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1930年代日本における戦時財政政策の展開

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(1)

1930年 代 日本 における戦時財政政策の展開

藤 田

*

I

高橋財政か ら馬場財政ヘーー戦時財政の原型 Ⅱ 馬場財政か ら結城財政ヘーー軍財抱合財政の成立 皿 結城財政か ら賀屋財政ヘーー官僚財政の展開 Ⅳ 賀屋財政か ら池 田財政ヘーー軍財抱合財政の進展

I

高 橋 財 政 か ら馬 場 財 政 ヘ ーー 戦 時 財 政 の 原 型

1.は

じ め に一 問題 の所在一 本稿の課題は

,1936年

2・26事件 を前後 して展開された「 高橋財政

Jと

「 馬場財政

Jを

とりあげ, 各財政を担 った高橋是清 と馬場鋏一の財政政策お よび財政政策思想 を比較検討 した うえで,「高橋 財政

Jか

ら「 馬場財政

Jへ

の移行 のもつ歴史的意義を考察す ることにある。 この種の研究にとって参考 となるものとしては

,大

蔵省昭和財政史編集室『 昭和財政史』全18巻, 日本銀行調査局特別調査室『満州事変以後の財政金融史』(1948年

),大

蔵省百年史編集室『 大蔵省 百年史』下巻 (1969年), 日本銀行資料調査室『 日本銀行八十年史』(1962年), 日本銀行百年史編 纂委員会『 日本銀行百年史』第

4巻

(1984年

)な

ど官庁の公刊物があ り

,い

ずれ も高橋財政や馬場 財政の研究 にとって不可欠の文献であるが

,本

格的に高橋是清 と馬場財政の財政政策思想を両者の 比較で論 じた研究は

,林

健久氏の「 フ ァシズム財政 の原型一一馬場鋏一蔵相論一―」1)であろう。 林氏の論文は

,

日中全面戦争の勃発に先だつィ弓場鋏一蔵相の則政政策思想 とその財政政策のなかに, 戦時財政の原型を認めようとす るものであ り

,馬

場財政を財政政策思想面か ら論 じた優れて先駆的 な研究である。 さ らに先述 した本節の課題か らい っても

,馬

場 の財政政策思想 を高橋是清のそれ と 対比 して論 じられてお り

,極

めて典味深いものである。だが林氏が

,馬

場鎖―の財政政策思想 に焦 点を合わせたことか ら

,高

橋是清の財政政策思想 に対す る理解の不十分さはまぬがれ なか ったので あろう。次のような記述 には首肯 しえない。 「軍事費の生産的性格 を強調 し

,そ

れ ゆえその増加 も恐れ るには及ばぬという主張は

,フ

ァシズ ムない し戦時期 には多 くの国において展開された。 日本でいつ ごろ誰 によってそれがは じめて真正 面か らとりあげ られたのか定かでないが

,大

蔵大臣クラスで こう した主張を公 に したのは

,馬

場を もって晴矢 とす るのではあるまいか。少なくとも

,こ

れは高橋是清 とはかなり対照的な議論であり, ………J2)。 実は

,高

橋是清蔵相 も軍事費の生産性 について

,馬

場 と同様 の ことを述べた ことがある。高橋は

(2)

藤 田安一 :1980年 代 日本における戦時財政政策 の展開 言う一 「 軍事費の増加 に関 しては

,色

々と議論もあるけれ ども

,

しか しなが ら, これは今 日内外 の情勢においては

,国

家の存立上真 に己むを得 ざるものであるのみ な らず, これ とても国民の生産 力

,経

済力の進展力を阻害す るほ どではなく

,寧

ろ我国最近の産業界 に刺激 を与へているもので, この意味か ら見 るな らば他の公共事業や土木事業 を起 こすのと

,そ

の効果 においては大 なる隔た り はないとも思はれよう。J働 この限 りで

,高

橋蔵相は容易 に軍部 と協調 しえたのである。要す るに, 高橋財政 と馬場財政 との違 いを軍事費の生産性を認め るか否かで区別できないところに

,両

財政 を 評価す る際の困難性の一端がある。 したが って

,高

橋是清 と馬場鋏一 との財政政策思想の共通面 と 異質面 について一層深 く研究 し

,そ

の研究成果 を前提に

,高

橋財政か ら馬場財政への移行が示す歴 史的意義を考察す る必要性を痛感せ ざるをえない。 以下

,次

の順序で本章の課題 に接近 してい くことに しよう。 まず第1に

,馬

場財政 を登場 させた 歴史的かつ経済的必然性 を

,高

橋財政 の展開 とその帰結の なかに位 置づける (「

2.高

橋財政 の 『成功』 と破綻」が この課題 にあて られ る)。 第2に

,高

橋財政 を修正 した馬場鋏―の財政政策思 想を高橋是清のそれ との比較で検討す る (「

3,馬

場鋏一蔵相 による『 高橋財政の修正』」カミこの課 題 にあて られ る)。 第

3に

,高

橋 と馬場 との財政政策思想の比較 を

,再

,財

政 と国民経済 との相 互関係 に対す る対応 の し方か ら再検討 し,「高橋財政

Jか

ら「 馬場財政」への移行が もつ歴史的意 義について考察す る (「

4.戦

時財政 と国民経済」が この課題 にあて られ る)。

2.高

橋 財政 の 「成 功」 と破 綻

1936(昭

11)年

11月26日

,馬

場鎖一蔵相の手による

1987(昭

12)年

度一般会計30億

4千

百余 万円の概算案が閣議 に提 出された。前年度の実行予算を超 えること約

7億

3000万円のこの前代未聞 の膨大 な予算案が

,笑

談のうちにわずか1時間20分で閣議 を通過 し

,あ

ざやかなス ピー ド記録をう ちたてた。 これ に比べて

,前

年 (1936年

)度

予算の概算決定が前後 5日 間にも及 び

,最

後の予算閣 議が午後

4時

か ら翌朝の

7時

半 まで

,夜

を徹 して延 々15時間にわた る長時間記録 をつ くったのと, まさに対照的であ った。蔵相高橋是清の最後の手による

1986(昭

11)年

度予算閣議が紛糾 した原 因は

,陸

軍か ら新た に提示 され た「 作戦資材整備費用

Jと

い う名 の軍事費 の上積 み要求 に対 し, 「 財政の生命線

Jを

死守 しようと した高橋大蔵大臣が執拗 な抵抗を したためである。 これは

,出

席 閣僚か ら

,ほ

とん ど異議 らしいものが示 され なか った

1987(昭

12)年

度予算閣議 に比較 し

,ま

さ に隔世の感をいだかせ ると同時に

,高

橋財政 とはかなり違 う馬場財政の展開を予想 させ るのに十分 であ った。 周知のように

,馬

場鎖一蔵相の誕生の背景には,2・ 26事件 とその直後 における陸軍の広 田内閣に 対す る露骨 な政治干渉 を無視す ることはできない。だが

,そ

の政治的影響をひとまずお くと しても, この馬場財政 を生み出 した歴史的経済的必然性 については

,前

蔵相高橋是清による高橋財政の展開 とその帰結を中心 と して

,は

じめに一瞥 してお く必要があろう。 世 にいう「 金解禁

Jが ,井

上準之助蔵相 によるデフ レ政策 と折か らの世界大恐慌 の影響 によって 挫折 した後

,大

蔵大 臣に就任 した高橋是清が直面 した課題は

,大

規模 な赤字国債 の発行 とそれを財 源 とす る積極的財政政策によ って

,尚

州事変以降の軍事費を確保す るとともに

,昭

和恐慌の影響 に よる景気の沈滞を回復す ることにあ った。 さっそ く高橋蔵相は, この課題 に対処す るす るため金輸 出再禁止を断行 し事実上の管理通貨制度 に移行 させた後

,低

金利政策 と日銀引受け公債発行 による インフ レ政策をとって景気回復を図ろうと したのである。 インフ レーシ ョンの生産的効果 を見越 して発行された膨大 な公債が

