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研究の回顧-香川大学学術情報リポジトリ

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香川大学農学部学術報告 88 研 究 の 回 顧

久 合 田

Reminiscences

Tsutomu KuGOTA

大正2年に大学を卒発した当時,私は馬の血圧の測定を考えて之を試みたり血圧の測定ほ人医では既に広く用いら れて居たが,獣医方面でほ実用の域に達していなかった訳である.その方法としては測定用のクッションを尾根にま とい,之に空気を吹き込んで水銀柱に・連絡し,その上下の程度によって測屈するもので,極めて原始的ではあるが獣 医界での最初のものであったと記憶して.居り,其の結果については当時発行の獣医師榔志に掲載した…其の後次第紅 その方法も改普せられ,測定の部位も尾根から前腰部に移り,クッションに代る血圧計が用いられるに至ったい 昭和2年の春,文部省海外留学生として仏,独,米の5ケ国に.逗留を命ぜられたが其の間なし得たことほ.,各国を 駈け廻って出来るだけ広く馬産の状況な調べるに・留ったのである・もっとも独逸では,生物学に一・歩足を・踏み入れた ものゝ余り興味が湧かず,当時の私は専ら馬関係に・のみ注意が向けられたものであった・生物学研究を以て渡った留 学も,ついに馬の捕虜となり終った次第である。 生物学に関する研究ほ,独逸ベルリン市の生物学研究所のゴ−・ルドンコ∴ニット博士に潜導を依叔して行ったが,そ の大要は次の如きものであった.試験動物としで鼠を用い,発情の各段階ビとの膣液を採取し,それぞれの中に精虫 を浮遊せしめて,その生存時間を比べてみた.その結果,発情前期又ほ発情期中に.得られた溶液が故も栢鹿の生存に 好結果をもたらし,発情休止時期の腰液中でほ,糖盛の生存時間が最も短くなることが判明した. 馬に関する調査研究の中で,品種に関する問題(品位の成立,特徴等)は私の集めたデータ−の中,可成り主要な 部分を占めてこいる.今之等を回顧して記述することに・よつて叢めを果したいと考えるものであるが,もともとl軋顧と 言うことであるから,順序や系統立てること.は特紅考慮せず,唯思い出すまゝに並べたので事情を含んで之な諒とさ れたい小 サ ラ ブ レ ッ ド サラブレッドと言う語ほ,180る年にスポ−チングマガジンに用いられたのが初めであると言われているが,こ.の馬 は英国原産馬にアラブ血液が弧惇に混じて成立ったものである‖ ヤコブ1世(1る05∼1占25年)は大の温褐変好家であ った.当時競馬に用いられた馬は未だ兎洋種の血液を混じて居らず,強健実用のものであったらしい..クラングル戌 も数氏の著凄から,次の様な文句を引用して之を主張している日く「ヨセフ1世の時イングランドには,アラブと は甚だ体形を異にする煽があった‖こ・の馬ほ17世紀以後盛となったアラブ種牡馬の輸入と.共に,アラブ型の体型を持 つに至った・日く「文化の進むにつれて英国産馬種も進化し,ヤコブ1世帝の時代紅は既に英国産の塙の中で,力並 に持久力両刀共に優れた1系統が存在したこの系統が従来のサラブレッドの基礎となつたのである。」叉日く「17世 紀頃の英国産ノ、ンクー・並.びに競走馬は,虫洋から輸入せられた偶に比して,遥かに大きな速力並びに持久力を呪わし たこと.ほ疑う余地がなく,之に倒しては充分な証拠がある1」ヤコブ1世の時代以来,東洋柾の種馬は多数輸入せら れたが,今次にその偏名なものを挙げてみよう・ ヤコブ1柳時代(1る05∼1る25年) マルカム・アラビアン チャ−ルス1世時代(1る25∼1る49年) モロッコ・バルブ クロンクェル父子のロ−ドプロテクター一時代(1占55∼1占る0年) ホワイト・チ.ユルク チャ−ルス2世時代(1ddロ∼1d85年) ロ−ヤル・メ−ヤ・−

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第10巻第2号(ユ959) 89 フェンクヰック・バルブ グルレ−・エロ−・チエルク グルべ/−・ホワイト・チエルク ヘルムスレ・−・チ、ユノレク リスタ−・チュルク リーズアラビアン 王ほ.御料牧場良フェンクヰックに.より多数の東洋牝馬を購入せしめて,これを御料牧場に繋養して蕃殖に供した− 世に之をローヤル・メーヤーと名づけた.王の死後牧婁の解散に依り,広く全国に拡がったサラブレッドには,この 牝馬の後裔が甚だ多い‖ ウイリアム5世時代(1占89∼1702年) ピアリ−・・チ.エルク セラビ−・チ,ユノレク ノヽ−バー・アラビアン ピアリー・チュルク号ほ.ピアクー・大尉がウィ−ンの攻揖中に分捕った馬で,同大尉の名に依って呼ばれる。.一時ア イルランドの軍役に服したと云うが,サラブレッド5大蓮根の祖先である. アンナ・女王時代(1702∼1714年) ダーレー・。アラビアン アッカスター・チコルク ホニーウッド・アラビアン アルコック・アラビアン ストクックランド・チ.コルク ウイリアム氏アラビアン ダーレー。アラビアン号はサラブレッド種5大基根の祖の1であるい この馬ほ,シリアのアレッポに英国領事と.し て滞招三中であったダ】−レー氏が購買したもので,氏ほ之を英本国のヨー・ク州にノJ、牧場をもった兄のダーレ一成紅贈っ だ兄ダーレー 氏ほこ.の種牡馬を臼分の牝馬に配合したが,良馬を挙げ得なかった・併し隣人チルダー氏のべッチ− リ−ド号に配して1715年に,天下随一−の快速であったフライイング・チルダー及びバ−トレツト・チルダーを挙げ一 時名声を博したい ジョージ1快時代(1714′−1727年) ワイン・アラビアン ホル・アラビアン ベルグラド・アラビアン チプルス・アラビアン フツーンチ.ユルク プルディー・ブトックス ジョージ2†酬寺代(1727∼17る0年)ゴドルフィン′。アラビアン又はコドルフィン・バルブとも呼ばれるい 本属は仏 領チュニスの知事かちル−ドゥヰッヒ15世に献上した馬である之が巴里に到着した際ほ,長途の旅行のため惟件し て見る蔭もなかったこのために′自庭人に嘲笑され,貝印せられて運搬業者の手に落ちた.或る、H2輪肇濫.恕して走 駆中の処を,クェーカ一個のクック氏に見出されて英国に送られ,ゴドルフィン伯の所有に帰した・初めほ同伯所有 の柊牝馴ほの試惜馬に用いられたが,或る勧種牡馬が牝馬ロクササ号を嫌忌して交配を嵩んじなかったので,止む なくゴドルフィン・アラビアンを配した‖ かくして偶然の機会から出来た馬がラスと称せられて,フライイング・チ ルターと肩を並べる名馬となった こゝに於てゴドルフィン・アラビアンはl頓に名声を天下に馳せるiこ到り,5大 基板の祖先の1と.なった,クランケル氏は「ヤコブ1■l址以来約100年間に基因に輸入せられた凍洋種ほ,アラブ90 頭,バルブ49頭,土耳古馬52頭,ペルシャ馬4戻自,合言・t175頭である‖ 然し之等の中,真にサラブレッド蕃相上効米が

