論 文
新しい最適所得税理論と日本の所得税制
國枝 繁樹
* 一橋大学 本稿は高額所得者の所得分布を新たに推計し、最近の我が国における課税所得の 弾力性に関する実証結果を用いて、最適な最高限界税率を導出した。2003 年の「高 額納税者番付」によると、パレート分布の係数(α)は 2.1 と推計された。溝口(1987) と比較すると、最近の米国ほどではないが、日本において最上位数千-数万人の高 額所得者への所得集中が進んだ可能性を示唆する。他方、最近の実証研究では、課 税所得の弾力性は 0.051-0.28 の範囲で推計されている。その結果、我が国の最適 な最高限界税率は、最も能力の高い個人に付される社会厚生上のウエイトが相当大 きくない限りは現行水準より高く、高額所得者への課税強化は支持される。また、 課税所得の弾力性は源泉徴収・年末調整制度や給与所得控除に影響されている。1. はじめに
我が国の個人所得税は、1980 年代半ば以来、勤労意欲の維持・向上等を目的として、 数次にわたり最高税率が引き下げられ、累進構造が大きく緩和された。所得税の最高税 率と住民税の最高税率を合わせた限界税率は、87 年には 78%だったが、99 年に 50%に 引き下げられた。しかし、その後、経済格差拡大が注目される中、我が国の税制が所得 再分配機能を十分果たしていないとの指摘がなされ、2012 年 6 月 15 日の社会保障・税 一体改革に関する民主・自民・公明の「3党合意」においても、所得税につき最高税率 の引上げなど累進性の強化に係る具体的な措置について検討し、その結果に基づき 2013 年度税制改正において必要な法制上の措置を講じることで合意がなされた。高額所得者 への課税強化の動きは、他の先進諸国にもみられる。 それでは、我が国の所得税の最高限界税率の望ましい水準はどの程度であろう。所得 税の累進度の強化は、税制を通じた所得再分配を促進するが、同時に勤労意欲を低下さ せる可能性がある。従って、政府は両者のトレードオフを考慮しつつ、社会厚生を最大 本稿は、2009年11月の第8回現代経済政策研究会議、2010年9月の日本経済学会秋季大会および2011年3月の 一橋大学経済研究所共同利用・共同研究拠点プロジェクト研究セミナー「近年の所得税に関する研究」にお ける報告論文に基づいている。討論者および参加者の方々から貴重なコメントをいただいた。また、本誌の レフェリーからも非常に有益なコメントをいただいた。さらに、本研究は文部科学省科学研究費(基盤研究 A)「税と社会保障の一体的改革-格差問題と国際化への対応」の支援を受けている。記して感謝したい。 * (連絡先住所)〒101-8439 東京都千代田区一ツ橋2-1-2 一橋大学国際・公共政策大学院 (E-mail)[email protected]化させる所得税制を検討する必要がある。一定の税収を確保しながら、社会厚生を最大 化させる所得税制を考察する枠組みとしては、Mirrlees (1971)により導入された最適 所得税理論に基づく分析がある。最近では、Diamond (1998)や Saez(2001)などの「新し い最適所得税理論」の枠組みにより、能力の分布、労働供給または課税所得の弾力性な どに基づき、より現実的に最適な所得税制を導出することができるようになった。 我が国については、國枝(2007)が新しい最適所得税理論の枠組みを用いて、最適な最 高限界税率は多くの場合、現行の国税・地方税合計の最高 50%を上回るとの推計を行っ た。ただし、そこで利用した溝口(1987)の高額所得者の所得分布の推計は、75 年から 82 年の古いデータに基づくものである。また、同推計は別所(2006)の労働供給の弾性値 の推計を用いているが、Feldstein(1999)は、労働供給の弾力性よりも課税所得(taxable income)の弾力性の方が課税の経済厚生を考える上で適当であると主張している。 以上を踏まえ、本稿においては、03 年の高額納税者番付により新たに高額所得者の所 得分布のパレート係数を推計し、先行研究における我が国の課税所得の弾力性に基づき、 最適な最高税率を推計する。第2節では、高額所得者分布について、パレート係数の新 しい推計を行う。第3節においては、課税所得の弾力性についての先行研究を概観する。 第4節において、新しい最適所得税理論の枠組みを説明し、第5節において最適な最高 限界税率を推計する。第6節においては源泉徴収・年末調整制度と課税所得の弾力性の 関係について論じ、最後に本稿の結論を簡潔に述べる。
2.我が国の高額所得者の所得分布
2.1 先行研究
高額所得者の所得分布が、パレート分布で近似できることは過去より指摘されている。 具体的には、ある所得水準 Y0以上の所得 Y の分布は、次のパレート分布(f(Y)は確率密 度関数)に従うと考えられる。f(Y) =
( ) (1) (1)式のαは、パレート係数と呼ばれる。高額所得者の所得分布がパレート分布に従 う場合、αが大きいほど、所得分配は平等と考えられる。パレート分布においては、次 の(2)式(F(Y)は累積分布関数)の値は 1/αで一定となる。 1 ] ) ( [ ) ( ) ( ) ( 1 1 0 0 Y Y Y Y Y Y Yf Y F (2)Saez(2001)は、92 年および 93 年の税務申告データを用い、米国の所得分布において、 (2)式の左辺が労働所得 20 万ドル以上の範囲において 0.5 周辺で一定であることを示し た。これは、米国の労働所得 20 万ドル以上の所得分布をα=2 のパレート分布で近似す ることが適当なことを示している。もっとも、高額所得者の所得分布状況は時代によっ て変化しうる。Feenberg and Poterba (1993)は、パレート係数が、70 年代初めの約 2.5 から 80 年代後半には約 1.5 に低下したと指摘し、高額所得者への所得集中が進んだこ とを指摘した。