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鎌倉期の吉川氏に関する基礎的考察

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(1)

鎌倉期 の吉川氏 に関す る基礎的考察

歴史学教室 ――. は じ心ウに 鎌倉期の在地領主研究上 の重要テーマである譲与のあ り方

,東

国か ら西国への移住 (西遷

)等

に 関する研究は少な くないが

,そ

の基礎 となる各氏族の動向については

,あ

いまいな点 を残 したまま 論 じられている傾向がある。 そこで

,本

稿では上述の諸問題 に正 し く迫 るための基礎的作業の一つ として

,鎌

倉期 (主として鎌倉末期

)∼

南北朝初期の吉川氏 の動向の解明 を試みることに したい。 吉川氏 にはまとまった史料 が残 され,かつそれが早期 に刊行 されている(1)の に もかかわ らず,これ を対象 とした研究 はさほ ど多 くない。特 に本稿で対象 とする時期の吉川氏 について

,多

少 な りとも 論 じた もの としては

,管

見の範囲では次 の

8編

の著書・論文があげ られ るにす ぎない。

(1)瀬

川秀雄氏 『吉川元春♂ 鬱

)小

林宏氏「南北朝・ 室町期 における安芸国吉川氏の動向につ いて

?

0)太

田順三氏「鎌倉期の荘園 と勧農 (1・ 2)甲 に

)東

郷松郎氏「鎌倉時代 における神護寺領福井荘の荘域 について

P

)『

兵庫県史 (第

2巻

)伊 脩

)水

野恭一郎氏「播磨国福井荘 と吉川氏

P

9)今

井林太郎氏 丁神護寺領播磨国福井荘

?

)『

大朝町史 (上巻)伊 これ らによって明 らかにされたところは数多いが

,共

通 してある欠陥 を内包 しているように思わ れる。その第一 は

,吉

川氏の全体 の流れ―― なかの一 つの家の動 きでな く―― を追 うという面に欠 ける,も しくは乏 しい という点である。勿論,これは史料の残在状態 に強 く制約 され る問題である。 現在残 されている史料 は

,吉

川氏全体 のそれではな く

,そ

の一つの系統 に伝 えられた ものだけで し かないか ら

,自

,他

の系統 については把握 し難いという状況が生 まれて くることは

,致

し方のな いところである。 これ は吉川氏 に限ったことではな く

,一

般 に鎌倉期の武士団研究の除路 ともい う べ きものである。 しか し

,全

体 の流れ を考 えることな くしては

,そ

の中の一流の動 きを正確 に とら え難 いことは当然であ り

,史

料上の制約 はあるが

,な

おかつ全体 を考 える努力 を惜 まないことが必 要 とされているのではなか ろうか。

第二の点は

,系

図類を無批判に受け入れ

,そ

れに基づいた記述がなされていることである。吉川

氏 の系 図 は

,少

な くとも現存 の もの は近世以 降 に作 られた もので あ るあ るいは現存 系図が

,そ

勤 織

(2)

錦織 勤:鎌倉期の吉川氏 に関す る基礎的考察 第1図 吉川 系 図 (徴古館 蔵 「吉 川家御 系 図」) 我 │ 経 義 │ 友 兼 │ 朝 経 │ 経 光

1

静 経

経 経 経 久

兼 任 貞 弾 典 経 経 厩 春 見 丸 経 景 ︱ 経 朝 経 清 師 平

1

静 経 経 経 経 家 頼 長 盛

│ │

実 経 経 秋 │ │ 虎 経 熊 見 当時伝 え られていた古 い系 図 を も とに して作成 され た可能性 が あ る として も

,う

の み にせ ず批判 的 に使用 す る という姿勢 が望 まれ る ことは言 うまで もない。 以 上 の点 に鑑 み

,本

稿 で は次 の2点に留意 しつつ,吉川氏 の動向 について考 察 を進 めてい きたい。 第一 は

,で

きる限 り全体 の流れの 中で考 える とい う点 であ り

,第

二 は

,可

能 な限 り確 実 な史料 にの み基 づいて立論 す る とい うことで あ る。史料 の制約 な どか ら上 の2点が完遂 で きるわ けで はないが, 常 に念頭 に置 きなが ら論 を進 めてい きたい。 具体 的 に個々 の問題 に入 る前 に

,前

提 とな る諸事 実 を確認 してお こう。『尊卑分脈』に よれ ば

,吉

川氏 は藤 原南家の出で

,駿

河 国入江庄 の入江氏 の庶家 にあた る。 そ して経義 が同庄内吉川村 (現清 水市吉川)を 領 して吉川を名乗 ったのが初めとされているよ°その子友兼は正治

2(1200)年

正月に, 謀反を起 こした梶原景時の子景茂 を討ったが

,自

らも討死 し

,そ

の功により子の朝経 (初め経兼) に播磨国福井庄地頭職が与えられたよかさらに朝経の子経光は承久の乱の戦功によって安芸国大朝本 庄を獲得するよ°ここに吉川氏の所領は知 られる限 り

,吉

川村・福井庄 。大朝本庄の 3ケ 所 となった のであ るより それではこれがどのように相続 されていくのか。それをめぐって人々はどのように動いたのか, というような点について

,次

章以下で考 えてい くことにしたい。なお便宣上

,経

高・経盛 。経茂 の 各系続 ごとに考察を進めることにする。

二。経高系の所領相続

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 34巻 経光 か ら経高への譲与 を示 す ものは残 されていないので,9経高か ら子息への譲与 を通 して復元的 に考 えるほかない。経高か ら子息 らへの譲与 を示す もの として

,次

掲の

6通

の譲状・置文がある。

(a)正

和元 (1312)年10月 18日 吉川一心 (経高

)譲

状(10 わ うくま (王熊

=経

長)(171に福井庄東保上村 の うちの一心知行分の屋敷・給田を譲与。

(b)元

応元 (1319)年10月 3日 吉川一心譲状(1° ます くま (益熊

=経

盛)(19に大朝本庄枝村・ 田原・竹原等10ケ村の田畠な らびに材木 山を譲与。 ただし

,編

者 によれば外題の金沢貞顕 の花押 に疑点あ り。

(C)元

応元年10月 3日 吉川一心譲状案9° 益熊 に大朝本庄 内の田原・ 竹原 を譲与。

(d)元

応元年10月 3日 吉川一心譲状?り 王熊 に大朝本庄枝村内・ 大塚・ 妻鹿原 を譲与。

(e)元

2年

11月18日 吉川経頼置文?り 大朝本庄枝村内の名田

6町 7段

を経高遺言 によ り経高後家に譲与。ただ し

,後

家一期の後 は益 熊 に譲 る。 このほか1町

5段

も後家 に譲渡す。 この うちの

5段

は一期の後に益熊 に与 える。残

1町

は経頼へ。

(f)貞

7(1351)年

6月11日 尼良海 (経茂後家

)置

文99 「 をあさのなるた きの一心のゆつ り」。すなわち一心か ら経茂への大朝本庄鳴瀧の譲状。ただ し, 譲与年月 日不明。 これ までの研究では

,経

高か ら子息への譲与 については,主 として(b)に基づいて立論 されている。 そこで経高の所領 はほ とん ど経盛が相続 した もの とされ

,他

の史料 はあまり顧 み られなか った とい ってよい▼うところが

,経

盛への譲状 としては外 に も同 じ日付の(C)がある。 しか も両者 は内容が大 き く異 なるが

,後

の諸史料 と比べ ると(C)の方が妥当な もの と解 され る予9それに,(b)は外題の金沢貞顕 の花押 に疑問あ りとされてお り

,お

そら く後 の作成 になる偽文書である子°従 って

,正

しくは(b)を除 外 し

,残

5通

の文書 を総合的に考 えなけれ ばな らなか ったのである。 まず話 を大朝本庄 に しぼって進 めていきたい。経盛は田原・ 竹原ニ ケ村 と枝村内に若干の田畠を 与 えられЧ C)。 (e)一

