日本の歴史
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鎌倉時代(その1)
◎ 平家の滅亡と鎌倉幕府の成立1
① 源頼朝と源(木曽)義仲の挙兵
11 世紀末に東北地方で起こった( ア )で、( イ )の始祖となった藤原清衡を助け、この戦いを終結
させたにもかかわらず、朝廷から何の恩賞ももらえなかっため、私財を従者への恩賞に充てた( ウ )は、
後世の源氏の中で英雄視されました。
しかし、その孫の源為義は、1156 年の( エ )で敗戦。
( エ )で( オ )上皇側について勝利した息子の
( カ )も、1159 年の( キ )では敗戦し、乱に参加
した子どもたちともども殺されてしまいました。
その中でただ一人、( ク )だけは命を助けられ
伊豆に流されました。
(幼かった義経・範頼は乱には参加していません)
その後、( ケ )を一門の総帥とした平家が
勢力を伸ばし栄華を誇った時期、( ク )は
伊豆でひっそりと(?)した暮らしを送り、その
間に伊豆の豪族の北条時政の娘の( コ )と
結婚しました。(北条氏は平氏を称していましたが、その
確たる証拠はありません)
そして、1180 年、( サ )が発した平氏追討
の令旨を受け取った( ク )は挙兵を決意。手
始めに伊豆の目代(国司の代官)を討ちますが、
相模の石橋山(現在の神奈川県小田原市)の
戦いで敗れ、海路を通って安房(現在の千葉
県房総半島の先端付近)に渡って、そこから房
総半島を北上し、武蔵・相模(現在の埼玉県・東
京都・神奈川県)に入り、鎌倉(現在の神奈川県
鎌倉市)に本拠を置きました。これは、三浦氏・
上総氏・千葉氏などの関東の武家の協力があっ
たので可能なことでした。
本拠地鎌倉で休むまもなく、( ク )は平氏軍を富士川(現在の静岡県)で迎え討ち撃破。平氏を追撃
しようとした( ク )は、三浦氏・上総氏・千葉氏の関東の足固めを勧める意見を取り入れて鎌倉に戻り、
ついで常陸(現在の茨城県)の佐竹氏を打ち破って関東をほぼ手中に収めました。~因みに( ク )に協力し
た三浦氏・上総氏・千葉氏は桓武平氏の流れを、敵対した佐竹氏は清和源氏の流れを汲んでいます。歴史ってフシギですね~
翌1181 年、高倉天皇が崩御し、次いでその総帥であった( ケ )も熱病で亡くなり、平家は大打撃を
受けます。そして、その翌々年の1183 年、状況は急激に動き始めます。
( ク )の挙兵に続いて、甲斐(今の山梨県)源氏の武田氏、信濃源氏で( ク )の従兄弟の( シ )、
近江源氏、美濃源氏など次々と反平氏の動きが起こりました。その中でも有名なのが、目立つ動きをし、
結局は滅ぼされてしまった、( ク )の従兄弟の( シ )でしょう。
北陸に勢力を進めた( シ )は、1183 年、倶利伽羅峠(現在の富山県と石川県の県境)の戦いで平氏
軍を壊滅し、近江(現在の滋賀県)に入り、周辺の源氏とも協力し事実上京都を包囲。平氏一門は、幼
い( ス )天皇を擁して西国に向かいました~都落ちと言う見方もあります。また、( オ )法皇はその時は比叡山に脱出し、
京都に残りました~。
( シ )は、甲斐源氏・美濃源氏・近江源氏とともに、平氏が去った後の京都に入りましたが、( ス )
天皇の次の天皇の決定に介入したり~結果は意見が通らず後の( セ )天皇が即位~、京都の治安回復に失
敗するなどで、どんどん立場が悪くなっていきました。そこで、失地回復のために、平氏追討のために西
国に向かいます。
源義親
源義家
源義国
源為義
源義朝 源義賢
足
利
義
康
源
義
仲
源
頼
朝
源
範
頼
源
義
経
北
条
政
子
北
条
時
政
北
条
義
時
北条泰時
源
頼
家
源
実
朝
公暁
新
田
義
重
北条時氏
北
条
経
時
北
条
時
頼
北条時宗
北条貞時
北条高時
足
利
尊
氏
新
田
義
貞
足利
義兼
足利
義氏
足利
泰氏
足利頼氏
足利家時
足利貞氏
足利
義兼
新田
義兼
新田
義房
新田
義兼
