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U UnnrreeggaarrddddeePPaarriissssuurrcceemmoonnddee 第 70 回 静寂と沈黙の時間、あるいは自己を自己たらしめるもの 「どんな分野でも立派になろうとしたら、自分自身でなければならない」 スタンダール 先日何を思ったのか、週刊誌のル・ポワン(Le Point)を定期購読することにした。 フランスに来る前のある時期そうしたこともあったが、こちらではそんな気持ちには ならなかった。しかしここに来て、気分的には日本にいる時とそれほど変わらなくな っているのかもしれない。そして早速、1990 年代に南極点、北極点、エベレストの三 極点を初めて単独で極めたという人物を発見した。アーリング・カッゲ(Erling Kagge, 1963- )氏である。ノルウェーの探検家にして弁護士、そして自ら立ち上げた出版社 はノルウェーで最も成功しているものの一つという実業家でもある。また、ケンブリ ッジ大学で哲学の聴講もしたことがあるようだ。最近の著作の英訳に、Silence: In the Age of Noise(Viking, 2017)がある。これまでの探検を通して、絶対的な静寂を経験し たのだろう。騒音に溢れた現代における静寂の意味を考えた本のようである。さらに、 生活に追われることを強いられている現代人にとって、時間が如何に大切であるかに ついても説いているという。静寂と時間という二つの要素は、わたし自身がこれまで の生活の中でその重要性を感じ取ってきたものでもある。今回は、我々の日常生活を 改めて振り返りながら、静寂と時間の持つ意味について考えを巡らせてみたい。 カッゲ氏によれば、これまでに訪れた場所の中で最も静寂に包まれた場所は南極だ ったという。それは氷が擦れ合う音が出る、大陸に囲まれた海にある北極とは異なり、 海に囲まれた大陸にあるからであった。これまでいろいろなところで静寂を経験した が、いま彼が求めるのは外部の静寂ではなく、内なる静寂である。それが重要だと考 え、子供たちにも世界の神秘は静寂や沈黙の中にあると伝えるようにしているという。 そこには汲めども尽きぬ驚きと真理が隠れているということなのだろうか。カッゲ氏 はすでに 50 歳を超えており、お年寄りの誕生パーティにも参加することがあるが、そ こで最も多く聞かれるのが、これまで生きて来たあの日々が自分の人生だったとは気 付かなかったという言葉だという。より豊かに生きるべきだった多くの時間を無駄に 過ごしてきたこと、自分の中に隠れているものを発掘もせず、あらゆる意味における2 雑音に注意を向けてきたことに対する悔恨の念があるのだろうか。死が近づくにつれ て、死そのものに対する恐れより十全に生きて来なかったことへの苦い思いが増して くるという。現代人は静寂や沈黙を齎す孤独の時間を避け、音に溢れた世界の中に逃 げ込もうとする。常に外の出来事の後を追っているのである。言葉を換えれば、パス カル(Blaise Pascal, 1623-1662)の言うディヴェルティスマン(気晴らし)を求め、忙 しい、時間がないと嘆くのだ。カッゲ氏も引用しているストア派のセネカ(Seneca, c. 1 BC-65 AD)は、『人生の短さについて』(De Brevitate Vitæ, 49 AD)の中で次のようなこ とを言っている。 セネカ @Massimo Finizio ――人生が短いのではない。それを短くしているのは我々である。実際に、人生が適 切に位置づけられるならば、最も優れた仕事を残すには十分の長さがある。しかし人 間は誘惑や欲望や名誉や野心に負け、これらの不必要なものに関わり合うのである(こ のような人たちを、セネカは ‘occupati’ [忙しく何かに従事している人]と呼んでいる)。 その中には、快楽に溺れる者、無駄な勉強に明け暮れる先生や生徒、仕事の奴隷とな っている人も含まれる。それに対して、すべての時間を自分につぎ込み、すべての日々 を一つの人生として扱っている人がいる。外にあるものの虜になっている人は時間の 使い方を知らない。暇がないからだ。暇を持つ人でなければ智慧には辿り着かない。 彼らだけが真に生きるのである。人生の物理的な時間がどれだけ長くなろうとも、本 質的ではない騒音を求めている限り時間がないと嘆き、最後になってこの人生におい