あったのは,僅かに.ダーレ−・アラビアン,ピアリ−・チ・エルク,ゴドルフィン・アラビアンの少数に過ぎない小」

と述べている小

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香川大学農学部学術報普 90 以上述べた輸入東洋馬の名を見ると,アラブ,チエルク並び軋パルプの差がある之ほ果しでその産地の別を示す のか否か紅ついてほ,疑問を・もつ人が多いい キャプテン。キャンプベル氏ほその著に「輸入属名を・見るとバルブ,チ .エルクの名を見る・・之ほその名の示す通り,真のアラブでなかったと.人をして侶ぜしめる余の知る範園でほ,バル ブなる語は歴々誤用せられ,又チヱルクなる詰も誤りで共立なる土耳藁種でほない.土耳古のパンヤ−が,アレンポ でアブプを購入して之が英国に送られると,チュノレクと.呼ばれたのである…」と述べて:いるがチ.ユルクに関する限り ほ首肯せられるリ サデブレットの血統を父系について観察すると.,次の重要なもの5頭を得る‖ (1)ダーレ−・アラビアン (2)ピアリーチ・.エルク (3)ゴドルフィン・アラビアン 世に之をサラブレッド種の5大基板と言い,サラブレッドで血統正確なものほ,この基板の1又は2以上に遡源し ないものほないい ウラングル氏は「本世紀の初め頃の主要なサラブレッド種牡馬を,上記の基根紅依って類別する と,(川こ属するものほ200頭で,(2)に.は55頭,(3Jには50頭が属する.」と述べて居るのをみても,5大盤根の勢力を窺 い知ることが出来る・・ ダーレー・アラビアン系統 この系統に有名な種牡馬エクリップスが生れたい ダーレ−・アラビアンの系統が今日の盛大を招いたのは.,この名 馬に負う処が多いい エクリップヌほダーレー・アラビアン5世の孫マルクス号と,ゴドルフィン・アラビアンの孫娘 ヌビレツタと.の聞に生れたが,母方ゴドルフ ィン・アラビアンの血統を受けて二,我儲且つ粗凝で制禦し難い馬であっ た.鞍の装脱を嫌い,褐に装鞍のまゝであったと言われているが上その競走に加わるや友馬と先を争う要は.なく,普 通の駈歩でも彼紅雁行し得る馬ほなかった“競走に.於て共にその力を発揮したのは僅かに1回であったと言う.2ケ 年の競馬で11回キング.ス。プレート競走濫参加し,又其の他7回出走したが一度も欺を取らず,10回のキングプレー・ トを披村したエクリップスの体ほ延びた方で余裕があり,長拒離用競走馬の体形を備えた,著名な尻高馬であっ た.屑は良く良く傾斜したが,速い観を与えたり その後肢の雌み込のよいのは稀に見る処で,又駈歩軋弾力があり, 歩幅の大きいのほ他に比な見なかった・彼ほ1789勾三25才にして多数の良駒を残して永眠したい エクリップスの直接又 ほ間接の分枝と.しては,その重なるものを挙げると, (イ)ブラックロック (ロ)アイリソレ・ユ・バ−ド・キャッチャ一 日 タッチ・ストーン 巨)tランプ 囲 ノ\蜘クアク.工・− ブラックロックの分枝に属する馬は,何れも釣合いを得たものが少いい ブラックロック,クヵ・ルチギ,エール,ク、エ デット等皆然りである..ギサロピンは競走馬と.して−・流の成績を挙げたが,償に5才にして競馬の生腐植去った・そ の仔セントサイモンほ父と同じく神経賀の馬で,休ほ大きく休高1る2cm,寧ろ上体ほつまり肢長であった.その競走 上並びに儲殖上の成績は卓越したものがあったい セントサイモンほ1881年に生れたが,母カの祖父はノ\−クアウェー の仔キングトムである= 英国5大吉劇痛射矧こは出走しなかったが,2才及び5才で9桓l出走して,j■i金は総封4,る7く; ポンドに達して居る、その競争に.加わっては,歩を娃す必要なぐ酎こ優脱し,一度も敗れた挙がなかった‖ 番如上の 成績牲極めで良好で種牡馬25頭をあげて居るが,その■中特に有名であったのほセンI・サ−・フ,ヒル・オブ。ポート ランド,フロリ−ゼル,パ−レモン,セント・プラスキン,ダイヤモンド・ジュビリ−のる射である叉多数の牝馬 の父としても尊敬せられて居る.センtサイモンの娘が1900年に巷んだ仔は57頭あり,之等は1905年に75避ノ喝に参加 して−,蕗金計25,551ポンド,19D4年には48,792ポンド,1905年にほ50,589ポンドの貴金を得たと言われる.之によっ てもその成砧の程を知ることが出来よう」批国の馬政局開設以来,大正5年迄濫職入せられたサラブレッドほ,牝牡 合計149頚に.達するが,中55頑ほセントサイモンの仔乃至曽孫に.当って居る.. ビアリーチュルク系統 この系統はへロッドに至・つて看名なハイプライヤ−㍉ ウッドピッカ−を得た両馬は何れも蕃殖上皮産駒を得た が,前者の系統忙グラジャトールがありシ ホンガリアに輸入せられてその国の祖先と仰がられるに至ったル ウッドピ ッカーの血統にはフライングタッチマンがある 本邦に輸入せられたものゝ中に.も,之に属するものがある‖

