• 検索結果がありません。

総務省「平成20年度 地域力創造事例集」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "総務省「平成20年度 地域力創造事例集」"

Copied!
312
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

平 成 2 0 年 度

地 域 力 創 造 事 例 集

平成21年 3月

(2)

平成 20 年度

地 域 力 創 造 事 例 集

【目 次】 1.地場産品発掘・ブランド化 (1)南房総市(千葉県):黒字経営の「道の駅」---1 (2)羽咋市(石川県):山村集落活性化計画「山彦計画」---16 (3)海士町(島根県):地域資源を活用したまちづくり---27 2.産業振興 (1)宮古市(岩手県):モノづくりができる、人づくり---41 (2)長井市(山形県):地元工業高校・ものづくり人材の活動支援を柱とした人材育成--53 3.定住促進 (1)遠野市(岩手県):「行って観たい町」から「住んで魅たい町」へ---64 (2)飯田市(長野県):地域資源を総合的に活用した都市農村交流及び人材誘導 [若者の UI ターン支援]---76 (3)江津市(島根県):空き家活用による定住の促進∼人材移入プロジェクト∼---89 (4)邑南町(島根県):邑南町研修プロジェクト---99 4.観光・交流 (1)南部町(青森県):地元交流資源を活用した達者村づくり活動---110 (2)茂木町(栃木県):オーナー制度で都市農村交流---124 (3)柏崎市(新潟県):農村滞在型交流観光による地域活性化---136 (4)小浜市(福井県):食のまちづくりの推進---146 (5)萩市(山口県):萩まちじゅう博物館---158 (6)長崎市(長崎県)長崎市の歴史や文化を活用したまち歩き「長崎さるく」---169 5.まちなか再生 (1)東御市(長野県):東御市デマンド交通システム---181 (2)高松市(香川県):高齢化社会に対応した持続可能な新しいスタイルの 都市形成をめざして---194 (3)荒尾市(熊本県):食をテーマとした徒歩圏マーケットの創出---205 (4)豊後高田市(大分県):商業と観光の一体化による中心市街地の再生-「昭和の町」--218 6.コミュニティ (1)笠岡市(岡山県):住民によるNPOとの協働を通じた島おこし活動---228 (2)安芸高田市(広島県):地域振興会を主体とした地域経営---242 (3)薩摩川内市(鹿児島県):地区コミュニティ協議会による共生・協働の 地域社会づくり---253 7.環境保全 (1)日野市(東京都):市民とともにつくる環境共生都市---268 (2)豊岡市(兵庫県):コウノトリと共に生きるまちづくり、豊岡市環境経済戦略----284 (3)上勝町(徳島県):地域発ゼロ・ウェイスト推進活動---297

(3)

黒字経営の「道の駅」

地域産業・文化振興拠点、情報発信基地として活用すべく道の駅を整備

【取組の概要】 事業は人なり

信頼関係で組織を運営し地域を活性化

「座して疲弊を待つわけにはいかない。打って出るしかない。」南房総市の旧富浦町とみうらまちでは、 この町長の強い信念のもと、「道の駅」の運営を担った人々が、様々なことに挑戦し続けて きた。1990 年代初め、時代はまさにバブル経済の崩壊が起こり、日本の地域全体が自信を 失いかけ、内向きに萎縮する方向にあった時である。 「地域産業と文化の振興の拠点、情報発信基地」をめざして、「道の駅とみうら 枇杷び わ 倶楽部く ら ぶ」を立ち上げたものの、その事業運営は困難を極めた。全国各地で第3セクターが 経営危機に陥る中、あえて町全額出資で設立したものの第3セクターの運営ノウハウは全 くなかった。資金もなく、道の駅の概念もなく全くの白紙から作り上げることから、施設 の計画や組織の計画立案は暗中模索の連続で、何度も困難にぶち当たった。地域活性化へ の期待、赤字に転落することへのプレッシャー、地元同業者からの反発など、将来への希 望と共に、様々な人々の思いが交錯した。 だが、「町の地域振興を目指した第3セクターの事業が 赤字を出したら、地域振興を阻害して、地域にマイナスに なる。絶対に赤字は出せない」という強い信念のもと、町 の担当職員、枇杷倶楽部の従業員、関係者たちはあらゆる ことにチャレンジし、夢に向かって走り続けた。まず、特 産品の「枇杷び わ」で市場に出ない規格外品(大きさが規格に 合わなかったり、形が悪かったり、傷や割れがあったりす るもの)を活用して独自の商品開発を行った。事業・施設 の分散配置による統合運営という「エコミュージアム(後述)」から得た考え方をもとにし て、「道の駅おおつの里 花はな倶楽部く ら ぶ」などの関連施設を分散配置させるとともに、地域全体 に広がる小規模な観光資源を束ねて観光客を集客する独自の「一括受発注システム」を開 発し、その後の南房総全体の産業振興や地域づくりの根幹となる手法に育て上げていった。 また、人形劇やまち歩きなどを通して、地域の文化的な資源と人材が発掘され育っていっ た。更に、インターネットを活用した各地域情報の広域発信により取組に弾みをつけた。 こうした模索の中から生み出した独自の手法による多様な事業展開によって、地域産業 と文化の振興が図られ、年中多くの観光客が安定して訪れる地域に変ぼうしていった。長 い歳月をかけて地域を疲弊から再生させた背景には、一人ひとりの担い手たちの間に、強

南房総市

み な み ぼ う そ う し

(千葉県)

道の駅とみうら 枇杷倶楽部

(4)

い絆の信頼関係と、現場スタッフが夢と責任感のもと自由に挑戦できる経営環境があり、 「事業は人なり」というリーダーの強い信念があった。

1.南房総市の概要

南房総市は、2006 年に旧富浦町、富山町とみやままち、三芳村み よ し む ら、白浜町しらはままち、千倉町ち く ら ま ち、丸山町まるやままち、和田町わ だ ま ちの 6町1村が合併して誕生した面積 230.2 ㎢、人口 45,000 人弱の市である。房総半島の南端 に位置し、西に東京湾、東と南に太平洋が面しており、北には県内最高峰の愛宕山あ た ご や まをはじ め 300m超級の山々が連なる。美しい海岸線は南房総国定公園に指定されており、。温暖な 気候に恵まれて、四季折々に花が咲き乱れるなど豊かな自然環境が残る。気候を生かした 野菜や果実、花卉などの農業が盛んで、収益性の高い枇杷や花きの一大産地となっている。 観光客などの増加に伴って、最近では東京湾岸を走るJR内房線の特急電車が富浦駅に は全便停車するようになり、東京からは 1 時間 45 分ほどで着く。また、1997 年に開通した 東京湾アクアラインを経由して、高速バスも東京から南房総市まで特急電車とほぼ同じ所 要時間で 30 分に1本が走るようになった。

2.「道の駅とみうら 枇杷倶楽部」の立ち上がり

「座して疲弊を待つな」

南房総市の西部、東京湾に面した旧富浦町は、1990 年頃、人口減少が著しく、町の主要 産業であった農業、漁業、観光は大きく落ち込んでいた。観光では、かつては「海の民宿 発祥の地」として知られていたが、時代が変わって、海水浴客は激減し、最盛期には 450 軒あった民宿も 100 軒以下に減少した。主要産業の落ち込みは、若年労働者の流出を招き、 高齢化、農地の荒廃などとともに、伝統行事が廃れ、地域固有の文化も存亡の危機にさら されるようになっていた。 こうした中、1991 年春のある日、旧富浦町の1人の職員(加藤か と う文男ふ み お氏)が、町長室に呼 び出された。町長からは「座して疲弊を待つわけにはいかない。打って出るしかない。地 域産業と文化の振興の拠点、情報の発信基地をつくれ。」さらに続けて、「そのためには、 運営法人を作らざるを得ないだろうが、町の財政は余裕がない。(ニヤと笑みを浮かべて) 赤字を出したら、お前はクビだ」と言われた。その言葉に、退路はなかった。 その職員は、当時は観光・企画課長で、後の「道の駅とみうら 枇杷倶楽部」(後述)の 初代所長となり、様々な事業をリードしていくこととなった。