3 て何もやってこなかったことに気付くのだ。しかし、その時はもう遅い。生物学的に 存在しているだけではなく、人生を十全に生きるためには、自分自身に十分な時間を 取らなければならない。―― わたしはここ 10 年ほどの間、敢えて言えば「動的な」瞑想生活の中にいた。その質 については何とも言えないが、如何なる状態にあっても自らに意識を集中して 10 年と いう物理的な時間を過ごしたことになる。「動的」とは、体を静かに保つということを しない時でもそれが行われているという意味である。その中でいろいろなことに気付 くことになったが、昨年夏、この間にわたしの中で起こっていた一つの変化を発見し た。それを単純化して視覚化したものが図 1 である。左にある二つの丸はフランスに 渡る前の状態で、右は昨年夏に見えてきた状態を表している。ここにある Self 1 とは、 普段この自分を動かしていると考えている「自己」の主人(と言っても、当時はその ような意識はなかったが)とでも言うべきものに当たる。あまり深く考えることなく、 この自分を日常的に動かしている「存在」と言えるかもしれない。それに対する Self 2 は、主人としての自己を観察しようとするもう一つの「自己」、あるいは日常における 主人を批判的に振り返ろうとするもう一つの「存在」を指している。昨年夏に見えて きたのは、Self 1 と Self 2 の間の空間が広がってきたのではないかということであった。 よく使われる表現で言えば、以前より自分がよく見えるようになってきたという感覚 である。 図1.静寂の時が齎すもの: Self 1 と Self 2 の間に横たわる空間的広がり Self 1 は 「自己」 の主人と考えているものと一体になった 「自己」 で、 Self 2 は 「自己」 の主人としての Self 1 を観察しようとするもう一つの 「自己」 を指す。 (2017 年 8 月)
4 それを齎したものは何だったのであろうか。そう問い掛けた時に思い当たったのが、 長きに亘る静寂と沈黙の時間であった。孤独が齎す静寂、沈黙の中で頻繁に行われる ことが自己との対話だったからである。この過程を繰り返す中で対話を交わすそれぞ れの自己が徐々に自立し、昨年夏にはそれに気付くほど Self 2 の存在が際立ったもの になったのではないかと想像している。Self 1 と Self 2 が混然一体となった状態から二 つの自己が独立して立ち上がってきたというイメージである。一旦この状態が出来上 がると、外で蠢く何か新奇なものを求めるという欲求が消えていく。新しい内的世界 が一つの充足した空間を構成していることもあるが、それ以上にディヴェルティスマ ンが内なる対話を邪魔するからである。 「自己の客体化」というような言葉はこれまでにも聞いているが、それが具体的に どのような状態を指しているのかよく分からなかった。それはいまにして思えば当然 のことである。忙しく動き回っていては、Self1と Self 2 の間に空間はできないからで ある。両者が密着していれば、そもそも汝自身を知ることなど不可能であることも見 えてくる。ソクラテスが言った「魂の世話」とは、自己との対話を繰り返すことによ り、Self1と Self 2 との空間を広げることだったのではないだろうか。この状態になっ て初めて、立ち上がる Self 2 が見え、それによって自己が確立されてくるという感触 を得ることができる。また、考えるということは、Self 1 と Self 2 による対話と捉える こともできるだろう。もしそうであれば、思考を深めるためには二つの自己の間の空 間をできるだけ広げる必要があり、そのためには意識して自由な静寂の時間を確保し なければならないことも明らかになる。その空間こそ、意識の第三層における思索空 間にも通じ、騒音に溢れた第一層と第二層での思考に圧倒されている現代人の精神に 求められるものではないだろうか。それなしには目には見えない「もの・こと」つい ての思索が行われることにはならず、時を浪費するだけの上滑りの雑談が延々と繰り 返されるだけに終わるだろう。 そして、Self 1 と Self 2 との間に空間が広がった時、それはその個人に固有のものに なるはずである。それが精神的な安定を齎すだけではなく、固有なものであるが故に 自由の感覚をも呼び起こすことになるだろう。個性の開花(l’épanouissement)とか迸 り(l’élan)と形容される状態は、このことと重なるように見える。Self 2 の立ち上が りがない場合には自己を捉えることができず、世の中で出回っている基準に合わせた、 ともすれば流されがちな人生に終わる危険性が高い。もしこの観察を受け入れるとす れば、Self 2 を鍛えながらその自律性を育み、Self 1 との間に広がった空間をできるだ
