中
前
正
志
元 文 三 年(一 七 三 八) は、 洛 東 の 音 羽 山 清 水 寺 に とって、 特 別 な 年 だった。 『清 水 寺 史』 第 二 巻(音 羽 山 清 水 寺、 平 9)第二章第一節「開帳と寺院経済」に、 本堂本尊の居開帳は、寛永六年(一六二九)の焼失直後の三日間の開帳を特例としてはぶけば、元文三年(一七三 八)の時が最初である。 と 記 さ れ る 通 り、 最 初 の 本 堂 本 尊 の 居 開 帳 が 行 わ れ た 年 だった。 『清 水 寺 史』 は、 同 年 の 二 月 十 七 日~五 月 二 十 七 日 に 開帳されたことを清水寺所蔵の『開帳記録』によって示すとともに、開帳の準備がかなり早くから進められていたこと も明かしつつ、元文元年九月十六日付の「御開帳定之条々」などを翻刻掲載してもいる。 そ の『清 水 寺 史』 は 何 ら 言 及 し な い が、 右 の 開 帳 に 合 わ せ て 清 水 寺 よ り『洛 東 音 羽 山 清 水 寺 略 縁 起』 (中 野 猛 氏 編 『略 縁 起 集 成』 に 翻 刻 収 載) が 発 行 さ れ る 一 方 で、 そ れ と は 別 に、 同 開 帳 の 直 前 に、 清 水 寺 の 縁 起 あ る い は 霊 験 譚 を 記 載した縁起書類が、次の通り、寺外においても三点刊行されている。やはり、開帳に合わせてのものであるに違いない。元文三年の清水寺縁起Ⅰ
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翻刻『音羽山花之台』
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33『洛東音羽山清水寺来験記』 まず、 『洛東音羽山清水寺来験記』 (以下『来験記』 )。三点の中で伝本が最も多く現存し、京都女子大学図書館にも一 本 所 蔵 さ れ て い る( 188.215/G99 )。 同 図 書 館 蔵 本 の 場 合、 刷 題 簽 に 外 題「 元文 新板 清 水 来 験 記」 、 内 題「洛 らく 東 とう 音 おと 羽 は 山 やま 清 せい 水 すい 寺 じ 来 らい 験 げん 記 き 」。 全 三 十 二 丁。 「清 せい 水 すい 寺 じ は、 洛 らく 東 とう 名 めい 勝 せう の 地 ち 、 普 ふ 門 もん 円 ゑん 通 づう の 霊 れい 場 ぢやう な り。 ……或 ある 人 ひと の 求 もとめ に よ り、 清 きよ 水 みつ 縁 ゑん 起 ぎ 霊 れい 験 けん の あ ら ま しを誌 しる し 訖 おはん ぬ。一見 けん の人々、此勝 せう 地 ち をしたひ、大 たい 悲 ひ に縁 ゑん をむすひ給へかしといふことしかり」と記す「序」の末に 時元文二 巳 年五月 伏見誠心精舎仰誉記之 とあり、跋文のあとの最末尾に、 元文二年 丁 巳林鐘上浣 洛下 書舗蔵版 と刊記が見える。仰誉の著作で、元文二年六月の刊行である。 序の次に見開きの境内図、目録があり、そのあとに内題が掲げられて、全十条(①~⑩)から成る本文が続く。目録 には、その十条が ① 清 せい 水 すい 寺 し 縁 ゑん 起 き 并 十 しつ 景 けい ② 田 た 村 むら 丸 まろ 伝 でん 并 本 ほ ん 堂 だう 脇 わき 立 だち 附 鈴 すゞ 鹿 か 山 やま 鬼 き 神 じん 之 の 俗 ぞく 説 せつ ③ 平 たいらの 清 きよ 盛 もり 千 せん 日 にち 参 まいり 霊 れい 験 けん の事 ④ 源 みなもと 義 よし 朝 とも の妾 せう 常 とき 盤 は 母 ぼ 子 し 利 り 生 しやう の事 ⑤ 主 しゆ 馬 めの 盛 もり 久 ひさ 霊 れい 験 けん の事 ⑥ 観 くわん 音 をん 景 かげ 清 きよ か 首 かうべ に代 かは り給ふといふ説 せつ の事 34
⑦ 清 きよ 水 みつ 利 り 生 しやう にて母 はゝ にたづねあひし事 ⑧ 清 きよ 水 みつ 二 に 千 せん 度 ど 参 さん 詣 けい を 賭 かけもの に打 うち 込 こむ 事 ⑨ 貧 ひん 女 によ 現 げん 果 くわ を得 え し事 ⑩ 禅 ぜん 勝 せう 坊 ぼう 道 だう 心 しん を 祈 いのり て妻 つま を得 ゑ し事 と示されている。①②だけが創建縁起あるいはそれに関わる内容で、それ以外の③~⑩は霊験譚である。霊験譚が多く を 占 め て い る。 な お、 ①~⑩ い ず れ の 末 尾 に も 割 注 の 形 な ど で、 例 え ば「以 上 釈 書 并 清 水 縁 起 其 外 諸 書 の 説 也」 (①) と依拠資料が注記されており、さらにそのあとに、 「 評 へうに 云 いわく …」あるいは「弁 べん して云…」として評言を載せる場合が多い。 右のうちの⑥は有名な景清の話だが、その後半は次の通り。 終 つい に梶 かち 原 はら に仰て六条河 か 東 とう にて首を刎 きら しむるに、景清が首 くび ならで観音の御首にてあれば、おとろき申上る。頼朝感 かん し 給 ひ、 則 御 首 を つ が し む る に、 あ や ま つ て う し ろ さ ま に つ ぎ ぬ。 是 よ り 世 人、 清 水 の 本 尊 を 後 うしろ 堂 たう よ り お か む 事 也、 といひ伝ふと。 霊験抄利益集なといふ 雑書にしるせり 景清の身代わりに斬首された本尊観音の首を、誤って前後ろ逆に継いでしまったので、世人が本尊を後堂から拝むよう になった、という話。この話には長い評言が付されており、その最初の一段の冒頭部は次の通り。 弁 し て 云。 a 当 寺 の 観 音、 い ま だ 是 迄 開 かい 帳 ちやう の 事 を き か ず。 わ る か し こ き も の と も は、 本 尊 の 御 首 う し ろ む き の ゆ へ に 開 帳 な ら す と い ひ、 或 は 又 む か し 炎 ゑん 焼 しやう に や け 給 ひ て 空 から 御 み 厨 つ 子 し 也 な ん とゝい ふ(割 注 略) 。 か く の こ と き う た か ひ をなし、他の信心まてをさまたく。一人虚 きよ をつたへて万人実 じつ を伝 つた ふ也。それ名 めい 山 さん 霊 れい 地 ち も世 よゝ ゝにさかへおとろへるな らひ、あやしむへきにあらされとも、近年清水の参詣むかしほどになきは、もしやかのから御 み 厨 づ 子 し なりといふやか ら お ほ き に や。 し か る に、 此 度 時 い た り て、 b 来 らい 春 しゆん 開 帳 の 披 ひ 露 ろう 有。 お よ そ 遠 えん 国 こく 辺 へん 鄙 び ま て も 聞 つ た へ つ げ 知 ら せ て、 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 35
月 日 を か そ へ て 来 春 を 相 あい 待 まつ 。 さ れ は、 清 水 近 きん 辺 へん の 旅 たひ 亭 やど 、 又 は 諸 方 の あ き 人、 放 ほ う 下 か の た ぐ ひ ま て、 先 を 競 あらそ ひ 場 ば 占 どり し て、 尺 せき 寸 すん の 地 ち も 嬴 あまり な し。 思 ふ に、 参 さん 詣 けい の 中 に か の 後 こう 堂 だう に ま い り お か む や う な る 馬 は 鹿 か り ち き の 族 やから 、 此 度 正 しやう 面 めん な る を 拝 見 せ は、 却 かへつ て 力 を お と し、 景 清 か 事 虚 うそ な れ ば 余 よ の 利 り 生 しやう と て も 信 しん じ が た し、 あ る ひ は 此 本 尊 は む か し の に あ ら す など、いろ
く