,経

長 は枝村内 (の田畠

)と

大塚・ 妻鹿原ニケ村 を相続 した一―咆― 。 また経茂 は鳴瀧村9つ を譲与 されてい る一―オー 。(C)∼(f)にみえる大朝本庄内の村名 は以上6ケ であるが

,そ

れでは経盛 。経長が大朝本庄内の大部分 を相続 したもの としていいのであろうか。 鎌倉期の大朝本庄 を構成する村 について窺わせ るものは

,正

2(1313)年

4月20日「関東御教 書

Pと

前の(b)の譲状である。 そこには

,

ともに経高の知行地 として大朝本庄内枝村・ 田原・竹原・ 大抜・平屋 。大塚・妻鹿原・小枝・ 朝枝・ 鳴瀧の10ケ村がみえる。 この10ケ村が大朝本庄のすべて なのか

,あ

るいはその一部なのかは

,こ

の文書 自体 か らは明 らかでない し

,そ

れ以上 に問題 なのは この

2通

の文書がいずれ も明 らかな偽文書であることである〔前述の ところ,および註10・ 90参 照〕。 しか し

,こ

2通

は経盛系の子孫が大朝本庄全体の知行 を主張するために作成 した一連 の偽文書 の うちの

2通

なのである°9から

,実

在 しない村名 を記 しては意味がな くなるか と思われ る。従 って, ある時期 に実在 した村 とみることは許 されよ う。問題 はその作成当時の村 と鎌倉末の村 とが一致す るか どうかであるが

,田

原・竹原 。大塚・妻鹿原・ 鳴瀧・ 枝村 の6ケ村 については

,既

述 の如 く鎌 倉末 にその存在が確め られ る。 また大抜 (貫

)村

も正平

22(1367)年

8月 4日 「吉川経名置文」ωlこ みえるか ら

,こ

れ も鎌倉末に遡 りうる とみてよか ろう。残 る3ケ村 について も

,小

枝・ 朝枝 は現在 も各々一 つの谷の名称 として遺 され ていること

,平

屋村 も田原・竹原・ 妻鹿原の範囲確定作業 (後

(4)

μ ∞ 左 図 の 線 は 、 田 と 山 の 境 の 線 で あ る 。 第 2 図   大 朝 本 圧 魂 醇 彗 ︻ 熱 ゆ 盤 ③ 叫 三 み ︹ 淵 群 が 脳 辞 S 蝋 鴻

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第34巻

19

)の

結果か ら

,そ

の所在がほぼ推定可能であることか ら

,鎌

倉末 に実在 した と認めて良い と思わ れる。 そ して

,既

述 のよ うに

,大

朝本庄全体の知行 を主張するために作成 された もの と考えられ る か ら

,10ケ

村 は当庄の全貌 を示す もの とみて差支 えなかろうゆ さて話 を元 に もどせば

,経

盛・ 経長の相続 した4ケ村 は村の数か らいえば当庄の

40%に

す ぎない ということになる。 しか し

,村

の数は一応の目安 とはな りえて も

,絶

対的な決め手 にはならない と いえる。そこで

,次

に この4ケ村の範囲を地図上 に確定する作業 を試 みることに しよう。 前の10ケ村の うち

, 2万 5千

分1の地図上 にその地名 を遺 しているのは

,田

原 。大塚・妻鹿原・ 小枝・ 朝枝・ 鳴瀧の6ケ村 である。 そのほか

,大

抜 (貫

)と

いう地名 は『芸藩通志』巻56に見出せ る (図2に 示 した辺 り

)し

,『大朝町史 (上巻)』 に も九門明の近辺の地名 として遺 っていると記 さ れている (138頁)。 さ しあた り明 らかになるものはこの7ケ村 であ るが

,残

る平屋・竹原・ 枝村 に ついて も,(CXd)の譲状 に記 された四至記載か ら明 らかになる ところがある。 (C)に記 され た田原・竹原の四至 は次の ような ものである。

:\

1晏

瀞抜

ξ

,む

.き に しハ

,ほ

しこ ミの は らよ り

,あ

かつ たにのたわたかぶ しへ っ ゝきたる ミね をか きる きたハ

,た

かの す よ り

,い

わ つ きへ つ ゝきたる ミね をか きる また(d)には

,大

塚・ 妻鹿 原の四至 が以下 の ように記 され て い る。 ひんか しハ

,え

た の ミやの は ゝすへのわ たせ をか きる ミな ミハ

,た

かの す の ミね

,い

わつ きへ つ ゝきたる ミね をか きる (市 木) に しハ

,い

ち きをか きる きたハ

,い

ちき ミさかか んひ きの こ しをふん にか きる まず注 目すべ きは

,田

原・ 竹原の北 の 堺 と

,大

塚・ 妻鹿 原の南 の堺 が一致 して いる ことであ る。 つ ま り両者 は堺 を接 して南北 に位置 していたのであ る。 ところで

,田

原 。大塚・ 妻鹿 原 は現在 のそ の地名 の辺 りで ある ことは明 らかで あ る。 とすれ ば

,竹

原 は3ケ村 の間 に位置す る現在 の筏津 の辺 であったことは間違 いないよかまた平屋村について,『大朝町史 (上巻)』 は

,田

原・ 竹原の東の堺 に 「ひ らやのはらの ミね」とあるこ とを根拠に現在の茅原 あた りとする(140頁)。 妥当な もの と思われ る。以上のことか ら

,田

原・ 竹原 は図2に示 した地域 と考えて誤 りない と思 う 『9大塚・妻鹿原につ いても,東の堺が「 えたのみや」(枝の宮

)で

あるか ら,こ れ も図に示 した範 囲 とすることがで きる。 なお,『大朝町史 (上巻)』 は枝村 をこの枝の宮・間所 あた りとしている (140買)。 さて

,現

在の地名 への比定作業 を通 して明 らかになった ところでは

,田

原・ 竹原・ 大塚・妻鹿原 の4ケ村 は大朝本庄の周辺部分 に位置 し

,面

積的に も他の諸村 と比べて とりわ け広 い とい うことも なさそ うでぁる。であ るとすれば

,大

朝本庄の中心部 を含 む

,ほ

かの諸村 (ただ し鳴瀧 は経茂が知 行 している

)は

,経

高か ら誰れに譲 られたのであろうか。 それ とも経高自身 も上の4ケ村 と鳴瀧・ 枝村の一部以外 には知行 していなかったのであろうか。 この点 について

,項

を改めて考 えることに しよう。 2 前の問題 については(e)の史料が手懸 りを与 えて くれる。 まずその全文 を掲げよう。 ゆつ りまいらセ候 あ きの くにをあさのほん しや うゑたむらの うちの ミやうてんの事

(6)

錦織勤:鎌倉期の吉川氏 に関す る基礎的考察 ミきゑたむ らの うち

,も

りひ ろ ミや う, くにや す ミや うの あいた に

,た

い んち ゃ う

,た

け ミつ

ミやうのならひ

,し

んさへもんのつくり

,

すけたらうかは

守卜

托にミやうのうちに

,

にちやう

, 又五郎 入た うかや しきt隼サ茫五 たん

,さ

ね まさ ミや うに

,に

ちや う四 たん

,も

り くに ミや うの うちに

,八

たん, この ミや うてんハ

,こ

け御 ふん として

,御

いち この ゝちわ

,ま

す くまにゆつ りたふへ きよ し, こ入道殿 之御 ゆい こん にお ほセをかれたるに よ りて

,そ

の ま ゝに ゆつ りまい らセ候 也

,

この ほか さふ らうたい うか 志省諾々の ミや うのあいた に

,い

んちや う五 たん も御 け御 ふん にて

,五

たん をは御 いち この ゝちハ

,ま

す くま殿 にた ひ候

,い

ん ちゃ う下 てん にて候 はん をは

,御

い ち この ゝちハ つね よ りにゆつ りた ひて候 也

,か

つ うハ ます くま との ゝふん,た わ ら, か たわ ら

,わ

う くま との ゝふ ん

,を

うつか

,め

かわ ら

,て

らは らの ね うハ うのふ ん

,さ

うけん た ミや う

,ち

や うら う御 セんのた け ミつ ミや うい けの ところ ところこ入 た う殿 の ゆつ りしや う に まかセて しさい を申へか らす

,よ

て ゆつ りしや う くたんの こ と し, けん を うにね ん十一 月十 八 日 きんかハ の こ二郎 つね よ り (花押) この 内容 は次 の通 りで あ る。

