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場概念と

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(1)45. 世界. は し が き. て. 町. 田. 実. 場概念と. の論理構造. 一︑世界市場概念の成立. 二︑責本主義的世界市場. が. き. 三︑経済学批判体系プランと世界市場. し. 四︑世界市場の構造把握のために. あ と が き. は. ㌧、. つの論争が展開された︒前者は﹁名和・赤松論争﹂としていわゆる﹁近経﹂﹁マル経﹂の対決︑あるいは共通論争の ■︐. 論争をもったが︑国際経済学に関しては︑いわゆる﹁国際価値論争﹂と﹁経済学批判に関するプラン﹂論争という二. 太平洋戦争の敗退によって市民権を回復するにいたったわが国マルクス経済学界は︑戦後いくつかのはなばなしい. つ. 場を提供するかと思われた珂むしろ︑本来的たマルクス経済学におげる国際貿易理論の体系化に関達する間題とし. 961. 〜こ. 市 そ.

(2) 962. て引き継がれ︑多くの人々によって続々と労作が発表され現在にいたっている︒後者は︑従来の資本論研究にみられ. た教条主義字義解釈から抜け出し︑マルクス主義経済学の創造的発展に新らしく道を開き︑今後の研究老に大きな示 唆を与えることに貢献した︒. 行沢健三氏の労作﹁国際経済学序説﹂にみられる新らしい=一ークな試みは︑必らずしも︑全面的な同感者を見出 到 さなかったにしても︑﹁最近の研究の一つの峯を形成した﹂というに値するものであったと思われるし︑如何に批判. 的な論者といえども︑木下悦二氏をはじめとする多くの国際価値論争文献が︑何らかの意味において︑わが国国際経. 済学の上に反省の材料を提供し︑その前進に役立っているであろうことについて︑これを否定しさることはむずかし いことであろう︒. 3︶ それにもかかわらず︑批評家によって︑これら理論的成果の不胎性が語られぺその理論的発展の方向に疑間符がな. 際価値論﹂の基本的な考え方に関連すると同時に︑経済学の体系に関する間題でもある︒そして何よりも︑両者の理. とくに︑われわれがここにとりあげようとする﹁世界市場﹂に関する概念とその論理構造の考察のごときは︑﹁国. っている︒. われわれが︑大いに反省を要するところであるように思われる︒間題は体系にかかわる基本的な諸点の再考察にかか. があろう︒したがって︑それが理論的体系化と実証的研究との結合に大きなつまずきとなっているという事実こそは. れわれが︑基本的な理論構成において︑依然として概念の渥乱をまぬかれず︑字義解釈にこだわっている現状に原因. 赤松要氏の指橋するところのマルクス的国際価値論は何らリカード・ミル理論を出でるものではないとする批評に 4 +分答えうる体系を示すことが出来ないでいるということは︑その一つであろ㍉しかし︑何よりも︑まずそれはわ. げられるのはなぜであろうか︒. 蝸.

(3) 47. 論的穂括でなげればたらないことである︒. 概念の統一と体系としての一貫した把握こそは︑科学的研究の前提であるといえるが︑﹁世界市場論﹂は理論的に. もまた実証的研究の分野からも︑いまや﹁プラγ論争﹂を越えて︑その体系化に進む段階であると思われる︒われわ. どうか. れは︑従来の﹁国際価値論﹂におげる反省をも含めて︑まず世界市場概念の再検討を行い︑その理論的位置付けを行 わたければならないo 木下悦二編﹁論争・国際価値論﹂・第二都︑八︑杉本栄一氏の論評︒. 有木宗一郎﹁国際経済研究の新らしい方向を中心として﹂︵経済評論一九六一年十二月号︶. 例えぱ有木宗一郎氏はいう﹁マルクス経済学説の創造的発展に︑遺産としてのこるなにものかをつげくわえたか︑. については重大な疑問がある﹂と︒︵国際貿易における価値問題・再説﹁下関商経論集﹂五巻一号︶ 木下悦二 編 前 掲 書 一 五 一 頁 o. ︑世界市場概念の成立. るところであり︑ヘレニズム世界でも︑各地域がたがいに密接に結びついて途切れることのない貿易関係が取り結ぼ. 紀元前三世紀の頃︑すでにローマとエジプトとの間にかなりの国際的な交易があったことは︑歴史家の立証してい. 握しなけれぼなら な い ︒. 世界市場という概念は︑どのような条件の下に如何にして生れたか︑われわれはまず︑これを歴史的概念として把. 註. れていたことはよく知られている︒ある種の論老は︑そこに世界経済の存在を指橘し︑世界貿易︑世界市場の存在を. 963. (3〕(2〕(1). ( 4).

