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明治百五拾年. 近代日本ホタル売買・放虫史

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明治百五拾年 . 近代日本ホタル売買・放虫史

保科英人

福井大学教育学部

The history of buying and selling, and releasing of fire flies

(Coleoptera: Lampyridae)

in the Japanese modern monarchical period

Hideto H

oshina

Faculty of Education, Fukui University

(2017 年 12 月 25 日受理) Ⅰ . 明治日本人とホタル     初夏の夜。仕事や部活を終え、ホタルの乱舞に包まれ ながら家路を急ぐ。こんな日本人は今や至って少数派の はずである。大半の日本人にとってゲンジボタルやヘイ ケボタルとは遠出して余暇として見物に行くものであ り、日常とはかけ離れた幻想灯に過ぎなくなった。  この点は明治の東京人にとっても大差はない。明治も 終わり頃になれば東京のど真ん中ではホタル狩りは難し くなっていた。そこで、人々は当時ホタルの名所とされ た武州大宮まで汽車で繰り出すか、蛍売りと呼ばれる街 中の商人からホタルを買って、彼らの冷光を心地よく鑑 賞していたのである。  採集を伴う昆虫標本収集家を除くと、平成の日本で第 一の昆虫趣味と言えばカブト・クワガタの飼育だ。一方、 明治大正・昭和戦前期、所謂近代の日本人が趣味対象と した昆虫とは、まずはスズムシやマツムシなどの鳴く 虫、次いでホタルである。近代期の新聞を史料としてこ の両者を比較すると、記事になる頻度は鳴く虫の方がホ タルよりも高かった。特に昭和初期~ 10 年代は鳴く虫 の飼育が流行した時代であり、縁日で多種多様な鳴く虫 が売られ、そして各新聞は夏になると毎年のように飼育 特集記事を組んでいた。スズムシやカンタンの鳴き声が ラジオで生中継されたこともあったぐらいである(保科 2017b)。  しかし、戦後になって鳴く虫とホタルの地位は逆転し た。現在の日本では玄人向けの専門店を例外とすると、 街中のペットショップやホームセンターで売られる鳴く 虫はスズムシだけである。鳴く虫を愛でる文化は戦後か なり廃れてしまったと言ってよい (Hoshina 2017)。一 方、一般市民がカネでホタルを買う習慣はほぼなくなっ たが、市町村や地域団体が主催する初夏のホタル観察会 は今なお隆盛している。かつて人々の娯楽の主役だった ラジオが戦後テレビに取って代わられたのと同様、虫を 鑑賞する日本人の嗜好も音色からビジュアルに軸足が移 行したかとも思えるが、これは筆者の当て推量にすぎな い。  平成 30 年 (2018 年 ) は明治 150 年記念の節目の年 だ。近代及び現代におけるホタル文化については保科 (2017a) で一度まとめたことがある。本稿では明治大正・ 昭和戦前期の近代に時代を絞り、日本のホタルにまつわ る売買や放虫の歴史を論じてみたいと思う。   Ⅱ . 本稿で史料として用いた近代期新聞     本稿では近代期の新聞記事を主な史料として用いた。 本稿で東京朝日新聞、朝日新聞(注釈 1)、読売新聞、都 新聞、郵便報知新聞、大阪毎日新聞、東京毎日新聞など 問い合わせ先 〒 910−8507 福井県福井市文京 3-9−1 福井大学教育学部        

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の諸紙を本文中で引用する際、「東京朝日」「読売」「都」 など、語尾の “ 新聞 ” を省いた略称を用い、萬朝報のみ 紙名をフル表記した。また、明治、大正、昭和、平成を それぞれ M、T、 S、H の略号で表した。本稿における 新聞記事の引用は以下のような書式となる。 明治 27 年 11 月 22 日付都新聞:M27. 11. 22. 都 明治 37 年 2 月 8 日付東京朝日新聞: M37. 2. 8. 東京朝 日 大正 3 年 8 月 4 日付萬朝報:T3. 8. 4. 萬朝報 昭和 16 年 12 月 8 日付読売新聞:S16. 12. 8. 読売 平成 29 年 9 月 13 日付朝日新聞:H29. 9. 13. 朝日  ここで新聞記事の信憑性について一点指摘しておかね ばならない。筆者は現在の新聞の記事ですら信用し難い 面があると書いたことがある(保科 2016)。まして近代 期の新聞の場合、現在とは全く異なる事情があった。明 治時代、新聞社は探訪と呼ばれる情報収集者を雇用して 記事ネタを集めさせ、記者は探訪が取材してきた話を元 に新聞社内で記事を書いた。ようするに記者は現地に足 を運ばなかったのである。そして、新聞の黎明期ほどこ の傾向が強かった。  問題は記事ネタを集める探訪の質である。探訪は人材 としてのレベルがお世辞にも高いとはいえなかった。当 時の新聞に掲載された雑報は、探訪が諸々方々を聞き歩 き、耳にした材料を記者が文章にしていたので「~と言 ふ話」「~と言ふ噂」などの類の記事が多かった。また 「~言ふものあり」という末尾も実に多く、この場合は 発言者が何者なのか、全く正体不明なのである。探訪は 巡査とか小学校の代用教員あがりなどもいたが、読み書 きすら満足にできない者も少なくなかったらしい(春原 2003)。当時の探訪について新聞記者として政治家人生 をスタートさせた犬養毅は、後年面白い証言を残してい る(片山 1932)。    「探訪記者といつて今の外勤記者のやうな者は居つた が、之はまた至つて程度の低い者で、役所へ行つても湯 呑所で小使でも相手に話をして来るか、極めて下級の官 吏から何か聴いて来る位のものに過ぎなかつた。『探訪 記者が来たから洋傘を注意しろ』と言はれたほど蔑視さ れたものである」(「低級だつた探訪記者」より)  傘を盗られかねないから注意しろ、とは何とも酷い話 である。探訪の読み書き能力が十分でなく、また、彼ら が貴重な話を仕入れられたとしても、政治経済社会に関 する知識が乏しければ、新聞社で待つ記者にどれだけ正 確に伝えられたかは甚だ疑問と言わざるを得ない。時代 が進むにつれ、記者が自ら取材をする現在の形に近づい ていったが、探訪と言う存在がすぐに消えたわけではな い。探訪による情報収集制度は、東京や大阪の大手新聞 社でも大正時代の半ばまで残っていた(春原 2003)。と なれば、上述の探訪を多用していた事情も合わせて考え ると、当時の新聞記事の内容の信憑性に大きな疑義が生 じるのは当然だ。とは言え、記事に書かれた内容が正し いか否かは、今となっては検証不可能なものが殆どだ。 本稿で引用した新聞記事は原則原文に従っただけであ り、言わば鵜呑みにしていることを予め明記しておきた い。  最後に、近代期の新聞ではホタルは単に「螢」「ほたる」 とだけ記されることが殆どで、文章からそれらホタルの 大半がゲンジボタルなのかヘイケボタルなのか、さてま たヒメボタルなのかを読み取ることはできない。本稿で 扱う “ ホタル ” との単語は特定の種を指しているわけで はないことを御了承願う。 Ⅲ . 縁日や街中で売られていたホタルの価格     現在カネでホタルを買おうと思い立ち、夜店や一般 ペットショップに足を運んだとしても大概は徒労に終わ るだけだ。どうしても買いたければ極めて特殊な専門店 に行くしかない。しかし、近代期の日本では縁日や街中 で普通にホタルを買うことができた。では、ホタルは1 頭如何ほどの価格で売られていたのか?  表 1 は保科 (2017a) で示した近代期ホタル価格表を一 部改変したものである。比較対象としてスズムシとその 年 1 月時点の東京朝日新聞 1 部の価格を併記した(注釈 2)。表 1 のホタルの価格は縁日等での小売値と問屋から 虫売り商人への卸値が混在している可能性が少なくない が、それにしても当時のホタルがスズムシと比べると大 幅に安価であったことは一目瞭然である。なお、一部の 価格が小数点以下なのは厘(10 厘= 1 銭)を銭の単位 に変換したこと、あるいは原記事が「△頭〇銭」のよう に複数個体の価格表示であり 1 頭当たりの価格に換算し