より長期間に関して米国の高額所得者の所得分布を分析した Piketty and Saez(2003)は、70 年代から最上位 0.1%の高額所得者への所得集中が始まったことを示 しており、Saez(2004)においては、パレート係数として 1.6 が用いられている。 日本の高額所得者の所得分布についての研究は、高額所得者に関するデータ自体が少 なく、筆者の知る限り、非常に限られている。先行研究として初めに、77 年の『家計調 査』に基づいてパレート係数を約 1.3 とした青木(1979)があるが、最近の実証研究の推 計値と比較して非常に小さく、高額所得者層が分析対象に十分含まれていたかに疑問が 残る。 溝口(1987)は、国税庁が毎年公表していた高額所得者のデータのうち、最上位 3,000 の標本を用いて、62 年-82 年の間のパレート係数を推計している。そのうち、比較的 新しい 75 年から 82 年の推計値の単純平均は、α=2.541 となる。なお、溝口(1987)の 利用したいわゆる「高額所得者番付」の対象には、申告納税の対象となる所得が全て含 まれる。このため、確定申告の必要のある高額所得者等の給与所得のほか、事業所得、 譲渡所得、不動産所得等も含まれる、源泉分離課税の対象は含まれない。 最近では、岩本・濱秋(2008)が、97 年・2000 年・03 年の『国民生活基礎調査』の所 得表の個人の総所得を分析した。岩本・濱秋(2008)における「総所得」は、当調査票上 での所得の合計であり、労働所得、財産所得および社会保険料給付を含む(注 14)。具 体的には、各観測値につきそれ以上の所得者の平均所得と当該者の所得比(係数αのパ レート分布下ではα/(α-1)に等しい)を計算し、総所得が 2,000 万円台以上で、1.5 前後(α=3 に対応)の値でその比率が推移する傾向を見出している。しかし、同論文が 指摘するように、『国民生活基礎調査』に含まれる高額所得者の人数が分析には不十分 である。
他方、Moriguchi and Saez (2008)は、個票データではなく、『国税庁統計年報』の 所得階層別の統計(譲渡所得を除く申告所得)に基づき、1886 年-2005 年の高所得者 の所得分布を分析した。その結果、1970 年代以降、最上位の高額所得者への所得集中が
進んだアングロサクソン諸国と異なり、我が国においては、欧州大陸諸国と同様に、最 上位の高額所得者への所得集中が進んでいないとしている。 もっとも、同論文の分析結果(図4)を精査すると、アングロサクソン諸国ほど急激 ではないが、1980 年代以降、我が国の高額所得者の所得が占めるシェアは徐々に増加し ている。例えば、戦後しばらく安定していた最上位 1%の所得のシェアは、最近では増 加に転じている。しかし、同論文は、国税庁統計年報の所得階層別の統計に基づくもの で、個票データに基づく分析に較べると、限定的な分析となっていることは否めない。 一方、大竹・小原(2009)は『全国消費実態調査』に基づき、所得上位 1%のグループ の所得シェアは増加していないと指摘している。しかし、最上位の高額所得者への所得 集中を分析する上で、同調査の対象範囲が十分でないという問題がある1。
2.2 高額納税者番付に基づく高額所得者の所得分布の分析
本稿はいわゆる「高額納税者番付」を用いて、我が国の高額所得者の所得分布を新た に推計する。「高額納税者番付」は、課税所得の高い者の順位表である「高額所得者番 付」と異なり、納税額の高い者の順位表である。82 年までは課税所得額が公表されてい たが、83 年以降は、課税所得額の代わりに納税額が公表されるようになった。溝口(1987) が 82 年の所得まで分析対象としていたのは、このためである。いわゆる「高額納税者 番付」は、国税庁により公表された納税者および納税額をマスコミその他の機関が集計 し、作成した順位表を示す。しかしながら、高額納税者公示制度については、そのデー タが犯罪等に利用される可能性があること、また、05 年 4 月の個人情報保護法の趣旨に 照らして問題があること等の理由により、04 年分の公示をもって廃止された。 以下においては、公示制度廃止の1年前の 03 年分の所得に係る高額納税者番付を利 用して、高額所得者の所得分布を考察する。具体的には、国税庁(税務署)が(旧)所 得税法 233 条に基づき 04 年 5 月 17 日に公示した高額納税者(03 年中の所得に係る所得 税納税額が 1,000 万円超の個人)のデータを収録した、総合法務保障有限会社の「ザ・ 長者番付!」(2004 年度版統計用)データベースを利用する2。 同データには 73,936 名の納税額が収録されている3。国税庁(税務署)で公示されたデータの内容は、各納税1 『全国消費実態調査』について Moriguchi and Saez (2008)は、上位 0.1%の高額所得者の十分な標本数がな く、上位1%はある程度捕捉されているが、その所得は若干過小評価になっているとしている(Table 4)。 2 同データベースは、公示日(2004 年 5 月 17 日)を基準に年度を付しているため、2004 年度版となっているが、 内容は、2003 年の所得に係る所得税納税額に関するデータである。 3 国税庁発表の公示件数は全国 73,959 名である。個人情報保護法に基づいて 4 件が削除されたので、「ザ・長 者番付!」収録の件数との間には若干の乖離があるが、各税務署からの公示内容が集計されるため、そうした 若干の乖離は避けられない(『ザ・長者番付!』データベースの説明書である「ご利用の手引き」の説明による。)。