のうたがひをなし、信心をとりうしなはむ。 (下略) 本 書 が 元 文 三 年 の 開 帳 を 意 識 し た も の で あ る こ と を 明 確 に 示 す 記 事 で あ る。 「来 らい 春 しゆん 」 す な わ ち 元 文 三 年 春 に「開 帳 の 披 ひ 露 ろう 」のあることが明記されており(傍線部b) 、それまでには本尊観音の開帳がなかったことも伝えている(傍線部a) 。 先の景清の一件あって観音の首が継ぎ誤られたため、あるいは観音が焼失して厨子が空であるため、開帳できないのだ、 と噂する向きのあったことや、その故か否か当時は参詣者が以前に比して減っていたことを窺わせる(傍線部aとbの 間)のも、興味深い。右記事はさらに、今回の開帳で観音の首が前後ろ逆でなくちゃんと正面を向いていることを拝見 した参詣人の中に、観音の首を継ぎ誤ったとする景清の話が偽りならば観音の利生もすべて信じ難いなどと考える者が いるのではと心配し、右引用のあとには、継ぎ誤り自体が言うまでもなく虚説であると主張している。 と こ ろ で、 管 見 に 入った う ち 刈 谷 市 立 図 書 館 蔵 本 の 場 合 は、 右 の 元 文 二 年 刊 本 の 序 末 に あった 記 事「時 元 文 二 巳 年 五 月」がないうえ、先掲刊記などもなくて、本文末に小さく「京極通五条上 ル 町/藤屋忠兵衛梓行」と見えるのみ。また、 本文冒頭部中の「宝 ほ う 亀 き 九年四月」に対する割注が、右元文二年刊本の場合の「今元文二巳年まて/九百六十年になる」 と 違って「今 安 永 二 巳 年 ま て/九 百 九 十 六 年 ニ な る」 と なって お り、 外 題 も「 安永 改正 清 水 寺 来 験 記」 (刷 題 簽) 。 安 永 二 年 (一七七三)に再版されたものということになる。 「元文三年より三三年に相当」する同年にも本堂本尊の居開帳が行わ れたこと、前出『清水寺史』第二巻に記されており、その開帳に合わせた再版に違いない。 36『東山清水寺絵縁起』 次 に、 『東 山 清 水 寺 絵 縁 起』 (以 下『絵 縁 起』 )。 『国 書 総 目 録』 に は 内 閣 文 庫 所 蔵 本 の 一 本( 192/436 和34972 ) し か 著 録 さ れ て い な い。 同 本 は、 袋 綴 三 巻 一 冊。 上 巻 十 八 丁、 中 巻 十 六 丁、 下 巻 十 七 丁。 刷 題 簽 に 外 題「清 水 寺 絵 縁 起」 。 内題「東山清水寺絵縁起」 。柱題「清水」 。上巻に十三面、中巻に四面、下巻に七面の挿絵が見られる。末尾の刊記に、 貞享二年 西 堀川錦小路上ル町 村市郎右衛門蔵板 于時元文三年 午正月再板 同 江戸通本町三丁目 源 六 とあるから、もと貞享二年(一六八五)に刊行されていて、それが、開帳の直前の元文三年正月に再版されたものであ るらしい。また、右刊記の直前に 坂 上 田 村 丸 は 四 十 六 代 孝 かう 謙 けん 天 皇 天 平 宝 字 二 年 丁 酉 年 誕 たん 生 しやう 而 五 十 二 代 嵯 峨 天 皇 弘 仁 二 年 十 月 十 七 日 薨 こうす 。 万 治 二 年 迄 八百四十九年歟。 延 ゑん 鎮 ちん 誕 たん 生 しやう 者 四 十 五 代 聖 武 天 皇 天 平 元 年 己 巳 年 也。 五 十 二 代 嵯 さ 峨 か 天 皇 弘 仁 七 年 齢 よはひ 八 十 八 ニ 而 逝 せい 去 きよ 。 万 治 二 年 迄 八 百 四 十四年也。 とあるので、本書は本来、万治二年(一六五九)の著作ということになろうか。 ま ず、 「夫 清 水 寺 の 濫 らん 觴 しやう は、 や ま と の 国 高 たか 市 いちの 郡 こ ほ り 八 はつ 多 たの 郷 かう 小 こ 嶋 しま 寺 に 報 恩 と い ふ 大 と こ あ り。 ……」 と 始 まって、 通 常 よ く 見られるのと概ね同様の創建縁起が叙述される。そのあと下巻第五丁裏まで、主として霊験譚類が十話ほど列ねられて いるが、単に霊験譚というのではなく、それと関わって、田村堂・三重塔・西門といった諸堂宇の造営など、種々整備 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 37
されていく様子も盛り込まれている。特に注目されるのは、創建縁起部分だけでなく、それら霊験譚類においても、延 鎮あるいは田村麻呂が随所に登場し、また、霊験譚類に混じって田村麻呂の漢文伝なども組み込まれている(中巻 12オ ~ 14オ)ことである。その点、田村麻呂と延鎮の生没年を先引通り刊記直前に殊更特記することとも対応し、本書が両 人を基軸として編述されていることを窺わせよう。 右の創建縁起・霊験譚類は基本的に年代順に並べられており、それらの最後は弘仁四年(八一三)九月の話で、その 直後、下巻六丁表の冒頭に ○人 にん 皇 わう 五十二代 たい 嵯 さ 峨 かの 天 てん 皇 わう 弘 こう 仁 にん 七年六月十七日延 えん 鎮 ちん 逝 せい す。 齢 よはひ 八十八歳 さい 。 とある。そして、一行空け「奥書」と題して、第七丁表冒頭に至るまで、 凡 も ろ こ し に は、 仏 神 を ま つ る に は 筮 めと を た て 地 を 卜 ぼく し て 寺 じ 社 しや を 造 つく る。 (中 略) 山 城 の 一 国 に も 観 くわん 世 せ 音 をん の 霊 れい 仏 ぶつ あ ま た 所 に あ り と い へ 共、 効 かう 験 げん の あ ら た な る は 清 水 寺 に し く こ と な き は、 霊 地 の ゆ へ 也。 (中 略) む か し よ り 年 とし
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の 霊 れい 験 けん の 奇 き 異 ゐ な る 記 き 録 ろく の 巻 まきく
、 今 の す る に い と ま あ ら す。 其 草 さう 創 ぐ の 三 五 を し る し て 画 ぐわ 図 と に あ ら は し、 (中 略) 坂 さかの 上 うへ の 末 ばつ 孫 そん 東山清水寺の別 べつ 当僧 そう 都 づ 覚 かく 源 けん 頹 たい 齢 れい 八十三誌 レ之。 と記す。右の次には二行ほど空けて小さく、 延 えん 鎮 ちん 逝 せい 去 きよ より三百七十年目文 ふん 治 ぢ 元年也 とあるから、ここまでは、田村麻呂の末孫で清水寺の別当という覚源による、文治元年(一一八五)の著述だというの であろう。 右に続いては、 「追加」と題して有名な景清と盛久の話が載せられ( 7オ~ 13オ) 、その直後、第十四丁表の冒頭には、 追加奥書 ニ 云 38建 けん 久 きう 元年三月十八日清水寺別当僧正覚真記焉。 と見える。 「追加」は、建久元年(一一九〇)にやはり清水寺別当の覚真が行ったという。 さらに右のあと二行ほど空け、今度は「続追加」と題して、徳川家光に関する、慶長八年(一六〇三)の誕生から寛 永 十 一 年(一 六 三 四) の 清 水 寺 参 詣 ま で の 話 を 記 述 し、 続 い て、 「或 ある 人 問 て い は く、 千 せん 手 じゆ 観 くわん 音 をん の 形 ぎやう 状 じやう い かゞ」 で 始 ま る 問答体の記事五条を載せる。そこから数行空いた所に、先に引用した、田村麻呂と延鎮の生没年を記した刊記直前の記 事が置かれている。 以上の記事の伝える通りであるとすれば、文治元年清水寺別当覚源の著述に建久元年に同覚真が追加したものがあっ て、それにさらに近年の話と問答体記事を加えて万治二年に成ったのが本書である、ということになるが、そのすべて を に わ か に は 信 じ 難 い。 そ の 点、 内 容 を さ ら に 吟 味 し つ つ 別 に 検 討 す る 必 要 が あ る。 な お、 「東 寺 百 合 文 書」 所 収「清 水 寺 別 当 次 第」 ( 甲 号 外/30/17 ) に も、 近 年 近 本 謙 介 氏 に よって 紹 介・ 検 討 さ れ た 金 剛 寺 蔵『清 水 寺 縁 起』 付 載「清 水 寺 別 当 次 第」 (同 氏「天 野 山 金 剛 寺 蔵『清 水 寺 縁 起』 (漢 文 縁 起) に つ い て」 〈神 戸 説 話 研 究 会 編『 論 集 中 世・ 近 世 説 話 と 説 話 集』 和 泉 書 院、 平 26〉 等 参 照) に も、 「覚 源」 「覚 真」 い ず れ も 見 え な い。 