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談話室-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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117 談 話 室

教養と倫理

斉 藤 和 也 判され,やがて,プラトンの鋭い筆鋒の前 に彼らは思想史の主座から退く.ことになる。 これとは対照的に,時代の病痕に根本的な メスを入れたために,時代に迎えられるこ とはなかったソクラテスの言論は,プラト ンの著述を通して現代にまで命脈を保って いる。ソクラテスは人々の行為の根拠とな る各人の価値評価が不確実のまま放置され ている事態を,自他の吟味・問答を通じ, 人々に自覚させようとした。彼は,また, 金銭や評判や地位に心を用いるのではなく, 思慮や真実,そして各自の魂に心を用いる べきであることを人々に勧告した。このよ うにしてソクラテスは人間的教養という土 俵の中でソフィストと対時していったので ある。 ソクラテスにおいて,魂とは正しい行為 によってよりよいものとなり,不正な行為 によって損われることになる当のもののこ とである。そして,ソクラテスによれば, 善き人は,たとえ不正な仕方で死刑に処さ れ,不正を蒙ることがあっても損害をうけ ない。むしろ,不正に処刑を行う者こそ自 らに損害を招くのである。悪口を言う人は 自らの品位を汚すという式の論法におい て 彼の示そうとしたのは,倫理的主体として の各自の自己が正しい行為と相関的に存在 するということである。各自の自己を覚醒 させる以外に時代の顧落に立ち向かうすべ 本年度後期から担当している倫理学講義 では論題としてプラトンの倫理思想を取り 上げたが,一般教育に関する本学の理念に 鑑み,ギリシャ哲学に携わる者として,西 欧ヒューマニズムの原型をなすギリシャ ・ローマにおけるパイデイア=フマニタス 概念を開明にしていく責務もあるのではな いかと感じている。ドイツの古典学者イェ ーガ一によると,西欧における文化的統一 の根本はギリシャの文化・教養概念にある が,西欧の学者の古典研究に対する態度に あらわれている自己の根元を理解しようと する執念にはいっも驚かされる。我々とし ても,明治以来の西欧思想の摂取過程にお いて,西欧文化の普遍性を承認してきたの であるから,今やその根本に遡る必要があ ろう。 ギリシャ人が自らの文化を人間的教養の 実現として自覚した時期は,紀元前5世紀 の中葉,アテナイが政治と文化の中心とし てギリシャに君臨した時期と重なる。当時 アテナイには,ソフィストと呼ばれる知識 人がギリシャ各地から数多く訪れていた。 彼らは富裕な家の子弟を相手に,国家有数 の人物になるための教養や知識を教授する と称し,多額の報酬を得ていた。人間の教 育を担当すると称していたとはいえ,立身 出世や欲望優先の時代風潮に迎合する彼ら の姿勢は,ソクラテスにより鋭く暴露・批

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浩 忠 詩句を引用したり,詩句の解釈のために弁 論を展開したりすべきではなく,自分たち 自身の言葉で直接語り合いながら,真理と 自分たち自身とをためしていくべきだとさ れる。つまり,自分の言葉で語ること,真 理を探究することが教養の要件なのである。 そして,問答によってたどりつくべき目標 としての真理が魂の善さを支える善そのも のであることに思い及ぶなら,彼らにおい て,教養が倫理的主体の形成に深く結びつ いていたことが理解されるであろう。 内 藤 118 はないという認識がそこにはある。 プラトンの著作においては,ソクラテス の問答は時代の花形である弁論と対立的に 措かれているが,そうした描写の中でも, 『プロタゴラス』の一節(347C−348a) は,ソクラテスープラトンの教養観を知る 上で参考になる。それによると,教養のあ る人々は酒宴の席において,笛吹き女や舞 妓などは呼ばないで,自分たちのあいだで 順に話しをしていくのが通例だから,討論 の席においても同様に,権威として詩人の