(4) 主張する︒しかし︑これは正しいであろうか︒もし︑これが正しいとすれぼ︑世界市場という概念自体無内容なもの. となろう︒たしかに︑古代都市国家が繁栄した時代においては︑これら諸国をとり結ぶ一種の国際貿易ともいうべき. ものがあったことは事実であろう︒だからといって世界市場が存在したということはできない︒なぜであろうか︒ 1︺. われわれは︑そこに商品価格の単一化しなかったという事実と︑取引がつねに偶然性に左右されたという事実をあ. こととなったのである︒市場はたえず拡大し︑需要はたえず増加していった︒かくして︑マ一ニファクチュアも不十. たはギルド的な工業経営方法は︑この新市場の要望に応じきれなくなって︑マ昌ユファクチュアがそれにとって代る. 勃興しつつあるブルジヨアジーのためにあたらしい活動分野を提供したのであるが︑こうなるとこれまでの封建的ま. レタリヤ発生の機会とつながっていたことはいうまでない︒歴史的には︑アメリカの発見︑ア7リカの廻航が︑この. この市場の拡大発展に最初の道をひらいたものは︑まさにブルジヨアジーであった︒そして︑これが︑同時にプロ. の拡大と国家的範囲におげる連繁の遇程をそこに見ることがでぎるし︑その一層の展開過程とLて世界市場を見出す︒. 家的範囲への商業活動の展開によってたがいに結びつくようになった︒われわれは地方に存在した各種の具体的市場. 十四︑五世紀をすぎ︑中央集権国家が形成されるにつれて︑中世都市の個別主義は打破され︑地方的弧立杜会は国. 経済の自律作用が働く余地はなかった︒かくして︑孤立的杜会が︑個々ばらばらに存在することとなった︒. 中世杜会は︑古代よりも一層商品経済を後退させ︑狭駐な地方的市場に逼塞した︒国際間の取引の恒常性は失われ. 行われたといっても︑それだげで世界市場という概念を適用することはできない︒. る取引においては︑経済外的は要因が常に強く影響していた︒このような条件のもとでは︑いかに遠隔地間の貿易が. 市場にとって重要な一つの要因は︑敢引の恒常性とそのための生産を確保するということであるが︑古代杜会におげ. げることができ引︒Lたがって︑商品経済が自律作用をもって発展することが出来なかったということである︒世界. 螂. 964.

(5) 分となって近代的大工業があらわれる︒. 世界市場成立の歴史的論理的過程は︑マルクスによれば︑次のように説明されている︒. ﹁大工業は︑アメリカの発見によってすでに準備されていた世界市場をつくりだした︒世界市場は︑商業に︑陸上. 交通にはかりしれない発展をもたらし︑その発展がまた工業の拡大に反作用した︒そして︑工業︑商業︑航海︑鉄. 遣の拡大するのに比例して︑プルジョアジーは発展し︑その資本を増加させ︑中世からのこされたすべての階級を 到 うしろにおしやった︒﹂. ﹁ブルジョアジーの特質をなす自己の生産物の販路をたえず拡げようとする欲求は︑彼らを地球のすみずみにまで. かりたて︑そこに住みつき︑いたるところですべてを関係づげないではやまない︒⁝⁝ブルジョアジーは世界市 到 ︵ 場の開拓によってあらゆる国の生産と消費とを世界的たものにした﹂しかも︑﹁ブルジョアジーは︑すべての国民. に減亡したくないならば︑ブルジョアの生産様式を採用するよう強制する︒いわゆる文明を自国にとりいれるこ. 4. と︑すたわち︑ブルジョアになることを強制する︒;目でいえぱ︑ブルジ冨アジーは自然の姿ににせて世界をつく るぺ﹂. マルクスはここで世界市場の成立を資本の発展の論理的帰結として把握しているということ︑しかも資本の運動の. −具体的表現をプルジ冨アジーの活動として象徴的に画いているということが注目されるであろう︒世界市場はあくま. レーニンの﹁ロシ. で︑資本主義的生産様式の必然的な発現形態なのである︒この意味において資本の論理と切りはなすことはできない︒. エンゲルスは︑﹁保護関税と自由貿易﹂を論じたところで︑次のようにいっているが︑これは︑. 965. アにおける資本主義の発達﹂の中で述べている外国貿易の必然性に関連して︑マルクスの論理を敷術したものとして 4 解することができようo. 9.

(6) 50. ﹁国民的産業の一部門が国内市場を完全に征服しおわった瞬間から︑まさにその瞬間から輸出がその産業にとって. 必要になる︒資本主義の状態においては︑産業はひろがるかおとろえるか︑いずれかである︒産業がおたじところ. に停滞していることはできたい︒拡大の停止は没落のはじまりである︒機械的および化学的発明の発展に︑たえず. 人間労働を排除し︑またたえずますます急激に資本を増大し集中し︑これによって︑すべての停滞せる産業に労働. 者と資本の両方の供給過剰がつくりだされる︒この供給過剰たるや︑おなじ過程がほかのすべての産業におこりつ. つあるゆえに︑どこにもはけ口を見いだせないのである︒したがって国内取引から輸出貿易にうつることが︑関係 旬 産業にとって死活間題となる︒﹂. しかし︑クチンスキーによれぱ︑﹁:;ファクチュア段階の資本主義は︑まだ世界市場を創出するほど十分た商品. を生産することができなかったのであって︑世界市場にとっては︑胚芽的形態においてであっても少くとも二つの資. 本主義的な相手方が必要であり︑アメリカ革命とフランス革命まで一般に世界市場は間題になりえなかった︒革命後 6︺ も戦争の数十年がつづき︑世界市場はいぜんとして発展しえなかった﹂とし︑世界市場の最初の繭芽はナポレオン戦. 争後の時期に関係しているとするのであるが︑マルクスにおいては必らずしも︑このように資本主義の成立を前提と. してのみ世界市場を説明してはいない︒この点︑すでに多くの論者によって指橋されているところではあるげれども︑. 繁をいとわず再論すれぱ︑マルクスは﹁資本論﹂第一巻第二篇﹁貨幣の資本への転化﹂を論ずるにあたって︑その冒. 頭に﹁商品流通は資本の出発点である︒商品生産および発展した商品流通 商業 は︑そのもとで資本が成立す つ る歴史的前提をなす︒世界商業および世界市場は︑十六世紀において︑資本の近代的生活史を開始す色といってい. るが︑商業とそれによって開始された世界市場を前提とし︑基礎として︑はじめて資本主義的な生産部門が成立し拡. 大してゆく過程をのべたものと思われる︒そのことは次のような表現の中にも読みとることが出来る︒. 966.