ま た、 国 文 学 研 究 資 料 館 に は、 本 書 の一部を抜萃し、本書にはない跋文を加えたような絵巻一軸が所蔵されてもいる。 『音羽山花之台』 最 後 に、 『音 羽 山 花 之 台』 。 末 尾 に「時/元 文 第 三 戊 午歳 二 月 東 嬰 京城下五橋 子 愚 筆 之」 、「田 村 堂」 条 に「元 文 三 午 年」 と 見 え る の で、 や は り、 元 文 三 年 二 月 十 七 日 か ら の 開 帳 に 合 わ せ て 著 作・ 出 版 さ れ た も の に 違 い な い。 跋 文 中 に「絵 ゑ 図 づ を 以 導 みちびき 、 案 あん 内 の 便 たより と す」 と あ る よ う に、 見 開 き 十 面 の 絵 図 を 提 示 し つ つ、 清 水 寺 の 創 建 縁 起 や 諸 堂 宇 な ど に つ き 解 説・ 案 内 し 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 39
たもの。 「誠に此二仏もわけて霊 れい 験 けん 一じるしとなり」 ( 7オ)などといった記述も見られるものの、跋文中にまた「利生 の数 かす 々、世にしれる事ははぶき」と述べるように、霊験譚を特に記そうという意図は見受けられない。創建縁起を掲げ た あ と に 殊 更「清 水 境 けい 内 たい 寺 社/旧 きう 跡 せき 由 ゆ 来 記」 と 題 し て( 8ウ) 、 周 辺 の 名 所 旧 跡 や 境 内 の 諸 堂 宇 な ど を 一 つ 一 つ 挙 げ 記 載するので、そうした名所案内記的な性格の方が色濃い。直前に刊行された『来験記』が先述通り霊験譚を多く取り入 れているのを、意識した結果であるのかもしれない。 全 十 七 丁 。 第 一 丁 表 は 「 目 録 」 で 、 絵 が あ る の は 第 十 一 丁 表 ま で 。 第 七 丁 裏 ・ 第 八 丁 表 の 見 開 き に は 、「 六 波 羅 野 并 清水 境内 」 と題する絵図が全面的に掲載されているが、他の箇所には、絵図または絵だけでなく、その上方に文章が綴られている。 各々の絵(図)の内容は、およそ次の通り。 1ウ・ 2オ 大 和 路 絵 図 =「和 州 高 市 子 嶋 寺」 「子 嶋 神 社」 「開 山 塔」 「高 取」 「土 佐 丁」 「三 笠 山」 「南 都 春 日 社」 「興 福寺」 「淀川流」などを画く。 ※ 春日社や興福寺を殊更画くのは、清水寺が興福寺末であったからだろう。清水寺の境内の絵図にも 「春日」を画き( 9オ) 、その解説も載せる( 11オ) 。 2ウ・ 3オ 「山城国愛宕郡八坂郷音羽山」へと向かう子嶋寺の賢心。 3ウ・ 4オ 賢心と行叡の対面・整地する鹿・行叡のあとをたずねる賢心。 4ウ・ 5オ 雷電して平地が出来る場面・鹿。 5ウ・ 6オ 鹿狩に来た田村麻呂と賢心。 6ウ・ 7オ 田村麻呂と夷賊との合戦・矢を拾う童子。 7ウ・ 8オ 「六 波 羅 野 并 清水 境内 」 絵 図 =「大 仏」 「五 条 東」 「袋 中 庵」 「若 宮 八 幡」 「六 波 羅 蜜 寺」 「西 福 寺」 「ヲ タ ギ」 「六 40
道」 「日 吉」 「阿 弥 陀 岑」 「小 松 谷」 「西 ノ 大 谷」 「大 谷 古 廟」 「日 親 ツ カ」 「遊 行 報 国 寺」 「む ゑ ん つ か」 「南 無 地 蔵」 「安 祥 院」 「五 て う 坂 ち や 屋 丁」 「安 井」 「か う し ん」 「八 坂 塔」 「法 勧 寺」 「七 く わ ん お ん」 「青 竜 寺」 「高 台 寺」 「下 河 原」 「祗 園 社」 「鳥 辺 山」 「日 蓮 宗」 「ウ バ 堂」 「来 迎 院」 「真 福 寺」 「仲 光 院」 「宝とく寺」 「鳥辺山ちか道」 「三年坂」 「轟はし」 「霊仙」などを画く。 ※ 8オ左上に「わけきつる袖のしつくかとり辺野ゝなく
く
帰るみちしはのつゆ 俊成卿」 。 8ウ・ 9オ 清 水 寺 境 内 絵 図 =「子 安」 「延 年 寺 辻 子」 「聖 天」 「六 坊」 「地 蔵 院」 「馬 とゝめ」 「執 行」 「犀 門」 「仁 王 門」 「春日」 「鹿場塚」 「しゆろう堂」 「轟坊」 「経堂」 「田村堂」などを画く。 9ウ・ 10オ 清 水 寺 境 内 絵 図 =「人 丸 社」 「弁 天」 「カ リ テ イ」 「本 願」 「ふ く ろ 水」 「廊 下」 「獅々有」 「朝 倉 堂」 「本 堂」 「地主社」 「めくら石」 「竜塔」 「宝珠院」 「釈迦堂」などを画く。 ※「本堂」について、 「是本堂うしろのかた也」と注する。 10ウ・ 11オ 清 水 寺 境 内 絵 図 =「た き の 下」 「哥 中 山 清 閑 寺」 「高 倉 院」 「虚 空 蔵」 「人 宿」 「滝 之 宮」 「奥 院」 「阿 弥 陀 堂」などを画く。 文 章 は 概 ね 絵 図 と 対 応 し て い て、 第 一 丁 裏 か ら 第 二 丁 表 一 行 目 ま で は 序 に 相 当 す る 箇 所 だ が、 そ の あ と は、 「大 和 国 高 市 の 郡」 の「子 嶋 の 神 社」 の 傍 の「子 嶋 寺」 に い た 報 恩 の 弟 子・ 賢 心 が 夢 告 を 受 け、 「淀 川」 を 経 て「山 城 愛 を 宕 たき 郡 こ ほ り 八 坂の郷」に至り行叡と逢うところから始まり、田村麻呂の夷賊退治で終わる、一連の清水寺創建縁起が、第七丁表まで 続く。その末尾には「凡清水寺建 こん 立より已 この 来 かた 元文三年 戊 午迄星 せい 霜 ぞう 九百六十年に及べり」と記す。それに続いて、第七丁表 の最後三行に「○是より清水境内/有之寺社霊仏/道しるへをしるす」としたうえで、第七丁裏・第八丁表の全面絵図 「六波羅野 并 清水 境内 」をはさんで第八丁裏に「清水境 けい 内 たい 寺社/旧 きう 跡 せき 由 ゆ 来記」と題し、以下、 「来迎院」 「三年坂」など寺社・名 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 41所旧跡ごとに案内・解説する。先にも触れたが、後半特に「清水寺名所図会」とも言うべき内容になっている。 本 書 の 伝 本 と し て は、 ま ず、 西 尾 市 岩 瀬 文 庫 に 二 本 存 す る。 一 本 は、 原 題 簽 に「 絵解 京土産 音 羽 山 花 之 台」 と 外 題 が 印 刷 さ れ、 刊 記 に「 梅 村 京寺町五条 弥 右 衛 門 板」 と あ る( 84/159 )。 他 の 一 本 の 場 合、 題 簽 に「清 水 境 内 寺 社 由 来 記」 と 墨 書 さ れ、 刊 記に「板元/藤屋忠兵衛/袋屋五兵衛/梅村弥右衛門」とある( 84/162 )。右記概要は、基本的に後者に基づく。また、 『国 書 総 目 録』 に よ れ ば、 前 者 と 同 じ も の が 大 東 急 記 念 文 庫 に 所 蔵 さ れ る よ う で あ る が、 未 見。 東 京 都 立 中 央 図 書 館 加 賀文庫所蔵本( 1239 )の場合は、題簽に「清水境内寺社旧跡由来記」と墨書。末尾の元文三年東嬰子識語のあとに 梅村 京寺町五条 弥与門板 安永二 癸 巳正月求板 梅村市兵衛行 とあり、一連の創建縁起のあとの記事も、先引のものと違って「凡清水寺建 こん 立より己 この 来 かた 安永二年 癸 巳迄星 せい 霜 ぞう 九百九十五年 に 及 べ り」 と なって い る か ら、 安 永 二 年 の 再 版 と 知 れ る。 「田 村 堂」 条 の「今 元 文 三 午 年」 が「今 安 永 二 巳 年」 と なって もいる( 12ウ) 。『来験記』と同じように、本書も、安永二年の開帳に合わせて再版されていたのである。 『国 書 総 目 録』 に 著 録 さ れ て い る の は こ れ ら 計 四 本 な の だ が、 同 書 に 記 載 が な い も の と し て は、 早 稲 田 大 学 図 書 館 千 厓文庫に右の加賀文庫所蔵本と同じものが所蔵される(同文庫目録参照)ほか、さらに、右のいずれともまた異なる伝 本 が、 京 都 女 子 大 学 図 書 館 に 所 蔵 さ れ て い る( 188.215/To19 )。 最 近 に 購 入 さ れ た も の で、 袋 綴 一 冊 全 十 七 丁。 縦二二・四×横一五・九糎。題簽に「 清 水 寺 縁起絵入 音羽山花之台」と印刷。末尾の元文三年東嬰子識語のあとに 安永二巳春三月開帳 寛政八辰春三月開帳 京 都 書 林 勝村治 寺町通松原下ル町 右衛門 42