一般教育雑感

内 藤 浩 忠

く興味がなかったが,大学での一般教育を 機会に,興味がもてるようになった。高校 では単に丸暗記させられた事実に,批判を 加え検討するということが新鮮に感じられ たからかもしれない。高校までは数学が嫌 いだった学生のうち,ひとりでもよいから 本当の数学はおもしろいものだと思ってく れるような講義ができるよう努力したい。 法学を専攻している友人から,どんなこ とを研究しているのかと尋ねられたことが あった。私は答えるのに困ってしまった。 逆に私が質問したときには,彼はわかりや すく答えてくれた。彼の専攻している分野 は日常生活との結びつきが特に強いために 説明がしやすかったからかもしれない。近 年,数学は長足の進歩を遂げた。そのため か,研究の最先端の正確な解説をするため には必要な用語が多くなり,それらの解説 から始めようとすると多大の時間が必要と なってしまう。専門の異なる数学者の間で 香川に来てからまだニケ月余しかたって いない。講義経験も数学専攻の学生に対し て,数回行っただけである。したがって, 一般教育の講義経験はまったくない。将来, 担当するであろう一般教育科目に対する心 の軽い準備のつもりで思いついたことを以 下に書きつらねてみる。実践をともわない 話なので,経験豊富な皆様からの御助言, 御批判をいただければ幸いである。 自分が学生時代に受けた一般教育はどん なものだっただろうか。自然科学系の科目 のうち,数学は専門科目の入門のようなつ もりで聴いていたので一般教育という感じ は持っていなかった。物理や化学なども, 理科系だったので興味を持って勉強したっ もりである。しかし今はあまり印象に残っ ていない。むしろ人文科学や社会科学の方 が,単位をとるためだけに受講したにもか かわらず(期待に反して?),おもしろか った。高校時代には,文科系の科目には全

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談話室 119 も,なかなか話が通じにくくなっている。 まして大学の初年級の学生に対して解説す ることはかなり難しいことであると言わざ るを得ない。予備知識の準備を少なくする ために,具体的で易しい実例を使うことに より,高度な理論の雰囲気を伝えられれば よいと思う。 数学の用語がわかりにくくなった原因の ひとつに,数学の抽象化が挙げられると思 う。二十世紀の初めぐらいから抽象化の動 きが始まり,以前とは様相が一変してしま った。抽象化が行われたひとつの理由は, 一見違うような対象でも,ある種の共通性 (プルバキは構造と呼んでいる。)を持てば, その部分に関しては全く同じような結果が 得られるという利点があるからである。最 近は高校でも代数では行列を教えている。 これは線型空間上の線型作用素としてとら えることができる。この理論(線型代数学) のおかげで,ある種の微分方程式と漸化式 の解き方が,全く同じ原理に従うこともわ

かる。前者で†ま微分の持つ線型性という性

質が重要なのである。 現代数学の用語は抽象的なものが多く, とっつきにくい面を持っている。だが抽象 化された背景には必ず多くの具体的な対象 があるはずであり,抽象化することによる 御利益もあるはずである。このような具体 的対象を使って,現代の数学の様子を敷居 を低くして一般教育科目として語ってみた いと思う。

勧 善 懲 悪

小 林

立 善意と思いやりを実行するよう提唱された ものであると理解してよいのではなかろう か。それは人間の心の健康にとって不可欠 な精神的栄養分を与えてくれる運動でもあ ると言って間違いはないのではあるまいか。 他方また人間は“万物の霊長”とも呼ば れ,それ故に義憤と憎悪の感情を表現して 正義感・優越感・差別感など心の満足を求 めて止まない一面もあると言えるのではな かろうか。例えば昔は“村八分’’という言 葉もあったから悪い子に対しては村ぐるみ で懲罰運動も展開されたに相違ない。従っ て悪い子の中には“石をもて追はるる如く ふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし” といったケースも少なくなかったことだろ 1961年4月12日,人類初の宇宙飛行士ガ ガーリンは地球の周りを飛行して地上に帰 還した時,“地球は青かった”と述べたと いう。青い地球の日本において“小さな親 切運動”が提唱されて既に久しい。国の内 外に目を向けた組織的で規模の大きな善意 の運動には例えば緑の羽根,赤い羽根,歳 末助け合い,災害救援,顛民救済,飢餓に 苦しむ人々の救援,緑と地球を守る運動な ど,時に応じて以前からも展開されている。 しかし人間の善意と思いやりを発揮する場 はその外にも大小各種無数に存在するだろ うし,実践できる性質のものに違いない。 “一日一書’’とも言われる如く,“小さな 親切運動’’は日常生活の場において小さな

