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「日本男子マラソンが金メダルにもっとも近づいた日」 一九二八年五輪アムステルダム大会マラソン競技における「人種」表象の考察にむけて

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Academic year: 2021

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 (1) ─ ─── ─

はじめに

  二〇〇八年度に私が着手した武蔵大学総合研究所助成プロジェクトA は、三年間の研究調査を経て、その目標を次のように絞り込んできてい る (( ( 。 す な わ ち、 「 黒 人 」 と 呼 ば れ る 人 間 集 団 に 固 有 の 運 動 能 力 が あ る と する想定を、科学的根拠が存在しないにもかかわらず一つの言説として 広く受け入れられていることを根拠に「神話」として規定し、この神話 が 出 現 し、 伝 播 し て き た 経 路 を 解 明 し、 「 黒 人 身 体 能 力 神 話 の 浸 透 」 = 「 歴 史 的、 文 化 的 に 構 築 さ れ た 現 象 」 に 生 得 的、 遺 伝 的 根 拠 が あ る と す る想定を批判的に再検討することである。   こ れ ま で に、 こ の 目 標 を 達 成 す る た め に 二 つ の 立 場 を 設 定 し て き た。 そ の 第 一 は、 「 神 話 」 の 浸 透 を 国 際 的 な 広 が り を も つ 現 象 と し て 捉 え、 その起源と形成・普及の過程をグローバルな視点から、とりわけスポー ツ大国として、これまで多くの「黒人」アスリートを産出してきたアメ リカ合衆国(以下アメリカ)の占める役割と位置に注意を払いつつ、明 ら か に し よ う と す る も の で あ る (( ( 。 第 二 は、 「 神 話 」 の 浸 透 に お け る す ぐ れて日本的な、つまりにグローバルな水準に照らすと日本においてきわ めて無批判に「神話」が受容される状況に注目する立場であ る (( ( 。   第二の立場からの調査の成果を、私はこれまで幾度かに分けて発表し てき た (( ( 。本論もまた、この立場をとるものであるが、先行研究とは異な り、 「 き わ め て 無 批 判 に『 神 話 』 が 受 容 さ れ る 状 況 」 が 出 現 す る 歴 史 的 過程に踏み入ろうとする点で、新しい角度からのアプローチをこころざ している。つまり、先行研究では、日米の比較的な枠組において、アン ケートとインタビューに基づく質的調査によって、現在を生きるインフ ォーマントのライフヒストリーをたどりつつ、一人ひとりが積み重ねて きた経験のデータから、神話に対するポジションの固有性が生まれる原 因を明らかにしようとしてきた。これに対し、本論は、明治以降の近現 代の日本史をさかのぼり、身体能力において「黒人」を頂点とする「人 種」的序列(あるいは「人種」的ヒエラルヒー)の意識や思 考 (( ( が構築さ れ る 時 期・ 時 代 と そ の 環 境 に 分 析 の 眼 を 向 け る こ と を ね ら い と し て い る。 近 現 代 と い う 歴 史 的 文 脈 に 立 ち 入 る こ と に よ っ て、 「 神 話 」 の 形 成 過 程 を 段 階 的 あ る い は よ り 立 体 的 に 炙 り 出 そ う と す る 意 図 が こ こ に あ る。   右にいう「身体能力において『黒人』を頂点とする『人種』的序列の 意 識 や 思 考 の 構 築 」 を、 す こ し 広 い 視 点 か ら 言 い 換 え る な ら、 「 人 種 」 という概念による社会の構造化および序列化の一端をなすものとして捉 えることができる。このような構造化および序列化は、いつ、いかにし てなされたのか。その背後にはいかなる要因が作用していたのか。そし てそれはいつ、いかに変容してきたのか。これらの問いは、一九八〇年 代、九〇年代に相次いで発表された著書において、 M・オーミと H・ワ

「日本男子マラソンが金メダルにもっとも近づいた日

((

一九二八年五輪アムステルダム大会マラソン競技における「人種

(─ (

表象の考察にむけて

 

 

 

(2)

 (─) ─ ─── ─ イナンが投げかけ、アメリカという国民国家の文脈において、その答え を 見 い だ し た も の で あ る と い っ て よ い で あ ろ う。 オ ー ミ / ワ イ ナ ン は、 「 人 種 」 そ の も の の 性 質 や 特 徴 か ら、 社 会 が「 人 種 」 に よ っ て 構 造 化 さ れ序列化される過程に視点を移し、この過程を「レイシャル・フォーメ ー シ ョ ン( racial formation ) = 人 種 的 秩 序・ 序 列 の 形 成 」 と 呼 ん だ。 そしてそれが成立し、変容する原因と文脈を突き止めることを目的とす る研究を提唱したのであ る (( ( 。   我が国でも、オーミ/ワイナンに呼応しつつ、西洋的なパラダイムを 批判的に再検討し、非西洋地域の歴史的、文化的状況をも視野に入れた 位 置 か ら、 「 人 種 」 に 正 面 か ら 取 り 組 む 研 究 が 集 積 さ れ て い る。 こ う し た 研 究 に み ら れ る 共 通 点 と し て、 「 人 種 」 と い う 概 念 を 科 学 的 根 拠 の な い虚構として切り捨てるわけでも、むろん客観的、固定的な事実として 受け入れるわけでもなく、私達の社会的世界を構築し、表象する基底的 な役割を果たすものと認めた上で、分析の対象として受け入れる意欲と 姿勢を指摘でき る (( ( 。   本論もまた、 「身体能力」という限定がつくとはいえ、 「黒人」を最高 位 に 配 置 す る「 人 種 」 的 な 秩 序 あ る い は 序 列 が 形 成 さ れ る 過 程 に 着 目 し、それがなぜ、いかになされ、変容を遂げたのかを問う点で、上に述 べた学術的な脈絡に位置づけることが可能である。 「黒人身体能力神話」 の起源を求める研究は、かくして「レイシャル・フォーメーション」の 一局面を切り開く作業を伴うものといえるのである。したがって、私の 取り組む武蔵大学総合研究所助成プロジェクトAの目的は、 「身体能力」 という制約された、しかし独自の視点から、アメリカと日本それぞれに おける「人種」的序列の形成過程を検証し、両者の近現代史を読み直す ことと言い換えることが可能であ る ((( ( 。   身体能力おける「人種」的序列の意識や思考の起源を探る作業に着手 するため、さしあたって、 M・ダイレソンが提案する一九二八年のオリ ンピック、アムステルダム大会マラソン競技における「人種」言説・表 象 の 国 際 比 較 研 究 に 注 目 し た い ((( ( 。 こ の 競 技 は、 オ リ ン ピ ッ ク 史 上 初 め て ((( ( 、 非 白 人 ラ ン ナ ー が 優 勝 の 栄 冠 を 手 中 に し た 国 際 試 合 と し て 知 ら れ る。 そ の 人 物 と は、 ア ル ジ ェ リ ア ((( ( 系 フ ラ ン ス 人 A・ B・ エ ル・ ワ フ ィ ( Ahmed Boughera El Ouafi )。 日 本 人 の 山 田 兼 松 と 津 田 晴 一 朗 も 四 位、 六 位 の 入 賞 を 果 た し た。 ち な み に、 二 位 は チ リ 人 M・ プ ラ ザ( Plaza )、 三 位 は フ ィ ン ラ ン ド 人 M・ B・ マ ル ッ テ リ ン( Marttelin )、 五 位 は ア メ リ カ 人 J・ レ イ( Ray ) で あ っ た。 上 位 六 名 の 国 籍 お よ び「 人 種 」 に 注 目するなら、近代オリンピック開始以来長く「白人至上主義(ノールデ ィ シ ズ ム = Nordicism )」 に よ っ て 特 徴 づ け ら れ て き た「 人 種 」 的 秩 序 を根底から覆す結果であったことは明らかである。   一九二〇年代後半(昭和初期)になると、宗主国対植民地、先進国対 後発国、西洋対東洋など、地域・国家間を結ぶ関係性の糸が複雑に絡み 合い、激動する国際情勢の中で、各国における「人種」的な秩序と序列 を認識するパラダイムも動揺し始めていた。そんな時局にあって、かく 達成されたオリンピック史上初の快挙は、既存のパラダイムによる規制 や拘束を被りつつ、これを撹乱し、なお一層動揺させる役割を果たさな かったはずがない。とりわけ、人間の耐久力を極限に近いレベルで競い 合うマラソンという競技は、その意味において「最強の国民」あるいは 「 人 種 」 を 決 め る 闘 い と い う 性 質 を 帯 び て い た。 そ れ ゆ え、 オ リ ン ピ ッ クでの記録は、陰に陽に伝統的な人間観や「人種」的優劣の順位を逆転