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第1C)巻第2号(ユ959) 91 ゴドルフィン・アラビアン系統 その孫のマッチャ・ム号ほ競走用並に.蕃殖上顕著な成鮎をあげ,その仔201頭が競走濫加わり151,097ギニアの賞金を 得ている〝 又マッチサム自身でほ17,000ギニアを得たと言う… マッチャムの後裔で知られたものにメルボルンがある が,之はこの系統中興の祖と言うぺき馬である.以上5大基板は各独立の地歩を保って二屠る様に見えるけれども,之 は単に父系についての見方で,その母系に考えを及ぼすとお互に結合して居るのである”、ブルー・ス・ロクェ氏はデル ビ−,か−クス,セントレジャーの5大古典競馬の開設以来,1894年に至る118年間に.そこに.出走した馬を,その母 系のみに着眼して調査した結果,次の結論を待た.. 「英国スタッドブック第1巻に依ると,サラブレッド蕃殖の基礎牝馬と見倣さるべきものほ約100頭あるが,今日 のサラブレッドのスタッドブックより見ると,その数ほ半減して約50頭となって居る小 その中重要なものは約20頭 で,更湛一・流のサラブレッドに不可欠のものは僅かに9顔に.過ぎない.この9頭の牝馬を蕃確上の価値から競走馬系 統と種牡馬系統との2つに類別する。拍者には競走場裡の優秀馬を多く出し得た牝馬を含ませ,後者にほ有名な種牡 馬を巷屈したものを入れた“現在第1級の馬にして,巌近の祖手代の問に此の両系統何れかの血液を含まないものほ ない.又上記の血液に対して,近親庶大なる程競走馬叉枕種牡馬として−優れて屠る‖」粗氏ほ競建馬系統の基礎牝馬 として次の5頭を挙げて居るり (1)ドレゴンネル氏のナ■チ。.ラルバルブ・メーヤ− (2)プルトン戌バルブ・メーヤ ー (3)ダム・オブ。ツー・ツリ.コ−・プリ,ユ.−ス (4)ゼ・レイトン・パルプ・メ、−ヤー (5)メッセー・ブラック・バルブ・メ−ヤー 以上の中でも特に(1)(2)(3)が重要である。.又種牡馬系統に.は次のものを挙げている. (6)ブストラ・メーヤー・ (7)セドバリー・ローヤルメーヤ− (8)ロ−・ヤルメーヤー・(プリムマーメ−ヤ−の母) (9)オールド・フィールド・メーヤ−・ 尚(8)ほ牝牡両方の基礎周として知られ,甚しく尊重せられる馬であるサラブレッドの体高の増加についてほ.確実 な材料が乏しいが,アトミラル・ルーズ氏ほ「1700年に.ほ馬平均休尺ほ15ノ、ンド(141cm)であった… 以来毎25年把 1ツヵル(2.るcm)の平均に.て士朗lルたので,現今(1850年頃)では15ノ、ンド5ツォル(1占Ocm)ある討静になる.. この尺度を超過させないことほ希望すべきであるが,実際上困難なことだ_」と述べた.同氏の憂いはその通りとなっ た… 例えばキャムベル氏は各年代の名馬る∼7頭宛を選び,その体高を平均して次の表を得た… 18世紀後半 158.8cm 19世紀中頃 1朗0 19世紀末25ケ年間1d40 又エッチングン民は同様にして 1801∼1802年 158−.1 1850∼1859年 159。7 187る∼1900年 1る5い1 尚デルピー,セントレジャ−‥優勝馬平均体高ほ, 1801∼1850年 158.2cm 1850∼1859年 159.5 188て∼1900年 1d5.7 サラブレッドほ速力用馬の体型を示しているものの中最たるものである.著者の測定の結果に依ると,他種に比し て体高ほ必らずしも大でほないが,頸は最長,頭は最軽,胴ほ最短,胸幅及び尻巾ほ巌も狭い.肩は比較的長いが梢 立っており,昔のサラブレッドに見られる様に,長くしてよく傾斜したものほ稀である一上勝ほ長く,前脚ほ寧ろ 短く,管繋ほ長いのが普通で,後肢では股は長くト脛ほ.寧ろ短く管長く粟ほ長い肢の各部の傾斜角度ほ小さく,従 って関節角度も小さい.この外形ほ外貌学者の所謂.良体形でほない」エッチンゲン氏は外貌の慈変を認め,之をサラ

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香川大学農学部学術報告 92 ブレッド退歩の一・事項紅加えているい 併し之は目標な昔のサラブレッドに置いた結果であって,若し短距離,軽負議 に於ける急速度馬に置くときほ寧ろ外形の進歩したこととなろう.サラブレッドは又外貌上種々の長所を持イつてこい る即・ら一・般に皮膚薄く,皮下餓少なく,血管ほよく現れている頭はよく乾燥して軽く,額ほ広く多くは宙頭であ るけれども,亦鮫頭,楔頭等もある限は豊円にして明峰,耳は梢長いがよく堅立し,鼻孔ほ大きく下顎よく発達して いる頚は直にして長く薄いが,筋ほよく発達しており,胸部ほ深く長く胸前は高い.影甲よく発達して長く,肋ほ よく琴曲を呈しており,背腰ほ甚だ広く短く且つ尻への移行が良い一尻は時に相当傾斜するものもあるが,水平に近 いものが多い.関節よく発達しており,殊に前腕の腕豆骨並.びに飛節の蚊骨の発達ほ他に腰がないり トルコマンチッケ馬 「中央亜細亜の代表的の馬としてほ,トルコマンデッケ馬を挙げわほならないいトルコマン馬はチッケ,ゴックラ ンド及びヤムドの5つに区別せられるり チッケ馬ほ遊拒離の行軍や鯨毎に.ほ最も適し,他馬を以て代え得ない爪 ヤムドは速力甚だ大なる点で望宝がられる小 併し−搬に.トルコマン馬と.言えほチッケを指すので,テックは従って 中央亜細亜の代表的なものである.」クラングル即まエッチ†・モ−ゼル氏の著憲から次の記事を引用している‖「トル コマン人にほ定住者と.遊牧老とがある∫テックに於てもその例にもれない」遊牧人に・とってほ馬群は唯一の財逓であ る.良質の羊や騎陀を持・.つているが,その価佃に於てほ馬に及ばない.馬ほ実に中央亜細亜の外に迄その名を馳せて いる.アレキク・ンダー・大王の時既にソグディアナ・の馬ほ有名であった.マルコ。ポロは此地の馬について,プセファ ルスの子孫で,その蹄は貿硬く蹄鉄の必要がないと述べている= テックのノ翫填に・ブセファルスの後裔であるとんて も,その血液ほ屡々更新せられている筈である… 例えばチムールは,5DDO頭のアラブ牡馬なトルコマン人に・譲与し, 19世紀にほぺルソヤ壬ナズル・エッド・ディンがる00頭の同税[弛与えた然も現今のタッグ馬はアラブの特徴を持 たず,寧ろ英国のサラブレッドに顆する.即ち体は大きく肪肉締け,肢ほ紬庖で胸廓は狭い・その掛ま細く長く,鼠甲 ほ突出している‖後肢の発達ほ比較的悪いし,アラブに特有たる附着が高く,よく離れた尾を見ることほ稀である1 尻ほ.多くほ傾斜し尾は附岩美ほなく,頭ほやゝ重く鬼頭又は座頭をなし,凹形のものはない叉眼ほ著しく大きい・」 プセファルスとほアレキサンダー大王の愛′唱で,叉当時のタッサリヤ馬の総称であった・・トルコマン・タッグの体高 は155∼1る5cmである従って東洋種の中でほ最大の馬であり,その速力大にして持久力の禿れた点でほ他種の馬に頬 がなく,よく7,8日間打ち徹して毎日1る0′−190粁,甚だしい時はよく24押下の行程な走ること.が軋来る・然もその間 大麦と黍との粉を,判旨で捏ねて作った団子を与えるに過ぎない・・この1重けはかゝる場合,土人等が摸索に入れて拙 帯するのを常とする… チッケ馬が亜細亜馬中駁たるものであること.ほ,何れの学者も等しく認める処である1かくの 如き艮炊が虚し得られたのは,その住民の習慣たる甘隠軋隠鳳する元来トルコマン人ほ幾種族かに別れ,各棟族ほ 酎良を頂き一定の地域を占めてこいる..種族間には親しみはなく∴引こ抄確し合うのであるが,その際には飲料水のな い草原を,幾日も駆馳せなけ・れほならないため,わ掩を決行するにほ,予め偶に2i卯月位i酎二‡20粁付宛駈歩せしめ, その闘こ大麦と切基の飼粗から,徐々に団子に憤れしめるのである二く用聴罵を戸外に・放ち,之に胱の絹衣並びに頭 巾を着せるが,釧丁ほ満た盈いものでほその為に擦り切れる・・副呈の愕は従馬としてポニ仙を連れ,之にその頭巾を 負わせる.早春緑埠を与えるがそれが枯れる卿こほ,火麦,黍,亡捕,乾埠→切英等を与え,その飼i封‡潤ほ.,他の葦 原.馬に比べて著しく進歩している・ ア ラ ブ アラビア内部檻馬の輸入を見たのほ,羅り揮がアウグスッス,トラヤヌス,セベルス等に卒いられて侵入した時を 以て矯矢とし,コンスタンチクス帝が西暦550年イエーメンに送った贈物の中に,カバドンアの員横馬2DO頭が含ま れた事実があるが,7世紀頃迄ほ極めて少数の囁か屠たに過ぎず,然も馬は凡庸のものであったらしい・マホメット (571∼る52)ほメッカを征伐した帖,蝉に2頭の・情を拍つて居たに過ぎなかった・この攻略に於て,彼は駈胱250, 羊14,0000,銀24,000オンスを得たと言われるが,この中にほ罵は含まれていない其後マホメットはオホドの附近の 1矧凋で,カレド・エプン′・ニュル・ワァリドの卒いる騎兵の攻撃を受けで惨歎したことから,騎兵隊の必要を痛感し馬 産の必要を唱適したが,之がアラブをしで今日あらしめたもので,彼はその創造者と言うぺきであるアラヒア人ほ 血統を尊ぶが,このことほクランゲル氏の引用したコーランの一・節を見ても窺われる・次に」之を掲げてみよう 「サラモン王は非.;iiなる変喝家であった彼は‥l卑お欺美することに殆んと終」」,否全時間を費やした或る夕波ほ, 家臣と共に例の如く愛燭の勧注いこ此弱して,足例の桝ん等を怠るに崖ったこのことが一般に血られるや王は,悔僧虻 為その愛馬心は反対に憎避に変じて,総ての持唱を追放した.この時最良の牝馬のる頭が識者に捕えられて爾来蕃殖