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小 林 立 青少年の健全な育成に当っても家庭や学校 のみならず社会全体の環境が物を言うこと を訴えている標語であろう。しかし集団の もつ威力についてその自信の程を表明して いる言葉としては,やはり“赤信号みなで 渡れば恐くない”に勝る‘‘傑作’’はないの ではあるまいか。従って例えば悪い子を衆 人環視のもとに“裸’’にしておけば,‘‘窮 鼠,猫を喫む”ような事は有り得ないし, いくら札つきの悪い子であっても,“赤子 の手を捻る”ようなものに違いない。それ に現代は情報化社会といわれるから最新鋭 の科学技術を馬区使すれば悪い子に関する情 報の収集・管理・広報もすべての面におい て十二分に威力を発揮できる時代ではない のだろうか。予防措置を講じておけば如何 なる悪い子であれ,誰でも安心して娯しめ る工具が出来上るに違いないし,標的が生 身の“人間”であってこそ人間にとって必 要な正義感・優越感・差別感も満喫とはい かないまでも幾分かは味わうことも可能な 工具として役に立つと言えるのではあるま いか。更にまた標的は壊われることを期待 されている工具でもあると言って構わない だろうから,“みそぎ”によって壊われて もそれは“身から出た錆”であって,むし ろ悪抜きに成功し,自浄効果があがったと 考えるのが常識というものだろう。しかし 運動自体には標的は必要な工具であるから, その需要と供給は永久になくなることもな いと言って間違いないのではないか。 明日も明後日も地上の万物の霊長が展開 する小さな親切運動と小さな懲罰運動を載 せて“宇宙船地球号’’は太陽の周囲を飛び 続けることであろう。 120 う。“衣食足って礼節を知る”といわれる ように人間の健全な精神にとって小さな親 功運動に共鳴し実行することと同じ程度に “小さな懲罰運動’’に参加することは車の 両輪の如く必要なものであると言えるので はなかろうか。それは人間の正義感・優越 感・差別感の充足を満たす上で重要な運動 の一つでもあると言えるに違いないのであ る。ただ小さな親切運動はおおっぴらに推 奨できるが小さな懲罰運動の方はどちらか と言えば水面下の性格を帯び陰湿なものに なり易いのは止むを得ないことだろう。 ‘‘グー」コ・森永事件”以後,‘‘標的’’と いう言葉もさして過激な印象を与えなくな ったように思われる。およそ運動には目標 もしくは標的が必要であるに違いないから “あこぎな商売”をやっていたり,‘‘札つ き”の悪い子がおれば懲罰運動にも都合が よいと言うこともできるに違いない。その ような悪い子には積年の悪業のツケを返済 する債務があるから俗な言い方をすれば煮 て食われようが焼いて食われようが自業自 得と言うべきだろう。従って悪い子には ‘‘罪の償い”のほかに“一罰百戒’’という 教育的意義もあると言えるに違いないし, また正義感・優越感・差別感の充足を人間 が実現し自己の存在感を確認するための生 きた‘‘工具”としての意義もあるだろうから, 懲罰運動に参加する人間の仲間意識と連帯 感の強化にも役立つという副次的役割もあ ると言えるのではなかろうか。 街中を歩くと“町ぐるみみんなで摘もう 非行の芽’’とか“地域ぐるみで青少年をす こやかに”といった標語を立看板などで見 かけるが,これは現代が組織の時代であり,