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 (3) ─ ─── ─ し、再編成する契機となる可能性を有していた。またそうするための政 治的、イデオロギー的な変革を志すものにとって、高い価値を有してい たはずである。アムステルダム大会にかかわった人々が残した証言や記 録 が 反 映 す る「 人 種 」 的 な 表 象 や 言 説 を 精 査 す る こ と は 、「 人 種 」 的 認 識 の パ ラ ダ イ ム の 連 続 性 と 変 化 の 中 に 、 一 九 二 〇 年 代 後 半 と い う 時 代 を 位 置づける上で、きわめて有意義な貢献をなすものと考える。   単純化を恐れず述べるなら、明治初期以来、アムステルダム大会前夜 ま で に 日 本 人 の 間 で 明 に 暗 に 了 承 さ れ て い た「 人 種 」 的 ヒ エ ラ ル ヒ ー は、 上 か ら 白 人・ 「 黄 人 」 ((( ( ・「 黒 人 」 の 順 を な す 三 段 の 構 造 を 主 た る 特 色 としていたといえる。それは、明治維新そして「文明開化」という西洋 ヘゲモニーによる衝撃と適応の時代に、福沢諭吉をはじめとする啓蒙思 想家が積極的あるいは消極的に受容し、普及させ、明治後半のナショナ リ ズ ム の 高 揚 や 大 正 デ モ ク ラ シ ー を 越 え て 存 続 し て き た 構 造 で も あ っ た ((( ( 。昭和三年に開催されたアムステルダム大会マラソン競技は、この構 造と全く矛盾する序列を観衆に突き付けたのである。   「有色人種(アフリカ人) 」のエル・ワフィが首座を占め、同じく「有 色人種(アジア人) 」の二人が入賞した。 (二人を入賞させたのは日本の みで、すくなくとも日本のメディアは、この成績が銀メダルに優ると声 高に主張した。しかも、以下にみるように、ゴールから二キロほど手前 ま で、 そ の 一 人 で あ る 山 田 が、 首 位 を 独 走 し て い た の で あ る。 )「 白 人・ 黄人・黒人」という伝統的なヒエラルヒーは、人間を他の動物から決定 的に分かつ身体能力、つまり二足による長距離走 行 ((( ( での耐久性をためす ( す な わ ち も っ と も 優 秀 な「 ヒ ト の 種 」 を 確 定 し よ う と す る ) 競 技 を 通 じて得られた「黒人・黄人・白人」という順位によって、明白な反例を 提示されたといえるだろう。   しかし、管見の限りだが、日本の学界はこうした観点からの考察に取 り組んでこなかった。それどころか、山田と津田の好記録でさえ、一部 の 専 門 家 に よ っ て か ろ う じ て 記 憶 に と ど め ら れ て き た だ け で、 一 般 の 人 々 に 顧 み ら れ る こ と は ほ と ん ど な か っ た。 一 九 二 八 年 の 大 会 と い え ば、織田幹雄(三段跳び)と鶴田義行(二〇〇 M 平泳ぎ)による日本五 輪史上初の金メダルと、人見絹枝(八〇〇 M 走)による日本人女性初の 銀メダルの獲得が注目の的であり、その陰で二人の長距離ランナーは忘 却された。しかし、上に述べた理由から、山田と津田の力走は、そして ライバルたちとの競走の全貌は、是非とも、歴史学的な検討に付される べきなのであ る ((( ( 。   た だ し 本 論 は、 日 本 の 近 現 代 史 を 文 脈 と し て、 身 体 能 力 お け る「 人 種」的序列の意識や思考の起源を探る作業の、序論的な役割を果たすに と ど め ざ る を 得 な い こ と を 断 わ ら な け れ ば な ら な い。 よ り 具 体 的 に は、 以下において次のような点の検討を試みるものとする。すなわち、アム ステルダム大会の日本オリンピック史における位置づけ、マラソン競技 の展開と結果、競技結果の分析とその評価、優勝者エル・ワフィに対す る日本を含む各国の意見と態度などである。こうした点を本論で明らか に す る こ と に よ っ て、 「 人 種 」 的 ヒ エ ラ ル ヒ ー に 関 わ る 解 釈 上 の 諸 問 題 ((( ( について考察し、 「黒人身体能力神話」の日本における起源を突き止め、 延いては「人種」的序列の意識や思考の歴史の全容を詳らかにするため の布石を敷くものとしたい。

(4)

 (─) ─ ──3 ─

 

I.

 日本オリンピック史における

一九二八年アムステルダム大会

  日本人選手が最初にオリンピックに出場したのは、一九一二年第五回 ス ト ッ ク ホ ル ム 大 会 の こ と で あ る ((( ( 。 こ の 時、 三 島 弥 彦 が 一 〇 〇 、 二 〇 〇 、四 〇 〇 M に、 金 栗 四 三 が マ ラ ソ ン に 出 場 し た が、 成 績 は 振 る わ なかった。その後、一九二〇年第七回アントワープ大会では、熊谷一弥 が硬式テニスシングルスで二位、熊谷と柏尾誠一郎がダブルスで同じく 二位となり、銀メダル二つを獲得した。これが日本選手最初のメダルで あった。このような前史を経て、二八年の第九回アムステルダム大会は 開催される。この時選手団は、すでに述べた日本人初となる金メダル二 個に加え、銀二個、銅一個を獲得した。   メダル獲得数の急増に国民は沸いた。時は昭和三年、いわゆる「昭和 維新」を経て成長を続ける国家の人々は、国際社会での一等国として地 位を揺るぎないものとすべく、主要国の代表がしのぎを削るスポーツの 祭 典 で も、 さ ら な る 躍 進 を 望 ん で い た。 ア ム ス テ ル ダ ム 大 会 で の 成 績 は、そうした世論に十分応えるものだったはずである。その後日本選手 団 は、 第 十 回 ロ サ ン ゼ ル ス 大 会( 一 九 三 二 年 )、 第 十 一 回 ベ ル リ ン 大 会 ( 一 九 三 六 年 ) で 水 泳・ 陸 上 競 技 を 中 心 に 大 活 躍 を み せ、 さ ら な る 国 際 的な注目を浴びることになる。したがってアムステルダム五輪は、戦前 日 本 ス ポ ー ツ 界 の 黄 金 時 代 へ の 序 曲 を 奏 で た 大 会 だ っ た と い え る だ ろ う。   本論の主旨からそれるが、アムステルダム大会と切り離せないエピソ ードに人見絹枝の活躍がある。日本人女性として初めてオリンピックへ の 出 場 を 果 た し た 人 見 は、 期 待 さ れ た 一 〇 〇 M の 準 決 勝 で 敗 退 す る と、 急遽コーチ陣を説得して八〇〇 M への出場を認めさせ、なみいる強豪に 挑んで二分一七秒六で二着となり、堂々銀メダルに輝いた。この決勝戦 は、選手の多くが失神して倒れ込む壮絶なもので、その後五六年のメル ボ ル ン 大 会 ま で 女 子 八 〇 〇 M が 競 技 種 目 か ら は ず さ れ る 原 因 と な っ た。 人見の傑出ぶりは、その後日本人のオリンピックトラック競技でのメダ リストが、二〇〇八年の北京オリンピックにおける男子四×一〇〇 M リ レーで銅メダルを獲得するまで、八〇年もの間出現しなかったことから も窺える。人見の功績はその後も語り継がれ、有森裕子など数多くの女 性アスリートに勇気と希望を与え た ((( ( 。   やや繰り返しになるが、国際スポーツ競技大会における日本の位置と いう観点からみるなら、アムステルダム大会が一つの画期をなしたこと は疑いない。だがこの大会は、スポーツ界のみならず、国家にとっても 大 き な 意 味 を な し て い た。 明 治 維 新 以 後、 「 文 明 開 化 」、 「 富 国 強 兵 」 な どを国策として掲げ、急速な近代化を果たした日本政府は、一九世紀末 から二〇世紀初頭に、日清・日露という二つの戦争に勝利を収め、アジ アの新興国家としての国際的地位を固めた。その経路にあって、身体強 健な国民をつくることは「富国強兵」の「強兵」に直結する課題でもあ っ た。 そ れ ゆ え 教 育 者 た ち は、 明 治 初 期 か ら 活 発 に こ れ に 取 り 組 ん だ。 海軍兵学寮での「競闘遊戯会」 (一八七四年) 、札幌農学校での洋風運動 会(一八七八年) 、東京大学での運動会(一八八三年)などはいずれも、 西洋からの知識と指導にもとづく身体的訓練が制度化されつつあったこ とを窺わせ る ((( ( 。西洋的な体育指導によって、江戸的な身体感覚や身体技 法は、次第に近代国民国家の民にふさわしい身体感覚・技法の習得にと