,国

民経済の発展 をもた らし,

(3)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

2巻

2号

(2001) 49

公債 自身の消化 も順調に行 なわれているうちは問題はない。事実

,国

債残高の急激 な累積 にもかか わ らず, この間わずかな銀行券発行高の増加をみただけで

,物

価指数は1986年頃までほぼ安定 して いた。他方

,1931年

か ら36年までに鉱工業生産は約

2倍

の急成長をとげ

,貿

易額 も

2倍

以上の増加 を示 し

0,国

民所得 も飛躍的 に増大 してい ったの。ではインフ レを抑え, こう した国民経済の発展 を可能に した理 由は どこにあ ったのであろうか。それは幸 いにも

,こ

の時期

,わ

が国の生産力に余 裕があ ったためである。。 なぜ な ら

,公

債 の発行で通貨量が増大 しても

,そ

れが遊休資本や遊休設 備を動か し物資の供給を増加 させ ることが出来 るならば

,通

貨量の増大は物価騰貴 を引き起 こさず にすむか らである。 これが

,高

橋 による膨大 な赤字公債の発行にもかかわ らず

,極

カイ ンフ レを抑 えなが ら国民経済の回復がはか られ

,か

つ公債の順調 な消化を可能に した経済的基盤であ った。 こ うして

,高

橋財政 による積極的財政政策は

,収

縮の極 にあ った国内市場を拡大 し

,軍

需産業 と低蒲 替を利用 した輸 出関連産業に牽引 され

,

日本は早 くも1932年の下半期か ら他国に先駆け恐慌回復の 局面 に入 るのである。 しか し

,高

橋財政を「 成功」に導いた この基盤は

,そ

う永 くは続かなか った。む しろ

,高

橋財政 がその成果を発揮す る過程そのものが同時に

,新

たな矛盾 を生み出す過程で もあ った と言 った方が 適切であろう。 この兆候は

,す

でに1934年以降みえは じめてきた。皮 肉にも

,高

橋財政の政策効果 が発揮され景気が回復す るにつれ て, これ まで存在 していた生産余力が底をつき

,企

業の設備投資 が活発化 し

,企

業の外部資金依存が急激 に高まってきた。そのため市中銀行 にとっては

,

日銀が売 却す る公債 に資金 を投下す るよりも

,民

間企業 に資本をまわ した方が有利 になる状態が生 まれてき たのである。結果は

,1934(昭

9)年

を ピー クに 日銀引受公債の消化割合の低下 となって現われ た。明 らかに

,

日銀の公債背負い込み となり

,膨

張 した通貨は 日銀の統制力が及ばない悪性 イ ンフ レヘ進展す る様相 を呈 してきた。 さ らに

,景

気回復 にともなう企業の活性化は

,設

備投資資材や原 材料の輸入を増大 させ

,低

為替を利用 した 日本の輸 出攻勢 に対抗す る世界各 国の輸入制限措置の強 化 とともに

,わ

が国の国際収支を含 々に悪化 させてい った。か くして

,増

税 を避 けなが ら赤字公債 の発行によるイ ンフ レ効果 によって景気を回復 してい く財政は

,こ

こで完全 に行 き詰 まって しまっ たのである。 この事態 にいた って高橋蔵相は

,悪

性イ ンフ レの最大の原因となっている赤字公債 の発行を抑制 すべ き「 公債漸減政策

Jを

かかげ

,軍

事費の削減 を言明す るようになる。高橋 は言 う一 「 か りに 国防上の計画と雖 も

,若

し国民がもう公債 を咀啜す る力がないのだ と云ふ ことになれば

,其

国防は 名ばか りで

,実

がないと同 じである。 いざと云遮ゝ場合 にそれを活用す ることが出来 ない

,画

に描い た国防と同 じものである。国防の経費 と雖 も十分に賄応、ことが出来 ないと云応、事情が其処 に起 こっ て来 るのである。それ故 にこれ以上公債 を発行 しても国民の消化力がないと云応、や うな場合 に臨め ば

,国

防費 と雖 も己むを得ず打ち切 らねばな らぬ。

J0

2・26事件 に至 る高橋蔵相暗殺の直接的要因が

,こ

う してつ くられてい ったのである。

3.馬

場鎖 一蔵相 に よる 「高橋財政 の修 正 」 1)「準戦時」財政の登場 馬場鋏一が大蔵大臣の席 についていたのは

,わ

ずか11カ月間のことであ った。 しか し,2・26事件 という未曽有のクーデターの直後だけに

,今

後 日本の財政経済政策の舵主である蔵相馬場鋏一の一 挙手一投足が世間の注 目を集めた。 さ らに 日本財政史上

,松

方正義 と並遮ミ財政家 と してその手腕 を 認め られていた高橋是清の後任であ っただけに, なおさ ら馬場新蔵相への注 目が集 まった。

(4)

藤 田安一 :1980年 代 日本 におけ る戦時財政政策の展開 このことを馬場は意識 してか, 自己が とる財政政策を「 非常時」財政 に対す る「 準戦時

J財

政 と 位置づけた。「 非常時」財政 とは

,高

橋財政の別名であ り

,内

には昭和恐慌か らの脱 出

,外

には満 州事変への対応 とい う

,内

外 にわた る困難 な課題 を背負 って健全財政の放棄を余儀 な くされた財政 という意味であ った。馬場鋏―は2・26事件 の衝撃 を 目の当た りに して,「F常

Jよ

りもさ らに体 制の危機が切迫 した という意味あいをこめて「 準戦時

Jと

いう言葉を使 ったのである。現在

,普

通 に満州事変か ら日中全面戦争の勃発 までの時期 を「 準戦時体制

Jと

呼応ミが

,こ

の準戦時体制 という 語は当時一大セ ンセーシ ョンを拾 き起 こ したいわ ゆる「 馬場税制改革」 とともに

,馬

場鋏―の暑を わが国の昭和史 にきざみ こむ ことになる。す なわ ち馬場鋏―が蔵相に就任 して間もない1986年10月 2日

,関

西財界人 との懇談会に臨んで

,税

制改革案の内容を説明 した際に

,彼

は次のように述べた。 「 明年度予算 と して 目下要求されているものは標準予算約18億のほかに国防強化

,国

民生活安定, 産業振興 などを 目的 とす る新規事業費が14億あ り

,合

併32億余円の巨額に達 している。今後 これを いかに査定す ると してもその結果財政の膨張 をみ ることは明 らかであ り

,殊

に新規事業費の可成 り の部分は経常費 となること明かであるか ら, これ に対処す るためにどうしても増税 によ り経常収入 の増加 を計 らざるを得 ない

,殊

に現下の情勢は財政 について準戦時経済体制の採用 を必要 な らしめ てを り今回の税制改革案はこれ らの事情を考慮 して立案 したものである。J働 (傍点は引用者) 準戦時体制 なる新語を造出 し, このなかに自己の財政政策を位置づけようと した ところに

,高

橋 財政 とはちが う馬場財政の意義を強調 したいという

,馬

場鋏―の気負 った姿勢があ りあ りとうかが われた。馬場が蔵相 に就任す る際お こなった次の声明は

,こ

の「 馬場財政

Jの

特徴を強 く印象づけ るものとなった。 「 私が刻下の財政経済に付て考へて居 ります ることは

,我

国が対満政策の遂行 。国防の充実・ 農 山漁村経済の更生 。その他国力の仲張 。日本の培養上幾多重要なる国策の実現を要 し将来歳 出の減 少を予想す ることは恐 らく不可能であるのみ な らず

