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1920年代日本の新教育運動にみるナショナリズムとインターナショナリズム : 「学習研究」と「教育の世紀」,千葉命吉と山下徳治

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1920年代日本の新教育運動にみるナショナリズムと

インターナショナリズム : 「学習研究」と「教育の

世紀」,千葉命吉と山下徳治

著者

宮崎 俊明

雑誌名

鹿児島大学教育学部研究紀要. 教育科学編

50

ページ

93-138

別言語のタイトル

Nationalismus und Internationalismus in der

japanischen Reformpadagogik in der zwanziger

Jahre : Fachzeitschriften ""Lernforschung""

und ""Jahrhundert der Erziehung"", die

Gastpadagogen Meikichi Chiba und Tokuji

Yamashita in Deutschland und in der

Sowjetunion

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1920年代日本の新教育運動にみるナショナリ・2-ムとインターナショナリズム

ー「学習研究」と「教育の世紀」,千葉命吉と山下徳治一

宮 崎 俊 明 (1998年10月15日 受理)

Nationalismus und Intemationalismus in der JaPanischen Refompadagogik

in der zwanzlger Jahre - Fachzeitscminen ・・ Lemforschung und

" Jahrhunden der Erziehung " , die Gastp犯agogen Meihchi Chiba und

Tokuji Yamashita in Deutschland und in der SowJetunion

-Tbshiaki MIYAZAKI 目 次 はじめに -新教育-の問い-1 :国際関係のなかの新教育評価の局面 1)日独での様相 2)旧東西ドイツ間の落差と統一後の論議 2 :教育言論の形成 1)谷本富 -ヤーヌス(双頭)的先駆者-2) 「学習研究」 -官立附属学校の方向と限界-3) 「教育の世紀」 -教育ジャーナリズムの国際化-3 :外国教育学の受容問題 -ふたりのドイツ在外研究者の軌跡- 1)千葉命喜 一回帰する教育学者- 2)山下徳治 一変転する教育学者-3)千葉と山下の比較 おわりに -教育研究者がみせる内外での葛藤と分裂 はじめに -新教育への問し\-日本近代の教育ないし教育学の歴史は,その対外関係や固有性の点で新教育運動,生活綴り方運 動,部落解放運動という注目すべき三つの運動をもった。後のふたつは,教育における言語表現や

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社会認識の方法,差別の歴史心性の深層を掘出して,教育実践の思想構築や領野の拡大に寄与し, あわせて日本の社会と歴史の問題を差別・人権問題という世界史的普遍性に持ち込みうるものをは らんでいた。本稿であつかう最前者には,国内的にはかつては大正自由教育や, 「改革教育」とい う直訳語があてられてきたが 近年では「新教育」の呼称が一般化している(1)。その場合,欧米の 教育運動の受容とその日本的改変や変容,国外の原型とのあいだのねじれ,伝播をねらう国外側の 戦略への追随と国内での政治的背景や個人特性がみせる交差や対立,これらのメカニズムや構図は, パラダイムの歴史的変容の問題として,なお姐上にのせ点検すべき課題を含んでいる。 上の教育運動の遺産は,今日の日本では社会変動と教育-の官僚的,行政的支配のもとで背景に 押しやられ埋め込まれたまま忘却の度合いを強めている。とくにヨーロッパ側からは,日本の教育 のビュロタラシー,テクノクラシー,メリットタラシーが学校の教師と生徒を包囲し,現代の学校 教育の技術化,画一化,矯小化が進行している,とみる論調が目立つ。それは教師の実践契機の低 減や生徒の学習動機の低下,さらには青少年の心理的抑圧,コミュニケーション能力の硬直などと 無関係でない〈2'。

1 :国際関係のなかの新教育評価の局面

1 )日独での様相 戦後50年間の日本の政治,社会,文化にあって,学校カリキュラムや教育研究のテーマは変動し たが,戦時期15年間の負の遺産の清算は先送りされてきた。そこでは旧西独から統一ドイツまでが みせているここ10余年のナチズム-の反省と清算や, 「歴史家論争」の類は十分にもたなかった。 (1)日本での呼称については,たとえば「八大教育主張」や「大正自由教育」で代替させうるが,前者は その当時の語法,後者はリベラリズム思潮の研究結果による呼称であり,いずれもかなり限定的であろ う。また,前者と同様,時代のなかでの呼称として大正10年9月から半年で9版を重ね,かなり読まれ た渡辺政盛の書名のように「改造的教育思潮」は,ジャーナリステイクな点で新鮮でもある。 「改革教 育(学)」 (Refbrmpadagogik),ないしその形容詞形は,一面でこの運動のドイヅとの関係を強調して おり,その直訳的な語感をまぬがれない。したがって,この運動の側面と欧米世界を視野にいれて国際 的教育運動としてとらえるなら,英・仏語・露語などに対応し,かつ長尾十三二や平野正久が使用し提 起している「新教育」が妥当だろう。ドイツでは「教育(学)運動」, 「学校改革運動」 「改革運動」な どの呼称があるが そのうち「改革教育」が現代にいたるまでもっとも一般的であり,かつその時期は

1890年から1933年のまでの運動を指す。 (Rdhrs, H,(hg. V.): Die Reformpadagogik des Auslands, 1982,

12m 長尾十三二監修『世界新教育運動選集』全30巻,別巻3, 1983鯖;平野正久他『ドイツの新教育

運動』同選集20, 1987, 31-36 ; Schonig, I'ReformpadagogikI', in: D. Lenzen(hg. V.) : Padagogische Grundbegri鵬, Bd. 2, 1993, 1302-1310)

(2) Blumenthal, V v. u. a. (hg. V.) : Schulkrise - intemational? - , Beitr. von L. Froese, T. Husen,

W・ Mitter, A. Leschinsky, W. Kla徹i, 1983; Schube巾V∴ Inszenierung der Harmonie - Erziehung und Gesellschan - , 1992; EIschenbroich,D.U. a.(hg. V.) : Anleitung zur Neugier - Grundlagen

japanischer Erziehung一, 1996 ;宮崎俊明:ドイツの教育研究の現状-1994年の研究者訪問と学会参加

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ただ-,旧東独の場合,その反ナチズム・キャンペーンないし政治教育の実態は, 1989年の体制崩壊 で,歪みや虚像を露呈した。日本の場合,歴史教育や平和教育の展開,大学,学校,家族での教育 関係,世代関係,両性関係をゆきぶった1968年とその世代の「傷」や「成果」も同様に欧米の比で ない。むしろそれとはうらはらに,経済,ハイ・テクノロジー,国際化などの戦略の前で新保守主 義の側からのイデオロギー化したポストモダン,あるいは伝統主義的ないしナショナルな前近代へ の回帰の思想,さらには経済と技術に奉仕させながらの国民の統合ないし再編にむけた教育の位置 づけも登場する。なかには,社会のシステム化の進行のなかで1930年代後半から40年代前半を,そ こでの教育の思想,理論,内容と方法,要するに教育文化の総体的管理のひとつの歴史的先行形態 とみる「再評価」すら登場する〈3'。 本稿で扱う日本の新教育運動には,その前後にふたつのステージがあった。ひとつは,それに先 行した欧米の近代啓蒙主義の受容,およびこれに反動を起した儒教・国学的な天皇制イデオロギー 辛,経済・軍事的「富国強兵」策のもとでの半世紀のナショナルな公教育である。もうひとつは, 後続して1930年代後半からの「脱欧入亜」,超国家主義イデオロギーのステージである。新教育は, この両者にはさまれる形でその教育観,児童観,教育方法,学校設立などを展開した。それだけに, この事跡の研究と評価は,戦後の教育史研究のモデルや教育実践の試金石ともなる斬新なモチーフ をもち,官製的制度的教育研究の対極で民間教育運動研究や教育労働論などの側からも取りあげら れてきた。中野光の『大正自由教育の研究』 (1968)や海老原清書の『現代日本教育実践史』 (1975, 1991)などは,その代表的論著である。中野の場合,この新教育運動を, 「ブルジョア ジーの教育が,絶対主義的な教育制度における教育方法を修正していった運動」 (4)として位置づけ た。しかし,これは,一面で,戦後,連合国側の「上から」の改革のあとにいわゆる「逆コース」 の形で進行した保守政党による再編への抵抗という時代のコンテキストとも無関係ではない。とり わけ,かれの認識関心と分析視角に影響力をもったのが,ソ連や旧東独,なかでも後者のドイツ民 主共和国教育学アカデミー(APW)の官製の教育史叙述である。この旧東独の方向はソビエト教 育科学アカデミーの評価の踏襲そのものであり,そこには新教育運動をブルジョワ的なものとして 否定ないし無視し続けた教条的,公式主義があり,かつてそれが開花した歴史の土壌を封印してき た経過がある(5'。 日本の場合,いわゆる大正自由教育運動の遺産の評価には,戦後における「第二次」に先行した (3)山之内靖他『総力戦と現代化』 1995 (4)中野光『大正自由教育の研究』 1968, 285