(7) 51. ﹁商業は生産物を商品に発展させる︑というのは︑部分的には商業が生産物のために︑市場を創造することによっ. てであり︑部分的には商業が新たな商品等価を供給し︑生産のために新たな原料および補助材料を供給し︑かよう. にして︑生産諸門−もともと商業を基礎とする生産諸部門︑市場および世界市場のための生産を基礎とするのと 8︺ 同様に世界市場に由来する生産諸条件を基礎とする生産諸部門−を開始することによってである﹂ この点をさらに明確に打出したのは︑よく引用される次の表現であろう︒. ﹁世界市場そのものは︑資本制的生産様式の基礎を形成する他面︑たえずより大きな規模で生産しようとする資本. 制的生産様式の内在的必然性は︑世界市場をたえず拡張しようとするのであり︑したがって︑このぼあいには︑商 9︶ 業が産業をでなく︑産業が商業をたえず変革する﹂. たしかに︑クチンスキーの指摘するように︑歴史的には︑マニュファクチュアー段階における世界市場が︑商品流. 通の量的た面からみても決して十分たものとはいえなかったにちがいたい︒その十分な展開には︑資本主義的商品生. 産の拡大と貨幣量の増大が必要であったであろう︒すなわち︑マニュファクチュアー段階では︑世界市場は︑イギリ. ス資本主義の植民地への波及という形態をとってあらわれたにすぎず︑その成熟は︑競争を条件とする他の後れて出. 註. ユルゲン. クチンスキー ﹁世界貿易. 発した資本主義の成立をまたねばならたかつたといえよう︒クチンスキーは︑この点を指摘したものと思われる︒. 二巻下四九一−四九二頁o. 現代資本主義の諸間題︵ソ連邦科学アカデミー世界経済と国際関係研究所編︶所収︑ の発展﹂. マルクス︑エンゲルス選集︵大月書店刊︶ 同上四九 四 頁 ︒ 同上︒. 967. ( 1) (4〕(3)(2〕.

(8) 一七頁︒. 章︑−o︑にしても︑かかる転態が行われるのは︑それが資本であるからではなく︑貨幣であり︑商品であるからであ. る︒と主張される︒したがって︑いかなる生産様式の生産物であろうと︑商品であり貨幣である限り変りはないし︑. また如何なる杜会へも入りこむことができるのであって︑資本主義的世界市場という規定は本質的なものではない︑ 1︵ ︺ とされるのである︒. Lかしながら︑このような概念規定については︑すでに杉本昭七氏が批判されているように︑﹁市場が商品流通の. 968. 同上四一 四 頁 o. 現代資本主義の諸問題所収前掲論文一 青木版︑資本論第一部上二八九頁︒ 資本論第三部上四七七頁o. 資本主義的世界市場. 同上四七二−三頁o. 二︑. で︑かような意味において世界市場は資本主義的世界市場といえるかもしれないが︑それが商品資本となり︑貨幣資. こまれているのであり︑そこに流通する商品にしても︑貨幣にしても︑すべて商品となり︑貨幣資本となっているの. のではないとされる︒氏は︑資本主義のつくりだした国際分業︑世界市場においては︑商品流通は︑産業循環にくみ. さて︑木下悦二氏によると︑この歴史的過程から規定される世界市場の資本主義的性格は︑必らずしも基本的なも. (9)(8〕(7〕(6〕(5〕. 本となるのは︑産業資本の循環に組みこまれた限りにおいてであって︑この循環の一部を構成するoーミにしても. 52.

(9) 53. 範礒であることを強調されるあまり︑生産と流通との関連をたちきってし去︑う結果にたっているのぼのって︑世界市 ⑫ 場は︑それが属する杜会構成体︑生産関係によって規制されると把握することが正しいのではないかLという疑間が 提起される︒. 世界市場が資本主義的世界市場として現われ︑自らを特徴づけてきたものは︑資本主義のもつ特異な生産様式であ. り︑それがもたらしたところの大量の商品流通であった︒そして︑それは商品資本として資本の循環を形成し︑価値. 法則を貫くこととなる︒資本主義的生産様式のもとにおげる生産物である商品が︑世界市場において量的に圧倒的で. あり支配的であるとき︑まさに資本主義的世界市場といわるべき特質を示すにいたるであろう︒杉本氏も他の機会に 剖 レーニンを引き合いに出して主張されたところである蝋︑資本の循環に他の生産様式の商品が入りうるということは. 資本主義的商品生産が支配的であるばあいの市場におげる現象として説明しているものと考えらるべきであろう︒す. なわち︑他の生産様式の生産物であっても資本主義的世界市場においてはすべて資本主義的商品として作用するとい. う資本の論理こそ強調さるべき点であろうと思われる︒商品生産が︑資本主義の形成とともに市場において圧倒的多. 数を占めるにいたる過程は︑資本の論理が世界的に支配的関係を築きあげてゆく背景であり︑世界市場におげる商品. 交換を通じて︑資本主義と名づげるに適切な︑特異た生産様式の性格が︑支配的な役割を果すにいたる筋書きを示し. ている︒いいかえれば︑資本主義の内在的論理としての剰余価値の法則が貫くことによって展開されるところの経済 法則の必然的結果であることである︒. このような資本の内在的論理の帰結たる世界市場の拡大と発展は︑二つの問題をはらんで展開される︒すなわち︑. 一つは︑より強力た資本を中核としての国際分業体制の推進であり︑他は︑個々の資本主義諸国の発展の不均等性で あり︑その矛盾の展開である︒. 969.