者の納税額のほか、氏名・住所・所管税務署であるが、プライバシー保護の観点から、 同データには、氏名・詳細な住所は削除されている4。 同データは、独自に納税額から課税所得を推計している。具体的には、推定課税所得 は以下の計算式により求められている(単位は千円)。 推定課税所得=(納税額+2490 + 250 )÷ 0.37 (3) 03 年の 3,000 万円超の所得に対しては税率が 37%、より低い税率が適用される所得 に係る調整分が 249 万円、定率減税額が 25 万円(上限額)であるため、同データベー スでは上記の推定課税所得が一般的と説明されている5。その際、税額控除は個人差が大 きいため考慮されていない。この推定課税所得はあくまで概算であり、実際の課税所得 とは異なる場合がありうる。また、推定課税所得に所得控除額を加えた所得は、一般的 に課税所得よりも大きい6。以上の問題はあるが、所得の内容が公示されていない以上、 納税額の情報のみから各種控除を含めた所得を正確に推計することは不可能であるた め、本稿は(3)式で推計された推定課税所得に基づいて所得分布を考察する。 所得分布のパレート係数(α)については、観測値から次の(4)式に基づき、不偏推 定量が求められる(蓑谷,1998)。
α = (n − 2) ∑
(4) ここで、Yminは、観察値 Yi中の最小値。n は観測値数である。 データのうち、トップから n 番目までの最上位の高額所得者の所得金額 Yi (i= 1,..., n)を対象に、パレート係数を推計する。n を変えてパレート係数を推計した結果を表1 に示す。 なお、成人総人口との比率で見ると、公示件数は納税者全体のうち上位約 0.07%に該当する。高額納税者番付 に掲載されるのは各世帯1人と仮定すると、住民基本台帳上の世帯全体(2003 年)の上位約 0.15%に相当する。 4 高額納税者番付のデータは過去に商業目的で数多く販売されていたが、個人情報保護法により個人情報を含 むデータの売買が制限されたため、一般的ではなくなった。本論文で用いるデータは個人名や住所の詳細を削 除しており、筆者の知る限り、個人情報保護法上の問題がないとされる唯一のデータベースである。全国規模 の高額納税者データは 03 年分以外、入手困難であるため、本論文では 03 年分に限定した分析を行う。 5 03 年においては、330 万円以下の所得に 10%、330 万円超 900 万円以下の所得に 20%、900 万円超 1,800 万円 以下の所得には 30%の税率が適用されていた。以上の所得について最高税率の 37%との差を調整するため、 (37%-10%)×330 万円+(37%-20%)×(900 万円-330 万円)+(37%-30%)×(1,800 万円-900 万円)=249 万円を 定率減税額と共に納税額に加えた上で、37%で除して課税所得を推計している。「ご利用の手引き」によると 249 万円は「控除額」とされているが、実際は上述の税率調整分に該当する。 6 「ご利用の手引き」によれば、基礎控除 38 万円分は確実に大きくなるほか、一般的には 250 万円程度の所得 控除が多いとされる。さらに、特別控除額等を加えた利益金額は、所得の種類によっては相当大きくなる可能 性がある(居住していた不動産の売却・収用や特定中小会社の新規公開株式譲渡の場合など)。最上位 100 人については他の場合と比較して、パレート係数の推計値が特別に高い が、最上位 200 人から最上位 5000 人までを対象にした場合、パレート係数の推計値は 2.1 前後で変動している。より多くの高額納税者をカバーした場合(n=10000~70000)、 パレート係数は少し高く、推計値は約 2.2 前後から 2.3 の近くになる。最上位 100 人の 場合を除き、対象者内の最低所得金額 Yminに対し、パレート係数αの推計値をプロット したのが、図1である。Yminが1億円を超えた辺りから、パレート係数の推計値は 2.1 前後で安定している。従って、本稿では、パレート係数が 2.1 の場合を基本として、最 適な最高限界税率を推計する。また、上述のように対象人数が比較的大きい場合では、 推計値は約 2.2 前後から 2.3 に近い結果を踏まえ、参考にパレート係数が 2.25 の場合 についても、最適な最高限界税率を推計する。 溝口(1987)の 75 年から 82 年の平均値(2.541)と較べると、今回の最上位 3000 人 表1 最上位 n 人の高額所得者の所得分布のパレート係数(2003 年) 対象人数 (最上位 n 人) 成人総人口比 (上位 %) 世帯数比 (上位 %) 最低所得金額
Y
min(万円) パレート係数 αの推計値 100 0.0001 0.0002 77,386.5 2.396 200 0.0002 0.0004 51,725.1 2.021 300 0.0003 0.0006 43,432.4 2.105 500 0.0005 0.0010 34,228.4 2.106 1,000 0.0010 0.0020 24,179.5 2.053 2,000 0.0020 0.0041 17,265.1 2.053 3,000 0.0029 0.0061 14,431.1 2.114 4,000 0.0039 0.0081 12,568.9 2.105 5,000 0.0049 0.0102 11,339.2 2.118 10,000 0.0098 0.0203 8,357.6 2.190 20,000 0.0196 0.0406 6,185.7 2.246 30,000 0.0294 0.0609 5,205.4 2.281 40,000 0.0392 0.0812 4,572.2 2.264 50,000 0.0489 0.1015 4,138.9 2.260 60,000 0.0587 0.1218 3,801.4 2.239 70,000 0.0685 0.1421 3,537.3 2.249 注)成人総人口比は、対象人数の 03 年1月の 20 歳以上の総人口に対する比率を示している。世帯数比は、 住民基本台帳に基づく 03 年世帯数に対する比率を示している。 出所)筆者作成。のデータに基づく推計値は 2.114 で、0.4 以上小さい。