(i)大

朝本庄枝村 の 内 の も りひ ろ名

,

くにやす名 の間 に田

1町

,た

けみ つ名 のな らび

,新

左衛 門 作

,す

け太郎 は 'み 死2名の内 に

2町

,又

五郎入道屋敷 ためやす名に

5段 ,さ

ね まさ名 に

2町 4段

, もり くに名 内 に

8段

,以

上 の

6町 7段

は「経高後 家分 として知行 し

,後

家一 期 の後 は益 熊 (経 盛

)に

譲 るべ し」 とい う故 入道 (経高

)の

遺 言 に従 って

,経

頼 が経 高後 家 に譲与 。 (

)こ

の外

,二

郎 大 夫 惑害お魚の名 の間の1町

5段

は後 家分 として知行 す る。後家一期 の後 は

,こ

の うちの

5段

を益 熊 に与 え

,残

る下 田

1町

は経頼 に譲 られ るべ きで あ る。 (

)益

熊 の分 で あ る田原・ 竹 原

,王

熊 (経長

)分

の大塚・ 妻鹿 原

,寺

原女 房分 の そ うけんた名・ ちや うらう御 前 の た けみつ名 以下 の所 々 について は

,経

高 の譲状 に任 せ て経頼 は異 論 を申 し立 て ない。 以上 の ことを経頼 が置 文 として確認 して い る もの で あ る。 (1)。 (

)の

田地 は

,内

容 か らみ て一旦 経頼 に譲 渡 され て いたのが

,そ

の後 の経高遺言 に基 づ いて

,経

頼 か ら後 家 (その後 は益熊

)へ

譲 られ た もので あ るこ とは明 白で あ る。 ところで

,経

頼 が 益熊・王熊分 の4ケ村 につ いて子細 を申 さな い と約 して い るこ とか ら

,こ

の諸村 について も (i)・ (

)と

同様 の事 情 を続 み とる こ とはで きな いだ ろ うか。 すなわ ち

,経

頼 が相続 す るはずで あ つた ものが

,益

熊 らに譲 り直 され た こ とが背景 にあ る とみ る こ とはで きな いで あ ろ うか。勿 論,( i)の 文言 はただ単 に

,幼

少 の益 熊 らに対 して年長°つの経頼 が保障 を与 えた にす ぎない とい う可能性 もあ る。 しか し

,後

述 の ご とき事 情 か ら

,上

の よ うに判断す ることが許 され るよ うに思 う伊D 少 な くとも (i)。 (ii)につ いての推定 は確 かで あ る。 それで は一体 なぜ その よ うな入 り組 んだ 譲与 を したのであ ろ うか。 この こ とを直接 示 す もの はないが

,一

定 の推 測 は可能 で あ る。手 懸 りと なるの は これ らの人 々 の年 令 に関 す る事 実 と推 論 で あ る。 経高 は経光の子であるが '° 父の経光に関しては

,

承久の乱 (1221年

)に

参加 したことゞ

n文

永4 (1267)年 2月17日∼同

5年

7月18日の間に死没 していることが知 られる∫働当然

,経

高 は文永

5年

以前の出生ということにな り,(C)。 (d)の譲状が書かれた元応元 (1319)年 には

,少

な くとも51才以 上であったことは明 らかである。しかも,父経光 は承久の乱時には既に成人 していた とみられる想)こ のことから計算すれば

,経

光の死亡年令は62才以上 と見当をつけることがで きるよωとすれば

,経

高 が父の死去の直前に生 まれた とは考え難 く子1)自然

,元

応年間の経高の年令 も50才代の前半 というこ

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第34巻 とはなかった と推定 される。 一方

,益

熊・工熊 ともに元応

2(1319)年

には未だ幼名 であるか ら

,彼

らの出生年代 はお よそ推 測す ることやできる。 おそ ら く現在残 る史料上 で

,初

めて王熊 に所領が譲 られている正和元(1312) 年一―前出

(a)__を

さほど遡 らない頃の誕生 とみて大過 なか ろう。 とすれば

, 2人

は経高 に とって かな り年 とってか らの子息 とい うことになる一―少な くとも40才過 ぎてか らの誕生 は確実である一 益熊 らが40才過 ぎてか ら生 まれた とい うことになれば

,そ

の以前に他の男子 (実子・ 養子 を問わ ず

)へ

譲状が書 き与 え られていなかった とは考 え難 い。その際

,当

然田原・竹原 ら4ケ村 も誰れか に譲 られていた とみることがで きる。 この ことと,(C)∼(e)の内容 を考慮すれ ば,(e)の置文 をめ ぐっ て次の ような事態が想定 され よう。 益熊・王熊出生以前に

,経

高 は所領の大部分 を経頼 に与 えるという譲状 を書 いていた。 ところが, その後二人が生 まれた (おそ ら く経頼 とは他腹 であろう

)の

,経

高 は譲状 を書直 し

,一

旦経頼 に 譲 ることにしていた所領の うち

,田

原・竹原 を益熊 に

,枝

村 内 (の田畠)・大塚・妻鹿原 を工熊 に相 続 させ ることに した。経頼 はこれ を受入れ

,

また経高の死後

,彼

が遺言で指示 していた枝村名田の

7町

余 も後家 (そののちは益熊

)に

譲 り渡 した。 というような経緯であるより ところで

,そ

の譲 り直 しに経頼が抵抗

,

もしくは難色 を示 した形跡 は

,少

な くとも現存史料上 に は見出せ ない!°このことは

,当

時の親権 の強 さもさることなが ら

,む

しろ経頼の手元 になおかな り の所領が留保 されていた ことを窺わせるものではなかろうか。言い換 えれば

,大

朝本庄の残 る5ケ 村 の うちのい くつか―一 おそ ら くその大半 “

41

の村 については

,経

頼の知行分 として残 されてい た と考えられるのではなか ろうか。決め手 に欠ける話ではあるが

,こ

の ように考 えることによって 多 くの史料が無理な く解釈 しうるように思われ る。 また

,現

存の吉川家文書中に経高以前の文書が ほ とん ど残 されていないことも

,上

の ように考 えると説明が容易 になる。すなわち

,所

領 の中核部 分 とともに重代 の文書 も経頼 が相続 したが

,後

にその系統が絶 えたために°文書 も伝わ らなかった, と。なお

,こ

の推測が認 められるな らば

,当

,経

高 は大朝本庄のほとん どの部分 を相続 していた と考 えてよい ことになる。 3 これ まで経頼・ 経茂 と経高 との関係 について は全 く触れずに論 を進 めて きたが

,

この問題 に も一 応 の答 えを出 してお く必要が あ る。本頂 で は この点 と

,系

図上 経高 の弟 とされ る経信・ 経時 に関 し て も

,ご

く簡単 にではあるが触れ てお くことに した い。 経頼 につ いて は諸系図 は経高子 息 としてお り

,前

に検 討 した(e)の置文 の内容 もこれ と符合 す るか

,経

高 息 として よい と思 われ る。 なお

,諸

系 図 は経頼 を経盛 (益)。経 長 (王 熊)の弟 とす るが , 実 は経頼 が兄 で あることは前述 の ところか ら明 らかで あ る。 経 茂 は諸系図 では経高弟 とされ る。 これ を直接否定 す る もの はないが