(5)

課題は「産業と文化と情報」の三点セット

町長から「『産業振興と文化振興と情報発信』の三点セットで拠点をつくって地域振興を やれ」と指示を受けた所長は、当時を振り返って「その三点セットはよく分かったんです が、採算を合わせて黒字経営でやれ、というのには困ってしまった」と言う(この時点で の構想は「道の駅」ではなかった)。地域の産業振興の拠点づくりを採算が合うようにやる こと自体が難しいことはもとより、文化振興でも赤字を出さないように拠点を経営するに はどうしたらいいのか、非常に大きな課題だった。当時は、「富浦は、文化事業をやっても 根付かない地域だ」というのが通説だった。だが、その頃から富浦では、人形劇(後述) で文化振興を図ろうという「人形劇の郷」づくりの取組が始まっていたことから、「人形劇 を地道に温めていけば、いつかホンモノになるのではないか。人形劇を通じた文化づくり が人をつくり、それが地域づくりに繋がるんではないか」と、所長はひそかに考えていた。 情報発信については、「イメージ自体つかめなかった」と所長は話す。今なら、地域の情 報発信や情報化と言えば、インターネットでポータルサイトを作るなど様々な方法が考え られるが、当時はまだパソコン通信(特定のサーバとメンバー間だけの閉じたネットワー ク)の時代で、インターネットの技術自体が普及していなかった。地域情報の発信拠点を 作って、具体的な成果を出し、しかも採算が合うように、となると方法が全く分からなか った。 所長は話す、「町長は任せると言うと、何も口出しせず、本当に任せてくれた。だから、 プレッシャーもかなりあったけれど、なんとかして地域を変えようというその取組に思い 切ってチャレンジできた」

2年間の試行期間がその後の大きな飛躍の基礎となった

町は、1991 年7月に「富浦町産業振興センター(仮称)設立準備班」を組織し、翌 1992 年4月には「産業振興センター室」を発足させた。事業に取り組み始めた当初は、職員2 人で業務を行っていたが、事業を行うにも予算がなかったため、最初に取り組んだのは資 金確保のための県や国への働きかけだった。 町長の指示があってから、資金を確保して運営法人(第3セクターの「株式会社とみう ら」(後述))を立ち上げるのに、およそ2年を要したが、この2年間がその後の事業展開 において、大いに役立った。プロジェクトを開始した当初は、「どうしたら観光客に来ても らえるか、どんな商品を開発したらいいか、どうやってモノを売るか」が全く分からなか った。そのため、1991 年3月、「有限会社富浦の味加工センター」を設立して、資金確保と 運営法人ができるまでの時間を使って、パイロット事業を行いノウハウを積み重ねていっ た。所長は、「当時は、事業ノウハウが決定的に不足していて、すごいプレッシャーだった」、 「もしもパイロット事業でノウハウを積み上げる期間(2年間)がない状態で、国や県か らの補助を受けていきなり「道の駅」をやっていたら、事業は上手く行かなかったかもし

(6)

れない」と語る。

県と国のバックアップで資金確保

所長は、資金を確保するために、千葉県庁などに通い始めた。当時は、ちょうど県も国 も、町が考えていた事業と方向性が似た事業構想をもっており県や国からの財政支援を得 ることが出来ることになった。1993 年に千葉県が事業費の3分の1を補助する「アグリリ ゾート推進事業」(県単独)の第1号指定を受けることができた。また同年、建設省(現国 土交通省)が全国に展開をし始めていた「道の駅」として、千葉県内で初の指定を受ける ことができた。町としては、最初の構想段階では「道の駅」にする計画ではなかったが、 目的が類似していることから指定を受けることになった。さらに、町は「ふるさと創生1 億円」の一部を使うなどして、独自資金を確保した。

運営組織立ち上げへの模索

旧富浦町では、それまで第3セクターの法人を設立したことはなかったが、産業振興・ 文化振興・情報発信の拠点事業を行うには、運営法人を立ち上げる必要があり、出資して くれる企業や団体を探した。しかし、町内には資金に余裕のあるところはなく、「道の駅」 の認知もなかった頃で、「そんなのうまくできるはずがない」と言われ、出資する企業や団 体はあらわれなかった。そのため、町が単独で運営することとなり、旧富浦町(現南房総 市)が全額出資して(2,000 万円(現在 7,500 万円))、1993 年 4 月「株式会社とみうら」 を設立した。また、同時に町は役場の内に「枇杷倶楽部課」を新設した。 そして、1993 年 11 月に「道の駅とみうら 枇杷倶楽部」を開設した。その名前は、南房 総市の富浦の特産品の大粒の「枇杷び わ」にちなみ、また多くの人と人との出会いが生まれる 場の「倶楽部」となるように願いを込めて「枇杷倶楽部」とした。枇杷倶楽部では、「地域 産業と文化の振興の拠点、情報発信基地」となることをめざして、特産の枇杷の加工事業 と商品開発、体験型の観光農業による観光客誘致と施設整備、そして文化事業に積極的に 取り組むものとした。

反発の中からの多難な船出

当時町長の言う、産業・文化・情報の3つを柱にした地域振興について、誰も方向性と しては反対しなかった。だが、具体的な話になると反対の声もあった。当時はまだ、道の 駅の概念が分かりにくく、住民などの理解が得にくかった。民間からは反発が起こり、行 政内部ではなかなか理解が得られなかった。 特に、町が全額出資する法人が、道の駅という直売施設を持って「黒字経営を目指す」 ことに反発の声があった。「税金をとって、それで我々民間と同じことをやって、同じ商品

(7)

を売って、民間への妨害ではないか。もし赤字になったら、どうせ税金で埋めるんだろう」 と地元同業者などから言われた。止めさせようと、署名運動も一部に起こった。反発でな くても、「道の駅ってチェーン店ですか、誰が経営しているんですか」といったように、道 の駅そのものの理解が最初はなかなか進まなかった。

3.産業振興・観光振興、文化振興、地域情報の発信

(1)特産の枇杷を活用した商品開発で産業振興

捨てるものを使って商品開発するのが鉄則

資金を確保して施設を整備し、運営組織を立ち上げ、次は、商品開発であった。まちの 特産品は、大粒の枇杷や、アイリスや金魚草、極楽ごくらくちょう鳥花か、カーネーションなどの花木が主 なものである。特に、富浦の枇杷は、初夏の代表的な果物として多くの人に親しまれ、全 国的にも高い人気を得ていた。枇杷の栽培は、約 260 年の歴史を持ち、品種改良、技術の 向上を重ねて今日まで来た。大粒でみずみずしく香り高いことから、毎年厳選された枇杷 が皇室に献上されるなど、高級果物として位置付けられている。だが、枇杷の収穫の期間 は、初夏の約1か月間と短く、年間一度だけで、生産量の約3割が出荷規格外品となる。 高級商品としての付加価値が高いにもかかわらず、出荷規格外品となった枇杷は市場には 出せず、それまで農家は捨てるしかなかった。 そこで、「枇杷倶楽部」がそうした出荷規格外品となった枇杷を使って、何か新しい商品 開発ができないかと考えた。この富浦の人たちの誇りであり、富浦を特徴づける産物でも ある枇杷を素材にして、付加価値の高い加工品を開発・生産し、観光客を呼び込んで販売 しようとしたのである。加工原料づくりが安定的にできれば、商品アイテムも広げること ができると考えた。

