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「フランス語、そして科学から哲学へ」

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Academic year: 2021

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U Unn rreeggaarrdd ddee PPaarriiss ssuurr ccee mmoonnddee 第 86 回 形而上学とは、そして科学におけるその役割を再考する 「わたしは形而上学を個別の科学の原理となり得る普遍的な真理と捉え、 一般に言われる想像上の性質についての抽象的な考察にはこの言葉を用いない」 ――ニコラ・マルブランシュ 「科学の形而上学化」という試みについては、これまで折に触れて取り上げてきた (244 巻 6 号、250 巻 11 号、258 巻 11 号、260 巻 2 号)。それはオーギュスト・コン ト(Auguste Comte, 1798-1857)の「三段階の法則」に霊感を得たものである。コント によれば、社会や人間精神は神学的段階、形而上学的段階、実証的段階という三つの 段階を経て進化するというもので、最後の実証的段階、すなわち科学的段階を人間精 神が到達する最高の段階とする。それを読んだ時、それ以前の段階を排除する見方に 違和感を覚え、寧ろ人間精神が持っている可能性のすべてを動員して自然を観る方が より豊かな世界が開けるのではないかと直観したことが、このような試みを考え、実 践することになった原体験となっている。コントの三段階の法則に肖るとすれば、こ の試みは実証的段階の先に第四段階として形而上学化された科学の段階が続くべき だという「人間精神の四段階理論」とでも言うべきものになるだろう。さらに、第四 段階で求められる精神の構えを持つことは、自らの内的生活を豊かにするだけではな く、現実の問題を解決するための必要条件にもなる。つまり、この理論は人間精神の 在り方に関する提案なのである。これまでは形而上学をコントが定義した「抽象的な 概念に基づく推論や思考を行うもの」としてきたが、もう少し詳しく検討する必要が あると感じるようになってきた。今回は、古代ギリシアに始まる形而上学という思考 様式について、特に 20 世紀の哲学者の思索の跡を振り返ることにより、さらに深い 理解を目指して考えを進めてみたい。 科学者として生活している間は最後の数年を除いて、哲学、況や形而上学という言 葉が頭に浮かんだことはなかった。正確には、研究を始めて暫くした時期に哲学に対 する科学者の見方を感得することがあったが、それ以後はなかったというべきであろ う。その出来事は、アメリカの学会でアメリカ人研究者と雑談している時に起こった。 その科学者が一人の哲学者をやり玉に挙げ、哲学を批判したのである。その哲学者は

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20 世紀フランスを代表するアンリ・ベルクソン(Henri Bergson, 1859-1941)で、élan vital (生の飛躍)などという科学的に証明できないものを基に議論していることを例に挙 げ、だから哲学は駄目なのだという批判であった。その時、第一線の科学者の哲学に 対する態度を見たように思ったが、それは一個人を超えて科学という営みに内在する 性質であることを認識できるようになったのは、かなり後のことであった。 ルクセンブルクからエヒタナハに向かう (2011 年 12 月 31 日) 今回の本題は、そもそも形而上学とは何をどのようにする学問なのかという問いで ある。この問いは、哲学への興味が湧いた当初からわたしの中で通奏低音のように鳴 り響いているものである。人類が目覚めてから二千五百年に及ぶ長い時の流れの中で 生きた哲学者の数を考えると、哲学や形而上学のやり方を纏めることは殆ど不可能に 見える。同時に、科学全盛の現代では忘れ去られたかに見える形而上学について考え ることにどれほどの意味があるのかという疑問を持つ人もいるだろう。しかし、冒頭 に述べたように、この言葉に含まれている意味をできるだけ明確にしておくことは、 大袈裟に言えば、これからの人類の歩みを考える上で欠かせないものになるはずであ る。 形而上学という言葉の起源は、『形而上学』という著作があるアリストテレス (Aristotle, 384 BC-322 BC)にあると考えてよいだろう。しかし、そのタイトルはア