,次

2つ

の事 実 は これ に 強 い疑 間 をいだかせ る もので あ る。第一 は

,鳴

瀧村が経高か ら経茂 に譲 られ た こ と一― 前出(f)一― であ る。勿論

,兄

か ら所領譲与 を受 ける ことは しば しば見 られ ることで あ る。従 って

,経

茂 が弟 で あ る ことを否 定 す る材料 として は弱 い。 しか し

,次

の第二 の点 を考 えあわせ る と

,上

の事 実 は無視 で きない よ うに思われ る。 第二 の点 とは

,経

高・ 経茂 らの年令 に関 す る事実で あ る。経光 が文永

4(1267)∼

5年

に死没 し

(8)

錦織勤:鎌倉期の吉川氏 に関す る基礎的考察 てお り

,そ

の折 りに年令 は60才以上 であ った と考 えられ ること

,経

高 は元応元 (1319)年段階で は 少な くとも51才以上

,

しか も50才前半 ということはなかった と推定 されること

,益

熊・ 王熊 は元応 元年 には未だ幼名であ り

,10才

前後 と思われる こと

,等

については前 に記 した。 また

,経

高 は元応 元年 に二人の息子が幼名であつたか ら,この時 70∼80才の高齢 とも思 えない。 とすれ ば

,経

高 は経 光 に とってかな り年 とつてか らの子であった ことは間違いなか ろう。 ということになれば

,も

し経 茂が弟であるなら

,二

人の年令 はさほど離れていなかった とい うことにならざるをえない。 この ことが認 められ るな ら

,経

茂 を弟 とす ることは次の点で不 自然な面が生ずる。 それ は

,そ

れ ほど年の離れていない兄が大朝本庄の大部分 を相続 しているのに

,弟

がわずかに鳴瀧村 しか譲 られ なかった ということが

,当

時 (文永頃

)の

分害」相続制の中であ りえたのか という点であ る。 また経 茂が (成人 した後 に

)そ

れを肯んずることが あ りえたのであろうか ということである。 上の2つの疑問 は

,そ

れぞれ単独 でな ら全 くあ りえない ことではな く

,経

茂が経高弟であ ること を否定するには至 らないか もしれない。 しか し

, 2つ

を並べてみると疑間は打消 し難 い もののよう に思える。か りに経茂 を経高息 と考 えれ ば

,第

一の点 はスムーズに理解で きるし

,第

二 の点 もよほ ど説明がつけやすい子°ただ残念なが ら決め手 に欠 けるので

,一

応系図に従ってお くが

,経

茂が経高 の子である可能性 も強 いことを指摘 してお きたい “η 系図で経高の弟 とされる経信・ 経時 については問題 はないのであろうか。結論 をいえば

,

これ も 信憑性 に乏 しい と言わ ざるをえない。決定的な証拠・ 理由があるわ けではないが

, 2人

とも建武年 間に各地 を転戦 してお り甲年代的に経光息 としてやや無理があると思 う!9そ うした場合

, 2人

の系 譜は どうなるのかが次の問題 となるが

,

これについては不明であるとしか言えない。

4

ここでは吉川経国について考 えることに したい。彼 は系図にはみえないが

,経

高の子 (末子

)で

ある可能性が大 きいのである。 康永

2(1343)年

二月26日「吉川経国譲状Ψ は,「つね くにかちうたいさうてんの しりや う」であ る「あ きの くにおハ さの しや う大つかのむ ら」 を「つね くにかなん しにて も