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談話室 121

講道館柔道、タイを往く−その6

村 田 直 樹 夜が来て食事に出掛け,一服する。 それから,柔道衣を畳んでバッグに入れる, 部屋を出る。行く先は,タイ柔道協会柔道 場。其処の面々とどうしても手合わせして おく必要があるのである。 私は,タイ文部省体育局へ派遣されたの であり,契約上の任務は,タイ王国14の体 育大苧での指導。だから,地元の柔道協会 ではない。そちらとは契約上,無関係。け れども向こう一年間の滞在で,タイの柔道 界とは必ず関係ができようし,関係ができ るンなら,そのパイプは,風通し良くして おいた方がよいに決まってる,とそう思い, わざわざ此方から出掛けるのだった。 夜のバンコクー 。むわっと頬を撫でる 風はまだ暑い。バンコクの動脈路,スクン ヴィット通りの相変わらずの交通の激しさ。 車とバイクの洪水。その輿水が,先を争っ て猛烈な勢いで走り行く。うっかり道路を 渡れない。 私はタクシーを拾う。バンコクのタクシ ー。これがまた,ため息の出る程の素晴し いシロモノ。日本でならとっくに廃車であ ろうものが,此処では大手を振って現役だ。 ●■ 昔懐しい小型三輪もビュンビュン飛ばし, 右へ左へ走っている。これらの光景,バン コクの一つの顔と言ってよいだろう。 因みにその,昔懐しき′ト型三輪車,タイ 語でサムローと言う。私はタクシーならい つもその′ト型三輪車サムローに乗った。そ の訳は,何と言っても風通しの良さ。おま 前号迄のあらすじ。 まさに食べ頃お色気権化のアヤさん。そ の彼女との,降って湧いた様な国際交流に

胸ふくらませるも束の間,全くの思惑外れ

な幕切れとなった夕べ。 おかしいと思ったヨ,とつぶやく声に, 夕陽のバンコク深紅に燃えて,ため息一つ, 夢一つ−。 今日も著そうー。 まだ朝も9時前というのに,部屋の温度計 は30度を指しちゃって, 「あ、,自分は今,熱帯の国に居るンだ った…。」と確認させられスタートする一 日。 昼間,タイ文部省体育局へ出掛け,どの 大学を回るかなどを話し合い,その後,体 育局々長,秘書,事務官達と昼食会。タイ 料矧こ舌鼓を打つ。こうして一緒に高官達 と食事をするのも立派な国際交流の一つだ って。こんな交流ならいつでもいいぜ./ 愉しきかな談論,そして散会。この日, 午後は予定なし。しかし,外へはもう出た くない。なにしろ暑くて。昼下がりのバン コクは灼熱の太陽に焦熱の街。私は,冷房 よくきく自室に籠り,じっくり静養と決め 込んだ。

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村 田 直 樹 受身ばかりを教えて来るのか,アハハ…。 しかしMr.Murata。Youはよく此方 へ出向いたヨ。評価してやろう。練習を させてやる。あヽ,私の許可だ。」 何という挨拶。これが初対面の挨拶かい−。 噂に聞いて釆た通り,いや,それ以上の 騎慢人。国際交流基金非難の挨拶など初め てなら,練習させてやる,だって。此方は 苛も,講道館五段だぜ…‥・。 私にとり,海外での柔道の仕事は初めて ではない。タイに来る前,講道館の派遣で北 欧のアイスランドに2年間滞在した経験を 持つ。アイスランドでの色々な人との交流は, まことに紳士然たるものがあり,私はマナ ーについて随分学ばせて貰ったものだ。そ の経験が自ずと頭をもたげたか,今此処に 展開する異文化ビトとの交流に,私は只々 唖然とし,言葉をゴクンと呑むだけだった。 彼は続ける。 「八人掛けをやろう。Youは一人の相手 から一本を3回とること。それで次の相 手に交替だ/」 何を勝手に./ 馬鹿なことを言うんじゃ ない。何で今,八人掛けをやるんだよ。第 一,普通は五人掛けだぜ。しかし,それに しても逢ったそうそう何だ,このうすらト ンカチ・おたんこナスめっ,と,ロには出さ なんだが,私の視線と彼の視線がビター」と 合って凝固した。 やるか,と思った。しかし,とも思った。 酷熱療病。熱風酷暑。もとより競技場観覧 席下に在るこの道場内は,それに輪をかけ た様な蒸し暑さ。立っているだけで,額に 胸に汗がでる。こちとら春爛燵,桜の季節 日本からよはヽいのはいと花見気分で釆た 122 ヒ=こ料金格安。そして,サムローという名 も気に入った。 社会の底辺に位置するサムロー運転手達 へ想いを込めて,私はいつも,走れサムロ ーつと,友情の眼差しを向けたものだ。 そのサムローが,私を奏せてまっしぐら。 トゥクトゥクブーツと独特のエンジン音を 響かせて,タイ柔道協会柔道場へ着く。 少し緊張。久々のこの気持。とても新鮮。 しかし徐々に,引締まった気分にもなって きた。 国立競技場観覧席下に,細長い柔道場が 付設され,其処がタイ柔道協会の練習場だ った。 Good−bye,サムロー。 三輪タクシーに別れを告げて,私は中へ 入って行った。 思ったよりも多人数。老若男女の群れの 中,会長らしき人が柔道衣を着て立ってい た。ひと目で判るプライドの高そうな顔。 銀髪で色白,ガッチリした身体つき。およ そタイ人らしくない。年齢は,そう,50歳 前後か。 私は柔道衣に着換え,一礼し,道場内へ 入っていった。静かに進み,まずは隈の方 へ。すると彼が此方へ近付いて釆た。そし て私の正面にすっくと立ち,開口一番,倣 然と言い放った。 「Mr.Murata。You のことは知って るよ。講道館から手紙が釆た。国際交流 基金の派遣だってな。フン。国際交流基 金は文部省体育局の方へばかり派遣して, 協会の方へは全然しない。ナンセンスな Policyとはこのことだ。Ihateit/ Y?uは体育大学を巡回して何を教える ンだ,エー? 全国を回って白帯の連中に

