ る。  また、そのような寄り道は、特定の目的を持つことなく歩いているからこそ 可能なのであって、高速で移動する車とか列車、ましてや飛行機での移動では そもそもなしえないことだということを押さえておきたい。

 しかしフロストが歩くことにこれほどまでにこだわるのは何故なのか。詩人 は歩くことに何を期待しているのであろうか。その問いに答えるヒントがフロ ストによるエッセイにあるように思う。

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 フロストの詩論としてしばしば取り上げられる"The Figure a Poem Makes"13)

を見てみよう。ここで詩人は、詩が生まれる理想的なプロセスを次のように述 べている。

. . . No one can really hold that the ecstasy should be static and stand still in one place. It begins in delight, it inclines to the impulse, it assumes direction with the first line laid down, it runs a course of lucky events, and ends in a clarification of life― not necessarily a great clarification, such as sects and cults are founded on, but in a momentary stay against confusion.

 誰一人として恍惚の状態が静的であり、ひとところに静止しているものであ るとは主張しない。それは喜びに始まり、衝動に傾き、第一行が書き下ろされ るとともに方向を取り、幸運な出来事の連続をたどり、人生の明示に終わる ― この明示は必ずしも宗派や教団が拠って立つような大いなる明示である 必要はなく、混沌に対する一時的な抑止であればよい。  また、

. . . Step by step the wonder of unexpected supply keeps growing. The impressions most useful to my purpose seem always those I was unaware of and so made no note of at the time when taken, . . .

……一歩一歩、予想もしていなかった、驚くべき供給が成長し続ける。私の目 的にとって最も有益な印象はいつも、選び取ったその時には私が意識もしてい なければ、気にもとめていなかった印象であるように思われる。……

 これらの引用の、とりわけ "it runs a course of lucky events" や "the wonder of unexptected supply" といった箇所に、フロストが偶発性を重要であると考えて いたことが見て取れるだろう。また、後者の引用からは、詩によって得られる 「啓示」(詩が最終的にたどり着くことになる「啓示」)は最初からプログラム

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されていたものではなく、ある出来事や目にとまったものから出発し、予期せ ぬ展開によって(しかし経験そのものに内在していたモーメントにより)たど り着くという形が望ましいと考えていたことが読み取れるだろう。

 同じエッセイにはまた、科学者と文学者の知に到達する方法の違いに言及し て次のように記した箇所もある:

. . . but I suspect they differ most importantly in the way their knowledge is come by. Scholars get theirs with conscientious thoroughness along projected lines of logic; poets theirs cavalierly and as it happens in and out of books. They stick to nothing deliberately, but let what will stick to them like burrs where they walk in the fields. ……しかし私が思うに、科学者と文学者はそれぞれの知にどのようにして出く わすかという方法において最も重要な違いがある。[筆者補注:ここでフロス トが "come by" という言い回しを使っていることが重要である。あくまで彼に とって知は「偶然手に入れる」、「出くわす」ものなのである14)。]科学者達は 彼等の「知」を予め計画された論理の線に沿って、良心的な完全さをもって手 に入れる。一方で詩人達は彼等の「知」を騎士のように無遠慮に、しかも書物 の内外を問わず生じたその時に手に入れる。詩人達は意図的に何かに固着する ことなく、原っぱを歩いていて自分にひっついてくるオナモミのように対象が 自分についてくるに任せるのである。  ここでもまた、詩人という人種が知(あるいは真理、啓示と言い換えてもよ かろう)にたどり着く4 4 4 4 4プロセスは、計画的・論理的なものではなく、偶発的な ものであることが強調されている。  どうやらフロストにとって、「幸運な出来事の連続」の後、最終的に啓示に 至るために、特定の目的を持たないまま、歩き出すことが必要だったようだ。