(10) 前者はいうまでもなく︑歴史的にはイギリス資本の世界市場における生成と発展の過程を示すものであるが︑同時. に資本主義的世界市場の確立と拡大の歴史であった︒それはイギリス資本を中心とする世界市場ではあったが︑また. それを超えた普遍的性格をつくりあげていたのである︒﹁世界の工揚﹂イギリスという表現の中に︑すでにそれは見. られたが一二十世紀初頭において重要性を帯びてきた資本輸出の事実は︑さらに︑﹂れを明確にLた︒ここにおいて︑. ノ. たる動機をつくりだした︒. ︐. そうとした諸列強はかえって︑資本主義的世界市場の外延的発展の制約という壁につきあたり︑互に分裂させるにい. させ︑︸﹂れとは異質的なソ連邦という杜会主義国を誕生させることとなったのであるが︑これを孤立させ︑押しつぶ. 資本による世界市場の分割戦の結果たる第一次世界大戦は︑資本主義の戦列から︑その弱き環であったロシヤを脱落. えって︑不均等発展を激化することによって︑それを崩壊することに作用したのである︒事実︑資本輸出と国際独占. 決して︑不均等発展の事実を弱め︑あるいはこの矛盾をなくし︑﹁単一の世界経済﹂を形成させることにはならず︑か. したがって︑レーニンも指橋しているように︑世界市場の展開は︑ときに世界経済の水準化を惹きおこしはしたが︑. 経済相互聞の発展の不均等を激化することによって可能となったものである︒. 題である︒資本主義的世界市場の拡大は︑決して︑スムースな資本主義諸国の発展を反映したものではたく︑各国民. しかし︑資本主義は自らの中に矛盾を包蔵していた︒世界市場の展開と各国民経済相互関の不均等発展の深化の問. 世界市場に刻印したのである︒世界市場は︑資本主義的生産様式の窮極としての展開であり︑その集中的表現となる︒. 的表情を中に蔵しつづげる︒かかるものとして︑資本主義は︑世界市場を拡大し発展させ︑その性格をいたるところで. それが︑国籍を脱し︑コスモポリタンに化したとしても︑その本来の性格を完全に喪失することなく︑依然として母国. 資本はイギリス的制服を脱いで︑世界的国際的性格を一そう明らかにしたのである︒しかしながら︑資本は︑たとえ. 弘.

(11) 55. 木下氏は︑﹁二つの世界市場論﹂を否定する第二点として︑単純た商品流通関係を媒介として成立する世界市場と. いう概念を堅持するたて前から︑帝国主義による経済封鎖が︑世界市場の崩壌に導いたとするスターリンのテーゼに. 疑間を投げ︑世界市場の崩壌が︑市場関係の分断から論ずべきものとすれぱ︑その崩壊をとくに第二次大戦後にのみ. もとめることは理解しがたいとし︑世界市場の統一性の破壊は︑すでに第一次大戦後にもあったし︑世界大恐慌後の. ブロック主義の登場の中にそれがあったとはいえないだろうか︑とされ︑それをもって︑直声に世界市場の崩壌とい μ えなくとも一少くとも崩壊の一歩手前まで進んでいたことは否めないであろうと︑主張される︒たしかに︑単なる商. 品流通の概念として世界市場を把えるかぎり︑当然の疑間といわなげれぱならない︒しかし︑世界市場が資本主義的. 生産様式の集中的表現であり︑資本主義的世界経済体制の中に含まれるより包括的内容の概念とすればどうであろう. か︒異質的た杜会体制としてのソ連邦の出現をみた第一次大戦期をもって︑資本主義的世界市場崩壌の第一期とし︑. 崩芽期とすることについては︑殊更に反対するわけではないが︑木下氏がとくに︑世界大恐慌の爆発とブロヅク主義. の登場の中に世界市場の解体を認めるべきであるとする点にはいささか同調しがたいものがある︒. たしかに︑ブロヅク主義は︑諸列強の市場関係における帝国主義的対立の激化と深化のあらわれであり︑ゆきつく. ところ第二次大戦にまで発展する運命をになっていたといえるものであった︒それによって︑世界市場におげる流通. の円滑性はさまたげられ︑市場関係は固渇した︒だが︑ブロツク主義は必らずしも諸国において︑同じようなあらわ. れ方をしなかったとはいえ︑したがって︑そこに資本主義の不均等発展の矛盾的発現をみるわけだが︑資本主義その. ものの枠を超えることはなかった︒たしかに多角貿易機構の解体︑国内優先的経済政策の採用は︑世界経済の統一的. 把握を無意味にした︒しかし︑他面ブロヅク主義はイギリス資本主義の自衛策に端を発するものであり︑結果的には. 日︑独︑伊帝国主義の崩壌とアメリカ資本主義の支配権確立をもたらすこととなったのである︒この意味において︑. ユ79.

(12) 56. ブロヅク主義が︑資本主義的世界市場を崩襲に導く端緒をなしたことは事実であるが︑プロヅク主義の体制自体ばあ. くまでその過渡的段階であり︑そこに中断はあっても︑資本主義的世界市場そのものは︑不統一の中にも存在しつづ. げたのである︒したがって︑ブロヅク主義の登揚による市場関係の分断という事実は︑むしろ資本主義の運動法則の. 現象形態として把握さるべきで︑そこに何ら異質的生産関係が派生するようた事態をひきおこさなかったとすれぽ︑. 現象的には資本主義的世界市場関係の後退あるいは殊痒的状態ではあっても︑それが直ちに二つの世界市場への分裂 であったり︑単一世界市場の崩壊を意味するものではあるまいと思われる︒. 世界市場の統一性とは何であろうか︒木下氏は︑世界市場が︑﹁生産様式の如何を問わず︑単純な商品流通関係と. いう側面によって一つに結ばれうる﹂とし︑ここに﹁二つの世界市場﹂を区別する論理の根低にある誤りを指橋す. ︑. ︑. ︑. る︒そして︑それは具体的には国際間における価格関係として現象するわげで︑貿易の価格決定においては杜会主義. 諸国間においても︑価値法則が作用しているので︑資本主義諸国で行われている国際市場価格が基準とされ︑強い相 ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. 互浸透性をもっている点が強調される︒世界市場の統一性とは︑まさにこのようた体制を超えて存在する共通の場で 旬 ︵ あり︑価値法則の作用という事実に集中的に表現されている点を指するもののλうである︒この点については︑以前. に一寸ふれたところであるが︑世界市場の資本主義的た価値法則の浸透による統一的把握は︑あくまで︑過渡的た段階. として存在するにすぎないであろう︒現段階においてはたしかに﹁杜会主義世界市場にとって価値法則は一方的に臓 ⑫ 調さるべきものでないと同時に︑杜会主義的国際分業の計画的発展だげがまた強調さるべきでもない﹂と思われる︒. だからといって︑価値法則の相互浸透性という過渡期的間題をもって世界市場の統一性と見散したり︑このことをも. 木下悦二﹁二つの世界市場論﹂についての若千の疑闇︵大阪市立大学経済研究所編﹁研究と資料﹂4︶. って︑体制を超えた世界市場の存在を結論することは問題の本質をあいまいにするもので似たかろうか︒ 註ω. 9?2.