今回の推計値は、高額納税者番 付の納税額データに基づき、単純な推計式で計算した課税所得の分布を推計した結果で あるのに対し、溝口(1987)の推計値は、高額所得者の所得データ自体から推計したもの であり、両者を直接比較できないものの、03 年の高額納税者番付に基づき推計されたパ レート係数が、80 年代初めまでの推計値よりも小さいことは、我が国の高額所得者の間 においても、80 年代以降、より上位の層に所得が集中した可能性を示している。 他方、米国での最近の推計(例えば、α=1.6 (Saez, 2004))と比較すると、我が国 の最上位の高額所得者への所得集中は米国ほど進んでいないことになる。Feenberg and Poterba (1993)の各年の推計値と較べると、我が国の 03 年の最上位の高額所得者への 所得集中の水準は、米国の 80 年代前半に相当している7。 ただし、本稿で用いた所得は申告所得全体であり、給与所得のみならず、譲渡所得、 事業所得、不動産所得等が含まれることに留意する必要がある。『税務統計から見た申 図1 対象者内の最低所得金額とパレート係数 注)最低所得金額Ymin以上の高額所得者を対象としたパレート係数の推定値をプロットしている(ただし、最 上位 100 人が対象の場合を除く)。 出所)筆者作成
7 Feenberg and Poterba (1993)の 1980~84 年のαの推計値平均は 2.14 である(同 Table A-1)。
1.5 1.7 1.9 2.1 2.3 2.5 2.7 2.9 0 10,000 20,000 30,000 40,000 50,000 60,000 対象者内の最低所得金額(万円) パレート係数の推計値
告所得税の実態』の 03 年分の集計データでは、所得が 5,000 万円を超える者の合計所 得額のうち、給与所得は 31.9%で最大の割合を占めるが、(土地・建物等の)分離長期 譲渡所得(24.6%)、営業等所得(14.0%)、株式等の譲渡等所得(12.2%)等、他の所得も 相当の割合を占めている。ただし、株式譲渡益中のストック・オプションによる報酬の ように、給与所得以外の所得にも労働所得と考えられる所得が含まれている。後述する 新しい最適所得税理論では、労働所得への課税を念頭に置いており、本来は労働所得の 分布を把握することが望ましいが、高額納税者の所得の内訳を含む個票データが入手で きないため、以下では申告所得全体の分布を最適所得税制の推計に用いる。
3.課税所得の弾力性
米国においては、1980 年代後半より課税所得の弾力性につき様々な実証研究が行わ れた。それらのサーベイを行った Saez et al. (2012)は、課税所得の長期の弾力性に関 する信頼できる推計値を 0.12~0.4 と結論づけている8。 我が国における課税所得の弾力性に関する実証研究は極めて少ないが、内閣府政策統 括官(2001)は、difference in differences (DID)の手法を用いて、課税所得の(税引 き後)賃金に係る弾力性を 0.074 と推計した。具体的には、95 年の所得税減税につき、 『国民生活基礎調査』の 94 年・96 年の個票データを用い、同減税で適用限界税率が引 き下げられた者(課税所得階級 600-900 万円、1000 万円-1800 万円、2000 万円-3000 万円)をトリートメントグループ、引き下げられならなかった者(課税所得階級 0-300 万円、330 万円-600 万円)をコントロールグループとして DID により推計し、(1- 限界税率)に対する弾力性として 0.074 の値を得た。これは、米国の実証研究による推 計値と比較しても小さい。なお、以上の推計における個票はパネルデータでないため、 税制改正前のデータに基づきマクロ変数を考慮して改正後のデータを作成し、実績値 (改正前)と比較した。また、トリートメントグループ・コントロールグループ間の所 得増加のトレンドの差異は勘案していないため、両グループ間の所得格差が拡大してい る場合には過大推計となるおそれがある。他方、パネルデータを用いてないため、平均 への回帰によるバイアスは生じない。 次に、八塩(2005)は 99 年(および 95 年)の所得税・住民税合計の減税が、事業所得 者の課税所得に与えた影響を分析した。具体的には、『税務統計から見た申告所得税の 実態』(国税庁)の各所得階層の集計データから所得の分布関数を独自の方法(詳細は 8 ただし、Chetty (2009a)は、個人が最適な行動を行うのに摩擦(friction)が存在することを勘案すると、真 の長期的な弾力性がもう少し大きい値となりうると指摘している。当論文を参照)で推計した上、上位2万人(課税所得約 2800 万円以上)をトリートメン トグループとし、その次の4万人(課税所得約 1500 万円以上、約 2800 万円未満)をコン トロールグループとして、両グループに対応する課税所得と税額を計算した。両者の間 で所得増加のトレンドが異なる可能性を考慮し、second-order DID の手法を用いて、 課税所得の(1-税率)に対する弾力性を推計した。95 年および 99 年の両方の税制改 正の効果を合わせて見た推計値は、0.053 と小さい。また、八塩(2005)は、両グループ の総所得の差は年率 2%程度ずつ拡大しており、所得増加のトレンドの差異を勘案せず に課税所得の弾力性を推計すれば過大推計になると指摘した。 さらに、北村・宮崎(2010)は『全国消費実態調査』の 94 年・99 年・04 年の個票デー タを用いて、繰り返しクロスセクション・データによる DID 分析を行い、課税所得の弾 力性を 0.2-0.28 程度とした。具体的には、95 年および 99 年の税制改正に着目して、 上位 0.25%、0.5%および 1%の所得階層をトリートメントグループ、上位 1-5%、1 -50%および5-50%をコントロールグループに設定し、課税所得の弾力性を推計した9。 課税所得は『全国消費実態調査』個票の各世帯員の収入金額から世帯主の所得金額を計 算した後、所得控除額を差し引いて求めているが、利子・配当所得は含まれない。