独自に商品を開発し、無理なく委託製造

枇杷は全国的に生産地、生産量ともに少なく、枇杷を素材としたレシピや、加工するた めの機械もほとんどない状態からのスタートであったが、作りやすいジャム、缶詰の製造・ 販売から取り掛かった。その後、ピューレを製造する設備を導入し、ソフトクリーム、ゼ リー、アイスクリーム、まんじゅう等様々な商品の開発に成功し、特に、ソフトクリーム とゼリーは大ヒット商品になった。 また、枇杷は古くから民間療法の代表的な植物として有名であり、果実だけでなく種子、 葉、花などを加工品に利用して販売。それまで捨てられていた枇杷の葉は、農家が枇杷の 剪定を工夫→枇杷倶楽部が集荷→びわ葉茶として販売し、人気商品となっている。 「地域資源の有効利用として、捨てるものを使って商品開発するのが鉄則。また、商品 の素材となる枇杷の生産者と販売者を明らかにすることで、消費者に安心感を与えること

(8)

ができる」と所長は話す。また、農家も「市場に出せなくて、捨てるしかなかったものを 枇杷倶楽部では購入してくれる」と喜んだ。 枇杷倶楽部の独自に開発した商品のほとんどは、委託による製造であり、自社で製造す るのは、加工用の原材料と、設備投資を要しない簡単にできる「ジャム」、「缶詰」、「びわ ソフトクリーム」だけである。開発商品を委託製造に頼っているのは、設備投資をすると、 財政的な赤字を抱えてしまうことに加え、消費者のニーズに柔軟に対応するために設備投 資を最小限にするためであった。枇杷の加工品は非常に利益率が高いが、天候により収穫 の不安定さや、大手資本の参入も懸念されるリスキーな要素を常に持つという。製造委託 ではオリジナリティが出しにくく、雇用機会を増やせないなどマイナス面もあるが、「道の 駅の経営面からは、やむを得ない選択であった」と所長は話す。

「枇杷」関連商品が地域ブランドになった

こうして枇杷倶楽部で開発した商品のアイテムは 40 を越え、「道の駅」のショップはま さに 枇杷尽くし といった状況になっている。商品は、道の駅だけでなく、地域の土産 物店や民宿などでも富浦の特産品として売られるようになってきている。「枇杷」の数々の 関連商品は、枇杷倶楽部のブランドというだけでなく、富浦そして南房総の地域ブランド になった。 富浦の枇杷栽培農家で生まれ育ち、一度は外へ就職に出たものの、「父親の後を継いで枇 杷をやろう」と富浦に帰って就農した若い女性がいる。彼女は目を輝かせて、「私は枇杷が 好きですし、この富浦のまちも好きです。これからも産地として富浦の枇杷が途絶えて欲 しくないです。だから、私は将来、栽培した枇杷を生かした『カフェ』のようなものを開 きたいと思っています。枇杷を生のまま食べてもらうのはもちろん、自分で枇杷を使って ケーキやジュースなどを作って、いろんな人に食べてもらいたい。そうしたら、お客さん の声が聞ける。だから、クッキングスクールなどに通って勉強し始めています」と言う。 びわアイスクリーム 「枇杷倶楽部」の枇杷尽くしのショップ

(9)

(2)「一括受発注システム」による地域全体での観光振興

地域を変えた「一括受発注システム」の開発

「道の駅」開設前、事業ノウハウを全く持たず、パイロット事業として集客方法を模索 していた頃に、富浦の地域を巡る一台の観光バスツアーを受け入れた。観光バスでは、富 浦に住む地元の主婦に臨時でバスガイドを引き受けてもらった。彼女はバスが巡る間、観 光客たちに対して、その地域に住む住民だからこそ知っている隠れた名所や名産を紹介し た。行く先々で現地の新鮮な情報を生々しく話すなどして、素朴ではあったが地元に住む 人ならではの観光案内を行った。すると、観光客にはそれが非常に受けて、他の旅行会社 等の観光会社に口コミで広く知られるようになった。そして、この最初の小さな成功が、 その後の枇杷倶楽部の事業ノウハウの基礎を形づくり、旧富浦町・現南房総市の観光をけ ん引することになる独自開発の新しい観光集客手法「一括受発注システム」につながって いった。 「一括受発注システム」とは、次のようなものである。南房総には、小規模な観光事業 者が多く、決定的な目玉となる観光資源がない。そこで、地域全体で小さな観光資源を一 まとめに束ねて独自のツアーをする。地域の飲食店、観光農家、文化活動の担い手などと 一緒に議論をして、地域資源を洗い出し、観光客の五感を刺激するような観光メニューを 編み出す。そして、それを観光客はもとより、観光会社にも利用しやすい形でパッケージ にして、それを観光会社に売るというものである。 さらに、その企画を売りっぱなしにするのではなく、事業者の割り振り・手配、紹介、 観光客の送客の配分、代金の清算までを一括して行う。これを道の駅である「枇杷倶楽部」 が中間組織として、観光会社と観光受入施設の間に入って行う。観光客からクレームが発 生した時には、枇杷倶楽部が前面に出て対応に当たる。 このように、食事会場をはじめ、体験、果物狩り、観光施設などが小規模でもそれらを 束ねてサービスを均一化し、約束通りの品質とサービスが出来るようになると、大口の観 光客の受入れが可能となる。枇杷倶楽部が地域の観光素材を組み合わせて、旅の計画から 手配、紹介、清算までを一括して引き受けることは、観光会社にとってメリットが大きく、 観光会社による積極的な利用を生み出し、人気を博していった。 観光バスツアーを誘致していく中で、養殖の真鯛を使った「鯛のシャブシャブ」や「お 寿司食べ放題」等の昼食のメニュー開発、花摘みのメニュー開発、枇杷狩り、メロン狩り、 食用菜の花摘みなど、様々な観光サービスのメニューを開発していった。大漁で値崩れを 起こした魚を冷凍保存しておいて、春の観光シーズンに漁協がヒラキ等に加工して枇杷倶 楽部などで販売する仕組みも作った。 ピークだったのは 2007 年 12 月の東京湾アクアライン開通の年で、年間 5,000 台、15 万 人の観光客が枇杷倶楽部に押し寄せた。花狩りのシーズンと重なった時期は1日 80 台の観 光バスを受け入れた日もあった。最近でも、年間 2,500 台程度の観光バスが訪れている。

(10)

そして、誘致した観光バスツアーの多くの観光客への商品販売にもつながっている。 1991 年以来試行を重ねて「一括受発注システム」として確立した独自の観光集客手法は、 枇杷倶楽部に関わる多くの人たちが、既成概念にとらわれずに手づくりで地道な模索を積 み重ね、数々の事業の中で成功と失敗と改善を繰り返した中で生み出されてきたものだっ た。