,に

よしにて も候 へい て き候 ハ ゝ

,か

の ところをいちゑんに」子々孫々 まで譲 り渡す と記 している。経国の妻の懐妊 に際 して

,そ

の未生の子 に先祖相伝の大塚村 を譲 る約束 を した ものである。 しか し

,大

塚村 には当時別の地頭が存在 していた。康永

2(1343)年

3月27日「吉川龍熊丸請文」) では,「当知行之地大朝庄大塚村者

,去

承久兵乱之時

,曽

祖父吉川弥二郎経光法師

,依

軍忠令拝領」 と

,龍

熊丸が当知行 と由緒の正 当性 を主張 してい る。大塚村 は前述のように経高か ら経長へ譲 られ

た所領のうちの一ケ所である。経長以降は

,元

3(1331)年

に子の「たつくま」に譲られ

'2以

彼が知行していたことは明らかであるよ

°

それ では

,経

国 が「 ち うたい さ うて んの し りや う」と言 ったの は全 くの虚偽 だ ったので あ ろうか。 この点 を考 える手懸 りは元徳

3年

9月20日「吉川経長 置文写nに あ る。 まず

,そ

の全文 を掲 げ る こ と に しよ う。 た つ くまいて き候 はぬ さきに

,は

わ にて候人

,あ

るいハ きや うたひや う しの ゆゑ に

,ゆ

つ り状 をか きて あつ けまい らせて候 を

,み

なみな ひ きや う者 とて

,申

候 へ とも給 ハ らす候

,

も し百 に 一 もはわ にて候 人,この ゆつ りともひ きや うとをか し申候 ハす候 とも

,大

つか

,め

か は らをハ, たつ くまにゆつ りたひ候 ぬ る うヘハ

,こ

日を しや う して さ ういな くち きや うすへ く候 也

,ね

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第34巻

23

は うにゆつ りまい らせて候 よ りほかハ

,つ

ねなかちきや うのふん

,す

こしもい らんわつ らひな く

,ち

きや うすへ く候也

,よ

んてのちのために状 くたんの ことし。 けん とく三ねん九月廿 日

藤原経長 (花押) 前半部分 は文意難解で

,適

確 に意味 をとることが困難 であるが

,一

応次の ように解 したい。「龍熊 出で来候 はぬ前に」経長 は兄弟養子 をとって譲状 を書 き

,(弟 =養

子が幼かったので)「母 にて候人」 に預置いていた。その後

,実

子龍熊誕生 による所領の再譲与 を彼女 は「皆々比興者 とて」承認せず, 経長が先に預 けた譲状 の引渡 しを求 めて も応 じなかった。万―

,母

が この譲状 (元徳

3年

の経長置 文

)を

比興 と犯 し申 され ることがあったとして も

,大

塚・ 妻鹿原 を龍熊 に譲与 した上 は

,こ

の譲状 を後 日の証 として

,相

違 な く知行すべ きである

,

と。 少 な くとも

,龍

熊出生以前 に経長が弟 を養子 として

,一

旦 自らの所領 を譲与 していたこと

,そ

の 後

,龍

熊が生 まれたため

,養

子への譲与 を取消 して龍熊に譲 ることにした こと

,そ

れに対 して母が 異議 を唱えて いた,も しくは唱 える可能性があった こと

,に

ついてはほぼ認 め られ るのではなかろ うか。 とすれが

,経

長には弟があった ということにな り

,そ

れは経高の子息で あった とするのが 自 然であろう (母が再婚 して儲 けた子 という可能性 もあるが)。 前にみた経国の大塚村領有主張が

,こ

の兄弟養子解消 をめ ぐる相論 に根源があるとみるのはさし て無理ではない。たぶん

,経

長 らの母 は所領譲 り直 しに際 して経国 を憐れみ

,大

塚・妻鹿原の うち 大塚村 だけは経国に与 えるよう画策 したのであろう。経国はそれに基づいて

,現

実には経長側が当 知行 していたに もかかわ らず

,大

塚村の領有 を主張 していた とみることがで きるように思われる。 ただ この ように考 えることには

,経

高の年令か らみて王熊 らの弟の存在 を想定することがやや困 難な感がないわ けではないこと

,経

長の出生年か らみて兄弟養子 をとるのが早 すぎるように も思わ れること

,経

国 を経高息 とすると経高か ら彼への譲与が何 もなかった ことは不 自然であること

,な

どの難点 もある。 しか し

,一

応経長置文の解釈 を もとに

,経

高 に経国 という子息があった と考 える ことに したい。 なお

,経

国の主張 は龍熊 (実経

)一

―虎熊丸父子の当知行の前 に実 ることはなか っ たようで ある9

経盛・ 経 茂系 の所領相続

1 本章 では播磨国福井庄の吉川氏 と

,石

見の経茂系の吉川氏 について考 えることにしたい。本項で はまず前者 を とりあげる。 これについては既 に諸先学によって明 らかにされている点が多いが

,気

付かれ ていないところ もあ り

,ま

た意見の一致 をみてない点 もあるので

,諸

説の整理 をかねて考察 を加えることにしたい。 福井庄 は朝経が正治

2(1200)年

に梶原景時跡 を拝領 した ものであった。 ところが

,そ

の朝経が 補任 された地頭職の範囲については

,東

西両保か らなる福井庄の全体であった とする今井氏 の論60 と,同 庄内東保 のみであった と考 える水野氏の論6の が併存 している。両説の分岐点 は,貞 永元(1232) 年 9月24日「関東下知状写0にみ える西保地頭藤原氏 を吉川氏 と考 えるか否か にあるよ917k野氏 はこれ を「吉川氏一族 の何 びとで もなかったようである」 とされ るが

,そ

の論拠 は示 されていない。今井 氏 は「梶原景時の跡 を受 け継 いだ とすれば

,福

井庄全域 と考 える方が妥当であろう」 とし

,地

頭藤 原氏 を吉川氏の子女 であるとされ る。

(10)

錦織勤:鎌倉期の吉川氏 に関す る基礎的考察 今井氏が半J断の根拠 とされた点 は

,一

部分を受 け継いだだけで も

,お

そら く「景時跡」 と称 され たであろうことを思 えば

,や

や決め手 に欠 けると言わなければならないが

,結

論的には妥当である と考えられる。 それは

,一

つには貞和元 (1345)年11月19日「赤松 円心請文子ωに「福井庄閉所事

,西

保 内左方 八十石 者

,修

理大夫維貞跡也

,先

朝御代建武元年

,吉

河左衛門尉経清

,以

本領之号 申賜」 とみえることに よる。西保内左方 を吉川氏が本領 と号 していること

,そ

れが認 め られて給与 された ことは

,

この部 分が大仏氏に渡 る以前 に吉川氏の知行地 であった可能性が強い ことを示 している『〕)左方は西保の一 部にすぎないが甲景時跡 を当初か ら細切れにして給与 した とも考 え難 いよ°西保全体が吉川氏 に与 え られていた とみる方が自然であろう。 第二 に