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 (─) ─ ─── ─ もない変容を余儀なくされた。   おりしも、フランス人ピエール・ド・クーベルタンの主導するオリン ピ ッ ク 運 動 が 開 花 し て、 一 八 九 六 年 に 第 一 回 大 会 が ア テ ネ で 開 催 さ れ る。当初この運動に乗り遅れた観のあった日本政府も、次第に関心を高 め、すでにみたように、大日本体育協会を介して第五回アムステルダム 大会に、三島、金栗二人の代表選手を派遣するに至るのである。オリン ピック大会は、日本人の身体と技法が国際的に通用するか、日本人が国 際人として成熟し西洋人と台頭になったか、延いては日本が一等国とし ての地位を確立したかどうかを測る恰好の舞台となった。教育・体育界 の関係者のみならず、政財界の指導者が注目し、熱い視線を送ったのは そのためである。   国 際 オ リ ン ピ ッ ク 委 員 お よ び 大 日 本 体 育 協 会 会 長 を 務 め た 法 学 博 士、 岸清一がアムステルダム大会の二年後(一九三〇年)に発表した次の声 明に、体育教育関係者の頂点に立ったものの意見として耳を傾けたい。   抑抑スポーツの要は、国民の武士的精神を養成し、その元気と活 動力を増進するに存するものにして、即ちスポーツは智徳と体力と の渾然たる調和発達を理想とす。故にスポーツ盛んならざればその 国は興らず、滅亡の日は刻々之にせまるべし。殷鑑は遠からず、我 が国に隣接せる二大国に対すれば思半にすぐるものあるべし。国際 オリムピック競技は、スポーツの発達を助長すると同時に、スポー ツを通じて各国民間の了解と親善を謀るに在り。我が国が国際オリ ムピック競技に参加してよりここに十六年。爾来我大日本体育協会 が日本国を代表し日本オリムピック委員会としてこの大会に選手を 送ること茲に四回、その間幾多の失敗を重ね辛苦研鑽を積み、今回 その苦心は遂に酬いられて水陸両競技に各一個の一等賞を得、アム ステルダム・スタジオンのメーンマストに、光輝ある日章旗が翩翻 として翻り、嚠喨たる君が代の国歌が吹奏せられ、満場の子女が悉 く起立脱帽して敬礼をなしたる光景は、真に感激に満ちたるものに して、現場に在りし我々は皆喜涙を禁ずる能はざりしなり。蓋し国 民諸君も亦当時此の吉報に接せられたる際、同一の感に打たれたる なるべしと信ず。   我水泳は全体において世界第二位、陸上競技は第八位の好成績を 占め、又唯一の婦人選手たる人見嬢の活躍せるあり、之によりて世 界列強をして極東に日本なるスポーツの一大新興国ある事を認識せ しめたるは、真に痛快の至りなり。   元来スポーツの目的は、各自最善の努力を盡してその技を闘わす にありて、勝敗は深く意に介すべきものにあらずと雖も、その勝利 はすなわち国民元気の優越性を示すものなれば、我国が此平和戦に 好成績を挙げたる結果、我が国に対して列国の国民は隠然深甚なる 敬意を表すべきは当然にして、その敬意の表現は枚挙するに遑あら ず。而も我が国が正々堂々として此好成績をあぐるを得たる事は誠 に慶賀せざるべからず。   我々はかくのごとくして好成績を得たりと雖、決して現状に甘ん じまたは慢心すべきにあらず、所謂油断は大敵なり、今より二年後 の米国ローサンゼルスに開かれるべき第十回国際オリムピック大会 には、列国選手がさらに修養を積み試練を重ねて捲土重来すべきは 当然にして、之に対して我々は深く備えざるべからず、特に米国は

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 (─) ─ ──1 ─ 従来士気の旺盛をもって名あり。之に加ふるに地の利と金の力を以 てす。之に対して優勝の位置を得んとするには我が国は非常なる覚 悟と熱心なる練習を必要とす。況や欧米列国の黙々としてしかも孜 孜として倦まざる練習と準備とは決して軽視すべからずにおいてお や ((( ( 。   こ の 声 明 は、 『 第 九 回 国 際 オ リ ム ピ ッ ク 競 技 大 会 報 告 書 』 の「 序 言 」 として寄せられたものである。その冒頭で岸は「スポーツは智徳と体力 との渾然たる調和を理想とす」と述べ、ローマの詩人ユウェナリスによ る「健全なる精神は健全なる身体に宿る」との主張、あるいは東洋思想 でいう「文武両道」を彷彿とさせる立場を明示し、スポーツにおける精 神と身体の均衡と両立の意義を説いている。これは、昭和初期における 知識人のスポーツ理解のありかたを示唆する記述として興味深い。しか し同時にこの声明は、アムステルダム大会を日本スポーツ史上に位置づ けるための参考としても多くの示唆に富むものである。   岸 は「 我 が 国 が 国 際 オ リ ム ピ ッ ク 競 技 に 参 加 し て よ り こ こ に 十 六 年。 爾来我大日本体育協会が日本国を代表し日本オリムピック委員会として この大会に選手を送ること茲に四回、その間幾多の失敗を重ね辛苦研鑽 を積み」と述べ、第九回大会までの長い道のりを思い起こしている。そ してその上で、やっと到達した一つの高みとしてこの大会を位置づけて いる。岸はその地位を、極東の「日本なるスポーツの一大新興国」と呼 ぶ。そしてこの高みに日本があることを、世界各国に認めさせたことを 「真の痛快の至り」と高く評価するのである。   さらに岸の眼は、日本の現状確認にとどまることなく、この地位をも たらした原因をしっかり捉えている。それは「国民元気の優越性を示す も の 」 す な わ ち「 勝 利 」 に ほ か な ら な い。 こ こ に お い て 岸 は、 「 勝 敗 は 深く意に介すべきものにあらず」とするいわゆるスポーツマンシップの 精神としてしばしば引き合いに出される態度から距離をとり、むしろ列 国 国 民 の「 隠 然 深 甚 な る 敬 意 」 を も た ら す も の と し て、 「 好 成 績 」 と 勝 利に強いこだわりを見せている。そして二年後のロサンゼルス大会に向 けて、選手たちに「非常なる覚悟と熱心なる練習」を積み、アムステル ダム大会以上の成績をあげるよう強く促して、 自説を締めくくっている。   総じてこの序言は、スポーツ新興国としての日本の著しい台頭を讃え つつ、さらなる精進を促すことを目的とする激励の弁と読むことが可能 で あ る。 こ こ で、 岸 に と っ て ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 核 を 成 す「 国 家 」 を 「 人 種 」 に 置 き 換 え、 上 述 し た「 人 種 」 的 ヒ エ ラ ル ヒ ー に お け る 日 本 人 の位置づけを論じたものとして読み直しても、あながち的外れとはいえ ないのではなかろうか。そうすることの妥当性は改めて論じることにす るが、役員選手団に属する代表たちが、スポーツ大国への道のりと「人 種」的ヒエラルヒー上の上昇移動とを切り離しては考えられなかったこ とは、おそらく間違いない。   岸よりも高い地位から、そしてより包括的に国家を代表し得る立場か らの発言が込められたものに、大会直後の一九二八年八月十一日に、内 閣総理大臣田中義一から役員選手団に送られた次の祝電がある。   「 オ リ ン ピ ッ ク 」 第 九 回 大 会 に お い て 帝 国 役 員 選 手 諸 君 一 同 の 奮 励努力により未曾有の成績を収め我「スポーツ」の名誉を中外に挙 げたるは我国民の誇とする所にして誠に欣快にたえず深くその成功