,或

いは更に新たなる国費の増加 をも覚悟せね ばな らぬ実状 に在 る際

,歳

出の一部を公債 に依 り支弁す ることは固より何等の差支はな く

,又

今 日 公債の発行が行詰 ま りつつあるものとは考へ ませぬが

,普

通歳入をその侭 に して何時迄 も非常時的 赤字財政の形を続けて行 くことは適当でないと見て居 ります

,従

って速かに将来におけ る歳 出の見 通 しを付け

,之

に対す る歳入計画を樹立す ると共に普通歳入 を増加 して財政の基礎 を強固な らしむ べきであると思ひます,… …・以上私の考へて居 ります ことは

,前

内閣の財政方針 とは相 当の差呉が あるものと認めます … J9。 この馬場の声 明には,「高橋財政の修正

Jの

内容 と して

5点

のことが唱われ ている。第1に国防 充実

,第

2に

公債漸滅主義の放棄

,第

3に

増税 (税制改革

),第

4に

低金利政策

,第

5に

財政計画 の樹立が これである。要す るに

,高

橋前蔵相が軍事費を抑制す るためにかかげた公債漸滅主義を放 棄 して

,国

防の充実を計るために軍事費の膨張を認め

,そ

のための財源確保 に公債の増発 と増税を 行 ない

,こ

の増発す る公債消化を円滑にす る手段 と して

,い

っそうの低金利政策を遂行す る

,そ

し てこれ ら相互密接 に関連する諸政策を

,一

定の財政計画を樹立 して運用 しようというものであ った。 そ こで まず私は

,馬

場鋏一蔵相が 自らの財政政策の特徴 と してあげた以上

5点

の内容 を

,高

橋是清 前蔵相 との比較で検討 してみ ようと思 う。

2)高

橋財政 の修正

(1)国

防の充実 2・26事件直後

,広

田内閣の組間に際 して示 された陸軍の露骨 な横や りは

,入

閣予定の閣僚か ら自

(5)

鳥取大学教育地域利学部紀要 地域研究 第

2巻

2号

(2001) 51

由主義者の排除を要求 し

,さ

らに寺内陸相の入閣の条件 と して

,大

陸政策の強行

,軍

備の充実

,国

政一新を国策の中心 とす るように強制す る内容であ った。だが広 田首相 は

,同

じく陸軍が要求 した 軍部大臣武官制 とともに

,こ

れ らの要求を黙 々と承諾 した。 この広 田首相以上に軍部に協力的であ っ たのが蔵相馬場鋏一であ り

,馬

場が広 田内閣の組閣参謀 と して

,ま

た政策全般の委員長格 と して活 躍 した ことが

,広

田内閣の親軍的性格を決定づけ る重要 な要因となった。馬場蔵相 の財政経済政策 における軍部への配慮が

,軍

部 自身をも驚かす寛大 さであ った ことは

,1937年

度予算閣議 における 膨大 な軍事費の承認 によって

,す

でに立証済みであ った。す なわち,「国防の充実 に関 しては

,現

下の国際情勢 に鑑み財政の許す限 り之を認め

,相

当多額の経費を計上致 した」lω のである。 馬場は軍事費の膨張を正当化す る根拠 に

,こ

れ もまた

,当

時軍部やその支持層か ら盛んに唱え ら れていた軍事費の生産性論を採用 していた。馬場 は言う一 「 世間では国防費 といふものを非常 に 不生産的の経費だ とい応、声が沢山ある。私は国防費に対 して不生産的 といふ言葉 は使はない。唯直 接生産的

,再

生産的効果のないものは多いが

,併

し国防費は不生産的だ と言ふ ことは余程慎 まなけ ればな らぬ。……国防費は或 る意味に於 て堤防を築 くのと同 じだ。詰 り堤防を築 いて洪水の氾濫が なか った といら、効果が堤防に依 るのであるならば

,国

防を充実 してあるが為 に外 国と戦争 しないで 済む

,或

は国防のお陰で以て吾 々の民族の海外発展が大いに出来 る。国旗の翻 る所即 ち我が商権の 進出す る所

,或

は民族の進 出す る所だ と考えていけば

,寧

ろ生産的だ と言 った方が宜 しいぢゃない か。況や今 日の軍需工場 とい応、ものは

,造

船業

,重

工業或は軽工業の発展 に非常な稗益 を蒼 して居 るとい応、事を海軍 などは堂 々と述べて居 る。 さう考へて来 ると

,国

防費は不生産的ならず して生産 的だとい応、議論 も立つ と思うのであ ります。J lP 大蔵大 臣の立場か ら,「軍事費の生産性

Jを

このように認識 していた者は, なにも馬場だけでは ない。1980年代 に入 り

,軍

事費抑制のシステム化を金本位制への復帰によって果たそうと した井上 準之助蔵相は別格 と しても

,高

橋是清前蔵相 は軍事費の生産的性格 を

,石

橋湛 山との対談のなかで 次のように述べた ことがある。「 成 る程国防は直接生産は しない,カミ国防に使 う金 は

,大

に生産 に 関係を持 ってゐる。国防の為めには

,材

料も要 る

,人

の労力も使はれ る。其等の人の生活が之に依 っ て保たれ る。だか らl‐tへた軍艦そのものは物 を作 らぬけれ ども

,軍

艦 を造 る費用 は皆生産的に使は れ る。それか ら船が出来た後で

,又

之を維持 して行 くには

,石

炭 なり

,油

なり

,人

なりが入用だ。 矢張人を養 う働 きをす る。国防は無論生産に関係が なくとも

,そ

れはそれ と して必要であるが

,併

し之を不生産的 と見 るのは穏 当ではなかろう。J129こ のように高橋が

,1934(昭

9)年

の ことと はいえ

,当

時の状況下で軍備 の生産性を説 くことが軍事費への警戒心を鈍 らせ

,時

と して 自らその 手綱 をゆるめ る結果 になった責任 はまぬがれ ない。文字 どうり

,こ

れが高橋是清の命取 りとなる。 ともあれ

,高

橋是清 も馬場鋏一 と同様

,軍

事費の生産性を主張 し軍備の拡張それ 自体を否定 した わけではない。 この限 りで

,両

者の相違はないと言える。違 いは次の点にあ った。高橋が対外政策 の基本 と して

,外

交手段 による「 平和

J的

な交渉が第一義であ り

,軍

備はそれを有効にす るための いわば「 必要悪」であるという立場に立ち, なるほ ど国防の充実は重要ではあるが, なるべ くこれ を最低限にとどめなければ国の財政は耐えきれ ない。形式だけ軍備が ととの ってもダメである。外 交と国防および財政

,こ

3者

が調整 されて初めて 目的を達す ることができると主張 し

,軍

部 と激 しく対立 したのである19。 それ に対 して

,な

によ りも馬場は,「兎に角議論は別 と して国際関係

,国

際的の環境か ら言 って, 我国の国防費の増加 とい応、事は好む と好 まざるとに拘 らず己を得ぬ ことであるJ10と して

,軍

事費 が増大 してい くことを自然の流れ と受け止めた。 ここに

,満

州事変への対応 を大義名分とす る軍部

(6)

藤田安一:1930年代 日本における戦時財政政策の展開 の合頭 と政治的発言力の拡大 を抑え

,軍

事費の膨張を抑制 しようと した高橋前蔵相 との決定的とも いえる相違があ り

,馬

場蔵相の現状肯定的姿勢がよ く表われている。馬場のこう した政治姿勢を非 難す る者は

,彼

を時局追随のオポチ ュニス トと呼び使乗主義者 と称 したが

,馬

場に言わせれば

,抗

しえぬ時代の流れに従 ったまでのことであると言いきるであろう。 このような人物を大蔵大臣に得 たことは

,満

州事変を契機 に政治的発言力を飛躍的に増大 させ

,そ

れを 自然の流れ と認めさせ るこ とに努めていた軍部 にとって

,ま

さに強力な後援 を得た ことを意味 したのである。

(2)公

債漸減主義の放棄 「 公債漸滅主義

Jと

,高

橋蔵相が1986年度予算編成 を前 に した

1935(昭

10)年

6月 に

,明

年 度予算編成の根本方針 と して打ち出 した もので

,税

の 自然増収分だけ赤字公債の発行を減 らす とい うことをその内容と し

,軍

部による過大な軍事費の拡大要求を

,辛

う じて抑制す る唯一の拠点となっ たものである。馬場鋏―は この方針を一蹴 し,「私は実は赤字公債 をそんなに恐れ ない。恐れた と ころで出さなければ な らぬものは出さなければならぬJlの と述べて

,巨

額の財政資金を公債発行 と 増税に求める政策転換 を行 った。だが馬場 とて

,膨

大な公債発行 にともなう公債消化問題に 日をつ むるわけにはいかない。そこで

,馬

場財政の「 革新

Jの

目玉である統制経済

,と

りわけ金融統制の 指向が公債消化 に関わ って登場す ることになる。馬場は言う一 「 この公債 を引受けさせ る途 を講 ず ることは幾 らも外 に方法があると思応、。例へば今 日預金部で引受けて居 る公債をモ ッ ト余計に増 すとか