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93 第10巻罪2号(1959) 用に供せられるに至ったこの識者並びにその名に依っで1乎ほれる牝馬ほ,アラビア人間でほ常に噂敬せられる・・こ の牝馬から生れた沙漠の馬の系統ほ,連綿として続いている仔偶にしてその血統これに遡源しないものは,ベドウ ィンの間には尊敬せられない..アラビア人が今日に於ても祖先と.同様な熱心さを以て,このる頭の牝馬の血統を純粋 に保たんと努力していることほ,驚くの必要はない。」この1節は単なる神話的なものであるかも知れない・併しベ ドウィンの間でほ,血統は非常に尊重せられ,彼等にとっては血統はアラブ馬#殖の総てであると云っても過言では ない.彼等ほ血統を過信し,血液が純であるならば神秘の力があるから,体型等についてほ考える必要ほないと言う 意味で,「この馬からならば暗夜にでも仔をとること.が出来る∫」と言う文句を屡々ロにすると言うこと・である−若し 未だ見たこと.のない馬がベドク1ンの目前に引き出されたとした場合,彼等は先づ血統を尋ね,之に満足な谷を得れ は馬の細部を検査するが,外貌の点い理由だけで血統を餌祝することはしない・血統が歪んぜられる一刻係から沙洪の 馬にほ自ら階級が生ずる.即ら馬が1流に属するためには必ず1流の父母から坐れること・を必安とする・但しこの仔 馬濫してもベドウィンで嫌忌する別徽の存するとき,又は其他第1流たる資格を持たないときは,5流の馬と・してこの 待遇を受けるのである.又1流の母馬であっても偶然2流以下の父馬で汚されると,たとえその父馬が純血戌であっ ても,その後母馬並びにそれから出来る仔は1流にほ入れないで,2流馬としての待遇を受ける′従ノ1て磯等ほ種牡の 遥択を極めて厳壷に.行うが,その1例として.墳太利国のアラブ牒柁削ぎよテコアド・レツフラーが18る○年に発表した興 味ある記事の1部を紹介しよう.「1流に属する純血の牡駒ほ極めて周到な注こばを以て育てられるが,生長後に於て の能力が優良であるならば之を種馬として採用する一之に放して血統の劣る牝馬から出来た仔は生後間もなく買却さ れるが,之等の仔には体形が可成り俊良なものがある然もその母系の不純なるが故に繁殖用に供せない1種族に・

1流の種牡馬がない場合,べドクィンは母馬に2流以下の牡を配合するを欲せない・長い旅行をしても良種牡を求め

る小 シリア並び把其他の地方の裕福な住民が魚形のアラブを鋼線するのを見受けるが,之ほ前に述べた2流牡馬の駒 である.之等ほこゝで育成せられて国外に輸出せられる“欧羅巴に来ているアラブ種牡馬の中,真に第1流に・属する ものは極めて少部分に..過ぎないh」クランゲル氏紅依ると「吾人の純血種なる語はアラビア語ではク。ノ、イ・ランに 相当するハ之に18血族が存する1・その主なるものを挙げると, サク・ラ・ダイ ワ。パイ・ヤン ハム・ダ・ニ ハド・ノミソ ノ、プ・ウル。クプ ダ・マン ジル・ファン ク・バイ・レヤヌ・ルウ・メール ミ・ニ・キ ミル。ワ−・レヤル・バン 以上の中叔初の5血族を総称してアル・カム・サーと呼び,之を以て最も固定したもの所謂アジルと見撤しており, 第1流に属すべきものである1之に刻して血統不明のものなカデイジユと称えている」としている・・一・カドンヤング ル民に依ると,「アラブに・15の系統がある・その主なるものを挙げると.クノ、イラン,クバイヤソ,ノ\ムダニ,サクラヴ ィ等である…之等の系統は叉各々の血族を包含するい例えばクハイランは55,クバイヤン。サクラグィは各4血族を包 含する。」と言う…之を要するに・名学者に依って名々述べる処を異にするために正確に・掴むことは難しいが,兎に角マ ホメット以来1400年の間べllアワィン及びその祖先が完全に隔離せられた沙洪で過したことと,遵紺今1]に・至る彼等の 長い血統の連続とによってク・ハイ・ランが,他の血液と交錯するこ・となく純粋を保ち得ることが鳳来たと.言える・ アラビア内地に.どの位馬が屈るかと言うことほイ可人も興味を持つ拙隠であるが,アラビアは永く外人に対して閉され た国であって現在に.於ても変りほノない… 従って内部の状況が判明しないのほ当然である・然し乍ら内部の大部分が不 毛の沙洪であり,1年の大部分ほ河川が空の為一滴の水を止め得ない等の点から想像すると,多数の馬が飼養されて いるものとは考えられない.独逸人探険家バ−クハードット氏(1784′、■1817年)の言に依ると,l■ ̄アラビア半島にほ 馬は多くない.馬の生産は.豊銑な牧他のある地方に限られて:いる・不毛の地に住むベドウィン問では,馬を所有するも のほ殆んど例外である。従って馬は多くメソポタミアやシリアの乎蜘こ存する1ここでは早春数ヶ月は艮牧埠を見山 し得る.ネジドでほ馬の数透かに少なく,尚南方に進むに従って減少するベドウィンの2犬種族たるレヤンマ−と. ェニゼと.は,遠き以前に.ネジドから出て釆たものであるが,シャンマーはメソポタミアに土着したのに反し,エニゼ ほ毎年大環状の旅行するのを討とし,早春から晩秋迄ほチグリス,ユウフラチス両村上流のアルジェヂラの地に天幕 を張り,冬はネジドに過し空軍春再びノ\レムを経てア′レジェヂヲの地に帰還する等専ら遊牧を事としたが,本世紀の初 め頃トルコ政柑に依ってこの地かlT■〉追放せられたこの内種族は,久しく閉じられていたネジドの門戸を開いて純血 アラブをシリア,メソポタミ.アの地に.移し,レリアアラブ,メソポタミアアラブを生ぜしめ,又他人種の手に落ちて