また、 極端に所得の高い者が推定に与える影響を排除するため、所得 1 億円以上の個人は除外 された。なお、データの制約から所得階層別のトレンドは説明変数に含まれていない。 観測期間が3期間のため、説明変数に加えられた所得階層別のトレンドは各階層の固定 効果となり、政策の効果を捉えられなくなるためとされる(北村・宮崎,2010, 注 10)。 所得格差が拡大している場合、所得階層ごとのトレンドを説明変数に含めないと、過大 推計を招くおそれがある。他方、パネルデータではないので、平均への回帰によるバイ アスは生じない。推計された課税所得の弾力性は、トリートメントグループの設定によ って異なるが、そのうち、上位 0.25%の所得階層をトリートメントグループとした推計 が最も適切として、0.2-0.28 程度を課税所得の弾力性の推計値とした。その値は、我 が国の先行研究と比較すると大きいが、Saez et al. (2012)が、米国における課税所得 の長期の弾力性に関する信頼できる推計値とした 0.12-0.4 の範囲に含まれる。 本稿は、以上の先行研究で得られた課税所得の弾力性の推計値に基づき、我が国の最 適最高限界税率を推計する10。 9 上位 0.25%の個人の課税所得は毎年 2,000 万円以上であるが、上位 0.5%と 1%の階層には 2,000 万円未満の個 人も含まれるとされる(北村・宮崎,2010, 8ページ)。 10 Moriguchi (2010)は、『税務統計から見た民間給与の実態』の集計データをパレート分布で近似し、給与収入 (給与所得控除適用前の収入)シェアを推計した後、給与収入シェアの(1-限界税率)に対する弾力性を推 計した。線型トレンドを用いた場合の弾力性の推定値は 0.28、2次トレンドの場合は統計的に有意でなくなる
4.新しい最適所得税理論の基本的枠組み
最適所得税理論は、社会厚生関数を最大化する所得税制を最適な税制とする11。具体 的には、w の能力を有する個人が分布関数 F(w)に従って 0 から∞の範囲に分布している と仮定する12。各個人は、効用関数 u(Y-T(Y), L)を有しており、所得 Y(=賃金水準w ×労働時間 L)から所得税 T(Y)を差し引いた額の消費から効用を得て、同時に労働時間 L から不効用を得る。能力wの個人が効用最大化により選んだ労働時間を L(w)とすると、 能力wの個人の支払う所得税額は T(Y)=T(wL(w))となり、効用水準は w の関数 u(wL(w) -T(wL(w)), L(w))で示されるが、これを U(w)と定義する。その上で社会厚生関数 W = ( ) ( ) を想定し、一定の税収 R を確保した上で誘因両立制約を充た しつつ、社会厚生関数を最大化する非線型の所得税関数 T(Y)を導出する。 Diamond (1998)は、最適所得税理論の基本的枠組みに従っても、現実の U 字型の税率 構造に似た税率構造が最適となる可能性が大きいことを示した。同論文は準線型効用関 数 u(C, L)=C – v(L)を仮定し、次の(5)式に示す最適所得税率の公式を導出している(導 出の詳細については Diamond (1998) および Salanie (2003)を参照されたい)。 (5) ここで、A = 1 +
、B =
( ) ( ) 、C = 1 −
( ) ( ) wY : Y = wL(w)を充たす w εL: 労働供給の(税引き後)賃金に対する補償弾力性 また、D(w)は以下に示される、区間[w, +∞]における G’の平均である。 この公式によれば(ⅰ)労働供給の弾力性(εL)がより低い場合、(ⅱ)考察している 限界税率の対象者よりも能力が高い個人の比率(1-F(wY))が大きい場合、(ⅲ)考察し ている限界税率が適用される個人の数(f(wY))が少ない場合、(ⅳ)社会厚生関数におい との結果を得た。ただし、その推計対象は、最適所得税推計に必要な課税所得の弾力性ではなく、給与収入シ ェアの弾力性であるため、本論文の最適所得税の推計には用いることができない。 11 本節の説明は、國枝(2007)に基づいている。 12 能力は個人の労働生産性を意味し、各個人の賃金水準wに正確に反映されると仮定する。 C B A Y T Y T '( ) 1 ) ( '
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x
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w
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て、考察している限界税率の対象者よりも能力の高い個人に、相対的により小さいウエ イトが置かれる場合(D(wY)/D(0)がより小さい場合)に、最適な限界税率 T′(Y)は高く なる。 このうち、(ⅱ)および(ⅲ)については、個人の能力(およびそれに対応した賃金 水 準 )w の具体的な 分布により 決まる。従 来のシミュ レーション において、 Mirrlees(1971)以来、所得分布として一般的に対数正規分布が仮定されてきた。しかし、 上述の通り、高額所得者の所得分布はパレート分布に従うと考えられる。人々の能力w が係数αwのパレート分布に従う場合、(2)式で示したように、(5)式のBの値は、1/αw で一定となる。ただし、能力分布のパレート係数αwと第2節で論じた所得のパレート 分布の係数αの間には、αw=α(1+ε )の関係がある(Saez,2001)。 最適な最高限界税率を具体的に導出するには、パレート係数αwに加え、労働供給の弾 力性εLと社会厚生関数についての仮定が必要となる。Diamond (1998)に倣い、社会厚 生関数において最も能力の高い個人に付される相対的ウエイトを示す指標として、無限 大の所得の個人に付される限界社会厚生と平均的な限界社会厚生の比率である、次のパ ラメーターgを定義する。
g =