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リストテレス自身が付けたものではなく、紀元前一世紀にアリストテレスのリュケイ オンの学頭を務めたロドスのアンドロニコス(Andronicus of Rhodes)が師の著作を整 理した際、アリストテレスの言う「第一哲学」を物理的なものを扱った著作の後(meta) に配置したこと(ta meta ta phusika)に由来するとされる。大雑把に言えば、存在す る「もの」を「もの」として考える存在論としての意味合いと、物理的存在の外、す なわち自然を超えたところにあるものを対象にした学問という意味合いがそこに込 められている。アリストテレスの師プラトン(Plato, 427 BC-347 BC)は、真理に辿り 着くためには肉体やあらゆる感覚を捨象し、精神だけになって永遠で普遍的な本質に 飛躍しなければならないと考えていたところから、後者の哲学を理想としていたよう にも見える。いずれの場合でも、自然の学を修めた後に学ぶべき学問として捉えるこ とができ、振り返れば的確な編纂だったと言えるかも知れない。 これまでの経験から、哲学において求めているものの意味を体得するには、第三者 的な解説書を読むより、哲学者の生の考えを読む方が遥かに効果的であることを学ん でいる。ここでは、二〇世紀の哲学者が形而上学をどのように捉えているのかを振り 返ることにより、形而上学の意味するところを探ってみたい。先に触れたベルクソン は一九〇三年の『形而上学入門』において、ものについて知るための二つの方法につ いて触れている。一つは「もの」の外から眺めるもので、もう一つは「もの」の中に 入るという方法である。このような表現が科学者の抵抗感を生むのかもしれない。前 者は科学的なやり方で、観察する視点によって変化し、記号を用いるという特徴を持 つが、後者は絶対的、形而上学的で、視点が消え、記号も用いない。後者の形而上学 的方法は想像力によって「もの」と調和し、その中に入る営みで、そこに見られる共 感のようなものが「直観」だという。前者は共通して理解される要素に分け、記号に よって翻訳するため現実そのものを表現したものではない。前者の分析はいつまで経 っても全体に至ることはないが、直観は記号や翻訳を排除しているので、一度の試み で全体に至ることが可能になるという。科学の中に身を置いていると具体的なイメー ジを描き難い営みである。ただ、「精神をたっぷり広げて対象の中に入り、そこから 逆に上っていき、直観と重なり合うような表現や概念を現実から導き出すことであ る」というような表現を読むと、形而上学の一つのやり方をイメージできるように感 じる。「精神をたっぷり広げる」過程は、意識の第三層の拡大として理解できるよう になっているからだろうか。 1929 年、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889-1976)はフライブルク

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大学の教員に向けて就任講演『形而上学とは何か』を行った。その中で、形而上学的 問いには二つの特徴があると語っている。一つは、それが常に全体に関わる問い掛け だということ。第二には、問い掛けている人間が問いの中に含まれることである。す なわち、問いを出している存在(Dasein「現存在」)の根源的な立場から、全的な問 い掛けをしなければならない。科学が部分についての正確な記述に終始するのに対し、 形而上学の視線は常に全体に向かっていなければならないのである。ハイデッガーは また、「哲学することと信じること: 真理の本質」という 1930 年のマールブルクに おける講演で、真理の本質について次のように語っている。 「ある『もの・こと』の本質に光を当てるということは、単に何らかの存在を測 定可能なやり方で記述することではなく、何らかの『内的可能性』の基盤に光を 当てるようなやり方で語ることである」 ニースの地中海 (2011 年 4 月 24 日) 本質を論じるとは、単に「もの・こと」を量的に記述するという現在の科学の守備範 囲を超え、内に秘められた可能性を明らかにするように語ることであると言っている。