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香川大学農学部学術報告 94 広く全世界に拡がる機会を作ったのである.然し之等の原産地外へ出たアラブは,ネジドとほ自ら異なる風土の影響を 受けて体貿に変化を来したことは明である.従って真のアラブを求めようとすれほネジドの原産のものを選ばなけれ ばならないのは当然である… ベドウィンの馬を養育する様ほわれわれの考え及ばない処のものがある.「由来ネジド 内地でほ馬の金粉は牧草のみに依るのである早春発生して閲新らしい間ほ滋養豊富な好個の飼糧であるが,灼熱の 太陽の為濫数週に.して枯葦と化し軟質の部ほ散り去って僅かに茎だけが残る.之だけが馬の食物である..然も常に.繋 留せられているので採食出来る分量ほ充分でほないい 只富者のみは少し許りの大麦を与えるが,妊婚馬も又同様の待 遇を受け持別の食物は与えられない.彼等ほ既に飢えているが生れる仔も勿論同様である…幼駒ほ生後1夕月に.して 離乳するが,離乳前ほ母と共に道道することほ許されない・左の脛の下端を綱で縛して天幕箪に繋ぎ,母のみ.を使役に 用いる.幼駒の遊動するのは僅かに部落の移動する将に闇られて居り,離乳後ほ隋配の乳を給与するも長くは与えぬ らしい.叉時には大東を附加すること.もある1事情が許す場合は.草地に放たれ,秋に至ると自由に放牧する然し盗 難を恐れる余り重い鉄鎖を前肢に附けて之を予防し,当歳では餓.ゑ紺に労給する.明け5才に.至って初めて若干生長 し始めるが,この時濫.騎乗を仕込み,蕃殖用として見込のない馬は馬商に売られる.馬商闇狭械の馬房に償いで豊富 に飼糧を給与するので,馬ほ栄養を回役して」勾附色択を加えて来る.」以上はアラブ馬産の権威者プラント氏の所報 を要約したのであるが,之に.よって如何にベドウィンの飼育法が乱暴であったかが推測出来る.叉何人もアラブがよ くも之紅嗣えて来たこと.に奇異を感じ,・その生活力の偉大さほ弓脚嘆に催すると言うべきであろう.純血アラブは体高 140∼14るc叫 体長は体高に等しく胸囲は175∼180cmである毛色ほ.芦毛最も多く,鹿毛,東毛之に次ぎ河原地,膏 毛等は絶対濫ないい 一流に属する純血アラブの体形ほ各部の釣合がよく,軽快で員相に富んでいる1頭ほ軽く角形を 呈し,典薬は著明な凹陥を呈するこの凹陥ほ元来大きな界孔に対して−一層大きな感を与える.限は豊円にして一陣は 涼しく,頸ほその形俊美,運動自由にして軟かく,髪ほ繊髄にして絹の様である儲甲は.秀でて1長く胸は深く,背腰 は短く股線は長く,尻ほ広く尾の附着ほ高く,その毛ほ儲から離れて垂れ馬全体に美形を添える・、股ほ筋骨よく発達 して一関節も太い1.実に.ネ汐ト・アラブは小格乗用馬として理想的体型を有して−いるのである. ピ ン ツ ガ ワ一 本種は巌も古い冷血種と.して知られ,ピンツガワ−の名はその原産地たるゲルツプルグ県のピンツガワに由来する が,又1名ノ−ル馬(ノーリカー)と.も名づけられる.之ほ雁馬のノール県(ノ−リクム県)の名に/依ったのであっ て,ノ−ル県とほ喚太利のアルプス地方一朝を・含む広大なる地枯を指し,ゲルツプルグ,スチリア,カリンチア,オ −ストリア,チロルを含んで居り,現今の主要産地ほ右諸県の中初めの5県である..この種類の起夙についてほ種々 説を異にするが,1900年シーユチャンカ氏ほ「大型のロ−マ馬の拡がったもので,紀元2年の頃には既さこ相当な大きさ を有したい」と述べているのに.対して,1922年アントニク氏ほ「ノ−ル児にほ土着原麿の馬楷が存在してその原型を 今日迄よく伝えて居り,又其頑ほ形が原始的で第4紀層の馬吃魔似する」と述べている.要するに木槌の起原が甚 だ古いものであることほ一戯常信ぜられている.ピンツガワーはずルツプルグ現に於て最も良」翫ミ見られるが,之に 責献したのは同地歴代の大僧正であった..即ち彼等は157る年ゲルツプルグ現に4ケ所の種場所を創立し,1る00年に・入 ってからはるケ所の桂!苛政場に.繋養している父馬を各地に派遣して種村せしめたが,民有の牝馬は予め検査を行って 蕃殖用として可艮のもののみに種付させることゝした次で1888壬巨にほ橙偶牧場の種鵜を統一・し,他種馬な排斥して 純粋蕃殖を行わしめ,1705年には民有堆肥馬検査の㌻刷を発新化た… 之等の諸制度爾後年各国の採用する処と.なった が,現今石こ於ても馬産改良の方法はこの範囲を出ていない フランストロツタ・−・ トロツター 1919年の種牡馬能力試験に関する仏国農務省令に依ると,有資格トロッターの種牡馬として必要な 速度ほ次表の如く規定せられている,. 年令 距離 タイム 1km甘速度 5才 4000 7分04秒 1力4る秒 4才 4000 8分54秒 1分45秒% 5才 4000 る分40秒 1分40秒 但し繋駕速塵闇儲歩速度よりも4私抜炉いことを・必要とするニの頒柑ほ1897年以来実施せられた元来フランス に.はトロッターと名づけられる特別な馬種ほなく,トロッタ−なるや否やほ血統にほ全然旗閑係に,単に速歩能力に 依ってのみ決定せられたのであるクランプル氏はその著』に「トロッタ一審相と.カロン.ェ蕃殖を全く分離するの有

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欝10巻第2号(1959) 95 利な」こ.とを述べているが,実際この両者間に.機然たる区別がなかった.例えば崩名なノルマン号の如きほ,優秀な るカロン,エの父たると同時に又高級なるトロックーの顆であった.併し速歩競馬が尊ほれるiこ至ってはトロッダーな る特別のものが生ずるのが自然である1922年農務省はフランス速歩馬血統登録規程を定めたが,その方法は農務大 臣の保護認可の下濫仏国半血改良奨励協会をして行わしめている..登録すべき馬は仏国産馬にして同国内に育成せら れたこと.を必要とし,月登録資格として一次の事項が記徹せられているり 第5粂 登録苫には左の各項の1に.該当する馬を登録するい 1・・賞金500法以上の速歩競馬に於て,1粁1分4る秒以上の公認速度を有する仏国トロックーの牝牡馬。此の牝牡 馬の所有者ほ,その血統証明書を半血馬改良奨励協会へ提出するを要す. 2.1分4る砂以上の公認速度を有する母馬の仔,但し自身1分4占秒以上の公認速度を有しなけれぼ無資格トロツタ −とするい 5い 母は無資格†ロツタ−・なるも,その仔に1分4る砂以上の速度のトロッターあるときはその仔の総て,堰し自身 1分4る秒以上の公認速度を有しなけれは無資格トロックーと.するい 4い1925年1月1日以後血統登録馬は1分40秒以上の速度を有しなけれほならない−有資格トロッタ一についても 叉同じ. 血統の登録哲ほ5年毎に凝行し,1954年にほ第7券を発行Lた.登録されたものは牡馬58る頭,牝馬1,952頭である がその生産地む地域別に区分すると,ノルマンディーが主要な部分を占めている小 トロッターの速度ほ年々進歩して居るが,その例として次に数頑の記録を掲げて:みよう. トロッターほ大体に於て各部よく釣合を得て おり,㍍甲ほ適当に隆起し,背腰ほ強く,頚礎 の高さも適当で,頭頸ほ良形な∴しめし,肢の筋 腱よく発育し,蹄も良形である、アメリカのト ロックーに比べると淋巴体型で皮膚梢厚く,顎 ほ太く,頭も又柑大の傾向を帯びていることほ 名‡