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 (7) ─ ─── ─ を祝すると共に諸君の労苦に対し茲に深厚なる謝意を表 す ((( (   田中は、今大会に向けて指導者と選手が積み重ねてきた訓練を「奮励 努力」として称え、その結果として「未曾有の成績」がもたらされたこ とを喜び、またこれを「我国民の誇」として持ち上げ、個人としての心 境を「欣快にたえず」と吐露し、その上で「深厚なる謝意」を表明して いる。謝辞を述べる最高行政官の姿に、オリンピック競技が国民行事と して受け入れられ、定着したことの証をみることも、また、田中の抱く 「 欣 快 」 の 心 地 と「 謝 意 」 が 国 民 に よ っ て 共 有 さ れ た も の と み な す こ と も可能であろう。   岸と田中の声明は、アムステルダム五輪を、日本のオリンピック強国 としての時代の幕開けを飾る大会として位置付け、またそのような地位 に対する国民の覚醒と自覚を裏付けるものであるといえるだろう。   アムステルダム大会で達成した金メダル二個、銀メダル二個、銅メダ ル一個という成績をそれ以前の大会の記録に照らしてみるなら、たしか に そ れ は「 一 大 新 興 国 」 の 出 現 を 告 げ る に ふ さ わ し い「 未 曾 有 の 成 績 」 と呼んでも過言ではない。そしてその後のロサンゼルス大会(金七、銀 七、 銅 四 )、 ベ ル リ ン 大 会( 金 六、 銀 四、 銅 八 ) で の メ ダ ル ラ ッ シ ュ を 想起するなら、アムステルダム大会を日本スポーツ界黄金時代の幕開け を告げる大会として位置付けることも可能である。岸の提言と忠告は聞 き入れられ、次世代の選手団は見事その期待に応えたのである。   しかし本論は、以下において、メダルに届かなかった、それゆえ忘却 される運命に置かれた選手に焦点を合わせたい。それは、すんでのとこ ろでメダルを逸したため、織田、鶴田、人見らメダリストたちの栄光の 陰で長く国民の記憶から置き去りにされたマラソン走者の山田兼松や津 田晴一朗である。そして同じ競技でアフリカ系選手として初めて金メダ ルを手にしたエル・ワフィにも注目する。そのためにはまず、マラソン 競技そのものに視点を移すことから始めたい。

 

Ⅱ.マラソン競技の展開と結果

  マラソン競技の起源は、周知のとおり、古代ギリシアにおいてアテネ がペルシアを打ち破ったマラトンの戦い後、戦勝の知らせを届けた伝令 エウクレスの故事にあるといわれる。エウクレスは、アテネの城門に走 り込み、勝利を伝えるなり息を引き取ったとい う ((( ( 。かく神話がかった起 源を有するこの長距離レースは、近代オリンピックで蘇って以後も今日 まで、陸上ファンのみならず、多くの一般人を魅了する競技種目であり 続けている。最近でも、 C・マクドゥーガルによるベストセラー・ノン フィクション『 Born To Run   走るために生まれた』が、長距離二足走 行能力は人類が固有の進化を遂げた重要な要因であるとする学説を紹介 し、話題を呼んだばかりである。   マ ラ ソ ン は 今 日 ま で、 陸 上 競 技 種 目 の な か で 要 の 位 置 を 占 め て き た。 オリンピックや世界陸上などの国際大会では、通常最終日に割り当てら れ、クライマックスを飾る種目として演出される。一九二八年のアムス テ ル ダ ム 大 会 で も、 例 に も れ ず、 最 終 日 の 八 月 五 日 に 実 施 さ れ て い る。 当日は日曜日であり、競技場(スタジアム)は大観衆で膨れ上がり、沿 道 は 見 物 人 で 一 杯 に な っ た。 競 技 場 と 沿 道 を 結 ぶ 地 点 に 立 て ら れ た 塔 は、大会におけるこの種目の役割を象徴するかのように、 「マラソン塔」 と名付けられ た ((( ( 。

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 (8) ─ ─── ─   日本人関係者は、織田幹雄の三段跳び優勝、人見絹枝の八〇〇 M 準優 勝を目の当たりにした興奮さめやらぬ最中に、最終日のマラソンを迎え ることになった。有終の美を飾りたいという期待は自ずから高まったで あろう。しかし関係者の中には不安を抱くものも少なくなかった。たと えば陸上競技監督の竹内廣三郎は「我が国は今日まで数回マラソンに出 場したが、毎回優秀な実力を持って居り乍らこれを発揮し得ずに終わっ た。今度も亦その例に慣ふのではあるまいかと心配した」と述懐してい る ((( ( 。金メダリストの織田自身、竹内の心配を裏付けるかのように、マラ ソンは「強い強いと言ひながら一度として勝つことのできなかった」種 目であったと振り返ってい る ((( ( 。おそらく二人の脳裏をかすめたのは、日 本における「マラソンの父」金栗四三が過去のオリンピック大会で惨敗 した光景ではなかったか。   金栗四三は熊本県出身で、日本マラソン界の草分け的存在ともいえる 人物である。一九一一年、ストックホルム大会への予選会では、当時の 世 界 記 録 を 二 七 分 も 縮 め る 大 記 録 を 打 ち 立 て て 関 係 者 の 度 肝 を 抜 い た。 しかし大会本選では、メダルを持ち帰るのではとの高い前評判にもかか わらず、レース途上で日射病に倒れ、無念の途中棄権となった。その後 も二〇年アントワープ大会、二四年パリ大会に連続出場するも、優勝は おろか、入賞さえ果たすことができなかっ た ((( ( 。   けれどもマラソンは、日本人選手が初出場した一九一二年以来、毎回 出場を果たしてきた種目でもあり、アムステルダム大会では、他種目以 上に大きな期待が寄せられていた。 (一)出場選手と監督   日 本 陸 上 界 の 積 年 の 無 念 を 晴 ら す 最 右 翼 に あ っ た の は 山 田 兼 松 で あ る。山田は香川県坂出の出身で、塩田業者の家に生まれた。当時のオリ ンピック代表選手には大学卒の高学歴者が多かったなかで、山田は家業 の塩田で汗を流す労働者であっ た ((( ( 。幼少期から砂浜を走り回る過酷な作 業によって、強靭な足腰を鍛え上げたといわれる。二七年に開催された 阪神国道開通記念クロスカントリーでは独走で首位、二八年のオリンピ ック予選では堂々優勝を飾るなど、数々の栄誉を経てアムステルダム出 場を果たした。   もう一人の代表選手である津田晴一朗は、関西大学予科から慶応義塾 大学に進学したエリートである。北欧選手の走りを調査して独自の走法 を 編 み 出 し た た め、 「 科 学 的 走 法 」 の 実 践 者 と し て 定 評 が あ っ た。 二 八 年二月には箱根駅伝で五区をまかされ、オリンピック予選では山田に次 いで二位に入った。アムステルダムでは、山田と並んでメダル当確候補 と見なされていた。   なお、本選にはもう一人、南満州鉄道株式会社(満鉄)の永谷寿一が 出場している、永谷は一〇〇〇〇 M を専門とする走者であったが(成績 は 三 三 分 三 一 秒 〇 で 一 九 位 )、 山 田 と 津 田 の た め に ペ ー ス メ ー カ ー を 務 めるべく、マラソンに参加した。   竹内廣三郎は、京都師範学校教諭および大阪体育協会主事を務め、日 本 陸 上 競 技 の 揺 籃 時 代 か ら 選 手、 コ ー チ と し て 尽 力 し て き た 人 物 で あ る。マニラでの第七回、上海での第八回極東大会にコーチを務め、その 功 績 が 認 め ら れ て ア ム ス テ ル ダ ム 大 会 の 陸 上 チ ー ム 監 督 に 抜 擢 さ れ た。 竹内は本選に至るまでの山田と津田の練習の様子を詳細に書き残してい