(13) 57. 杉本昭七﹁二つの世界市場論﹂に関する一試論︵関西大学﹁商学論集第五号五〇〜五一頁︶. 国際経済学会第二〇回大会の準備研究会において 木下氏前掲論文 同上六六頁. 拙稿﹁杜会主義諸国間の国際分業について﹂皐稲閏商挙一四六号. 三︑経済学批判体系プランと世界市場. 世界市場はすでにみたように歴史的概念であり︑資本主義の生成発展と表裏の関係にあること︑したがって︑資本. 主義に内在する論理によって規定された現実的姿態をとってあらわれ︑現段階的特殊性を自ら示現しているのであっ. た︒ところで︑世界市場が論理的︑体系的に把握されるとすれぱ︑どのようにして可能であろうか︒. マルクスの残したいわゆる. 周知のように・これには二つの立場が存在している︒一つは資本論を完結Lた体系として把握し︑世界市場または. 世界経済を資本の法則の特殊︑歴史的形態として展開しようとする立場であり︑他は︑. ﹁経済学批判体系プラン﹂の解釈とそれにヒントを得た体系化の中に把握しようとする立場であろう︒それぞれの視. 角から多くの論者によって考証的研究と間題の提起が行われてきた︒また︑かかる間題の提起自体に対しても疑間を. さしはさむものがないわけではなく︑評価もまちまちではあるが︑いまここでこれをむしかえすつもりはなく︑これ. ら諸研究の成果を内在的に摂取し︑世界市場研究の体系化と具体化への足がかりにしたいと考えているにすぎないド σ ﹁経済学批判体系プラン﹂なるものの最も簡明な表現は﹁経済学批判﹂の﹁序言﹂の冒頭にみられる文章である︒. マルクスは経済学の編別に関して他の数カ所においてその構想をのべているが︑基本的には変化はない︒ところで︑. 973. (6)(5〕(4〕(3)(2).

(14) 58. 高木幸二郎氏の指摘するように︑﹁資本論﹂三巻の体系の中に︑右の﹁編別﹂ないし﹁順序﹂の全体系の後半︑すな. わち﹁順序﹂の簡約化された表現による﹁国家︑外国貿易︑世界市場﹂に該当する研究は︑少くとも独自的た研究と 到 しては︑どこにもその地位があたえられていない﹂ということである︒高木氏は︑その最後に位する世界市場と関連. させることによって︑恐慌論の体系化を試みているのであるが︑ここでもまた世界市場の把握が体系との関連におい て間題となるわけである︒. さて︑﹁資本論﹂第三巻の総括的最終篇で︑マルクスは︑資本論の研究範囲を限定して﹁われわれはただ資本主義的 訓 ︵ 生産様式の内部的組織のみを︑いわぱその理念的平均において叙述しなげれぽならない﹂とし︑これとの関達におい. て﹁資本主義的生産様式の基礎および生活圏である世界市場における信用制度と競争﹂というような﹁資本主義的生. 産のより具体的な諸形態は︑資本の一般的性質が理解された後にのみ包括的に叙述されうる︒その上これらの諸形態 4 の叙述はわれわれの著作の計画外に横たわるのであって︑その続きでも書かれることがあれぱそれに属する﹂と述べ. ているのであるが︑高木氏の見解をかりれば︑マルクスは信用や競争といった資本主義的生産のより具体的諸形態に. っいては︑﹁資本﹂﹁土地所有﹂﹁賃労働﹂とあるその﹁資本﹂の中からは除外し︑プラン体系の最後に位する﹁世界 5︺ 市場﹂との関連でのみ取扱われるはずであったとされる︒. ところで︑ブラン体系の中で世界市場は後半に当る国家︑外国貿易についで最後におかれているわげであるが︑高. 木氏が指摘するように︑そのぼあい﹁国家﹂の研究が体系の後半におげる最初の前提であり︑体系の前半におげる近 旬 ︵ 代ブルジョア杜会を構成する﹁三大階級﹂に対して後半の体系への媒介環となる決定的な契機であるとすれば︑国家. を如何に把握するかによって﹁世界市場﹂の構造と論理に対する理解が異なってくると見たげればならない︒したが. ってプラン論争は︑ブラソ前半の体系と後半の体系とを如何に結びつけるか︑いわゆる﹁ブルジヨア社会の内的編成﹂. 974.

