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Kobe University Repository : Kernel

Title

照葉樹林文化論と雲貴高原東部の少数民族の生業形態

Author(s)

田畑, 久夫

Citation

兵庫地理,35:43-58

Issue date

1990-03

Resource Type

Journal Article / 学術雑誌論文

Resource Version

publisher

URL

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/90002369

(2)

照葉樹林文化論と雲貴高原東部の

少数民族の生業形態

1. 問題の所在 第二次世界大戦後,わが国における代表的な学 問的成果の lつに,照葉樹林文化論がある。照葉 樹林文化論と総称されている文化論は,その西端 はブータン・ネノぐーノレから東端は西日本にまで達 する広範囲の地域にわたり,アラカシ(Querus glauca) を代表とする常緑のカシ類,ツブラシイ (Castanopisis cuspidata),タブノキ (Machilus thunbergii) , クス(Cinnamomum camphora ) , ツバキ(Camel1iajaponica) などで構成される, 東アジアにみられる常緑広葉樹すなわち照葉樹林 を中心とした植生が帯状に分布している,という 生態学的特徴に,まず,注目する。そして,これ らの自然地理的条件の下に居住する集団は,民族 ・言語などに関して,その系統が異なる場合もあ るが,1)野生種のクズ,ワラビ,マムシグサ類のイ モや,堅果類の水晒しなどアクや渋抜きの技術, 茶の葉を加工して飲用するという慣行,鵜飼い, 絹,麹を使用した発酵酒,漆器,モチ,ナレずし, 味噌,納豆"など多種多岐にわたる共通の文化や生 活様式(genrede vie)が存在するという作業仮説 であるO このような特色を有する照葉樹林文化が,日本 固有の伝統文化を考える場合,その基層(base)と なるものであるとみなすのである。とはいうもの の,わが国では,とりわけ近年著しく開発あるい は植林が進展し照葉樹林文化の基盤とでもいう べき照葉樹林は,例えば,奈良市春日神社の裏山 などごく特定の空間を除いて,ほとんどその原型 を残していない。したがって,現時点においては, 照葉樹林文化の実態把握は非常に困難であるとい わざるをえない。かかる意味からも,照葉樹林帯 とほぼ同様の自然地理的条件を満たしている他地 域との比較研究が大いに切望されるのであるO す なわち,これらの地域での現状分析を通じて,か つてのわが国の照葉樹林文化を類推しそのこと によって, 日本固有の伝統文化の基層文化(Basic

田 畑 久 夫

culture)2)を抽出しようとするものである。 かような理論的枠組によって設定された作業仮 説である照葉樹林文化論は,現在のと乙ろ作業仮 説であるが故に,以下の点に代表されるような問 題点も内包している。その第l点は,従来より最 も典型的な照葉樹林文化センターとみなされてい

た「東亜半月弧/~と称されている地域は,該当す

る諸国の外交政策上の問題などで,外国人研究者 がフィールドサーヴェイを実施する乙とがほとん ど不可能な地域が大部分であった。したがって, 作業仮説の典型的な地域に関する資料は詳細なも のが少なし照葉樹林文化に関する具体像の明確 さに欠けるといううらみがあった。 第2点としては,照葉樹林文化論のみの分析で, 日本の基層文化の全体像を把握し,理解可能かと いう問題である。周知のように,東日本一帯を中 心P:,生態学的にいえば‘, ミズナラ(Quercus crispula) を代表とする落葉広葉樹いわゆるナラ 林帯が卓越しており,それを基盤あるいは根底と していた文化つまりナラ林文化も,わが国の基層 幻ヒを号察する場合,分析視野以れなければな らない。 以上の2点に大きく要約される問題点を内包し ている照葉樹林文化論であるが,本稿では,上述 の第l点を少しでも解明すべく,まず照葉樹林文 化論の歴史を辿り,次いでその問題点を指摘する。 その後,

I

東亜半月弧」の東端に位置する雲貴高 原東部に居住する少数民族一一トン・ミャオ・ヤ オの諸族ーの主として生業形態を,フィールド サーヴェイによって得られた資料により,具体的 に分析・検討を加える。なお,問題点の第2に関 しては,他日,稿を改めて論じる予定であるO 2. 照葉樹林文化論の原段階 照葉樹林文化論の概要は,前項で略述したが, かかる立場を主張する研究者間でも,細部に関し ては完全な一致をみるに到らず,乙の点は作業仮

(3)

43-説であるが故に当然の乙とかも知れないが,将来 大幅な変更がみられるかも知れない。またI

I

民 族皐研究

J

誌上での論争に代表されるように,学 会においても評価が分かれている?このように現 在でもなお流動的な要素を内包しているが,現時 点までの成果を中心に論じていきたい!) 照葉樹林文化論の提唱者は,中尾佐助で、ある? すなわち中尾は,世界の農耕文化を包括的に把握 しようとするために,根栽農耕文化,サバンナ農 耕文化,地中海農耕文化新大陸農耕文化の

4

類 型に分類した?その上で,照葉樹林文化を,サト ウキピ・タロイモ・ヤムイモ・バナナなどの起源 地とみなされているマレ一半島起源の根栽農耕文 化と非常に関連をもっ文化とみなし 「ウビ農耕 文化(根栽農耕文化).Jの「温帯(北方)展開型」 と名付けたのである?乙乙で特に注目すべき点は, 中尾によれば,照葉樹林文化はあくまで根栽農耕 文化の副次的な農耕文化であるというとらえ方で ある。と乙ろが,その後,中尾は,新しく収集さ れた種々の資料の分析から 従来の立場とはまっ たく逆に,根栽農耕文化は照葉樹林文化の「南方 展開型」で、あると主張しだしたので、ある:。つまり 換言すれば,照葉樹林文化論の方が根栽農耕文化 の成立に多大の影響を与えたものであるとみなす 第

1

表 照葉樹林文化の農耕方式の発展段階 1.野生採集段階 ナット〔クリ・トチ・シイ・ドングリ・クJレミ〕 野生根茎頬〔クズ・ワラビ・テンナンショウ〕 11.半栽培段階一品種の選択・改良はじまる。 クリ・ジネンジョ?・ヒガ「ンノイナ 皿.根栽植物栽培段階 サトイモ・ナガイモ・コンニャク 焼畑〔ブッシュ・フアロー〕 lV. ミレッ卜栽培段階 ヒエ・シコクエ・アワ・キビ・オカボ〔グラス・フアロー〕 西方高文化の影響化に成立

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.水稲栽培段階

イネ水田栽培・謹概その他の施設・永年作畑 〔出所〕佐々木高明(1982)

r

照葉樹林文化への道一 プータン・雲南から日本へ』日本放送出版協会 (NHKブックス p.29表1-1より引用。 注)本表は,中尾佐助原案の内容を佐々木高明が表に したものである。 わけである。かかる理由としては,照葉樹林文化 帯にみられるプレ農耕段階が水晒しなどの相当 に高度な食料加工技術の体系を開発していたらし い,という事実にまず注目する。一方,照葉樹林 文化帯の南方に位置する根栽農耕文化帯には,照 葉樹林文化帯ではみられないタロイモ・ヤムイモ などのイモ類が豊富に野生しているので,照葉樹 林文化帯で開発された高度な食料加工の技術の体 系が,南側に伝播し,野生種のイモ類の栽培化つ まり根栽農耕文化の成立に影響を及ぼしたと唱え るのである。かように主張する乙とによって中尾 佐助は,以前に提唱した照葉樹林文化の発展段階 説