5 け豊かなもので埋めていこうとする試みを人生の目的に加えてもよいのではないだろ うか。それこそがスタンダールが言う自分自身であるための方法であり、人間に生ま れた者が人間に成る道を指し示しているように見える。さらに、前回(265 巻 10 号) 対話の極意として触れた「自己の前に身を置く」とは、図 1 の右の部分のことを言っ ていたことが想像できるようになる。 ところで、このような話は仕事に追われている現代人にどのように受け取られるの だろうか。わたし自身が仕事をしている時のことを思い起こすと、どれだけ興味を示 したのか分からない。そんなことを言っても実際には自由で暇な時間も取れないし、 それがどれだけ仕事のためになるのか、という反応になったと想像されるからだ。こ の世界における唯一の目的を所謂仕事と捉えていて、仕事以外の世界の存在を自分の 意識の外に置いていた可能性が高いためである。それは、このシリーズで何度も取り 上げている人間存在に関わる思考が行われる意識の第三層の欠落の反映でもあったと いまでは言えるだろう。これからの思考は第三層を絡めたものにならなければならず、 それが叶わなければ我々の生はどんよりとしたものになりそうである。それだけでは なく、我々を取り巻くいろいろな問題に対して創造的な解決を生み出すことも難しい ものになるのではないだろうか。 『ロシュコルドン公園で瞑想するジャン・ジャック・ルソー』 (1770) (部分) アレクサンドル・イアサオント・デュヌイ (1757-1841)
6 人類の歴史を振り返ると、孤独と静寂を求めて人生を送った人は少なくない。その 中の一人に、ジュネーヴの哲学者ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)がいる。ルソーの最晩年、まさに石もて追われた孤独の中で『孤独な散歩 者の夢想』(今野一雄訳、岩波書店、1991)を書いた。死後に発表されたこの書には体 系的な記載はないが、散策の折々に浮かんできた人生の最後を迎えたルソーの想念や 心情が吐露されている。第一と第三の散歩の断章を静かに味わいながら、今回は終わ ることにしたい。 「慰めも、希望も、平和も自分の内部にしかみいだされないのだから、わたしは余生 をひとりで暮らし、もう自分以外のことは考えるべきではないし、考えたくもない。 わたしはこうした状態において、かつてわたしの『告白』と呼んだきびしい誠実な検 討のつづきにとりかかる。わたしは自分というものの研究に晩年を捧げ、遠からず出 さなければならない報告をいまから準備する。自分の魂と語り合う楽しみに浸りきろ うではないか。この楽しみこそ人々がわたしから奪い去ることのできない唯一の楽し みなのだから。自分の内面的傾向について反省を重ねることによって、それをさらに よいほうに向け、なお残っているかもしれぬ悪を改めることができるなら、わたしの 省察は全然無益なことにならないし、もう地上にあってはなんの役にもたたないにせ よ、わたしは晩年をまったくむだにすごしたということにはならないだろう」 「わたしはわたしよりもはるかに学者らしく哲学する人にはたくさん出会ったことが あるけれども、その人たちの哲学はいわばかれらにとって無縁のものであった。他人 より物知りになろうとするかれらは、そこらにみられるなにか器械のようなものを研 究するのと同じく、たんなる好奇心をもって宇宙を研究し、どんなふうにそれが組み 立てられているのかを知ろうとしていた。かれらが人間性を研究するのはそれについ て学者らしい話をするためで、自分を知るためではない。かれらが勉強するのは他人 を教えるためで、自分の内部を明らかにするためではない。かれらのうちの多くの者 は、書物を書くことだけを考え、どんな書物であろうと、ただ世に迎えられさえすれ ばいいのである。書物を書きあげて出版してしまうと、もうその内容にはいっこうに 関心をもたない。・・・わたしはどうかといえば、わたしが学問をしたいと思ったの は、自分で知るためにであって、人に教えるためにではなかった」 (2018 年 6 月 11 日)