,簡

易保険で引受けて居 る公債 をモ ッ ト増す とか

,或

は鉄道であるとか印刷局であるとか, 事業をや って居 る官庁の共済組合は皆公債を持たせ るとか

,或

は今 日の保険会社或は信託会社にモ ッ ト公債を持たせ るとかい応ゝ事は

,行

政手段

,法

律手段を以てや っても宜 しい。Jお) このような公債政策の転換は

,高

橋前蔵相が最悪の事態 と して

,極

力それを避けつづけてきたも のであ った。高橋は当初か ら

,赤

字/AN債の発行を継続 してい くつ も りはなく

,や

がて景気が回復す るにつれ て

,そ

の歴史的使命を終えるものと考えていた。高橋 は言 う一 「 赤字公債 はよ くない。 しか し一昨年来の経済界の情勢か ら見て政府がまず刺激剤を与えねばな らなか ったのである。金融 は極度に梗塞 して資金は得 られず

,資

金 のあるものも事業を拡張す る勇気 も挫けている有様である か ら

,そ

れ故 に刺激剤 と して赤字公債 が生 まれたのであ る。」口)したが って

,高

橋蔵相 にと って 「 赤字公債の発行は健全財政に立直 るための手段

J10で

あ り

,赤

字公債が国民経済の「 刺激剤

Jと

して

,そ

の役割を果た した後は漸滅され るべ き対象であ った。

(3)増

税 (税制改革) 高橋財政下においても

,大

蔵省内では絶えず増税計画が立案 されてきたЮ)。 だが

,高

橋蔵相は一 貫 して増税や新税の設立を回避す る姿勢をとり

,毎

年の歳出増加 に必要 な財源は

,既

存 の税制構造 か ら生ず る自然増収 によ って賄 うという態度を堅持 しつづけたのである。 とはいっても

,高

橋は増 税そのものに反対 したわけではない。増税は時期 尚早であると して

,と

りあわ なか ったまでのこと である。その根拠は

2点

ある。第1は

,い

ま増税をすれば

,せ

っか く立直 った景気の芽 を摘み とる ことになる。第

2は

,現

在の景気上昇 によって

,か

なりの収益 を得た者があると しても

,彼

らは税 以外の各種の寄付金 を負担 しているので

,増

税によ って貧富の不均衡 を是正す る必要 はない

,と

い うものであ った。 と くに後者は

,た

びたび高橋が議会の答弁で披露 した ものである。 事実

,高

橋財政下 においては少額の減免税を除 くと

,藤

井真信蔵相 によって一部の産業の増加所 得に対 し臨時的 な利得税 (臨時利得税

)が

創設された程度で

,租

税構造 には大 きな変化はみ られ な い。 この意味か らも

,1987(昭

12)年

度予算で明るみに出た馬場の増税計画は

,ま

さに画期的で あ った。す なわち

,法

人所得税を

8割

,個

人所得税を

3割

も増徴 し

,従

来の源泉課税の利子所得 を

(7)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

2巻

2号

(2001) 53

総合課税 とし株式配当の

4割

控除を廃止す る。 また財産税を新設 し

,相

続税 も10割程度の増税 を計 画を した。さ らに

,間

接税 についても

,酒

税・ 砂糖消費税等の

2割

,織

物消費税 を

1割

増税 し

,売

上税や揮発油税

,有

価証券移転税を新設 した。 これ によって1937年度は約

4億

2000万 円の増税 とな り, このうち地方財政調整交付金の

2億

2000万 円を差 し引いても

2億

円の増収が見込 まれたのであ るか。 前述 したように高橋財政の展開は

,徐

々に公債消化の低下 にともなう悪性 イ ンフ レの兆候 と国際 収支の悪化 となって

,そ

の財政政策の弊害を顕在化 させ

,増

税を避けつつ赤字公債 の発行 に依存 し て景気を回復 しようとす る高橋財政は完全に行 き詰 ま っていた。 とはいえ

,大

規模 な増税計画が社 会に与え るシ ョックを考慮 してか

,馬

場蔵相 はあえて増税 という語 を避けて,「中央地方を通ず る 税制改革

Jと

称 し

,そ

の意義を強調す ることに努めた。馬場は言う一 「 今回の税制改革は

,其

の 意義に於 ても指又其の規模 に於 ても

,我

国税制史上正に画期的のものであると申 しても過言で ない のであるが

,之

に依 り国民負担の不均衡を是正 し

,直

接間接に国民生活の安定に資す ると共に

,相

当程度の増収を挙げ財政の強化を図 り

,幾

多重要 国策の遂行を容易 ならしめんとす るものである。 尚又私は税制 の弾力性 といふ ことに就 て

,深

甚の考慮 を払 ったのであるが

,之

は現下 内外の情勢 に 鑑み

,極

めて重大 なる意義を有す るものと考へ るのである。J21) 確かに

,馬

場蔵相のこの「 税制改革案」には

,所

得税中心主義の建前 に立 って

,都

市 と農村 の税 負担の不均衡を是正 し

,農

村負担の軽減 と法人税の強化 を 目指 した点 など

,資

本主義の発展 に符合 させ ようとした現代的税制への努力の跡をみ ることができる。 しか し, この税制改革は何 よりもま ず

,軍

事化の進展にともなう行政事務の円滑 な遂行にとって必要 な財政的基盤 を整え ることを意図 し

,弾

力的な税源を国家が独 占 しなが ら

,財

源再配分を通 じて地方財政の中央集権的税制を一挙 に 強化 しようとす るものであ った。

1940(昭

15)年

に確立 され るこの税制構造 を

,ま

だ戦争 という 外的強制のない時期 に 目指そうと した馬場税制改革案は

,そ

れだけに当時

,種

々の社会的反響 をひ きおこ した。たとえばこの税制改革案が

,各

層間の負担の均衡を計ると称 して

,ま

が りなりとも従 来の税 にそなわ っていた社会政策的税制 を掘 り崩 し

,問

接税の増徴 による大衆課税 を強化 した こと は

,馬

場税制改革案に対す る広範 な人 々の不尚を強めた。 さらに

,財

界か らは財産税や有価証券移 転税の創設

,利

子所得 などに対す る優遇税制の廃止

,相

続税に対す る大幅増税 な どに反対す る運動 が盛 り上が りをみせた。直接 国民の利益 にかかわ るものであ っただけに

,馬

場の増税計画は馬場財 政の不人気を象徴的に表現す るものであ った。

(4)低

金利政策 公債漸減主義を放棄 した瞬間か ら

,馬

場蔵相 にとって膨大 な公債発行 にともなう財政負担を

,い

かに軽減す るかが焦眉の課題 となった。そこで

,馬

場が蔵相就任の直後か らまず手懸けたのが

,増

発す る国債を円滑に消化す るための低金利政策であ った。 もちろん低金利政策は

,高

橋財政 におい ても政策の中心 を占めてお り

,マ

ス コ ミが高橋前蔵相 の「 第1次金利革命

Jに

対す る馬場蔵相 の 「 第

2次

金利革命

Jと

呼んで

,わ

が国金融史上

,最

低の金利時代を印象づけた ものであ った。だが, 高橋 と馬場 とでは低金利を推進 した 目的が違 っていた。高橋は

,馬

場のように単 なる財政上の配慮 だけで なく

,な

によりも昭和恐慌 をに らんで

,企

業の金利負担の軽減をはか ることによって景気を 振興 させ るね らいがあった。高橋蔵相は

1932(昭

7)年

3月 か ら日本銀行の金利 を

3度

にわた っ て引き下tずると同時に

,そ

れ に見合 って郵便貯金利子の引き下げを行 ない

,民

間金融の金利引き下 げを積極的に誘導 してい ったのである。それにともなって国債の利率も下が ったが,「高橋蔵相は, 国債利率は

4分

にとどめてお くべきで

,そ

れ以下 に低下す ることは

,国

民資金畜積 の上か ら行 き過

(8)