新田政義
新田基氏
新田朝氏
足
利
直
義
脇
屋
義
助
日本の歴史
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鎌倉時代(その2)
◎ 平家の滅亡と鎌倉幕府の成立2
② 源(木曽)義仲の最期と平家の滅亡
( シ )が西国で平氏との戦いに苦戦している間に、( オ )は( ク )と交渉し、東海道・東山道(北
陸を除く、近畿より東の諸国のほとんど)の支配権を( ク )に与えました。その報を聞いた( シ )は急
遽京都に戻り、( オ )法皇に抗議しましたが聞き入れられず、ついに( オ )法皇の居所を焼き討ちし、
自ら征夷大将軍(近年の研究では「征東大将軍」の方が有力です)となりましたが、1184 年、( ク )の弟の( ソ )と
( タ )の軍勢に敗れ、近江で敗死しました。
この結果、北陸道も(と言うことは、現在の滋賀県・三重県以東の本州すべてを)、支配下に入れた( ク )は、一度西
国に下ったものの源氏のゴタゴタに乗じて福原(現在の神戸市)まで進出していた平氏と対決することに
なります。そこで、( ソ )と( タ )の軍勢は福原・須磨の( チ )の戦いで平氏を打ち破り、その陸上
戦力を壊滅しました。その後、( ソ )は平氏の水軍に苦戦しましたが、( タ )の軍も平氏追討のため
に動き、ついに平家は( ツ )の戦いで滅亡しました。
因みに、( サ )の挙兵から( ツ )での平家の滅亡までの一連の内乱を「治承・寿永(じしょう・じゅえい)
の乱」と言いますが、一般的には「源平合戦」、「源平の戦い」と呼ばれています。
③ 頼朝・義経の対立と、守護・地頭の設置
さて、平家が滅亡すると、( ク )と( タ )の対立が表面化します。原因は、( タ )が( ク )に無断
で( オ )法皇から官位を賜ったこととが一番とされていますが、他にも平家追討の際に勝手な振る舞
いが目立ったこと、平家追討の際は( タ )が率いた西国武士が活躍したため( ク )の御家人の東国
武士の恩賞のチャンスが奪われたなど、色々と考えられます。
そして、( ク )が( タ )の暗殺を試みたため、( タ )は( オ )法皇に、( ク )追討の宣旨(院宣)
を強要して獲得し、西国に下って建て直しを図ろうとしましたが、嵐のため失敗。しばらく潜伏したのち、
奥州の( テ )を本拠とする( イ )の下に身を寄せます。
( タ )が潜伏している間に、( ク )の怒りを恐れた朝廷は、今度は( タ )追討の宣旨を発します。
そして、( ク )は、妻の( コ )の父の( ト )を代理として遣わして朝廷と交渉し、( ナ )と( ニ )を
全国に設置することを朝廷に認めさせます。~後に( ナ )と( ニ )の役割は異なっていきますが、こ
の段階では、荘園や公領を直接支配・管理するのが( ニ )で、( ニ )を監督するのが( ナ )である
と言う認識で十分です~。
( ナ )と( ニ )の任免権を得たことで、( ク )は大きな権力を持つことになります。そのため、従来
は( ク )が( ヌ )に任じられた
1192 年とされていた鎌倉幕府成立の年を、この( ネ )年とみなす見
方もあります。
④ 義経の最期と、奥州藤原氏の滅亡(奥州合戦)
( ナ )と( ニ )は鎌倉幕府の大きな基盤の一つになりますが、設置当初は( タ )の追討のための
条件として朝廷に要求したものでした。( ク )は( タ )をかくまっている( イ )に圧力を加えます。3
代目の藤原秀衡が亡くなり、1189 年、4 代目の藤原泰衡はついに( タ )を自害に追い込み、その首を
鎌倉に送りました。
しかし( ク )は、許可なく( タ )を死に追いやったことを口実に、( イ )の本拠地の( テ )に全国
から動員した大軍をもって攻め入ります。そして、藤原泰衡が討たれ、約100 年間にわたった( イ )は
滅亡してしまいました。
これにより、( ク )は東北の全域を直接の支配下に収めることが出来ただけではなく、かつて敵対し
