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などかなり厚い世話を受け,信頼もえていだ。インフレ期のドイツからすれば痛恨の事実だが,ナ トルプの蔵書が成城学園に移ったのには,山下が介在している。また,かれは,小原に頼まれて,
その弟が営むイデア書院がナトルプの『社会的教育学』を刊行する企画に翻訳許可を依頼するため
に,以下のようなA4サイズ2枚の手紙を代理で苦いたりした。これは同じくマールブルク大学中 央図書館の「ナトルプ文書」の所蔵になる千葉命吉の上掲の書簡と比べても興味深い。19924年4月4日,マールブルク
拝啓
ナトルプ先生
東京の私の友人小原博士から先生宛の依頼状が送られてきました。
かれは,ナト)レプ教授の『社会的教育学』の日本語訳刊行を望み,さしあたっては翻訳権 の入手をしたいとのことです。先生,ここにかれの名で本書の翻訳許可をお願いする次第で す。
小原博士は, 6年前に京都大学を卒業,哲学と教育学を専攻しました。現在は,私の勤務 校(東京牛込の成城学園)の主事を務めております。
今後とも小原氏は,ナトルプ先生の他の著書,たとえば『哲学と教育学』の翻訳も希望し, それにはかれの弟が東京で経営する「イデア(( ∂ 3 a)書院」を通じての刊行を望んでい ます。ほかにも哲学・教育学関係の雑誌[全人]の刊行計画をもち,東京大学と京都大学の 多数の第一線教授からの協力も承諾されています。この雑誌にも,先生の玉稿を頂戴できれ ば,とかれは念じています。
なお,いずれしかるべき時に,先生の側の条件を拝聴し,翻訳権料の支払いや雑誌原稿つ きましてもお話し申し上げます。
敬具
山下
(マールブルク大学図書館蔵「ナトルプ遺稿文書831号」 (105' (MS. 831 N [achlajも] Natorp)
ナトルプとのこのような関係の一方で,マールブルクでの山下はイエンシュ(B.R.Jaensch) の心理学に魅き込まれた。これはかれの研修中の事跡としては,高齢のナトルプとの関わりに劣ら なかった。また,教育学が哲学からと心理学‑とその基礎・隣接科学の位置を移行させつつあるパ ラダイム変容の背景現象があり,彼個人の心理的省察も無関係でなかったといえる。ペスタロツチ の通俗化された教育者像「夢みる人」の伝記的生涯‑の理想主義的な共鳴よりも,むしろコック版
(105) MS. 831N [achla即 Natop
『ゲルトルート』の序文にみられる「聖なる闇」 (ein heiliges Dunkel)〈̀06'に惹かれ,それと教育
の実践や方法の根拠づげとの関連で心理学に注目しはじめたからである。山下は,イエンシュが
「直観」 (アイデティーク)を思惟様式のひとつの位相とし,こどもを「直観者」 (アイデテイ カ‑)とするだけでなく人間類型のひとつとする理論にペスタロツチの教育方法上の原理である
「直観」 (アンシャウウング),宗教的,ギリシア的思惟,さらにくわえてかれ自身の心理・精神的 本質特徴も重ねようとしだ。そして1924年の冬学期から4学期間の2年間,山下はイエンシュの講 義,演習,実験に参加する。
これは一面でその夏にナトルプが死亡する時期と符合し,他面では山下の「哲学的研究と教育へ の態度には著しい変化が起こりつつあり」, 「教育の実際を指導しうる理論建設が私の中心課題で あった」̀107'からである。その心境をドイツとロシアの文学,なかでもゲーテやドストエフスキーを 愛読してきたかれは, 「道草を食うのだったら,なぜ緑の野にあって枯草を食ったのか」と,悪魔 メフィストフェレスに嘲笑されるファウストになどらえている。かれには当地での三木清もいわば
「メフィスト」として影響し,イエンシュは「理論建設」の補助者と映った。のちにナチスに追わ れアメリカに漉たるケ‑ラー(W.Ke血ler)などのゲシュタルト心理学,シュテルン(W.