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 (─) ─ ──8 ─ る。 (二)大会に至るまで   竹内の記録からは、いくつかの興味深い事実が明らかになる。   まず山田は、アムステルダムに移動する前にけがをしていた。ドイツ に滞在してベルリンで行った訓練中に膝の故障で二日間練習を休んだと い う の で あ る。 そ の 回 復 を 待 た ず ア ム ス テ ル ダ ム に 出 発 し た と い う が、 結果的に、このけがが、本番終盤でのどんでん返しの伏線になったとみ ることもできよう。   竹内はけがを抱える選手には行き過ぎともとれる練習に許可を与えて いる。 「冒険なことではあるが」と断りつつ、 「大会までに少なくとも一 度は全コースを走らせてみたい」との判断から、山田に、好調を維持す る 津 田 の 傍 ら で 全 コ ー ス の 一 部 を 並 走 さ せ た の で あ る。 全 コ ー ス と は、 スタジアムの「トラックを一周してマラソン塔下の門を通過し場外に出 てアムステル河畔に沿ふて到着点に至りて引返し、再びマラソン門より トラックに入る全程二六マイル三八五ヤード」のことである。この時津 田は、スタミナ切れで練習を中断せざるを得なくなった。そのため、そ の三日後には二人ともに全コース走破を試みさせている。津田は二回目 の 挑 戦 で も、 走 行 を 途 中 で 断 念 し た が、 山 田 は 疲 労 の 色 を 見 せ な が ら も、 二 時 間 四 五 分 五 四 秒 で 四 二 ・ 一 九 五 キ ロ を 遂 に 制 覇 し た。 竹 内 は、 「 両 選 手 の 胸 中 に 強 い 自 信 力 が 燃 え 出 た 事 は 事 実 で あ る 」 と 満 悦 の 弁 を 残してい る ((( ( 。 (三)当日スタート前の状況   いよいよ本選当日、大会第八日目の八月五日である。期待のマラソン が開催されるとあって、試合を終えた選手たちは応援団を結成し、コー ス沿いに持ち場を決め、配置についた。当時の記録からは高まる興奮と 期 待 の 強 さ が ひ し ひ し と 伝 わ っ て く る。 「 次 は マ ラ ソ ン で あ り ま す が、 これは陸上競技最後の日であります。そして今日は最後の職場であるか ら、どうかして山田、津田、永谷の三君に最後の栄冠を得させたい」と は、オリンピック代表役員で工学博士の山本忠興の弁であ る ((( ( 。三段跳び 金 メ ダ ル で 一 夜 に し て 国 民 的 英 雄 の 座 を 射 止 め た 織 田 幹 雄 は、 人 見 絹 枝、三木義雄(一一〇 M ハードル、準決勝落選)らと共に、出発点から 約三五〇〇メートルの地点で走者の到来を待ち構え た ((( ( 。   マラソンコースの起点で出発の合図を待ち受ける群集の中には、虎視 眈々とライバルを見張る竹内がいた。注意力を研ぎ澄まして、山田、津 田と勝負を争う人材を見抜こうとしている。競技出場者は二〇数か国を 代 表 す る 七 九 名、 そ れ を 見 守 る の は ス タ ジ ア ム を 埋 め 尽 く し た 三 五 〇 〇 〇 人 の 大 観 衆 で あ る。 午 後 二 時 四 〇 分、 レ ー ス 開 始 が 近 づ く と、 出 場 選 手 は マ ラ ソ ン 塔 に 近 い ト ラ ッ ク 上 に 集 結 し た。 点 呼 を 終 え、 国別に縦列をなし、スタートラインにつく。この時竹内は、山田が一週 間前に全コースを走破した事実を想起し、やや強気の心持ちだったよう で、 「いくらか楽観することが出来た」と書き記してい る ((( ( 。   竹内は外国人選手一人ひとりを観察した。山田と津田に匹敵するよう な、 実 績 あ る 選 手 は 少 な か っ た よ う だ。 し か し、 気 を 緩 め る こ と な く 「 知 名 の 選 手 は 見 当 た ら ぬ が 新 進 の 勇 士 が 潜 ん で ゐ る か も 知 れ な い 」 と 警 戒 を 続 け る ((( ( 。 初 出 場 の ア メ リ カ 人 選 手 ジ ョ イ・ レ イ( Joie Ray ) が 目

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 (1─) ─ ──7 ─ に 留 ま る。 五 〇 〇 〇 M、 一 〇 〇 〇 〇 Mで 鍛 え た 速 力 は 要 注 意 で あ る。 一四年前のロンドン大会以来の優勝を期して、アメリカチームが送り込 ん だ 秘 密 兵 器 で は な い か と 竹 内 は 心 配 し た( レ イ は 五 位 入 賞 )。 近 代 オ リ ン ピ ッ ク 開 始 以 来 の マ ラ ソ ン 王 国 フ ィ ン ラ ン ド の 選 手 陣 に 視 線 を 移 す。二四年パリ大会の覇者ステンロースは予選会に敗れて不在。彼に代 わ っ て 出 場 し て い る 六 名 に は、 「 お そ ら く 新 進 気 鋭 の 大 ラ ン ナ ー が 隠 れ て居るかもしれない」と、ここでも警戒を緩めない(マルッテリンが三 位、コスキイが七位入賞) 。新興国のカナダにも気を配り、 「ブリッカー の如きも亦マラソンランナーとしての評判が高い」と述べている(ブリ ッ カ ー は 一 〇 位 )。 し か し な が ら、 竹 内 の 経 験 と 見 識 を も っ て し て も、 一位、二位を奪うことになるエル・ワフィと M・プラザの名があがるこ とはなかった。優勝者、準優勝者は当時の専門家にも予想外の存在だっ たにちがいない。   午後三時五分、号砲が鳴り響き、選手は一斉に走り出した。白鉢巻を きりりとしめた山田、津田、永谷三選手は、雄々しい姿でスタジアムを 走り出てゆく。   ここからの展開は、大きく分けて序盤、中盤、そして最大の山場であ る終盤の三部からなる三部構成としてまとめることができる。序盤はめ まぐるしく先頭が入れ替わる攻防、中盤は日本人選手の独走、終盤は日 本国民を失意の底に陥れた土壇場での逆転劇を、それぞれハイライトと す る ((( ( 。 (四)序盤戦の攻防   日本の三選手は皆、先頭グループに位置を占め、それぞれが先頭の座 を う か が っ た。 竹 内 は、 マ ラ ソ ン 門 か ら 場 外 に で る 選 手 を 目 撃 し、 「 誠 に 壮 烈 の 極 み で あ る 」 と の 言 葉 を 残 し て い る。 山 田 は 一 一 番、 津 田 は 一二番、永谷は一四番で、アムステルダム河畔の沿道へと続くコースを 驀進する。   竹内は疾走する選手群を自動車で追いかけ、一マイルを過ぎた地点で 先 頭 を 切 っ て 走 る 山 田 と、 こ れ に 続 く 津 田 を 視 野 に と ら え、 「 全 く 夢 で な い か 」 と 悦 に 入 っ た。 山 田 に 無 理 を し て い る 様 子 は み ら れ な か っ た。 竹内は「ああ今日は愈々久しく熱望して止まなかった栄光のチャンスが 到来するのではなからうか」と期待に胸を膨らませ た ((( ( 。   二マイル地点、フィンランドのクオッカが先頭に立ち、津田、永谷が 続き、山田は第十二番目に後退。五マイル地点ではフィンランドのラス タ ス が 先 頭 を 奪 い、 ド イ ツ の ワ ン デ レ ル、 永 谷、 ベ ル ギ ー の リ ン セ ン、 フィンランドのマルッテリンがこれに続く。八マイル地点では、リンセ ンがリードを奪い、日本三選手が続き、フィンランド四選手がその後を 追 う。 こ の 地 点 ま で、 山 田 と 津 田 は 常 に 首 位 を 狙 え る 位 置 に つ け つ つ、 前にでる機をうかがっていた。   ス タ ー ト か ら 三 五 〇 〇 M の 地 点 に て、 応 援 団 と し て 控 え て い た 織 田 は、 「今来るか今来るかと時計とにらみ合い」をしていた。三時半過ぎ、 つ い に 選 手 の 先 頭 集 団 を 視 界 に と ら え た。 「 段 々 近 づ く に つ れ て 朝 日 の マークが先頭に見える。然も三人が並んで走って居るではないか。いよ いよ目の前に近づいて見ると皆元気さうだ。唯津田君の顔が少し青いだ け。 」織田は、好調そうな日本選手の様子に安堵の胸をなでおろす。 「落 ち着いて行け」と声援を送るが、ペースの速さを心配せずにはいられな かったとも書き残してい る ((( ( 。