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たが故である。  平成の現在、夏から初秋にホームセンター等で売って いるスズムシは大凡 1 頭数百円である。同じくホタルを 取り扱う専門店の website をいくつか覗くと、ゲンジボ タルやヘイケボタルも 1 頭数百円程度の価格が付けられ ていることがわかった。つまり昨今スズムシとホタルの 値段に大差はない。  次に現在大手新聞の朝刊が 1 部 150 円弱なので、ス ズムシは新聞 1 部の数倍程度の値段なわけだが、これ は近代期も同様である(表 1 )。つまり、スズムシの商 品としての価値は明治 20 年代も現代も大きく変わって いない。逆に近代期のホタルの価格はその年の新聞代と 比較すると非常に安価であることがわかる。現在の貨幣 価値で言うならせいぜい数十円以下と考えればよいだろ う。新聞 1 部のカネでホタルが 5 頭も 6 頭も買えると 言うのは現代人には想像もつかない。近代期のホタルが 如何に安かったかが窺い知れる。  東京の縁日等で蛍売りと呼ばれる商人が扱うホタルは 甲州、武州大宮、宇都宮、目黒池上などで捕られた野外 個体が主であった(保科 2017a)。この他、明治 22 年 (1889 年 ) に新橋―神戸間の東海道官設鉄道が全通する と(老川 2014)、3 年後の明治 25 年 (1892 年 ) には 京都宇治産のホタルが初めて東京の問屋に鉄道で持ち込 まれた(M25. 6. 26. 読売)。また、大正半ばには近江 守山でホタルの人工増殖の研究が始まり(『昆蟲世界』 第二十三巻二百六十三號)、やがて東京や大阪の市場に 十万単位の守山産養殖個体が出回るようになる。 表 1 近代期のホタル・スズムシ 1 頭及び東京朝日新聞 1 部の価格     ・スズムシの価格は保科 (2017a) より引用。ホタルの価格が掲載された同じ新聞記事からの引用とは限らない。 ・明治 31 年、大正3年、昭和 13 年、昭和 14 年のスズムシの価格は不明。 ・典拠となった新聞記事の和暦は省略。それぞれ表左段の和暦と同じ。 ・運輸日報は原紙は現存せず。雑誌『昆虫世界』21 巻 239 号より孫引き。

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Ⅳ . 蛍売りと言う商売の実態     では、蛍売りと呼ばれる商売はどのようなものであっ たか。昭和初期の話であるが、蛍売りは最低 5、6 円の 元手があれば女子供でもできる商売だったと言う(S5. 6. 16. 読売)。昭和 10 年代の大阪では店を構える場所にも よりけりだが、客寄せに大声張り上げることなく一晩で 1 頭 1 銭のホタルを千頭売ることもできた(S12. 6. 17. 大阪毎日)。昭和初期から 10 年代前半の大工の日当が 2 ~ 3 円と言う時代だ(森永 2008)。大工の日当数日分を 資本とし、一方、一晩で 10 円もの売り上げが出る蛍売 りは確かに商売を始める敷居が低い。次いで儲け率につ いてであるが、明治 33 年 (1900 年 ) の時点ではホタル は 100 頭 10 銭で卸され、2 頭 1 銭で小売りされたとの 数字が残っている(M33. 6. 11. 萬朝報)。卸値の 5 倍 で小売りされていたわけだから、一見かなりの儲け率の ように思える。ただし、商い中に死亡するホタルが少な からず出ることを考えると、ホタル売りがどこまでおい しい商売であったかは定かでない。  一方、野外でホタルを大量に捕獲して市場に供給する 商店の経営規模はどれくらいのものであったか。大正 11 年 (1922 年 ) の数字であるが、相州の小田原山傳商 店は 1 年で 1 千万頭ものホタルを取引していた(T11. 5. 8. 東京朝日)。これだけの数を裁けたのは VI 章で紹 介する東京の松坂屋と言う大口の取引先を持っていたが 故であろう。さて、この時の相場は 10 頭 1 銭であるか ら、単純に計算すると 1 万円の売り上げだ。大正後半の 国家公務員高等官の初任給は約 70 円(森永 2008)。こ れを現在の大卒国家公務員の初任給約 20 万円に該当さ せると、小田原山傳商店の売上高は初夏だけで現在の貨 幣基準の 3 千万円となる。筆者は大正初期のスズムシや マツムシなどの鳴く虫の問屋の 1 シーズンの売上高は現 在の貨幣基準で 1 億数千万円との例を出したことがある (保科 2017b)。鳴く虫に比べるとホタルは単価が安いの で、どうしても上記のような低めの数値になってしまう のだ。  さて、売上から引かれる諸経費だ。小田原山傳商店が 自分らだけでホタルを 1 千万頭も集めきれるわけがな く、採集人が捕ってきたホタルを買いあげるのである。 ただ、大正初期の甲州の例で言えば、子供がホタルを集 めて仲買人に渡していたようだから(T3. 6. 10. 読売)、 小田原山傳商店は採集人からかなり買い叩けていたのか もしれない。また、野生のホタルを捕って来るだけだか ら元手はほぼゼロのはずである。こう考えるとホタル取 引は悪くはない季節商売のように思える。  ホタル売買は明治期の縁日の各家庭向けの小売りに 加え、やがて業者間の大規模取引の時代へと移ってい く。例えば表 1 の「大正 6 年:ホタル 1 頭 5 銭」と は「螢が百疋五圓と云ふ値」(『昆蟲世界』第二十一巻 二百三十九號より孫引き)からの計算であるが、大正中 頃からホタルの大量一括購入を前提とした価格表記が目 に付くようになる。昭和 13 年 (1938 年 ) には「1 千頭 4 円 50 銭、1 万頭 40 円」のような大口客を想定した 価格表記となっている(S13. 6. 22. 読売)。到底一般家 庭が買う個体数ではない。実際、近江守山産ゲンジボタ ルを大阪で売りさばいていた滋賀県立物産販売斡旋所大 阪支所は「小売りはお断り」と大口客のみを相手に商売 していた(S12. 6. 17. 大阪毎日)。VI、VII 章で後述す るように、大正以降、ホタルは各家庭が軒下にホタル籠 をぶら下げ数匹単位を鑑賞する時代から、大量消費され る時代となっていったのだ。ホタルにとって受難の時代 の到来である。 Ⅴ . 客寄せに放虫されたホタル     『源氏物語』(第 25 帖「蛍」)には部屋に引き籠った玉 鬘の気を引こうと、源氏の君が袖に隠していた多数のホ タルを一斉に放すシーンがある。人に見せるためにあら かじめ捕まえておいたホタルを放す、との行為はどうも 日本人なら古来誰しもが思いつく発想らしい。  大正 7 年 (1918 年 ) 8 月 3 日及び 4 日、東京日比谷 公園で東京毎日新聞社主催の「虫聲會」が開催された。 マツムシ、スズムシ、クツワムシなど鳴く虫が数十万匹 も同公園に放された他、5 万頭のホタルも同時に解き放 つ壮大な大納涼祭である。当日は日比谷公園中央の池 の中央に立つ銅製の鶴の像に数個のホタル籠を取り付け た。そして、籠の上部にホタルが 1 ~ 2 頭通れる程度の 穴を空けた。こうすれば、少しずつホタルが飛び散る様 子が観察できると言うわけだ。ただ、東京毎日新聞社側 が来客にホタルと鳴く虫ともに捕ること一切自由として しまったので、初日の 8 月 3 日ホタルを入れた虫籠を 主催者側が運び込んだとたん、来客はホタルに殺到し会