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第1表)では,自己矛盾に陥いる乙とになっ た。すなわち,当初においては,第1表の皿根栽 植物栽培段階でサトイモ・ナガイモなどのイモ類 を主作物とする根栽栽培というステージを想定し, 乙れが根栽農耕文化からの影響を多大に受けてい ると考えたのであるoそ乙で中尾は,新説を展開 したシンポジウムの席上において,討論者である 上山春平,佐々木高明の意見を受け,

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段階に想 定していた根栽植物栽培段階を削除するととにし た。さらに両者からI II段階に想定した半栽培段 階は,食料加工技術の著しい発達,ならびにそれ に伴なう野生植物の選別の強化など,たんなる野 生採集とは異なる形態であるとも考えられるので あるが,少なくとも栽培技術の面からは野生採集 と根本的な区別ができないので,あえて独立した ステージを設立しなくてもよいのではないか、と の指摘も受けるので、あるアとりわけ,前者すなわ ち照葉樹林文化における根栽植物栽培段階の削除 は,照葉樹林文化論の枠組を考える場合,あるい は日本の基層文化の特質を解明するうえでも重要 な転換点であるとみなされるので,主として佐々 木高明の見解定依拠しつつ論じてみよう。 佐々木は,照葉樹林帯の文化発展のプロセスの 中に,典型的な根栽農耕文化の段階,つまりイモ 類やバナナなどの根栽作物のみを栽培とするよう な農耕段階が存在しなかった理由を次のように考 えている。一般に熱帯の地域では,高温多湿とい う非常に苛酷な自然条件のため,その条件に最適 の栽培作物を主として栽培する農耕が成立する。 しかしかような作物が成育できない「冬

J

をも っ照葉樹林帯では,熱帯系のタロイモ・ヤムイモ 類の中から,例えばサトイモなどの「冬」に耐え

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-44-第2表 照 葉 樹 林 文 化 の 発 展 段 階 名 称 内 可合宍ご' ① 照葉樹林採集・半栽培文化 プレ農耕段階 縄文時代前期 ② 照葉樹林焼畑農耕文化 雑穀を中心とした焼畑段階 縄文時代後・晩期 ③ 水田稲作農耕文化 稲作ドミナン卜の段階 縄文時代晩期・弥生時代初期 〔出所〕佐々木高明(1982)

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照葉樹林文化の道一ブータン・南南から日本へ』 日本放送出版協会 CNHKブックス) pp. 31 --32より作成 うることが可能な作物が選定された。これらの作 物は,恐らくインド方面から伝播したとみなされ るアワ・シコクビエなどの雑穀類,あるいは大豆 を代表とする豆類とともに,焼畑農業によって栽 培されだしたとするのである。そして,かかる乙 とが,照葉樹林文化帯の稲作以前の農耕の特色で あると主張するわけである。かように推測する乙 とにより,わが国においても,気候条件あるいは 伝統農業の作物構成の諸特徴から検討すると,稲 作以前には,典型的な根栽農耕文化ではなく,雑 穀とイモ文化とでもいうべき照葉樹林地帯で卓越 している焼畑農耕文化が広く分布していたに違い ないと主張するのである。 かくして,照葉樹林文化帯の発展段階は,中尾 の想定した5段階が縮少され, 3段階に区分され る乙とになるて第

2

表)。 ①段階の照葉樹林文化は,第2表lとみられるよ うに,恐らく縄文時代前期頃に,日本列島西部す なわち照葉樹林地帯に伝播してきたと想定されて いる。かかる根拠として 代表的な縄文時代前期 の遺跡とみなされている福井県西部の三方湖湖畔 に位置する島浜貝塚があげられる。乙の貝塚から は,漆塗りの赤い櫛や盆,鉢などの木地製品の出 土とともに,アフリカやインドに起源をもっと推 定されているヒョウタン・リョクトウなどの照葉 樹林帯を経由してきたと思われる遺物が出土する 乙♂さらに,水晒しによるアク抜きの技術も野 生のイモ類だけではなく,堅果類の食用化にも応 用されていることが確認でき

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②段階の照葉樹 林焼畑農耕文化については,乙の時期にすでに成 立しているとみなされる。四国や九州などの照葉 樹林帯の伝統的な焼畑経営山村に伝承されてきた 生産方法や生活様式は,他地域の照葉樹林帯の焼 畑農耕民との対比から,稲作伝来以後に,日本列 島で新たに成立したものではないとする点で、ぁぷ) かような形態で,主として西日本に展開してきた 照葉樹林文化を基盤にして,その上に,縄文晩期 あるいは弥生時代初期に,中国大陸ないしは朝鮮 半島南部から③水田稲作文化が日本列島に導入さ れるのである。とりわけ,西日本の照葉樹林帯に 非常に短期間に伝播するのは上述した②段階で, 焼畑農業に代表される畑作がすでに実施されてい たので,かかる技術の修停には時間がかからなか ったものとみるのであるイそして,乙のようなプ ロセスを経て成立した照葉樹林文化は,日本の基 層文化の基底部分に少なからず影響を及ぼしてい るとするのであるイ 以上,照葉樹林文化論の展開を歴史的に辿って きたのであるが,日本との関連に関して論じると すれば,照葉樹林文化帯の東端に位置する極東の 日本列島西部に,どのようにしてセンターである 「東亜半月弧」から 照葉樹林文化が伝播してき たのか,という伝播経路についての問題が最大の 関心事といえようo照葉樹林文化には,すでに述 べたように,第2表にみられる3段階が想定され ており,それぞれおおよその時代も特定されてい る。したがって,日本列島西部への伝播を考察す る場合,どのステージをとるかによって経路が変 更される可能性もあるが,現在では,次のように 考えられている。 すなわち,乙れらの3段階の中で,考古学の発 掘などに代表される資料が最も豊富に利用できる のは,③水田稲作農耕文化なので,乙の③段階で の日本列島への伝播経路を検討する乙とで,照葉 樹林文化の日本列島西部への伝播を類推してみる 乙とにする。 イネの起源地は,種々説が存在するが,現在の ところ渡部忠世の研

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どiζより,インドシナ半 F h u A 斗 晶

(5)

島北部の丘陵地帯が最有力である。乙のイネが, 東アジアにおいて最初に水稲として栽培されるの は,恐ら《長江中・下流の地帯であったと推定さ れてい

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長江中・下流地帯は大陸の東端に位置 する照葉樹林文化帯にあるので,イネは当然他の 各種の照葉樹林文化の要素とともに,わが国の照 葉樹林文化帯へも伝播したはずである。この場合, 照葉樹林文化は,日本の伝播の中継地になってい る,長江中・下流地帯を含む東シナ海沿岸の漁携 民文化とも接触しているので 大陸内部の照葉樹 林文化の特徴とは若干異なる要素も付目されるこ とになった点も喚起する必要があろ弐)以上の乙 とを念頭において区分すると,長江中・下流から 華北・遼東半島まで北上しそこから朝鮮半島経 由で北九州に到するコースも設定可能であるが, 当時の農耕技術では,朝鮮半島北部地方において は水稲の栽培は無理と思われるので除外すると, 次の3つの伝播経路が有力とな♂j (A)長江中・下流域から東シナ海を横断し,朝 鮮半島南部経由北九州に到達するコース (B)長江中・下流域から東シナ海を横断して, 直接に西九州に到達するコース (C)華南から台湾・琉球列島を経由して南九州 に到達するコース しかしながら,例えば,一種の貯蔵穴である袋 状竪穴やド‘ルメンの一種である支石墓など,水田 稲作と結びついて北九州に最初に伝来した新しい 文化要素のほとんどは,朝鮮半島から伝播したも のであるとみなされるという事実が存在する。さ らにわが国において,縄文時代晩期から弥生時代 初頭にかけて出土するイネの多くは早生のジャポ ニ力型であるのに対して,長江中・下流地帯では, このジャポニカ型も出土するが,主体は晩生種の インディカ型であったと考えられている口したが って,乙の地方から日本列島に稲作が伝来するに 当たっては,後者すなわち晩生のインディカ型が, 早生のジャポニカ型に置きかわる必要が生じる。 この点に関しては,朝鮮半島において出土米のほ とんどすべてがジャポニカ型である点などから, 乙の地域を経由した乙とが怨定され♂jそれ故, 上述の(B)説では かかる点を充分に説明できな いので,照葉樹林文化の