( 5 ) Gmther, K. -H. U. a. (hg.V.)/ Akademie der Padagogischen Wissenschanen(APW) : Geschichte der

Erziehung,1957U.a言ソビエト教育科学アカデミヤ版・ソビエト教育学研究会編訳『ソビエト教育科学

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「第一次」の教育改革とみる図式がある(6)。その1960-70年代には旧東独のマルキシズム・社会主 義の側をむしろ積極的に評価して旧西独の場合と対照的に浮き立たせ,彼我で一種のねじれ現象も みせてきた。 1920年前半がピークの日本の新教育は,ドイツとアメリカだけでなく,ソ連の思潮と 実践の動向も紹介し,国内では受容と批判の幅で揺れながら展開したが,これも日本とドイツでは ナチズムによる弾圧や翼賛体制とともに終焉した。戦後は,アメリカ・モデルによる制度改革が前 面に出るなか,教育学の対ドイツ関係は,戦後清算の両独分離の地図を背景に米ソの二極対立のも と欧米側の西独への傾斜とソ連支配下の東独への加担といった形の長い分裂が続いた。 1990年以前の約30年間,東欧圏には政治的,イデオロギー的,制度的な教育史記述の固定化が あった。一方,欧米ではその教育史と教育学のパラダイムは基礎理論を多様に導入して社会史的, 学説史的,教育実践史的なそれ-変容し,それだけに,東西両ドイツの対立は大きかっだ。たとえ は三㌧ 西の学会であるドイツ教育史委員会はその国際学会としての国際教育史会議が東欧圏で開催さ れるときに参加すれば東ドイツは,当然,かなりブロック化された東欧側に陣どっていた。このた め,日本をふくめて西側の研究者もその政治的立場ではこのブロック化された東欧圏をみると,そ れをドイツ教育史の正統とみなしがちだったのは,日本の関連学会とその機関誌の諸報告でも読み 取れるとおりである。上の西側の委員会制の学会がいかにも貧弱な学会報(IZEBF)を出してき たのに比し,たしかに東独の「教育史年報」はその大きさを誇ってきたが,その学位論文などの序 文には,しばしば 近時の党大会や数年に一度の教育会議に触れた文章がつくほどに,あるいはつ けねばならないほどにひとつの統制がつきまとっていた。東独解体後,この東の組織的威力の問題 点は,東欧圏を含めてさまざまに吹き出している`7)。 西ドイツ側にとっての教育史研究の国際場面は,むしろ1960年に発刊されたベルギーの「教育 史」 (Histohca Paedagogica)に移っていた(8'。しかも,両独統一後,資料保存と管理をめぐる 東西対立のなかで東の「年報」は消え,代わってドイツ教育史委員会の「教育史研究年報」

(Jahrbuch fur Historische Bildungsforschung, 1993倍)が登場する。上の「教育史」に加わ

(6)吉田昇:第一次新教育運動における思想研究の意義,教育学研究, 34/1, 1967, 17

( 7 ) Miyazaki, T∴ Magdeburg - ein Ort geistiger Vermittelung zwischen Ost und West一言n: B6ttcher, し. lGolz, R. (hg.V.): Refompadagogik uno padagogischen Refbrmen in Mittel- und Osteuropa,

1995, 308-310 (8)この「教育史」の中心にいるデパーペ(M.Depaepe)がいうように,ヨーロッパの教育史研究は,そ のナショナリズムを脱していわばヨーロッパ主義-,さらに脱ヨーロッパ主義-の移行をみせている。 しかもそこには,ヨーロッパに普遍的基塗やモデルの地位をもたせ,あるいは西洋と東洋といった二元 でとらえるなら,実は,サイ-ドの告発のごとく問題化する現況がある。たとえば「中国のペスタ ロツナ」は, 「スイスのペスタロツナ」でなければならぬ必然性はない。 (Depaepe, M./Hans, V C.:

Using, or Abusing the Educational Past?言n. H. Gehrig, H(hg.V.): Pestalozzi in China, 1995,

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る長尾十三二は,新教育への再検討を「教育哲学や教育科学への道」と「学説史への展望」との相 互関係を視野にいれ,全30巻という規模で「世界新教育運動選書」 (1983)を編み,そのコンセプ トを次のように示した。 「新教育運動の価値ある遺産を国際的視野からいまあらためて学問的,学説 史的に問い直し,そうすることで現代教育の危機的状況に対処する知見を,体系的にしっかりと育 て上げる必要がある。」ドイツ圏では,ケルシェンシュタイナー,ツェトキン,シュルツ,オッ トー,リヒトベルク,シュプランガー,ヴイネケン,ゲヘ-プ,ノールなどが収録されたこのシ リーズは,外国の新教育の整理にとどまらず,日本の側の受容内容の総覧となり,そのかぎりで 「国際化」舞台への参加の事例となった`9'。 2 )旧東西ドイツ間の落差と統一後の論議 新教育運動をめぐる東西ドイツ間の対立については,たとえば東の場合は,教育学アカデミー版 の「教育史」第10版(1971)が, 「帝国主義の影響下」のものとし,その最終版の16/17版(1988)は 「独占資本主義の影響下」にあっての「ブルジョア的新教育」と規定するように,一貫して否定的 だった。それだけではなく,ポーランド,チェコ,フランス,イギリスにあった当時の新教育の傾 向にも「病理的現象」とするレッテルをはって牽制してきだ`o'。そこではソ連における新教育の登 場は記述されていないが,むしろそうすることでのみ旧東独側はソ連との系譜性が正統化できた。 ドイツの新教育は,旧東独地域がその重要な土壌であったにもかかわらず,ナチズムとマルキシ ズム・社会主義の体制のもとで封印されてきた経過がある。それだけに1930年代から1989年までの 半世紀の負の遺産を清算し,かつ現代の学校教育に進行するシステム化に対抗しうるいわば正の道 産として蘇生させ,旧東の教育改革にも寄与しうるかどうかの問題意識があり,その検討と評価が 課題になっている(1°。両ドイツ統一後,新教育が浴びるに至ったこの新たな脚光は,教育史研究年 報の創刊号(1993)や教育学雑誌(1994/4)の場合の特集が端的に示している。 戦後ドイツでの新教育評価を指導した立脚点は,次の3つに分岐していた。 I)歴史的法則の一 般化という社会・共産主義がもつ政治主義的傾斜。 2)当時の文化批判や,ヨーロッパでの教育思 潮と新学校・青年教育運動にプラグマチズムを重ねた受容。 3)教育カテゴリーの学説史的再検討 とその研究による国際地平への参入。これらが主たる方向だった。この3つのパラダイムで は, 1)は,旧東独が踏襲し,その陣営の労働・教育運動の「インターナショナル」な活動への傾 (9)長尾十三二(盟): 『世界新教育運動叢書」別巻3,1988, 2

(10) G6nther, K. -H. U. a. (hg.V.) : Akademie der Padagogischen Wissenscharten(APW) : Geschichte der

Erziehung, ll.Ann. 1971,423 ; 16117. Åum 1987I88, 44倍, 629f

(ll) Schmitt, H.: Versuchschulen als lnstrumenle schulpadagogischer Innovation vom 18. Jahrhundert bis zur Gegenwa巾im Historischen Kommission der Deutschen Gesellschan f虹Hziehungswissen-schan(HKDG館) (hg.) : Jahrbuch fur Historische Bildungsforschung, Bd. 1, 1993, 153-178