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場は大混乱、大半のホタルは放される前に哀れ虫籠ごと 踏みつぶされてしまった(T7. 8. 5. 東京毎日)。  日比谷公園の 5 万頭ものホタルは千葉県堀江市川や埼 玉県大宮周辺から集められたものだったらしいが(T2. 8. 3. 東京毎日)、8 月初旬と言えばゲンジボタルは勿論盛 夏近くに羽化するヘイケボタルの発生ピークも過ぎてい る。にもかかわらずこれだけのホタルを集めえたことは、 大正中頃の日本では現在の首都圏内でもホタルが普通に 生息していた証とも言えよう。  さて、上記の「虫聲會」は現在の無償のホタル鑑賞会 に近い形態であるが、近代日本ではホタルは商売絡みで 利用されることが多かった。明治 10 年代後半から 30 年代前半にかけて、ホタルの名産地である近江石山や武 州大宮の旅館は東京や大阪の都心の客を呼びこもうと、 朝日新聞や都新聞、読売新聞などにホタル狩りを売りに した広告を盛んに出していた。大宮氷川公園の公木樓や 萬松樓などの料亭旅館に至っては舟上でホタルを見物で きるサービスまで客に提供していた(M28. 5. 25. 都)。 文豪の田山花袋の紀行文には大宮のホタル観光を描いた ものがあって、東京の人々が「大宮に蛍見にでも出かけ ていくかな」と気軽に出かけていた様子や、これら料亭 旅館の茶代宿泊代は結構な値段がしたこと、旅館側は 客にホタル狩りをさせた後ホタルをお土産として持ち 帰らせていたことなどを書き残している(田山 1923a; 1923b)。このような野生生物を利用した観光業は言わ ば近代エコツーリズムの原型として、現代的視点からも 肯定的に捉えることができるのだが、残念ながら商魂た くましい日本人は美談だけでは終わらせてくれない。  ホタルの名所に旅館や料亭が建ち並べば当然のことな がら店の間で客の奪い合いが激しくなる。例えば、明 治 17 年 (1884 年 ) に江州石山の丸屋六右衛門が朝日新 聞に出した広告を見ると、どうやら旅館側が車夫を抱き 込んで、遠方から来る客を自分の店に連れて来させると 言った強引な客引きも行なわれていたらしい(M17. 6. 14. 朝日)。  こういう状況になると誰しもが同じ誘惑にかられる。 多くの客を捕まえたければ自分の店の前にホタルをばら まけばよいのである。筆者が調べた近代期新聞の中では、 早くも明治 13 年 (1880 年 ) の段階で大仁村(現在の大 阪市内)の玉藤樓幸町の長亭等が客寄せに庭前の樹木へ 無数のホタルを放ったとの記事がある(M13. 6. 3. 朝 日)。同じ京阪神地区では、京都の四条河原の茶店一同 が石山より数万のホタルを取り寄せ、加茂川へ放し来客 を楽しませた(M18. 7. 7. 読売)。  鉄道を中心とした輸送インフラの発展とも関連してい るのだろうが、客寄せに放虫されるホタルの数が年を追 うごとに増加する傾向があることが新聞記事から読み取 れる。例えば明治 18 年 (1885 年 ) に浅草公園の池に放 されたホタルは毎夜千匹程度だった(M18. 7. 7. 読売)。 その 3 年後、東京本郷区菊坂下釣掘の庭園内では数万 のホタルが放虫された(M21. 7. 8. 読売)。明治 35 年 (1902 年 ) の新聞広告によると、本芝浦鑛泉・芝濱館は 数十万頭ものホタルを江州石山より取り寄せ、僅か 3 日 間で全てを使いつくすホタル狩りを催したと言う(M35. 6. 17. 東京朝日)。この他、明治後半以降上野不忍池で も大量のホタルを放す催し物がしばしば実施されてい た(例えば T6. 6. 9. 読売)。このように明治 30 年代以 降になると、店舗やお祭り行事等で放されるホタルの個 体数は十万単位と言う莫大な数字が常態化することとな る。なお、ホタル狩りが客寄せに利用されたのは東京だ けではない。昭和 10 年代の記録であるが、大阪の郊外 電車や百貨店、カフェなどもホタルを大量購入していた と言う(S12. 6. 17. 大阪毎日)。 Ⅵ . 大型小売店の景品にされたホタル   ホタルを放して客を呼ぶ。これが上述の京都の茶店や 芝濱館の営業活動であるが、明治末以降には新手の商法 が目立つようになる。放したホタルを客に見せるだけで なく一部の個体を商品お買い上げの客に贈呈、ようす るにホタルを景品として活用し始めたのだ。上野廣小路 の松坂屋いとう呉服店(現在の松坂屋百貨店)は、明治 45 年 (1912 年 ) の初夏以降土日には夜間開店して、近 江、美濃、相模、甲州のホタルを取り寄せ庭園に放った。 明治 45 年 (1912 年 ) から 6 年間にわたって集めたホタ ルは何と 530 万頭にも達した (T6. 6. 20. 読売 )。  松坂屋はホタルとは縁が深い。大正 3 年 (1914 年 ) 6 月の大正博覧会の会場でも十万単位のホタルを寄贈し放 虫した他、博覧会に来場した客を見込み夜間営業に踏み 切った。店舗では縞絽羽織地伊達帯などを特売し、お土 産として客に美麗な蛍籠を配った(T3. 6. 14. 東京朝日 ; T3. 6. 15. 読売)。翌大正4年 (1915 年 ) には松坂屋は

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6 月 1 日より夏衣大売り出し、そして浴衣の陳列会を開 き、やはり来客にホタル入りの籠を進呈した(T4. 6. 1. 読売)。  ある意味無惨としか言いようがない無数のホタルの命 の浪費であるが、さすがに松坂屋も寝覚めが悪くなった のか、大正 6 年 (1917 年 ) には松坂屋根岸別荘内にホ タル供養の「ほたる塚」を建立した。同年 6 月 18 日夜 8 時ほたる塚の除幕式を行い、読経、祭文店主以下一同 の焼香のち、「螢の歌」を合唱、次いで園遊会に移り仮 装劇「螢供養」が披露された。来会者は千人に達し非常 に盛況であった(T6. 6. 20. 読売)。もっとも、この除 幕式でも性懲りもなく 3 万頭のホタルが放されたそうだ から(T6. 6. 21. 東京朝日)、筆者は何なんだかなとの 思いを隠せない。 Ⅶ . 鉄道会社が集客のためにホタルを放虫   駅で電車を待つサラリーマンがふと目の前の蛍火に思 いを寄せる。昨今の我が国ではほぼ実現不可能な情景だ が、明治 30 年代半ばはそうではなかったらしい。明治 36 年 (1903 年 ) 5 月の東京興雅會月次狂歌のお題は「停 車場螢」で「發車まつおもひにふける停車場にもゆる螢 も我身なりけり」などの 19 歌が新聞で紹介されている (M36. 5. 27. 読売)。明治日本人は駅とホタルに組み合 わせの妙を見出したと言うことだろうか。  V 章で述べたように、明治大正期の東京人にとって大 宮はホタルの名所として大層名高かった。ホタル出盛り の土日には上野と大宮の両駅は子供連れの客で花見時並 みに大混雑した(T9. 6. 15. 読売)。これら駅の人込み からホタルが持つ集客力に感づいて、と言うわけでもな かろうが、各鉄道会社も運賃収入増に結び付く様々なホ タル関連の商売を考えるようになる。明治 20 年代から 30 年代は大宮の旅館側の誘客営業が功を奏し、鉄道は 東京から大宮へホタル見物に向かう客を運んでいるにす ぎなかった。しかし、明治末頃からホタル行楽行事を鉄 道会社が自ら作り出すようになるのである。  明治 40 年 (1907 年 ) 6 月、玉川電気鉄道は終点玉川 がアユとホタルの名勝地であるとの新聞広告を出した (M40. 6. 2. 東京朝日)。アユとホタルには意外な関係が ある。玉川では村人がホタルを捕獲し、アユ漁の客に売 りつけることがあった(M40. 5. 21. 東京朝日)。この 明治 40 年の広告は単なる終着駅周辺の観光紹介にとど まっている。しかし、明治 43 年 (1910 年 ) 6 月 18 日 玉川二子付近でホタル 3 万頭を放すホタル狩り及び花火 大会が挙行された時は、同鉄道は当日運賃を 3 割引きす る上、客を都心に帰すため午後 11 時まで運転を行うと のサービスに打って出た(M43. 6. 17. 読売)。京阪神で は鉄道作業局が明治 39 年 (1906 年 ) に近江石山付近へ のホタル狩りの客の交通の便を計るため、6 月 1 日から 同月 30 日まで京都、大阪、三ノ宮、神戸の各駅で石山・ 大津回遊割引乗車券を発売している(M39. 5. 28. 読売)。  鉄道史の観点から言えば、大正初期の第一次世界大戦 の頃から東京の私鉄は路線沿線に日帰り可能な行楽地を 創出し、割引運賃などを採用して乗車客数を増やす経営 戦略を立て始めた(老川 2016)。事実、ホタル狩りを売 りにした各鉄道会社の新聞広告や催し予告記事が大正2 年 (1913 年 ) 以降頻繁に掲載されるようになる。以下、 8 件の関連記事を箇条書きにしてみた。 ・大正 2 年 (1913 年 ) 7 月5、6、9、10 日 及び 11 日から 17 日まで、王子電車は飛鳥山に数万頭のホタル を放ち、また数百の電燈をも点灯させる遊興を提供(T2. 7. 5. 読売)。東京朝日もほぼ同じ紹介記事を掲載(T2. 7. 6. 東京朝日)。 ・大正 3 年 (1914 年 ) 6 月 20 日と 21 日の両日、鶴見 の花月園ではホタルを数万頭放し、ホタル狩りを挙行。 遊園券に京濱電車の往復券を合わせて提示すると美麗な ホタル籠を進呈(T3. 6. 18. 東京朝日)。 ・大正 3 年 (1914 年 ) 7 月4、5、11、12 日の4日間、 王子電車は飛鳥山に毎夕数万頭のホタルを放す。当日は 午後 5 時から 9 時までの全線乗客に季節土産としてホ タル籠進呈の引換券を付ける(T3. 7. 3. 東京朝日)。 ・大正 5 年 (1916 年 ) 6 月、玉川電車は同月 17 日と 18 日を「玉川螢デー」とし、渋谷と玉川間の往復客に 籠付きでホタルを進呈(T5. 6. 16. 東京朝日)。 ・大正 6 年 (1917 年 ) 6 月 24 日、玉川兵庫島にて玉川 電車主催のホタル狩りが挙行される。数万頭のホタル を放し来客に自由に捕らせる。さらに渋谷と玉川の間を 鉄道で往復する客に限りホタル籠を進呈(T6. 6. 24. 読 売)。 ・大正 7 年 (1918 年 ) 6 月、京王電車は同月 1 日と 15 日の日曜日は新宿追分にて大幅に割引きした廻遊乗車券