(3)地元住民一人ひとりの手による文化発信

「富浦の顔」となった人形劇による文化振興

旧富浦町では、1988 年から始まった「人形劇の郷」づくり事業が、今でも継続的に行わ れている。町に稽古場を開設した人形劇団「貝の火」を中心に、本格的な人形劇を子ども たちに伝えたいという考えから始まった。「子どもたちに豊かな文化を」をテーマに、1989 年から毎年夏の1か月間、公民館を劇場に仕立てて、「富浦人形劇フェスティバル」を開催 し、34 公演というロングラン公演も行った。人形劇を見に、地元はもとより県外からも多 くの観劇者が訪れる。 町では 1989 年に、人形劇の専門家の協力を得て、昔から地元に伝わる伝説を知っている 人に話を聞いて、「竜子た つ こ姫ひめものがたり物 語」という人形劇を企画制作した。この竜子姫物語は配役が多 く、夏のフェスティバルでは、地元の人たちをはじめとして多くの人たちが総出演する。 その後、1994 年には人形劇「里見八さ と み は っ犬伝けんでん第1話」、1997 年には「里見八犬伝第2話」を制 作した。さらに、町では、こうした人形劇をイベントとしての文化発信だけではく、地域 の活動として、子どもたちが受け継ぎ深めていくことを願い、1990 年には小学生を対象に した「人形劇学校」を開設し、1991 年には南房総の小規模の学校を対象にした「出前人形 劇」の公演も開始するようになった。 「道の駅とみうら 枇杷倶楽部」では、そのプロジェクトが 1991 年に始まった当初から、 「文化振興の拠点づくり」の一環として、この人形劇の取組と積極的な連携を図っていっ た。毎月第4土曜日には、枇杷倶楽部を中心に人形劇の稽古が行われている。毎年、夏休 みの間に開催される人形劇フェスティバルでは、枇杷倶楽部やその他地域の各会場は、「文 化が人をつくり、地域をつくる」という雰囲気に包まれる。かつて、枇杷倶楽部のプロジ ェクトを開始した頃には、「富浦は、文化事業をやっても根付かない地域だ」と言われてい たが、今では富浦に確実に文化が根付き、この人形劇は「富浦の顔」として定着するよう になった。

地域の住民を講師とするお茶会「枇杷倶楽部茶論

さ ろ ん

」の開催

枇杷倶楽部では、南房総で地道に活動している人にスポットを当て、地域に根を張って いる文化人の発掘を目指そうと、1995 年に「枇杷倶楽部茶論」を開始した。南房総で地道

(11)

な活動を続けている人や、ユニークな活動をしている人などを講師に招いて、枇杷倶楽部 のアトリウム(多目的ホール)を利用し、自由にお茶を飲みながら話を聞き、友達になろ うというものである。住民も観光客も気軽に参加できるようにとサロン的なスタイルを取 っており、事前に申し込みをする必要もなく、参加費も 500 円と安く設定している。 毎回の参加者は、10 数人から 100 人程度までまちまちである。1995 年 11 月の第1回か ら毎月開催され、2008 年1月で 159 回を数え、延べ参加者は 4,841 人に上る。今では、こ の枇杷倶楽部茶論は、南房総文化人への登竜門的な存在になっているという。小さく地道 な取組で決して派手な企画ではないが、文化振興で地域を活性化しようという大命題があ る中で、地域の文化的な資源と人材を発見し、スポットライトを当てるという作業として、 その持つ意味は大きい。

地域を再発見する「ウォッチング富浦」

1992 年、地域の産業が疲弊し、地域に元気がなくなっていく中、「外から人を呼びたい、 でも呼ぶだけの力はない、それならまず地元周辺の人々を呼ぶことを始めよう」と富浦に 住む人たちが市民グループ(現在の「NPO法人富浦エコミューゼ研究会」)を立ち上げ、 ふるさと富浦を再発見する活動「ウォッチング富浦」を始めた。NPOスタッフは、「(富 浦の)私たちは、自分たちの住んでいる地域(富浦)のことをどれだけ知っているでしょ うか。また、自分たちの地域を訪れた人たちに、どれだけのことを伝えられるでしょうか。 たぶん、ほとんどの人たちが、自信がないことでしょう。意外と知らないし伝えることが できないのが実態なのです」と話す。そこで、まずは、住民自ら地域を知り、地域に誇り を持てるように、地元周辺から少しずつ人々を呼ぼうとした。 最初は子どもたちをウォッチングに誘うことで、その大人たちもついてくるようになる だろうと考え、毎月1回土曜日(年間 12 回)に子どもたちを連れて富浦のまちを歩く活動 を行った。2∼3年が経つと、大人たちが加わるようになり、そのうちに子どもより、大 人の方が多くなっていった。子どもと大人が混在すると、どうしても大人向けに案内して しまい、子どもたちがだんだんと参加しなくなってしまった。そこで、子ども向けと大人 向けを分けるようにし、それぞれを毎月1回ずつ土曜日別々に行うようにした。 地道な活動が成果をあげるようになった頃、枇杷倶楽部の依頼で、地域の外からの観光 客をウォッチングに案内する事業を行うようになった。そうすると人手が足りなくなり、 現地ガイドを養成する必要が生じたため、2004 年から養成事業を開始した。「立て板に水の ごとしの言葉を羅列するガイドをめざすものではなく、郷土を愛し、郷土に誇りを持って 来訪者にお伝えできるガイドを育成しようとするものです」とスタッフは話す。 最近では、こうした現地を見て歩く活動に加えて、今までやってきたことを紙芝居にし て、疑似体験してもらおうという活動を始めるようになった。枇杷倶楽部のスペースでも、 観光客などへのサービスとして地元の民話や歴史などを紙芝居で演じて語る活動を行った ところ、評判が上々だったため、その後も継続するようになった。観光客は次々と枇杷倶

(12)

楽部にやってくるため、1日に何回も繰り返して公演し、1日に延べ 150 人ほどの客が見 ていく。紙芝居を見た客の中には、「その場所に行ってみたい」と言い出す人もいて、「コ ースを教えるから行ってみたらどうですか」、とメンバーがアドバイスをすることもあり、 結果として観光ガイドにもなっているという。 紙芝居を演じるメンバーは「『あそこ(枇杷倶楽部)に行けばなんかおもしろいことをや っている』、地元の人は『あそこに行けば誰かに会える』、外からの観光客は『あそこに行 けばおもしろい人物に会える』、そんな雰囲気がこの道の駅にはあります」と言う。更に、 今後の夢として、富浦以外の地域も盛り立てていきたいと考えている。

住民の文化発信基地としての道の駅

このように、枇杷倶楽部では建物の中のスペース(アト リウム等)を地域の住民による文化事業の発信の場とし、 地域で育ち始めた「人形劇」や「ウォッチング富浦」の活 動を発展させ、「枇杷倶楽部茶論」を通じて地域の文化的 な資源や人材を発掘し、文化的な繋がりを広げてきている。 この他、枇杷湖倶楽部の展示専用「ギャラリー」も、地 元のアマチュアからプロまで幅広い人たちの支持を集め て、年間を通してほぼ予約で埋まり、予約が取りにくいと の苦情が出るほどの人気スペースとなっている。 道の駅を文化振興の拠点にして、文化づくり、人づくり、地域づくりをしようという狙 いは、着実に成果をあげつつある。

(4)インターネットを活用した地域の情報発信

地域の情報発信を行うポータルサイト

「南房総いいとこどり」

地域の情報化については、経営が安定してきた 2001 年に、イ ンターネットの普及に合わせて「南房総いいとこどり ∼観光コ ンシェルジュ∼」という南房総全域を対象としたポータルサイト を構築した。イベント情報、ヘッドライン・ニュース、釣り客の ための潮位情報、交通情報、ライブカメラ、国土地理院の電子国 土地図情報システム、「一括受発注システム」の電子化による体 験観光コース提案システムなどを構築している。 町の管理するサーバーに町民1世帯ごとのホームページを無 償で提供し、釣り船や農家の直売に活用してもらおうと、「町民 「枇杷倶楽部」のアトリウム 「枇杷倶楽部」のマルチメ ディア情報通信コーナー

(13)

1世帯1ページ運動」という取組も行っている。自分でインターネットができず、連絡先 にも電子メールアドレスがなかったとしても、電話番号やファックス番号があれば、ホー ムページの広告を見て新たな観光客や取引先などを誘客することができる。技術的には非 常に初歩的な支援だが、一定の効果を発揮するとともに、情報技術格差を解消する上でも 意味のあるものとなっている。 ポータルサイトへの訪問者は年々増加し、今では年間 200 万アクセスを超えるようにな っている。