ていた武士にも挽回のチャンスを与え、さらに、( ア )の( ウ )の先例を随時持ち出して、「( ノ )」
~「鎌倉殿」と呼ばれた( ク )と直接の主従関係を結んだ武士のこと~を確立し、主従関係を強化する
ことも出来ました。
なお、この奥州合戦の終結をもって治承・寿永の乱の終息とみなす見方もあります。
日本の歴史
44~45
鎌倉時代(その1~2) 解答用紙
ア イ ウ エ
オ カ キ ク
ケ コ サ シ
ス セ ソ タ
チ ツ テ
ト ナ ニ
ヌ ネ ノ
♪ オマケの確認問題 ♪
① 鎌倉幕府を開いた人の名前を答えなさい。
② ①の人の妻の名前を答えなさい。
③ ②の人のお父さんの名前を答えなさい。
④ ①の人との対立の結果自刃した、①の人の弟の名前を答えなさい。
⑤ ④の人が最期に頼ったの一族は何氏と言われていましたか。
⑥ 1085 年、④の人の追討を名目に、①の人が朝廷の勅許を得て
全国に設置した役職を2 つ答えなさい。 、
⑦ 「鎌倉殿」と呼ばれた①の人など、幕府一番の実力者と直接主従
関係を結んだ武士のことを何と言いますか。
⑧ 平家が滅亡した戦いを何と言いますか。
⑨ この2 枚のプリントの中で出てきた人物の中で、キミがヒーローだ
と思う人物と、一番可哀想だと思う人物を1 人ずつ答えなさい。
日本の歴史
44~45
鎌倉時代(その1~2) 解答用紙
ア 後三年の役 イ 奥州藤原氏 ウ 源義家 エ 保元の乱
オ 後白河 カ 源義朝 キ 平治の乱 ク 源頼朝
ケ 平清盛 コ 北条政子 サ 以仁王 シ 源(木曾)義仲
ス 安徳 セ 後鳥羽 ソ 源範頼 タ 源義経
チ 一ノ谷 ツ 壇ノ浦 テ 平泉
ト 北条時政 ナ 守護 ニ 地頭
ヌ 征夷大将軍 ネ
1185 ノ 御家人
♪ オマケの確認問題 ♪
① 鎌倉幕府を開いた人の名前を答えなさい。 源頼朝
② ①の人の妻の名前を答えなさい。 北条政子
③ ②の人のお父さんの名前を答えなさい。 北条時政
④ ①の人との対立の結果自刃した、①の人の弟の名前を答えなさい。 源義経
⑤ ④の人が最期に頼ったの一族は何氏と言われていましたか。 奥州藤原氏
⑥ 1085 年、④の人の追討を名目に、①の人が朝廷の勅許を得て
全国に設置した役職を2 つ答えなさい。 守護 、 地頭
⑦ 「鎌倉殿」と呼ばれた①の人など、幕府一番の実力者と直接主従
関係を結んだ武士のことを何と言いますか。 御家人
⑧ 平家が滅亡した戦いを何と言いますか。 壇ノ浦の戦い
⑨ この2 枚のプリントの中で出てきた人物の中で、キミがヒーローだ
と思う人物と、一番可哀想だと思う人物を1 人ずつ答えなさい。
日本の歴史
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鎌倉時代(その3)
◎ 平家の滅亡と鎌倉幕府の成立3
⑤ 頼朝の征夷大将軍就任
1190 年、( ア )は挙兵後初めて上洛し、( イ )法皇と会見します。そこで、( ア )は( ウ )の地
位を要求しましたが、( イ )法皇はこれを拒否し、権大納言・右大将に任じました。しかし、( ア )は
すぐにこれを辞職してしまいます。
翌1191 年、( ア )は鎌倉で政所を通じて、改めて( エ )への所領の恩給を行いました。これによっ
て、( ウ )=武家の( オ )と、( エ )との主従関係=( エ )制が制度化されました。
そして、( カ )年、とうとう( イ )が崩御し、朝廷でも親( ア )派とも言える人たちが中心となり、よう
やく( ア )は待望の( ウ )に任命されました。一般的には、この( カ )年が鎌倉幕府成立の年とさ
れています~平家が滅び、( ア )が全国に( キ )と( ク )を置いた( ケ )年とする見方もありましたね~。
しかし、1199 年、( ア )は、相模川(現在の神奈川県茅ヶ崎市と平塚市の間)の橋供養に出かけた
際に落馬し、それが原因で亡くなってしまいました。~今でもこのことに因んで相模川は「馬入川」とも呼ばれています~
◎ 源氏嫡流の断絶と執権政治へ