藤 田安一 :1980年 代 日本 におけ る戦時財政政策の展開 ぎであると考 えていた。J2り そのため

,高

橋蔵相 の手 による低金利政策の推進 は

,1933年

秋 には打 ち切 られ

,以

降は進展 していか なか ったのである。 しか し馬場が蔵相に就任す るや

,高

橋財政期に釘づけされていた金利を一層低位 に誘導す るため, 矢継 ぎ早 に低金利政策を推進 した。 まず1986年 3月 に

,大

蔵省 と日本銀行 とが協力 して預金部資金 の貸付利子の引き下げを, 4月 には 日銀公定歩合の1厘引き下げを行 なった。 さ らに

, 5月

1日以 降

, 5分

利国債の

3分

半利借換えが実施 された。その結果, この時の金利水準

=日

銀商業手形割引 歩合

9厘

・ 定期預金金利

3.3%は

日本金融史上

,空

前 の低水準 を示す ことにな った閉)。 国債 の低利 借換えは

,予

想外 にスムーズに進んだ ものの1986年 10月以降

,早

くも国債の売れ行 きが鈍化 し国債 の市価 も低落す るに至 った。 この頃には

,昭

和恐慌期 に一般的にみ られた過茶J生産設備や遊休貨幣 資本は景気の回復 とともに解消され

,失

業労働力 もほぼ吸収 されていたのに加えて

,馬

場財政 によ る低金利政策を利用 して企業は銀行か ら資金 を借 り受け

,一

層積極的な投資活動 を展 開 した。その ため市中銀行は低利回 りの国債 にそ っぽを向き

,国

債 の消化は困難となり赤字公債 によって増発 さ れた貨幣は 日銀 に還流せず

,急

激 な物価 の上昇をひきおこ したのである。 この物価上昇は

,膨

大 な 予算にともなう財政需要 に応 じようと して招 いた輸入増 とそれを原因とす る国際収支の悪化 ととも に

,馬

場財政のゆきづまりを端的に表現す るものであ った。

(5)財

政計画の樹立 馬場蔵相が「 赤字公債をそんなに恐れ ないJ熟)と強弁 した ところで

,公

債消化の困難 とそれに伴 う国家信用の失墜をまぬがれ るわではない。そ こで馬場は

,軍

事費の見通 しを中心 と した財政計画 を樹立す ることによ って

,出

来 るだけ この弊害 を除去 しようと したのである。馬場 は言 う一 「 公 債の市価 を縦持 し

,財

政の信用を維持 し

,為

替相場 に悪影響がなく

,悪

性 インフ レを起 さない為め には

,相

当年間先の見透 しを付けた財政計画を樹 て

,而

して尚ほ今後の形勢に依 っては無論増税計 画

,増

収計画をや ってい く方が宜 しいのです。殊 に国防費の増加 に伴遮、増税計画は

,或

る意味に於 ては政治的の効果があると言へ る。即 ち国防費の増加 に対 して国民が直接 にこれだけの負担を して 居 るとい応、事 を自覚 し

,又

これに依 って国防費の濫 に流れ ることを防 ぐ為 にも必要であ ります。必 要であるが九そ ここ

5年

なり

7年

なりの間に どの程度の国防費が要 るかとい応、ことの見透 しが付い て

,そ

れに対す る財政計画が相伴 ってこそ初めて増軌その他 の増収計画の意味がある。」あ) 馬場の大蔵大臣在任中に, この財政計画が具体化 された事例 と しては

,1937(昭

12)年

度予算 編成 において「 新方式

Jを

採用 したことであろう。予算編成の新方式 とは

,つ

ぎのシステムを採 り 入れたことをさす。す なわち

,従

来の慣例 によれば

,予

算の編成はまず各省が要求 を主計局 に持 ち 込み

,各

省 と主計局の事務折衝か ら始め られ るのであるが, この年 には閣議の申 し合わせ によって, 「 各省予算 ノ要求ハ従来 ノ如 ク各省 ヨリ直接大蔵省二折衝スル コ トナク

,一

応閣議 二於 イテ零議 シ 緩急前後 ヲ決スベキモ ノ トス

J(昭

和11.5,29閣 議 申合

)と

いう方式が決め られた。 これは内閣で決 定され る重要 国策を

,な

により優先的に予算化す るために考え られた措置であ った。各省の予算要 求を

,直

接閣議が審議す るというこの時のや り方は異例 なものであり

,そ

の後の予算編成では行 な われ なか ったものの

,

しか し重要 国策が まず閣議で先議 され

,国

策事項を優先的に予算 に計上す る という方式は

,軍

事費確保の 目的をもってその後

,ほ

とん ど慣習的なものになってい ったのである。 予算編成方式のこの着想は

,な

にも馬場蔵相が初めてではない。実は

,高

橋前蔵相 もこれ と同 じ 予算編成方式を閣議に提案 したことがある。高橋是清は

1933(昭

8)年

6月 6日 の閣議 において, 「 赤字財政 に悩む この際であるか ら各省 においては従来の如 く予算分捕 りの弊 に陥 ることな く来年 度予算の編成 にあた られたいJ閉)とのべ て

,つ

ぎのような提案を した。「 予算編成 に着手す る前,

(9)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

2巻

2号

(2001) 55

まず もって閣議 において国家的見地 にたち重要政策に関す る方針 を協議 し

,大

綱を決定 し

,も

って 各省は右方針 にもとづ き大蔵省に概算要求をな し異常急変の事情 なき限 り該決定に反する要求を提 出せ ざることと し

,よ

ってもって限 りある国家の財力を最 も有効適切 なる方向に使用す るの途を講 ず る要 あ り。」2つ っ ま り

,高

橋蔵相が唱えた予算編成 の新方式では

,各

省が概算要求を出す前 に, あ らか じめ閣議 において協議 し大綱を決定 して, この方針 に従 って各省が大蔵省に概算要求をなす という馬場の提案 と同 じものであ った。 これ に対 し

,閣

議では三土忠造鉄相か ら高橋蔵相の意図は 理解でき理想 と しては十分評価できるものの

,現

実 には困難であるとす る意見が出された閉)。 この 時は高橋 も,「自分の 自論である重要費 目を事務的交渉前 に閣議で方針 を決めて行 くや り方は出来 そうもない。J釣)とのべ