,東

保地頭 に関 して,「当保地頭職者

,追

吉河左衛門経光法師之例」 とか,「当保者

,追

梶 原平三景時之跡

,任

吉河左衛門経光法師之例

,致

本司之所務」と言われている°つ事実が注 目され る。 ここでは朝経ではな く経光が吉川氏地頭の初代 と意識 されてい る。 しか し

,正

2(1200)年

に拝 領 したのが経光でない ことはほぼ確実なのである°9から

,上

の事実 は

,東

保地頭の初代が経光であ ったと解す るほかはない。 つ まり

,東

西両保のそれぞれの地頭職が成立 したのが経光の時 とい うよ うに考えるべ きなのである。 そ うなる と

,経

光以前の朝経 は福井庄全体 の地頭であった としなけれ ば

,辻

棲があわな くなる。 以上の

2点

から

,福

井庄地頭職 は正治

2年

に朝経が拝領 し

,そ

の後一一 おそら く嘉禄(1225∼ 6) 頃(661 東西 に分割 して譲与 され

,東

保 は経光が

,西

保 は吉川氏 の別の子女 (藤原氏)力 務目続 した と考えることがで きよう。 さて

,西

保のその後 については

,少

な くともその一部が北条 (大仏

)氏

の手 に渡 り

,そ

れが南北 朝初期 に吉川経清 に帰 した ことが知 られ るにす ぎない。東保 について も

,経

光以降 は不明な部分が 多いが

,多

少知 りうる ところもある。 文保元 (1317)年 5月25日「吉川慈真譲状彎つによれば

,慈

真 か ら子“°の五郎経景へ東保上村°9)地 頭職が譲 られている。 そして経景か らは

,暦

4(1341)年

に師平子息で

,甥

にあたる吉川 き次郎 (経朝

)を

養子 として

,そ

の まま譲渡 された『°さらに観応元 (1350)年に再 び経景か ら孫吉河若法 師丸に上村地頭職 が譲与 されている°これは

,経

朝が貞和

4(1348)年

9かを最後 に史料上か ら姿 を 消すことを考 えれば

,彼

が死没 したための再譲与 と解す ることができる。 なお若法師丸 は経朝の子 として間違 いなかろ う。 さて

,慈

真∼若法師丸の伝領 は明 らかになるが(若法師丸以後 は不明

),慈

真 と経光 との関係 は如 何であろうか。文書上 これ を示 す ものはないが

,系

図では経光―一経盛――経家一一経景―一経朝 となっている。 これ に従 えば慈真 は経家 ということになる。従来の研究で もその ように扱われてお り

,特

に異 を唱 えるべ き材料 もないので

,慈

真 は経家 としてお きたい。 ところが

,経

盛 については

,そ

の存在 を認 めるもの°°と否定す る (経家 を経光息 とす る

)も

の°つ に

,論

が分れている。系図以外には拠 るべ きものがな く

,そ

の系図に も信憑性 に欠 ける面があると なれば

,い

ずれが正 しい とも決 し難 いが

,世

代の移 り方か らす ると

,経

光 と経家の間に もう一代置 く方が無理がないようである。前章で述べたように

,経

光 は文永

4∼

5(1267∼

8)年

の間に死没 しているが

,そ

の時すでに老齢 に達 していた。 もし経家が経光 の子息であるな らば

,文

保元(1317) 年にはかな り高齢であったはずで

,そ

の頃 まで上村 を譲与せずにいた とは考 え難 い。勿論

,経

高 と 益熊 らのような例 もあ り

,あ

りえない ことではないが

,普

通で はない。 この ことと

,信

頼性 に乏 し いとはいえ

,系

図に経盛が記 されていて

,そ

れ を積極 的に否定 する材料 もない ことを勘案すれば,

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第34巻

25

一応系図に従 ってお くのが無難である。 以上

,福

井庄 は朝経が拝領 し

,そ

の子経光 と女子 にそれぞれ東保・西保が分割譲与 され

,東

保の 方は

,少

な くともその うちの上村 は経盛――経家 (慈真

)一

―経景――経朝――若法師丸 と相伝 さ れていった

,

とい うのが本項での結論である。 2

ここでは経茂をめぐる諸問題について考えてみたい。彼の妻良海は石見国三隅庄に本拠を置く三

隅氏の出である。三隅氏は同国の豪族益田氏の庶家で

,兼

信を祖とする

5)兼

信の次子兼祐は永安別

符と益田庄内の小弥富・寸津・美磨博・庄久保を譲与され

,永

安氏の祖 となった

0兼

祐には兼栄と

:宇

:た

│こ

:云

i農

ttF鼻

兼祐妻良円に譲 られた。 そ してその一期の後 は孫 (兼栄娘)の孫夜叉に譲 られ る ことになっていた。 弘安

5(1282)年

9月 5日 のことであるのこの孫夜叉が経茂妻 となり

,後

に出家 して良海 と名乗 る のである。 孫夜叉には後 に弟が生 まれる。 そのため

,一

旦永仁

6(1298)年

4月24日に良海か ら孫夜叉宛 に

B三

1ゼ

;│!唇

i肇

寿

i】

i: や とミをハ

,ゅ

つりわたす」 というのである。 この弥二郎 とは孫夜叉弟兼員である 『の二人の間には 後に相論が起 こるが

,正

2(1325)年

8月27日 に和与が成立 し;m)永安別符以下をそれぞれ折半す ることで治まりがついた。 ところで

,孫

夜叉が弘安

5年

以前の生 まれであることを思えば

,延

3年

までに経茂 との婚姻が 成立 していたことは確実である。 また弟兼員の出生年は粥らかでないが

,少

な くとも延慶

3年

に譲 状が書き改められるまでは

,永

安家の唯―の正当な継承者は孫夜叉であったといえる。 とすれば経 茂は一体 どういう形で彼女を要ったのであろうか。 経茂の嫡子経兼が

,貞

7(1351)年

に三隅信性から「庶子吉川次郎二郎経兼」 と言われている こと '9経 茂の所領 としては鳴瀧村 しか認められないこと,3)等を考えあわせれば

,経

茂は婿養子 とし て永安家に入ったのではないかと推測される。この系統がその後吉川を姓 とするのは

,一

つには兼 員が生 まれて永安の名跡を継承することになったためではないだろうかす。 経茂・良海の所領は建武元 (1334)年 2月10日

,長

子経貞に譲 られる°働が

,の

ち貞和

5(1349)

年に至 って悔返され

,次

子経兼に譲与 し直 されたよ0さ らに経兼の子経見は

,後

に経高系の諸家の所 領を併せ領するようになる解 四 む す び に これ まで吉ナII氏の諸家の動向を

,所

領譲与 を中心 として考 えて きた。 ここで簡単 にふ りかえって みることにしたい。経光 は福井庄東保・ 大朝本庄 を得

,そ

れが子息達 に分割 して譲与 された。経高 は

,少

な くとも大朝本庄の大部分 と福井庄上村の一部を相続 し

,経

盛 (経光 息

)に

,福

井庄束 保内に上村 を含 む所領 と大朝本庄内の一部°9が譲 られた。 経高か らは

,子

息の経頼 に大朝本庄の主要部分

,経

盛 には田原・竹原両村 と枝村内の田畠

,経

(12)

錦織勤:鎌倉期の吉川氏 に関す る基礎的考察 に は大塚・ 妻鹿 原 と枝村 の田 畠

,お

よび福 井庄 上村 内屋敷・ 給 田

,さ

らに系 図上 弟 とされ る経茂 に は鳴瀧村 が譲渡 され た。経高 に は この ほか に経 国 とい う子 息が あ ったが

,彼

への譲与 は史料上認 め られ ない。 経茂 は石 見 の永安 家 へ婿入 りす るが

,後

に吉川姓 に戻 り

,石

見吉川 家 を立 て る。 また播磨 の経 盛 か ら子孫 への譲与 の全貌 を窺 い知 ることはで きないが

,た

だ その うちの上村 につ いて は慈真 (経 家) 一一 経景一― 経朝一一若法師丸 と伝領 され た ことが明 らか にな る。 なお

,本

領 の吉 川村 は これ らの系統 の譲 状 に はみ えない°ωか ら

,他

の系統 に伝領 された こ とは明 らかであるが

,そ

れが どの よ うな人 々 で あ ったか等 につ いて は全 く知 りえな い。 以上の ことに関する考証 を記 したことで

,本

稿の役 目は終わった といえるが

,一

つ論 じ残 した こ とが あるので

,こ

こでふれてお きたい。それ は経高 と播磨の経盛の関係 についてで ある。諸系図は ともに経高 を兄 としている。 この点 を疑 ったものはこれ まで見 当 らないが

,既

述の ところか ら明 ら かなように

,吉

川氏の諸系図は少 な くとも鎌倉期の人々 に関 しては,無条件 に信用すべ きで はない。 この問題 について も次のような事実がある。岩国徴古館所蔵「吉川家御系図」の経高 。経盛への註 記には

,各

々「延文二年 疫九月廿六 日卒

,行

年八十七歳」,「元亨二年十月四 日卒

,行

年六十四歳」 としている。 これから逆算すれ ば

,出

生年 は文永

8(1271)年

頃 と正元元

(1259)年

頃 と計算で き る°つま り註記の方では経盛が兄 とされているのである。 このように信憑性に欠ける点が多々あ る系図を除外 して

,吉

川氏全体の流れの中でみるならば, 交通が発達 した瀬戸内海沿岸部 にあって

,京

都 に近 く

,

しか も面積 も広い。2福井庄東保十一勿論, そのすべて とは限 らないが一― を得 た経盛が兄

,交

通不便 な山間部 に位置す る大朝本庄 を譲 られた 経高 が弟 とするのが順当ではなか ろうか。系図の記載 も

,そ

れが伝 えられた家 を嫡流 の ように記す ことは度々見 られ ることであるか ら

,経

盛 。経高の関係 を逆 に記 していた として も

,さ

して異 とす るにはあた らない。 以上の ように考 えることによって

,こ

れ までやや無理が あった経高の大朝本庄移住の説明 も

,容

易 にできるようになると思われ る。従来 は

,経

高 を兄 としていたため,「京都 に近接 して

,而

か も交 通往来の利便多 く

,且

豊沃に して広濶なる播磨福井荘の地 を避 けたのは

,中

央の刺戟影響 を受 けな い安芸最北の山嶽四周せる僻遠の地域の方が

,自

家の防衛保全上 に極 めて好適であ る と同時 に

,可

愛川の流域に位する盆地 を開拓することによって

,自

給 自足の生活 を保持 し

,其

勢力 を扶植 して, 将来の発展 を策することが可能であるとの遠慮深謀 に基づいた もの

Jと

説明 されて きたゞ°しか し, これにはかな り無理があ り

,

また他に福井庄ではな く大朝 を選んだ

,納

得のい く理 由は見出 し難か った。 それに対 して経高 を弟 と考 えれ ば

,兄

に福井庄内

,弟

に大朝本庄が譲 られ てい るわ けで

,妥

当な 譲与 といえるし

,移

住 について も

,経

高 は主 として大朝本庄内に所領 を有 していたか らと説明 して 無理がない。 なお

,既

述 した

,鎌

倉末に分出 した諸家が

,南

北朝 内乱の中で どのような経緯 を経 て

,経

見の下 に一本化 され るに至 るのか,と いう問題 を中心 として残 された問題 は多いが

,今

後の課題 としたい。 註 (1)『大日本古文書 吉川家文書 (―,二 ,別集)』 (以下『吉川』と略称)は 大正末∼昭和初めに刊行されて い る。

(13)

鳥取大学教育学部研究報告 人文,社会科学 第34巻

27

12)1944年 9月,富山房刊。 皓

)「

北大史学」13号 (1971年 8月)。 は

)「

歴史学研 究J376・ 377号 (1971年 9・ 10月)。 15)「神戸商大 人文論集」9巻1・ 2号 (1973年10月)。 16)1975年3月,兵庫県発行。 (殉 柴田実先生古稀記念会編 『 日本文化史論叢』(1976年1月 )。 181「論集 〈大手前女子大〉」10号 (1976年■月)。 (" 1978年 3月,大朝町教育委員会発行。 10 筆者が直接調査 しえた ものは,岩国徴古館所蔵の「吉川家御系図」 ほか4種類 と

,広

島県立図書館所蔵, 名田文庫中の「藤原姓吉川系譜 (完)」「吉川御系図」であ る。 これ らはいずれ も近世∼明治の作成 になるも ので,内容的に もほ とん ど同一 であ った。なお

,吉

川系図の悉皆調査 を経 たわ けではないので,その点で , 本文のように言 うことには一定の留保 がつ くことを断ってお きたい。 CD 瀬チ│1氏前掲書,24頁