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を発売。「鮎漁と螢狩」との大きな見出しの広告(T7. 6. 22. 東京朝日)。 ・大正 10 年 (1921 年 ) 6 月「玉川田圃大螢出盛り・鮎漁・ 玉川の夜景」との見出し文句の玉川電車の広告(T10. 6. 12. 東京朝日)。 ・昭和 9 年 (1934 年 ) 6 月 16 日から 20 日まで東横電 車多摩川園前駅近くのグランドに毎夕近江産ゲンジボタ ルを 2 万頭放虫。優待割引証を提示すれば目蒲東横電車 全線各駅より多摩川園前駅往復運賃は 2 割引き(ただし 5 銭区間を除く)。お土産として蛍袋を進呈。優待割引証 は東京朝日新聞販売店より贈呈(S9. 6. 15. 東京朝日)。  玉川電鉄による玉川二子橋付近での万単位のホタル放 虫及び当日の往復運賃割引などのサービスについては明 治末に出版された若月紫蘭の『東京年中行事』でも紹介 されており(若月 1992)、東京の初夏の一つの風物詩に なっていた。ただ、上記 8 件の記事からわかるように、 玉川電鉄だけでなく、在京の各私鉄が競うようにホタル 狩りを挙行していたことが窺える。昭和 9 年 (1934 年 ) の多摩川園前駅でのホタル狩りは東京朝日新聞社も一枚 かんでいたようだから、新聞社も共催や後援に近い形で 参画していたのではあるまいか。  これら一連のホタル放虫行楽に対し、鉄道会社がどこ までコミットしていたか、ようするにホタル購入費その 他コストをどこまで鉄道側が負担していたのか広告や新 聞記事だけでは判別しがたいものもある。もっとも、単 に客を運んでいただけとは到底思えない。老川 (2016) が指摘する「鉄道会社による行楽地創出」がホタル狩り との形で結実していたわけである。  かつて玉川はホタルの有名な産地であったが、明治末 頃には既に少なくなっていた(若月 1992)。となると同 川でホタル狩りをしたければ、どこぞからホタルをかき 集めてこなければならないわけだが、玉川電鉄含めこれ ら鉄道会社が催したホタル狩りで放虫されたホタルの出 所の多くは判然としない。近江や甲州から大量に購入し ていたものと考えられる。 Ⅷ . ホタルと戯れる高官たち  近代日本の皇族、華族、政界、軍、芸能諸分野の重鎮 たちの間で鳴く虫を愛し、虫屋からそれらを購入したの ち自宅の庭に放し、鳴き声を楽しむ者が少なくなかった (保科 2017b)。では、明治大正の高官たちはホタルを眺 めて物思いにふけったのであろうか。  まず、明治 16 年 (1883 年 ) 「海軍御雇教師佛國人チャ ンブレン氏」は洋銀 50 枚分の宇治のホタルを購入し、 本国へ回して養殖しようとしたと言う(M16. 6. 5. 読 売)(注釈 3)。洋銀 50 枚も出せばかなりの数のホタル が買えたはずであるが、この計画が実際どこまで実行さ れたか、またそもそもこの記事にどこまで信憑性がある のかは定かでない。常識的に考えれば仮に欧州へホタル を送ったとしても輸送中に全滅したはずである。  次いで、明治 17 年 (1884 年 ) 5 月末。翌月の三条実 美の来京を控え、東西の両本願寺の法主は宇治川でホタ ル観賞の宴を催す準備をしていた(M17. 5. 31. 朝日)。  そして、明治 21 年 (1888 年 ) 6 月、山田顕義司法大 臣は小石川区音羽町の別邸に東京府在住の高官数名を招 きホタル狩りを楽しんだ(M21. 6. 10. 読売)。小石川の 江戸川端は少なくとも明治 20 年代時点ではまだホタル の名所として知られていた(例えば M24. 5. 30. 郵便報 知)。山田顕義は購入した大量のホタルを邸宅に放して 客に供したのか、それとも川辺まで足を運んで野生個体 を鑑賞したのか、それは新聞記事からはわからない。  明治 37 年 (1904 年 ) 日露戦争勃発。陸軍の北白川 恒久王は満州に出征した。戦地で北白川宮は虫の来襲に 悩まされながらも平然としていた。そこで、兵と苦労を 共にする北白川宮に感激した師団の一部の兵士が、籠を 作ってホタルをそこに入れ北白川宮に献上した(M37. 8. 2. 東京朝日)。  政府高官がホタルを大量に取り寄せ、自宅庭園に放虫 した事例がある。明治 41 年 (1908 年 ) 6 月、明治大正 の政軍官界全てに権勢をふるった元勲山県有朋は近江石 山寺付近のホタル数千頭を邸宅の目白椿山荘に放し、毎 晩雅友と会してホタル観賞を楽しんだそうだ(M41. 6. 19. 読売)。山県の伝記『公爵山縣有朋傳』(徳富 1933) には山県がホタルを愛したとの記述はない。ただ、山県 は庭園造営で有名な元老であるし、目白椿山荘で「かけ くらき杉の間の瀧つせを光にみせて飛ふ螢かな」との歌 を詠んでいる(徳富 1933)。山県が自慢の庭園にホタル を放したとしても特に不思議な話ではない。  政府の高官たちが虫屋からスズムシやマツムシを購入 していたとの記事は多いのだが、ホタルで遊んだとの記

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事は意外と少数しか見つけられなかった。もっともこれ はただの偶然に過ぎず、当時の上流階級の間でホタル 観賞が軽視されていた証ではなかろう。そして、これま た偶々ではあろうが、新聞記事に現れる鳴く虫愛好家の 政府高官は薩摩藩関係者が多かった(保科 2017b)。一 方、本章に登場した要人のうち、山田顕義と山県有朋は 長州藩出身で、また三条実美は幕末時に政変に敗れ長州 藩に落ち延びた経験がある。まさか、薩摩と長州の間で 鳴く虫とホタルの「趣味の住み分け」があったとも思え ず、筆者の思い過ごしであろうが気になると言えば気に なる。 IX. 皇族への献上品としてのホタル  上述のように近代日本では庭園に無数のホタルを放す 行為が趣ある趣味とされていた。となると華族や政界有 力者へのホタルの贈呈があったに違いないが、かつての 臣民は天皇家や宮家へホタルを供するとの発想も持ち 合わせていた。例えば、地方へ行幸する明治天皇に対し て現地の住民がホタルを献納したとの史実が明治 15 年 (1882 年 ) の例に見いだせる。同年 6 月千葉方面に行幸 した明治天皇は同月 6 日成田の新勝寺を行在所とした が、新勝寺住職は数万頭のホタルを集め天皇に供した(宮 内庁 1971)。次に、明治 44 年 (1911 年 ) 8 月に東宮(の 表 2 近代期新聞に掲載された天皇家、宮家及び天皇御所へのホタル献上事例   ・典拠となった新聞記事の和暦は省略。それぞれ表左段の和暦と同じ。 (注 1)明治 42 年 6 月 19 日付読売新聞に同 35 年 6 月にホタルが献納されたことが記載。 (注 2)同日付萬朝報及び東京朝日新聞にも同様の記事あり。 (注 3)6 月 23 日付読売新聞にも同様の記事が掲載されるが、放したホタルは 3 千頭とある。両記事の間に数字の大きな差がある。 (注 4)同日付東京朝日新聞にも同様の記事あり。 (注 5)同日付読売新聞にも同様の記事あり。 (注 6)6 月 7 日付読売新聞ににも同様の記事が掲載されるが、同放したホタルは数万頭とある。 (注 7)同日付東京朝日新聞にも同様の記事あり。