とある。寛政八年(一七九六)にも清水寺で本堂本尊の開帳が行われたこと知られており、その際に再版されたもので ある。 「凡清水寺建 こん 立より已 この 来 かた 寛政八年 丙 辰迄…」 「今寛政八 辰 年」という記事も見える。長く再版され続けたらしい。 なお、右の諸伝本は、京都女子大学図書館蔵本も含めてすべて同版であるようだが、いずれにも内題が見えない。今、 岩瀬文庫蔵本等の外題に従って、書名を「音羽山花之台」としておいた。 元文三年に清水寺で本堂本尊の居開帳が初めて催されたのに際して、清水寺より『洛東音羽山清水寺略縁起』が発行 されたのとは別に、寺外においても右の通り、清水寺の縁起書類が管見の及ぶ限りでは三点版行されていたのである。 そ の う ち『来 験 記』 と『音 羽 山 花 之 台』 に つ い て は、 『洛 東 音 羽 山 清 水 寺 略 縁 起』 と 同 様、 元 文 三 年 か ら 三 十 三 年 に 相 当する安永二年時のものなど、以降の開帳に当たっても再版されたことが知られた。右二点は特に、近世中期以降に寺 外 で 作 成 さ れ 流 通 し た 清 水 寺 の 縁 起 書 類 と し て 少 な か ら ぬ 意 味 を 有 す る で あ ろ う し、 今 一 点、 元 文 三 年 に 再 版 さ れ た 『絵縁起』の方は、その成立や性格のあり方自体に興味深いものもあって注目される。 ま た、 清 水 寺 と い う 同 一 寺 院 に つ い て の 縁 起 書 類 が ほ ぼ 同 時 期 に 計 四 点 刊 行 さ れ て い た こ と に な る が、 右 に は 寺 外 の三点の概要を確認したのみで特に検討を加えなかったけれども、形式だけでなく縁起の内容においても、それら四点 決して同じでない面がある。寺内と寺外における縁起伝承の差異をめぐっては、拙稿「清水寺創建縁起点描② その後 の楊柳観音」 (『清水』 193、平 25)などでも言及したが、さらに、同時に寺外で刊行されたものにも少なからず差異が認 められることになる。縁起伝承のあり方の複雑さが改めて感じられよう。 古代から近現代に至るまでの〝清水寺縁起変遷史〟とも言うべきものを構築したいと思うのだが、そのためには、右 の三点あるいは四点それぞれのさらなる検討またはそれら相互の比較検討が必要不可欠であろう。小稿は、その手初め 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 43
となるものである。 以下に、 『音羽山花之台』の翻刻と影印(一部、絵図のある箇所のみ)を掲げておく。 翻刻﹃音羽山花之台﹄ ・ 同 版 な が ら 従 来 知 ら れ て い る も の と は 異 な る 京 都 女 子 大 学 図 書 館 所 蔵 本 に よって 翻 刻 す る。 た だ し、 判 読 不 能 箇 所 に つ いては他本により補った。なお判読し難かった箇所は□で示し、誤読等の不備と共に他日の補正を期したい。 ・基本的に通行の字体に改めると共に、私に句読点や引用符号を施した。誤字などは元のまま。 ・半丁ごとの末尾に、 』オ 1 などと記した。 目 録 和州高市子 こ 嶋 しま 音 おと 羽 は 山開始 延 ゑん 鎮 ちん 僧 そう 都 づ 問 もん 答 どう 田村将軍鹿 しか 狩 ゝり 清水山大風 ふう 雨 う 夷 い 賊 ぞく 高丸 軍 いくさ 六波 は 羅 ら 野之絵 ゑ 図 づ 清水一山之図 奥 をく 院音羽滝 たき 本堂絵図 経 きやう 書 かく 堂 三年坂 轟 とゞろき 之橋 はし 優 う 婆 ば 堂 真 しん 福寺 宝徳 とく 寺 仲光院 地蔵院 仁王門 犀 さい 門 春日社 泰 たい 産 さん 寺 鹿 しか 場 ま 塚 鐘 しゆ 楼 ろう 堂 竹林院 聖天 轟 とゝろき 坊 経堂 三重塔 田村堂 弁財天 朝 あさ 倉 くら 堂 阿弥陀像 毘沙門天 本堂 後 ご 門 多門天 地主権現 釈迦堂 瀧 りう 山 せん 寺 奥院 夜叉 しや 神 滝之宮 宝珠院 音羽滝 音羽山 坊舎 十景 けい ふくろ水 めくら石 地主 桜 さくら 履 くつ 之古 こ 跡 せき 滝 たき 之下 右以上』 オ 1 44
凡 此 山 華 くわ 洛 らく の ひ か し ニ 当 て、 四 しい 時 し の 風 景 けい 筆 舌 ぜつ の 及 ふ 所 に あ ら す。 春 興 けふ な ど の 詠 に か き ら ず、 都 と 鄙 ひ の 遊 ゆう 人 常 に 絡 らく 繹 ゑき 跡 を た へ ず。 特 ことに 数 す 品 ほ ん の 桜 花 爛 らん 漫 まん に し て、 殊 更 名 地 の 風 香 か 有。 直 み 下 おろし の 瀑 はく 泉 せん 清 せい 凉 りやう な り。 九 きう 夏 か の し の ぎ 爰 に し か ん。 是 洛 らく 陽 よう の 一竒 き 観 くわん に し て、 世 人 の 口 こう 実 じつ 、 古 今 絶 たゆる こ と な し。 就 づく レ中 犀 さい 門 に 望 め ば、 北 山 よ り 西 を 淀 よと ・ 八 わ た・ 摂 せつ 河 が ・ 和 州 しう の 岑 みね を 遥 はるか に し、 泉 州 村 里・ ふ し み・ 深 ふか 草・ 大 仏 殿・ 隣 りん 寺 じ 細 こまか に 目 の し た に 見 ゆ。 ほ と ん と』 ウ 1 洛 東 の 景 色 他 に 有 こ と な し。 爰 に 当 山 の 起 をこ りは、人皇四十九代弘 こう 仁天皇の御宇、宝亀九年の比、大和国高市の郡八多の郷 ごう に子嶋の神社有。 傍 かたはら に子 こ 嶋寺の住僧 そう 報 ほ う 恩 おん 師の弟子に賢 けん 心といえる僧有。少年よりも出家して六時 じ 三昧 まい おこたらず、苦 く 修 しゅ 練 れん 行止 やむ ことなし。常に報音大士を信敬 けう し、 天 平 宝 字 四 年 庚 子の 比、 御 長 一 丈 八 尺 の 観 世 音 を つ く り、 并 四 天 王 の 像 を も 此 所 に 安 置 ち す。 然 と い へ と も 未 正 身 の 尊 そん 影 えい を 拝 はい せ さ る 故、 大 悲 願 を 発 おこし け り。 』オ 2 あ る 日 夢 ゆめ の 告 つげ を 蒙 かうふ り、 仍 て 宝 亀 九 年 戊 午卯 月 八 日 に 先 平 安 城 じやう に い た ら ん と て、 淀 川 迄 き た り 見 る に、 一 ツ の 支 派 を み 付 た り。 水 中 に 金 こん 色 一 す じ の 流 ながれ あ り。 頓 やか 而 水 源 けん を た づ ね 入 へ し と、 都 加 茂 川 に 来 り、 東 を さ し 谷 に 尋 し た ひ け る に、 山 城 愛 を 宕 たき 郡 こ ほ り 八 坂 の 郷 音 羽 川 の 水 上 ニ 至 る 所 に、 白 滝 たき 涌 ゆ 出 しゆつ す る 辺 ほ と り 岸 きし の 上 に 一 ツ の 草 そう 庵 あん 有。 内 に 白 はく 衣 ゑ を 着 き た る 老 ろう 翁 おう あ り。 賢 けん 心 向 むか て 曰 いはく 「い か に 誰 たれ 人 な ら ん 哉」 と 尋 たつね し に、 「我 われ 此 地 に 陰 いん 約 やく す る こ と』 ウ 2 す で に 二 百 余 よ 歳 さい 、 つ ね に 千 手 じゆ 千 眼 げん の 神 呪 じゆ を た も て り。 