竺琴墜町様式J馬

タ イ ム 分秒 155 127 1.2(; l11 450D lる90 1875 1745 1る00 188る 1898 1902 1911 1912 エ ロ フ ケ ビ キ ナ ン フレッド レインパオ ク ス タ− 1・21% 否定出来ない..体高は平均1占1(157′、一1占5)cm l.20 であるド・ガスト氏ほ1905年100頭の仏国ト ⅣⅧ ロック−の精密なる潮定な基礎と.して,「体型 と歩様」なる諮を公にしたその大要を述べると,「肩の長いのは各種の馬に望まれる処であるが,その方向は蚕紙馬 には寧ろ峻立し,軽馬でほ傾斜せるを必要とする・然る紅速力1分41秒のトロックーでほ−・般に峻立した肩を有す る・軽馬では上贈は長いを良とするが,之ほ前肢の歩幅を大とする、但し長きに過ぎるは運歩を過低とする.高級の トロッターほ上勝は層い為に歩幅ほ狭く,歩様ほ小刻みと.なる上勝′抒−の傾斜は400を下るもの絶無である.然るに 高級トロックーのみは550である・・同様に刷甲関節の角度ほ1000が最低限度であるが,高級トロッタ」−でほこの限度 以下である坐骨ほ成る可く長いを良と.するが,実際速力ある駈歩馬では長い.然るに速度1分41秒級のトロツダー でほ右駈歩馬に㌧比し2cm短い.以上の訊鼠は,ノルマンディー高級トロッタ一に㌧見る共通の崎形的欠陥であって,その 80%迄は同様の体型を持って居る小 而してこ.の崎形的体型の現れるのほ1分亜砂以上のレユ−ド馬である1」要する に高級トロツターは特殊の体形を有して.居り,その為に一戯的に利用性凝削減せられると言うのであって,誠に興味 ある研究である1フランスでほ紫駕,騎乗両速歩競馬が相並んで行われて居るが此の点ほ他の国に例を見ない処で あるフランス人の考えに依ると,「此の方法に依って初めて速歩競馬と.持久力とが提携し得る..幼時から単に.繋駕 にのみ憤らされると,乗用庭対してほ可用性が消失して実用馬としてのイ晰値な淑ずる小」ワラルゲルも之に閲し次の 様に述べた「フラン∵ストロッターの持久力に富むは関知の軒であるが,之は長距離㌫走のお蔭をこ依るものである. 若しアメリカ流のサリキ競走のみが広く用いられる場合でほ,この速要なる長距離㌫走が靡れて,結局馬体ほイ也の取 り様のない速力本仲の競走器械と.化するのであろう.フランストロッタ−は国外でほアメリカトロッダーに圧倒せら れて居るが,その血液ほアングロノルマンの輸出と.共に相当拡がって屈る殊にドイツには相当入った模様であり, アメリカでも少数ながら純粋に・繁殖せられて一層る・我国の速歩馬は全くこの血統に属すると云い得るのである スタンダード・ブレッド スタンダードのトロッタ−並びにぺ−サ−を綜合してスタンダード・ブレッドと呼ばれる・亜米利加の束部地方ほ