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ちの大正天皇)が北海道を巡回したおり、 1 人の臣民が 佐渡島から数万頭のホタルを取り寄せ、小樽市内の東宮 宿泊所の後方山中に放したと言う(M44. 8. 24. 読売)(注 釈 4)。皇族へのホタル供覧の事例としては、明治 40 年 (1907 年 ) に閑院宮及び同妃が長岡市を訪れた際に、地 元住民が数万のホタルを集め、両殿下の宿に持参したと の記録がある(M42. 6. 22. 読売)。もっとも新聞記事に 頻繁に現れるホタルの皇室への献納は地方から臣民がホ タルを抱えて上京し、宮中や天皇御所への直接持参した ものである。それらの事例を表 2 に記した。  天皇家御所へのホタルの放虫に関する新聞記事は明治 11 年 (1878 年 ) まで遡れたが、臣民によるホタルの天 皇家や宮家への献納が本格化するのは明治 20 年代と思 われる。筆者が調べることができた新聞記事のうち武州 大宮のホタル献納は明治 35 年 (1902 年 ) が最も古かっ たが(M35. 6.5. 東京朝日)、実際は明治 26 年 (1893 年 ) から天皇家や各宮家への献納が行われていた(大宮市史 編さん委員会編 1969)。一方、明治 30 年代には西日本 の名所と知られる近江のホタルの献上も恒例となってい た。  これら地方のホタルの献納の定着は鉄道路線の発展と 深く関係があろう。成虫期の寿命が長くないホタルの場 合、捕獲後迅速に東京へ運ぶ必要があるからだ。武州大 宮のホタルの例をとってみると、上野―熊谷線が営業を 開始したのは明治 16 年 (1883 年 ) 7 月であるが、大宮 駅は設置されていなかった。大宮町の住民の請願や陳情 の結果、大宮駅が開設されたのは明治 18 年 (1885 年 ) 3 月である。この時点では単線区間であったが、上野― 大宮間の複線化工事が一部を除き完成したのは明治 25 年 (1892 年 ) 10 月である(大宮市史編さん委員会編 1982)。さらに、大宮駅開設 4 か月後の明治 18 年 (1885 年 ) 7 月には大宮―宇都宮間が開業した。このことは大 宮駅が日本鉄道第一区線(東京―前橋)と第二区線(第 一区線から白河まで)の分岐点となり、鉄道交通の拠点 として発展していくことを意味した(埼玉県編 1988)。 このように大宮周辺の鉄道インフラの整備と上述の明治 26 年 (1893 年 ) の献納開始に関連を見出すことも不可 能ではない。  ホタルの皇居への持参が盛んになる次なる契機は日露 戦争である。明治 38 年 (1905 年 ) 5 月、日本の連合艦 隊はロシア・バルチック艦隊を日本海海戦で徹底的に 破った。世界海戦史上稀に見る完全勝利であったが、そ の大勝を祝し、中野町桃園学校高等科生徒 150 名がホ タル行列を挙行した。同年 6 月 7 日、生徒らは自分達 で集めたホタルを掲げて行進を開始、陸海軍両省の前を 通り、帝国万歳の声の下、大勢の群集が見守る中、皇居・ 二重橋から数千頭のホタルを放虫した(M38. 6. 7. 東京 朝日)。端的に言えば、このホタル放虫パフォーマンス は観客に大いにうけた。そのせいであろうか、翌年以降 も中野町の生徒による日本海海戦記念のホタル放虫が繰 り返し行われることとなる(表 2)。  大正年間の新聞記事からは上記の滋賀や埼玉等からの ホタル献納が確認できたが(表 2)、昭和期に入ると新 たな献上地域が名乗りを上げた。福岡県浮羽郡である。 関西よりも東京から遥かに離れた位置にある福岡からの 大量のホタルの生体輸送を可能にした背景には、一つは 九州内の鉄道網の整備である。浮羽郡を走る鉄道は明治 36 年 (1903 年 ) 筑後馬車鉄道としてスタートし、翌 37 年 (1904 年 ) に石油発動機関車が導入された。しかし、 国鉄久大線の久留米―吉井が開通し、浮羽郡と博多が国 鉄で結ばれるのは昭和 3 年 (1928 年 ) まで持ち越され ている(浮羽町史編集委員会編 1988; 田主丸町誌編集委 員会編 1997)。  二つ目は東海道線の高速化だ。昭和 5 年 (1930 年 ) 10 月に営業を開始した特急「燕」は最高速度 95 km を 誇り、東京―神戸間の所要時間を従来の特急と比して 2 時間 40 分もの時間短縮に成功した(老川 2016)。  三つ目は航空機時代が幕を開けたこと。福岡の名島空 港が完成したのは昭和 4 年 (1929 年 ) であるが(九州 産業考古学会編 2008)、その 5 年後の昭和 9 年 (1934 年 ) に明治神宮や日比谷公園、宮中、葉山御用邸にもた らされた浮羽郡産ホタルはその名島空港を飛び立ったも のだ(S9. 6. 7. 読売)。また、現在の福岡県筑前町にあっ た大刀洗飛行場が陸軍航空基地として建設されたのは大 正 8 年 (1919 年 ) であるが、昭和 4 年 (1929 年 ) 4 月 には日本航空輸送(株)が大刀洗支所を設置し、東京と 大刀洗間で航空機による郵便と貨物の輸送が始まった (三輪町編 1998)。 6 年後の昭和 10 年 (1935 年 ) に天 皇家や山階宮、賀陽宮に献納され、また上野不忍池、靖 国神社、明治神宮等に放虫された浮羽郡産ホタルはこの 大刀洗空港発の航空機で運ばれたものである。この時の 大刀洗からの輸送費は航空輸送会社の好意で無料にされ

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たと言う(S10. 5. 31. 読売 ; S10. 6. 1. 読売)。なお、 浮羽郡のホタルは常に空港経由で東京まで届けられたわ けではなく、鉄道と航空機両方に分けて輸送されること もあった(S13. 6. 1. 読売)。  新聞記事でたどる浮羽郡の皇室へのホタル献納は昭和 9 年 (1934 年 ) が最も古かったが(表 2)、実際の献納 開始年度は明らかでない。ただ昭和 9 年 (1934 年 ) の 記事に “ 例年の如く献納 ” との類の言葉が見当たらない ことから、浮羽郡のホタル献納は昭和初期以降と筆者は 見ている。いずれにせよ福岡県浮羽郡のホタルは “ 筑紫 蛍 ” と呼ばれ、昭和東京人にとって馴染み深いものとな るが、九州内の国鉄線の延長と東海道線の高速化、航空 輸送業の発展の3つが重なったことによって同地のホタ ルの東京への迅速な大量輸送が可能になったと言える。  表 2 はあくまで筆者が見つけ得た新聞記事の羅列で あり、天皇家や宮家へのホタル献納の氷山の一角に過ぎ ないはずだ。実際、表 2 は昭和 14 年 (1939 年 ) まで の事例記事であるが、昭和 16 年 (1941 年 ) 12 月開戦 の大東亜戦争中も各所からホタルの献納は続けられてい たことが各種記録から判明している(半藤 2007; 宮内 庁 2016)。ただ、昭和 17 年 (1942 年 ) 6 月 7 日ミッド ウェー海戦大敗北一週間後の 14 日「(昭和天皇は)吹上 御苑に成らせられ、献上の蛍を御放し遊ばさる」(「小倉 庫次侍従日記」)、昭和 19 年 (1944 年 ) 6 月 19 日マリ アナ沖海戦大敗 4 日後の 23 日「(昭和天皇は)吹上御 苑を御散策になり、観瀑亭・花蔭亭付近にて蛍を御覧に なる」(『昭和天皇実録』)等の日誌の記述に胸が詰まった。 また、同月 25 日、昭和天皇は統帥部からのサイパン放 棄やむなしとの上奏を裁可したが、この日の夜も皇居内 でホタルを鑑賞している(鈴木 2011)。昭和天皇が絶望 的な戦局の中、如何なる想いでホタルを上覧されたのか、 筆者には察するに余りある。 X. 乱獲されたホタルの衰退  鉄道会社や大型小売店、皇族へ提供されたホタルの頭 数は数万だの十万だのと言った桁数が大きい数字が並 ぶ。もちろん、これらの数字は「大量のホタル」を現わ す象徴的な意味合いがあるはずで、必ずしもホタルの実 数を正しく示しているわけではないだろう。次に注意す べきは天皇家や宮家へ献納されたホタルである。“ 畏き あたり ” にホタルを献上する場合、ともかく多くの個体 を捕獲し、そこから良好な個体を選抜して宮中へ持参し ていた節がある。例えば、昭和 13 年 (1938 年 )、静岡 県青島町の高等裁縫女学校生徒は 3 千頭のホタルを捕獲 し、そこから丈夫なもの 2 千頭を選んで皇太子と照宮に 献上した(S13. 5. 27. 読売)。明治 44 年 (1911 年 ) の 長野県五加村有志が皇孫殿下にホタルを献上した際は捕 獲した 8 千頭の中から 3 千頭を厳選している(M44. 6. 22. 読売)。つまり、宮中へ献納された個体数以上にホタ ルは捕られていた、との結論になる。何はともあれ明治 以降に捕獲されたホタルの頭数は無数であり、乱獲と呼 ぶに十分な状況であったことは容易に想像がつく。とな ると、乱獲によるホタルの自然個体群への影響はどの程 度のものであったかとの疑問がわく。  近代ホタル研究の第一人者であった神田左京は乱獲に よるホタル減少を指摘していた(神田 1981)。今となっ ては明治大正期のホタルの衰亡を科学的に検証すること は困難だが、新聞記事を積み重ねることによって、乱獲 によるホタル個体群への影響の断片を読み取ることがで きる。  明治 10 年代~ 20 年の時点では大阪の桜の宮、天王 寺、北野、今宮、京都の桂川、宇治、そして東京の小石 川や広尾でも野生のホタルを十分鑑賞できていた(M13. 5. 23. 朝 日 ; M14. 5. 27. 朝 日 ; M16. 6. 30. 読 売 ; M20. 6. 3. 読売 ; M20. 6. 5. 読売)。明治 10 年代半ば の京都桂川では「川が埋まるほど」のホタルが群れ飛ん でいた(M16. 6. 30. 読売)。  明治 20 年代、武州大宮の旅館がホタル見物の客を呼 び込もうとして東京人に営業攻勢をかけていたことは上 述の通りだが(V 章)、かと言って同時期の東京府下か らホタルが完全に姿を消していたわけではなかった。明 治 20 年代半ばでも向島、広尾、小石川江戸端、三河島、 入谷田甫などはホタル狩りの客で賑わっていたし(M22. 6. 12; 東京朝日 ; M24. 5. 27. 東京朝日 ; M24. 5. 30. 郵便報知 ; M25. 6. 11. 郵便報知)、明治 28 年 (1895 年 ) には目黒の料亭旅館の大國家が「ホタルとカキツバタは 今が盛り」との新聞広告を出している(M28. 6. 17. 読 売)。  しかし、明治 30 年代に入ると東京府下のホタルの激 減がうかがえる記事が散見されるようになる。例えば、 明治 34 年 (1901 年 ) の新聞記事には「小石川と牛込の