我 名 は 行叡 ゑい と い ふ。 汝 なんぢ を 待 こ と 久 し。 幸 さいわい 成 哉、 汝 来 れ り。 此 地造 ぞう 堂 の 霊 れい 場 じやう 也」 。 又、 庭 てい 前 の 株 ちゆ 枿 かつ を さ し て 曰「是 観 音 の 料 りやう 木 ぼく に て、 過 くわ 去 こ 狗 く 留 る 孫 そん 仏 の 時、 霊 木 千 仏 種 しゆ 摩 ま の 木 もく 槵 げん 子 じ を 植 うへ 、 其 種 たね 生 せい 長 し た る 古 こ 木也。我、是をもつて大悲 ひ の造 ぞう 材 さい に擬 ぎ すべしといへ共、未東州 しう に行をはたさざるの故、爰をしばらく去 さる へし。汝我にか わ つ て 此 庵 あん に 住 す へ し。 我 若 を そ く か へ ら ば、 』オ 3 汝 宜 よろしく い と な む べ し。 此 地 練 れん 若 にやく を 建 たつ る に よ し」 と 云 終 おはつ て、 東 を さ し て 行 玉 ふ。 賢 心 も 随 ずい 喜 き の 涕 なみた 袂 たもと を ひ た し、 追 つい 求 ぐ の 心 尤 切 せつ な り し か は、 期 ご を 待 て も た へ か ね、 則 庵 いおり を 出 て 東 の 方 を 尋 行 見 れ 共 し れ す。 夫 よ り 山 科 しな 東 の 峯 みね に 登 け る に、 一 つ の 履 くつ を ひ ろ ゑ り。 取 て 見 る に、 う た が ふ 所 も な き 居 こ 士 じ の 沓 くつ 也。 「扨 は 此 老 翁 おう は 大 悲 の 応 おう 現 げん な ら ん。 履 くつ を 遺 のこす は 其 迹 あと を し め す の み」 と 合 がつ 掌 しやう 作 さ 礼 れい し て、 本 の 庵 いおり に 帰 り、 遺 ゆい 戒 かい の 像 そう を 刻 きさまん と ほ つ』 ウ 3 す れ 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 45
共、 造 ぞう 功 の た く は へ な く、 三 衣 の 外 無 なし レ 資 たすけ 。 荏 じん 苒 せん と し て 年 月 を 経 ふ る 所 に、 先 此 山 に 堂 舎 しや を 建 ん と 欲 す る に も、 古 樹 しゆ 枝 し 葉 よう は び こ り、 し げ り 深 ふか く、 陰 いん 森 しん 日 影 かげ を も ら さ す。 旧 きう 苔 たい 路 みち を う づ み、 巌 かん 石 す る ど く そ ば だ つ て、 寸 地 を も ふ く る に 便 たより あ ら ざ る 故、 ひ め も す 患 うれう ふ る と こ ろ に、 あ る 夜、 □ をゝかせ □ をゝ □ あめ し て、 雷 らい の 音 山 鳴 なり 谷 応 おう じ て す さ ま じ か り し か、 東 しの 雲 ゝめ に 望 て 漸 やうやく 風 雨 う は や み て 常 の 如 し。 賢 心 竒 き 怪 くわい の 思 を な し 庵 を 出 て み る に、 』オ 4 大 樹 しゆ は 谷 に た お れ 岩 石 く だ け 落 おち て、 但 たゞ 堂 を 建 たつ べ き に 便 あ る 平 地 自 をのつか ら 出 来 た り。 傍 かたはら に 鹿 しか 共 死 しゝ て 有。 是 薩 さつ た の つ か わ し め な ら ん や と、 霊 れい 瑞 ずい の 信 しん や む こ と を 得 ず、 一塚 ちよ に き づ き 葬 ほ うむり た り。 今 鹿 か 場 ま 塚 つか 是 也。 然 る 所 に、 宝 亀 十 一 年 庚 申の 比、 近 こん 衛 ゑ 将 しやう 監 けん 坂 上 田 村 麻 ま 呂 ろ 、 有 時 鹿 しか を 猟 りやう し 鳥 とり 辺 べ 山 延 ゑん 年 寺 の 谷 を わ け 入、 滝 たき の 流 を し た ひ 爰 に 来 り、 一 つ の 草 庵 を 見 付、 希 け 有 う に お も ひ 尋 玉 ふ に、 賢 けん 心、 右 の こ と を 語 かたら れ き。 田 村 麿 し』 ウ 4 じ う の 物 語 を 聞、 感 かん 嘆 たん し、 造 ぞう 功 かう の 旦 だん 越 おつ な ら ん と 約 やく し て、 宿 所 に 帰 り、 妻 善 高 子 三善清継 之息女也 に 告 つぐ る。 「自 ら も と よ り 志 こゝろさし 有。 幸 さいわい な る か な」 と て、 夫 ふう 婦 ふ 一 心 に 感 かん 悦 し て、 則 自 じ 宅 たく を 移 うつ し て 寺 と な し、 皮 かの 霊 れい 木 を 切 て、 賢 けん 心 報 ほ う 恩 おん の 両 僧 共 に 千 手 千 眼 げん 大 悲 の 像 そう を 彫 ちやう 刻 こく し 安 置 ぢ せ し め 給 へ り。 其 後、 田 村 麿 上奏 そう し て 度 ど 者 一 人 を 申 給 り、 賢 心 を 度 と す 時、 改 あらため て 延 ゑん 鎮 ちん と 云 り。 仍 而 大 同 年 中 に 諸 堂 悉 成 就 しゆ せ り。 爰 に 又 桓 くわん 武 む 天 皇 延 暦』 オ 5 十 四 年 の 春、 東 海 よ り 夷 い 賊 そく 蜂 ほ う 起 き し て 来 る よ し、 都 へ 聞 へ け れ は、 頓 やか 而 退 たい 治 ぢ を 田 村 麿 に おゝす。 則 勅 ちよく 定 有、 征 せい 夷 い 大 将 軍 と 宣 せん 下 せ ら る。 是 に つ ゐ て 田 村 麿、 延 ゑん 鎮 ちん 僧 そう 都 に 語 かたり て 曰「我、 忝 かたしけなく も 勅 ちよく 命 を 承 うけ 、 今 度 夷 い 賊 そく を 征 せい し 申 ニ 付、 願 ら く は 貴 き 坊 の 法 力 りき を か ら ず ん は、 命 を は づ か し う せ ざ る こ と を 得 ん」 と 有 け れ は、 延 鎮か曰「心安く思召れよ。我、丹誠 せい をこらしめ大悲の威 い 力 りき をそはしめ奉りなん」と諾 たく す。時に夷 い 賊 そく の大将高 たか 丸といふ』 ウ 5 者、 は や 駿 すん 州 清 見 か 関 に 陳 所 を 構 かま ふ。 将 軍 し ば ら く 退 しりそき て 奥 州 を 保 たもつ 。 官 くわん 師 し 、 夷 いそ 賊 くの 奴 やつ 原 はら 、 鬼 き 神 の 如 く な る 荒 あら 武 者 と 相 戦 たゝか ふ 所 に、 官 くわん 軍 矢 や だ ね つ き た り。 い かゝせ ん と 案 あん 煩 しわつら ふ 所 に、何 いつ 国 く と も な く お さ な き 比 ひ 丘 く と 幼 をさなき 童 どう 子 し 二 人 来 り、 戦 せん 場 じやう に 立 ふ さ が り、 ゐ 捨 すた り し 矢 や を 悉 ひ ろ い と り、 官 軍 に あ た へ 給 ば、 将 軍 是 に 力 ちから を 得、 終 つい に 高 丸 を 射 い を と し、 神 か く ら 楽 岡 に お ゐ て 首 くひ を 討 うち 取 た り。 将 軍 恐 きやう 悦 し、 則 首 を 帝 てい 都 と へ 登 の ほ し』 オ 6 玉 ひ け る。 頓 而 将 軍 延 鎮 に あ ひ 玉 ひ、 「貴 き 坊 の 修 しゆ す る 所、 い づ れ の 法 ぞ こと く く こと く 46