(15) 59. とその﹁現実的編成﹂をどのように論理的必然性をもつものとして関連づげることができるかを続って展開されたの であるが︑そこにおいて国家の把握は重要な契機とたっていたのである︒. 行沢健三氏の﹁国家経済学序説﹂はそのユニークなる論理構造にもかかわらず︑川尻武氏の指橋するように︑国家. を国民経済という下部構造の中に解消することによって︑資本論からの一般理論的上昇の回避に陥った感がある︒た. しかに︑﹁国家が一般的抽象的法則の理論としての﹁資本論﹂に解消しうるならば︑同様に外国貿易︑世界市場も解 の. ブルジョア杜会の総括としての国家は︑国内的には資本による財政的支配︑租税︑国廣︑公信用を包括する権力機. 消しなけれぱならない﹂であろう︒. ︺. 構であるが︑対外的には︑商品交換︑外国為替︑資本輸出︑国際収支関係にみられる国際的関係として措定されると. いう二面性において把握されたけれぱならない︒. 俸 もちろん・ここで国家は上部構造ではあるが︑単なる国法学や政治学上の国家であることを意味しない︒それは︑. 資本主義国家の成立という歴史と論理の中に露呈されているように︑資本のためにつくりあ肘られた階級構成を内実 ⑫ とした権力機構である︒この﹁資本のための組織としてブルジヨア杜会で必然化する総括機能﹂は︑国家機能として︑. 経済的には租税の徴収と支出といつた財政的カテゴリーのうちに自已を現わすのであって︑その法制的規制に媒介さ. れた諸カテゴリーの中に国家の現実的具体的姿態を見出すのである︒しかし︑﹁国家︑外国貿易︑世界市場﹂は︑その. ﹁具体的歴史条件﹂として規定されるべきではなく︑﹁資本主義的生産の本質的な歴史的に必然的た側面﹂として把. ﹁ブルジョア杜会の内的編成﹂の所産である国家は︑本来それ自体の中に他の国家の存在を予想し対立する複合的. 握されることによって︑すたわち︑﹁一般的歴史的条件﹂の間題として国家の世界市場への上昇論理が経済学体系の Φ Φ 中に組み入れられるであろう︒.

(16) 60. 社会の存立を含意したい︒Lかし﹁国家﹂はブルジヨア杜会を主体とする本性の中からその一般的歴史的条件におい. て︑自分に対立する国家の存在の必然性とその複合化の契機を間われねばならたい︒. このぱあい︑人はただちにレーニンの外国貿易の必然性についての命題を想起するにちがいない︒いまここでは︑. これを図式的に繰返すことを止め︑川尻武氏による適切な敷術的説明を利用することにしない︒. ﹁個別資本の生産拡大は︑当然に生産の継続的更新︑再生産の遇程を含み︑したがって﹁大工業に照応する一般. 的生産諸条件﹂とい亘言葉に要約される諸産業部門の溝造的関連︑杜会的資本の再生産と蓄積の過程との必然的な. 関連を内包する︒それゆえ機械制大工業の拡張能力の世界市場への依存︑販売市場および原料基地としての農業的. 生産地域の創設︑外国市場の強制的転化の過程は︑さしあたつては個々の部門︑企業の拡大再生産の間題としてあ. らわれるにせよ︑これを介して総体としての杜会的資本の蓄積︑資本主義生産の発展を条件づける︒工業地域の杜. 会的資本は︑農業地域の生産と消費を補完的な一分肢とLてその外延的な再生産運動の軌跡に含むことによって︑ 内包的発展を条件づげるのである︒. Lたがって︑このぱあい︑工業地域の諸個別資本にとって︑少なくとも機械経営の飛躍的拡張に関達する産業諸. 部門の個別資本にとって︑世界市場の創出が基礎的た共通利害として現われることになる︒同時にこの過程は︑内. 部的には諸個別資本の競争を媒介とする集中︑集積の結果であり︑積秤ともなる過程である︒︑かくして︑﹁内 ⑪ 向国家﹂と﹁外向国家﹂は相互的た反射作用のうちに成熟する︒L. この﹁外向国家﹂の成熟は︑植民︑移住といった関係のもとで行われるのだが︑それがただちに対立的ブルジヨア. 社会の成立をひきおこすものではない︒しかし︑先進的ブルジヨア杜会の支配拡大の過程はいわゆる国際分業化の遇. 程でもあるが︑あらゆる地域への商品生産の一般化を通じて︑すべての商品生産を資本主義的商品生産に転化させる. 976.

(17) 61. ことによって︑プルジョア杜会は自らに対立するブルジョア杜会を作りだすことととなる︒いうまでもなく︑その対. 立は世界市場におげる個別資本の競争を媒介とするものであって決して異質的な対立を含まない︒しかしながら︑国. 家はプルジ亘ア的生産の性格に規制され世界市場を独自的市場として拡大支配しようとして排他的とたらざるをえな. ところで︑このブルジ巨ア杜会の外向性ゆえの世界化の過程は︑その競争的対立のゆえに︑各﹁国民経済﹂相互の. いo. 不均等的発展を激化してゆくのであるが︑﹁自由貿易﹂対﹁保護貿易﹂の対立は︑まさにその歴史的条件に規定され. た現象形態にほかたらない︒しかも︑それは最も基本的な関係として﹁外国貿易﹂に媒介され︑複合したブルジヨァ 杜会は︑単一のすべてを包括する世界市場を形成する︒. このはじめの三つの項目では︑私は近代ブルジ巨ア杜会が分かれているところの三大階級の経済的生存条件を研究する︑他. 註ω﹁震・ブルジ宣ア経済の体制菱の順序で考季る︒資本︑土地所有︑賃労働︑覧から国家︑外国貿易︑世界市揚︑. ②. 資本論第三部下一一七一頁. 高木幸二 郎 ﹁ 恐 慌 論 体 系 序 説 ﹂ 六 頁. の三つの項目の関連はおのずから明らかである﹂. ③. 高木︑前掲書三四頁. μ 資本論第三部上一八一頁. ⑤. ⑥同上八O頁. ω 川尻武﹁経済学体系におげる国家および世界市場範曙について﹂︵中央大学商学部五十周年記念論文集︶. 川尻武前掲論文四九一頁. ⑫ 高木幸二郎前掲書八一頁. ⑨. 9η.