Stem)の人格心理学などのドイツにおける有力な心理学とは,むしろ逆に山下には,その後の体 制に傾斜した「このイエンシュ教授のもとでのニケ年の勉強は幸福であった。」 「それはまた私のま ことに偽らない告白でもあります。」こう,兄事する小原に書き送る̀108'。
山下は,ペスタロツチの教育学をその日的からでなく方法から,初期から発展史的にではなくむ しろ後期から教育実践的に,ときに古代ギリシア的にすらとらえようとしていた。遺稿『白鳥の 歌』の有名な冒頭句「一切を試験せよ」を自らに銘C,帰国後の最初の論考「教育の本質より見た るペスタロツチの教育思想」 (1927) 〈109'にこのことを色濃くにじませた。それは,教育の本質を
「プシュヘ‑ [魂]のエンテレビ‑ [形相]の内面的発展,即ち芸術的創造に由る自己形成,そこ にのみ真の教育(ビルゾウング)が存在する」とする視点である[原文は頭点,ルビはママ] (110'。
この1927年の1月のペスタロツチ没後百年祭を機にデイルタイ派のシュプランガー,ノールらが リードする精神史的研究がペスタロツチ研究パラダイムの主流を形成し,スイス本国でも新しいテ
(106)ただ',この語は,正確にいえば『ゲルトルート』にはない。コック版の序文にはニーチターの痕跡が 否めず,そこにはかれの神学的かつロマン主義的着色がいわれる。山下がそれに染まっていることは 十分考えられる。 CD‑ROMテキストによれば『時代に』で1回(Bd. 14,S. 155) 『基礎陶冶の理 念草稿』で4回(Bd. 22, S. 13, 34, 55, 77)の合せて5回登場するだけである。 Pestalozzianum
(hg. V.) : Pestalozzxi Samtliche Werke and Briere auf CD‑ROM, 1994 (107)山下徳治: 『明日の学校』 1939, 47
(108)山下徳治: 「イエンシュ教授の心理学とその教育との関係について」全人, 1926/10, 21‑42 (109)山下徳治: 「教育本質よ.り見たるペスタロツチの教育思想」全人, 1927/1, 19‑45i (110)山下徳治: 「イエンシュ教授の心理学とその教育との関係について」全人, 1926/10, 21‑42
キスト「批判版」の刊行がはじまっていた(111'。しかし,山下はその方向には関知せず,むしろ別 方向をみていた。
マールブルクから帰国し,沢柳の死をはさんだ1年後の1928年3月,山下は,成城を辞職し,自 由学園に移った。これはかれのこれまでの人的,職業的関係の切断だけでなく,研究の転換を意味 した。そして留学前にかれが接していた自由教育論‑の評価は,たとえば 沢柳の『実際的教育 学』を「わが国唯一の教育書」としながらも,その外国受容の教育プランは「教育方法の自由主 義」の産物とし,そこに心理学化はあっても歴史性において決定的欠陥をもつとみるに至る̀'12)。
また,干葉を「懇意的哲学概念の所産にして問題外」とし,その主張に「あきれた」〈‖3'。輔的にい えば 自由主義にアナーキズムの危険性を,歴史性にはマルキシズムの史的唯物論の必然性をいわ ば公式的に信じるまでになった。
それだけに,羽仁の自由学園で半年余りした1928年11月,かれは,ふたたび国外に出る。目的地 はドイツを経てのモスクワだった。人民教育委員ルナチヤルスキー(A.W.Lunaeharskij)への
紹介状は佐賀の後藤新平伯爵が書き,資金は長崎の資産家熊本利平が支えた。当地での1カ月半で
ソ連の文部・党関係の首脳との会見,研究者訪問,関係諸施設の視察など,その対外文化連絡協会 によって当局の筋がきどおりに案内された。この訪ソの至上課題だったルナチヤルスキーとの会見では,その「公教育の思想と不可分な一つ の観念として政治宣伝と共産党の発展がある」とする基本戦略を山下は「想起した」という。人民 教育部の長にしてレーニンの未亡人クルブスカヤ(N.K.Empskaja)とは,先方の病気のために 会えなかったが,彼女の功績を絶賛し,シャツキー(A.C.Schatzkij)とその学校を教育実践の 範ととらえ,滞在中に再訪したのはこの場合だけだった。ドイツ留学以来,ソ連の教育体制のイデ オロギーに加え,そのカリキュラムの現実的有効化を理論的に根拠づけるために心理学を重視して きた山下は,ドイツ側の心理学パラダイムと異質なバッソフ(M.Y.Basov)やヴイゴツキー(し.