,結

局実現す るには至 らなか ったのである。 しか し

,提

案された予算編成方式は同 じであ っても

,高

橋 と馬場 とではその意図は根本的に違 っ ていた。す なわち高橋前蔵相が, この予算方式によって各省庁の予算の分捕 り

,と

りわけ軍部の軍 事費拡大の要求を抑えることを 目的としていたのに対 して

,馬

場蔵相は

,な

によりも軍事費を優先 的に確保す るために考案 した ものであ った。要す るに馬場蔵相は

,先

ず将来 にわた る財政計画の見 透 しを立て

,そ

の計画の枠 内で軍事費やその他の支出を規制 しようと したのではなく

,逆

に軍部の 要求を率直に受け入れて

,膨

大な継続費を合んだ軍事費の見透 しを立ててか ら財政計画を樹立 しよ うと した。そのため

,こ

れは財政計画という名に値 しないと して

,当

時すでに著名 なジャーナ リス トであ り

,大

原社会問題研究所か ら東京朝 日新聞社 に入社 したばか りの笠信太郎か ら

,つ

ぎのよう に酷評 されたのである。「 財政計画の見通 しというよ りは

,む

しろただ軍部提 出の軍備拡張計画の 見通 しにす ぎないJ鉤)と。

4.戦

時財政 と国民経済 以上

,私

は馬場鋲―が蔵相就任 にあた って述べた財政方針のうち, 自己の財政政策を前蔵相高橋 是清のそれと区別 した諸点に しぼ って

,高

橋前蔵相 との比較で考察 した。 もちろん

,高

橋 との比較 で限 っても

,以

上の

5点

の内容につきるわけではない。その他に

,地

方財政調整交付金制度 に対す る両者の主張の違いや

,対

満投資に対す る見解の相違 など重要 な論点 としてあげ られよう。前者は, 地方 白治 と地方財政の発展をいかに計 るかという問題 に関わ る し

,後

者は

,馬

場財政の対外膨張主 義的軍事的財政 という性格を論ず る場合に看取 し得 ない。 これ らは今後

,一

層の研究が必要 とされ る分野である。 ここでは以上の考察にとどめて

,本

章の課題である高橋財政か ら馬場財政への移行 が有 した歴史的意義について

,結

論づけておこう。 確かに

,高

橋財政 と馬場財政 とは

,財

政制度 と しての共通面がみ られ ることは確かである。例 え ば

,高

橋前蔵相がシステム化 した赤字公債の発行および公債発行の 日銀引受制度 などは

,馬

場蔵相 が踏襲 し大規模化 したまでの ことであると言える。 しか しそれ とても

,こ

う した制度 によって果た そうと した政策的意図が

,高

橋 と馬場 とでは根本的に違 っていた ことは

,前

章の考察か ら明 らかで あろう。 したが って

,高

橋財政か ら馬場財政への移行 を

,財

政制度 と しての継続 と財政政策および 財政政策思想の断絶 と して

,ひ

とまず総括 してお こう。だが問題は, この移行の歴史的意義を間 う ことであ り

,戦

時財政の成立にとって有 した意義を

,高

橋財政か ら馬場財政への移行のなかに考察 す ることでなければならない。 ある意味では確かに

,フ

ァシズム下の総力戦体制 を整 えた国において,「戦争 とは

,国

債 をいか に大量に発行 し

,そ

れをいかに消化す るかという問題だ」30と 言えよう。す ると

,高

橋前蔵相 によ る赤字国債の発行が満州事変 という名の戦争を支え

,さ

らに

,

日中戦争や太平洋戦争 にもひきつづ

(10)

藤田安一:1980年代 日本における戦時財政政策の展開 いて採用 された国債の 日銀引受発行制度 も

,高

橋是清の創設 によることを思うとき

,高

橋財政を戦 時型財政 と言えな くもない。だが, この点も本節で考察 した ように

,第

1に

,高

橋の財政政策はあ くまで も昭和恐慌か らの克服 を政策課題 と し

,そ

れ に役立っ限 りで軍事費の生産性を問題 に した こ と。第2に

,軍

備 の充実 も財政が耐え得 る範囲内で許容 したにす ぎず

,軍

事費の膨張 とそれに伴 う 赤字国債の増発が悪性イ ンフ レをひきおこす兆候 をみ るやいなや

,公

債漸滅政策をかかげて軍事費 を抑制 しようと した ことなど

,明

らかに高橋財政を戦時財政 と規定す るには無理がある。 では

,馬

場財政 を戦時財政 と言 ってよいかというと

,こ

れ も何点かの留保が必要である。先ず第 1に

,林

健久氏も指摘 しているように3か , 日本の戦時財政が臨時軍事費特別会計によって担われた 事実を重視す るな ら, これが設置 され るのは広 田内閣倒解か ら半年以上も後の 日申戦争勃発後のこ とである。さ らに

,馬

場蔵相 によって編成 された1987年度予算は

,内

閣総辞職 により結局実施 され ずに終わ った。その財政を戦時財政 と呼んでよいか どうか

,問

題は残 るか らである。第2に

,以

上 の指摘 に加えて私は

,戦

時財政 と言 う場合には軍部 と財閥 との協調関係の形成 を重視 している。そ のために馬場財政の後の結城財政

=「

軍財抱合

J財

政が戦時財政の形成 にあた って有 した独 自の意 義を重視 したいと思う。 したが って私は

,馬

場財政段階での軍部 と財閥との協調関係の不十分さも, 留保の重要な要素 と考えている。 以上の留保 を考慮 したうえでのことではあるが

,軍

事費を中心 とす る経費の膨張を国民経済が許 容できる範囲内に抑制 しようと した「 高橋財政

Jと

, この財政 を転換 させ

,逆

に国民経済を軍事費 に追随 させようと した「 馬場財政

Jと

では

,明

らかにその財政政策および財政政策思想に違いがあ る。 さ らに

,高

橋財政の段階ですでに顕在化 していた財政 と国民経済 との相克を

,馬

場財政は統制 経済 によって繰 り延べようと した こと

,あ

るいは統制経済 を前提 と しなければ財政政策を行 ないえ ない事態 に至 った ことは

,明

らかに財政政策の新段階を告げ るものであった。戦時財政が

,国

民経 済を軍事 目的に動員す るための手段に し

,統

制経済をその不可欠の要素にす るものであるとすれば, まさに馬場財政は戦時財政 と呼んでもよいのではなかろうか。少なくとも

,馬

場財政をもって戦時 財政を意識的に追求 した財政政策 と して位置付けることは可能であ り

,こ

こに

,高

橋財政か ら馬場 財政への移行 における歴史的意義を見出だす ことができるであろう。

5.結

び にか え て 私が本稿を執筆 した動機 には

,馬

場財政 との比較を通 して

,従

来の高橋財政研究のいわば常識化 している方法を批判 したいという意図があった。その研究方法 とは

,1931年

に犬養内閣の蔵相 に就 任 してか ら2・26事件 によって暗殺 され る1936年までの高橋是清の財政政策 を

,前

期 と後期 に区分 し て,「前期高橋財政

Jが

徐 々に行 き詰 まり

,そ

れ を修正 して健全財政へ転換す る過程 と して「 後期 高橋財政」を位置づけようとす るものである翻。 確かに

,こ

の方法はわか りやす く

,矛

盾 と相克をは らむ歴史的転換期の高橋財政を説明す る一つ の方法 と しては都合がよい。 しか し

,そ

れ までである。 この方法では

,高

橋財政が財政政策 と して いか なる本質的特徴 をもっていたかがわか らない。私が高橋財政を研究 して気づ くことは,「前期 高橋財政」 には見 られ なか った財政政策が

,突

如と して「 後期高橋財政

Jに

出てきたわけではなく, 初めか ら高橋是清の財政政策および財政政策思想 にそなわ っていた政策手段が

,歴

史的変化 にとも なって表面化 した事例が実に多いということであ った。例をとろう。本節でとりあtずた増税 に して も

,前

述 したように

,高

橋 はそもそも増税そのものに反対 していたわけではない。増税は時期 尚早 であると して

,取

りあげなか ったまでのことである。 また公債漸減政策も

,1985年

になって初めて

(11)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

2巻

2号 (2001) 57

高橋蔵相が言い出 したのではない。高橋の公債政策には

,す

でに赤字公債の発行 に踏み切 ったその 時点か ら

,赤

字公債 を減 らす ことを意図 していたのである。 したが って

,私

が拙稿「『 高橋財政』 と国民経済一一財政政策の根本問題 によせ て一JI)(Ⅱ 氾Й)において

,高

橋財政 の特徴 を考察 した 時

,従

来の研究で行 なわれ てきた ような高橋財政 を前期 と後期に区分す るという方法をとらず

,高

橋財政期全体 をとお して

,高

橋蔵相が財政 と国民経済 との対立・ 矛盾 した関係 をいかに認識 し

,そ

れに どのように対応 したかを基準 に して高橋財政を評価す るという

,新

た な研究祝角 を提起 したの である。 実は

,高

橋財政を「前期高橋財政

Jと

「 後期高橋財政」 とに分ける高橋財政研究の方法は

,高

橋 財政か ら馬場財政への移行を どのようにみ るかという研究にも

,思

わぬ影響を与えている。例えば, 馬場財政は「 高橋財政が膨張財政 に加えようと した修正を廃棄 して

,再

び これ を一層拡大 された規 模において元の膨張財政の軌道 に復そ うとす るもの」30と 評価す るとき,「前期高橋財政

Jの

延長 線上に馬場財政を置 くことになる。そのため結果は

,高

橋財政か ら馬場財政への転換は

,同

一方角 にむいてのカーブであ って基調 の転換ではないということになる。反対 に,「後期高橋財政」を馬 場財政 と比較すれば

,そ

れは大 なる転換 と結論できそうである。私 は本稿 によ って

,こ

の両者の評 価か ら高橋財政を開放 し

,前

期後期の区別 なく

,総

体 としての高橋財政か ら馬場財政への移行 の意 義を明 らかにす ることを課題 と したのである。 注

1)

林健久「 フ ァシズム財政 の原型―― 馬場鋏一蔵相論一一

J東

京大学社会科学研究所『 戦時 日本経済』 (ファシズム期 の国家 と社会

2)東

京大学 出版会,1979年。

2)