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 最後に、再度形式の問題に触れておきたい。筆者は、歩くことへのフロスト のこだわりは、詩の形、リズムという面にもうかがわれるのではないかと考え ていて、彼のアメリカ詩人としての功績の一つはそこにあると思うからであ る。  実際のところ、歩くこと、また歩行のリズムと詩との関係は古くから多くの 詩人を捉えてきた事項であった。周知の通り英詩の韻律論(Prosody)では律 (meter)の最小単位を脚(foot)と呼んでいるが、これなどは定型詩のリズム と歩くということに密接な繋がりがあるのではないかという大方の印象を裏付 ける事実ではないか。  一方でフロストが生涯を通じて定型詩のリズムにこだわったこともまた多く の知るところである。ただし、フロストの詩のリズムは単純な弱強(あるいは 強弱)の繰り返しでないことはもちろん、定型詩のリズムを厳格に守ったもの とも異なっている。彼がどのようなリズムを用い、またそれが歩くことと(仮 にあるとして)どのような繋がりを持っているかを検討してみたいと思う。  "Stopping by Woods on a Snowy Evening" という、フロストの代名詞のように も見られている詩がある。  ここで出てくるのは、歩行ではなく、馬ゾリでの移動だが、移動の途中で見 かけた光景から思索が展開し、ある種の啓示が得られて詩が閉じられるという 点からは典型的なフロストの詩の展開と言ってよいだろう。  scansion(韻律分析)には主観的な要素もしばしば混じるため、人によって 意見も食い違うことが少なくないが、おおよそこのあたりは合意できるのでは ないかという形で以下に記してみた。  この詩の基本は第4連(最終連)に見られるように iambic としてよいだろ う。そして iambic は英詩の定型詩にあっては最も基本的なリズムパターンで あり、典型的に歩行との連想をもたらすリズムである。第2連、第3連のス

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キャンションを省略したのは、この二つの連は全く問題なくiambic tetrameter 弱強4歩格となっているためである。

/ / x / x / x /  Whose woods these are I think I know. x / x / x / x / His house is in the village, though; x / x / x / x / He will not see me stopping here x / x / x / x /

To watch his woods fill up with snow.   (ll. 1-4.) . . . .

x / x / x / x / The woods are lovely, dark, and deep, x / x / x / x /

But I have promises to keep, x / x / x / x /

And miles to go before I sleep,

And miles to go before I sleep.     (ll. 13-16.)   (248)

 フロストは基本的に弱強格に拠りつつ、この詩の基本的なムード(情調)を このリズムパターンが伝統的に読者に与えてきた雄勁で肯定的なもの15)にす るのに成功しているように思う。しかしその一方で彼は単に定型詩のリズム パターンにそのまま「のっかった」わけではなく、アメリカの話し言葉のリ ズムあるいはニュアンスを巧みに詩の中に流し込んでいるように筆者には思 われる16)  フロストは、別の詩論めいた書き物の中で、sense of sound(音の持っている 意味)という主張を行っており、詩の中で響くリズムには、定型のリズムだけ

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ではなく、話し言葉が持っている、それ自体で意味を体現しているリズムとい うものがあるべきで、その両者のせめぎ合いによって詩全体の成功・不成功が 決まるといった主旨の主張をおこなっている。この詩においても、定型詩のリ ズムパターンだけが要因となってではなく、アメリカ的な話し言葉のもつリズ ムとのせめぎ合い、融合があって初めて最終連における「肯定的な」啓示が説 得力を与えられているように筆者には見える。

 これと比較すると興味深いのは、"Acquainted with the Night" 「夜に親しんで」 (255)という詩である。

 ll. 1-3. で詩の話者は雨の中歩きに出て、雨の中帰ってくる。町の明かりが 届かなくなるその先まで歩いて来た、と彼は言う。何か現実的な目的があった 訳ではないことは明かである。(コンビニに夜食の弁当を買いに出かけた訳で はない。)

 基本となっているリズムは l. 13. "Proclaimed the time was neither wrong nor right." に見ることができるように iambic であろうが、そこここで不規則的な リズムが浸食してきている。例えば、

  x x x / x / x / x /   I have been one acquainted with the night.   x x / / x / x / x /

  I have walked out in rain―and back in rain.     (ll. 1-2.)