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斜をむしろ強くした。 2)は旧西鶴圏にみられるヨーロッパ化と実践重視の傾向であり, 3)は歴 史的理論的な基礎研究重視の方向である。そのかぎりでは, 1)と2)は対立し, 3)は1)ど 2)を距離化した。たとえば H.R6hrsの一連の研究には,旧西独に代表的な2)の方向であり, その「国際化」には,西側世界の国際地平と広義の平和教育に寄与しまうとするヨーロッパ・欧米 中心主義の保守的なライトモチーフが流れていた。それは従前のシュナイダー(F.Schneider)な ど列強のカツ)ック的な比較教育学の系譜とも無縁ではなかった。しかも, 3)には東西の亀裂と いったアクチュアルな問題のまえで,もうひとつ,旧西側での東敬・ソ連研究があり,たとえば マールブルク大学比較教育研究施設のフレーゼ(し.Froese)が主宰した厳密な露独対訳の「マー ルブルク版マカレンコ全集」 13巻や,ミック- (G.Mitter)がリードしたフランクフルト国際教 育研究所(DIPF)で組織的に展開され,その他アシヴァイラー(0.Anweiler)やクロア- (B. Cloer)などによる実証的比較研究の推進がその代表例となった。これらのアクチュアリティの高 さと蓄積の多きは,統一後の教育研究の方向性に大きい影響を残す〈'2'。 1990年代に入って,ドイツの教育史研究は,東の崩壊ないしその西への収飯によって,ことに旧 東独圏で新教育の研究がメーン・テーマの位置につく。そこには眠れる資料の発掘や整理,実践的 な教育改革への志向といったモチーフが流れている。ただ,東独でのその研究の経過は,戦後数年 間のナチズムからの転換後の「レヴイジョニズム」 (修正主義的復活)への対抗,その後の20年間の, 教育学アカデミーが支配した研究の混迷ないし隠蔽,さらに80年代の受容へのうながし,といった 3つのステージを経過した'13'。とりわけ,この最終段階での新教育排斥の解除は,東独崩壊直前の 1988年,ドイツ民主共和国教育学アカデミー(APW)の機関誌「教育」でも新教育を評価し受容 を促す傾向をみせはした。しかし,これは旧東独教育史研究の当事者であり,現在,フンボルト大 学にいるクリスタ・ウ-リッヒ(Ch.Uhhg)がその証人としていうように,教育学アカデミーの 「司令」 (コマンド)の結果であって,研究の自由開放化とはむしろ無縁であった`14'。このような 政治化というよりむしろ行政化されていた「教育研究」を,前身の中央教育研究所から数えて教育 学アカデミーに27年間その所長や総裁の地位にあったノイナ- (G.Neuner)ち, 1996年にした筆 者とのインタービューで「いまなお残る自己批判」だと告白したことがある〈'5'。 (12)宮崎俊明:「東ドイツ教育の終焉1-1989年秋-」, 「東ドイツ教育の終焉 2-改革にむけて-」, 「東 ドイツ教育の終焉 3一研究集団の再起・転向・途絶-」 「ドイツの教育研究の現況-1994年研究者訪問 と学会参加からみた-」鹿児島大学教育学部研究紀要, 42, 1990, 173-214;44, 1992, 129-152; 48, 1997, 103-168

(13) Pehnke, A∴ Refompadagogik-ein Stientind der padagogischen Historiographie in der DDR・ An一 merkungen zum Umgang nit der Rerompadagogik vcr der ''Wende'●言n: Jahrbuch fur Padago一 gik, 2, 1992, 233紺

(14) Uhrig, Ch.: Zur Rezeption der Refompadagogik in den 70er und goer Jahren, in: W・ Steinh6feI

(hg. V.); Spuren der DDR-Padagogik, 1993, 58倍

(15)宮崎俊明: 「ドイツの教育研究の現況-1994年研究者訪問と学会参加からみた-」鹿児島大学教育学部

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旧東郷での新教育の主題化は,転換直前から教育学アカデミーの機関誌「教育」や, 「比較教 副の編集陣およびその内容の変動,またこのアカデミー内の保守グループが1990年に20余回,ザ ラ紙8-20頁でたした「ありのままに」 (Ad Hoe)のキャンペーン,ことに90年に設立されなが ら内部分裂と西側の圧力のまえで活動できぬままわずか1年でその命脈を閉じるドイツ教育学会 (DGP)の主張などで,堰を切ったように出現する〈16'。しかし,これらの意図的,作為的ともい える変身も, W.Keimの表現を借れば アカデミーによって統制され制度化され研究が瓦解した なかでの教育学研究の「不確実感」とそこでの旧西への「キツツキのしがみ付き」 (Wendehalsigkeit)という両面を示していだ17'。統一後,新教育研究の急上昇と,その必要の強 調,なにより研究道産の問題をめぐる東側の,西側への主張と抵抗が 教育学,教育史研究の東西 の収拾を混乱させだが,これは, 1994年設立の国際教育史研究図書館の設立まで経過が斌的に示し, 今や新しい軌道にのっている周'。現代世界における教育イデオロギーの変質,政治体制の変動,磨 史研究の検証と蓄積,具体的には,ポストモダンの登場,旧東独の崩壊とそれによる過去の実態の 摘出などでのここ10年来の変動は,先述の1)の教条主義的,敵対主義的な歴史考察を揺るがせて 葬り去り, 2)もそのナイーブさや持続を困難にするか,あるいは逆にエリート主義やオルタナ チイープへと拡散する傾向なしとせず,むしろいまなお以下に示すような論議は続いている。 西側の教育史家のなかでもフランクフルト大学から元ベルリン大学である旧束のフンボルト大学 に入ったテノルト(H.-E.Tenorth)は,体制崩壊後の旧東独研究者が新教育に示す受容的姿勢は, 予煙たにせぬ「驚くべき現象」であり,それだけに「注意」を要する,という。かれも,旧東独大 学の再編に大学や州ごとの人事招請委員会(Berufskommission)のメンバーとして新連邦グラ イフスヴァルト大学に入った先のレールスと同様,統一後の旧束で聞かれるような新教育の再興の 声には, 「昨日の過失を隠蔽ないし弁解するために,おとといの手柄をもちたすのに似ている」, として肯定的でない(19'。 (16)宮崎俊明:「東ドイツ教育の終焉 3一研究集団の再起・転向・途絶-」鹿児島大学教育学部研究紀 B, 44, 1992, 129-152 I, Pehnke, A.: Reformpadagogik - ein Stiefkind der padagogischen

Histori0-graphie in der DDR・ Anmerkungen zum Umgang mュt der Reformpadagogik vcr de喜

I-Wende"i-in: Jahrbuch der mdagogik, 2, 1992, 233ff

(17) Keim・ W・: Verunsicherung versus Wendehalsigkeit 」'Reformpadagogik" ale Them_a ostdeutscher

Erziehungswissenschaft im VereinlgungSPrOZeSS -. in: Jahrbuch fur mdagogik, 2/ 1992, 247倍 (18) Uhrig, Ch.: Zur Rezeption der Reformpadagogik in 70er und goer Jahren-Ansatze und Kritik- ,

in: Spuren der DDR-Padagogik, hg・ V・ W・ Steinheffe1, 1993, 61 ff; ders: Zur RezeptlOn der Reform一 両dagogik in 70er und 80er Jahren vor den Hintergrund der Diskussion um Erbe und Tradition,

in: Padagogik in DDR, hg・ V・ E・ Cloer/R・ Wernstedt, 1994, S・ 134ff; Golz, R・:Anmerkungen zur

Rezept-On ostliche Reformpadagogik in der padagogischen HistorlOgraphie言bid・, 156fr

(19) Tenorth, H. -B.: ●-RefompadagogikI一 一Emeuter Versuch, ein erstauliches Phanomen zu verstehen - , in: Zeitschrirt fur Padagogik(Z. f. P.), 1994/4, 586

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一方,西のチュ-ビンゲン大学から定年後に東のイエーナ大学に入ったA.フリットナー(A. Eitner)の場合は違う。その著のタイトル『教育の改革-20世紀のインパクト- (イエーナ講 義)』が端的に示すように,旧西から新東への啓蒙的指導性をうかがわせるからである(20'。これに は,当時はベルンにあり,いまやチュ-ビンゲンに移ったグルンダー(H.U.Gmnder)は反発す る。つまり言新教育がみせた学校改造,教育方法,児童観などを受容し,かつそれを旧東独ブロッ クの教育改革全般に適用可能とするようなフリットナーの立場に,その概念や理論一実践ないし思 想一行動関連について諸々の事実を提示しながら教育史的にみて対応不可能だというのである(21'。 かれの目には,フリットナーの主張は,旧東独がイデオロギー的,教条主義的に進めた「歴史研 究」を反転させたにすぎないと映る。グルンダーのこの論争的なかまえにフリットナーは,新教育 の「事実問題」からはその「インパクト」や論者のi「倫理的な位置」は評価できない,と反応する にとどめた'22'。加えていえIi--,ここには教育をめぐる歴史的な個性やそれゆえの相対化,教育学の 理論と実践,事実と規範,実践主体性とモダニティなど,位相差のある問題も介在しているだろう。 先のテノルトも上のグルンダーと立場を共有し,かれは新教育とその教育学的帰結を探るとき, 、 その歴史研究の弱点が政治的なナイーブさと,前近代への回帰ないし伝統との関係の断絶といった 現代の教育史吟味に必要な視点を欠落させるおそれがあると欝告する。それだけに,現代における 新教育ルネサンス論も,たとえばオットー(B.Otto)がみせた権威主義的教育関係や,ペテルゼ ン(P.Petersen)のナチズムへの傾斜といった面を捨象して教育カテゴリーと歴史事実との関係 を分離したり看過しては,道を踏み誤りかねない`23'。 したがって,新教育研究の視座には,先にブリットナ-とグルンダーがみせたような教育カテゴ リーと歴史分析の分離でなく,両者を統合した位相の把握が要請される。つまり,相互が非難しあ う「理論一実践のレトリック」や「歴史事実での反証」ではなく,新教育が現代にもつ「連続性と 断絶」の両面が意識化されるべきであろう(24'。新教育と現代は,はたして,刷新(Innovation) として非連続なのか,むしろ復興(Renovation)として連続のなかの改革(Reform)なのかは,

(20) Flitner, A∴ Refbm der Erziehung - Impu一se des 20. Jahrhundens一, 1992,森田孝訳『教育改革

-20世紀の衝撃-イエーナ大学連続講義-』, 1994, 109倍

(21) Gmnder, H-. U: Refbm der Erziehung. Eine Auseinandersetzung nit Andereas Flitner, in: Z. ∫.