(18) 62. 原田三郎﹁世界経済論の方法におげる根本問題﹂. ︵東北大学経済学会︑研究年報︑ ﹁経済挙﹂四三号︑ 五七−五八頁参照︶. することによって︑一方は法制的な本位として︑他方は鋳貨としての形態的転成を遂げるのである︒しかもかかる. 一方では価格の尺度規準としての︑他方では流通手段としての自己疎外を行うが︑ここに国家が媒介者として登場. 貨幣は︑それ自体のうちに価値の尺度と交換の手僕としての内在的な機能規定を包含している︒この穣能規定は︑. 係の物化として把握される︒それによつて貨幣にまで昇華した商品の物神性も暴露される︒だが︑この一般的等価︑. の本質を把握する︒貨幣はそこでまさに交換現象を必然ならしめる企業と私的所有︑この歴史的に特有な杜会的関. ﹁われわれは単純な価値形態から開展された価値形態を経て︑一般的価値形態において一般的等価物すなわち貨幣. れの間題たる全体系の最後に位する﹁世界市場﹂は︑単純な商品流通におけるその基礎的な一面を︑貨幣の世界貨幣 1︵ ︶ としての機能規定のうちに展開していたのである﹂とされるのであるが︑その論理過程は︑次のように説明される︒. 目ア社会の総括﹂より﹁世界市場と恐慌﹂までの系列に照応するものが含まれている﹂とし︑﹁いつてみれば︑われわ. 高木氏は﹁国家を媒介とする本位法制から世界貨幣にいたる展開系列の中には︑あたかも﹁国家の形態でのブルジ. 十分基礎的に考察されねばならない︒. 成熟し︑自ら包括的に示されているのであるが世界市場の体系的叙述と具体的把握のためにはその構造と現象形態が. の必然性において把握さるべきことは︑すでに見たところである︒世界市場の概念は︑その体系的論理的把握の中に. 世界市場の成立と展開過程に見られた歴史的具体的条件の間題がブルジ亘ア杜会の内的編成としての論理の中にそ. 四︑世界市場の構造把握のために. 川尻武前掲論文四九八頁. ⑪⑩. 978.

(19) 63. 二つの基本的機能形態は︑それらを派生せしめたその本来的一般的等価の統一性に基づいて︑再びまたその両機能. の統一として新たな機能を獲得する︒これすたわち︑﹁価値尺度と流通手段との統一﹂としての﹁貨幣﹂の機能であ 到. る︒世界貨幣は︑まさにこの貨幣の﹁貨幣﹂としての機龍の窮極総括者にほかならない︒﹂と︒. そして︑氏は︑﹁その最後の地位を占める世界貨幣の機能規定は︑そこにおげる他のもろもろの機能規定の具体的 3︶. な全包括性において︑まさにブルジヨア杜会の全体系の窮極的総括者たる﹁世界市場﹂に照応することをみることが. できるであろう﹂と示唆してい到︒しかし︑われわれは残念たがら︑氏によって︑﹁世界市場﹂がどのような構造と. して︑把握されているかについて︑明確た説明に接することは出来ないのであるが︑その基本的な論理は正しいもの とされよう︒. われわれは︑この間題に関する積極的論者として木下悦二氏をあげることができる︒氏は︑マルクスにおいては︑ 勾 ︵ 世界貨幣との関連において世界市場の構造が明確にされているとし︑次の諸点を指摘する︒. ﹁マルクスは世界市場を国内市場に対立させて扱っている︒世界市場とは国内市場の領域を超えた所にあるも の︑国内市場にとって外なるものである︒. その論拠として︑ω国内市場では︑ただ一つの商品のみが価値尺度としての役割を果すが︑世界市場では金と. 銀が同時にともに価値尺度として通用している︒②世界貨幣の機能は一般的な支払手段としての︑一般的な購買. 手段としての︑さらに富一般の絶対的杜会的な物象化としての機能に限られ︑ここには流通手段としての機能が かけている︑という二点を指摘する︒. かくして︑世界市場は国際商品流通の総体と﹂て︑あるいはそれぞれの国を構成単位として形成された商品流. 通領域として把握されているのであって︑世界市場は︑国内市場の一分子をも含まぬものである︒L. 979.

(20) 980. このような論理ぱ︑当然国際価値論の中でも存在しえたところであり︑木下氏をはじめ多くの論者がなんとなくっ. き当った壁ではなかったかと思われる︒たとえば︑世界経済を個々の国をその﹁積分的部分﹂とするという世界経済. 構造として把握する名和氏といい︑﹁市場価値法則といわず︑生産価格法則といわず︑世界市場での諸運動諸法則は︑. 何時のばあいも︑国内市場におげる諸運動諸法則の結果として︑またそれを媒介としてのみ現われるものと考え︑こ 旬 こに世界市場の構造的特質を見出している﹂木下氏といい︑国民経済または国内市場を基礎として世界市場関係の分. て把握されるために︑国内市場と世界市場とを対比し︑商品流通の基本形式が両考において全く異なるとし︑これを. 界市場をもって国内市場の一分子をも含まないとする理由は理解しがたいのである︒氏は︑市場を単に流通概念とし. 決して国内市場を平面的に拡大したにすぎないような二兀的︑統一的市場ではない︒だからといって︑木下氏が︑世. しあいたがら︑外国貿易を通じて互に統一ある単一市場としてあらわれるということである︒しかし︑世界市場は︑. 家を媒介として︑その相互浸透性において成立したものとすれぼ︑本来︑そのブルジ亘ア的特質のゆえに︑互に対時. ったり国内市場と同じ次元におげる構成体であるというのではない︒世界市場が︑ブルジョア社会の総括としての国. いるのである︒だが︑二重の構造として国内市場を内包しているというのは︑世界市場は単に国内市場の集合体であ. 成は世界市場の形成と発展の過程でもあったし︑世界市場は国内市場と不可分離の関係にあり︑二重の構造をなして. しかし︑世界市場はその形成の出発点から国内市場を内包していたと考えることは誤りであろうか︒国内市場の完. におげる平瀬已之吉氏への批判の重点もまた主としてこの点にそそがれたのは当然なことであった︒. れ︑その逆の関係は軽視あるいは無視される︒しかし現実には相互の関係として存在しているのである︒国際価値論. を期待することはできまいとされるのである︒したがって︑世界市場においては国内市場関係から国際価値が論じら. 析に入っているのであるが︑そこでは決して︑国内市場においてみられるような全的あるいは普遍的価値関係の実現. 拠.