4.道の駅と地域づくりの模索から生まれた経営理念

(1)道の駅と地域づくりの理念

道の駅と地域づくりのベースとなった「エコミュージアム」の理念

所長は、道の駅の整備を進める中で、「地域全体に波及効果を作るためには、どうしたら いいか」、それまでの全国の事例を見ても、当初は、答えをなかなか見つけられずにいた。 観光は、季節変動の影響を受けやすく、どうやって地域全体への広がりを作るかが大きな 課題の一つだった。そこで思いついたのが「花」であった。温暖な南房総の特徴を生かし て、富浦の特産品である「花」で人を呼べないかと考えた。 最初は、「道の駅とみうら 枇杷倶楽部」の近くの土地を使って、花などの農場を造ろう と考えた。そんな時、「なぜこの事業をやろうと思ったのか、枇杷倶楽部の近くにわずかし かない平坦地を使って、花の農場を造ってどうするんですか」と言われて、「はっ」と思っ た。「僅かな土地に花の農場を作って、観光客はそれで満足するだろうか。」 ちょうどその頃、所長は、フランスの「エコミュージアム(エコミューゼ)」の視察に行 く機会を得た。エコミュージアムは、エコロジー(生態学)とミュージアム(博物館)とを 組み合わせた造語で、ある地域における自然、文化、人々の生活様式など有形無形のあら ゆるものを総体的かつ永続的に、住民自身が見直し住民の手によって研究・保存し、展示 していこうという概念である。いろいろな生態系があるからこそ文化遺産が生まれる、だ からまちを保存するには生態系ごと残すべきである、というものであった。 エコミュージアムというあり方に衝撃を受けた所長は、かつて、自分の苦い経験を思い 出した。旧富浦町では、町役場の庁舎、公民館、体育館などはまとめて配置した方が効率 的でいいという考え方から、地域の中心部の一箇所に集中させて一緒に作ってしまった。 しかし、その結果中心部は人口が増えたが、他の地域は人口が大幅に減ってしまったこと から「地域の機能(施設など)は、分散して配置する方がいい。その機能が本来あるべき ところに、そのまま配置しておくのがいい。離すことで、人の動きが生まれていく。積極 的に離した上で、地域全体を統合しながら運営していく方法がいい」と考えるようになっ た。 そして、花の農場を造る場所も枇杷倶楽部の近くではないところに作った方がいいと考

(14)

え、1993 年に直営農場「花倶楽部」を離れた場所にオープンさせ、その役割を「産業振興 を担う具体的な現場であり、新しい体験型観光事業の展開の場である」と位置づけた。こ の花倶楽部も、2003 年8月には「道の駅おおつの里 花倶楽部」として道の駅に認定される ことになった。 先に述べた、観光を牽引することになった独自開発の新しい観光集客手法「一括受発注 システム」も、こうしたエコミュージアムの考え方から生まれた。つまり、枇杷倶楽部に あれもこれもは必要ない。分散してそれぞれに機能しているものを統合するシステムがあ ればいい。管理・統合機能として、インターネットのサーバーのような役目が、「道の駅と みうら 枇杷倶楽部」にあればいいと考えた。「南房総いいとこどり ∼観光コンシェルジュ ∼」というインターネットのポータルサイトの仕組みも、同様の発想から作成している。

(2)組織運営と人づくりの理念

信頼関係をベースとした現場スタッフの自律運営 ∼事業は人なり∼

枇杷倶楽部の所長は、「道の駅は、地域に馴染ませるのに 10 年かかった。一番大事にし てきたのは、信頼関係だった。一人だけで儲けるのではなく、皆で儲けるようにしてきた。 この枇杷倶楽部は、経営者だけでなく、正社員やパートなど事業に関わったあらゆる人の 志の総和で成り立っている。ここは人材の集団だ」と話す。 枇杷倶楽部では、パート従業員の条件はあまり良いものと言えず、季節労働者もいるが、 継続している人が多いという。あるスタッフは「ここはパートでも、憧れの職場なんです」 と言う。枇杷倶楽部の従業員は、正社員・非正社員合わせて約 70 名のスタッフがいるが、 うち 60 名は女性である。 また、組織もピラミッド型にはせずに、権限をなるべく現場に委譲して運営を行ってい る。所長は、「組織・施設本体が傾かない限りは、ある程度資金を自由に使ってやっていい。 ただし、本体が傾くような事だけはするな。」と指示して、現場に任せてきたという。そし て、利益が出たら、正社員にもパートにも利益を返し、ボーナスを払ってきている。「イン センティブを与えない限り、スタッフは本気にならない」と話す。 「道の駅おおつの里 花倶楽部」とその栽培温室施設 「枇杷倶楽部」の隣の菜の花畑

(15)

スタッフの採用試験では、所長は立ち会わずに、現場の職員に任せている。スタッフに は、「仕事は好きなように自由にやってもらう。ただし、スタッフ同士で喧嘩をしたら、二 人とも辞めてもらいます。理由は聞きません」とだけ、所長自ら話している。長く務める スタッフは言う、「ここでは、自分に責任を持たせてくれる。ある程度の細かいことは、各 自担当が決めていいよ、と言って自由にやらせてくれる。その分、責任も伴うが、挑戦で きるのがいい」

5.南房総市の地域振興に向けた今後の展望

信念に基づく地道な模索の連続が「道の駅」と地域振興の成果を生んだ

前述したように、事業を開始した当時は、バブル経済が崩壊し、全国の第3セクターが 次々と経営危機に陥っていた。旧富浦町には、第3セクターを運営するノウハウはなく、 道の駅の概念もまだ確立しておらず、町財政に全く余裕がなかったことから、拠点施設の 計画やその経営計画の立案は困難な作業の連続だった。その上、地域経済効果への期待、 常に付きまとう赤字への懸念、地元同業者などからの反発といった、人々の様々な思いが 渦巻いていた。更に、「経営体の黒字を確保した上での地域への貢献」を目指したため、事 業運営は難渋を極めた。地域の人々との関係を構築し、地域の中で広く認知を得るように なるまでに、およそ 10 年の歳月を要したという。 町の担当職員、枇杷倶楽部の従業員、関係者たちは、「町の地域振興をめざした第3セク ターの事業が赤字を出したら、かえって地域振興を阻害して、地域にマイナスになる。絶 対に赤字は出せない」というプレッシャーに耐え、道の駅の運営に挑戦していった。そし て、工夫を凝らした多様な取組によって、道の駅の事業は毎年黒字が続き、その黒字がさ らに活力を生み出して、地域に波及効果を生んで行った。地域に経済効果が広がって、大 きなものになっていくに連れて、地域の人々の理解が進み、地域にとけ込んだ事業に育っ ていくこととなった。 また、この富浦の道の駅事業では、2000 年3月の「道の駅グランプリ 2000」において全 国多数の道の駅の中から最優秀賞を受賞した。その受賞を含めて、様々な外部の機関から 多くの表彰を得るようになっていった。そうした表彰が地域の理解を得るのにも役立った。 国のリードによって道の駅が全国各地に普及し、その流行にうまく乗っていけたことも功 を奏した。 道の駅の売上は増え続け、年中多くの観光客が安定して訪れるようになり、毎年2億円 を越える地域への経済波及効果、約 60 名の雇用創出効果をもたらしている。

(16)

■道の駅とみうら 枇杷倶楽部の実績 2007 年 2008 年 道の駅の年間売上額 644,127 千円 674,518 千円 地域への経済波及効果 280,270 千円 286,825 千円