P・ 1994I6,925-940・, ders: Seminarrefom und Rerompadagogik in den Lehrerseminaren der Schweiz,

in: Jahrbuch飾r histohsche Dildungsfbrschung, Bd. 1, 1993, 109倍

(22) Flitner, A.: Reromthemen, Klassikerlekture und lmFulse des 20.Jahrnunderts - Replik aur Hang-Ulrich

Grunder-, in: Z. ∫. P, 1994/6, 941-943.

(23) Tenorth, H. -E.: "RefompadagogikI● - emeuter Versuch, ein erstauliches Phanomen zu verstehen一, in: Z. ∫. P 199414, 601, 585

(24) oelkers, ∫.: Bmch und Kontinuitat. Zum Modemisierungsefrekt der Rerormpadagogik, in: Z. ∫. P.

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慎重な検討を要するであろう。その点でエルカ-ス(∫.Oelkers)やコエーレンツ(R. Koerrenz)がいうように, Reformpadagogik (改革の教育学)としての新教育に歴史分析的かつ システム分析的な方法憲誠をもち, 「社会批判」の方向と,教育から学習-の重点の移動といった 「意味の枠組み」を明瞭にする意識化や,隣接科学の成果からの検討も必要である(25'。 19世紀から 20世紀への転換期の前後を頂点に展開したこの教育改革の理論一美践評価にも,後のナチズムと旧 東蝕の全体主義的体制での事実経過や,今日のこども,学校,家族の変質などを棚上げにせず,社 会的に構造化されて機能する教育,文化総体としての教育にとってどこに新教育の「新」たるゆえ んと位置があるかの吟味が求められる。 現代の日独における歴史的,思想的な状況とそこでの教育の理論や実践の課題からみれば 新教 育の評価も決して一義的ではない。その「刷新」, 「復興」, 「改革」だけでなく,むしろその意図や 評価に断絶の声すらなしとしない。また,新教育をかつてのノール(H.Nohl)のように, 「ドイ ツ運動」として歴史運動的に位置づけ, 18世紀ドイツ精神史の, 20世紀における青年版ないしその ナショナルとインターナショナルとのせめぎあいや,日本の場合のように,まず外国動向の受容に 走ったインターナショナルとナショナルとのせめぎあいの展開とみるにしても,同時にそこに教育 労働やイデオロギーをめぐる対立が激化したのがあの時代だった。ドイツの場合,新教育の受容と 評価には,世紀の転換期,一次大戦後からワイマール期の最盛期,その後のナチズムのもとでの解 体期,さらに東西両蝕で二分された対立期,そして1990年の統一後のいわば論争期などで,その位 置づけは変動し異なってきた。それに,方法論的にもここ数十年の解釈学,マルクス・レーニン主 義,批判理論,構造主義,システム理論など,これらの諸理論からしても評価は大きく相違するだ ろう。また,今日の新教育論議には,それを誘発した文化・時代批判のなかにルソーやニーチェの 「近代問題」がある。それだけにヨーロッパ近代200年の中間点に位置する新教育には「モデル ネ」をめぐる歴史意識や人間像の潮流を持ち込むことで点検され,それによる評価には違いが生じ るだろう。 2 :教育言論の形成 1 )谷本喜 一ヤーヌス(波頭)的先駆者-1920年代の約10年間に盛期をむかえる日本の新教育を評価するには,その前段の「近代化」路線 における公教育の策定,啓蒙主義とその反動としての国家主義のイデオロギーを念頭におく必要が ある。教育目的は教育勅語で基準化され,教育方法は官費留学生がアメリカ回りでもちかえったペ スタロツナ主義や,お雇い外国人によるヘルバルト主義を導入して啓蒙合理的カリキュラムを開発 するという構図をみせた。とりわけヘルバルト主義の教授五段階方式は,師範学校教育と集権的教

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育行政で名実ともに国家主義的教育に合致するコースをとった。このように教育の目的は国内的伝 統に,教育の方法は外国動向に二分ないし分離せざるをえない形で対応させる方式は,哲学や医学 に典型的だったドイツに照準をあわせた日本の学術傾向に特徴的だった。教育学分野では, 1889年 から1904年のあいだに,当時まだ2校だった帝国大学と,師範学校教員を供給した高等師範学校に おいて教育学を担当する20歳代後半から30歳代前半の5人が欧米に派遣され,かれらは新帰朝者と して講壇教育学の中枢に就いていく。 そのひとり京都帝大教授谷本富(1867-1946)の足跡こそ,一方で日本の外国受容的講壇教育学 を喧伝し,他方で教育言論を喚起するという典型的モードを示している。かれの30余冊にのぼる著 書の大部分は講演録だが,それは欧米の教育動向や教育思潮の紹介にあてられた。かれは時代の先 頭をひた走り,たとえその水準には粗略さがあったにしても,教育の公論形成への大胆かつ最大の 引導者となった。谷本は,すでにその留学まえから自他ともに認める日本の「小ヘルバルト」でめ り,その伝導者から国家的教育学-,次に社会的教育学に転じ,さらに帰朝後は個人主義教育学へ と変身する`26'。 「日本において私は今日ここに始めてこのエレン・ケイ(Ellen Key)の名前を紹 介する」,といったのは, 1906年8月の『新教育講義』においてである(27'。別のところでも「近年 の面白い本」として彼女の『児童の世紀』 (1900)を挙げた`28'。この頃,かれは「新教育」概念を 「自己発展」 (Selbstentwicklung)でとらえた。しかもそれは日本史上の忠臣や中国に儒家の思 想になんら抵触しないとして,当時一般の論者と変わらぬところもいいそえだ。また・,ケルシェン シュタイナー(G.Kerschensteiner)の実用的,保守的な教育目的論を引用し,その人格と公民 (Staatsb虹ger)の概念を「臣民」と「国民」に換言するほどに,その受容に日本的改造をしてい た(29'。その一方で, 「改革されるべき教育学の特徴」は, 3つの``Y'',すなわち,民主主義 (Democracy),個性(Individuality),連帯(Solidality)の語尾がもつ``Y"がもたらす必然 である,と説いた…。また,心理学を教育改造の基礎とみなし,さらにナトルプ(P.Natop), デューィ, (J.Dewey),デュルケイム(B.Durkheim)を総称して「教育社会学」としながら, アメリカの「心理学的プラグマチズム」を重視し強調した`31'。 しかし,この谷本は,ペスタロツチの最初の伝記紹介者, 『実際的教育学』の著者にして元文部 次官,京都帝国大学総長沢柳政太郎に「絨首」されるところとなった。沢柳は,その著書で谷本が 谷本富: 『系統的新教育学綱要』 1907 谷本富: 『新教育講義』 1973 (1906) 谷本富: 「教育雑話」,教育時論, 1907年1月5日号, 12 谷本 『系統的新教育学綱要』 1907, 50f 谷本富: 『現代思潮と教育の改造』 1919, 86 谷本富: 『現代思潮と教育の改造』 1919, 103餌196倍;大日本学術協会(編) : 『現代日本教育学大 系』 2, 1989 (1927), 6 )     )     )     )     )     ) 6   7   8   9   0   1 2   2   2   2   3   3 (     (     (     (     (     ( 富