や。偏に妙助 ぢよ 瑞 ずい 験 げん 、只 たゝ 事 ニ あらず」と有しかば、延鎮の曰「我法力の内に、しやうぐん地蔵、しやうてき毘 ひ 沙門の法有。 我、 此 二像 そう を 造 つくつ て 供 く 修 じゆ す る の み」 と 有 は、 将 軍 竒 き 異 い の 思 ひ を な し、 則 御 み 戸 と 帳 を 明 あけ て 作 さ 礼 有 に、 脇 わき 士 し の 二尊 そん に、 或 あるい は 矢 や の あ と 刀 かたな の 症 きつ 所々に み へ、 ま た 泥 どろ 土 御 み 足 あし に 付 た り。 将 軍 大 に を ど ろ き て、 扨 は 戦 せん 場 ぜう に て 二 人 の 小 童 とう 子 し ハ 』ウ 6 此 二 尊 に て ま し ま せ し よ と 敬 きやう 礼 し て、 こ の 事 を 帝 みかと へ 奏 そう し 奉 り つゝ、 延 暦 十 七 年 七 月 二 日 に 改 て 伽 が 藍 らん 悉 と 成 就 な し て、 本 尊 を 入 奉 られけり。則征 せい 夷 い のために造 つく る所の二尊を脇 わき 立とし玉ふ也。誠に此二仏もわけて霊 れい 験 けん 一じるしとなり。凡清水寺建 こん 立よ り已 この 来 かた 元文三年 戊 午迄星 せい 霜 ぞう 九百六十年に及べり。 ○是より清水境内有之寺社霊仏道しるへをしるす。 』オ 7 〈 7ウ・ 8オ全面絵図「六波羅野 并 清水 境内 」〉 清水境 けい 内 たい 寺社 旧 きう 跡 せき 由 ゆ 来記 一来 らい 迎 かう 院 是 経 書 かく 堂 と い え り。 三 年 坂 の 上 ニ 有。 本 尊 聖 徳 太 子 自 作 の 像 な り。 住 僧、 常 に 経 木 に 経 を 書 しよ す。 信 施 せ の 志 こゝろさし 有 は、 則 小 せう 卒 そ 都 と 婆 は に 霊 れい 名 を 写 うつ し、 是 を さ づ く。 か た は ら の 水 砵 ばち に 向 ひ 法 名 に 水 を た む け 帰 る。 今 尚 なを 奥 おく 院 に 水 向 余 た 有 て、 こゝに 集 あつま る。又、北 ほく 斗 と 堂といふはいにしへ此辺に有し由。今其所を失 しつ せり。 』ウ 8 ○三年坂 此坂、大同 とう 二年に清水寺建立有て、同三年に此路 みち を開きし故なりといえり。また、上に子安の塔有ゆへ、産 さん 寧 ねい 坂ともい ふよし。 こと く 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 47
○ 轟 とゝろき の橋 此石はし、三年坂の下にかゝれり。又、ふくろ水の 傍 かたはら なる橋をも云也。 一法成寺 是世にうば堂 とう といふ。経書 かく 堂の向ひ也。本尊愛染明王。うばの像有。弘法大師作 と 云り。奪 だつ 衣 ゑ 婆 ば の像 さう なり。 』オ 9 一真福寺 当 時 本 尊 は 丈 六 の 大 日 如 来 像。 弘 法 大 師 の 御 作 也。 同 西 の 方 ニ 八 角 に 造 た る 輪 りん 蔵 そう 有。 内 に 五 部 ぶ の 大 乗 ぜう 経 を 納 をさ む る と 也。上下軸 ぢく にて八角、一方には六字の名号有。江州坂本西教 けう 寺真 しん 盛 せい 上人の筆跡 せき 也。廻りに千手観音みだ来迎の絵有。参 詣の人、常に罪 さい 滅 めつ 後 ご 生 しやう の為、是をまわす事也。 一宝徳寺 北側也 本尊弥陀如来。行基菩薩の作。浄土宗を』 ウ 9 勤 ム 。清水境内惣堂也。 一仲光院 本尊随求菩薩。愛染明王を安置 す 。南側也。 一地蔵院 当 院 本 尊 如 によ 意 い 輪 りん 観 音 の 像 也。 子 安 の む か ひ 北 側 かは 也。 い に し は 奥 院 の 辺 り に 有 し か、 寛 くわん 永 六 年 の 焼 せう 失 しつ に かゝり、 其 後 し ゆろう堂の後に写 うつ す。凡二百年余 よ に及へり。本尊御長三尺余、春日の作也。むかし当山に妙心尼とて有。不断 たん 念仏おこ た ら す、 草 庵 を 構 かまへ 住 ちう 居 す。 身 に は 麻 あさ の 衣 紙 かみ ふ す ま』 オ ⓾ な ら て 用 ひ す。 一食 しき 調 てう 斎 さい に し て、 米 べい 銭 を 貯 たくはへ ず。 念 仏 の お こ た る ひ ま な く て 居 り。 折 ふ し 大 内 に 通 ひ け り。 此 本 尊 い つ く よ り か 持 来 り し か、 常 に 信 心 不 あさ 浅 からす 、 香 かう 花 け 灯 とう 供 く 養 し け り。 終 に 余 よ 命 限 かきり 有 て、 病 こ と 有。 七 日 が 程、 一 心 不 乱 らん 念 仏 し け る か、 本 尊 ひ か り を 放 し 妙 心 を て ら し 玉 ふ と ひ と し く 合 がつ 掌 しやう し、 七 48
十三才にしてりんじう正念に往生をとげけるとなり。其後、しゆろう堂のうしろより今此ところにうつせりと也。 』ウ ⓾ ○馬とゝめ 一楼 ろう 門 仁王門也 是あうんの仁王を安置 ス 。又、一名那 な 羅 ら 延 ゑん 堅 けん 固 こ と称す。一方を密 みつ 迹 しやく 金 こん 剛 こう 。 一犀 さい 門 是多 た 門天・持 ぢ 国天を安しす。此所、風景 けい 詠 なかめ 第一の所也。門に犀をほり物にす。右楼 ろう 門の南也。 一春日社 和 州 南 な 都 ら 三笠 かさ 山 之 四 所 明 神 を 勧 くわん 請 しやう し、 此 山 に あ が む 也。 当 山 は 南 都 一 乗 院 の 門 跡 せき 寺 じ 務 む た り。 法 ほ つ 相 そう 宗 と い へ 共、 今 寺 僧 真 しん 言 こん を勤 つと ム 。』オ ⓫ 泰 たい 産 さん 寺 当 とう 寺 は 是 子 こ 安 の 塔 とう ト 云。 然 る に 此 本 尊 観 世 音 菩 薩 は 人 皇 四 十 五 代 の 帝 聖 せう 武 む 天 皇 の 御 后 きさき 光 明 皇 こう 后 ぐう の 安 あん 産 さん を、 天 照 せう 太 神 に 祈 いのり 玉 ふ に、 あ る 夜、 太 神 宮 告 つげ て 曰「此 本 尊、 昔 むかし 、 仏 母 も 摩 ま 那 や 夫 ふ 人 の 守 本 尊 也。 今 帝 な け き に よ り 幸 我 朝 てう に 渡 わた り 玉 ひ し を、 皇 こう 妃 ひ の難 なん 産 さん をすくわしめんため、尚又後世に一切衆生難 なん 産 さん の守 しゆ 護 ご 仏 ふつ とせん事しかるべし。尤三重の塔を一宇建、此本尊 を 納 む へ し 」 と 告 つけ た ま ゑ ば 、 夢 さ め け る に 、 御 ま く ら の 上 に か の 本 尊 お は し ま し け り 。 其 後 、 皇 こう 后 くう 安 産 有 て 、 満 願 成 就 ニ 付、 天 平 二 年 ニ 山 城 国 愛 をた 宕 き 郡 八 坂 郷 轟 とゝろき 里 に 塔 を 建 立 し 玉 ひ、 寺 号 を泰 たい 産 さん 寺 と 称 し、 か の 本 尊 を 納 玉 ふ に、 折 ふ し 有 夕 暮 に、 若 にやく 僧 千 手 大 悲 の 霊 像 を 負 おい 来 り 曰「当 寺 宝 塔 に 移 うつ し 奉 り 給 ふ 霊 尊 は、 壱 寸 八 ぶ の 小 像 な れ は、 結 けつ 縁 えん の も の 拝 をがみ に く し。 我今持来りし霊像の御胸 むね の内に納玉へ」と云、何方へ行とも見へすさりにけり。依てかの小像は腹 ふく 内 ない に納奉り安置し玉 ふ 。』ウ ⓫ 仍 而 平 産 を 祈 いのる る に あ ら た な る こ と、 明 あきらか 也。 然 は 此 塔 とう は 清 水 建 こん 立 よ り 七 十 六 年 已 い 前 ぜん の こ と な り と ぞ。 又、 田 村 麿 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 49