( ( )) [ ( ) ] (6) この定義より明らかにg =D(∞)/D(0)である。 Mirrlees の非線型の最適所得税率においては、ブラケットごとに一律の限界税率を適 用するのではなく、各々の所得水準において最適な限界税率は異なりうる。その際、能 力に上限値が存在しない場合には、最適な限界税率がどの水準に収束するかを考察する ことが有意義である。所得が無限大まで増加するのに伴い、最適な限界税率が収束して いく水準を「最適な(漸近的な)最高限界税率」と呼ぶ。労働供給の弾力性ε が一定で、 高額所得者の能力w が係数αwのパレート分布に従う場合、g を用いると最適な漸近的 な最高限界税率 T’(∞)は、次の簡単な公式で示される(Diamond,1998; Saez,2001)。 (7) ただし、労働供給の弾力性ε を最適限界税率の計算に用いることについては、租税回 避行動の影響も含んだ課税所得の弾力性に着目した厚生分析が、より適切であるとの)
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Feldstein(1999)の指摘がある13,14。本稿においては、上述の我が国の課税所得の弾力性
εの推計を用いて、我が国の最適な最高限界税率を考察する。
5.我が国における最適な最高限界税率の推計
新しい最適所得税理論の枠組みに従い、Saez(2001)は、一定の社会厚生関数を仮定 した上で、米国における最適な最高限界税率を推計し、補償弾力性が 0.25 の場合には 81%、0.5 の場合には 69%となることを示した。Gruber and Saez (2002)は、所得階層 ごとに推計した課税所得の弾力性を用い、所得階層ごとの最適限界税率を推計した。最 適な最高限界税率は、弾力性の低い総所得(broad income(後述))に対する税率が 73%、 弾力性のより高い課税所得に対する税率は 49%となっている。 我が国においては、國枝(2007)が、新しい最適所得税理論の枠組みにより最適な最高 限界税率を推計した。その際、高額所得者の所得分布の仮定においては、溝口(1987)の αの推計値を用い、また、労働供給の弾力性の仮定については、別所(2006)の推計値を 用いた15。その結果、最も能力の高い個人に付される社会厚生上のウエイトがかなり大 きい場合(g=0.5)を除くと最適な最高限界税率は 50%以上であり、現行の所得税・住民 税の最高税率に引上げの余地があることを指摘した。また、岩本・濱秋(2008)は、上述 の『国民生活基礎調査』に基づく実証結果も踏まえ、パレート係数(α)を 2.5、課税 所得の弾力性(ε)を 0.2 と想定した場合の最高税率を 67%とした。 本稿は國枝(2007)と異なり、高額所得者の所得分布のパレート係数として、03 年度高 額納税者番付に基いて推計した新しい推計値を用い、また Feldstein(1999)の指摘を踏 まえ、労働供給の弾力性の推計値ε の代わりに、課税所得の弾力性に関する先行研究の 推計値εを代入した(7)式により、我が国の最適な最高限界税率を推計する。具体的に は、高額所得者の所得分布のパレート係数(α)には基本ケースの 2.1(基本値)と 13 Feldstein(1999)は、課税所得を課税対象外の所得(フリンジベネフィットなど)に変更することや、控除の 利用拡大等による租税回避を考慮した場合、(労働)所得税による経済厚生の低下(死荷重)が労働供給のみな らず、租税回避行動への影響も含むことを指摘した上で、租税回避行動自体の情報が無くとも、課税所得の弾 力性を推計することを通じて、経済厚生の低下を推計できることを示した。このため、最近の最適所得税の分 析においては労働供給の弾力性に代わり、課税所得の弾力性を用いた推計が行われるのが一般的である。 14 Chetty(2009b)は、個人の経済厚生については課税所得の弾力性のみに着目すればよいが、租税回避行動によ る慈善寄付の場合は受け取る側の経済厚生が増加する点も勘案する必要があると指摘した。この点を無視した 場合、増税の社会厚生コストを過大推計し、最適税率を過小推計するおそれがある。もっとも、現時点の我が 国においては、個人の慈善寄付自体が米国ほど一般的ではないので、その影響は比較的小さいと思われる。 15 別所(2006)は、97 年と 02 年の『就業構造基本調査』のデータを用い、Hausman 型の線型労働供給関数および CES 効用関数を仮定した Zabalza(1983)の方法に基づく労働供給弾力性の推計値を推定した。國枝(2007)は、97 年のデータを用い、線型労働供給に基づく非補償弾力性(説明変数に教育変数を含まない場合 0.059、含む場合 0.157)および所得弾力性(説明変数に教育変数を含まない場合-0.321、含む場合-0.355)を用いて最適な最高 限界税率を推計した。ただし、データに勤労所得以外の所得が含まれていない問題点がある(國枝,2007)。
表2 最適な最高限界税率の推計値 課税所得の弾力性εの仮定 八塩(2005) ε=0.053 内閣府(2001) ε=0.074 北村・宮崎(2010) ε=0.2-0.28 α=2.1 g=0 89.98% 86.55% 62.97-70.42% g=0.25 87.08% 82.84% 56.05-64.10% g=0.5 81.79% 76.29% 45.96-54.35% α= 2.25 g=0 89.35% 85.73% 61.35-68.97% g=0.25 86.28% 81.83% 54.35-62.50% g=0.5 80.74% 75.02% 44.25-52.63% 出所)筆者作成 2.25(参考値)を用い、課税所得の弾力性の推計値εには値の小さい方から、八塩(2005) の 0.053、内閣府政策統括官(2001)の 0.074 および北村・宮崎(2010)の 0.2-0.28 を用 いる。最も能力の高い者に対する社会厚生上の相対的ウエイトを示す g の選択は価値判 断の問題であり、適宜想定する以外に方法が無い。