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いう「ニュー・エデュケーション」システムの建設にたいするひとつの「アツテムト・プラン」 (試行案)や「システムテック・ニュー・エデュケーション」 (ママ)の問題点として外国紹介へ の傾斜,教育百科的な視点,学校教育の領域からの逸脱,諸論不一致,なかんずく実際と事実から の遊離をすでに指弾していた(32'。知られるように,かれによる谷本の罷免は,文部官僚の頂点に たった6年後,上の名著が上梓されて4年後,七教授罷免として行なわれた。沢柳自身もこのため に辞職,ただちに新教育の実験校成城小学校の設立者に転じるという興味深い屈折を示した。 1907年, 40歳で野に下った谷本は,公衆による教育世論の形成,それも民権的政論とは一線を画 しながら,むしろ新聞メディアが教育の通俗的世論の形成で担う役割を一層意識し,そのオピニオ ンリーダーとして自らそこに身を寄せるに至る(33'。このことはかれが「ドイツ的教義(クルツ ア)」よりも「英米的文明(シビリセション)」への評価を高め,官より民へ転身したことと無関係 でない。かれ自身は,講壇教育学のアカデミカーでも,いわんや教育運動のオルガナイザーやイデ オローグでも教育の経営者でもなく,さらには,新聞,雑誌のエディターでもなくて,むしろ「-教育学説家, -ジャーナリスト」,講演者としてひとりのリベラルの運命を甘受した。その後の大 作『教育学大全』 (1923,自称「ペグゴギカ・マグナ」 [大教育学]は,批判的契機を欠き,教育の 公論形成-の市民的参加意識は低下させているが,学校教育,学校設備, 「学校騒動」といった主 題など,着想の広がりにおいてなおその右にでる者はなかった。当時,現存の代表的教育学者48人 を紹介したシリーズで,谷本は「教育界の時勢より20年先を踏んでいる」と評されている(洲。 2) 「学習研究」 -官立附属学校の方向と限界一 大正期(1912-1926)の後半,一次大戦後における言論と社会運動の高揚は,教育の公論形成と 実践活動にもドライブをかけ,いわゆる大正自由教育として学校の教育改造の最盛期を迎える。自 学主義,分団的動的学習,全人教育,自由画教育,衝動満足論など,いわゆる八大教育主張の方向 での実験的な試みや実践は,師範系のいくつかの附属小学校,わけても成城,玉川,明星,成瞬, 児童の村小学校,自由学園など',もっぱら新設の私立小学校に登場した。また,国際的な連携とし て世界教育連盟への参加,パーカースト(H.Parkhurst)やキルパトリック(W.H.Kilpathck) の来日,くわえて教員労組の誕生などがはじまった。教師たちは,以前は,新帰朝者という権威を 背負う教授や全国を駆け回る高名な講演者の,ときに学問的には荒削りな情報提供者の聴衆であろ うとしたが,今やそれ以上の存在になろうとする。モデル・スクールの参観者,その報告会の参加 者,自ら研究会のメンバーの一員であることで実践的関心をもち,そこでえだ新知識,新手法,新 思想を自らの学校へ持ち帰る「教育研究者」であることを望み,そうあろうと行動した。 (32)沢柳政太郎: 『実際的教育学』沢柳政太郎全集1, 1975 (1909), 290 (33)谷本富: 『現代思潮と教育の改造』 1919, 626 (34)大日本学術協会(編) 『現代日本教育学大系』 2, 1989 (1927), 8

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このような新教師たちは,その実践のポイントを己れの教育行為から子どもたちの学習行動に切 り替える時代の到来を感知しはじめる。たとえば 合科教授で名声を博した奈良女高師附属小学校 は, 1923年の1年間で三万人,最高1日八百人の参観者を集め, 1921年8月の, 「八大教育主張」 の八日間の講演会には四千人の参加者をみたという(35'。地方でも,小原国労がその活動の舞台とし た成城から玉川の初期までの記録「全国講演行脚」では,鹿児島での研究会は,五日間,連日朝か ら夜10時まで開かれ,そこには視学から青年教師までを参加させた'36'。とくに注目すべきは,教育 の定期刊行物の発刊の活発化とその多様な展開であり,教育改造への実践的組織的な関心は,従来 の官公庁報告や新聞記事報道でなく各種団体によるその機関誌として開花する。師範系の「学習研 究」 (奈良女高師附属小学校),私立学校系の「教育問題研究」 (成城小学校), 「全人」 (玉川学園), 民間の教育論壇を形成する「教育の世紀」 (教育の世紀社,児童の村小学校)など,これら学校組 織の機関誌や教育ジャーナルが旧来のものに加わる形で発行されていく。 「学習研究」は,奈良女高師附小の学習研究会が編んで, 1922年4月に月刊誌として発刊され, 官立モデル・スクールの場合の代表例となった。その「創刊の辞」の冒頭は新教育のひとつの方向 を次のように謳いあげている。 学習即ち生活であり,生活即ち学習になる。日常一切の生活,自律して学習する処,私共 はここに立つ。他律的に没人間的に方便化せられた教師本位の教育から脱して,如何に学習 すべきか,そのよき指導こそ教師の使命である。児童生徒の日常学習生活の研究,学習の基 礎たる科学芸術の研究,学習の環境たる学校家庭社会の研究,すべての真人たり人たらしむ べき一切の研究,わが「学習研究」はここに生まれる。(37' 学制50年記念と同年に発刊されたこの「学習研究」の編集理念は,しばしば表紙裏面に囲込みで 標語のごとく記された次の3点にあった。 「□学習法の研究は新時代の教育に対する痛切なる要求 □本誌は広義の学習に関する理論及び実際の壇場□自由・独創・自薩・歓喜の学習法は我邦唯一の 本誌の特有」約130-150頁の本誌の内容は,大略,学術的論文,学習実践の論考や報告,外国教育 事情の紹介,教育行政関係情報,図書紹介,読者からの質疑-の応答,児童の詩文や描画の作品な どで構成されていた。そこでは,すでに15年前にドイツを中心にした留学し,その教育関連諸学, 師範教育,初等学校の現況にふれ(38',かつ心理学的接近をする校長横山栄次の論説,とりわけ編集 代表者として20年間在任,これより前鹿児島女子師範主事として合科教授的新裁縫法を開発したあ (35) 「教育の世紀」 1924/5, 124;同, 24, 135 (36)小原園芳:教育講演行脚(1)小原園芳全集 21, 1969, 145, 12;山下徳治: 『ペスタロツナからデュー イへ』 1950, 16 (37) 「学習研究」 1922/4, 2-3 (38)模山栄次『教育教授の新潮』 1908

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ど,奈良でも学習論的接近をする木下竹次の論考が重きをなした。外国の教育事情では小川正行の ドイツを中心にする紹介と論評がある一方で,ことに桜井荊男が生命主義的,審美的な立場にたっ て教育現場からきわめてユニークな筆を揮っていた。 本誌は,教育の言論の集中する東京とは別に関西圏で開花し,名実ともに中核になった現象だっ た。講壇教育学がみせる高踏性とその欧米外国情報の紹介や受容への傾斜に比し,学校とその現場 に立脚する姿教を保持してその教育改造を志向した。その限りで,外部にも誌面を提供し,たとえ ば帝大の吉田熊次にはダルトン・プランや八大教育主張-の批判や相対化をさせ39),渡辺政盛には デューイかナトルプかの二者択一を論じさせ,後者に加担するその論調を掲載したりした(40'。 心理学における反測定主義的立場をとる横山は,メンタル・テストの批判者となり,むしろ「人 生のオイフォリズム[多幸主義]」を説く〈41)。その斬新で心理学的な教育提言では,すでに創刊号 でシュタイナー(良.Steiner)を,またフロイト(S.Freud)も再三持ち出している。ただ,前者 にはアンソロポソフイ(大智学)の社会組織を,後者には抑圧の問題指摘をむしろ度外視して受容 し,そのかぎりで訓育論的に昇華論を評価しだ42'。その点ではここ2, 30年のドイツでのシュタイ ナーとフロイトの把握とは異なっていた。編集代表の木下は, 1924,再来日したパーカーストに学 校参観の機会を整え,その講演を掲載したが,かれ白身はパーカーストの学級の社会的集団化と児 童の自由のをねらう作業予定案(分団アサインメント)と話合い(カンファレンス)に反論する筆 を執っている。これは木下の「学習一元論」と,教材と方法との「自由論」をもってする反対であ り(43',そこにあるのは,かれの「縛解-如」 「心霊-如」,国家主義即世界主義,理想即現実,さら に生活即学習,学習即生活といった非分析的,東洋的な思惟の帰結に他ならなかった。 このように,横山がみせたヨーロッパの正統よりもいわば異輔的少数派の擁護,木下が示した東 洋的,仏教的とも映る同一性論的直観主義には,奈良女高師でドイツ系の教育方法学を担当した小 川さえも類似の歩みをみせ,エレン・ケイを「徹底的個人主義,浪漫主義」として排斥しだ44'。か れが裔せた「渡欧雑記」は「私は旧人である」という冒頭文ではじめている。この1924-25年の滞 欧中の現地報告(45'は, 『独逸に於ける新教育』 (1928)として上梓されるが,もっぱら二次的な参考 (39)吉田熊次: 「教育の根本原理と現代教育思潮1,2, 3,」,学習研究, 1922/5, 54鯖1922/7, 39倍; 1922/, 8, 55 (40)渡辺政盛: 「ナトルプかデュウェイか」学習研究, 1924/5, 15 (41)横山栄次: 「オイフォリズムと教育の目的」学習研究, 1922/8, 2備; (42)横山栄次: 「自己教育は教育の真義」学習研究, 192211, 8-10; 「精神分析と学校の訓育, 1, 2, 3」 学習研究, 1923/2, 2倍;192313, 2倍192414, 8備 (43)木下竹次: 「我が学習法から観たドルトン案」学習研究, 1924/6, 52鯖 (44)小川正行: 「児童本位の教育学ありや」 ,学習研究, 1922/9, 23鯖 (45)小川正行: 「渡欧雑記」,学習研究, 1924Il, 21倍;1924/2, 124鯖;192413, 127