急死した( ア )の後を継いだのは弱冠18 歳の息子の( コ )でした。
( コ )は( ウ )に任じられましたが、1203 年、北条氏などの( エ )達に
よってその立場を失って伊豆に流され、弟の( サ )が12 歳で( ウ )に任
じられました。そして、翌1204 年、( コ )は祖父の( シ )などの北条氏に
よって暗殺されてしまいます。
その後、( シ )は( ウ )を補佐する( ス )と言える立場に立ちますが、
( サ )を廃しようします。その陰謀を、( ア )の妻であった( セ )が、弟の
( ソ )と共に防止し、父親の( シ )を伊豆に追放してしまいます。そして、
( ソ )は姉の( セ )の権威の下で( ス )となり、北条氏はその権力の基盤
を固めていきました。
そして、3 代将軍の( サ )も、1219 年に甥である( タ )によって暗殺されて
しまいます。さらに( タ )も直ちに討たれてしまい、これで源氏の嫡流とも言え
る源氏将軍の血筋が途絶えてしまいます。~右の写真は( サ )の暗殺の際に( タ )が
身を潜めていたと言う伝説がある神奈川県( チ )市の( ツ )宮にあった大銀杏です。その伝説の真偽
はとも角、この大銀杏は2010 年に強風によって倒壊してしまいました~
そこで、皇族から将軍を迎えようと考えた( セ )は朝廷にその旨を伝えました
が、院政を行っていた( テ )上皇がそれを拒否したため、わずか2 歳の公家の
子息(藤原頼経~九条頼経と書いている本もあります~)を鎌倉に迎えました。
そして、( セ )は、実質的に「( チ )殿」と言われる幕府の統括者の役割を代行したと見られていま
す。~藤原頼経が( ウ )になったのは1226 年ですので、( サ )暗殺からの 7 年間は( ウ )がおらず、( セ )が実質的に( チ )幕
府を動かしたため、「( ト )」とも言われました~
その後、( チ )幕府のトップには、名目的に公卿や皇族出身の( ウ )が就くことになりますが、実質
的な権力は( ス )職の北条氏が握っていきます。そして、1221 年、武家が権力を握ることを快く思って
いなかった( テ )上皇と( チ )幕府が、ついに武力衝突を起こします。これを( ナ )と言いますが、
この乱で勝利した( チ )幕府は( ス )を中心した強固な政治体制を確立していきます。
( チ )幕府の( ウ )一覧
一代 二代 三代 四代 五代 六代 七代 八代 九代
( ア ) ( コ ) ( サ ) 藤原頼経 藤原頼嗣 宗尊親王 惟康親王 久明親王 守那親王
※ 青字は公家出身の( ウ )で、( ニ )将軍・藤原将軍・公卿将軍と言われています。
緑字は皇族出身の( ウ )で、( ヌ )将軍・皇族将軍・親王将軍と言われています。
北
条
政
子
源
頼
朝
源実朝 源頼家
公暁
北
条
義
時
北条時政
北
条
泰
時
日本の歴史
46
鎌倉時代(その3)解答用紙
ア イ ウ エ
オ カ キ ク
ケ コ サ シ
ス セ ソ タ
チ ツ テ ト
ナ ニ ヌ
♪ オマケの確認問題 ♪
① 鎌倉幕府を開いた人は誰ですか。漢字で答えなさい。
② ①の人が征夷大将軍になった時と、守護・地頭を
決める権利を得た時とではどちらが先ですか。
③ ①の人の舅(妻の父)は誰ですか。漢字で答えなさい。
④ ③の人は、将軍(厳密には「鎌倉殿」)を助け統括する役割を幕府で
初めて担いました。この役割を何といいますか。漢字で答えなさい。
⑤ 鎌倉幕府の三代将軍で、甥によって殺されてしまっ
たのは誰ですか。ひらがなで答えなさい。 、
⑥ 2 代目の④として鎌倉幕府の実権を握っていったのは誰ですか。
⑦ ⑤が殺されたことをきっかけとして、1221 年に朝廷と幕府の武力
衝突が起こります。この乱を何といいますか。
⑧ ⑦の乱の張本人とも言える上皇の名前を漢字で答えなさい。
⑨ ①の先祖である源義家の血筋は鎌倉時代に途絶えてしまいましたか。
⑩ このプリントの登場人物で、キミが一番嫌いな人は誰ですか?