そこで、國枝(2007)と同様に g = 0、 0.25 および 0.5 の3ケースを考えると、最適な最高限界税率は表2のように推計される。 基本ケース(α=2.1)に基づき最適な最高限界税率の推計値を見ると、次の点が指摘 できる。八塩(2005)および内閣府政策統括官(2001)の課税所得の弾力性の推計値に基づ いた場合、社会厚生上のウエイトに関係なく最適な最高限界税率は 70%代後半-約 90% と非常に高くなる。北村・宮崎(2010)の推計値(課税所得の弾力性が比較的高い)に基 づくと、社会厚生上のウエイトがゼロの場合(g=0)は 60%を超す税率が最適となり、比 較的穏当なウエイト(g=0.25) には 55%を超す税率が最適となる。他方、ウエイトが相 当高い場合(g=0.5)には 45%前後-50%台前半の税率が最適となる。 現行の我が国の所得税・住民税合計の最高税率は 50%であるが、労働所得に対しては、 所得税・住民税に加えて間接的に消費税が課されている。消費税率を t とおいて所得税 率に換算すると、t/(1+t)となる。現行の5%の消費税は約 4.8%の所得税に換算される ので、消費税を含めた最高税率は約 54.8%になる。上記の推計によれば、最高水準の高 額所得者に対する社会厚生上のウエイトが高くない場合(g=0,0.25)は、最高限界税率 の引上げが支持される。ただし、上記のウエイトが大きく(g=0.5)、かつ課税所得の弾 力性が北村・宮崎(2010)並みに大きい場合には、最高税率の引上げは望ましくない。
6.検討
6.1 課税所得の弾力性と所得税制・執行体制
最適な最高限界税率の重要な決定要因である課税所得の弾力性は、所得税制とその執 行体制のあり方により変化しうる。
米国の場合、総所得から適格個人退職勘定への拠出金等を控除した調整済総所得 (Adjusted Gross Income, AGI)が算出された上で、2つの方法により課税所得が算出さ れうる。1つは、調整済総所得から標準控除(standard deduction)および基礎控除(basic exemption)を適用する単純な方法である。もう1つは、雇用者経費(所得の2%を超え る金額)、住宅ローンの支払利子、州・地方税としての所得税・財産税、調整済総所得 の 7.5%を上回る医療費、慈善寄付金、転勤費用、偶発損失および基礎控除を差し引い て算出する方法である。
米国の実証研究においては、総所得の弾力性は非常に小さい(Gruber and Saez (2002) では 0.071)が、課税所得の弾力性はより大きな値(Gruber and Saez (2002)では 0.396) に推定されている。その理由は、総所得から課税所得の算出の際、慈善寄付金など諸控 除による租税回避が図られるためとみられている。Gruber and Saez (2002)は、標準控 除を選択しない納税者の課税所得の弾力性の値は大きいが、標準控除を選択した納税者 の課税所得の弾力性は負で統計的に有意でない点を指摘した。
標準控除を選択しない割合は所得水準によって異なり、調整済総所得が 7 万 5,000 ド ル未満の納税者のうち標準控除を選択しないのは 25%のみであるが、7 万 5,000 ドル以 上の納税者のうち 85%は標準控除を選択しない (Slemrod and Bakija, 2008)。課税所 得の弾力性は高額所得者ほど高くなるとみられており、所得が高くなるほど標準控除を 選択しない傾向は、課税所得の弾力性が控除の活用による租税回避の程度により決定さ れるとの見方と整合的である。 我が国においては、各種所得のうち給与所得については、給与所得控除が利用される のが一般的で、精緻な源泉徴収・年末調整制度の下、租税回避の手段は限られている。 特定の支出につき、給与所得控除を超える部分につき実額を控除する特定支出控除も存 在するが、12 年度税制改正以前の控除対象は、通勤費、転任に伴う転居のための引越費 用、研修費、資格取得費および単身赴任者の帰宅旅費に限られていた16。現在、2000 万 円超の給与収入がある場合は確定申告を行う義務があるが、その場合も給与所得控除の 利用が一般的である。特定支出控除の利用人数は極めて少なく、09 年分全体で9件に過 16 我が国の給与所得への所得課税においても、給与所得控除後に、医療費、寄付金、雑損等を控除可能であり、 住宅ローンに係る税額控除も存在している。しかし、寄付金控除の利用は米国に比べて限定的とされる。
ぎない。租税回避の手段が限定的とすれば、我が国における給与所得の課税所得の弾力 性が、内閣府政策統括官(2001)の推計のように、米国の総所得の弾力性に近い非常に小 さい値を示しても不自然ではない。 他方、営業所得・農業所得等については一般に、各種控除適用前の所得計算において、 様々な租税回避が図られているのではないかと考えられてきた。例えば、自営業者が交 際費の中に私的消費分を含める等の方法が考えられる。しかし、米国と比較した場合、 S法人(米国税法上、納税者の選択により、法人税ではなく個人所得税での課税を認め られた小規模法人)のような制度が存在せず、法人税率と個人所得税率の差に反応して、 現実の事業形態を変更することなく、簡単に所得区分を変更することは難しい。むしろ、 個人事業者が給与所得控除による税額圧縮を目的として法人化する「法人成り」が、事 業形態選択の問題として注目されてきた。事業形態の選択と税制の関係について研究し た田近・八塩(2005)は、我が国の法人の選択比率が、法人税と個人所得税の限界税率で はなく、給与所得控除の規模に影響されることを示した。これは、個人事業者について も個人所得税率に対する課税所得の弾力性が大きくないとする八塩(2005)と整合的で ある。いずれにせよ、自営業者・農家の租税回避の実態と税率変更への反応については、 今後、十分な実証研究の蓄積が望まれる。
6.2 源泉徴収・年末調整制度および給与所得控除と最適所得税制