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談話室 123 ばっかりで,暑さに慣れていねエんだ。全 く,苦熱さながら釜の中とはこのことで, 不快指数は上がりっばなし。そんな処へ八 人掛け。それもただ投げるんじゃない。一 人から三本取れという……。 「…………。」 一沈黙一 しかし,私は引けなんだ。 「OK。誰が審判だ/」 ジャジャジャジャーン./ベートーベンの 運命。映画なら音楽がそう鳴って,緊迫の ワンシーンと相成るか。 しかし現実は映画鑑賞の時じゃない。突 きつけられし八人掛け。冷酷非情あヽ無情。 私の前にタイ人柔道家が,ズラリと八人並 ぶじゃないか。練習途中のこととて,彼等 は営んな,ナナ軒をかき,一丁前に全員黒 帯も締めている。 協会長はどうしてこんなことをするのか。 その目的は何なのか。 しかし,今更そんなこと,考えたって仕 方ない。時は逆戻りしないのだ。 私は勿論,自分の技能の優位を疑わない。 絶対に負けるもんか。何だ,八人くらい。 しかし,勝負を前に,何処か不安も残づてい, 心の内に微かな動揺があった。何人目かで 暑さに負けて,引分けられでもしたらどう しょう。私はグッと,その声を打消すべく 唾を呑む。しかし,胸の内なるその声は, 事態の予断を許さなかった。 「Mr.Murata。私が審判だ。」 協会長がそう言って,自らストップウオッ チを取って釆た。 あ、,全ては揃った。最早,闘うだけの 時。一人から三本,八人で二十四本./何と いうハンディキャップレース。 既に柔道場の誰もが練習を止め,先刻よ り我々のこの遣り取りを息を凝らして見詰 めている。柔道場の空気は,弥が上にも張 り詰めてきた−。 「Haji−me./」 幕は切って落とされた。タイ人独特の日 本語で。間の抜けた抑揚め。カーッ。エン ジン全開フル回転。短期決戦。兎に角,問 題はスタミナなのだ。 私は組み際から勝負を賭けていった。相 手の様子を観ようなどとは全然思わず。一 番短い勝負法は,それしかないと思ったか らだ。一人から三本。よーしっ。 一人,二人,三人と,猛烈な勢いで,右 に前にと叩き付けた。案の上,私の柔道は 彼等の技能を上回った。審判の裁定もまず まずではないか。少し安心。 四人目,五人臥身体も私よりやヽ大き めに。それでも私は投げ続ける。エイッ。 ヤーツ。 六人目,七人目。さア,息が苦しくなっ てきた。この頃の相手,防禦が堅い。既に 何人かと戦ってきている私の柔道を見取り, 策を練っているのだろう。技量も参段くら いは有る様だ。 呼吸の激しく苦しい私。顔から吹きでる 汗を柔道衣の柚で拭い,私は覚えず声を発 した。 「よーし,来いっ./」と日本語で。 裂吊の気合。額の汗がバッと散る。 この時掛けた気合い程,心に残る気合いも ない。最早,顔面汗だく,まるで湯でダコ。