1)瀬

川氏前掲書,26買。なお,瀬川氏が論拠 とされているの は主 として家譜類である。しか し,応長 2(1312) 年3月日「福井庄東保宿院村地頭代澄心重陳状」(『姫路市史 史料編1』 所収「神護寺文書」24号)に 「梶 原平三 景時之跡」といわれ ていることと,『吾妻鏡』正治2年正月20日条 をつ きあわせ ると,家譜 の記事 も妥 当な もの と判断で きる。

1

10 瀬川氏前掲書,26買。 なお

,瀬

川氏 はあげてお られないが

,康

永2(1343)年3月27口「吉川龍熊丸請文」 (『吉川』lo41号)に「大朝庄大塚村者,去承久兵乱之時,曽祖 父吉川弥二郎経光 法師,依 軍忠令拝領」とあ る。

CO

「淡路国大田文」(『鎌倉遺文』3088号)に,来馬庄の地頭 に本河 (吉)二郎 とい う名前がみ えるが, れが誰れにあた るのか不明である。 10 文永5(1268)年 7月18日「関東下知状案J(『吉川』212号)にみえる手子熊丸 を,編者 は経高 としている が確証 はない。 また,正和2(1313)年 4月20日「関東御教書」(『吉川』3号)は ,編者 によって「疑 ヲ狭 ムベキモノナキニ アラザレ ドモ

,今

姑 ク之 ヲ収 ム」 と註記 され る偽文書である。

tO

『吉 川』lo36号。

tO

王熊が経長であ ることは, この譲状 で工熊に譲 られた所領が

,元

徳3(1331)年 9月20日「吉川経長置文」 (『吉川』lo40号)で経長か ら子 の龍熊 に譲渡 されていることか ら明 らかである。

10

『吉川』213号 。 19 益熊 が経盛であることは,次の(C)の譲状 で譲 られ た ものが,貞和6(1350)年11月日「吉川経盛 申状」で 五郎次郎経盛重代相伝 当知行 とされていることか ら知 られる。なお,つ つの年代がやや離れているけれ ども, 五郎 次郎 は建武4(1337)年か ら史料上 に現われ る し (『吉川』19号な ど),さして無理 はない。 ところで , この経盛 を経高弟の経盛 と同一人物 とする論 もあるが(瀬川氏前掲書,28頁 ),両者が別人であ ることは明 ら かであ る (水野氏前掲論文,839買)。

90

『吉 川』214号。

9D F吉

川』lo37号。 9か 『吉川』215号。 1231 『吉川』1006号。

90

瀬川氏前掲書,26・ 28買。『大朝町史 (上)』 138・153頁。小林氏前掲論文,26買 1251(C)の置文 で「 ます くまとの ゝふん,たわ ら,たかわ ら」 と言われ ていること

,註

10で触れた貞和6年の経 盛 申状 と骨)が一致すること,などか ら明 らかである。

90

『吉川』中には偽文書 と思われ るものが多数遺 されている (1・ 2・ 3・ 32・ 213・ 218。225号な ど)。 そ れ らは,た とぇば218号の文和元 (1352)年11月 4日「足利義詮御教書」が経秋の大朝本庄井材木山等地頭職 を安堵 した もの であ ることに示 され るように,いずれ も経盛 (経高子息)の子孫が大朝本庄全体 の領有 を主 張する意 図の下に作成 した ものであることは明 白である。 127)鳴 瀧村 の全体 なのか,あるいはその一部だけだったのか とい う点 については,正平19(1364)年4月16日 「足利 直冬御教書」が関連史料 としてあげられ るだけである。 これには経茂嫡子経兼の知行地 として「鳴瀧

(14)

錦織勤:鎌倉期の吉川氏 に関す る基 礎的考察 村一 方号西方,同東方内田地一町号岡垣内Jがみえる。 ただ, これが経茂知行地 をその まま相続 した ものな

I

のか ,分割相続 の結果なのか は不明であ り,上の問題 の解答 を引出 す ことはで きない。一応,こ こで は鳴瀧 村の全体 であ った として話 を進 めたい。

90

『吉川』3号。 90 註90参 照。

00

『吉川』1101号。 0, 康 永4(1345)年 6月20日「高師直施行状案」(『吉川』1025号)に「堺 田竹原田畠地頭職Jとみ える。 こ の境田 も村名 であ る可能性があるが,「大貫村内 さかへのた」(『吉川』1101号一―訥翻所引史料一― )と い う 記事 もあ るので,除外 して考 えることに した。 0か この点 は『大朝町史 (上巻)』 140頁に指摘が ある。 133)大貫村の存在 とその範囲か ら考 えて も,竹原村の境 は図2のように判断で きる。 00 諸系図は経頼 を弟 とするが,元応2年段階で王熊 らが幼名 であったのに対 して,経頼 は実名であった こと 一―

(e芹

だけか らで も,経頼の年長 なることは明 らかであ る。 99 田原・ 竹原な どが(e)の置文で経頼か ら益熊 らへ譲 られ る形 になっていないのは,既に経 高によって益熊 ら に譲状が書与 え られていたか らと解 され る。 それに対 して,(e)で経頼 か ら後家に譲 り渡 された名口について は次のように考 え られ る。益熊の出生後,経高が彼 に譲与 し直す意志 を もちなが らも,それを譲状 とい う形 にする以前に死去 したため,それ以前 に経頼 に宛 てて書かれていた譲状が効力 を発 し,経頼の もの とな って しまった (譲状 の効力発生 については佐藤進一氏 『古文書学入門』259頁参照)。 しか し,遺言 として譲渡 を 指示 されていたので,経頼 はそれに従 って置文 を認 めた,と。なお,(e)で王熊 に名田が譲 られていないのは, (d)で(C)にみ られ ない「枝村 内」が譲与 されていることと対応 してい るもの と思われ る。 90 龍熊丸 は王熊 (経長)の子であ る一― 註側―一 か ら,経高孫 になるわ けであ るが,その龍熊が「 曽祖父吉 川弥二郎経光法師」 と言 っている一― 認1)参照―一 。 00 註1)参 照。 なお,『吾妻鏡』承久3年6月18日条 にみえる吉川左衛門次郎 は経光 と思われ る。 9D 文永5年7月18日「関東下知状案」(『吉川』212号)に「亡父恒光 法師簸議去年二月十七 日譲状Jとあ る。 00 註00参 照。 10 水野氏 は70余才 とされ ている (前掲論文,840頁)。 tD 註00所 引史料 に,経光の子 として手子熊丸がみえる。彼 が経高であ る可能性 もないわけではないが,それ にして も

,幼

名であ って も彼が経光の死去直前の出生であるとは限 らないか ら,本文 の ように言 うことが許 され る と思 う。 口か 註00参 照。 口

)田

原な どについては,後に経頼 との間 で相 論が発生 した形跡 はな く,益熊 らが知行 していた(『吉川』217, 1040号な ど)。

1 80

ただ師平 は大朝本庄内に知行地 を もっていた (『吉川』8号)。 これ は系図で経高弟 とされる経盛か ら相伝 した もの と思われる(系図および 三,1参照)。また,経信 も堺田田原 田畠地頭であった ことが知 られ る(『吉 川』 1025号)。 なお,彼は系図上経光息 とされ るが,これはおそ ら く誤 りである (二,3参照)。 従 って,この所領 が どう伝領 されて きた ものかは明 らかでない。 ともか く,少な くともこれ らの所領 は除外 され る。 “

0

経頼 は建武2(1335)年 9月27日 (『吉川』4号)以後,史料上 か ら姿 を消 し,その子孫 の動 向 も不明で あ る。 “

0

経茂 を経高息 とすれば,経茂が永安 家へ婿養子 として入 ること (この点 は三, 2で述 べ る)が決 まってい たため,経頼 に比 べてわずかの所領 しか譲 られなか った とすることがで きるのではなかろ うか。 10 小林氏 は前掲論文中で,経茂 を経高 の子か兄弟 とされてい る (29買)。