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ガーは考えていたのである。さらに、このような営みの結果得られる本質は、最終的 に確立された究極と言えるようなものとはほど遠く、常に変容するものであるとも言 っている。もしそうだとすれば、一度明らかにされた内的可能性としての本質は、常 に問い直されなければならないことになる。この歩みに終わりはないことが見えてく る。 科学にはいろいろな方法論が存在するが、哲学や形而上学における方法は何になる のだろうか。カール・ポッパー(1902-1994)は反証可能性(falsifiability)を科学の条 件としたが、マルセル・コンシュ(Marcel Conche, 1922- )は、形而上学で重要にな るのは科学的証明ではなく、非矛盾の原則に従う力強い論理的議論だと考えている。 わたしのこれまでの経験からも、論理的で理性的な思考や省察、そして瞑想が有効で あると考えるようになってきた。そして、そこから得られたものは必ずしも科学的に 実証される必要はないとするコンシュの立場に同意できるようになっている。実証を 求めるのであれば、それは科学になるからである。 コンシュに博士論文の指導を受けたアンドレ・コント・スポンヴィル(André Comte-Sponville, 1952- )によれば、哲学するとは知り得ることを超えて考えることで ある。哲学は、知ることよりも考えること、説明するよりも疑問を発することを重視 する。より多く知ることではなく、すでに知られていることについて省察することで ある。実は哲学の限界もそこにある。科学であるよりは知恵を求め、知識を増やすよ りは知識について考え、それを超えることを目指すのが哲学である。それでは、形而 上学はどのようなものなのだろうか。形而上学も哲学同様考えることだが、考えるべ きことをできるかぎり考えること、知り得ないことを対象にするのが形而上学だとい う。知っていることしか言わないのであれば、哲学を止めて科学をやるしかない。そ して、哲学や形而上学を止めることは科学についての自問も拒むことになり、何もの も我々に齎さないとコント・スポンヴィルは考えている。 ここで忘れてならないとわたしが考えるのは、アプリオリの思考に頼るのではなく、 科学が生み出した成果を理解した上で省察や瞑想を始めることである。そのことが了 解されていれば、コント・スポンヴィルの見方に同意せざるを得ない。科学の成果か ら論理的に考えられるところに思考を向け、現在の科学では証明しようのない「も の・こと」についても思索を深め、あるいは科学の営みや発見の中に潜む哲学的なテ ーマを探し出して論じることは、自然についての理解を豊かなものにすると予想され

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るからだ。コントの実証主義を批判したエミール・マイヤーソン(Émile Meyerson, 1859-1933)は、「われわれ一人ひとりは、恰も呼吸するように形而上学をやっている」 と言っている。普遍的に行われている形而上学をどうしても我々の思考に取り入れる ことが求められるのである。 クラクフのカフェにて (2009 年 4 月 16 日) これらを踏まえて形而上学と科学の関係をさらに考えてみたい。形而上学と科学の 関係には少なくとも二つの在り方があると指摘する人がいる。一つは「科学的形而上 学」(scientific metaphysics)と呼ばれるもので、もう一つは「科学の形而上学」 (metaphysics of science)である。その解釈によれば、前者が科学の成果に基づいて世 界の根源的な成り立ちを形而上学的に明らかにするのに対し、後者は科学に内包され る概念、モデル、理論、原理などを解析するもので、その方法はしばしば分析的で科 学的だという。いずれの場合も形而上学からイメージされるアプリオリな思考ではな く、あくまでも科学に根差している。それぞれのやり方にどのような名前を付けるの かは別にして、形而上学が科学に絡む場合には少なくとも二つのやり方があるという 見方は参考になる。また、「科学的形而上学」の解析対象が自然であるのに対して、「科 学の形而上学」のそれは科学ということも言えるだろう。この伝でいけば、甚だ紛ら

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りは「科学的形而上学」に重点が置かれていることになる。つまり、自然をできるだ け統合的に理解しようとする学問として古代ギリシアに始まり、19 世紀後半から 20 世紀にかけて脇に追いやられることになる「自然哲学」(philosophia naturalis, natural philosophy)の流れに「科学の形而上学化」や「科学的形而上学」があり、「科学の形 而上学」は現在大学で教えられている「科学哲学」(philosophy of science)に近いよう に見える。わたしが哲学に入ってから所謂「科学哲学」という領域にこころからの興 味が湧いてこなかった一因がこの辺にもありそうである。 20 世紀に入り、論理実証主義やプラグマティズムなどにより形而上学には意味がな いと主張されてきたが、ここに来て「形而上学のルネサンス」というような言葉を目 にすることがある。フランスは形而上学の伝統が生きている方だと言われるが、コレ ージュ・ド・フランスには 2011 年にクロディーヌ・ティエルスラン(Claudine Tiercelin, 1952- )が「知の形而上学と哲学」講座を担当するまで形而上学の名が付いた講座は なかったのである。これからも哲学がこの世界で優勢になることがないように、形而 上学も哲学の中で優勢になることはないものと想像される。しかし、それでもなお、 人間が発明したこの独特な世界の見方に意義を見出す者は、その方法に工夫を加えな がら、これまで見えなかった世界を顕わにするために、静かに歩みを続けなければな らないのだろう。 (2019 年 11 月 5 日)

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