特に行の出だしでリズムが弱弱強調(anapaestic)的になり、後半になって持 ち直す、という進み具合が目立つのである。これはフロストの詩作品全体を通 して見て漠然と得る印象でもあるが、弱弱強調は彼の場合、不安、懐疑とか優 柔不断(あるいは滑稽)というムードと結びつけられることが多いようだ。  以上のようなリズム面での特徴と、この詩における啓示には何か関係がある だろうか。ここまで検討してきたことから分かる通り、何も目的としない歩行 は、その先に何らかの物との遭遇と、さらに運がよければ、何らかの啓示をも たらしてくれる予兆のはずであった。しかしこの詩の場合目にする物は例え

(20)

ば「地上ならざる高さ」に光る時計(あるいは月の比喩か)である。しかしこ の時計が話者に与えた啓示は「時代は悪くも、よくもない」というものであっ た。そしてそのことがおそらくは話者の心の鬱屈を一層深めるというのであ る。  どうやら詩「夜に親しんで」における大胆な iambic のリズムからの逸脱は、 逸脱しているそのことによって詩全体の内容と不可分に結びついていると言っ てよさそうである。フロストは、定型に固執しているどころか、定型を積極的 に自分の詩、あるいは自分の詩が拠って立つアメリカの話し言葉のリズムに取 り込みつつ ― あるいはこれまで使ってきた言葉で言えばアメリカの話し言 葉のリズムとせめぎ合わせつつ ― 自分のメッセージを効果的に伝えるとい うことをやっているのだろう。  歩くこととリズムの関係であるが、フロストが定型詩のリズムに一定の価値 を認めていることは改めて言うまでもない。歩行と同じように iambic のリズ ムはしばしば何かの対象との出会い、さらにはそこからの啓示をかなりの程度 まで約束してくれるもののようだ。しかしフロストに言わせれば、それは絶対 的な約束ではないということなのだろう。アメリカの話し言葉のリズムがその 中に取り込まれ、目にする物なり、歩いているそのプロセスに、具体的な命が 与えられないと、単なる機械的な、「作り上げられた」まがい物になってしま う、というのがどうやら彼の詩観だったように思われる。

1)The Poetry of Robert Frost, p.40. 本論でのフロストの詩の引用は、Edward Connery Lathem

ed., The Poetry of Robert Frost: The Collected Poems, Complete and Unabridged(Henry Holt and Company, 1969)によることとし、以下本書からの引用は括弧内にそのページ数を記して 表記する。

2)“The Black Cottage”, The Poetry of Robert Frost p.55. 3)“After Apple-Picking”, The Poetry of Robert Frost p.68. 4)“Birches”, The Poetry of Robert Frost pp.121-122.

5)John C. Kemp, Robert Frost and New England: The Poet as Regionalist(1979, Princeton UP.), p.140. “But the relationship of these experiences to his present utterance―the poem―is left unclear. We would be more willing to accept what Squires calls a “contradictory jumble” of images and ideas if we were convinced(as Eliot and Pound often convince us)that the diverse materials had coalesced in the speaker’s mind.”

(21)

6) Mordecai Marcus, The Poems of Robert Frost: an explication(Boston: G.K. Hall and Co., 1991), p.72. “The poem moves back and forth between two visual perspectives: birch trees as bent by boys’ playful swinging and by ice storms, the thematic interweaving being somewhat puzzling.” 7)Margaret Drabble ed., The Oxford Companion to English Literature, New Edition(Oxford UP.,

1985), “Adonais”の項による。

8)Donald H. Reiman & Sharon B. Powers eds., Shelley’s Poetry and Prose(Norton Critical Edition, W.W. Norton, 1977), p.405.