より広域の地域振興へと広がる人々の夢

南房総市では、次のステップとして「エコミュージアム」の考え方をベースに、枇杷倶 楽部、富浦を中心に行ってきた観光集客方法「一括受発注システム」を始めとした様々な 取組を南房総全域に広げていこうとしている。 南房総全域での個人客をターゲットとした「一括受発注システム」の構築、団体の日帰 り客向けを中心に行ってきた観光バスツアーを宿泊客まで広げるための品質管理システム の構築、地産地消の更なる全市的な広がり、インターネットによる情報の利便性を高める ための情報基盤(ホット・スポット)の全市的な展開、小規模零細な観光事業者の情報発 信力強化や予約システムの構築など、南房総全域での「観光コンシェルジュ」としての役 割をより一層充実させていきたいと考えている。そして、「枇杷倶楽部を人で一杯にして、 富浦を人で一杯にして、南房総を人で一杯にしていきたい」と所長は言う。 「地域振興はすべての人々の望みである。地域が生き残っていくには、やむにやまれぬ 地域への情熱が突破口になると思う」と所長は語る。そして、仲間のスタッフや後を継ぐ 若い人たちにこう話し続けていると言う。「つらくても、一段、階段を上がれば、風景が変 わって見えるよ。きつくても、半歩踏み出せば、世の中の風向きが分かる。努力してやっ てみなさい。そうすることによって、地域は生まれ変わるよ」

(17)

「道の駅とみうら 枇杷倶楽部」と「道の駅おおつの里 花倶楽部」の組織と事業 (資料:南房総市・(株)とみうら)

(18)

山村集落活性化計画「山彦計画」

地場産品のブランド化や定住促進、農業の 1.5 次産業化といった

様々な取組により、山村集落を活性化

【取組の概要】知恵を駆使し、集落にあるものすべてを生かした活性化

羽咋市は能登半島に位置し、西側は日本海に面して風光明媚な砂浜が伸びる。海から市 内中央の平野部に市街地が形成され、市の東部に広がる山地は人口の減少と高齢化が顕著 な地域となっている。羽咋市では、2007 年、神子み こ原はら地区という中山間地域の活性化計画で ある「山彦計画」を策定し、山村集落の活性化を目指している。 山彦計画は、農産物の価格を市場に委ねるのではなく、農家が作ったものを農家が値段 をつけられる仕組みを作り、農業所得の向上により人口減少を食い止めようとするもので ある。 平野部より収量が少ない高地で栽培される神子原地区の良質な米をブランド化し、米価 をそれまでの3倍ほどに跳ね上げることに成功した。また、農家による自立した販売体制 を構築するとともに、農家に出資を募って会社を設立し、地区住民のみで管理運営を行う などしている。 また、農家と都市部の大学生との 交流事業を実施して賑わいを創出 する一方、移住を推進する制度を用 意して、若い世帯が集落に移住しや すい環境を整備するなど山村集落 の活性化に取り組んでいる。

1.「羽咋にあるもの全てを活かそう」羽咋イズムで産業振興

知恵を駆使した事業のはじまり

2005 年4月、「1年後には農産物をブランド化します」という市長の公約のもと、庁内に 1.5 次産業振興室が設置された。1.5 次産業とは、1次産業の農業・漁業・林業の生産品等 を加工し、2次産業化を進めて付加価値を高めるものを指すが、そこには知恵を使って、「羽 咋にあるもの、羽咋から産出されるもの、あるもの全てを活かそう」と市長が言う 羽咋

羽咋市

は く い し

(石川県)

神子原地区の田園風景と、「神子原米」のイメージポスター

(19)

イズム の思いが込められていた。1.5 次産業振興室の担当職員は、専任1名と兼任1名の 合計 1.5 名で、一般会計予算 60 万円でのスタートだった。まさに少ない人員と予算とで、 知恵を駆使しての事業だった。 「1.5 次産業振興室の課題として市長から言われたことは、簡単に言えば『活性化しなさ い』とそれだけです」と、市の専任の担当職員(1.5 次産業振興室総括主幹 高野誠鮮たかのじょうせん氏) は言う。羽咋市の中でも最も疲弊していたのは山村、特に人口減少が顕著な神子原地区で、 多様な方策を駆使して神子原地区の活性化を仕掛けていった。これが「山彦計画」で、市 長は「ブランド化については1年間で成果を出すように」との指示を出していた。 「私がやったことは戦略です」と、高野氏は説明する。「行政は活性化と聞けば、すぐに 書類や冊子を作ったり、シンポジウムを開いたりするが、正直なところ、印刷物をいくら 作っても、会議や討論会を何回開いても、農村は何も変わらない。そうしたやり方には、 理念に基づいて行動するということが欠落しているし、また、行政マン自身が理念を持っ ていない。」「農業の最大の欠点は、(流通・販売事業者等が主導権を握っているため)自分 (農家)が生産しているものに自分(農家)で値段を付けられないということ。」生産、販 売、管理のサイクルを自分で持ってもらう必要があり、そのために「従来の流通を変えて いく」という戦略が自ずと見えてきた。山彦計画では、戦略に基づいて、いくつものプロ ジェクトを神子原地区において同時並行で進めていった。

2.農家が作ったものは農家で値段を決める

世界ブランド

神子原米

の誕生

神子原地区は過疎の山村で、人口約 500 人、20 年間で人口が半分に減少し、地区内には 高齢化率が 60%近くの限界集落を抱え、耕作面積 110ha に対して遊休農地が 46ha にも上る。 そして、調査していくうちに、神子原地区生産の米が雑誌の米ランキングで、2度も全国 で3位になっていることが分かった。そこで、魚沼産米よりも高い評価を得たことがある という神子原の米のブランド化に乗り出した。 まず、神子原地区の住民に対して、「自分たちで苦労して作った農産品には自分たちで値 段をつけることに取り組みましょう」と米のブランド化の話を市が持ちかけたところ、耳 を傾けてくれたのは、169 世帯の内のわずか3世帯の農家だけだったが、この農家3世帯の 協力を得て、市は神子原米のブランド化を実行に移していく。 「魚沼産と同じ戦術は取れない。ブランド化するにはどこから手をつけるか。ブランド とは、生産者や流通業者が決めるものでもなければ、ましてやコンサルタントが作れるも のではない。本来は消費者が決めるものなのではないか。」市ではそう考えて、消費者の「あ こがれ」の意識を利用することにした。「消費者は、社会的に影響力を持つ人が嗜好してい る物にあこがれを抱く。有名芸能人がドラマで着ていた服や身に付けていた雑貨、大統領 一家が飼っているペットなど、メディアで紹介されるとそのブランド価値が一気に高まる。

(20)

だから、神子原米を著名な人に食べてもらえば、ブランド化するのではないか」と考えた。 実際、神子原米は市民の間では極上米とされており、雑誌でも評価されていることから、「そ れだけの価値はあると思った」と高野氏は話す。 そこで、神子原の「神子」をキリストと捉え、ローマ教皇に召し上がってもらってはど うか、というアイデアを思いつき、市としてバチカン大使館に手紙を書いた。日本の石川 県羽咋市にある神子原というところは山村であり、農業用水には工場廃水はもちろん人間 の生活排水も入っていないこと、そして地名がまさに「神の子」の原ということを伝える とともに、「ここのお米は教皇様に召し上がっていただける可能性は1%もございません か」と尋ねたのである。 すると、しばらくして、大使館から「大使とお会いできる」という連絡があった。2005 年 10 月に神子原米 35kgを持って、市長と神子原地区の地区長と担当職員で大使館を訪問 し、大使と代理大使に面会することが叶った。「神子原の村は、ここ 20 年ほどで疲弊して 人口は半分になり、羽咋市内でも非常に小さな村です」と市長が紹介すると、「バチカンも 世界で一番小さな国です。小さな村から小さな国への架け橋になりましょう」と、大使が 応えてくれた。教皇に献上する品物は限られたものしかないが、2005 年 12 月、その一つに 神子原米と神子原米で作られた日本酒「客人まれびと」が加えられた。