S.Vygotskij)などを訪問,日本の新教育を意識して,その国際連帯やアメリカの授業プロジェク トへの評価を聴き取りもした。また,大学や行政のいく人かの幹部と接触し,教育学教育,教師教育, 青少年の社会教育,保育所などの制度機構を案内され,その現状に新鮮な刺激や教示をうけた̀1'4'。
山下のこのソ連訪問の報告は,現地でえだ資料で作成され,いちはやく「新興科学の旗のもと
(111) Miyazaki, T∴ Pestalozzi uno seine Lek点心C, 1992 ;宮崎俊明: 「ペスタロツチ研究の変遷と新動向」
教育学研究, 48/2, 1981, 48‑56
(112)山下徳治: 『明日の教育』 1939, 93, 25, 112 (113)山下徳治: 『明日の教育」 1939, 25
(114)山下徳治: 『新興ロシアの教育』 1929, 103
に」 「プロレタリア科学」などの雑誌に掲載された。さらにこれらはまとめられて単行本『新興ロ シアの教育』 (1929)として上梓された。 「三木清氏と羽仁五郎氏には直接本書の成立について負う ところが多い」〈115',と謝辞を表明している。かれの最初の単著となった本書の内容は,自身関心を もち,帰国後自ら邦訳する『ソヴュートロシア印象記』 (1930)の原著者デューイが発表した革命 後のソ連旅行(1928)での懐疑的印象(1928)をつづり,同じくアンドレ・ジード(A.Gide)が 最初は賞賛し希望をもちながら,その後ただちに修正した紀行文(1927)とは違っていた佃。まだ,
かれより4年先に「教育の世紀」の代表編集人志垣寛が「真相を視んが為に赤露の教育巡礼を思ひ
たち」,その『ソウエート・ロシア新教育行』 (1926)が冷静な記述をしていたのに比べれば,山下 がみせたのは熱烈な賛美そのものだった(117'。山下の場合,とくにデューイとは時期も期間も,その視察対象もかなり類似しただけではない。
かれは上の訳書に長い序文と駿を書くが,このふたりのソビエト・ロシア‑の評価は極端に相違し た。デューイはソビエト・ロシアの現況を歴史の移行(transition)段階とし,社会学的 (sociological)な視点,なかんず教育のアングルからみつめながら,そこに「革命の成功と共産 主義の失敗」という逆説,人々がみせる抑圧された歴史社会的心性(メンタリティ)や抑欝状態
(state of Flux,ママ),さらに半東洋的(semi‑oriental)特質,これらの視点や限界を指摘し
た《1'8'。これに反し山下は,史的唯物論の決定論的公式への信奉,教育にたいする経済と政治の優 位, 「プロパガンダは教育であり,教育はプロパガンダである」とする宣伝‑教育同一視論,教育
における組織と方法の集団主義,これらを全面的に肯定して高く評価した(119'。
デューイは,ソ連革命とその教育の現実に「マルクス主義のドクトリンと,人間の可能性‑の宗 教的ともいえる信念というソビエト公認の神学(Soviet o飾cial theology)とのあいだの不一 致」をみ,そこに「教育からコミュニズムへ進む巡礼者の進歩の物語」 (story of the pilgrimls progress五〇m pedagogy to communism)1(120'を読んだ。こうしたデューイに対し山下はいう。
「私は,本書の決定的誤謬であるデューイの『経済的・政治的革命と心理的・道徳革命』の関係を 考察し,かれに残存する観念論的不可知論者の態度を吟味しかつ批判しておきたい。」 ̀121'さらに加
(115)山下徳治: 『新興ロシアの教育』 1929,序, 4f
(116)ジード, A∴ 「ソヴェト旅行記」 (1926), 「同修正」 (1927)小松清訳『ジード全集』 12, 1950, 3‑
93,95‑204
(117)志垣寛: 「ソウエート・ロシア新教育行」 1926, 2