高子の平産 さん を此観音 ニ 祈 いのり 玉ひしと也。 鹿 しか 場 ま 塚 つか 是 右 伝 記 に の す る 処、 延 鎮 僧 都 死 た る 鹿 を 此 所 に ほ う む り し 所 也 と 云 り。 又、 坂 上 田 村 麿 まろ 猟 りやう せ し 鹿 を 此 所 に 埋 うづま れ し と も云伝へり。 鐘 しゆ 楼 ろう 堂 是 鹿 しか 場 ま 塚 の 傍 かたはら に 有。 此 鐘 かね 梵 ぼん 声 じやう に し て、 ね ふ り を さ ま せ り。 晩 いり 鐘 あひ の ひゞき 尤 し ゆ せ う 也。 謡 うたひ に も 清 水 寺 の か ね の 声 こゑ 諸 行 無 む 常 しやう といへるもことわりぞかし。 竹林院 是犀 さい 門の下に本尊聖天を安置し奉る。此堂近世建るところなり。景 かけ 清か守本尊有之。又、春日の社傍にも古き石塔に観 音有之。 轟 とゝろき 坊』 オ ⓬ 是当山目 もく 代慈 じ 心院と号 がう す。むかし轟の橋傍に有し故、名付たりと也。近世当院に淡 あは 嶋明神又随 ずい 求 ぐ 大菩薩の像 ぞう を安置せり。 経堂 此堂に中尊釈迦如来、脇 わき 士 し に文殊 しゆ ・普 ふ 賢 げん の像を安置す。右方に普 ふ 大士 し の像、左方に三十三体の観音の像有。一切経を庫 こ に納有之所なり。 三重塔 本尊 東 ひかし 向に大日如来座す。西の方は釈 しや 迦 か ・文殊・普賢の絵 ゑ 像 そう を置たり。 50
田村堂 御 図 子 の 内 に 五 尊 そん 有。 中 ニ 田 村 麿 の 像、 前 東 の 方 鈴 すゞ 鹿 か 御 前、 西 聖 徳 太 子、 後 の 方 東 に 行 きやう 叡 ゑい 居 士、 同 西 方 延 鎮 僧 都 の 像 有。 夫将軍田村麿利仁は伝云。田村麿は大納言苅田丸の二男にして、人皇五十二代嵯峨 か 天皇弘仁元年九月、大納言 ニ 任 ス 。兼 右 大 将 た り。 身 の 長 五 尺 八 寸 有。 身 を 重 をもく 軽 かろく す る ニ 、 二 百 斤、 六 十 四 斤 ニ せ り。 い か れ る 時 は 猛 まう 獣 も お そ れ、 ゑ め る 時 は み と り 子 も し と ふ。 終 ニ 大 納 言 正 三 位 ニ 経 へ 上 り、 弘 仁 二 年 五 月 廿 三 日、 寿 五 十 四 才 に て 薨 こう す。 山 科 栗 くる 栖 す 野 ニ 葬 そう す。 元 来 先 祖 後 こ 漢 かん 霊 れい 帝 子 孫 そん 也。 従 しう 二 位 に て 贈 官 有 て、 挙 を 得 た る 人 也。 官 社 江 州 土 山 ニ あ が む。 正 一 位 田 村 大 明 神 ト 云。 今 元 文 三 午 年迄凡九百四十三年 ニ 及べり。 』ウ ⓬ 鴟 ふく 鴞 ろ 水 傍 かたはら 門 ニ 広 こう 目 もく 天・増 ぞう 長天の像有。犀 さい 門共 ニ 四天也。 鳥 とり 居 い の 傍 かたはら に 有。 手 て う づ 洗 砵 ばち の こ と 也。 石 の 水 砵。 筧 かけひ の 水 自 をのつ ら 涌 わき 出 る な り。 い に し へ よ り 有 し は、 む か し 千 の 利 り 休 きう と 云 る 者、 是を取て我茶 ちや 寮 しつ の手洗ふ石 いし 盆 ほ ん となしけり。依 レ之かさねて新につくり、替 かへ 根 ね 石にふくろふを彫 ほ り 付たり。 弁 へん 才天社 鳥居北の方に小池を構 かま へ安す。又、訶 か 帝 てい 母 ほ 堂。此両堂近世建立也。 朝 あさ 倉 くら 堂 内ニ本尊、東ノ方ニ大黒天又千体仏、西ノ方ニ三十三体の観音有。 此堂には、本尊御長三尺の千手観世音・地蔵・毘沙門天を安置す。是はむかし越前の住人に朝倉弾 だん 正 せう 貞 さた 景 かけ と云人有。常 に観音を帰 き 依 ゑ する事甚。然るに往 いに 古 しへ 当山の額 かく を論 ろん ずること有て、南都山門ととうぜうに及びしかは、終 つい に山門の衆 しゆ 徒 と 諸 堂 ヲ 焼 やく 。 爰 に お ゐ て 貞 さた 景 かけ 是 を な げ き、 信 しん 仰 かう な る に よ つ て、 本 堂 を 再 さい 興 こう せ り。 其 砌 みきり 本 尊 を 拝 はい せ ん と 誓 ちか ひ て 御 づ し の 戸 と を 開 き け れ は』 オ ⓭ 忽 たちまち 両 眼 がん を し ゐ て げ り。 貞 景 一 心 に 罪 ざい 障 しやう を さ ん げ し て い わ く「誠 や 此 尊 容 は 余 よ 仏 と か わ り 三 十 三 天 の 密 みつ 法 ほ う を も開きたまはざるに、我等いやしき身を以て尊 そん 体 たい を開帳せしこと、くやみても猶あまり有」とて三度作礼して、頓 やか 而千 り 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 51
手千眼の像をうつしきざみ、此堂を建、本尊をすへけるに、是迄目しゐたるかはたとひらき明かに成けれは、弥信心い やまさりて尊 そん 敬 けう おこたることなし。そのゝち寛永六年に焼 せう 失 しつ 有之て、此堂も共に焼たり。然るに堂の地中に石のからひ つ を 堀 ほ り あ て た り。 人 皆 ふ し き の 思 ひ を な し、 ひ ら き 見 る に、 黄 わう 金 の 観 音 の 像 有。 又、 鐲 とつ 古 こ 、 花 皿 さら も 有 け り。 其 後、 寛 くわん 永八年 ニ 堂 とう 舎 しや 建 シ と也。右観音、地主 しゆ 社 うし とら 方 堂ヲ建 安置ス 。 阿弥陀像 本堂西に内陳へ入所に有。本尊行基作立像也。世に塩 し ほ 断 だち のみたと称しぬ。 毘沙門天 本堂の内正面の東の方に、御長二尺ばかりの毘沙門天の安置す。 』ウ ⓭ 本堂 是 伝 記 前 まへ に 見 ゑ た り。 中 尊 ぞん 御 長 たけ 八 尺 千 手 しゆ 千 眼 けん 観 世 音 菩 薩。 延 ゑん 鎮 ちん 僧 都 づ の 作。 中 尊 両 りやう 脇 わき に は 二 十 八 部 ぶ 衆 しゆ の 像 を 安 置 し、 東 方 ニ 脇立 勝 しやう 軍 くん 地蔵、西方 ニ 脇立 勝 しやう 敵 てき 毘 ひ 沙天を安置 ち せり。其外くはしき事前に出たり。 後 こ 門 本堂うしろの方也。東方 ニ 多門天有。此所鞍 くら 馬 ま の毘沙門日々影 よう 向 かう の場也。西 にし の方の間 ま ニ は当山地主権現の神 み 輿 こし を入奉る。 うしろ堂の散 さん 銭箱 ヲ 参詣人ひたとたゝくこと有。因 いん 縁 ゑん いかゞあらんか、世の 諺 ことわさ に云ることとるにたらす。 地主大権現社 是 当 山 の 地 主 しゆ 神 に し て 鎮 ちん 守 じゆ た り。 御 本 社 そ さ の を の 尊 みこと 御 子 大 己 あな 貴 むち 命 ヲ 祭 れ り。 本 地 文 殊 菩 薩 御紋 ウサキ 。 神 事 四 月 九 日。 往 いに 昔 しへ 御 旅 は、 麩 屋 町 五 条 の 北 ニ 有 し と 也。 祭 礼 に は、 神 み 輿 こし を 経 書 堂 の 前 に 暫 しはら 居 くすへ 、 夫 よ り 五 条 坂 六 原 野 八 坂 の 辺 を 廻 り て』 オ ⓮ 本山にくはんぎよなし奉る也。近 きん 世旅 たひ 所を鳥辺山千日林にしはし有てやみぬ。 52
宝珠院 地主社東奥ニ有 此観音は、朝倉堂類 るい 焼 せう の時、地より堀 ほ り 出せる本尊也。此所に安置す。 盲 め 目 くら 石 地主社左右 ニ 立 リ 。目をふさき、石より石へ行当らんとしても違ふこと、 怪 くわい 石 せき 也。俗説有之。 釈迦堂 是 阿 弥 陀 堂 北 な る 堂 也。 本 尊 釈 迦 の 像。 右 に 普 大 士、 左 に み た の 像 有。 又、 傍 ニ 十 一 重 の 石 塔 有。 是 を 竜 りう 塔 とう と い へ り。 寛永十二年建之。 阿弥陀堂 寺 号 を 滝 りう 山 せん 寺 と い え り。 本 尊 丈 六 の 弥 陀 を 安 置 す。 伝 つたへ 聞、 円 光 大 師 此 地 に お ゐ て 念 仏 の 道 場 しやう と し 給 へ る と 也。 右 の 方 ニ 円 光 大 師、 左 方 ニ 地 蔵 菩 薩 を 安 す。 近 世 廿 万 日 の 廻 向 を 修 しゆ し、 又、 夫 よ り 開 白 有。 義 き 瑞 ずい 師 導 とう 師 た り し 也。 』ウ ⓮ 水 手 む 向 け 所、 此処に有。経書堂のことく、経木に戒 かい 名 めう を写 うつ し水をそゝき拝す。 奥院 此地則往 いに 古 しへ 行叡 ゑい 居士草 そう 庵 あん の跡也。延鎮僧都、居士の跡に居 きよ 住 ちう して有しに、将軍田村麿にあひ旦 だん 契 けい をなしけるも、此所な り と そ。 延 鎮 居 士 の 跡 を し た ひ、 山 科 音 羽 川 の 水 上 に 尋 ね 入、 峯 みね に て 履 くつ を ひ ろ い、 是 誠 まこと に 居 士 は 観 音 の 応 おう 現 けん な ら ん と て、則履 くつ を持かへり、此辺に埋 うつ み古 こ 墳 ふん を 構 かまへ 、朝 てう 暮 ほ うやまい奉られけるとそ。 本尊座像の観世音ぼさつ。脇に二十八部衆を並 なら へり。右の方地蔵菩薩、左の方に毘沙門を安置す。近世十一年已前、御 戸非 ひら を開、諸人群 くん 拝 はい しけり。或曰、主 しゆ 馬 め 判 はん 官 くわん 盛久、観音の利生にあひし為 ため 二厚 こう 恩 おん 一堂 とう を建 こん 立 りう せし共云。 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 53