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文献でまとまられ,かれが実際に訪問し参観したのは,ブレーメンのシャルレマン(M. Schanelmann),イエーナのペテルゼン,ドレスデンの実験校など数枚にすぎなかった(1924年 5月26日;1925年6月;1924年5月18日)。そ、して,テンニエス(F.Tennies)の共同体(ゲマイ ンシャフト)論をもってイエーナのペテルゼンの共同体学校を日本的な社会一学校共同体と重ねあ わせ,それ以外の受容を拒み,実際には感情的かつイデオロギー的な否定的反応をみせていた。小 川の主旨は,こうである。 「我が教育社会に徒に新教育を紹介し,他のモーデ(流行)とモデルネ (新奇)に倣はんことを要求するのでない。」 (46'横山と小川とがみせた外国教育の受容での落差は, かれらの時代意識,世代,さらにかれらが現地でみた第一次大戦の戦前と戦後のドイツの新教育辛 社会実態の差であり,加えて奈良女高師の保守的特性の反映でもあった。 「学習研究」は,創刊年の表紙にあった西暦表示を翌年の1923年から抹消し,この年の「国民精 神の作典に関する詔書」を巻頭に掲げて,その意義を強調する。創刊前年の八大教育主張の大会に は木下は名実ともに加わりうる力量と実績はもっていたが参加していない。 1924年,修身授業で国 定教科書を使用しなかったとしで松本師範でいわゆる「川井訓導事件」が起き,奈良女高師も文部 当局から批判された。これらの事実は官公立モデル校における「自由教育」の限界ないし終焉の近 さを意味した。 こうしたなか新教育の教育言論の公共性には変容がみえてくる。その構造はもともと言論の形成 主体とその受け手ないし同調者といった二項だけで成立していなかったのが,官公立学校とその教 師を取り巻く環境であった。この種の学校の実験的モデルは,行政と学校との制度的ルートの上に セットされ,その言論の伝達者ないし受容者となる教師は,制度の機能的担い手であっても, 「公 衆」として批判者になるには限界があった。そこには日本近代が当初から欧米思想と向き合ったと きの思想的体質,非分析的思考様式,対立回避のメンタリティや態度も鋤いていた。日本の教育学 ないし教育実践における顕著な歴史的特質ともいうべき,教育の目的と方法とを分離する方向は強 まり,さらには学校から社会を捨象し,その限りで学校ユートピアを形成する方向へ内向せざるを えなかった。目的の点検は棚上げされたまま正統化され,それを受容しつつ教育方法の合理的な 「改善努力」を指向した。このとき,当然ながら,教育の自由とその公共性の概念は分離され,忠 考のスタイルは具体よりも抽象へ,実質化より形式化に傾斜した。 たとえIjこ-,八大教育主張の講演会の演者のうち兵庫女子師範の及川平治の「新しい自由教育方 法」にはその図式主義が顕著である。また,千葉師範の手塚岸衛にしても講壇教育学の泰斗東北帝 大教授篠原助市の理論的立場に接近し,シュライエルマッヘルやヘーゲルがみせた自由の理念と現 (46)小川正行: 『独逸に於ける新教育』 1928,序, 4

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実の実質なき抽象で「和解」をはかっだ。その『自由真義』が依拠する新カント派ゆえに自然の理 性化を説いても,理性の自然化ないし実質化・合理化との均衡を欠いていた。このため,フィヒテ 的な閉鎖的ユートピアとナショナリズム,文化教育学の体験価値と学校教育での抽象的な文化価値 の主張にはかれ自身の苦渋がみてとれた(47'。 ここに国民教育が市民教育に直結しえず,実質化も市民化もできずにその国家公共性のなかでな しとげだ擬装は,市民的公共性に立とうとする教育言論から反発され抵抗をうけることになる。歴 史発生的には個別的,私的な動機と行動をはらんで登場する公共性と,それがもつ国民国家的な教 育への懐疑や抵抗・対立関係は,教育をその方法領域に限定せずに,その日的やわけてもその制度 に薄日させ,学校の問い直しを刺激する。この立場から外国の教育の理論・実践論議や情報提供を する組織的な民間運動は,学校設立や出版物の刊行に動いた。成城(沢柳),玉川(小原),明星 (赤井)成換,さらに,のちに一因7校,教員・農民・婦人の組織活動にも関係する池袋児童の森 小学校,その姉妹校の芦屋児童の森小学校,自由が丘学園などがその実例であり,結社と出版の事 例として以下で扱う,教育の世紀社と「教育の世紀」,新興教育研究所と「新興教育」がそれであ る(48)。 3) 「教育の世紀」

-教育ジャーナリズムの国際化-Jahrhunden de† Erziehungと,その表紙にもドイツ語表示をしたり,ユーゲント・ステイ)レ の絵で見開き押し絵をあしらった「教育の世紀」誌は,同名組織の同人4人で編集陣を構成して 1923年10月に創刊された。その同人は, 「日本のペスタロツチ」といわれた姫路師範学校元校長, 帝国教育会専務の野口援太郎,日教組の母体黎明会を主宰し,国際教育教会理事,のちには日本の 代表的百科事典をだす平凡社の創立者下中弼三郎,東京日々新聞の元記者, 「中学世界」の主筆や 「太陽」の編集長を務めた為藤五郎, 「小学校」の元記者志垣寛といった教育ジャーナリストで構 成された。かれら4人は姫路,埼玉,鹿児島iの師範や奈良女高師での教員経験の持ち主であり,野 口は50代半ば 下中は40代,他は社友を含め30代半ばの若手だった。また,社友4人には,玉川の 小原園芳,明星の赤井米吉, 「帝国教育」編集主任三浦藤作,それに「教育時評」元編集主任にし てエレン・ケイなどの翻訳者原田実が参加していた。この教育の世紀社は,こう「宣言」する。 世界の人々は今,極度に疲労している。永い永い間,愚かにも自ら作って来た殻の重みと, (47)手塚岸衛: 『自由真義』 1920,自序, 9 (48)新学校運動の展開とその業績において,上記に特色的なのは,学校がもったメディアである。これは師 範系附属がもつの行政システムの威力によるのでなく,民間側では実践家の力量や「人気役者」 (タレ ント)が大きく作用し,それが組織化されて私立学校の誕生をもたらした。その点で成城,玉川,明星 の展開は辞をぬく。たとえば「教育の世紀」特別号(1925/6)の「新しき学校総覧」は,全11校のう ち,師範附属系6校,私立3校,公立2校を紹介した。これらがみせる外国の理論-の関心とその水準 などからみれば 現代の文部省研究指定校方式のごとき画一的な官製教育研究の貧困は覆うべくもない。