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間にある大堰付近はかつてはホタルの名所であったが、 今や有名無実だ。王子や田端のホタルも昔ほどではない」 とあるのだ(M34. 6. 18. 読売)。無論、明治 30 年代 でも東京府下にホタルの名所とされる場所として目黒や 池上本願寺などが挙がっており(M35. 6. 3. 東京朝日 ; M36. 6. 5. 東京朝日)、府下でホタルが見られなくなっ たわけではない。ただ、同年代には既に客寄せにホタル の大量放虫が行われていたので(V 章参照)、この時期 の名所に群れ飛んでいたホタルが地元産個体なのかどう かは疑いが残る。  大正時代に入っても向島ではポツポツとホタルは発生 していた(T4. 7. 7. 萬朝報)。しかし、明治 40 年代の 時点で「東京の真ん中でも水があれば 1 頭や 2 頭のホ タルを見ないわけではない。ただ、王子、目黒、広尾、 玉川へホタル狩りに出かけるのは付近の人か余程の暇 人で、これらは名所としては今やほぼ名ばかり」(若月 1992)との状況、つまり明治の終わりには東京都心部で ホタルの乱舞は見られ難くなっていたと見るべきであろ う。  明治期に東京府下のホタルが激減したのは間違いない だろうが、その原因を乱獲だけに求めてよいかどうか には躊躇いが残る。確かに明治期の縁日では目黒池上、 玉川、千住等の東京産ホタルが出回っていたが(若月 1992; 保科 2017a)、甲州や宇都宮、大宮等の関東周辺 産ホタルも東京市場で売られていた(保科 2017a)。東 京のホタルだけが捕られていたわけではない。明治期の 東京産ホタルの減少は江戸以来の都市化の影響も見逃す べきではないだろう。  明治の次の大正期は大型小売店や鉄道会社などによっ てホタルが十万単位で大量消費される時代となったわけ だが(VI 章及び VII 章)、当然のことながら東京府下の 減退しつつあるホタルでこれら大口需要を賄いきれるは ずもない。そこで武州大宮や甲州、相模小田原、近江石 山などのホタルが大量捕獲され、東京に商品として持ち 込まれた。一方、やや先の時代の話であるが、昭和 10 年代の大阪ホタル市場には近江守山のほか四国産個体ま で投入されていた(S12. 6. 17. 大阪毎日)。  東京府下と比するとホタルにとって良好な生息環境が 残されていた大宮や甲州、近江であっても、毎年何十万 頭以上の個体が乱獲されるのであれば自然個体群はただ ではすまないはずだ。実際、早くも大正 3 年 (1914 年 ) には「ホタルの産地として有名な笛吹川では近年少なく なった。そこで代替として甲府の南の鎌田川岸で捕られ たホタルが東京へ出荷されている」との記録がある(T3. 6. 10. 読売)。笛吹川のホタルが少なくなった原因は多々 あろうが、乱獲が大きな要因と考えるのが自然だろう。 また、笛吹川の代替地となった鎌田川でもホタルの繁殖 を図るため、山梨県は時々ホタル狩りを止めさせたと言 う(T3. 6. 10. 読売)。甲州でも乱獲の影響が出始めて いたのだ。  ホタルの “ 輸出国 ” が “ 輸入国 ” へ転落した事例はい くつかある。例えば、かつて玉川産ホタルは東京の縁日 へ出荷されていたが、明治の終わりには玉川鉄道は逆に ホタルを玉川へ放していたことは上述の通りだ(VII 章 参照)。次に、明治 20 年代半ば、東海道線を利用して東 京へホタルを出荷していた宇治は、昭和 10 年代には後 述する滋賀守山ホタルの養殖場から 30 万頭を買わなけ ればならなくなっていた(S12. 6. 27. 大阪毎日)。そし て、東京近郊のホタルの名所として栄華を誇った武州大 宮も昭和 10 年代にはホタルは乱獲によって激減してい た、と神田 (1981) は指摘している。これは『大宮市史』 の「大宮町時代に既にホタルは少なくなっていた」(注、 大宮市制施行は昭和 15 年 (1940 年 ) )との記述とほぼ 一致する(大宮市史編さん委員会編 1969)。昭和 13 年 (1938 年 ) 大宮町は 6 月 11、12、18、19 日の「螢デー」 の日に大宮公園舟遊池付近へ市民のために 7、8 万頭の ホタルを放すことを決定した(S13. 6. 9. 東京朝日)。大 宮見沼のゲンジホタル発生地は昭和 7 年 (1932 年 ) に 天然記念物に仮指定されていて市民が自由に捕れなかっ たがゆえだが(大宮市史編さん委員会編 1969)、東京近 郊最大のホタル供給地だったはずの大宮が放虫せざるを 得ない状況に追い込まれている点は見逃せない。  最後に近江守山の事例である。守山蛍は明治 43 年 (1910 年 ) から大正 7 年 (1918 年 ) まで毎年皇室に献 上されていたが、名声高まるにつれ同地のホタルは各地 へ出荷された。ホタル捕りを専業とするものさえいたら しいから(守山市史編纂委員会編 1974)、その徹底した 乱獲ぶりが窺える。明治終わり頃、守山町からの出荷数 は年間数百万頭にも及んだ(M43. 6. 15. 読売)。同地 のホタルは、国内はもとより朝鮮半島にまで輸出されて いた。しかし、大正中頃にはやはり乱獲により激減して しまった。同地有力者はこれを憂いて、やむなく守山町

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内に 5 箇所の捕獲禁止区域を設けている。さらに大正 8 年 (1919 年 )、大阪毎日新聞の本山彦一社長の一部資金 供出と岐阜県の名和昆虫研究所の技術指導のもと、守山 町のホタル保護繁殖の研究がスタートした(『昆蟲世界』 第二十三巻二百六十三號)。なお、守山螢養殖所の事業 は成功し、守山は一大供給地としての地位を回復した。 昭和 10 年代初めには年間 600 万頭ものホタルを生産す るようになり、国内各地や満州、朝鮮からの注文に応じ るまでになっていた(S12. 6. 27. 大阪毎日)。平成現在 のホタル取扱業者がどこまでの大口注文に応えられる供 給量を持っているかは筆者には見当もつかないが、この 600 万頭と言う年間生産量は数字として決して小さくな い気がする。  こうして守山からの養殖個体の出荷と各地での乱獲に 支えられながら、近代日本人のホタルの大量消費は大東 亜戦争敗戦まで続くこととなる。 XI. ホタル乱獲への危惧  日本中あげてのホタル乱獲に対し、ホタル学者の神田 左京以外にも苦言を呈する学者はいた。その一人が北里 研究所の宮島幹之助医学博士である。もっとも、宮島の 主張は現代の保全生物学的な論理ではなく、益虫として のホタルがいなくなったら困る、との応用昆虫学的観点 からの批判であった。  現代人には想像がつかないことだが、戦前期ホタルは 害虫を食う益虫としても大事にされていた。ホタルの幼 虫は衛生害虫の日本住血吸虫の中間宿主ミヤイリガイ の天敵と目されていたからである(T12. 6. 1. 都 ; S12. 7. 7. 都)。大正以降、日本住血吸虫症の多くの患者を出 した地域ではミヤイリガイの根絶作戦が進められていた (増田・内山 2009)。よってホタルを捕ることはミヤイ リガイ駆除に悪影響を及ぼす、との論理である。なお、 徹底した駆除の結果、ミヤイリガイ(=カタヤマガイ) は今や環境省カテゴリー I 類に指定されるほどの希少種 となってしまった。  日本のホタルは太平洋も渡っている。昭和 14 年 (1939 年 ) カリフォルニアとハワイでは牛の住血吸虫病を引き 起こす寄生虫の寄主の巻貝駆除が必要とされていた。ハ ワイの昆虫学者フラウェーは巻貝を食う日本のホタルに 目を付けた。そこで、来日したフラウェーは山梨県を中 心に各地を回ってホタルを集め、1000 頭近くを本国に 送ったとの記録もある(S14. 7. 13. 読売)。  昭和 9 年 (1934 年 ) 北里研究所の宮島幹之助は莫大 な数のホタルが各地から東京に送られて、デパートや大 型商店などの景品とされ、あるいは庭園に放される現状 を「心ないわざ」として批判した。さらに宮島は都会人 が日本住血吸虫症の恐さを知らず、自分たちの楽しみの ためだけにホタルを減らし、その結果農村在住者を危険 な病気に追いやることを「文明人として実に恥ずべき」 とまで喝破した(S9. 6. 29. 読売)。宮島の糾弾の矛先は もっぱら大型商業店舗に向けられ、天皇家や宮家へのホ タルの献納、また靖国神社や明治神宮での放虫には全く 言及されていない点は一見不可思議である。もっとも、 宮島の本心がどうであれ、時代が時代だけに天皇不敬と 取られかねない言動は躊躇われたに違いない。なお、宮 島の主張が世間に受け入れられ、ホタルの乱獲に歯止め がかかった気配は窺えない。 XII. 支那事変及び大東亜戦争時の日本軍とホタル  時は明治 37 年 (1904 年 ) の日露戦役。満州や樺太 へ出征中の兵士の中には戦地から岐阜の名和昆虫研究 所に昆虫標本を送付する者もいた(『昆蟲世界』第九巻 九十七號)。筆者は虫業界の長老から「戦争中、熱帯の 虫を捕りたかったから南方勤務を志願した」との話を聞 いたことがある。どうやら戦地であっても虫を捕りたい との欲望は虫屋としては自然に湧き上がってくるものら しい。ここでホタルの商取引や放虫とは離れるが、近代 日本人とホタルとの関係を論じるうえで、支那事変及び 大東亜戦争中のホタルの逸話を逃すわけにはいかない。  昭和 14 年 (1939 年 ) 2 月、日本軍は南支作戦の一環 として海南島に上陸した。残敵掃討作戦の露営中、鼻の 先を飛ぶホタルについつい跳ね起き、ホタル狩りをする 無邪気な兵士がいた(S15. 3. 14. 読売)。  昭和 15 年 (1940 年 ) 5 月、中国大陸における日本軍 は宜昌作戦を発動。6 月上旬、兵士たちはホタルが飛ぶ 闇夜に漢水を渡った(S15. 6. 7. 東京朝日)。  昭和 17 年 (1942 年 ) 1 月。マレー戦線で涼風と共に ゴム林にホタルの群れが流れ出し、進軍する兵士たちの 肩に止まった。頭にかぶったヤシの葉にもホタルは止 まった。兵士たちが見る夢は七夕の思い出であろうか