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直 樹 ッと下に落ち,相手の白い柔道衣の背を濡 す。とその時彼は腰を浮かし,四這の姿 勢になってきた。下に居ては不利とばかり か,べクッのうつ伏せ姿勢から,膝を折り

身体を縮め腰を上げ,肘をつく様にして四

這の形になってきた。 私は恰度,相手の背に馬乗りの形。 しかし,彼の動作に間断なく,そこから渾 身の力をふり絞ったか,両手を畳から突っ 張り放って膝立ちになり,ドゥとそのまま 仰向けに後ろへ倒れ込んできたのである。 アッこれはっ(反別じゃないか)./ドス ーン。/私の身体は大変な勢いで背中から畳 に落ち,彼の身体の下敷となる。イヤと言 う程背中を打って。背中だけじゃない。イ ヤと言う程後頭部も打っ∵た。上になってい る相手の身体とまるで二枚の重ね餅。上は いいよ。しかし,下の方はたまったもんじ やない。私は,胸は打つ,顔はつぶされる, 頑は打つで目の前真っ暗。やがてグワーン と何やら地響きの様な重い音が聞こえて来 同時に脳髄の芯が,あら‥・まあ・・・脳髄の… 脳髄の…芯が……し…ぴ…れ…たァ…。 村 田 124 しかし負けてはならぬのだ一色んな意味 で。そう,色んな意味で……。 よーし,来いっと私は裂烏の気合いだが 周囲からは笑い声が起った。 日本でなら,ピーンと張り詰める一瞬の 静寂,とでもなろう処が,此処では違って 笑い声。失礼な。でもこの笑いは何なのか。 私は思った。ノおそらく気合いを発していく, ということがこの国の柔道人にはないのじ やないか。だから私のその様子,彼等にと っては奇妙なものに映ったのか,と。試合場 を取り巻いて,膝を立てて見ている子供達 の聞から,この笑い声は大きかった。 私はもう汗びっしょりで,息が苦しく, 大きく肩を揺らしていた。喉も随分乾いて きた。 あゝ,我がスタミナよ一−−一。 スタミナは州貞々に切れるのでなく,或る時 を境に一気に切れた。そして,その後の報 難辛苦。私は襲い釆た肉体的苦痛に歯を食 いしばり,もとより負けてはならぬの心理 的負担も加わって,文字通り,耐忍汗苦の 人となる。 さァ,八人目。いよいよ最後。ハアーツ, ハァ ̄ツ。 身体の芯からふり絞った力で,エイッ, と一本。や、あって,ヤーッ,と二本。そ して三本目はもつれ込んだ。二人は転がり, 寝技となる。 寝技−。これは立技よりもスタミナが 要る。だから長引いたら絶対駄目。私は, そう自分に言い聞かせ,戦法を一つに絞る。 絞技がそれだった。 もつれ合いの中で,私は首尾よく相手の 背後に着くことができた。相手はべクッと うつ伏せ状態。私の額の汗がポクボタポタ チェンマイに行きたい。チェンマイはタ イの北。もう,中国の国境だ。中国。中国 料理,食べたいなァ,ウフフフフ……。 中国は古くから地大物博の国。それだけ に東洋の歴史は舞台も広く,情況も複雑で, 登場人物も大型だ。参加する民族・人種も 目まぐるしいぜ。特に政治が乱れ,中央政 府の権威が下がると,たちまちにして群雄 乱立,諸族相争の大乱世。単一民族の平和 な島国に住む日本人には,想像もできぬ雄 大さ。大きいなァ,そのスケール……。

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談話室 125 次第に近くに聞乙えてきた。 そうだっ,自分は戦っていたんだ−。 ハッとそう思いきや,闘魂メラメラ再燃 し,この野郎,今度は此方が喰わす番だぜ つ0 (つづく) 意識は我れを去ったのか。夢をみたか幻 か。ハッと我れにかえったか。直ぐ目の前 に,何やら浅黒い肌のヒトの後頭部が在る ではないか。圧迫感があり,私の身体は仰 向けで,浅黒いその肌のと卜がこれまた同 じ様に仰向けで,私の身体の上に居る。誰 だこいっは。 ワァワァワァー。ざわめき声が遠くから,

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