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他から強いられて来た圧力とに抑えられて,その生命の自由の発展伸張なし得ずに。そして また,その重みと力から脱れようとしてもがく努力の反覆累積とのために(49'。 それゆえ,この結社は世界が疲弊と死へ向かう危機意識から出発し,政治・社会運動以上の「教 育による社会改造」を志して「真実・自由・合理の社会」建設の方向を探ろうとしだ。教育の公論 形成や,学校設立と教育実践の基調を,個性の伸張とその生活化による人類文化への寄与,児童の 自発性の尊重と興味の指導,学校運営の自治などに設定し,これらを「新教育運動の趣意」とし た(50)。 本誌は,先の「学習研究」が学校紹介,研究紹介,外国事情,書評,新刊紹介,創作などで構成 されたのと似るが,特集,月例座談会,時評をもりこんだ編集内容では異なっている。なお,児童 の村小学校の機関誌としてそこの訓導,研究生の約10人の職員にも誌面を開放してその実地研究の 報告にそなえた。まだ,官立学校の機関誌とは対照的に約30人で結成された「教育擁護同盟」 (1921)の主張に誌面を与えていたのも特徴的である。講壇教育学との通路をもった「学習研究」 とは違い,編集発行人志垣寛の舵取りは,読者にも制度的権威への依存とは別の,教育公論の形成 と教育実践の運動化をねらい,この教育ジャーナリズムと教育団体誌の方向に自らのポジションを とるように誘った。このことは,発刊後約2年を経過して,しばしばその見開きの箇所に掲げられ た呼びかでいうように,読者に, 「われ等の新教育に共鳴する同志にひとりたることを深く信C... 新教育に対して最も勇敢なる戦士たらんことを切望してやまない」からだった。それに創刊号から 「新教育の研究を深刻する為に」 「研究生の募集」をし,編集会議に参府させようとした。 「教育の世紀」が創刊された1923年秋には「創造」や「教育学術界」など,東京では30を数える 教育の定期刊行物があり,尼子止,渡辺政盛らが在野で筆をとり,教育言論を盛り上げていた。上 記のごとく,本誌の同人,社友もすでのその経験者の集合体ともいえたし,成城を去った小原も 「イデア書院」の設立に係わり, 「全人」を創刊する。かれらは,官公立学校の制度枠組みにある 一面での保障と他面での拘束というアンビヴァレントなダブルバインドを知悉していた。それだけ に,拘束から解放された位置を選び, 「新教育運動の趣意を制度と方法の双方を射程にいれた革新 運動」ととらえていた(51'。その言説では教育の理論から実践へとアクセントを移動させ,とりわけ 教育方法の概念の拡充に努めた。ここでかれらが教育実践の影響とは別に,またそれよりもメディ アの大きい威力を選択し,教育言論を差し向ける対象として青年教師やリベラルな親たちに向けて 採用した方向は新鮮だったといえる。 (49)教育の世紀社「宣言」,教育の世紀, 1/I, 1923, 2-3 (50) 「新教育運動の趣意」教育の世紀, 1/3, 1923, 2-3 (51) 「新教育運動の趣意」,教育の世紀, 1/3, 1923, 2

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雑誌メディアの威力を知り,それを編集・公開することで教育の言論活動をする教育の世紀社は, 実は,教育界のオピニオン・リーダーやエスダブリシュメントにも影響力を行使できた。このため, 「教育の世紀」は,教育学者,教育実践家関係の215名に,その1)生年月, 2)主たる職 歴, 2)現職, 4)主たる著述, 5)主たる研究の方面,の5項目について自己記述の回答を依頼 した。もう一方で,全国の師範学校長およびその附属小学校の主事にも,その1)出身県, 2)坐 年月, 3)学歴, 4)著述その他, 5)主たる研究,の5項目に各20字ほどの記述回答を依頼した。 そしてこの二種類の結果を「全国教育家録」と題し, 1925年新年号の付録として発表した。この人 選は予め編集部が選択したが,たとえば 教育研究者らの場合は,本稿であつかう者のうち,若い 山下徳治と土井竹治以外のすべてはその対象になっており,おおむね300-600字の範囲で9割が回 答をよせた。当初の無回答には再度の依頼し,なおかつ無回答だった者14名も同時に公表した。こ の14名には,篠原助市,河野清丸,福島政雄,三宅米吉,樋口長市,西晋一郎ほか8名がいる。こ れは一面で「教育の世紀」へのネガチブな反応を見せるものとして意味深長である。一方,師範学 校長からは, 57名が回答, 44名は無回答,主事からは,及川兵平治と手塚岸衛を含め, 56名人が回 答した。この約半分が無回答という数字も教育の世紀と教育言論,ひいては民間教育への消極的な 態度表明として興味深い(52'。この公表は,メディアのをもつ教育の世紀社からの,官の側にある教 育界へのいうならば勇気ある挑発でもあった。 教育の世紀社は,新教育運動の国際的連帯への志向もその特色のひとつにした。これを促進した のが野口,下中,志垣,小原ら,なかでも野口だった。このことは創刊号が,千葉命吉による巻頭 論文のむしろ前にヨーロッパの運動に直接関与する現地の4編の小報管,イギリスの教育運動団体 The New Eraの事務局から提供された欧米の実験学校のリスト,さらに帝国教育会の野口事務局 長に宛てた書簡の原文とその邦訳を掲載した事実が示している。また,本誌の前半期(1923-1925)には外国の実践家から論考をしばしば寄稿させている事実がある。その初期には,無名だが, 実験学校情報の提供者が,つづいて著名なウiォシュバーン(C.Washbume),キルパトリック, ドクロリー(0.Docloly)などが登場する。さらに,この国際的連帯をとおして従前の官費脅学 者の公的立場や個人見解の制約からはなれ,教育運動団体としてリベラルなジャーナリズムの色彩 を一層強めた。 1925年の8月2日から15日のあいだに,ハイデルベルクで第三回世界教育会議が36ヵ国から500 名が参加して開催された。これにたいする関心は,当時ベルリンに留学中の土井竹治がただひとり の日本人として出席, 「教育の世紀」はその報告として各国代表のそれぞれ講演要旨を巻頭30頁を さいで掲載した。ドイツからはマルチン・ブ-バー(M.Buber)が「教育と自由」についての, (52)教育の世紀, 1925/1, 1-48

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スイスからはユンク(C.G.Jung)が「個人教育に於ける無意識の意義」についての講演をしたo この両者の日本への実質的な紹介や受容が1950-60年代と1970-80年代であるだけに,報告者と読 者とが受けたそのいわば「ショック」の大きさがうかがえる。ブ-バーとユンクは,すでに1920年 代に講壇の外部の新思潮としてすでに登場していた。 会議での土井は,日本の新教育運動についてこう述べた。 「どんな山間僻地の小学校と艶も,こ の自由主義に触れないものはないといってもよい位であります。ナトルプやデューイの教育哲学を 基調とし,モンチッソリー(M.Montessori)やドルトン・プランや勤労学校の方法を日本化して, ここに新しい日本の新教育は伸展しつつあるのであります。」また,野口の活動を「その自由教育 の宣伝と実現に努力して居ります」,といいそえた(53'。たしかにこの発言は,教育の国際社会のな かでの彼我の落差を実感し,己れの立場を意識させられたときの日本的「挨拶」の域をでないが, 将来に向けでのひとつの「誓い」であった。それは,日本の講壇や政策当局による外国情報の紹介, いわんや戦後,近年において登場する外国-の自国紹介の比でなく,運動体として実践の交流をせ ねばならぬ試練の上に立つことを意味した。 3 :外国教育学の受容問題 -ふたijのドイツ在外研究者の軌跡-1 ) 千葉令書 一回帰する教育学善一 だしかに,この時期の教育思潮には「ナトルプかデュウェイか」(54'や「パークハーストかモン テッソーリか」`55'といった論題のように,先行したヨーロッパ系と後続するアメリカ系との対比が みられた。明治期のドイツの哲学や医学などの官許がなお残って,ドイツ色が濃く,総じてヨー ロッパの思想,教育動向への関心の方が高かっだが,ここに変動がみえつつあり,教育学の講壇や 官立学校も例外でなかった。パークハーストを招待して成城をダルトン・プランの中心にした沢柳 が,帝国教育会の首脳として1921年から9カ月間,小西垂直,長田新ほかふたりの文部官僚と行 なった欧米視察の観点は,学校制度およびカリキュラムに重点があり,国民教育,機会均等,教員 養成,女子教育に我彼の差をみてそれを日本の場合の将来課題としまうとした。かれらには,かの 地の教育学そのものの現況や教育方法がその視界から遠のきつつあった。 インターナショナルなもののなかでのナショナルなものの意識化は,手塚岸衛の自由教育でも 「文化としての日本」 「文化国家主義」の把握となり,橋生金七の創造世界でも「国家的文化の創 造に帰一する新時代の教育と実践」の自覚となった。それにしても,このような,社会と国家を同 一視する文化概念には,当時のシュプランガー(B.Spranger)が提示していたように,体験に還 (53)土井竹治: 「第三回世界教育会議」教育の世紀, 1925/12, 2-35 (54)渡辺政盛「ナトルプかデュウェイか」学習研究, 1923/5, 15備 (55)野口援太郎「パークハーストかモンテッソーリか」教育の世紀, 1924/5, 4∬