10

た とえば,『吉川』1032∼ 1034号な ど。 10 水野氏 も前掲論文840頁で,経時 に関 して「経光の子 とするには,年代 が合わない」 と述べ られてい る。

60

『吉川』 1075号。

60

『吉川』1041号。

I 1521

『吉川』1040号

i 6)

『吉川』1043,1041,1054号な ど。 なお龍熊が後の実経であ ることは,正平18(1363)年4月22日「吉 川

(15)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第34巻

29

実経譲状」(『吉川』1054号)に「 をやにて候 つねなかにゆつ られて候 ま ゝに」枝村内・大塚・妻鹿原 を子の 虎熊丸に譲与 する, とあるこ とか ら明 らかであ る。 (Fx)註621に]じ。 60 註1531参照。 l「lbl 前掲論文,8″∼83買。 6り 前掲論文,838頁。 lFBl『 鎌倉遺文』4379号 。 あるいは『姫路市史 史料編1』 所収「神護寺文書」15号。

60

この時,東保地頭 は経光 であ った (前註史料)。

60

『吉川』997号。 GD 笠松宏至氏「 中世 閲所地給与 に関す る一考察J(同氏著 『日本中世法史論』所収)213頁 1621 貞応3(1224)年11月日「福井庄西保 田数注進状案J(『鎌倉遺文』3320号)によれ ば,西保 の総 田数 は200 町余 りであ った。従 って,「八十石」 と表現 され る左方はその一部であった と考 えてよい。 1631 貞和元年■月19日「赤松 円心請文」(『吉ナ││』 997号)に「東保 内宿院村得分三十五石」が矢部六郎左衛門尉跡 , 「同 (東)保内木屋村 得分三十余石Jは入江孫五郎入道跡 とされてい る。 これは,東保 が細分化 されて吉川氏 以外 にも給与 されていた ことを示 す もの,とみ えな くもない。 そして,それは西保 も同様 であ った ことを示 唆 しているように も思 える。しか し,これ とて も後の分割 による可能性 が強 く存 しているし,「東保地頭経光 法師」「西保 Ⅲ……地頭藤原氏Jと記 す史料――註60-―もあるか ら,一応本文 の ように考 えて大過 ない もの と 思 う。 60 応長2(1312)年 3月日「福井庄東保宿院村地頭代 澄心重陳状」(『姫路市史 史料編1』 所収「神護寺文 書J24号)。 60 福井庄が梶原景時跡 で,正治2年の拝領 である ことは註1かで触れた。 そ して,決め手 はないが

,年

令 か ら みて経光 でな く朝経 (経兼)が得た とす るのが 自然であろう。 また, この点 に関 しては,経兼 を福井庄地頭 に補任 した正治2年正 月 95国 「鎌倉将軍下文案」(『吉川』1号)一― これは後 の作成 になる もので,偽文書 である2・ 3号と同一料紙 に同一筆跡 で記 されている一― を生か しうると思 う。なぜな らば,経光拝領 を偽 っ て経兼拝領 としなけれ ばな らない理 由は見当 らず

,従

って,後の作成にかかる もの とはいえ,それは事実 を 伝 えた ものであ る可能性 が強 いか らであ る。 ⑪ 元仁2(1225)年正 月 1日 「鎌倉将軍家下文案」(『吉川』2号)は前註で も述 べたよ うに偽文書 であ り , 内容的 にも信用するに足 りない (下文 は経光 を福井庄地頭 に補任 してい るが,実際 には彼 は東保地頭 であっ たことは既述 した)。 しか し,この頃経光 が地頭 に補任 された とい う事に関 しては,何程 かの真実 を伝 えてい るとみることがで きないだろうか。 また,貞永元 (1232)年9月24日「関東下知状」――註60-―に,西保 に関 して「地頭補任以後,庄官等,不従領家之所務,経七箇年Jと ある。 これ によれ ば,嘉禄頃に地頭が補 任 されていることにな るが,それ は地頭設置の始 めを さすのではな く,藤原氏 (東保 は経光)の地頭補任 を さしていると解 され る (東郷氏前揚論文108頁)。

60

『吉川』989号。 60 経景が慈真の子であ ることは,この譲状文言か らも窺 えるが,よ り直接的 には経景宛 の暦応4年10月 23日 「足利直義下文」(『吉川』994号)に「亡 父慈真」 とみ える。 60 東保 内の村 としては,ほかに宿院村 。木屋村―― 註

163r,水

度 呂村――註641 カ漱口られ る。

90

『吉川』996号。「 き次郎」が師平息経朝 であ ることは,『吉川』999号な どに明 らかであ る。 tり 『吉川』1085号。 t妙 『吉川』998号。 99 水野氏前掲論文839頁。

10

今井氏前掲論文,84頁。 175)「藤原氏系図」(『系図纂要』第5冊),「御神木系図」(『続群書類従』巻183)など。 tO 仁治3(1242)年12月 26日「三隅兼信譲状」(『吉川』1120号)。 10 次年 (弘安兼

5)9月

5日「永安祐置文」(『吉川』1124号)。

10

『吉川』1125号。

10

『吉川』1133号。

(16)

錦織勤:鎌倉期の吉 川氏 に関す る基礎的考察 00 正中2(1325)年8月27日「三隅兼員代明仁尼良海代道正連署和与状」(『吉川』1129号)に「舎弟弥二郎 兼員Jとある。

GD

前註史料 1か 同年 6月19日「三隅信性請文」(『吉川』1007号)。 なお,信性 は『島根県史 (第5巻)』 616買 所引「三隅系 図」 によれば,兼信 曽孫兼連 の法名であ る。 183)二 , 1。 及び■12り参照。 GO 経茂 は史料上 には現われず (系図にのみ見 える), またその子息 も史料上 に姿 を現わ すの は元徳3(1331) 年 (『吉川』1057号)以降の ことであ るか ら,この推論 を史料上 で確認することはで きない。 口

F吉

川』1001号。

00

『吉川』1005号。 GD 最終 的には応永22(1415)年12月 24口「足利 義持御判御教書」(『吉川』251号)。 1881 前出(a■

_註

硼トー。 00 吉川三郎師平 は「大朝本庄一分地頭」 といわれている (『吉川』8号)。 そ して,経景の「 おい吉河 き次郎 (経朝)」 (『吉川』996号)は「師平子息吉二郎経朝」(『吉川』8号)であつたか ら,経景・ 師平 は兄弟 であ ることは間違 いない。従 って,師平 の大朝本庄内の所領 は父慈真 (経家)から譲 られ た もの と解 され,それ はさらに経盛か ら伝領 された ものであ る と推定 され るのであ る。

(苦

) 00 元仁2(1225)年正月 1日 「鎌倉将軍家下文案コ(『吉川』2号)には木河地頭 に経光 を補任 す る とみえる が,これが後の作成 にかか る文書 で,内容 的に も信用に足 りないことは訥働で述 べた。この ほかの史料 には, 吉川村 は現われ ない。 0, 経高 の没年 は実際は元応元 (1319)∼ 2年の ことであ り(『吉川』1037号,215号な ど),経盛の没年 につい て も信憑性 に乏 しい。 0か 西保 の田数 は200町 余であ ったが一― 註⑦一―,東保 も同程度 と推測 され る(今井氏前 掲論文,78∼79頁)。 これ は庄 園 としては相当広大 な もの といえる。

0)瀬

川氏前掲書,27頁。 なお,『大朝 町史』にもほぼ同様 の記述がみ られ る(152∼ 153貢)。 また水野氏 は「西 国の最 も広大 な所領 であつた安芸国大朝本庄へ下 っ」 た とされ るが (前掲論文,840頁),広大 であ った こと についての論証はない。 (昭和58年4月 30日 受理)

参照

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