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(S17. 1. 22. 読売)。  昭和 17 年 (1942 年 ) 3 月。ジャワ作戦終了直後のあ る日本軍兵士は昼間のアカトンボ、夜のホタル、そして カエルの鳴き声を見聞きして「敵地に来たような気がし ない」との感想を漏らした(S17. 3. 19. 朝日)。  昭和 19 年 (1944 年 ) 1 月。ソロモン諸島にて。既に 制海権・制空権共に敵軍の手に落ち、島々の日本軍は孤 立していた。物資不足が深刻な最前線の兵士たちは、手 製の行燈に空瓶で作ったランプを灯し、またある時は ジャングルで集めてきたホタルを行燈に入れて夜のひと 時を慰めた(S19. 1. 6. 読売)。  重い銃を担いで渡河する兵士たちの目に乱れ飛ぶホタ ルはどのように映ったのだろう。玉砕覚悟のソロモンの 戦場で異国のホタル行燈を囲む大勢の兵士たちの胸中を 過るものは何であったか。遠い故郷の小川を飛び交う ゲンジボタルではなかったか。戦場でホタルをそっと手 に取った兵士たちのどれだけが故国の地を踏めたのか。 百万言を費やしても彼らの想いを言い尽くせるはずもな いが、我々は戦場でホタルに瞳を凝らした兵士たちの存 在を決して忘れてはならない。 XIII. 明暗が分かれた鳴く虫とホタルの運命  鳴く虫とホタルは共に近代日本の縁日で売られていた 虫であるが、明治以降両者がたどった道程は随分異なる。 鳴く虫も養殖個体とは別に野外個体が捕獲され市場で売 られていたが、筆者は乱獲の影響で捕れ難くなったとの 記事を見つけられていない。また、東京の縁日で売られ る野外個体の鳴く虫の供給源はほぼ関東周辺に限られて おり、近江や福岡から大量に持ち込まれた形跡はない(保 科 2017b)。さらに、鳴く虫の場合、大正 7 年 (1918 年 ) 日比谷公園の「虫聲會」で数十万頭が放されたとの記録 はあるが、万単位の個体が放虫されたとの新聞記事は決 して多くない。鳴く虫の主な買い手はあくまで一般の個 人であった。一方、ホタルの場合は全国各地から東京に 生体が持ち込まれ、乱獲によって数が著しく減少した地 域も珍しくなく、そして業者間の十万単位の個体の商取 引が行われていた。このように、近代日本における鳴く 虫とホタルの文化的様相は随分と異なる。  上記の大きな差は鳴く虫とホタルそれぞれの生物学的 及び経済学的な特性と関係があろう。1)鳴く虫はある 程度開発が進んだ河川敷の草むらでも生存可能だが、ホ タルは環境改変に弱い。2)鳴く虫の養殖は比較的簡単 だが、ホタルの人工増殖は現代でも誰しもが取り組める 代物ではない。確かに戦前期、近江の守山螢養殖所は増 殖技術を確立していた。しかし、ホタル飼育法を学ぶた めに九州や関東から同養殖所の視察に訪れた人間は少な からずあったが、彼らは地元での養殖に大抵失敗したと 言う(S12. 6. 27. 大阪毎日)。3)鳴く虫の声を聞くこ とは比較的容易だが、大量に捕獲するのは困難である。 筆者とて「マツムシ 50 匹捕ってこい」と言われても達 成できる自信がない。明治終わり頃の話だが、野外の鳴 く虫を取り扱う虫屋は採集人に大工とほぼ同額の日当を 払っていた(保科 2017b)。つまり、それだけの技術料 を払わねばならなかったとも言える。一方、ホタルは捕 虫網さえあれば、子供でも目の前のホタルを捕り尽すの は造作もないことである。4)3)の理由により野外個体 が多く生息している条件下であれば、大量捕獲が容易な ホタルの方が鳴く虫よりも価格が安かったのは当たり前 である(表 1)。鳴く虫で最も安かったスズムシは現在の 貨幣価値で数百円程度。儲かっている百貨店と言えども 十万単位の個体のスズムシをおいそれと景品として配れ ない。一方、近代期のホタルは III 章で 1 頭せいぜい数 十円程度と述べたが、百貨店や鉄道会社が十万単位で買 えば単価はもっと下がったはずだ。広告宣伝費として支 出できる範囲である。5)だいいち、鳴く虫問屋や養殖 業者の数は東京府下にそれぞれ数軒ずつ程度しかなく、 昭和初期でも最大手の鳴く虫養殖業者の供給量は 10 数 万頭にとどまっていた(保科 2017b)。鳴く虫業者が客 から十万単位の大口注文に応じることは非常に困難であ る。逆に、ホタルの場合、例えば小田原のホタル商店は 1 千万頭のホタルを扱っていたから(IV 章参照)、カネ さえ出せば大企業が十万単位のホタルをかき集めること は可能であった。  以上、(1)~(5)の理由により、野外個体に供給の 多くを依存せざるを得ず、乱獲や環境改変で地域によっ ては数が激減し、また業者間で大量取引されたホタル。 一方、養殖技術は確立していたが一問屋が百万単位の個 体を供給できなかったが故にあくまで一般人相手の商売 の域にとどまり、絶滅危惧の状態には追い込まれなかっ た鳴く虫。ここが明治以降両者の運命の明暗が分かれた 所以である。