米価が上がった、

「農業を続けていてよかった」

神子原米のことはカトリック新聞に取り上げられて、全世界の信者に広がった。すると、 すぐにカトリック系の有名大学からバザーで使いたいと申し出があり、「いくらですか?」 と聞かれた。その時はまだ集落の中で協力する農家が3世帯しかなく、1kg700 円と返事す ると、「意外に安い」ということで注文があり、すぐに 10 俵が売れた。その後、テレビな ど国内のメディアにも取り上げられて、1か月間で 500 俵を売上げた。当時、農協に出荷 すると1俵が 14,000 円のところを、42,000 円程で取引されることになった。日本から教皇 への献上品は織田信長の屏風に始まるが、戦国時代から現在までの歴史の中で、日本の米 を献上したという例はこれまでになかったため、ブランド価値が高まり、一気に注文が飛 び込んできたのである。 こうして、取組が開始されて以来1年経たず、市長の公約である羽咋の「農産物のブラ ンド化」が実現した。2006 年1月、「農業を続けていてよかった」と農家の喜びを報じた記 事が新聞に掲載され、市の職員も涙した。

会社設立で農家による独自の流通構築へ

神子原米の流通の方法について、当初は羽咋市が販売して、百貨店などからの注文を受 けていた。商標も羽咋市として登録した。しかし、販売業務をいつまでも行政が担うこと はできないことと、神子原米をベースとした新たなる展開を図るために、農家が自前で会

(21)

社を作り、自らの農産品を自ら販売するという次のステップへの構想を立てた。 他地域と同様に、羽咋市内でも険しい山間部ほど農業所得が低い傾向がある。山の中で は田んぼに機械が入らないため、大規模化・合理化した農業経営は難しく、また、会社等 に勤めて兼業するとしても交通の便が悪く、通勤は容易ではない。農協の米の買取価格は 毎年下がって行く一方、所得が全国の平均所得を大きく下回るようになった結果、山間部 の集落で離村が多くなっていた。そうした中、農業所得を上げるべく、生産物の価格を市 場の決定に委ねるのではなく、自分たちで値段をつけられる流通を構築するための道筋が、 「神子原米」の成功のおかげで見えてきた。市の担当職員は、農業で食っていけるように するにはどうしたらいいかをとことん考えた末、次のステップとして会社の設立と直売所 の経営に着手した。 当初、地区の住民の間では、「農家が会社経営なんてしたらすぐつぶれる」、「物が売れな かったらどうするんだ?役所が責任取るのか?」と、否定的な意見が多かった。だが、市 では、「どんな地域でも初めて新しいことをしようとすれば賛成者、反対者、無関心の3者 が出て混沌とするのは常で、やがて成功が見えてくると皆が賛成に変わってくれるだろう、 過疎の村をなんとかしたいという思いは地区の誰しもが同じなのだから」として、計画の 推進を粘り強く働きかけ続けた。そして、地区では「会社と直売所を作ろう」ということ になり、会社組織や直売所のあり方について議論を行ったが、関係者の間で合意がなかな か得られず、実際の立ち上げまで、1年半の間に 45 回もの会議を行った。

女性たちのアイデアがふんだんに盛り込まれた直売所

直売所を具体的にどういうものにするかを話し合う会議が地区で何度も開かれたが、な かなか話が前に進まなかった。会議に集まるのはほとんどが農家の男性たちだったが、そ の進捗状況を見ていた女性たちは、「農産物を加工し、レジに立って販売するのは女性たち なのに、加工しない、レジにも立たない男性たちだけで施設設計などの話を進めるのはお かしい」と感じるようになっていた。 男性たちの直売所の設計図は、外観にこだわり、瓦葺、小川が流れる日本庭園に水車ま であった。これに対して女性たちの間に、現場で施設を利用する立場から案を出したいと いう思いが沸き起こった。そこで、女性たちは集まって、男性たちが会議するすぐ近くの 建物で秘密の会議を開くようになった。女性たちの会議は極めて現実的で、「何のため(目 的)に、何をすればいいのか(行動・実践)」が綿密に検討され、レジの高さやカウンター 内部などを緻密に計算して、機能性・合理性を重視し、装飾に予算をかけないシンプルな 方向でアイデアを固めていった。 その結果、女性たちは、設計、配置から直売所の内容まで、男性たちが作る計画とは全 く違うものを作り上げたが、その計画を知った男性たちは怒った。「川が流れていない!水 車が回っていない!」。それに対し女性たちは、自分たちも力になりたい気持ちから、「頑 張って(直売所でたくさん売上げて)父ちゃんをハワイに連れて行こう」を合言葉に、内

(22)

容を考え設計してきたことを打ち明けて、男性たちに納得してもらった。女性たちの案は、 現場で施設を利用する立場からよく考えられており、その良さを取り入れることになった。 こうした女性たちの活躍のおかげで、直売所の内容検討や設計はその後スムーズに進むよ うになった。

地区住民の手で直売所がスタート

2007 年3月、ついに「農業法人株式会社神子み この里さと」が立ち上がった。高齢化が進み、人 口が半減し、再生を諦めかけていた地区が、住民自身で出資し、会社を運営することにな った。市は全く出資せず、農家が協力して資本金 300 万円をかき集めた。神子原米のブラ ンド化を始めた頃には3世帯のみの新たな取組だったが、地区の農家 196 世帯の内 131 世 帯が出資する会社ができた。会社の販売所や倉庫などの施設は、農林水産省の補助を活用 して市が建設し(※)、会社が指定管理者として管理運営を行っている。社長からスタッフ まで全員が地区住民で、移住者を含む 11 名が働いている。維持管理、運営までをすべて地 区農家の自主運営で行っている。 直売所は、「神子原農産物直売所『神子の里』」の名前で 2007 年 7 月にオープンした。地 区の農家が野菜や加工品などを持ち込み、その作った農家自身が値段をつけるシステムが 確立でき、売上の情報が自宅でわかる機器が導入された。開店当初、出荷する農家数は少 なかったが、徐々に増えて現在は 30 軒ほどになった。中には月に約 30 万円を売り上げる 農家もあり、会社は初年度の決算で 6,800 万円を売り上げ、2008 年度も前年度を上回る勢 いで伸びている。 直売所では、商品の品質管理に非常に気を配っている。昔は、農協に出荷できなかった 品質の劣る商品でも、地元で何かの機会があれば販売していたが、この直売所では品質が 悪いものを出荷しないように注意している。「農薬や化学肥料を使って量産した米は農協に 出荷してください」と、農家に店長が説明する。こうして地元産の高品質の農産物を農家 が胸を張って値段を付け、販売するシステムが構築された。消費者からの反応で農家がや る気を出し、もっといいものを作る好循環が構築され つつある。 (※)事業名:山彦計画「神子原地区農産物直売所等建設 事業」(2006 年度住みやすい中山間地域づくり事業)、 事業予算:1億 1400 万円(国庫 50%、県費 10%、 辺地債 40%) 神子原農産物直売所「神子の里」

(23)

3.集落主体の都市・農村の交流

農家が擬似親「よぼし親」として大学生を受入

羽咋市が属する能登地方には、近隣で実の親子ではない者同士が「よぼし親」、「よぼし 子」として擬似の親子関係を結び、農作業や冠婚葬祭等で助け合うという風習が現在も存 続している。この風習を上手く使って、農家において都市住民の宿泊受入を可能にしたの が、羽咋市の「烏帽子よ ぼ し親農家制度」である。 都市の大学生との交流で農村の活性化を図ろうとしていた市は、大学生が農村にやって きて農家の生活を体験できる良い方法を模索していた。農家に大学生が宿泊してその代金 を農家に支払うとなると、問題となるのが旅館業法、食品衛生法、建築基準法、消防法な どの法基準をクリアすることである。他の自治体で広がりつつある農家民泊という方法を とると、改築したり、講習を受けたりすることで費用や手間がかかる。 そこでもっと簡単な方法として考え出されたのが、大学生をお客として扱うのではなく、 農家の「よぼし子」とし、農家と大学生で親子関係を結ぶ方法だった。そうすれば、親子 関係のこととして、滞在や金銭のやり取りには法が適用されなくなる。旅館業法等を管理 する石川県との協議を経て、2005 年5月に、石川県認可事業として「烏帽子親農家制度」 がスタートすることになった。 よぼし子の希望者は、事務局となっている市の窓口に申し込み、体験料として大人1泊 2日 5,000 円、大学生 2,500 円(価格は 2009 年 1 月現在)を支払う。滞在中、参加者は農 家の「子」となり、田畑に出かけての農作業や、こんにゃく作り・そば打ちなどの体験を する。受入の体制が整ったことで、次は参加者を募っていくことになった。