同上,183ペー ジ。

3)

高橋是清遺述『 高橋是清経済論』千倉書房,1986年 ,640ペー ジ。

4)

鉱工業生産 と貿易額 につ いては, 日本銀行調査局「 金輸 出再禁止 によ り終戦 までの我 国経済統制 の 推移J日本銀行調査局編『 日本金 融史資料・ 昭和編』 第27巻,1970年 ,495ペー ジを参照 した。 それ によると鉱工業生産は,1985年を100とす ると1931年 の62.2か ら1936年 には110.5へ と約2倍に増加 し, 貿易額 は24億9800万 円か ら57億 2200万 円へ と2倍以上 の増大 を示 してい る。

5)

国民所得 につ いては

,シ

ャー・ リフ著

,和

田勇訳『 戦争 と 日本経済』 (黄土社,1946年 ,225ペー ジ

)に

よると,1931年か ら1986年 までの間 に99億 900万 円か ら133億 7800万 円へ と増加 してい る。

6)

この事情 を

,深

井英 五 は『 人物 と思想』(日本 評論社,1989年

)で ,当

時 の 日本経済 が「 物資生産 力余裕 の時代」(269ペー ジ

)に

あ った ことを指摘 している。深井 はその理 由と して

,第

1に

,第

1次 世界大戦 中に増大 した生産 力が

,大

戦後 の軍縮 によ って余力を残 していた こと。第2に

,浜

国内閣の 産業合理化運動 によ って遊休 資本が存在 していた こと

,を

あげてい る。

7)

高橋 是清遺述

,山

崎源太郎『 国策運用 の書』斗南書院,1986年,58ペー ジ。

8)

『 大阪朝 日新聞』 1986年10月 3日 。

9)

前掲『 日本金融史資料 。昭和編』第34巻,1973年, 1ページ。

10)

青木信光『 馬場鋏一伝』 故馬場鋏 一氏記念会,1945年,255ペー ジ。

11)

馬場鋏一『 財政 と金融 に関す る若千 の問題』金融研究会,1935年,121∼122ペ ー ジ。

12)

高橋 是清遺述『 随想録』千倉書房,1936年,400ページ。

13)

この点 に関す る「 高橋 財政」 の政治過程 を研 究 した もの と して

,藤

田安 ―「 高橋是清 と五相会議J (『政 治経済史学』第274号,1989年2月

)及

,同

「 高橋是清 と内政会議

J(『

政治経 済史学 』第27 5号,1989年 3月

)を

参照 (本書第4章お よび第5章所収)。

(12)

藤 田安一 :1930年 代 日本 における戦時財政政策の展開

14)前

掲『 財政 と金融に関す る若干の問題』124ペ ージ。

15)

同上,128∼129ペ ー ジ。

16)

同上,129ペー ジ。

17)

『 大阪朝 日新聞』1934年 2月15日。

18)

前掲『 高橋 是清経済論』640ペ ー ジ。

19)

昭和恐慌期 か ら馬場税制改革案策定 にいた る大蔵省 内の税制改革の立案過程 につ いては

,大

蔵省百 年史編集室『 大蔵省百年史』下巻,1969年 ,45∼46ペ ー ジ及 び

,神

野直彦「 馬場税制改革案の形成過 程

J(『

ジ ュ リス ト』No.692,1976年6月

)を

参照。

20)

「 馬場 税制 改革案

Jの

内容 につ い ては

,大

蔵 省 昭和財 政 史編 集室『 昭和財政 史』 第5巻『 租税 』 (東洋経 済新報社,1957年

)の

第2章第3節「 膨 大予算 の出現 と馬場軌制改革案

Jを

参照 。

21)

前掲『 馬場鋏一伝』244ペ ージ。

22)

大蔵省昭和財政史編集室『 昭和財政史』第6巻『 国債』東洋経済新報社,1954年,270ペー ジ。

23)

詳細 につ いては

,大

蔵省百年史編 集室『 大蔵省百年史』下巻 (大蔵財務協会,1969年 )76ペー ジを 参照。

24)

前掲『 財政 と金融 に関す る若干の問題』128ペー ジ。

25)

同上,129∼130ペー ジ。

26)

『 大阪朝 日新聞』1988年 6月 7日 。

27)

同_L。

28)

同上。

29)

同上,1933年 7月30日。

30)笠

信太郎「 準戦時統制経済

J『

笠信太郎全集』第2巻

,朝

日新聞社,1969年,423ペー ジ。

31)

公社債 引愛 協会『 日本公社債市場史』東京大学 出版会,1980年,84ペー ジ。

32)

前掲「 フ ァシズム財政の原型―― 馬場鎖一蔵相論――J174ペー ジを参照。

33)

この方法 をとる代表的文献 と しては

,坂

入長 太郎『 日本財政 史研究』第4巻『 昭和 前期財 政 史』 (酒井書店,1988年

)が

あ る。

34)藤

田安―「『 高橋財政』 と国民経済―― 財政政策 の根木問題 によせ て引 I)(H坦 (『政 治経 済史学』 第289号 。第290号 , 1990年 5月 。6月)

35)藤

田武夫『 日本資本主義 と財政』下巻

,実

業之 日本社,1949年,249ペー ジ。 Ⅱ 馬 場 財 政 か ら結 城 財 政 ヘ ー 軍 財 抱 合 財 政 の 成 立

1.課

題 と分析視角 私は本稿の

Iお

よび別稿1)において,「高橋財政

Jと

「 馬場財政

Jと

の比較研究 を踏 まえ

,戦

時 財政が「 国民経済を軍事 目的に動員す るための手段 に し

,統

制経済をその不可欠の要素にす るもの である

Jと

すれば,「馬場財政」を 日本 における戦時財政の出発点 とす ることができ

,少

な くとも, 馬場財政 をもって戦時財政を意識的に追求 した財政政策 と して位置づけることは十分可能であると 論 じた。だが同時に私は

,同

論文で馬場財政 を戦時財政 と規定す ることについて

,つ

ぎの

2点

の留 保をつけた。 第

1は

,林

建久氏も指摘 しているようにり

,

日本の戦時財政が臨時軍事費特別会計 によ って担わ れた事実を重視す るなら

,こ

の「臨軍費」が設置され るのは

,広

田内閣の倒閣による馬場財政 の終 焉か ら半年以上 も後, 日中全面戦争勃発後のことである。 また

,馬

場蔵相 によ って編成 された1937

(13)

鳥取大学教育地域科学部紀要 地域研究 第

2巻

2号

(2001) 59

年度予算案は

,内

閣総辞職 によ り実施 されずに終わ っている。その財政を戦時財政 と呼んでよいか どうか問題は残 ること。 さ らに第

2は

,戦

時財政の成立には軍部 と財閥 との協調関係 は不可欠であ る。そのために私は

,馬

場財政の次の結城財政

=「

軍財抱合」財政が

,戦

時財政の形成 にあた って 有 した意義を重視す る立場か ら

,馬

場財政段階での軍部 と財閥との協調体制 の不十分 さを留保 の重 要な要素と考えた。 本稿 の課題は

,上

記の留保理 由のうち第

2の

点に焦点を合わせ

,結

城財政

=「

軍財抱合」財政が, わが国の戦時財政の成立にあた って果た した独 自の意味を考察す ることにある。その際の分析 は, つぎの視角か ら行 なうことになろう。第1は