(21) 65. 理由に︑世界市場は︑国際商品流通の総体として︑あるいは︑それぞれの国を構成単位として形成された商品流通領 域として把握さるべきだとされる︒. 木下氏においては︑市場概念が商品生産関係から分離され︑単なる流通概念として把握されることによって無性格. 化しているのであるが︑いうまでもないことたがら︑世界市場におげる価値法則の間題にしても︑商品生産を度外視. してはありえないし︑生産関係の国際的表現であろう︒もしもそれにもかかわらず︑商品流通の概念を強調するとす. れぱ︑ブルジョア社会の全体系の総括たる﹁世界市場﹂の意義と特質を見失うことにならないであろうか︒世界市場. が単一の市場であるのは︑資本主義的生産の結果であり︑無性格がその特色ではないはずだからである︒. マルクスは︑市場概念ピついて︑その具体的規定と抽象的規定とを区別し︑各種具体的市場の説明に関連して︑次. のように述べている︒﹁さて︑市場が︑全体としては内国市場と外国市場とにわかれるように︑国内市場そのものが︑. また内国株式︑内国債等の市場と外国債︑外国株式等の市場にわかたれる︒しかし︑元来︑このような展開は︑世界. 市場に属することであって︑世界市場はいっさいの自分の外に存在する外国市場との関連での国内市場であるぱかり 6︵ ︺ でたく︑同時にまた︑再び内国市場の構成諸部分としてのいつさいの外国市場の内部市場である⁝⁝﹂と︒. ここでは︑世界市場は︑まさに国内市場を包含しないどころか︑外国市場との関連での国内市場であり︑それを構. 成諾部分として構成されているのである︒われわれは︑ここに世界市場論の具体的姿態がいかなるものであるべきか. の示唆をうげると共に︑その抽象的規定の何たるものかを明らかにする︸﹂とができると思うのである︒. 国内市場にとって︑世界市場がつねに異質的であり︑敵対的な外国市場としてあらわれるということは︑資本主義. 的商品生産とその結果たる市場における競争関係においてである︒資本主義以前の状態では︑諸国民の経済は︑本質. 的に農耕的であったし︑停滞酌な経済であり︑商品生産における競争関係をひきおこすことはなかったといえよう︒. 981.

(22) 66. 資本主義的生産様式の一般化の過程は︑世界市場におげる競争関係の成熟と︑激化をはじめから内包していたのであ. る︒しかも︑資本主義の発展は︑世界市場をして︑個々の国内市場の問の相互補完関係として現象させるのである︒. われわれは世界市場をあくまで︑相互に競争関係において対立したがらも︑互に浸透性をもつ︑複合的プルジョア. 杜会の総括とLて規定するのであるが︑このばあい主体は国家権力として把握されなげれぱならない︒外国貿易は︑. 国家の相互連関性の中に︑世界市場の現象形態として必然化する︒諸国家の世界市場におげる対立関係の反映は︑関. 税︑割当制︑その他の貿易諸政策の中に見出すことができる︒国家は︑ブルジョア社会の財政的︑法制的カテゴリー. として︑内的には国民経済を形成するが︑外的には︑その世界市場的関連の中から商品交換︑外国為替等の関係を通 じて︑国際収支関係を示現することとたるのである︒ 註ω高木幸二郎﹁恐慌論体系序説﹂八四頁 ② 同上八三頁. 未下悦二﹃﹁二つの世界市場論﹂についての若干の疑問﹄︒四七−五〇頁︒. ⑬ 同上八三頁 μ. 末下悦二編﹁論争・国際価値論﹂三〇三頁O. き. 6. が. 丙彗H峯印冥一〇昌昌串ポ器﹄竃穴幸寿ま﹃勺o−まω9①冒◎庁o昌昌ぎ醐.岩H.高木訳第二分冊二〇二頁o. と. ⑫. あ. 戦後はなぱなしく展開された国際価値論もその批判者をふくめ︑われわれは多くの論策に接することができた︒し. かし︑一方︑現実の世界経済が複雑化し︑多くの間題を提起しているにもかかわらず︑理論的分野との結ぴつきはか. 982.

(23) ならずしも十分ではたいように思われる︒ややもすれば︑理論的抽象化の中に逃避するかに見えるばあいたきにLも. ︵昭和三十六年十二月二十八日︶. から一体系化への試みを含めて書きはじめたのであるが︑時問的余裕のたいままに︑言葉足らずに筆を欄く次第である︒. 本稿では︑はじめ木下氏の﹁二つの世界市場論﹂に対する批判に筆をとられた杉本氏の試みに刺戟され︑別な視角. ので︑実のところ理論的前進のためによろこぶべきことと考えているのである︒. はないかという疑間をかねがね感じていたのであるが︑最近そのような意図にもとづく試みが所処に見られはじめた. あらずである︒われわれは︑国際価値論の成果に学びつつも︑何か間題のたて方に根本的た間題がひそんでいるので. 仰.

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