日本の歴史
46
鎌倉時代(その3)解答
ア 源頼朝 イ 後白河 ウ 征夷大将軍 エ 御家人
オ 棟梁 カ
1192 キ 守護(地頭) ク 地頭(守護)
ケ 1185 コ 源頼家 サ 源実朝 シ 北条時政
ス 執権 セ 北条政子 ソ 北条義時 タ 公暁
チ 鎌倉 ツ 鶴岡八幡 テ 後鳥羽 ト 尼将軍
ナ 承久の乱 ニ 摂家 ヌ 宮
♪ オマケの確認問題 ♪
① 鎌倉幕府を開いた人は誰ですか。漢字で答えなさい。 源頼朝
② ①の人が征夷大将軍になった時と、守護・地頭を
決める権利を得た時とではどちらが先ですか。 守護・地頭を決める権利を得たときが先
③ ①の人の舅(妻の父)は誰ですか。漢字で答えなさい。 北条時政
④ ③の人は、将軍(厳密には「鎌倉殿」)を助け統括する役割を幕府で
初めて担いました。この役割を何といいますか。漢字で答えなさい。 執権
⑤ 鎌倉幕府の三代将軍で、甥によって殺されてしまっ
たのは誰ですか。ひらがなで答えなさい。 みなもとのさねとも
⑥ 2 代目の④として鎌倉幕府の実権を握っていったのは誰ですか。 北条義時
⑦ ⑤が殺されたことをきっかけとして、1221 年に朝廷と幕府の武力
衝突が起こります。この乱を何といいますか。 承久の乱
⑧ ⑦の乱の張本人とも言える上皇の名前を漢字で答えなさい。 後鳥羽上皇
⑨ ①の先祖である源義家の血筋は鎌倉時代に途絶えてしまいましたか。 いいえ
日本の歴史
47
鎌倉時代(その4)
◎ 承久の乱と執権政治の確立1
① 承久の乱
さて、( ア )の張本人とも言える( イ )上皇ですが、第3 代の将軍の( ウ )の元服の時に名をつけ
るなど、当初は幕府と対立していませんでした。しかし、領地(荘園や公領の支配権)を巡って、徐々に
朝廷と幕府の溝が深まっていきます。また、( イ )上皇は、11 世紀に白河法皇が院の警護のために創
設した「( エ )の武士」に加えて、13 世紀初頭に「( オ )の武士」も設置しました。これは来るべき幕
府との戦いに備えてのこととみなす説もあります。
そして、ついに
1221 年、( イ )上皇は、当時の鎌倉幕府の( カ )の( キ )を追討するよう諸国の
武士に命(院宣)を下しました。それによって、鎌倉幕府の( ク )たちも大いに動揺しましたが、( キ )
の姉で「尼将軍」と呼ばれていた( ケ )の必死の呼びかけ~下の□の枠の中を参考にしてね~によって、( キ
)の指揮のもとに結集し、京都に向けて進撃を開始。最終的には19 万騎とも言われる~ホントかしら?~兵
力で上皇側の軍を1 ヶ月もかけずに撃破してしまいました~今で言うと「瞬殺!!」って感じかしらね~。
この乱に勝利した幕府は、首謀者の( イ )上皇を隠岐に
配流~島流し~し、他の2 人の上皇(順徳・土御門)も配流、幼
い天皇(明治時代に仲恭天皇とされます)は廃帝とするなど、前代未聞
の処置を取りました。
そして、幕府は( イ )上皇の系統を排除するために、その
兄を無理やり上皇~治天の君~に据えて、後堀河天皇を即位
させました。
さらに、( イ )上皇の荘園は没収の上、実質的には幕府の
管理下に置かれるなど、朝廷は幕府の強い規制の下に置かれ
ることになりました。
② 六波羅探題
( ア )の際に京都を占領した、( キ )の息子の( コ )とその叔
父の( サ )はそのまま京都に残って、戦後処理や朝廷の監視、西
国の( ク )の統轄に当たりました。これが、( シ )の始まりです。
この( シ )は、
1333 年に幕府の( ク )であった( ス )に滅ぼさ
れるまで、朝廷を監視するとともに、京都の治安維持、西国での領地
に関する裁判、皇位決定の取次ぎなど、重要な役割を果たし、大きな
権限を持ち続けました。
③ 新補地頭
( ア )での勝利によって、幕府は朝廷側の3000 箇所あまりの所領(荘園・公領)を没収し、恩賞とし