F

:I本列島への伝播コース としては除外されることになる。また,最後の(C) 説は,かつて日本民俗学の祖と仰がれた柳田岡男 の晩年の語性近いが 近年,渡部忠世らによって, インドネシア東部を代表とする熱帯島唄地域に広 範囲にわたって分布するブノレ(bulu)的な形態を もっ陸稲型のイネが,古い時代に乙の経路を通っ ており,例えば鹿児島県種子島南部の宝満神社の 神田の有名な赤米はかかる要素を有している,と の指摘もあ弐)かかる事実は, (A)説以外にも, 大陸の照葉樹林文化帯からのイネの伝播経路があ る可能性を示唆している。 乙の他,照葉樹林文化論を主張していないが, チベット・ネパールなど照葉樹林文化帯に関連の ある地域を研究している川喜田二郎も,騎馬民族 倭人連合南方渡来語

2

し、う非常に大胆な作業仮説 の中で,次のように論じていることも,照葉樹林 文化論の日本列島への伝播を考えるうえでは重要 な指摘と思われる。すなわち,紀元前数世紀頃, 中央アジアの草原地帯で形成された騎馬民族集団 (第一次騎馬民族化と称す)は,紀元前後l乙,チ ベット高原を中心とする地帯ζl進出してくる(第 二次騎馬民族化)。このチベット高原を中心とす る地帯は,照葉樹林文化論を主張する研究者が提 唱する「東亜半月弧

J

とほぼ重なりあう地域であ る。その後,これらの騎馬民族集団は,東部に強 力な漢帝国などが存在するために東部に進出でき ず,最も抵抗の少ない南方へ向かわざるを得なく なった。そこでy チベット高原の東端に居住して いた水界稲作民主従えて, ミャンマー経由でべ、ン 力、、ル湾に向けて南下する。かかる点は,前述した 照葉樹林文化の「南方展開説

J

ともあい通じるよ うで,興味深い。乙の水界稲作民つまり)11喜田の 主張する倭人がマレ一半島を回り,大陸沿いに北 上し, (B)説同様,長江付近から直接九州に伝 来するというのであるO このような川喜田二郎説 は,騎馬民族倭人連合南方渡米説あるいは水界稲 作民すなわち倭人というネーミングは一先ずおい ておくとしても,かかる経路は説得力をもつもの といえよう。つまり 現在のところ,中国最古の 水田集落

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止とされている崩江省杭州湾近くの河嫡 度遺跡の最下の文化層(紀元前

5

0

0

0

年頃)から発 見されたモミガラは 温帯性のジャポニカ型では なく,熱帯性のインディカ型であることなどから, この地方の最初の稲作は イネの起源地から長江 流域を東漸してきたものではなく,南方から大陸 沿いに北進したとみなすのが妥当ではないか29)と

(6)

46-いう点に理論的根拠を求めていると思われる。 以上論じたように部分的には (B)ないし (C) 説と関連をもっ川喜田二郎の作業仮説を含めて, 照葉樹林文化の日本列島西部への伝播は現時点で は,どの経路を経過したかという確認は得られて いないというのが現状である。今後とも,かかる 点に関しては,関連諸分野の学際的成果を踏まえ ながら,議論を垂ねる必要があろう。 3. 雲貴高原の自然的基盤 前項で論じた照葉樹林文化論は,照葉樹林とい う植生に注目した作業仮説である。したがって, 雲貴高原の自然に関しては植生を中心に自然環境 全般にわたって論を展開する必要を認めるが,雲 貴高原の自然についての一般的な特色に関しては, かつて拙著 lとおいて概略を論じたことがある。そ こで,本稿では,とくに植生と深い関連をもっと 考えられる地形・気候について, しかも筆者がと りわけ関心を有している雲貴高原東部に地域を限 定して検討を加えてみようO 1 )地形 雲貴高原が属している中華人民共和国は,世界 の陸地のが~5分の lを占める広大な面積を所有す る国家である。地形的には,山地・高原・丘陵・ 盆地および平原の5類型に区分されるのが一般的 であるーこれらの相異.なる地形は,北緯30度付近 を例にとると,チベット高原,四川盆地,長江中 ・下流平原が横 lこ並び,内陸から海岸すなわち西 高原が,前述の高原上を流れる諸河

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J

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の侵食作用 を受けて形成されたといわれていと)かかる形態 は,円形・だ円形に近いものから,細長いものま で変化にとんでいる。

I

靖子」が低地に形成され ると,水運にも恵まれるので,水田稲作が発達し たり,大規模なものは県城など中心的な集落とな っていと)さらに,

I

端子」と並んで雲貴高原の 地形的特色を代表するものは,カルスト地形であ る。雲貴高原のカルスト地形は,その規模におい て世界最大級のものといわれ,典型的な熱帯カノレ ストである。成因としては,石灰岩系のカーボネ イトロック(炭酸塩岩)を基盤とするものが多く, 基岩の生成年代の相違などにより,次の3つに区 分されるのが一般的であと) ① 揚子江準卓状地と称される,雲南省東部から 貴州、│省中・西部の長江上流水系地域を中心にみら れ,始原代(先カンブリア代)から中生代に生成 されたカノレス卜地形。高位削剥面は2500メートル を越えるものがあり,カノレスト平原面には,塔カ ノレスト山地,ポリエ・ウパーレなどの凹地がみら れるO ② 雲南省南部・貴州、│省南部を主体lこ展開してい る,地質学でいう華南摺曲系山地を中心とする地 域 lζ分布し古生代後半 中生代に生成したカル スト地形。高位削求iJ面でも1500メートノレぐらいで あるが,カルスト平原面には,円錐カルス卜山地 がみられ,部分的にはウバーレなどの凹地も存在 する。 から東にかけて階段状に海抜高度が低下してし1くO ⑨ 雲南西部で,雲南西部摺曲系山地が走ってい 芸貴高原は,乙のチベット高原とともに中国を代 表する高原であるO その中心は,貴州省全域と雲 南省東部であり,隣接した省・自治区の一部もf6J 原の範囲に合まれている口 雲買高

j

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i

の平均海抜高度は 1000--2000メート ルで,高原全体としては西部が高く,北東に進む る地域を中心に分布し,主として古生代に成立し たカルスト地形。 路│有・弥助の石林は観光地とし ても有名であるD 雲貴高原は,このような地形的特色を有してい るが,主として海抜高度により,高原・丘原・山 原など合計11の地形分類がなされている