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香川大学農学部学術報告 96 中部動勾亜の如く空気がよく乾燥している為に,産馬ほ軽快で持久力があり,恰もアラブと同様な形貿を紆つ様にな つた..然し叉地方に依って通路の関係上希望する馬に自ら差があ′〉た、即ち北部地方のニユーイングランド,ニュ−・ ヨ−ク、ぺンレルプァニアでほ道路が憩い為に,強健実用の各種用途に適合する使役燭を希望したのに反して,南部 のバージニア,カロリナでは土地ほ平地多く道路もよかったので,早くから快速の速歩繋盤馬の生産を望み,こゝで は既にて8世紀の初めの頓に速歩競馬が催されて−いたり ロード・アイランドほニュ.−インクランドの中にあるけれども 周囲とは全く別で,既に17世紀にべ−サー競走が行われたい ここほ恐らく亜米利加で競馬の行われた最初の地であろ う従つて早くから良駿が著裾せられたことほ明らかである.この息駿はナラガンセット・ぺL−サーーと.呼ばれて高名 を諸州に馳せていた.当時の競馬にほタイムの測定をしなかったからその速力を正確に知ること.ほ出来ないが,之等 ぺ√−サ√− ほ1畷を達るの紅5分ほ要せず,それよりも遥かに短時間で建ったと信ずべき理由があると云われる… ロー・ ド・アイランドに特に1ぺ−サ−が発達したのは,その周閑地方ほ道路悪く騎乗が唯T・の交通法であったからである ぺ−サー・ほトロッタ一に比べると遥かに反瑚少く,速度も速く騎歩軋楽である.之等ぺ−サーほその起源を輸入英国 馬に受けたものと.信ぜられて−いる.荒しニ.ユ一山イングランドの馬ほ主として英国馬の後裔であり,且1る世紀の頃にほ 英国ではぺ−サーは甚だ愛用せられていたからであるい ホルン氏ほエリザべス女王(1558−1占05年)治世の英国馬産 に.関して,「馬蕃邦家の若干ほ戦却用に大格の馬を生産したが..多くほ旅行用の小格ぺ−サーや㌫馬用並に狩邪用の走 馬を讃宿した,普通の農家ほ軌曳用に蚕馬を使役した.」との記事な掲げ之を証明して居る17及び18I杜絶の間に欧羅 巴からの輸入馬に.依つて今日の亜米利加速歩馬の基礎が出来上ったのであるが,これがその発達な遂げ得たのは,18 冊紀の末に至っってサラブレッドを交配して,速度な増加するに努めたことに.よると言えよう一.亜米利加速歩馬登銀 に初めて登録せられた12頭の種牡馬ほ,現今の速歩馬の基礎ななして居るが,そ・の中主要なものを挙げると, ノ→ンプレトニアン・2 アブダラ エンデニア・2 ウィザ−・レル・メッセン汐ヤ一 口トー・ヤル・ジョー汐 ハンプレトニアン・10 マンプリノ・チ−フ の7熟まサラブレッド種のメッセンジャーの後裔で,ブラック・ホー・ク,モア−ス・ホークの2頭ほジュスチンモル ガンの息であり,ピロット・ユニオ−ルほカナディアンピロッFの仔で,アンドリ。・ジャクソン,へンリ∬グレの2 頭ほグランド。バレョーの頂系に属して居る 亜米利加速歩馬が僅か100年の間によく今日の大をなしたのは,サラ ブレッド種メッセン汐ヤ−・号の功績紅依ると言われる.メッセン汐ヤー・ほノ、クエ一種祖先たるプレーズ号の後裔であ り,その血統を遡ると父方4代の祖に1回プレーズ号が入つて居るに過ぎないが,ゴドルフィン・アラビアンほ4代 ∼5代の祁先紅於て5回,ピアリー・チエノレクほる代∼7代に於で5回入って居る.即ちゴドルフィン。アラビアン に.対して最も近親葦飛の産馬であるプレ−・ズ号ほ英国でほノーウメ−クトロツタ−∴を作り,米国でほアメリカ速歩 偶の視となった小 従って自身に速歩に対する退伝因子な持つて居った軍ほ疑いない処で,プレ−ズからメッセンジャ ーに.至る5代の父馬サンプソン,エンデニアー,マンプリノは悉く軽快なる速歩能力を宥していたと言われる.メッ セソミタヤ−ほ体高1るOcmの庶毛馬であって,1780年英国ニ.ユ−マ−・ケットに月二れ,8才にしてアメリカに.輸出せられ たその体形,後肢ほ関偶の斬目若干深いが,筋骨は甚だよく発達し,尻の長い点が人目を引いた小が甲は短く,腰 背梢弱いの誹りほ免れなかったが,屑ほよく発達し,その傾斜ほ良く,前肢ほ肢勢正しく,筋肉,l矧節よく発達して 屠った… その大体の形はサラブレッドでほなく,又現今のトロツタ−と.も類似点は少かったぺンレルバニアで父馬 として用いられて以来間もなく競馬が禁示せられたので,この偶の種牡馬としての功鎖は生前にほ報いられず,死 後若二†二の年数を経た後に.於て漸く認められるに至ったのである一.メッセン汐ヤ・−の仔にして速歩能力の秀でた牡馬が 15頭ある.その中特に有名なるのはマンプリノ20サである… マンプリノ20号ほその仔アブタラに依っ・て.ノ\ンプレトニ アン1D号が得られ,マンプリノ・ぺ」一マスタ一に.依っつマンプリノ・チ−フを得た..ノ、ンプレトニアンて0号はサラブ レノド替邦紅於けるエクリップスに比せられる可き父馬で,メッセソ汐ヤ−も之あるに依つてその名が得られた.叉 アメリカのトロックーの現今の盛況もその大部分は之の父馬の功潰に仰せねばならないハングレトニアン10号ほ 1849年紐育州で坐れたが,外形ほトロツタ一時宥の点を有し仁尻高く胴延び,屑は若二F峻カするも筋肉よく発達し, 胸ほ.深くほなぃが晰広く,頸ほ.梢長くして鬼頭を属するもよく乾燥し,耳ほjlぞら限は豊円,踪柏を還した,′ 肢ほ筋腱 よく発達して,飛節と前膝ほ大きく且乾燥し,管ほ短く繋ほ強く,節男よくその形ほ∬しかった.後肢ほ最もよく出 来て居たが性質は激しく,調教は困掛であった様であるり妓ほ27才で死んだが,種牡馬としてほ24年間用いられ,

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第10巻第2号(1959) 9フ 1,500頭の仔燭を残した之等仔馬ほ何れも優良な速歩能力を示した その中若殉用に用いられたものは牡150頭,牝 8D頭であるが,それ等ほ何れも優秀な速歩儀力を遺kした= 而してトロッタ一審殖上断然頭角を現わしたのほジョー ジ・ウィルクス519号,二工レクレヨニア125一号並びにハツピ→。メディウム号等である 汐ヨ−汐・ウィルクス号ほ 17才で蕃殖に.用いられたが,102頭の種牝馬と101頭の牡馬が得られた小 その仔馬の中=哩を2分50秒以内に走り得た ものほ72頭に及び,その仔にしてこの級に入るものほ1,845頭の多きを数えた.コニレクショエア125号は牡99,牝87 頑を麗し,中1る頭が2分50秒に入り,尚孫にしてこの級に入ったものほ98頑に達した尚序ながら1噂2分50秒ほス タンダー・ド・レコードを示すのである.ハソプレトニアン10号自身の仔にしてメタンダード・レコードに数え得ぺき ものほ.4頭あるが,当時の状態でほ之も異常な成駅であつた.彼の遺した父馬150頭から出来た孫にしてこの級の馬 ほ1,487頸で,他にて10頑は粗目毒の座する処であるホルン氏の調査に依ると,2分50秒敷のトロツター・並びにべ−サ ーの総数の早良はハングレトニアンの血液を受けて」居ると云うが,之によっても蕃殖界に於ける勢力を推知する挙が出 来よう. ジュスチン・モルガン系統 汐コ.スチン・モルガンほ道路悪く交通の闘難なヴ.‡ルモソト州に列し,他に代え難い実用馬な供給したと.同時に他 面,亜米利加速歩馬の罪2の基板と.なった.ジュヌチッ・モルガンほ1701年2才の時,飼主ジユスチン・モルガン戌 に従ってヴェルモソトのランドルフに移住し,こゝに不滅の去宝礎を作.つたが,彼ほ体高僅に142cmに過ない小路の軽 快の馬であり,その体質ほ極めて強靭で筋肉よく発達して一層った.体形はアラブに酷似し,その子孫にその体形をよ く伝えた..性,野惰に富んで英気があり,相当な激務に服したが,疾病に冒された事むなく常紅健康な・維持し,50才 にして外傷で凝れた… 鹿毛馬で或ほよく乾燥し・.界ほ甚だ広く,目ほ豊円にして一陣ほ深黒,頚礎は届く頸ほよく傾斜 して長く,背腰ほ短く広く力あり,胸ほ深く広く肢ほ短い.大体の外形ほ締り筋肉ほよく発達し,殊に前脚に於て著 明であった彼の速歩蕃禰上の功緋の認められたのはその死後であり,その血統は久しく不明であったが死後調査の 結果,父系の枇母はゴドルフィン・アラビアンであつた弔が判明した、ジユスチン・モルガンの恩にして有名な種牡 馬ほ,パルラッレ,ユ・モルガン,シェルマン/。モルガン,ウッドバリー・・モルガンがあるりパルラッシュ・モルガンほ その曽曽孫に.ヤング・モジル(1848)を得たが,ヤング・モリルは母系からメッセソ㌔ヤーの血液を受け,速歩馬蕃 飛上功紙の少からざるものがあった,有名なエサン・アレン。セカンドほその孫に当るクットパヅ−・・モルガン ほ,その孫グリーン。マウンテン・モルガンで名を得た.シェルマン・モルガンは最も有名な馬で,ブラック・ホ− ク20号を得てモルガン系統をして今日あらしめるの功績を残したのである。ブラック・ホーク20号ほ1855年紅蓮れ たが,母の血液に.ついては諸説あり一・定しない.その仔はユザン・アレン・5D号厳に.レ.エルマン・ブラック。ホ−ク 142号がある両馬ほ共にメッセンジャーの血液を母から受け,前者ほ鹿毛で1850年に生れ,モルガンの定形的体型 な有し,その時代の最も速力ある速歩椙であった.10ケ年の永きに.亘りて競馬に出違して像跡したが,最良の速度は 2分15秒であった.その孫にダニエル・ランバ、−トがあり,モルガン系統中速力馬の最多数を出して居るい即ち,2 分50秒級の馬59頭を生産し,その仔ほ叉122頭の速歩馬と.50頑の調子馬とを出したい 現在のモルガン馬ほ,以上のシ ェルマン・クッドリー及びパルラッレーユの各モルガンの血液が櫨錐に.交雑して出来たもので,ジュ.スチッ・モルガン に対してほ極度に近親の生羅馬である・モルガン偶がトロッターの1系統としてその様繹な保つのほ,主としてノ、ソ プレトニアン系血彼の混入に依るもので,その為に白身ほ本来植靭の体質,‡■三晶ある体形を火ったと非難せられてい るが,之とほ反対濫アメリカ速歩埼では,之濫依り休貿の健天性が得られたと.言われて居る.本粗紀の初めに負のモ ルガン馬を保存せんと.の運動が起り,190拘;に合衆国農務省を鋤かして,ヴェルモンt・州立試験場をしてその循に当 らしめることになった−依って同試験場ほパ】リングトン郊外に少数の良牡馬滋集めてその礎を作った現今の同州 ミットルバリ−の国立モルガン馬牧場は,ジョセフ・バッチル大佐がその私有の牧場を政府に詔勅したもので,氏自 身ほモルガン馬の熱心な蕃頼家で且つその登録のオ鮎役名でもあるこのモルガン燭牧場ほ,起伏あるテ∵−ブルランド で用地約1,000エ−カーを有し,よく乾燥した石灰督促昔む地租であるが仁牲結構の各色は洛毛,鹿毛で詩毛馬ほ少 ないL.体高15ノ\ンド(5尺)を越えず休或は約1,000ポンド,頭貞は乾燥して揖相あり,耳ほ小さく,眼ほ大きく左右 によく突出し,頸は美しく頸楚ほ高く,肩はよく傾斜し肋の張りほよく∴腱は強く.胸襟は大で尻ほ水平紅近く,肢 の筋腱よく発達した弥勒の馬である.即ち,モルガン馬牧場ほ,強腱にして悍感ある実用馬の生産を企図して屈る 外に知られた系統にグランド ・パンヨ,ピロット・ユニオルがある.メリット・ノ、パ「氏に依ると,1810年から1922 年に至るトロッダー及びぺ−サ一−のレコ−ドの短縮は,別表に示す通りである,即ら1810年から低に100年間に.,2分