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元される文化価値の概念,あるいはむしろすでにフィヒテがしていたように国家と民族を重ね合わ せるとらえ方が併存していた。 八大教育主張の場合でも,一貫して強烈な国学的個性を示した千葉命吉を除けば 他は外国の教 育ないし教育学の影響や受容が優勢だったといえる。この8人のうち,師範の校長と高師の教授の ふたり以外は,官学を追われたか,私立の大学・学園系かのいずれかであった。かれら6人は,管 学ゆえの制度上の保障と拘束の両面をもち,一方でそのアカデミズムの形式的自由と,身分的,社 会・経済的な安定をもちながらも,他方で実践的自由の拘束ないし限定まえにおのれをおき,ある いはおかざるをえなかった者に比し,相対的に自由だった。これまでの外国教育学の紹介や導入は, まず初期段階としてはふたつの高師系や官立大学系からの新婦勘考,次にそれに続く段階では,先 の系統の外での学校団体による派遣や個人資格での渡航・滞在者-とその担い手は段階的に変遷し 拡大する。前者には文部省・附属学校と研究刊行物が公立学校とその教員にむけて発する巨大かつ 強力な系統をもつ浸透機構があった。これに対し後者の場合には,比較的リベラルな,元教師など の側からの市民的な教育言論の形成と実践,そのための出版物の執筆や講演の手段を用いることが できた。かれらは,学歴も短く,かつ傍系,所属もしばしば私立学校,加えて学会での周縁の位置 など,総じてその立場は弱かった。しかし,それだけに国際関心は高く,その情熱と力量はむしろ 前者の通常をしのいでいた。 上の後者の場合で,一次大戦後のドイツの哲学動向と教育学状況に触れた者に千葉合音(1887-1965)と山下(本姓:蘇)徳治(1892-1965)がいる。千葉は, 1922年9月から25年12月の期間を 自費で滞狼,シュプランガーを身元引受人(ベトロイア)としてベルリンに入る。一方,山下は, 成城学園の第一回海外派遣留学生となり,それより1年前,沢柳も訪れていたマールブルクのナト ルプのもとに入り, 1923年から27年まで3年半滞在する。しかも帰国後1年余りした28年の11月に は,大陸,ロシアへの戦略家後藤新平の推薦と長崎の素封家の個人援助で再度国外に出る。これは わずか1か月半ながら,実際はモスクワに入るためだった。 千葉は, 35歳の晩夏,一面では追われるがのように,他面ではまたも戦うかのようにして日本を 離れた。かれは,滞独前には奈良女高師附属小の訓導をへて広島高師附属小の主事の立場にあった が, 1921年に八大教育主張者のひとりとして『一切衝動皆満足論』を展開,その論旨での事例,お 染久松-楠公同一視論のゆえに一切の官職から追われていた'56'。このあど,当時,教育学に小西垂 直がいた京都帝国大学への入学志願も拒否された。しかし,当時ライプッチヒ大学にいたシュプラ ンガーを留学中に知っていた京都大学の心理学教授野上俊夫から紹介状を受け,またパウルゼン (56)千葉命吉: 『一切衝動皆満足論』 1921, 171-194

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(F.Paulsen)のもとでの留学経験をもつ同じ大学の倫理学教授藤井健治郎の激励を受けて,ベル リンへ渡る。 渡航前3年間の千葉は,ほとばしり湧き出る創作意欲でもって『創造教育一事新地理教授楠義 一』 (1920),市創造教育一自己表現の学習-』 (1921), 『独創主義一教育価値論-』 (1922)を年ご とに上梓,渡航直前の脱稿した著書では,出帆にさいしての激情を吐露している。 太平洋航路をとった千葉は,コロンビア大学にデューイを訪い, 2カ月後の11月末に拠点のベル リン大学入りをはたす。旧制の高校や大学への入学者でも,高師の卒業者でもなく,秋田師範卒, 文検合格者であるかれは,これまでルソーもペスタロッチ-もヘルバルトも独・仏語でなく英語で 読んできだ57'。このためベルリンでは民間のベルリッツ語学学校と個人教授でドイツ語の習得に専 念する。 6カ月後,大学での語学試験で千葉に面接したのは,著名な社会学者のフィーアカント (A.F.Vierkandt)教授である。そして, 4月からの夏学期に聴講生の許可をうけ, 10月の冬学 期から本科生となった。このとき,同じベルリン大学の留学生として,のちにともに「文化学会」 をつくり,国粋主義的哲学者となった九大教授鹿子木員数に出会っている`弧。 千葉の留学目的は, 『独創主義一教育価値論-』の序文に識しているように, 「曲学の徒」の「理 想主義でも現実主義」でもない「超論理としての生命」を異国で自己探究することにあった。現地 ではドイツ哲学への期待もなく,むしろ同郷人にして江戸末期の神道的国学者平田篤胤に思いをは せていだ(59'。また,その知的形成の告白によれば 20代前半の思想形成と, 「自学補導の集団主義 教育,教育美学」の構想をもちはじめたころの千葉は,平田神道,佐藤信淵,王陽明の日漠の思想, ベルクソン(H.Bergson)のエラン・ヴイタール(生命の躍動)思想などに自らの教育理論の基 礎を兄いだし, 「日本のニーチェ(F.Nietzsche) 」高山樗牛やラッセル(B.Russell)などにも ひかれた・'60'。こうしたかれだけに,自ら少時在職していた奈良女高師での校長にして同郷人横山な どが新しい動向として注目していたライ(W.Lay)を現地で訪問しても,その実験心理学的,測 定的教育学には不徹底を読みとり,その超克を意図するのは当然だった(61'。 「独創力を伸ばす教育が創造教育だ。独創(Originality)は,一切衝動皆満足に於いてのみ実現 (57)千葉合音: 『知行合一一考査革新に関する研究-』 1918, 6-12 (「参考文献一覧」) (58)千葉命吉: 『文化教育学講義とその批判』 1926, 372餌 279, 387;大日本学術協会: 『日本現代教育 学大系』 10, 1989 (1928), 292∬ (59)千葉命吉: 『蝕創主義一教育価値論-』 1922,序, 9, 20 (60)千葉命吉: 『創造教育一自我表現の学習-』 1921序, 2 ;千葉命吉: 『独創主義一教育価値論-』 1922, 80f, 387 (61)千葉命吉: 『文化教育学講義とその批判』 1926, 372舶

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する」`62'とし,創造学習を地理授業の分野で展開したとき,政治(善),科学(真),芸術(美),経 済(刺),保健(健),宗教(信)に分かち,それぞれに対応する価値を類型化しだ63'。しかも,千 葉のこの初期作品は,世界空間の地理化だけでなく,地政的視点すら内包していた。生命衝動とそ の表現として学習は,これらの「融合帰一の表現」である(6°。したがって,独創主義教育は, 「一 人-主義」として「我の表現」を促し,根源性-の回婦表現の促進に他ならない。このことを言い 換えて,学習は児童の生命の「相談」 (consultation)の術だ,とかれは規定する〈65'。 千葉は,シュプランガーの講義やゼミに出席するなかで,その思想のドイツ語化を企て,

oOriginalitat und Alltriebsbefriedigung - Einleitung in die Originalitatslehre - " (『独創

性と衝動満足一独創論入門-』)を1924年8月ベルリンで刊行する。これは,故国でかれを追うに 至った問題作の外国での評価を問うためでもあり, 「ここ[本書]において[かれの]独創教育と [シュプランガーの]文化教育との交渉」`66'を探ろうとするものだった。た73-,それより前の1923 年1月,シュプランガーをその自宅に訪ねたとき,自ら説明したその言説は,シュプランガーから, その締神科学的見地とは「合致しえません」, 「自らやる外に仕方ありません」,と告げられていた。 したがって,本書の出版は,当初の意図もさることながら訪問の結果の面ももっていた。千葉の6 つの価値類型は,シュプランガーの6つの『生の形式』とおおむね共通したが,その内容はともか くその方法が違っていた。生(令)の構造論的かつ類型論的把握や理念型などでの類似はあっても, その基底は異なっていたからである。代ってシュプランガーから推薦されたのは,イギリスのスペ ンサー(H.Spencer)と,チュ-ビンゲンにいて生物学的,心理学的に美的享受を主題化してい たカール・グロース(K.Gross)だった〈67)。 上の『独創性と衝動満足』の序文で,千葉は4人の哲学者とベルリン大学の6人の師の,合せて 10人に謝辞を表明しているが,そこには日本人はいない。ナトルプ,フッサール(B.Husserl), リッケルト(H.Ricken),シェ-ラー(M.Scheler)の順に列挙され, 7番目にシュプランガー がいる`68'。このシュプランガーに受容されなかった千葉は,事実,訪問の1年半後に本書をドイツ の読者に問い,出版の1カ月前に, 4種の著書をとりあげ かつ30箇所で言及している首位のナト ルプに次に掲げるA4サイズ2枚の手紙を出した。 (62)千葉合音: (63)千葉合音: (64)千葉命吉: (65)千葉命吉: (66)千葉令書: (67)千葉命吉: (68) Chiba,M.: 『独創主義一教育価値論-』 1922, 1 『創造教育一軍新地理教授精義-』 1920, 725 『創造教育一自我表現の学習-』 1921, 101, 407 『独創主義一教育価値論-』 1922, 86f, 152, 220, 64 『文化教育学講義とその批判』 1926,序 『文化教育学講義とその批判』 1926, 470, 385で, 396倍

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