(118) Dewey, John: Impressions of Soviet Russia, 1928言n: John Dewey, the Later Works, 1925‑1953,
Vol. 3 : 1927‑28, 1984, 222, 229, 229, 108
(119)デューィ, ∫. 『ソヴュート・ロシア印象記』,山下徳治訳, (1930)序,1‑ll
(120) Dewey, John: Impressions of Soviet Russia, 1928言n: John Dewey‑the Later Works‑, 1925‑1953,
Vol. 3: 1927‑28, 1984, 246, 227
(121)デューィ, ∫. 『ソヴュートロシア印象記』山下徳治訳, (1930)序, 3‑4
えてかれはデューイに「矛盾撞着」,ソ連の文化建設の意義‑の「基本的無理解」, 「ブルジョア的 偏見」といった左翼的常套句を列挙した。22'。これらの点でかれのこの翻訳書は,日本の外国教育 紹介の類書とは逆に,自己主張と他者攻撃のための典型的な戦略的出版物となった。訳者山下の概 念上の若干の先入見や不鮮明な「文化」概念のもちこみなどは除くとしても,排撃の標的はデュー
イとアメリカの社会体制に設定されていた。
山下がマールブルクで関心をもち,とくにその7年後に日本の代表的教育家叢書(岩波書店)の
『デューイ』を担当,戦後も『ペスタロツチからデューイ‑』を公刊するだけに, 『新興ロシアの 教育』も含めてこの翻訳書の長い駿が,かれの思想・研究過程での転向の証言や証拠となるかどう か,問題は単純でない。この『デューイ』は,きわめで穏やかな紹介だし,著書山下もいい,かつ その内容も裏書きするように, 『ペスタロツチ』も,その正式タイトルの「から」と「へ」は,む
しろひとつの「か」に置き換えられるべきであった。ここにも,時代の先端を走り続けようとし, それゆえに言説に不統一をみせたかれの姿があろう。
『新興ロシアの教育』における山下のソ連教育の把握の方法については,ここで最小限次の2点 は留意されてよい。ひとつはソ連の新興教育の根本原理をマルキシズムと史的唯物論にたつことで,
「社会性,現代性および階級性」でとらえ,教育の政治化を指向した,点にある。しかし,そこでの
「教育革命」の方向を「文化革命」ととらえ, 「既成文化と既成文明の廃棄と敗減を意味しない」
とした(123'。その政治教育は宗教を分離するが,そのイデオロギー性格において「宗教的」である。
政治と教育との関係を「日本建国の根本思想である『祭政一致』にも現れている」 。24'とし,青少年 ピオニールと政治学校,党学校,共産党大学での政治教育機関には「日本古来の武士道的教育にお けるが如く,共産主義的精神を養成している」(125'として教育方法での日ソ同一視とエリート主義を 標梼している。この奇妙なぶたつの文章には図書検閲に対する政治的カムフラージュの語法ないし レトリックとみることもできる。もしそうでないならば かれの教育言説の思想的節操や研究水準 が問題になるしかない。
もうひとつの留意点は,本書に長いプロローグを設定して, 「ペスタロッテ」に教育を象徴させ,
「緊縛の」 「解放の」 「火を点ずる」を冠した三つの「ペスタロツチ」として位置づけた山下の歴史 の把握ないし展望とそのレトl日ソクである.̲かれは,まず, 「ペスタロツチ」の近代性ないし啓蒙 への使命を近世のコメニウス(J.A.Comenius)やロック(J.Locke)を批判的に継承したとし
(122)デューィ, ∫. 『ソヴュートロシア印象記』山下徳治訳, (1930) 4, 5, 99 (123)山下徳治: 『新興ロシアの教育』 1929, 31‑38
(124)山下徳治: 『新興ロシアの教育』 1929, 205 (125)山下徳治: 『新興ロシアの教育』 1929, 163