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 (11) ─ ─── ─ (五)日本人選手の独走   い よ い よ 中 盤、 一 〇 マ イ ル の 引 返 点 を 迎 え る。 山 田 が 断 然 先 頭 に 出 て、ラスタス、レイ、津田、リンセン、永谷、マルッテリンが追随する 展開となる。一三マイルに至ると、リンセンは足を痛めて落伍し、レイ が先頭を奪って一九マイルまで進んだ。しかし山田と津田はスパートを か け て レ イ を 追 い 抜 き、 先 頭 を 固 め た。 こ れ に 続 く は、 マ ル ッ テ リ ン、 レイ、ブリッカー、永谷はこの辺りで先頭集団から脱落した。   復路で選手を「鶴首して」待つ竹内の目に、白いユニフォームがちら ちらと見え始める。山田は拍手と共にトップで現れ、津田が続く。竹内 曰 く、 「 何 と 云 ふ 痛 快 な こ と だ。 而 も 両 選 手 が 微 笑 を 含 ん で 相 並 ん で 行 く で は な い か。 」 竹 内 は メ ガ フ ォ ン を と っ て、 「 山 田、 津 田 あ と 四 〇 分 だ、しっかりやれ」と激励する。このとき両者は竹内の方を向いて、応 じるだけの余裕を残してい た ((( ( 。   二一マイル地点、レイは勝負をかけてスパートし、津田、ブリッカー を 抜 い て 山 田 を 五 〇 ヤ ー ド 先 に と ら え た。 し か し 追 い 付 く こ と は で き ず、しばらく山田、レイ、津田、マルッリン、ブリッカーの順でレース は進む。しかしここで、やや後方から追随してきたフランスのエル・ワ フ ィ と チ リ の プ ラ ザ が 加 速 し て 順 位 を 上 げ、 津 田、 マ ル テ ッ リ ン の 後、 第五、第六番目に接近した。   織田は、エル・ワフィとプラザがトップへの接近を開始する地点にい た。 先 頭 の そ の 先 を 走 る「 自 動 自 転 車 」( バ イ ク ) が「 日 本 人 が 先 頭 」 の 知 ら せ を 届 け る と、 「 十 番 以 内 で 来 て 呉 れ れ ば と 思 っ た の に 意 外 に も 先頭を切って居るとは一同跳び上がって喜んだ」という。ついに先頭選 手のユニフォームが見える。 「まさしく日本。それは山田君である。 」し かし山田は「幾分弱って居た」との様子である。これにレイが続き、一 分ほど遅れてエル・ワフィ、プラザが走り抜けていった。津田は第六位 に 落 ち て い た。 し か し 織 田 は「 第 六 位 ま で も や っ て 来 る と は ま る で 夢 だ」と津田の健闘を喜んだ。だが津田は、しきりに「目が見えない」と うったえていたとい う ((( ( 。 (六)土壇場の逆転劇   最後の詰めでの激しい駆け引きを、竹内はみることがなかった。途中 運河上のボートからレースを追跡した竹内は、選手に追いつくことがで きず、ボートを放棄して自動車に乗り、他の道からスタジアムに先着し て、山田が一位で戻ってくるのをまっていた。スタジアム周辺は選手を 迎えようとする観客で一杯だった。   エル・ワフィはレース最後の一マイルでさらにピッチを上げ、遂に先 頭の山田を追い越して一位に、プラザもこれに続いて二番に進んだ。最 終四分の一マイルでマルッテリンは山田を抜いて三位へ。マラソン門が 開かれ、選手の帰着を告げる号砲が轟く。観衆の眼はマラソン門にくぎ 付けとなる。そこに現れたのはエル・ワフィ、続いてプラザ、そしてマ ルッテリン。上位三者はこの順で、山田は四位、レイと津田がこれに続 いてゴールインした。   スタジアムには、上位三者の中に山田を見つけられずに不安を募らせ る山本がいた。山田が「途中で倒れたのではないか」とあれこれ心配を 巡 ら し と い う。 曰 く、 「 そ こ へ 入 っ て 来 た の は 実 に 山 田 君 で あ っ た の で あります。然し、もう津田君は駄目だろうと諦めてをつたところが、五 番目は米国のジョイレイで、六番目に津田君は実に元気で場内へ飛んで

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 (1─) ─ ─── ─ 来た。此に於いてマラソン競走では、我が国は四等と六等とを得たので あります。 」 ((( (   山田のタイムは二時間三五分二九秒、永谷も全コースを走破し三時間 三分三四秒で四八番だった。   上位一〇名の順位は、結局次の通り。   一.エル・ワフィ(フランス)二時間三二分五七秒   二.プラザ(チリ)   三.マルッテリン(フィンランド)   四.山田兼松(日本)   五.レイ(アメリカ)   六.津田晴一朗(日本)   七.コスキイ(フィンランド)   八.フェリス(イギリス)   九.ミチェルソン(アメリカ) 一〇.ブリッカー(カナダ)  

Ⅲ.敗北の原因と評価

  ゴ ー ル 直 前 の 約 四 〇 キ ロ メ ー ト ル 地 点 ま で 首 位 を 独 走 し て い た 山 田 が、なぜ敗北を喫せねばならなかったのか。その理由は、膝の故障にあ った。幼いころから砂浜の塩田で仕事をして鍛え上げた膝関節は、アム ステルダムの石畳に弱かったというのが、真相である。山田は、ベルリ ンでの練習中に膝の故障で二日間ほど休みをとり、完治を待たずに全コ ースを走破するという過重なトレーニングメニューをこなしていた。そ れが膝への負担を重くしたことも否定できない。   アムステルダム河畔の沿道からスタジアムへと続く走路が、土から石 畳に変わってから、山田の速度は急速に低下し、やがてほとんど歩行状 態 と な っ た と い う。 織 田 の 日 記 に 次 の よ う に あ る。 「 あ ん な に 元 気 さ う に見えた山田君はあと二千米という処迄来て急に膝が痛み出してどうし ても出ない。其の中にうしろの三人に抜かれてしまった。でも動かぬ足 で 良 く ス タ デ イ オ ン 迄 持 っ て 来 た と 思 ふ。 」 ((( ( ゴ ー ル を 目 の 前 に し て、 必 死に守り抜いてきたトップの座を奪われ、一人また一人と追い抜かれた 山田のくやしさはいかばかりであったか。   息をのんでマラソン競技を見守っていた幾萬の観衆は、山田と津田の 四位と六位での入賞を、どう受けとめたのか。ある報道記事は、スタジ アムの様子を次のように伝える。   次に又髪の黒い選手が現れた。今度こそは山田だと思ったがこれ もチリのプラザだ。その次は黄色い髪と青い着物はフィンランドの マーテリンであることが分かった。直ぐ次に白い鉢巻が現れた。紛 う方なく山田だ。山田の一番を望んで居た日本の応援団は再び君が 代を聞くものと思ひ込んで居たので、手をたたいたが気が抜けたた たきやうであった。次にアメリカのジョイ・レイが現れた。次の六 番はだれだと待つ間もなく現れた姿を見ると津田だ。山田さへ四番 になる、彼の一等もぬか喜びとなつたからよもやと思って居た所な ので、日本の応援団は山田の時と違ひ本当に喜ん だ ((( ( 。   「 山 田 の 一 番 を 望 ん で 居 た 日 本 の 応 援 団 は 再 び 君 が 代 を 聞 く も の と 思 ひ込んで居た」の「再び」とは、三日前の八月二日に、織田幹雄が三段

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 (13) ─ ─── ─ 跳びで優勝した折に、メーンポールに日章旗を仰ぎ見つつ聞いた君が代 に続いて「再び」という意味である。山田の一位を確信していた観衆に とって、四位という順位がいかに落胆すべき事態であったかは「気が抜 けたたたきやう」の一言から窺い知ることができる。その落胆の度合が あまりにも大きかったので、報告されていた通りの六位を津田が守り通 したことが、うれしい驚きとなったにちがいない。それゆえ「日本の応 援団は山田の時と違ひ本当に喜んだ」のである。   陸上関係者が残した個々の観察記からも、深い失望の様子が伝わって く る。 一 位 金 メ ダ ル と い う 大 魚 を 逃 し た こ と の シ ョ ッ ク か ら 立 ち 直 り、 四位入賞を甘んじて受け入れ、さらに入賞そのものの価値を積極的に評 価するための気持ちの入れ替えに、執筆者たちはそれぞれ、様々な工夫 を凝らし、努力を払っている。   監 督 の 竹 内 は、 「 山 田 は 最 後 の 二 〇 〇 〇 米 ま で 殆 ど 先 頭 を 切 っ て 居 り 乍 ら 遂 に 優 勝 の チ ャ ン ス を 逸 し た 事 は 返 す 返 す 残 念 で あ つ た 」 と 述 べ、 無念さをうったえる。しかし次の筆で「併し乍ら両選手ともに平素の実 力を十分に発揮して日本マラソンの真価を世界に示した功績は何と云っ て も 偉 大 な も の あ つ た 」 と 切 り 替 え し、 積 極 的 な 評 価 を う ち だ し て い る。 悔 し さ を ぐ っ と 飲 み 込 み、 前 向 き に 再 解 釈 を 試 み て い る と い え よ う ((( ( 。   「 ス タ デ イ オ ン に 着 い て 大 急 ぎ で 控 室 に 跳 び 込 ん だ。 結 果 は 意 外 に も 四等と六等である。惜しいと思へば残念だがやむを得ない」と語るのは 織田である。スタジアムから離れた場所で応援に立っていたため、ゴー ルの場面に立ち会えなかった。一位を確信してスタジアムに戻ったとこ ろ、予想外の結果に出くわすことになったわけである。織田は、厳しい 現実に直面し、様々な方法で気分転換をはかった。 「運がなかったのだ」 と し て、 結 果 を 天 に 帰 し て み た り、 「 二 人 出 て 二 人 入 賞 し た 事 だ け で も う充分である」と数による納得を試みたり、あるいは「此れで日本のマ ラソンも初めて実力を示す事が出来たと言へる」として、入賞そのもの の価値をかみしめたり。さらには、 「ショイレーも其の後ずっと遅れた」 と、 他 国( 米 国 ) 選 手 の 悲 運 を 思 い 起 こ し た り、 「 我 が 陸 上 競 技 も 遂 に 一五点をあげて世界的に認められる時が来た」として、陸上競技全体の 好成績に慰めを見いだそうとしたりもした。だが、結局は腹いっぱい食 べるという原始的なストレス解消法がもっとも効果的であったのかもし れない。織田は「凱歌を奏して宿に帰り久しぶりのすき焼きで応援にへ った腹をうんとふくらませた」との記述で、その日の記録を締めくくっ てい る ((( ( 。   代表委員の山本も、総得点一五点という成果に満足を見いだしたよう だ。 「 総 決 算 を し ま す と、 日 本 は 一 五 点 の 中 一 人 の 優 勝 者 が 有 る、 即 ち オ リ ム ピ ッ ク チ ャ ン ピ オ ン が 一 人 出 て ゐ る 為 に 第 七 位 を 勝 ち 得 ま し た 」 との弁にあるように、優勝者を含む一五点は世界第七位に位置すること になるという。とりわけ、この計算法によると、当時からその後二〇年 近く、日本がもっとも強く意識し、やがて同盟を結ぶにいたるヨーロッ パの新興国、すなわちドイツよりも上位にくるという事実が、山本にと っ て な に よ り の 喜 び で あ っ た。 「 ド イ ツ の ご と き は、 点 数 に 於 い て は 日 本の上にありますが、オリムピック成績に於いては日本よりも下になつ たのであります」として、ドイツを下にみることの快感を言葉にしてい る ((( ( 。   最後に、以上のような陸上関係者よりも、はるかに多くの読者を対象