J

本稿の につれて傾斜が緩やかになるという傾向がみられ 研究対象地域である主段高原東部の地形分類を図 る。このため河川の多くは,北東から東流して長 示すると第l図のようになる。この第l図より指 江に注ぐか,あるいは│判流して珠江の最大支流西 摘できるのは,丘陵をとり囲むよう l仁、低山・中 37J 江に注ぐことになる。これらの諸九川は,河谷を 山などの山地が分布している点である

J

さらに, 刻んで高原を分断しているため 起伏はきわめて この低山は,大河川の流域を中心に分布している 大きく,典型的な山地性高凶や開析高原

l

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t

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を形成 という特色がみられるのに対し,

I

塙子」は,ー し, I均十」と祢される山間盆地も多く存在する32) 部の例外を除き河川│と関係なく,山中に点在する

I

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説子

J

の成│苅は,第三紀以降のネオテクトニッ 事例が多い。乙の乙とは, LLJ間盆地としての「塙 ク運動のために上昇した軟弱な基盤からなる主良 子」の性格が表われており,興味深い。なお,凶 ヴ i A q

(7)

回晴子(盆地)

口 台 地

第1図 雲 貴 高 原 東 部 の 地 形 分 類 広 西 チ ワ ン 族 自 治 区

囚丘陵

図山地(低山) 田山地(中山) 企 独 立 峰

O

州都 〔出所〕貴州省地方志編纂委員会編(1988) 湖 南

3

0

(Km) 『貴州省志・地理志(下冊)

J

貴州人民出版社 所収「貴州省地貌類型図

J

を簡略して作図

(8)

-48-の西南端lとみられる独立峰はカjレスト地形である と思われる。

2

)気候 雲貴高原は,大陸内部でかつ低緯度地方に位置 しているにもかかわらず,熱帯大陸気団が車越す るので,冬の気温は比較的高温になる。そのうえ 海抜高度が高いため,気候は快適である。かよう な一般的特色は,アフリカ中部高原,メキシコ高 原などを代表する海抜高度1000--2000メートルの 熱帯山地高原に共通するよしかしながら,その細 部を検討してみると,雲貴高原の東西では明確な 差異が確認できる。このことは,東部を代表する 貴州省には「天無三日晴

J

, 西 部 の 雲 南 省 に は 「四季如春」という名言が存在している乙とからも 推定可能である。乙のような相異なる現象が見い 出されるのは,冬季を中心とした半年間,貴州省 の上空で,東北から来た寒帯大陸気団と,南方の 前述した熱帯大陸気回がぶつかって対峠し,いわ ゆる見明準停帯前線を形成する乙とがあげられる。 したがって,例えば貴州省の省都貴陽では,、降水 日数は月平均16--17日に達するわけであるよ一方, 雲南省東部は,四季の区別は明らかではないが, 乾・雨期の違いは非常に明瞭で,一般に11--4月 までが乾期, 5--10月までを雨期とする。省都見 明の場合では,乾期の雨量はわずか年間総降水量 40) の11パーセントである一 以上において,雲貴高原の全般的な気候の特色 を論じたが,東西では気候的な特徴が明確に異な る乙とも判明した。次に,東部地域に限定して, 気候の特徴を述べてお乙う。 雲貴高原東部は,貴州省に代表される地域であ る。貴州省全体の平均気温は摂氏15度前後で,年 間総雨量はおおむね1100--1300ミリメートノレの間 である。とくに貴州省では,気候の垂直的変化は 第2図 貴州省における夏季の気温と降水量 1040

E

105 106 108 109 110 29N N

?

湖 28 南 省 27 26 省 25 〔出所〕貴州省地方志編纂委員会編(1988) 『貴州省志地理志(下冊

)

j

貴州人民出版社 p.776 図7-4. P. 801 図7-13を改図

(9)

-49-第3図 貴州省における冬季の気温と降水量

28 27 26 省 .25 等 温 線 (1月平均気温 OC) 110 湖

o

30 (Km)

一 等雨線(12~2月降水量 皿) 〔出所〕貴州省地方志編纂委員会編(1988) 『貴州省志地理志(下冊

)

J

貴州人民出版社 P.

7

7

5

7-2

.

p

.

7

9

9

7-11

を改図 明瞭で,

r

一山有四季jと称されるほどである。) 乙のような気候の垂直的変化に対して,一般の高 原上では,わが国とは異なり四季の変化は乏しい。 しかしながら之しいとはいいながら,若干の変化 も認められる。四季の特徴を列挙すれば,次のよ うになる一 ① 春。 4月を代表とし,高地では摂氏20度を越 えるが,平均気温はちょうど摂氏14度である。東 部一帯では,雨が降る日数が増加し,雨期に入る。 ② 夏。

7

月を代表とし,年間で最も暑い季節で ある。平均気温は摂氏17度前後で,大陸内部iと位 置し,かつ高原地帯であるとはいえ,低緯度とい う条件を考慮すれば,大変冷涼に感じるo夏季は 海抜高度700メートル以下で、は100日以上も続く (第2図)0 ③ 秋 。 10月を代表とするが冬季までの過渡的 な季節である。平均気温は摂氏10度前後で,多く の地域では乾期に入る。 ④ 冬。 1月を代表とする。平均気温は地域によ ってばらつきが多く,摂氏2--10度の間である。 とくに南部の北緯26度以南の地域では暖かいので, 「天然温室

J

と称されている(第3図)。 乙のように,四季の区別が認められるのである が,一部地域が「天然温室

J

と称されているよう に,全体としては温和な気候で,居住するには適 している。しかしながら,高原という地形的制約 が最大の理由で,春の干ばつ(春早) ,夏の干ば つ(夏皐) ,集中豪雨(暴風雨)などの異常気象 も多い。これらの異常気象の例として,夏早をと りあげようD 中国では一般に,干ばつは水田稲作 との関連において論じられているが,照葉樹林に も多大の影響を与えているものと恩われる。夏早 に関しては,下記のような公式を用いて数量的に 43) 把握可能であるとされるよ n u 目 hu

(10)

第4図 夏 の 干 ば つ 地 域

Nkf

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四醐

4

0

(Krn) 〔出所〕貴州省地方志纂委員会編(1

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8

)

『貴州省志 地理志(下冊)j貴州人民出版社

p

.

8

2

1

7-18

を改図

K-0.16

~T

K:

乾燥指数,

0

.1

6

:

定数

-R

R:

夏季

(

6-8

月)の総降水量 (棚) ~T: 夏季 100 C以上の積算温度 CC) 貴州省では,夏季の7月と 8月とでは上記K値 を若干変更して使用している。例えば, 8月では, 干ばつがみられない正常値としては,

K

=

10-40

を想定している。乙れに対して,

K

値 が -

10-0

を軽早

0--10

を中早,

-10--30

を重早と 称している。とれを降水量でみると,地域差ある いは高度差により若干補正されるが,いずれも 1 畝 (6.67アール)当たり, 7

8月の総降水量の 数値で,正常な場合は

2

0

立方メートノレ以上,軽早

10-20

立方メートノレ,中早1O

--{0

立方メートル, 44) 重皐

-50

立方メートル以下になるイ乙こで注目さ れるのは,本稿の研究対象地域が典型的な重早地 域に位置しているという乙とである(第4図)0 3)植生 雲貴高原の植生は,地形の複雑さ,気候条件の 多様性に対応して,実に多くの植物が分布してい る。雲貴高原の一部の雲南省だけでも,植物は