夜叉 しや 神像 傍ニひんづるの像有 右奥院堂の前、南のかたに、宮の内有。世俗結 むす ふの神と唱 とな ふは、 誤 あやまり 可 レ成 なる 』オ ⓯ 瀧之宮 此御神は、龍王を勧請して龍王の宮と云り。世 ニ 牛 ご 王 わう 姫 ひめ の宮也といふは非 ひ 也。 音羽滝 たき 清水ノ滝ヲ読る 名にたてる音羽の瀧も音にのみきくより袖はぬるゝ物かは 有家 同滝をよめる をかみするかために妹 いも か見られつゝいつらの心きよ水のたき 俊恵 西国順礼うた まつかせやをとはのたきはきよ水のむすふこゝろはすゝしかるらん 此 三 筋 の た き 清 せい 冷 れい と し て、 多 た 少 な く 濁 にご る こ と な し。 誠 に 大 悲 の 名 水 な り。 世 俗 曰、 是 山 科 音 羽 川 の 流 なかれ 、 村 口 に て か は き 水 つ き て 地 中 を くゝり へ て、 爰 ニ 出 る と 云。 当 山 に 祈 き 誓 せい し け る 男 女、 病 ひやう 人 狂 きやう 人 の や か ら、 本 堂 東 の 間 ニ こ も り 居 る こ と、或七日か内、瀧にくたり水にひたる。奥院本堂を廻 まは りて拝 はい する事三十三度にして、念 ねん 願を祈 いの る。是を瀧もふてとて、 尓今絶 たゆ ることなし。 』ウ ⓯ 音羽山 清水音羽山ヲ読ル 秋かせのふきにし日より音羽山岑の 梢 こすへ も色付にけり 貫之 当山林木さかしくしけり桜花をゝし。秋は万木紅 こう 葉 よふ して詠尤よし。名所記 ニ 曰、山城 ニ 音羽と称する所三つ有。山科牛 うしのを 尾 の流、北白川山中の流、今清水也。 山城名 勝志曰 音羽山大津道追 おい 分 わけ の南にあたつて高き山有。則牛尾の北也。是を云り。 坊舎 当山寺 領 りやう 百三十四石 ト 有。 執行 宝性院 本願 成就院 目代 慈心院 是轟坊也 六坊中 延命院 義乗院 光乗院 智丈院 円養院 金蔵院 54
此分清水犀 さい 門のしたに有。同鳥辺山大谷なとへ行細 ほ そ 道有。是延年寺辻子 ト 云。 清水十景 けい 古崖懸泉 春巌開花 音羽畳 霊鷲疎鐘 洛陽万戸 鴨川一帯 東郊烟雨 西門遠眺 岩嶺晴雪 亀阜暮 』オ ⓰ 地主 桜 さくら 哥ニ音羽の桜を よめり花数多也 けふこすは音羽の桜いかにそとみる人毎 こと にとはまし物を 権中納言 俊忠 すべて本堂の廻り花をゝし。地主の社 辺 ほ とり もあまた也。熊 ゆ 野 や の 諷 うたひ にも地主権現の花の色といえるも、皆此辺の花成へし。 惣 じ て 花 は 都 の 名 物 に て 、 所 々 に 名 花 を ゝ し 。 謂 ル 嵐 山 さ か 大 ゐ 川 山 さ く ら 也 仁 和 寺 お む ろ 也 西 行 桜 ま つ の お の 北 ニ 有 法 輪 寺 さ が の こ く そ う 泰 たい 山 木 ほく ひ が し 山 高 台 寺 花 之 寺 に し山 勝 持 寺 くらま山 北山 近世神社仏閣 かく 新に植 うへ て詠たへなる地所々 ニ をゝし。古来の花を爰に沙汰 ス 。 行 ぎやう 叡 ゑい 居士履 くつ 之古 こ 跡 せき 山科の東北に牛 きう 尾 び 山法 ほ う 厳 ごん 寺 じ と云寺有。行叡居士、此峯 みね に我はける履 くつ をのこし留 とめ 給ふ地也。延鎮此所にてひろい帰り玉ふ 也。京より行程二里斗也。此山の本尊千手観世音、脇立不動・毘沙門天也。天智 ち 天王御作 さく と云り。仍而此所をさして清 水 奥 院 と い ふ。 山 の 谷 に 流 るゝ川 を 音 羽 と 云。 山 科 の 大 宅 やけ の 辺 在 さい ち か く』 ウ ⓰ 迄 水 流 て、 是 よ り 水 か れ て な し。 地 に ひ け るやうにみゆ。右にのふることく、清水のたきゑながれ出るなといふこと 諺 ことわざ にさたす。扨寺の額 がく は弘法大師筆 ひつ 跡 せき と也。 廃 はい 壊 ゑ 年 とし ふ る し。 近 世 広 ひろ 瀬 せ 氏 某 なにかし 再 さい 興 こう 有。 南 な 都 ら 招 しやう 提 だい 寺 の 安 養 よう 院 実 じつ 存 中 興 こう 第 一 世 と す。 山 科 小 こ 山 村 と い ふ 所、 白 石 明 神 同 白 石 庵 と て 有。 是 よ り 登 の ほ る ほ と 廿 四 町 有。 又、 此 山 に 金 山 堀 ほ り し 跡 二 ケ 所 有。 経 岩 いわ 名 石 也。 後 うしろ の 高 き 山 に の ぼ り 見 れ は、 江 みつ 湖 うみ の 風 景 けい 目 の し た に 見 ゆ。 然 れ と も 常 に 都 みやこ の 参 さん 詣 けい 稀 まれ に し て、 堂 舎 しや も あ れ 甍 いらか 破 やふれて 霧 きり 不 ふ 断 だんの 焼 かうを レ香 たき 、 扉 と ほ そ 落 おちては 月 つき 常 しやう 住 ぢうの 挑 と ほ しみを レ 灯 かゝく 。 旅 りよ 賊 ぞく のやどりともなりしことゝかや。又、近世時 は や り 行して諸堂を修 しゆ 覆 ふく して参詣も有之事也。 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 55
瀧之下 本 尊 虚 こ 空 く 蔵 そう を 安 置 す。 寺 を 南 蔵 院 と い ふ。 慶 けい 養 よう 庵・ 慶 閑 かん ・ 栄 春・ 教 海、 此 処 座 さ 敷 しき を 借 か ス 寺 也。 霊 りやう 仙 せん ・ 円 まる 山 に 同 じ。 瀧 の 下 よ り 歌 うた の 中 山 清 閑 がん 寺 へ 三 町 程 有。 又、 本 国 寺 山 小 町 寺、 此 辺 也。 小 松 谷 も 近 シ 。 東 へ し る 谷 越・ 山 科・ だ い こ・ 大 津道也。 』オ ⓱ 今 此 一 冊 は 、 鄙 いなか の 土 み や げ 産 に も と 、 絵 ゑ 図 づ を 以 導 みちびき 、 案 あん 内 の 便 たより と す 。 諺 ことわざ に 言 いへる 事 、 ま ゝ を ゝ し 。 仍 而 真 しん 偽 ぎ を ゑ ら ひ ち り ば む る 也。 奥 おう 儀 ぎ は 寺々縁 ゑん 起 ぎ に 順 したが ふ べ し。 然 る に、 利 生 の 数 かす 々、 世 に し れ る 事 は は ぶ き、 ひ と へ に 遠 ゑん 近 きん ま で 尊 そん 信 しん あ ら ん こ と を願 ねが ふのみ尓云。 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼 時 元文第三 戊 午歳二月 東 京城下五橋 嬰子 愚筆之 藤 屋 忠 兵 衛 板 袋 屋 五 兵 衛 元 梅村弥右衛門』 ウ ⓱ ひ な ま こ と い つ は り 56
影印『音羽山花之台』 (絵図十面) 2オ 1ウ 3オ 2ウ 元文三年の清水寺縁起Ⅰ 57
4オ 3ウ
5オ 4ウ
6オ 5ウ
7オ 6ウ
元文三年の清水寺縁起Ⅰ 59
8オ 7ウ
9オ 8ウ
10オ 9ウ
11オ 10ウ
元文三年の清水寺縁起Ⅰ 61