て多くの( ク )に与えました。このとき地頭として補任された( ク )を、( セ )と言います。
※ ( ケ )の「最期の詞(ことば)」
故右大將軍朝敵を征罰し、關東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よ
りも深し。報謝の志これ淺からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・
胤義等を討取り三代將軍の遺蹟を全うすべ し。但し院中に參らんと慾する者は、只今申し切るべし。
《意味》 故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、それなのに逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。
秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出
て参じるがよい。
後白河
77
二条
六条
78
79
以仁王
80 高倉
安徳
守貞親王
(後高倉院) 後鳥羽
81
82
83
土御門 順徳
84
仲恭
85
後嵯峨
88
後堀河
86
87 四条
北
条
政
子
源
頼
朝
源
実
朝
源
頼
家
北
条
義
時
北条時政
北条泰時
北
条
時
房
1
2
3
1
2 3
日本の歴史
48
鎌倉時代(その5)
◎ 承久の乱と執権政治の確立2
④ 義時と政子の逝去と執権政治の確立
( ア )の後、その戦後処理が進む中で、1224 年、( カ )であった( キ )が急死してしまいます。そ
のため、( コ )と( サ )は急遽鎌倉に戻りましたが、( キ )の後妻の一族が政権奪取の陰謀をめぐ
らせていました。その謀略を事前に察知した( ケ )は関係者を処罰し、( コ )を( カ )の座にすえま
す。しかし、翌1225 年、その( ケ )もこの世を去ってしまいました。
そこで、( コ )は叔父の( サ )をもう一人の( カ )~( ソ )と
言います~とし、( カ )と( ソ )を長とする( タ )の合議によって
幕府を動かす体制を軌道に乗せました。この頃の鎌倉幕府の組織を
図示すると右のようになります。
・(カ)…幕府の実質的な最高権力者。
・(タ)…合議制による幕府の最高決定機関。
・(シ)…朝廷の監視と京都の治安維持、西国( ク )の統轄。
・(チ)…国ごとに任命。軍事・警察の役目、( チ )の監督。
・(ツ)…荘園や公領に補任。年貢の徴収や警察の役目。
・(テ)…訴訟を取り扱った。※後に所領関係の訴訟は引付衆担当となります。
・(ト)…一般事務を行った。
・(ナ)…軍事面での御家人の統轄。
⑤ 御成敗式目(貞永式目)の制定
さて、1232 年、( コ )は、日本最初の武家法である「( ニ )」~「貞永式目」とも呼ばれます~を定め
ました。この法は、裁判の公正を理念として制定されていましたが、適用されるのは武家社会だけに限ら
れ、公家や寺社については別の法が適用されました。しかし、武家社会が初めて独自の法律を持ったと
言う点で、朝廷からの法的な独立を宣言したと評価する見方もあります。
そして、この後、( ニ )は広く武家法の基本となり、鎌倉幕府滅亡後においても、江戸幕府が( ヌ )
を制定するまで、武士の基本法として機能し続けました。
⑥ 中世日本社会の主従関係~御恩と奉公~
この時代の武家社会の主従関係はどのようなものだったのでしょう。
実は、主君に対して家臣が滅私的な忠誠を誓うと言うイメージ~例えば、「二君
にまみえず」、「君、君たらずとも臣、臣たれ」 と言うことばで示されるイメージ~は( ヌ )が制定
された( ネ )時代以降であって、それ以前は、右図のようなドライな契約関
係とも言える結びつきであったと見ることが出来ます。この関係を「( ノ )と