1

2

0

0

0

種を数え,その数は中国全体の約半分にも達 するといわれている。雲貴高原では,一般に海抜 高度

1

0

0

0

メートルを境にして,植生分布に大きな 相違が認められる。つまり,海抜高度

1

0

0

0

メート ル以下の「靖子」などでは,ほとんどの地域が熱 帯モンスーン林に属し, フタパガキ(Dipterocar -paceae)の植物や披畢(Hopeahainanensisホペ アの一種)で代表される植物が分布している。海 抜高度

1

0

0

0

-

2

5

0

0

メートルに上昇すると,亜熱帯 性常緑広葉樹林が卓越する。乙れがいわゆる照葉 4 E A F h u

(11)

樹林と称されているものである。さらにその上層 公山

(

2

1

7

9

メートル)など分布範囲は非常に限ら 部には,針・広葉の混交林

(

2

6

0

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-

2

9

0

0

メートル), れる。主要樹種としては,雷公山の頂上付近に卓 針葉樹林

(

3

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0

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-

4

0

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0

メートjレ)と続き,

4

0

0

0

メ ートルより上層部では高山帯というように,垂直 的分布が明確に認められるぷ 以上が雲貴高原の一般的傾向であるが,後述す るように,例えば亜熱帯性乾燥広葉樹が東部では 海抜高度

1

4

0

0

メートル以下に分布するように,高 原の東・西では,植生の相当の違いが確認できる。 かかる点は,基本的には地形的条件の相違に基づ くものであるが,冬の半年間,西部では熱帯大陸 気団の支配下にあり,温暖で乾燥しやすい乙とや, 青海高原が障壁になって北方からの寒気の侵入が 46) 防止されるためであるといわれているイ以下では, 雲貴高原東部の植生の特色をみてい乙う。 貴州省は,全般に雲南省にみられるような高山 も少なく,また南端の一部を除いて気温も高くな い。乙のような特徴があるため,雲南省でみられ るほど植生の垂直分布は明瞭ではないが,竹林,、 濯木などを除き,次の 6類型に区分されているよ ① 常緑広葉樹林。常緑広葉樹林は,貴州省全域 に分布しているが,とくに湿潤で地味の肥えた, 緩やかな丘陵,

r

晴子」などの自然条件のよい土 壌を好む。かような自然条件は,焼畑,水田稲作 にも最適な空間であるため,多くの地域において 開発が進展している。したがって現在では,山奥 など交通の便がよくない地域に分布が限定される 傾向がある。貴州省では,海抜高度は一般に

1

3

0

0

-1400

メートノレまでである。しかし,西部の一部 越する水青岡 (Faguslongipetiolata)を代表とす るブナ属の樹林。広範囲にわたり分布し数も多い 水青樹(Tetrucentronsinenceスイセンジュ) 主として漁船など船舶の材料となる硬木の栓皮棟 (Quercus variabilis),麻棟 (Quercusacutissima クヌギ)などのコナラ属,および楓香樹 (Liquidam-bar formosanaフウ)などがあげられるo ③ 常緑・落葉広葉樹混合林。上記の①と②の中 間帯すなわち海抜高度

1

4

0

0

-

1

9

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0

メートノレに分布 する。乙の地帯は代表的な焼畑地帯に該当するの で,樹木が伐採される場合が多い。その場合,広 葉樹林地帯であっても成長の早い落葉広葉樹が生 育するといわれている。なお,かかる傾向は,

1

4

0

0

メートル以下の常緑広葉樹林帯で、も同様である。 東部では乙の樹林帯の分布地域も非常に限定され ている。 ④ 山地硬葉樹林帯。雲貴高原東部では,植生が 最高位層を形成する。海抜高度

2

0

0

0

-

2

8

0

0

メート ルの高地に分布する。③と同様東部にはほとんど 分布はみられない。樹種としては,丈が低く,葉 は硬くて裏には灰色の繊毛をもち, トゲのある灰 背山棟(Quercuspannosa)など,ほとんどコナラ の類であるO ⑤,溝谷季雨林。貴州省南部のみに生育する乾期 l乙葉が落ちる落葉広葉樹である。分布は海抜高度

8

0

0

メートル以下の河谷の側壁などである。 ⑥,針葉樹林。一方,以上の広葉樹に対して,針 は

1

5

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0

メートル以上の高地にも群生がみられる。 葉樹も貴州省全域にわたって分布しているO しか 主要樹種としては,研究対象地域に卓越している しながら わが国などで一般にみられるように, 小紅拷(Castanopsiscarlesiiツブラジイ) ,ヤオ 広葉樹の上層部に針葉樹林が卓越するのではなく 48) 族地域に多く分布する刺拷(Castanopsishysfrix) て,酸性土壌の石灰岩地域を中心に分布している などを代表とするシイノキ属,小葉岡(Cyclobalano・ ょうである。したがって,貴州省では多くの地域 psis myrysinaefoliaシラカシ)などのアカガシ亜 において広・針葉樹の混交林がみられる。通常,針 属,ヤオ族地域を代表とする樹木の貴州石棟(Li・ 葉樹林は 熱帯山地暖温性針葉樹林と高山寒温性 thocarpus elizabethae)などのマテパシイ属,雲 針葉樹林に区分されている。前者は,東部では海 南樟(Cinnamomumglanduliferum)が中心のク 抜高度

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0

0-8

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メートル,西部では一部地区で スノキ属,黄薬大頭茶(Gordoniachryssandra) は

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0

0

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メートノレを越えて群生しているが,一般に などのヤマチャの類など多種に及ぶ。 は

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0

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メートノレ前後の低山・丘陵を中心に分布す ② 落葉広葉樹林,海抜高度

1

9

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-

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1

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0

メートル る。主要樹木としては,馬尾松(Pinusmassoniana の高地に分布するので,多くの場合,高山の山頂 近くに集中する。雲南高原東部では,東北部にあ る党浄山

(

2

5

7

2

メートノレ) ,東南部に位置する雷 タイワンアカマツ),雲南松(Pinusy11nnanensis ウンナンマツ)を代表とするマツ属、銀杉(Cataya argyrophyllaカタヤ) ,柔毛油杉(Keteleeria ワ μ F h u

(12)

第5図 雲 貴 高 原 東 部 の 植生 針葉樹林 照葉樹林 水田 畑地 草地 自治州 州都 県城

調査集落 × 雷公山 企

10 、、 , J m v n 〆 ' t n U っ . u 20 〔出所〕貴州省地方志纂委員会編(1988) 『貴州省志地理志(下冊

)

J

貴州人民出版社 p.725 図10-1を簡略して作成 pubescens)などのスギ属が中心であるo後者は, 高山の山頂部分 (2100メートル以上)中心で,例 えば党浄山山頂付近など分布範囲は大変狭い。主 要樹林としては,党浄山冷杉(Abiesfanjingshan -ensis)などのモミ属,鉄杉(Tsugachinensis シナツガ)などのツガ属が主体であるo 以上のように植生の分布は6類型に区分される のであるが,とくに現在でも照葉樹林がよく残存 していると思われる 貴州省東南部の植生を図示 すると第5図のようになる。この第5図から,南 部を流れる都柳江沿いに多くの照葉樹林が残って いるととが判明する。さらに,乙の地域が典型的 なトン・ミャオ・ヤオ族などの少数民族の雑居地 域である点が大変興味深い。 4. 少数民族の生業形態 雲貴高原東部に居住する少数民族の中で, トン ・ミャオ・ヤオの3民族を事例としてとりあげ, n o F 円 u

(13)