「よぼし子」第1号の女子大生が農家にやって来た

若い大学生たちは農業を全く知らないため、本格的な農作業となると実際にはほとんど 活躍の機会はない。だが、農家が大学生を受け入れて交流することを通じて、若者に農村 の良さや農業のすばらしさを知って欲しいという思いと、農家の人も活力あふれる大学生 を受け入れることが刺激となって、農家自身に変化や成長が生まれるのではないかとの思 いがあった。もちろん、そのためには、ただ学生を泊めるというのではなく、一緒に働い て、一緒に食事をして、日常の生活を共にするというのが必要だった。 市の担当職員が農家に制度を説明する際、「都会から大学生を受け入れて日常生活を過ご してください」とは言わず、「『よぼし子』を受け入れてください」と言うと、すんなり意 図が伝わった。しかし、当初、農家の人たちは、都会から人をいきなり受け入れるのには 抵抗があった。そこで、市では地区住民みんなの信頼が厚い一軒の農家に頼み込んで、最 初の受入を了解してもらった。2005 年7月に、「よぼし子」の第1号となる女子大生2人が 東京からやってきて、最初に親子の杯を交わした。滞在中、昼間は農作業とそば打ちやこ

(24)

んにゃく作りなどを体験し、夜には親子で晩酌を楽しみながら、農作業の疲れを癒して2 週間を過ごした。集落の人々は毎晩の楽しげな晩酌の様子を見て、次第に農作業体験に協 力したり、夜の晩酌に加わるようになった。最後には集落の人たちが集まって、女子大生 2人による報告会と送別会を開いた。 この時によぼし子第1号となった学生は、社会人になった今でも、よぼし親の農家に毎 年泊まりに来る。「これが私の彼氏です」と紹介しにやって来たこともあった。よぼし子は 数か月に一回はよぼし親に電話を入れて、また、よぼし親からも「元気か?」と連絡を入 れる。つい最近は、よぼし親農家によぼし子から「こんにゃくの作り方を教えてほしい」 と電話があり、よぼし親はこんにゃく芋を彼女に送ったという。彼女は、農家にとって本 物のよぼし子同様になった。

東京からの大学生たちの「援農合宿」

よぼし子第1号の成功で烏帽子親農家制度は弾みが付き、翌年の 2006 年からは、東京の 大学生 30 名ほどが「援農合宿」として神子原地区菅池町すがいけまちの集落に来ることになった。合宿 では、彼らがどこのうちに泊まるのか、行政や自治会で割り振ったりせず、彼らが自ら一 軒ずつ農家に交渉するという方法をとっている。農家が見つからなかった場合は、集会所 に宿泊することができるが、そこには寝具があるだけで食事も風呂もない。 この方法をとるようになったのは、ちょっとした失敗が発端となっていた。大学の夏休 みに学生たちが来ることになっていたが、その2日前になって、事務手続き上のミスから まだ宿泊先の農家が1軒も決まっていないことが分かった。そこで、「だったらいっそのこ と、行政と自治会で宿泊先を決めてしまうという方法はやめて、学生が農家に直接交渉す るということにしよう」ということになった。「こういう子たちが訪ねてくるかもしれませ ん。できるだけ受入をお願いします」と、事前に学生たちの紹介文を全農家に配布し、「交 渉に来た学生が気に入らなければ泊めないでください」と付け加えた。学生たちは必死に なって、農家に対してどうしてこの村に実習に来たのかを説明した。学生はちょっとした 試練を経験する。「じゃあ、風呂入っていくか」と、泊めることにした農家としては、行政 や自治会からの頼まれごとではなく、学生を見て自分で決めたことになる。結局、当初の 事務手続き上のミスから始まったこの方法が、現在まで継続されることになった。 学生たちは全員が集まる日だけ決めて、皆それぞれ交渉が成立した農家に2週間滞在し た。学生たちは、昼間は農業技術を教わりながら、農作業や道路の草刈などを手伝い、夜 は農家といろいろな話をした。一人暮らしの農家の女性は、女子学生2人を泊めた。いつ もならその女性は、夜の8時か9時頃には就寝するが、その時には女性同士の話が弾んで 10 時、11 時頃まで話し声が絶えなかった。また、前の年に女子大生2名を初めて泊めた農 家は、学生たちの集いの場となり、夜遅くまで交流が続いた。 大学生の中でも特に都会生まれ都会育ちの者にとっては、農村の濃厚な人間関係は衝撃 的だった。大学生たちは、自分のことを本当に心配してくれているのは家族だけで、家族

(25)

だけが助けてくれるのが社会の常識と考えてきた。しかし、農村に来てみたらどうもそう ではなく、赤の他人のおじさん、おばさんたちがまるで親のように自分のことを心配して くれる。2週間が過ぎ、合宿の終了日、最初は学生の受入を躊躇していた農家も涙で学生 を見送った。ある学生は「携帯はつながらなかったけど、心がつながりました」と、感想 文を残していった。

大学生の協力で棚田で「巨大ひな壇」づくり

2007 年3月、地元住民と大学生たちの手によって、棚田に巨大な雛人形のひな壇が出来 上がった。2005 年度によぼし子第1号としてやってきた女子大生たちが提案し、2006 年度 の援農合宿でやってきた学生たちが実現させた。この「巨大ひな壇」づくりをマスコミが 紹介したことで、約 1,500 人の見物客が訪れ、神子原地区はこれまでにない大賑わいとな り、その後、この行事は毎年行われるようになった。

4.地域の基礎力となる移住者

農家と農地をセットで移住者に貸し出し

人口減少が進み住民が離村した後の集落には、多くの空き農家があり、遊休農地も増え ていた。1.5 次産業振興室が立ち上がる前の 2004 年度から、市ではこの状況をなんとか打 開できないかと考え、空き農家と遊休農地のデータベース作成を進めていた。市内の各農 村集落から選出された「空き農家対策委員」に物件と地権者の情報を収集してもらい、入 居可能な空き農家情報を新聞に掲載すると、300 件を超える問合せがあり、その問合せ者の データベースも作成するようになった。 羽咋市の「空き農家・農地情報バンク制度」では、農家と農地をセットにして賃貸(月 額2万円前後)のほか、購入も可能となっている。ただし、住民票を羽咋市に移すこと、 地元と交流し行事に参加すること、といった条件を付けている。この取組が 2004 年 12 月 援農合宿作業の風景 神子原地区の「巨大ひな壇」

参照

関連したドキュメント

題護の象徴でありながら︑その人物に関する詳細はことごとく省か

私はその様なことは初耳であるし,すでに昨年度入学の時,夜尿症に入用の持物を用

問題はとても簡単ですが、分からない 4人います。なお、呼び方は「~先生」.. 出席について =

ライセンス管理画面とは、ご契約いただいている内容の確認や変更などの手続きがオンラインでできるシステムです。利用者の

お客様100人から聞いた“LED導入するにおいて一番ネックと

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

て当期の損金の額に算入することができるか否かなどが争われた事件におい

Q7