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XIV. 近代ホタル放虫史の概略  新聞が世相を正しく反映しているとは限らない。よっ て、以下あくまで「新聞記事から見た」との厳しい条件 付きであるが、本稿のまとめとして近代日本、特に東京 におけるホタル放虫史の概略を述べてみた。  明治 10 年代から 20 年代までは、東京や大阪でもホ タル観賞は可能であった。鉄道インフラの発展により 同 20 年代には武州大宮までホタル見物をする東京人も 出てきた。同 30 年代になると東京府下のホタル減少の 兆候が見られ、購入した十万単位のホタルを客寄せに放 す料亭旅館も珍しくなくなった。このような放虫の大規 模化は府下のホタルの減少傾向と無関係ではないかもし れない。東京人が身近でホタルの乱舞を見難くなったか らこその大量放虫とも思えるからだ。また、天皇や宮家 にホタルを献上するとの風習は従来も存在したが、同 30 年代以降は常態化・大規模化し、献上は大東亜戦争 中まで続いた。明治 40 年代には東京の従来の名所でホ タルが見られなくなる箇所が増えた。玉川はその一つだ が、その代わりに玉川鉄道が自らで玉川にホタルを放ち、 人々がホタル狩りを楽しめる環境を人工的に作るように なった。  大正時代に入ると、観光業に本腰を入れ始めた在京の 鉄道会社が競うようにホタルを積極的に放し、ホタル狩 りによる運賃収入増加に努めた。また、大型小売店がホ タルを景品として客に配るサービスも行われた。大正初 期にホタル大量消費時代が幕を開けたわけである。東京 におけるホタルの大量の需要を賄うべく各地で乱獲が続 いたが、その影響でホタルの減少が著しい地方もぽつぽ つ現れるようになる。  昭和に入っても、ホタルの大量消費は収まらない。名 所として知られた武州大宮のホタルが昭和 10 年代には 乱獲により激減してしまったのはその影響であろう。さ らに鉄道の高速化や航空輸送の本格化により、遠方から の東京への大量ホタル運搬が可能となった。その一つが 福岡県浮羽郡で、同地のホタルは筑紫蛍と呼ばれて東京 で有名になった。各地からの宮中へのホタル献納は大東 亜戦争中も継続され、昭和 20 年 (1945 年 ) 大日本帝国 は敗戦を迎えた。以上が新聞記事から見た近代ホタル放 虫史の概略である。 XV. 追記 . ホタルの放流はもはや 日本人の習慣になっているのか  筆者が明治大正・昭和戦前期の新聞記事から拾えたホ タルの放虫は氷山の一角に過ぎない。果たして近代期の 東京に何頭の地方産ホタルが放されたのか。松坂屋一店 舗がたった 6 年間で放したホタルだけで 500 万頭を越 えていた(VI 章参照)。次に宮中へ献納されたホタルの 個体数であるが、表 2 に時折登場する「蛍籠(かご)」 を現在のホームセンターで売っている数百円程度の虫籠 を想像してはいけない。  蛍籠に全国統一規格があったわけではなかろうが、昭 和 10 年代初めに撮影された写真から、蛍籠は並んで写っ ている子供の身長と比較して一辺 70 cm になろうかと 推測される大きな木箱である(S11. 6. 14. 読売)。同じ 10 年代の記録によれば籠 1 箱に千頭のホタルを入れた と言う(S13. 5. 27. 読売)。仮にこの 1 籠=千頭の数字 を採用すると、表 2 に掲載の宮中に献上されたホタルの 単純合計数は 40 ~ 50 万頭となるが、記事になってい ない献納も含めれば実際は 100 万頭を軽く超していた に違いない。  天皇家や宮家に献納されたホタルは籠の中で飼い殺し にされたわけではない。当然数万単位のホタルを受け 取った皇族も扱いに困ったはずなので、その殆どが御所 なり明治神宮なり靖国神社なりに放虫されていた。とな ると百貨店が催すホタル狩りや景品、鉄道会社によるば らまき、皇室への献納、その他行事諸々での放虫を合わ せると、近代東京府下で放された地方産ホタルは到底 1 千万、2 千万頭で収まるはずがなかろう。  他地域のホタルの幼虫及び成虫を別の場所に移動させ た後に放す。現代の保全生態学的理論からすれば絶対に 許されない行為だ。もちろん、所謂遺伝的撹乱の問題が 全く知られていなかった明治大正・昭和戦前期の大量の 地方産ホタルの東京への移送及び放虫を批判することは 無意味である。また、本稿で天皇家へのホタル献納を取 り上げたことは皇室批判と曲解されかねないが、筆者に そのような意図がない事だけははっきりと述べておく。 ただ、気がかりなのはウン千万頭の単位で放された地方 産ホタルが現在の関東に生息するホタルの遺伝子に与え た影響である。昭和天皇は献上されたホタルを放して、 御所内でのホタルの自然発生に熱心に取り組んでおられ

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たことは有名な話だ(田中 1949)。現在でもゲンジボ タル・ヘイケボタル共に皇居内に生息している(野村ら 2000)。この他、23 区内にゲンジボタルが自生する場所 が残っているそうだ(H29. 7. 15. 朝日)。  近代期に皇居や明治神宮、百貨店の庭園、玉川などで 放された地方産ホタルの殆どは野垂れ死にしたであろう が、それでも生き残り繁殖に漕ぎ着けた個体も僅かにい たかもしれない。また郊外から鉄道で東京に買い物に来 て百貨店で貰った景品のホタルを帰宅後に自宅近くで放 した客も少なからずあっただろう。となると、現在の東 京周辺のホタルの遺伝子に近代期の放虫に起因する地方 集団の遺伝子が混ざっているのか、との話になるが、こ れはホタルの分子生物学のド素人である筆者が首を突っ 込む案件ではない。  「なぜ他所のホタルを放流してはならないのか」につ いては古河 (2011) と 斎藤 (2016) に譲りたい。大雑把 にその理由をまとめるなら、1) ゲンジボタルとヘイケボ タルともに遺伝的にいくつかの集団に分化している。人 がむやみにホタルを動かすことは遺伝的撹乱を引き起こ す、2)ホタルの幼虫を放流する際にはエサであるカワ ニナも同時に播かれることが少なくないが、カワニナに も各地域で遺伝的変異がある。数十キロ単位で購入した 出所不明のカワニナを放流すること自体が大きな問題で あるし、近年はカワニナに酷似する外来巻貝のコモチカ ワツボが混入する事例が報告されている、3)そもそも 川にはキャパシティがある。ホタルの幼虫を放流するこ とで却ってホタルがカワニナを食いつくしてしまい、両 者共倒れになるリスクがある、4)3)を防ぐためにホ タルとカワニナを共に放流したとしても、特定の 2 種の 生き物のみを河川に大量にばらまくことは生態系の破壊 につながる。他の有象無象の生き物は知ったことではな い、ホタルさえ飛んでいればヨロシイとの願望は環境保 全ではなく、自分好みの動物に対する偏愛に過ぎないと 言ったところだろう。  本稿はホタル保護の論考を目的としていない。筆者が 一つ問題視したいのは、ホタルの放虫が当たり前の習慣 として近代期に日本人の意識に植え付けられてしまった のではないかとの疑義である。そもそも日本人にとって 水域に魚を放つ行為は仏教思想に裏付けられ生き物を慈 しむ美徳と見なされがちだ(中井 2000)。メダカの無秩 序な放流は保全生態学上極めてよろしくない行為だが、 国内各地で “ 善意 ” の放流は一向に収まる気配がない。 この背景にはメダカの放流を環境保全活動と美化して報 じるマスメディアの存在がある(北川 2013)。筆者も経 験があるが、コイや川魚の放流を好意的に取り上げる新 聞記者に「放流は問題ある行為だ」といくら懇々と説明 しようとも暖簾に腕押し、糠に釘である。  ホタルの放流もまた全国留まるところを知らない。昨 今、遺伝的撹乱との単語が世間一般でも知られるところ となり、「同種のホタルであっても遠方の個体を放して はいけない」との問題意識が浸透したのは喜ばしい。た だ、その一方で「地元産のホタルさえ使用すれば放流し てもよい」との短絡的発想が生まれてしまったのは残念 だ。斎藤 (2016) は平成 18 年 (2006 年 ) から平成 25 年 (2013 年 ) までの新聞記事から各地のホタル放流事 例を 11 件取り上げたが、無論こんなものはほんの一部 に過ぎない。平成 29 年 (2017 年 ) にも大分県日田青年 会議所がカワニナ 20 kg と共にホタルを放流したとの 新聞報道があった(H29. 10. 13. 大分合同)。キツネや ヒグマに対するエサやりが不可であることは良識ある国 民の共通理解であるが、カワニナの放流がホタルに対す る餌付けと認識されないのは筆者には極めて不可解であ る。  筆者は全国各地のホタル放流の詳細を知り得る立場に ない。しかし、ホタル及びカワニナの遺伝的撹乱の回避、 外来巻貝の混入の阻止、ホタルが成長に必要とするカワ ニナが量的に十分生息しているかどうかの資源量調査、 ホタル・カワニナ両者が供給過多となった場合の他の水 生生物への影響の事前予測、その他諸々、各地のホタル 放流活動全てがこれら諸問題を一切合切吟味して、クリ アしたうえで実施されているとは到底思えないのであ る。コイやメダカと同様、「ホタルの放流は環境教育上 及び環境保全上善いこと」との思い込みがあまりに強す ぎるのだ。  近代期に宮中へホタルを献納していたとの誇りが、現 在の人々にホタルを性急に復活させねばならないとの強 迫観念となっていると思われる節がある。例えば、岐阜 県揖斐小学校の前身にあたる尋常高等小学校は戦前ホタ ルを皇室に献納していた。揖斐小学校の校長は「ホタル の皇室献上は貴重な歴史的遺産として伝えたい」と語り、 同小学校は毎年 4 月にカワニナを桂川に放流していると 言う(H20. 6. 18. 中日)。次に、大宮の氷川神社宮司は

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