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 (1─) ─ ──3 ─ と し て 記 事 を 書 か な け れ ば な ら な か っ た 新 聞 記 者 の 論 法 を み て お こ う。 基本的には、織田、山本に共通する「質よりも量」を重んじる路線で筆 を 走 ら せ て い る。 曰 く、 「 一 等 は と ら な い が 二 人 と も 入 賞 し た の は 日 本 ば か り だ。 」 そ の 上 で、 外 国 人 記 者 の 好 意 と 高 評 価 に 言 及 し、 二 人 入 賞 の 意 義 を 再 確 認 す る。 曰 く、 「 二 人 が 並 ん で 写 真 を 取 る 時 に ス タ ン ド の 方々から万歳の声が聞くに、われわれも又付近に居た外国記者の群から 握 手 攻 め に さ れ た。 」 さ ら に は、 日 本 人 の 強 さ の 秘 訣 と し て、 固 有 の 精 神 性、 つ ま り「 大 和 魂 」 を 持 ち 出 し て い る。 曰 く、 「 身 体 は 小 さ い が ね ばりと底力においては世界を向こうに回しても負けないことを示したも の で あ り 又 大 和 魂 を 形 で 現 し た も の で あ る。 」 こ の 主 張 は、 別 の 機 会 に 見 る よ う に、 「 人 種 」 的 ヒ エ ラ ル ヒ ー に お け る 日 本 人 の 位 置 を 引 き 上 げ るためにしばしば導入された精神論と同系であるといえよう。記者は次 の よ う に、 日 本 に 都 合 の い い、 や や 独 り よ が り の 計 算 法 を 駆 使 し な が ら、 記 事 を 締 め く く る。 「 今 ま で ス タ ヂ ア ム で あ ま り 振 る わ な か っ た 日 本も最後のしかも大物で振るった。二人とも入賞したことは一人の二等 若しくは三等に優るものだ。 」 ((( (   しかし、いかなる操作や論法を用いても、行間に潜む失意と無念の情 を消し去ることはできない。書き手それぞれの心底に溜まる無念の思い を感取することは容易である。初金メダルを逸した痛みを簡単に癒すこ と は で き る は ず も な か っ た。 ( 今 日 ま で 日 本 男 子 マ ラ ソ ン 界 が 金 メ ダ ル と 無 縁 で あ る こ と か ら も、 そ の 重 み を 実 感 す る こ と が で き よ う。 ) ア ム ステルダムマラソンに関する記述に、勝者エル・ワフィに関する情報が 少ないのは、執筆者たちが失メダルショックからなかなか立ち直れなか ったことの間接的な証拠になるかもしれない。執筆者たちは、メダルを 取れなかったことへのこだわりに心を奪われ、真の勝者が誰たるかを想 起するだけのゆとりを保ちえなかったのではないか。

Ⅳ.勝者エル・ワフィに対するまなざし

  それでも、当時の記録にエル・ワフィの関する言説や表象を探そうと す る 努 力 は 不 可 能 で は な い。 其 処 こ こ に あ る 断 片 的 な 証 拠 を 集 め な が ら、以下において、そのためのささやかな試みを提示したい。まずは日 本人による記述や描写を検討する前に、他国におけるエル・ワフィおよ びその記憶のその後を一瞥しておきたい。   エル・ワフィの祖国─より正確には祖国アルジェリアの宗主国─フラ ンスでは、植民地主義という政治的な緊張を伴う関係性も手伝って、エ ル・ ワ フ ィ 個 人 に ス ポ ッ ト を あ て る 報 道 は 回 避 さ れ る 傾 向 が み ら れ た。 これは、同じ大会でメダルを獲得した、歴史的、文化的出自を宗主国フ ラ ン ス と す る 選 手 と 比 較 す る と た ち ま ち 明 ら か と な る。 「 有 色 」 選 手 が 「 白 人 」 国 家 の 代 表 で あ る と い う 事 実 が、 日 本 人 の 役 員 や 選 手 を 少 な か らず混乱させたことは容易に想像できる。その後エル・ワフィは、以下 に見るアメリカでの興行的な長距離走試合に出場した結果、アマチュア 資格を剥奪されると、その走力に再び脚光を浴びさせる機会もなく、国 民から忘れ去られる運命に置かれ た ((( ( 。   祖国チリで英雄として迎えられた準優勝者プラザは、フランスにおけ る勝利のゴール以後のエル・ワフィと対照的な生涯を送ったといえるだ ろう。プラザは、その後も国民の注目の中に、経済的にも社会的にも成 功した人生を送ることになる。南アメリカで近代国民国家としての制度 的発展を急速に遂げつつあったチリは、東アジアにおける日本とある程

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 (1─) ─ ─── ─ 度共通した歴史的位置におかれていたといえる。その意味では、アムス テルダム大会後のプラザのキャリアは、山田と津田がメダリストとして の栄光を手にしていたならば約束されたであろう生活を推し量るための 参考になるかもしれない。また、チリの世論やメディアは、成績で祖国 の英雄を上回ったエル・ワフィに対して、まったくといっていいほど敬 意 や 注 意 を 払 わ な か っ た こ と に 留 意 し た い。 そ れ が、 果 た し て「 人 種 」 主義によるのか、あるいは植民地主義によるのか、これらの点を含めチ リ人のエル・ワフィに対する態度については、さらなる検討が必要であ る ((( ( 。   自国選手を第五位に入賞させたアメリカは、日本を含むどの他国より も、 エ ル・ ワ フ ィ に 熱 い 視 線 を 送 っ た。 「 有 色 人 」 で あ る エ ル・ ワ フ ィ の勝利は、アメリカ社会の「人種」的ヒエラルヒーを批判的に再検討す る国際的な学術会議と、時をほぼ同じくして起こった出来事であったた め、ニューヨークタイムスなどの主要紙は、反人種主義的な論陣を張っ た。このような動きに、多民族国家ならではの特長をみることも可能か もしれない。アメリカの実業家は、エル・ワフィの長距離走行能力に対 する国民の関心に乗じて、アムステルダム大会金メダリストを自国に招 き、他の有力選手との数度に渡る興行試合を主催した。興行は必ずしも 成功とはいえなかったが、エル・ワフィは渡米によって十分な報酬を手 にした。しかしその結果、すでに述べたように、アマチュア選手の資格 を剥奪された。アメリカ人のアフリカ人に対する開かれた姿勢が、彼の 選手生命の終わりをもたらしたことは皮肉と言わざるを得な い ((( ( 。   では、我が国における優勝者エル・ワフィへのまなざしはどうだった のか。フランス人やチリ人と同じように、彼を忘却の彼方に追いやった の か。 そ れ と も、 ア メ リ カ 人 の よ う に 人 間 と し て、 「 人 種 」 と し て の 彼 とその才能に興味を示し、あるいは敬意を払ったのか。   「 人 種 」 的 な 観 点 か ら い う な ら、 国 籍 や エ ス ニ シ テ ィ 的 な 差 異 に よ る 「 他 者 性 」 と、 い わ ゆ る「 有 色 性 」 の 共 有 が も た ら す「 連 帯 」 の 感 覚 や 意識との間に、一種不安定でどっちつかずの状況が生じていたことが想 像される。このような観点から、エル・ワフィに対する印象、評価、意 見を掘り下げるアプローチが有効であろう。   一例として、アムステルダム大会の様子を報道する『朝日新聞』夕刊 に掲載されたエル・ワフィの紹介記事を俎上に載せてみる。   オ リ ム ピ ッ ク 陸 上 最 終 の マ ラ ソ ン に 第 一 着 の 栄 冠 を 占 め た エ ル・ ワフィとは仏領アルゼリア(アフリカ)のビスカラ付近から来た廿 九歳のアラビア土人である。同人は元仏領アルゼリア駐屯軍に雇わ れ て 信 書 を 運 ぶ 役 目 を 命 ぜ ら れ 自 然 長 距 離 走 法 を 自 得 し た も の で、 その後轉じてパリに来りある自動車会社に雇われてゐるものを拾い あげてマラソン選手に仕立てたもので、今回の結果を見てマラソン 界に一新人を加えた譯である、エル・ワフィは記者に対して本日の 競走の感想を述べた中に日本選手の奮闘ぶりを賞賛したが日本選手 はスタートから余り焦りがちに過ぎた観があると語って居 た ((( ( 。   論調は概して中立的である。記者はエル・ワフィにインタビューをお こなったようだが、インタビューをすること自体、勝者への敬意のあら わ れ と 受 け 取 る こ と も で き よ う。 「 日 本 選 手 は ス タ ー ト か ら 余 り 焦 り が ちに過ぎた観がある」とのアドバイスを敗者におくる態度についての筆