その現状を分析していく。しかし,乙れらの少数 民族に関しては拙著・拙議どで論じたこともあ るので,本稿では,照葉樹林文化論ととくに関連 が深いと思われる生業形態に焦点、を合わせて論を 展開したい。 1 ) トン族の鵜飼い トン族は,海抜高度200--900メートルに居住 する民族である。集落は一般に,河谷沿いに分布 する「河辺イ同族」と高原の「端子」などに居住す る「高山{同族

J

ζ区分できる。乙乙では,前者 の生業形態を最もよく表現し

τ

いると思われる鵜 飼いについて検討してみようよ 鵜飼いら,西江上流の都柳江沿いの従江県の県 城従江一帯中心に実施されている。鵜匠たちは, 共和国成立前まではほとんど船上生活者であった。 おか しかし現在では陸に家屋を所有するものが増加 している。漁獲範囲としては,従江から下流の広 西チワン族自治区三江県に及んでいる。使用する 鵜は川鵜で,以前は周辺の山中などで捕獲したが, 現在では三江県の専門の売人より雛鳥を購入する。 鵜の価格は能力などにより異なり,高価なもので 1羽1000元,安価なものでは 1羽80元と相当の聞 きがある。般の鵜賞品、船には,

7

-

-

1

1

羽の鵜が 必要である。購入した鵜は,訓練をしなくても他 の鵜の行動をみて捕獲を覚えるという。鵜の寿命 は30年と比較的長いが,漁l乙最適なのは3--8歳 ぐらいである。漁獲期間は年中であるが,操業の 中心は冬季である。最盛期には1日1羽で, 100 斤 (1斤は500グラム)ほど捕獲する。年間の漁 獲量は平均するとl腰当たり12,000斤ぐらいであ る。乙れら水揚げされた魚は 県城の市場で自由 に売却されるが,河川沿いに定期市が開催される と,そこに運ぶ。販売価格は,鯉魚 (Cyprinus carpioコイ),青魚 (Mylopharyngodonpiceus), 香魚 (Plecoglossusaltivelis アユ)などの魚種に より異なるが, 1斤当たり1.2 --2.0元である。 しかしながら,鵜が高いこと,船首l乙燈す照明灯 の燃料代などに相当の経費が必要なので,平均年 収は数百元にしかならない。現在では鵜とともに 網漁(投網中心)も併用しているが,鵜飼いほど の効率はよくない。近年とくに乱獲ぎみで漁獲量 が減少している。そのため最盛期以外は砂利の運 搬などの副業もしているO なお,かつてカワウソ 漁も盛んに実施されたが, 1988年を境にして付近 一帯では消滅した。 2 )ミャオ族の焼畑 ミャオ族もトン族同様,

I

平地苗

J

と「高山苗」 54) とに大別できるー 「高山苗」は共和国成立以前ま では,焼畑農業を主体とする伝統的な生業形態を 維持してきた集団であったが,国家の政策により, 原則として焼畑が禁止される乙とになり,現在で は,山腹あるいは山頂周辺で,天水による棚田式 の水田稲作や畑作に従事している。しかしながら, 交通の便が劣悪な山村などでは,かつての伝統を 維持しつつ,前者と併用して焼畑を実施している。 斡東南ミャオ族トン族自治州従江県加鳩区加鳩郷 56) 党ヤ案

i

i

,かかる典型的な事例で、ぁ57)(第 5図)。 党

T

案は,加鳩郷の中心集落から徒歩で20分,海 抜高度800メートル前後の山頂近くに位置してい る。戸数は37戸,人口は794人を数える。案の面 積は2800畝で,水田236畝,畑地242畝,宅地30 畝を除くと残りはすべて山林である。党一伊案では, 1981年より人民公社に代って生産責任制が導入さ れた。そのことにより耕地は,住民に平等均等に 分配され

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)

焼畑は前述のように禁止されている が,1981年以降,火入れ後植林するという条件で, 一部再開されることになった。以下では,この焼 畑についてみてみよう。 焼畑の順序としては,まず陰暦 7月上旬(以下 月はすべて陰月) --8月にかけて,耕地とする空 間の木を伐採することから始まる。その時,根ま で掘り起乙すのは小木だけで,大木は枝ばらいだ けにする口伐採した木や枝は2カ月程度乾燥させ る。その後, 9 --12月の天気のよい日火入れを行 なう。しばらくしてから,土壌を細かく砕く整地 を鋤を用いて実施する。そして,灰が流出しない 翌年の 1--2月頃,杉苗を移植し,その聞にアワ (モチ種)を直播きするO 作業は男女の区別なく 従事し,先の鋭利な掘り棒を使用する場合もある が,すでに整地のいきとどいている耕地では,掘 り棒を用いないことが多い。直播きするアワは, l畝に付き 4--5斤で,その時多少の肥料も播く 乙とがある。除草は5--6月に2回実施する。収 穫は8月であるが,収穫時には水田稲作で、栽培す るモチ種に利用したのと│司じ棺、摘み具を用いるO これは,男女別型であるが,本体は竹製で刃の部 分は鉄でできており,基本的には石包丁のような 半円形の形をしている。アワの収穫後, トウモロ A 斗 A F h u

(14)

第6図 T

U家の農業カレンダー(1988年) 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 陰 月

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-

収 作 雨 期 乾 期 雨期 乾期 凍結・樹氷 量 物 肝)

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ごご播種Eごご-r田 植 除 草>4 n 収穫~司 2100 水

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ウノレチ C二ご二百二ご二".{ II 除泊三3 500 トーーー r-ー ーー一ー一一一 一ト一一 ー一一一ー 一一一一ー一一一ー一一ーーー一一一 トーーーー ーーーーー ナ タ ネ ",~ E 60 収 穫 播種 田 ジャガイモ 悶 E二 20 作 大 根 -E 応、¥¥¥¥¥¥℃叶 30 白 菜

~ 40 サツマイモ

仏¥¥ヨ 200 トウモロコシ 圃・ L¥¥¥¥¥

4 10 畑 カボチャ E ト〈¥¥¥¥ミ℃、04 40 青 菜 E れ¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥℃叶 20 ウリ類 E l'V、¥¥¥¥¥¥¥¥¥V 60 作 ナ ス E¥¥¥¥¥¥と4 40 卜マト E L¥¥可 10 キュウリ E i¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥刈 20 トウガラシ

ISSSSてl 10ホ 竹

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2 畝(7 0~80 本) 油桐の実 200斤 ネ ズ ミ 200匹 黄 牛 3頭 その他 杉 2 畝 (60~70 本) ワラビ 30斤余 豚 3頭 茶 50~60 斤 竹の子 50斤余 鳥類 17羽 注)*乾燥したもの 〔出所〕現地での聞き取りより作成 コシを栽培する。これは10--11月に収穫可能なの で, 110月包穀(10月トウモロコシ)

J

と称され る。 なお,アワの代わりに 3月頃トウモロコシ を播き

7

月に収穫する場合もあるが,アワを播 く方が多い。2年目には,4 --5月lζ種子を播き, 7--8月に収穫する「早熟包穀 (早生のトウモロ コシ)

J

を植える。以降,乙のような形態が植林 した杉苗が成長する 4--5年間続くのである。以 上が党+棄の焼畑の概要であるが,耕地に肥料を 加えるとか,整地や除草を実施するなど一般の焼 畑とは異なる点が認められる。乙れは,一方では, 植林をしているためであると推定できる。なお,

(15)