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香川大学農学部学術報告 98 48秒%から1分5る秒号畳まで短縮することが出来たのである・・この様な結果郎等たこと.ほ競運用の薄体の改良が与って 力があったけれども,叉馬自体の速力の向上に関して萄殖上一潮例を開いたものである・之が為機胡・各所の速歩競馬 場を搾賭して,在来の速歩馬をして顔色なからしめた.この好結果を収め得たのほ,一一濫血統登録の功椋に帰せねほ ならない∩亜米利加トロッターの血統の登録ほ18る8年紅創まり,1887年登録協会が設立せられたがその登録書の冒頭 紅ほ登録馬資格として次の通り記載してある 1.登録スタンダード父馬と.登録スタンダード母馬から生れた馬. 2。.登録スタンダード父馬から生れた牡馬にして−,その母馬並に叔母が共に登録スタングーイ父馬の娘なるとき・ は.,彼自身登録スタンダード・レコ−ドを有し,且各異なった牝馬に.配して得た仔に・5頭のスタンダード・レコー ド馬あるとき.. 5..登録スタンダード父馬から坐れた牝馬にして,その母並に祖母が共に登録スタンダード父馬の娘なるときほ, 彼自身スタンダー・ド・レコードを有し,月つ1頭のスタンダード。レコード馬の母なるとき… 4.登錐スタンダードの父馬の娘に.してスタンダード・レコ−ド馬2頭の母なるとき・ 5,、登録スタンダー・ド父馬の娘にして,臥札曽祖母が共に選録スタンダード父馬の娘なるとき・・ (こゝに登銀スタソダL−ド・レコードとほ1昭2分50秒の速度を指す) この様に登録資格に血統を顧慮し始めたのは1915年からで,それ以前は速度のみに風氏を置いていた…例えば当時 の登録蟄格の第1項に「如何なる牡馬たるを問わず2分50秒,若しくほそれ以上の速歩レコードを有し,且つこの牡 馬から生産した仔馬が2分50秒,若しくほ・それ以上のレコ−ドを有する場合,叉ほこの牡馬の父又ほ母がスタンダー・ ド。トロッタ一種なるもの」とあるをみて:もその様子を知ることが出来る・辞米利加トロツターほ大体に於て一頭ほ 細大,肩岐立し尻の傾斜等を認める.尚皮膚和博く,胴若干短く,頭は甫頑で梢長く∴眼ほ豊円明絆であり,頸の長 さほ適当で胸前広く,肩峻立且つ短く,上脚よく傾斜し,胸は幅適度なるも深さを欠き,ぷ甲不充分で多くは短く低 い.月力ほ轡曲それ程大きくないが,李肋骨ほよく後方に張って居る為に豚が狭い尻ほ幅あるも大体に傾斜して傾い・ 股,脛,前脚ほ筋腱よく発達して間然する処がなく,管は余り太くはないが腱ほよく離れて居る・体高ほ5尺∼5尺 5寸5分である‖ぺ−サーとt・ロブタ−との間の体形上の差ほない1ウランゲル民ほ,「トロ=ソタ一に比すると・ぺ−・ サーほ,背腰と肢が強力である‖ 之は往時旅行用に則、られた髄腱実用の馬ほぺ−サーであった故に・,ぺ−サーの性 貿の現われる馬にほ此の性質が附随するからである」と言ってこいる・・又キャップテン・へイ氏に依ると「ぺ−サーー の4分の5ほトロツター溝殖から生れたのであるディレクト号はぺ−サー㌫走に出場して2分5秒のレコ−ドを狸 得し,†ロッタ−㌫走でほ2分18砂%を得たu 汐エ−。アイ・レイ号ほ速歩競走でほ2分10秒のレコ−・ドを得た後ぺ ーサーと.して出場して居る、」と言うハ トロッダーとぺ−サー・との速力を比較すると.次表の通りである・ 表 トロツターとぺ−サーの速力の比較 レコ、−・ドr】年 次1 属 名 レコード 分秒 2.28 227塊 2,25 218% 2=15% 211抜 2.0占 2..04 201塊 1.55施

年 次l 馬

名 ド プ ア ー フアンニ エルスラ− ア ン ナ■ ワ ン ペ ッ ト スリ−ピ、− ジョ一汐 リッツル ブラウン汐ック デ ィ ク レト マ ス コ ッ ト ロ バ−ト クエ ダ ン パ ッ チ ボ ス ト ン サリ−・ミ ラー ダ ッ チ マ ン ハイランドメ、−ド ゴールド スミス・ソード 汐エ−・アイ・レ− ナンシーノ\ンクス ゼ・ア ポ ソト ル・デ イ ロ ン ピタ−・ マンエソグ 上表の如くぺ・−サ」−はトロッタ一に.比すると速力は梢大である

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