,軍

部 と財閥との協調体制が形成 され る支点を「 生産 力拡充

J政

策に置 く。第

2に

,「生産力拡充

J政

策が財政金融制度 を どのように再編成 し

,こ

の制 度が「 生産力拡充」政策を推進す るための貨幣的金融的導管の機能を

,い

かに果た してい ったのか を検討す る。第

3に ,こ

の過程で軍部 と財閥 との利害が

,い

かなる形態をとって調整 され

,両

者 の 歴史的妥 陽がはか られてい ったのかを考察す る。以上である。

2.結

城財 政 と「生産 力拡 充」政 策 の登場 「 生産力拡充

J政

策が

,抽

象的言葉 と してではな く

,具

体的内実をもって政府のスローガンと し て唱え出されたのは

,広

田内閣倒閣後の林銑十郎 内閣

(1987.2.2-6.4)の

時であ った。林内閣の 大蔵大臣には

,

日本興業銀行総裁であ った結城豊太郎が就任 した。 4ヵ 月という超短命内閣にもか かわ らず

,歴

史上, この結城蔵相 による財政経済政策を「 軍財抱合

J財

政 と呼び

,

日本戦時財政 の 進展において特竿すべ き位置を与えてきた。本稿は

,そ

の解 明にあて られ るが

,ま

ずその鍵 をにぎ ると思われ る「 生産力拡充」政策の本質を究明す ることか らは じめよう。 「 生産力拡充」政策の立案 に向けての本格的展開は

,軍

部がいちはや く政治経済を全面的に掌握 し主導権 を握 った「 満州

Jに

おいて行 なわれ

,そ

れが 日本国内の統制経済を先導す る形で実行 され た。 この過程 の研究は

,原

朗「 一九三〇年代の満州経済」(満州史研究会『 日本帝国主義下の満州』 御茶 ノ水書房

,1972年

所収

)に

詳 しく展開されている。それ によれば

,関

東軍の「満州

Jに

おけ る 統制経済化のプランづ くりは先例があるとはいえ

,特

に重要 な画期 となったのは

,1935(昭

和10) 年 8月 参謀本部作戦課長 に着任 した石原莞爾による 日満財政経済研究会 (いわゆる宮崎機関

)の

創 設 と

,こ

の研究会による軍需産業拡充計画の立案であ った。 というのは

,後

にこの案が基礎 となっ て

,そ

れぞれ1936年12月

,満

州では『 満州産業開発五年計画綱要』 に

,ま

た 日本内地では1937年5 月の『 重要産業五年計画要綱』 にと

,

日満軍需産業拡充計画 と して具体化 されてい くか らである。 これ らの軍需生産力拡充計画は

,そ

れ を実行 に移す 内閣の成立を要求 した。そのため,「36年 秋 以降宮崎機関は計画成案のたびに陸軍省

,参

謀本部 に説明す るのみでな く

,政

財界の有力者 に対 し て計画案を説明 し

,そ

の意見を求めている。近衛文麿

,池

田成彬 はもとより

,結

城豊太郎

,鮎

川義 介

,津

田信吾

,野

口 道

,郷

古潔

,斯

波孝四郎

,小

倉正恒

,木

戸幸―

,林

銑十郎等

,極

秘 のうちに も相 当広範囲にこの計画は配布 された如 くであ り

,36年

末 には

,こ

の案 に相 当問題はあるに しても 結局は『 実行せ ざるべか らざるか』 という所 まで政財界首脳者の意図は煮つまってきていた。

また

,参

謀本部の石原莞爾は

,こ

の計画を実行す るだけの力量を備えた内閣の実現を1986年末頃か ら構想 してお り

0,当

時「 荻窪会談

Jと

いう荻窪の有馬頼寧邸で行われた会合は

,林

内閣の準備工 作であ ったといわれている。 この荻窪会談には

,林

銑十郎

,後

藤文夫

,山

崎達之輔

,小

原直

,永

井 柳太郎

,中

島知久平

,有

馬頼寧 といった各界代表に並んで

,財

界代表 と して結城豊太郎が出席 して いたD。

(14)

藤 田安一 :1980年 代 日本 における戦時財政政策の展開 これ らの事実 は

,林

内閣で唱え られた「 生産力拡充

J政

策の本質 を理解す るうえで

,つ

ぎの

3点

が極 めて重要であることを示 している。第1に,「生産力拡充

J政

策が世界的 なブロック経済化の 進展の中で

,

日本帝 国主義が 自らのアウタルキー圏の拡大強化 をめざ した対外膨張主義的軍事的政 策の一環であ った こと。第

2に

,「生産力拡充」政策が単 なる国民経済力の拡大をめざす ものでは なく

,な

によりも軍需生産力の拡充を 目的と した ものであ った こと。第

3に

,結

城豊太郎大蔵大 臣 や池 田成彬 日銀総裁 など財界の代表者が

,こ

の軍需「 生産力拡充

J政

策を承認 して財政経済政策を 担当 したこと。以上である。 こう して,「生産力拡充」 をスロー ガンに

,軍

部 と財閥 とが急接近 した理 由には

,両

者の利害 を 一致 させつつあ った当時の 日本がおかれていた客観的状況と

,そ

れを反映 した両者の観念の転換が あったことは言うまでもない。その状況とは

,満

州事変以降の経済軍事化の進展が, 日尚一体 となっ て軍事生産力を拡大すべ く経済 を急速に高度化す ることを必要 と していた ことであ り

,こ

れを反映 して軍部 と財閥 との双方で

,つ

ぎのような観念の転換がお こっていた ことである。軍部は昭和恐慌 下における国民の財閥感情 を考慮 した反財閥的姿勢か らDι皮 し

,軍

備強化のための軍事予算の消化 には財閥の資本力を重視せ ざるをえなくなってお り

,と

りわけ

,軍

部統制派は「 高度 国防国家

Jの

起設にとって財閥をパー トナー と認識 しは じめていた。他方

,従

来か ら外 国資本の導入と資源の対 外依存 を不可欠 と して親英米路線を支持 してきた財閥 も

,満

州事変以降の軍事経済化の進展のなか に自己の蓄積基盤を確保 しようとす る動きを示 し

,い

わ ゆる「 財閥転 向」 による株式公開を契機 に して重化学工業への本格的進 出を開始 しつつあったのである。

3.馬

場財 政 か ら結城財 政 ヘ 林内閣の「 生産力拡充

J政

策の 目的が

,軍

需生産力の拡大 にあるとはいえ

,そ

れを正面か ら「 軍 需生産力拡充」政策 と して打 ち出せ るほ ど

,ま

だ国民各層の コンセ ンサスはとれてはいなか った。 国民経済力を挙げて軍需生産 に集中できる体制が整備 されてい くのは

,近

衛 内閣後の 日中全面戦争 勃発以降のことに属す る。その過渡期にあ ったとはいえ

,林

内閣はなによ りも「 馬場財政

Jの

後遺 症に悩 まなければな らなか ったのである。 2.26事件直後 に成立 した広 田内閣は

,軍

部の露骨 な干渉の産物であ り

,大

蔵大臣には軍部の強 く 推 した 日本勧業銀行総裁の馬場鎖―が就任 した。馬場は蔵相 になるや

,高

橋是清前蔵相の財政経済 政策を変更す ると高 らかに宣言 し

,高

橋財政 とは違 う馬場財政の特徴を印象づけた。馬場蔵相 の言 う, この「 高橋財政の修正

Jは

次の諸点を内容 とす るものであ った。第1に国防充実

,第

2に

公債 漸滅主義の放棄

,第

3に

増税 (税制改革

),第

4に

低金利政策

,第

5に財政計画の樹立

,が

これで ある0。 要す るに

,高

橋前蔵相が軍事費を抑制す るためにかかげた公債漸滅主義を放棄 して

,国

防 の充実を計 るために軍事費の膨張を認め

,そ

のための財源確保 に公債の増発 と増税を行 ない, この 増発す る公債消化を円滑にす る手段 と して

,い

っそうの低金利政策を遂行す る

,そ

してこれ ら相互 密接 に関連す る諸政策を

,一

定の財政計画を樹立 して運用 しようというものであ った。 しか し

,昭

和恐慌期 に一般的にみ られた過剰生産設備や遊休貨幣資本は

,景

気の回復 とともに解 消され失業労働力もほぼ吸収 されていた時期の馬場財政 による大軍拡予算 と

,こ

の予算を消化す る ための低金利政策は

,企

業 に銀行か らの資金の借 り受けを活発化 させ

,一

層積極的な投資活動を展 開させた。そのため

,市

中銀行は低利回 りの国債 にそ っぽを向き

,国

債の消化は困難 となり

,赤

字 公債 によって増発 された貨幣は 日銀 に退流せず

,急

激 な物価 の上昇をひきおこ したのである。 この 物価上昇は

,膨

大 な予算にともなう財政需要 に応 じようと して招いた輸入増 と

,そ

れを原因とす る

参照

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