-55-長期間焼畑が厳禁されていたためか,焼畑l乙関す る農耕儀礼はほとんど確認できなかった。 3 )ヤオ族の経済基盤 ヤオ族は,原初形態として狩猟・焼畑などに従 事して,移動生活を行なっていた点に特色を有し ていた。しかし,国家の政策を受け,従来の移動 生活から,水田稲作を専業とする定着化が進めら れて来た。したがって 居住地も水田稲作が可能 な海抜高度まで下山して来ている。かかる事例と して,斡東南ミャオ族トン族自治州繁平県中潮区 永従郷六j中村大境案をとりあげ、

i

9¥第5図)。 大境は戸数が11戸,人口は42名である。海抜高 度は約750メートルで ヤオ族の集落としては最 下層に近い。かかる理由は,前述した知く,国家 の政策によるものである。したがって,大坊のム ラヅクリは非常に新しく, 1958年に開始された。 定着前の居住地は,大境の奥に位置する高存で, そ乙から移動してきた。ムラヅクリの特徴は,大 坊のヤオ族が数を計算するのに大豆をもって行な っているという状態であったため, トン族がムラ 内に入植し,ムラヅクリの援助を行なったという 点である。大境でも, 1982年に責任生産制が導入 され,人数あるいは家ごとに耕地の分配が実施さ れた。乙のように ムラとしての成立が非常に新 しい大境の経済基盤はどのようなものであろうか。 T ・U家を事例としてとりあげ,その経済基盤を 検討する。 T ・U家では,両親と 2人の子供がいる 4人家 族である。耕地としては,水田が 3畝,畑地が0.5 畝,山村が2畝の合計5.5畝を所有している(第 6図)。水田は,集落周辺の山頂付近か,近くの 山の山腹などに点在している。水田には,ウルチ ・モチの両種が栽培されているが,前者は日常の 食事ζl,後者は「ハレ」の日に供される。水田で は図から読みとれないが 鯉魚などの養殖もわず かながら実施されている。裏作としてはナタネが 重要である。というのは,料理用の油が採油で、き るからであるO しかし,ムラ内には搾油機がない ので, ]斤に付き0.07元支払って定期市などで絞 ってもらう。一方畑地には,多種類の作物が少量 ずつではあるが栽培されており,大坊の経済状態 を知る手がかりとなる。その中でも, トウガラシ は,ナタネ油を除外すれば唯一といってよい調味 料で,ほとんどの料理の味付けに使用される。そ の他, T ・U家で収穫が多い作物としては,茶と 油桐

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の実がある。前者は,わ が国の茶漬けに相当する「油茶」とよばれている 軽食のときのみに利用されるもので,喫茶の風習 は一般にはない。後者は,仲買人などに 1斤 0.2 --0.4元で販売できるので 家畜の飼育を除くと ほとんど唯一の収入源となっている。なお

T.

U家では喫煙者がいないので,焼畑に栽培するタ バコはない。また火薬銃,虎ばさみなど狩猟具を 所有しているが,付近の山は高度が低いため狩猟 対象が少ないので,猟はあまりしないという。そ れ故,水田で若干魚を飼っているものの,動物性 タンパク質は絶対量が不足しているO そこでそれ を補うためにネズミが大量に捕獲されている口と りわけ冬季はほとんどネズミの肉にタンパク源を 頼っているという状態である。以上論じてきたよ うに,水田稲作中心に自給的な生計を立てている が,大消費地にも遠く,換金作物にも多くは期待 できないので,前途は厳しいといわざるをえない。 5. 結 霊草 ロロ 本稿の後半では,雲貴高原東部に位置するトン .ミャオ・ヤオの各少数民族の主要生業形態の特 徴を分析してきた。生業形態を含む村落構造の分 析に関しては,本論中においても言及したが,す でに拙著・拙論でも論じたことがあるので,本稿 で詳細に論じられなかった点は諒とされたい。し かしながら,乙れらの事例研究による分析の結果, わが国の西日本の山村との相違はあまりないとい う乙とも判明した。かかる最大の理由は,前半部 で展開してきたように,基盤としての照葉樹林文 化帯が両地域に存在することに起因しているもの と考えられる。かかる事実は,本稿のように,雲 貴高原東部の少数民族の3地点に限定してのフィ ーノレドサーヴェイのみからの分析だけでは充分と はいえないので,今後ともフィーノレドサーヴェイ を積み重ねる乙とで,この点を克服したく思って いる。最後に,日本の伝統文化およびその基盤・ 根底となっている基層文化が現在でも最も濃厚に 残存しているといわれている山村は,その変貌が 著しい。したがって,わが国の伝統文化を復元す る意味からも,他の照葉樹林文化帯での調査・研 究を今後とも実施する必要があると思われる。 一

(16)

56-註および参考文献 1)例えば,中華人民共和国を代表する照葉樹林地 帯である雲貴高原には,漢・チベット語族に属す るミャオ族・トン族などの民族が居住しているが, 日本人はウラノレ・アルタイ語族に所属している。 2 )乙乙でいう基層文化とは,現在の日本文化には 表面上はみられないが,その基盤あるいは根底に あるとみなされる文化をさす。具体的には,本稿 では,稲作文化以前に存在したと推定される文化 を基層文化と考えている。 3 )中華人民共和国雲南省中南部を中心に,西はイ ンドのアッサム地方から東は湖南省にまで及ぶ地 域。本稿の研究対象地域である雲貴高原もこの地 域内に含まれる。 4 )ナラ林帯を,例えば下記の書物のように「ブナ 帯Jとよぶ場合もあるが,東アジアの大陸側では, 東日本を唯一の例外としてブナ帯はほとんど分布 せず,ナラ林が広がっているという佐々木高明の 指摘を受けて,本稿では,ナラ林帯およびナラ林 文化という用語を用いた。 市川・山本・斉藤編(1984)

r

日本のブナ帯文化』 朝倉書庖 佐々木高明(1985)

r

日本文化の東・西一一日本 文化起源論へのアプローチ一一」立命館文学483

484 p.90 5 )石井漕(1984)

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照葉樹林文化」民族皐研究 49 -3 pp. 273 -280. 渡辺誠(1984)

r

照葉樹林文化論と縄文文化研究J 民族皐研究49-3 pp.281-283. 中尾佐助(1985)

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照葉樹林文化をめぐって コ メント(1)J民族皐研究49-4 pp. 394-396 . 佐々木高明(1985)

r

照葉樹林文化論批判に応え て コメン卜(2)J民族皐研究49-4 pp.396-399. 6 )本稿では,照葉樹林文化論の原段階を中心に論 を展開しているが,照葉樹林文化論の文化史的な 位置づけに関しては,稿を改めて論じたいと考え ている。 7 )出版年次からみれば順序は逆であるが,原稿段 階では,下記中尾佐助(1967)の方が古い。なお, 中尾佐助(1966)の著書は,新書版であり,専門 家以外の読者を想定しているため,叙述にかなり 差があるが,基本的には前著と大差はない。 中尾佐助(1966)

r

栽培植物と農耕の起源』岩波 書庖(岩波新書) 中尾佐助(1967)

r

農耕起源論J森下・吉良編 『 自 然 一 生 態 学 的 研 究 一 』 中 央 公 論 社 pp. 329-494所収。 8 )このような中尾佐助の立場は,アメリカの文化 地理学者 Sauer,C. 0の影響が強い。 Sauer,C. ヴ t F h d Oの農業起源論としては次の書物が有名である。 Sauer, C. 0 (1952) “Agricultural Origins and Dispersals"竹内・斉藤訳(1960)

r

農業の 起源』古今書院(形成選書) 9)前 掲 げ ) 中 尾 佐 助 (967) p.370 10)上山・佐々木・中尾(1976)

r

続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中央公論社(中公新書)pp. 23-240なお,この点に関しては,佐々木高明は 従来の根栽農耕文化の「北方展開説」をとり,こ れまでの立場を堅持している。 11)前掲(7),中尾佐助 (967)において提出された。 12)前掲(1日 pp. 193-195. 13)佐々木高明 (982)

r

照 葉 樹 林 文 化 の 道 一 ブ ータン・雲南から日本へー』日本放送出版協会 (NHKブックス pp.30-32. 14)乙の3段階の区分は,前掲ω1)p. 12に初出であ るが,本稿では,それをより明確に提案した佐々 木高明の3段階について論じる。 15)前掲(13) pp.52ー56. 16)前掲(13) pp.44-45. 17)かかる立場を,具体例を踏まえて検証したのが, 次の書物である。 佐々木高明 (971)

r

稲作以前』日本放送出版協 会 (NHKブックス) 18)佐々木高明(1986)