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 (1─) ─ ──1 ─ 致は、王者の貫録を伝えようとする意図さえ感じさせる。しかし気にな る 表 現 が な い わ け で も な い。 「 ア ラ ビ ア 土 人 」 と い う 表 現 は 特 に 重 要 で あ る。 明 治 初 期 以 来、 「 土 民 」 と な ら ん で「 土 人 」 は、 当 時 日 本 人 が 「 未 開 」 や「 野 蛮 」 で あ る と み な し た 地 域 に 住 む 人 々 を 指 す 一 般 的 な 呼 称であった。したがって、あきらかに軽蔑的な心情を伴う語であったと 見 な す こ と が で き る ((( ( 。「 雇 わ れ て ゐ る も の を 拾 い 上 げ て 」 や「 マ ラ ソ ン 選手に仕立てたもの」などは、人を物として扱うような言葉遣いといえ なくもない。欧米の「白人」選手を対象とした場合も、記者がこのよう な表現を用いるとは考えにくい。厳密な検証は別の機会に譲るが、この 記事は、マラソン王者を見上げる姿勢と見下す姿勢の両者を想定し得る 手がかりで一杯である。   ヨーロッパ諸国の人々( 「白人」 )から見た場合の「非白人」としての 「 有 色 性 」 の 共 有 が、 日 本 人 の エ ル・ ワ フ ィ に 対 す る 感 情 や 印 象 に 影 響 を与えることはなかっただろうか。入手した証拠だけでこの点を検証す ることは困難だが、検討の糸口を探ることは可能である。たとえば当日 の記録は、オリンピックマラソン競技の勝者を決する檜舞台で、スタジ アムを埋め尽くす大観衆が、エル・ワフィを日本人と誤解した可能性を 示唆している。栄光の勝者を自国民と見間違う大勢の人々を前に、日本 人関係者は意表をつかれ、当惑したにちがいない。日本人のエル・ワフ ィに対する印象や評価を掘り下げるための切り口として、この事件を取 り上げみたい。   マ ラ ソ ン レ ー ス が い よ い よ ク ラ イ マ ッ ク ス を 迎 え よ う と し て い た と き、 ス タ ジ ア ム に は、 選 手 の 帰 還 を 今 か 今 か と 待 ち 受 け る 大 観 衆 が い た。そして不幸にも、大観衆には一位と二位が日本人であるという誤っ た情報が与えられていた。情報伝達手段が未発達であった当時、スタジ アムへの経過報告は、レースコースの各中継所での順位をスタジアムの 掲示版に提示するという手段によって行われていた。レースの終盤まで ト ッ プ の 座 を 守 っ て い た の は 二 人 の 日 本 人 だ っ た の で、 掲 示 版 の 一 位、 二位の番号も、山田と津田の番号のままだったのである。二人の日本人 がトップを争って入場してくる光景を期待して待つ大観衆の様子を、竹 内は状況を次のように描写している。   スタディオンの掲示場には各関所の通過順序が選手番号によって 掲示されてある。二六四番が第一等に、続いて二六〇が第二等に掲 げられて居る。いわずもがな山田と津田の番号だ。マラソン出発以 来二時間半スタンド幾萬の観衆がプログラムと対照して我選手であ ることを知るに及び、場内は日本人で大騒ぎであ る ((( ( 。   エル・ワフィが黒髪で小柄であったことも災いした。身体的特徴から だけでは、遠目には日本人でさえアジア人と見分けられなかったかもし れない。接近したとしても、ヨーロッパ人では、エル・ワフィと日本人 の違いがよくわからなかったであろう。エル・ワフィがスタジアムに入 場 す る と「 ジ ャ パ ン、 ジ ャ パ ン 」 の 大 歓 声 が あ が っ た と 報 道 は 伝 え る。 だがそれもいたしかなかった。   五時三五分ラッパが三度鳴ってマラソンの門が開かれた、塔から は盛んに煙があがる。間もなく選手が帰ってくるのだ。人々は固唾 をのんで待つ。今までの掲示では山田が一番だが、五分ほど過ぎて

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 (17) ─ ─── ─ 門 に 髪 の 黒 い 姿 が 現 れ た。 人 々 は「 ジ ャ パ ン ジ ャ パ ン 」 と 叫 ん だ が、近づいて見るとフランスの選手であるが黒いのも当たり前、ア ラビア種のアルゼリヤ人エル・ワフ ィ ((( ( 。   大観衆に囲まれて、少数の日本人もいた。山本もその一人だった。日 本人関係者は、すぐに山田ではないことに気づいた。しかし観衆の誤解 を解くすべをもたなかった。誤解を解こうとする強い意欲を持ちえたか どうかも不確かである。山本の次の手記は、なすすべのない様子をよく 伝えている。   私達はランチに乗っていましたが、到底これでは駄目だと思った のでそれをすて、自動車で先まはりをして競技場に引返し、山田君 の一等となって帰ってくるのを待ちに待ってゐました。そして今日 こそは最後だから、山田君を胴上げして場内を廻ろうと、日章旗を 持 っ て 山 田 君 の 帰 る の を 待 っ て ゐ た が、 愈 々 一 番 に 到 着 し た 選 手 は、 山 田 君 に あ ら ず し て 仏 蘭 西 の 選 手 で あ っ た。 私 は 残 念 だ っ た が、 西 洋 人 は 皆 ジ ャ ポ ン、 ジ ャ ポ ン・・・ と 口 々 に 叫 ん で い ま す。 誰もその日の勝利者は山田君と思ってゐたのです。あれはフランス 人だといくら云っても信じな い ((( ( 。   金 メ ダ リ ス ト の 織 田 は、 ゴ ー ル 場 面 に 立 ち 会 う こ と が で き な か っ た。 応援地点でかなり遅れて走る永谷の姿を認め、全走者が通過するのを待 ち、 そ れ か ら 日 本 の 自 動 車 に 拾 っ て も ら い、 急 い で ス タ ジ ア ム に 戻 っ た。途上、周りは日本の勝利ムード一色であったと証言している。誤解 はスタジアムの中だけでなく、その周辺にも広がっており、それが誤解 だと知らなかった織田は感無量になった。   五十人位来たと思った時永谷君が来た。一度も練習をやらずして 最後迄走り通す其の元気には驚かされた。然も後で聞けば引き返し 点まで第一位にあったと言ふ事だ。全部通り過ぎてしばらくして日 本の自動車が来て其れに乗せられてスタデイオンに向かった。見物 の人々はすべて日本の勝利に拍手を送って呉れて此んな愉快な気持 はなかっ た ((( ( 。   織田は日本の勝利を確信したまま選手控室に駆け込み、そこで失意の どん底にある山田と対面することになるのである。     アフリカ人と日本人の混同という「人種」的観点からみてきわめて興 味深いこの珍事に立ち会った人々の心境は、いかなるものであったか。   まず、深い喪失感があったことはまちがいない。金銀メダルの獲得と いう二重の快挙、まさしく「オリンピアンの夢」とでもいうべき偉業の 達成を、成就目前でしくじったことの精神的打撃ははかりしれない。ほ ぼ同時に、誤解されているという事実そのものへの反応、つまり真実が 知られていないことへの違和感とそれを正したいという正義感あるいは 義務感とでもいうべき意識の動きが、おそらく生じていたであろうと思 わ れ る。 「 日 本 人 と ア フ リ カ 人 」 が、 あ る い は「 黄 人 と 黒 人 」 が 混 同 さ れたことにたいする反応は、おそらく以上の二つの即座的、直截的な心 の動きの後に、あるいはそれとは違う心のレベルで作動するものではな いか。

参照

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