9)上田和夫訳、『シェリー詩集』(新潮文庫)(新潮社、1980)

10)Richard Wilbur, “Poetry and Happiness”(Richard Wilbur, Responses: Prose Pieces, 1953-1976 (Harcourt Brace Jovanovich, 1976)所収). p.113. ""Birches", taken as a whole, is in fact an answer to Shelley's kind of boundless neo-Platonic aspiration."

11)l. 14. はおおよそ次のようにスキャンできるのではないか。

     x x / x x / x / x / x /     (12音節)     They are dragged to the withered bracken by the load,

 すなわち行の前半は弱強調ではなく、弱弱強調となっているわけだが、これは話し言 葉のリズムを定型詩の律よりもさらに重視したことにより生じたものであると考えられ る。なお弱強調と弱弱強調の交代についてはさらに、後で触れるフロストの詩論 "The Figure a Poem Makes" の一節 "All that can be done with words is soon told. So also with metres--particularly in our language where there are virtually but two, strict iambic and loose iambic." をも 参照のこと。

12)Wilbur, p.112. "Frost's talking voice is in the poem, and so, too, is his manner: the drift of the argument is ostensibly casual or even whimsical, but behind the apparent rambling is strict intelligence; the language lifts into rhetoric or a diffident lyricism, but promptly returns to the colloquial, sometimes by way of humor. The humor of Frost's poem is part of its meaning, because humor arises from a sense of human limitations, and that is what Frost is talking about. His poem is a recommendation of limited aspiration, or high-minded earthliness, and the birch incarnates that idea perfectly, . . . "

13)Mark Richardson ed., The Collected Prose of Robert Frost(Harvard UP, 2007), p.293. 14)『新クラウン英語熟語辞典 第3版』(三省堂、1986)のcome byの項に、「3. ……を得

る;……を(偶然手に入れる;に出くわす)」とある。

15)具体的な個々の詩において弱強調がほぼ無意識の内に読者に感じ取らせるムードには、 もちろんかなりのばらつきが見られるのではあるが、Annie FinchのThe Ghost of Meter:

Culture and Prosody in American Free Verse(Michigan UP, 1993)の中の指摘 ― Dickinson

のある詩の中で弱強調は"authoritative", "masculine"な情調を、またStephen Craneのある詩 の中でも同じく"authoritative"な情調を生み出している ― などを参考にされたい。フィ ンチはさらに、上記のいずれの詩人の例においても弱強調からの逸脱が"authoritative"なも のへの懐疑そしてさらには自らの拠って立つ世界の不安定さを示唆するよう用いられてい4 4 44 4 4 る4 のだとする。大いに傾聴すべき指摘であろう。 16)例えば第1連の2行目は       x / x / x / x /      His house is in the village, though;

 とスキャンすることができるが、行末の "though" は「しかしながら」といった意味の副 詞として用いられており、主に話し言葉における使われ方である。(『プログレッシブ英和 中辞典 第3版』(1998)の "though" の項による。)また4行目は多くの批評家、研究者 が

      x / x / / / x /      To watch his woods fill up with snow.

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 とスキャンするが、ここまで弱強調に従った詩の中で強勢が3音節続くのは珍しい。参 考までに副詞 "up" に強勢が落ちるのは、話し言葉において "fill up" という半ば熟語的表 現を用いる時には "fill" "up" の両方にアクセントを置くのが普通だからである。(『研究社 新英和大辞典 第6版』(2002)、『プログレッシブ英和中辞典 第3版』等の "fill up" の 項による。)フロスト自身によるものを始め多くの朗読例において "fill" を若干弱めに、 "up" を強めに発音していることに鑑みればむしろ、

      x / x / x / x /      To watch his woods fill up with snow.

 とスキャンした方が実際の律読に沿っているのではなかろうか。それはともあれ、これら の例においてフロストは、話し言葉のリズムをそのまま用いながら、それが同時に定型詩 のリズムに合致しているという書き方をしているのである。

※本稿は、2011年6月11日開催の第40回中・四国アメリカ文学会における口頭発表の原稿を 元に加筆したものである。発表時にいただいたコメント、ご助言に感謝の意を表する。

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