給与所得に関する源泉徴収制度および年末調整制度の存在により、日本において雇用 者の確定申告は一般的でない。しかし、それらの制度が納税者に対する税負担の認識を 弱め、税の使途に対する関心を低下させているとの批判があり、政府支出の効率化を図 るためにも確定申告中心の納税への移行が望ましいとの主張が以前から存在する。最近 では給与所得控除の圧縮と共に17、特定支出控除の対象拡大を求める意見も多い18。 一方で、源泉徴収・年末調整制度の存在は、多くの(給与収入 2000 万円以下の)納税 者の申告を不要とし、納税コストを大幅に引き下げている。Slemrod and Bajika(2008) は、日本・英国のように納税者による申告を必要としない所得税制度が納税コストを大 きく引き下げる点を高く評価している(pp. 294-295)。また、同制度の下で労働者が企 17 寛大な給与所得控除の存在が「法人成り」を促進していることに鑑みれば、(特定支出の対象拡大を伴わない) 給与所得控除の圧縮自体は自営業者等の租税回避の余地を制限する。 18 05 年の政府税制調査会基礎問題小委員会「個人所得課税に関する論点整理」においては、「給与所得者が自 ら確定申告を行うことは、社会共通の費用を分かち合う意識向上の観点からは重要である。給与所得控除の見 直しとあわせ、特定支出控除の範囲が拡大されることとなれば、こうした機会は増大すると見込まれる」と指 摘されている。業に誤った情報を伝えて租税回避を図ろうとする場合、それが企業に知られた場合には 不利益が生じるおそれから、労働者による租税回避のインセンティブは抑制される。
新しい最適所得税理論によれば、租税回避の余地が限定的であれば課税所得の弾力性 は小さくなり、経済効率の損失を抑制しつつ、所得再分配を行うことが可能となる。 Slemrod and Kopczuk (2002)および Kopczuk (2005)は、課税所得の弾力性は課税ベース によって異なるため、最適税制の検討に当たっては、課税所得の弾力性を縮小させる改 革についても検討すべきと指摘した。 12 年度税制改正においては、高額所得者の給与所得控除圧縮とともに、特定支出控除 の対象が拡大されたが、所得税制の所得再分配機能の強化を図る立場に立てば、特定支 出の具体的な対象を検討する上では、租税回避の余地を広げないための配慮が必要であ る。特定の支出が本当に勤労所得を得るために必要な支出であるか否か、税務当局によ る確認が困難な支出まで控除の対象に含めると租税回避の余地が拡大し、最適所得税理 論によれば所得再分配を限定的に留める必要が生じるからである。
7.終わりに
本稿は、高額所得者の分布についての新たな推計と最近の我が国における課税所得の 弾力性に関する実証結果を用いて、最適な最高限界税率を導出した。03 年の高額納税者 番付を利用した推計では、パレート分布の係数(α)は 2.1 と推計された。これは、溝 口(1987)と比較して、最近の米国ほどではないが、我が国においても最上位数千-数万 人の高額所得者への所得集中が進んだ可能性を示唆する。他方、我が国における課税所 得の弾力性に関する実証研究においては、課税所得の弾力性は 0.051-0.28 の範囲に推 計されている。その結果、我が国の最適な最高限界税率は、最も能力の高い個人に付さ れた社会厚生上のウエイトが相当大きくない限りは現行水準より高く、高額所得者への 課税強化は支持されるとの結果を得た。また、課税所得の弾力性は源泉徴収・年末調整 制度および給与所得控除に影響されることを説明した。 本稿で示したように、新しい最適所得税理論は我が国の所得税のあり方を考察する上 で非常に有益である。また、課税ベースや執行制度まで含めた最適税制の理論は、各種 控除のあり方を所得税の税率構造と一体的に考察することを可能にする。政府における 税制改革の検討においても、以上の観点から議論されることが望ましい。 ただし、本稿の分析にはデータの制約から、最適所得税理論が想定している労働所 得ではなく、その他の所得も含む所得分布に基づいた点などの限界もある。税制改革の議論が最新の経済理論に基づいて行われるためにも、プライバシーの十分な保護の上、 より広範な課税データの学術目的における利用が可能となることが望まれる。 参考文献 青木昌彦(1979)『分配理論』 筑摩書房. 岩本康志・濱秋純哉(2008)「租税・社会保障制度による再分配の構造の評価」『季刊・社会保障 研究』44(3), pp. 266-277. 大竹文雄・小原美紀(2009)「所得格差」 樋口美雄編、『バブル/デフレ期の日本経済と経済政策 6:労働所得と所得分配』 慶応義塾大学出版会,pp. 253-285. 北村行伸・宮崎毅(2010)「日本における限界税率の課税所得弾力性と最適所得税率:全国消費実 態調査の個票データによる分析」 Global COE Hi-Stat Discussion Paper Series No. 150, 一橋大学経済研究所. 國枝繁樹(2007)「最適所得税理論と日本の所得税制」『租税研究』690, pp. 69-82. 田近栄治・八塩裕之(2005)「税制と事業形態選択 -日本のケース-」『財政研究』1, 有斐閣, pp.177-194. 内閣府政策統括官(2001)「1990年代における所得税制改正の効果について」政策効果分析レポー トNo.9. 別所俊一郎(2006)「累進所得税制を考慮した労働供給関数の推定」『わが国の税制と労働供給の 関わりに関する調査研究』財政経済協会 pp. 25-67. 溝口敏行(1987)「日本の高額所得者の分布」『経済研究』 38(2), pp. 130-138. 蓑谷千凰彦(1998)『すぐに役立つ統計分析』 東京図書. 八塩裕之(2005)「所得税の限界税率変化が課税所得に与える効果」『一橋論叢』, 134(6), pp. 1135 -1158.
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