( ハ )」とも言います。
では、( ノ )とは何でしょうか。現代のサラリーマンは会社からお給料をもらっていますが、当時は「土
地」が与えられました。と言っても、土地の所有権を与えられるのではなく、( ツ )として土地を支配し
年貢などを徴収する権利を、保障~これを「本領安堵」と言います~、または新規給与~これを「新恩給与」と言います~
されることでした。
それに対して、主君に対する家臣の軍役・経済負担を( ハ )と言います。( ク )たちは、幕府に何
か事が起こると、「いざ( ヒ )」と言って( ヒ )街道を通って駆けつけたと言われていますが、この言葉
は謡曲から来たもので真偽のほどはセンセには分かりません。ただ、多くの( ク )たちは、忠義や正義
のために戦ったのではなく、主君からの( ノ )=恩賞のために戦ったと見ることも出来ます。そして、「一
生懸命」と言う四字熟語の語源ともなった、「( フ )」と言う言葉から、いかに当時の武士たちが土地(所
領)を大切にしていたかもわかります。
鎌倉殿(将軍)
(カ)・(ソ)
( タ )
(
ナ
)
(
ト
)
(
テ
)
(
シ
)
( チ )
( ツ )
引付衆
地方 中央(鎌倉)
主君(鎌倉殿)
家臣( ク )
( ハ )
( ノ )
日本の歴史
47~48
鎌倉時代(その4~5) 解答用紙
ア イ ウ エ
オ カ キ ク
ケ コ サ シ
ス セ ソ タ
チ ツ テ ト
ナ ニ ヌ ネ
ノ ハ ヒ フ
♪ オマケの確認問題 ♪
① 承久の乱は何年に起こりましたか。西暦で答えなさい。
② 鎌倉幕府が承久の乱で勝利したときの執権の名前を漢字で書きなさい。
③ 承久の乱の際に、御家人たちを叱咤激励した②のお姉さんの名前を
漢字で書きなさい。
④ 承久の乱で負けて隠岐に流された上皇は誰ですか。
⑤ 承久の乱の後、朝廷の監視のために設けられた役職を漢字で書きなさい。
⑥ ②の後を継いだ3 代目の執権の名前を漢字で答えなさい。
⑦ 1232 年に⑥が制定した日本初の武家法の名前を漢字で答えなさい。
⑧ 武家社会で、主君が家臣に、そのの所領を安堵したり、新たに所領
を与えたことを何と言いますか。
⑨ もし君が、この時代の御家人で、戦で明らかな戦功を上げたにもかかわらず、守護の座を奪われて
地頭に格下げさせられ、しかもまだ戦が続いているとしたら、どのような行動に出ますか。
日本の歴史
47~48
鎌倉時代(その4~5) 解答
ア 承久の乱 イ 後鳥羽 ウ 源実朝 エ 北面
オ 西面 カ 執権 キ 北条義時 ク 御家人
ケ 北条政子 コ 北条泰時 サ 北条時房 シ 六波羅探題
ス 足利高氏(尊氏) セ 新補地頭 ソ 連署 タ 評定衆
チ 守護 ツ 地頭 テ 問注所 ト 政所
ナ 侍所 ニ 御成敗式目 ヌ 武家諸法度 ネ 江戸
ノ 御恩 ハ 奉公 ヒ 鎌倉 フ 一所懸命
♪ オマケの確認問題 ♪
① 承久の乱は何年に起こりましたか。西暦で答えなさい。 1221 年
② 鎌倉幕府が承久の乱で勝利したときの執権の名前を漢字で書きなさい。 北条義時
③ 承久の乱の際に、御家人たちを叱咤激励した②のお姉さんの名前を
漢字で書きなさい。 北条政子
④ 承久の乱で負けて隠岐に流された上皇は誰ですか。 後鳥羽上皇
⑤ 承久の乱の後、朝廷の監視のために設けられた役職を漢字で書きなさい。 六波羅探題
⑥ ②の後を継いだ3 代目の執権の名前を漢字で答えなさい。 北条泰時
⑦ 1232 年に⑥が制定した日本初の武家法の名前を漢字で答えなさい。 御成敗式目
⑧ 武家社会で、主君が家臣に、そのの所領を安堵したり、新たに所領
を与えたことを何と言いますか。 御恩
⑨ もし君が、この時代の御家人で、戦で明らかな戦功を上げたにもかかわらず、守護の座を奪われて
地頭に格下げさせられ、しかもまだ戦が続いているとしたら、どのような行動に出ますか。