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縄 文 文 化 と 日 本 人 一 日 本基層文化の形成と継承一』小学館 pp.32-33. 19)本稿の問題の所在においても指摘したのである が,下記の書物に代表されるように,日本の基層 文化の形成要素として,東日本を中心に展開して いたと思われる「ナラ林文化」をも射程に入れて 論を展開する傾向が,佐々木高明を代表とする照 葉樹林文化論を主張する研究者に存在する。 佐々木高明編(1983)

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日本文化の原像を求めて, 日本農耕文化の源流』日本放送出版協会 20)渡辺忠世(1983)

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アジア稲作の系譜』法政大 学出版会など。 21)例えば,③段階に相当する紀元前1000年頃,長 江河口から中国大陸東南地域に展開した印文陶文 化が水田稲作農耕を営んでいた乙とは,石包丁な どの出土により確認されている。 佐々木高明 (1989) ~東・南アジア農耕論 焼 畑と稲作』弘文堂 pp.460-471. 22)佐々木高明によると,わが国のイザナキ・イザ ナミの国生み神話の形式には,焼畑民の聞にみら れる古い儀礼や習俗の他に,海人の文化が深くか かわっているとしている。前掲(13) pp. 165-202. 23)前掲(21) pp.448-471.

(17)

24)前掲(21) pp.450-452. 25)柳田園男は,最後の著作において,稲作文化を 含む日本文化の南方起源説を提唱した。 柳田園男(1961)

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海上の道』筑摩書房。同(19 78)

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定本,柳田園男集第1巻』筑摩書房 pp.1 -215.に再録。 26)渡部忠世(1984)

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八 重 山 の 稲 の 系 譜 一 蓬 莱 米と存来稲」 渡部・生田編『南島の稲作文化-与那国島を中心ICj法政大学出版局 pp.67-91. 27)川喜田二郎(1987)

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素朴と文明』講談社内・ 230-255.なお本書は1989年に講談社学術文庫 lζ 再録されている。ページ数は講談社学術文庫版に よる。以下同様 28)水界稲作民というのは船を手足のように使い, 他方陸上の水利謹概で水田を経営するのが得意の 集団で,彼らが好む生活空間のモデルは,前に静 かな入江・湖・川などを控え,ヒンターランドに 水田稲作をもったセットである。分布地域として は,アッサム・雲南からマレ一半島回り,華南・ 華中から日本や西南朝鮮まで,水界をつなき、とし て連続的に分布している。華北の大陸部で雑穀畑 作型の民として成熟した中国文明のインテリたち は,自然と異質の南方的な乙の水界稲作民を「倭 人jと称したというO 前掲(27) p.205 29)前掲(27) p.203 30)田畑久夫・金丸良子(1989)

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中国雲貴高原の 少 数 民 族 ー ミ ャ オ 族 ・ ト ン 族 一 』 白 帝 社 pp. 122 -124. 31)例えば,任美鍔主編(1982)

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中国自然綱要 (修訂版)j 商務印書館出版。なお本書の後半部 は,阿部・駒井訳(1986)

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中国の自然地理』東 京大学出版会として,翻訳されている。 32)前掲(31)阿部・駒井訳(1986) p. 195 33)貴州省地方志編纂委員会編(1988)

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貴州省志 ・地理志(下冊)j貴州人民出版社 pp.725-726. 34)例えば,雲貴高原東部に位置する鮪東南ミャオ 族・卜ン族自治州の時江盆地は,海抜高度が320 メートノレの地点、に位置し,米の二期作,スイカの 特産地として有名であり,時江県の県城となって いるO 35)中国科学院地質研究所岩溶研究組 (979)

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中 国岩溶研究』科学出版社 pp.148-278. 36)前掲(33) pp.723-727. なお,高原とは海抜 1900-2600メートルの高地丘原とは海抜80 0-1400メートルの高地,山原とはその中間の高地を し、うO 37)丘陵とは,麓からの比高が200メートル以内の 小山,低山とは600-900メートノレの.中山とは n 6 F h d 1100-1400メートルの山地で、ある。 38)前掲(31)阿部・駒井訳(1986) p. 185 39)木内信蔵編 (984)

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世界地理2 東アジア』 朝倉書庖 p.313 40)前掲(31)阿部・駒井 (1986) p. 187 41)前掲(33) p. 764 42)前掲(33) pp. 771 -791. 43)前掲(33) p.817 44)前掲(33) pp.820-821. 45)前掲(31)阿部・駒井(1986) p. 188 46)前掲(31)阿部・駒井(1986) p. 192 47)前掲(33) pp. 1083 -1094. 48)和名が固定されていない場合,和名は省略した。 以下同様。 49)前掲(30)。田畑久夫・金丸良子 (990)

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雲貴 高原東部のヤオ族一今則・大坊を訪ねてJ地理 35-1 pp.130-137. 35-2 pp.88-96.など。 50)前掲(30) p. 133 51)調査は1986年8月に実施した。 52)卜ン族の鵜飼し、は,鵜匠が鵜の首にかけた綱を 引っぱるのではなく,綱をつけない「放ち鵜」と 称されるものである。 53)当 時 元 は 約70円であり,新規大学卒業者の 月給が70元であった。 54)前掲(30) p. 132 55)山村の概念、については,種々議論がなされ定説 はないが,筆者の立場として,次の論考を参照。 田畑久夫 (982)

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わが国における山村の地理学 的研究に関する諸問題ーその概念と実践 j 堺女子短期大学紀要18 pp. 147 -175. 田畑久夫・金丸良子(1988)

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山村研究のー視角J 民俗と歴史20 pp. 43 -59. 田畑久夫 (989)

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山村研究ノート 人文地理 学からのアプローチー」日本文化史研究11 pp.1 -46tJど。 56)棄とは行政村の下部単位で,わが国でいうムラ に相当するO 57)調査は1988年2月下旬-3月中旬にかけて実施 した。 58)男 女 ・ 年 齢 を 問 わ ず 人 当 た り 水 田 0.9畝, 畑地の場合は1軒に付きl畝が分配された。 59)調査は1989年8月に実施した。 60)本文で論じたように,原則として水田は人数に よる平等均等害JIり,畑地と山林はl軒に付き 0.6 畝. 0.2畝ずつ分配された。なお大場では.lLJ林 と規定しているのは杉の植林しである山地のみを 示し,それ以外は対象外となっている。 (たばた ひさお 武庫川女子大学・非)

参照

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