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第4章 生まれ変わりの霊的哲学
1 生まれ変わり:輪廻と転生
ここでは、宗教や精神世界でよく出てくる、生まれ変わりの思想について述べる。 一言で「生まれ変わり」といっても、ヒンドゥーや仏教の輪廻思想のように、人以外の 生き物に生まれ変わるとする思想と、人に限定して生まれ変わるとする思想がある。後者 の場合は、「輪廻」とはいわずに、単に「転生」ということが多い。 なお、輪廻は、サンスクリット語でサンサーラ、転生は、英語でリインカネーションと いう。リインカネーションは、欧米に広がった近代の霊的思想・ニューエイジなどでよく 使われる。 輪廻思想は、日本では、仏教思想として知られるが、元々インドのバラモン教(後のヒ ンドゥー教)の思想であって、釈迦牟尼以前から存在していた。その発祥は、バラモン教 のヴェーダ聖典に萌芽ほ う がが見られる。 そして、バラモン教から派生した仏教やジャイナ教にも引き継がれていった。また、転 生の思想は、古代のエジプト、ギリシャ、イスラム教の一部にもある。 なお、輪廻・転生とは、普通は生まれ変わりを繰り返すことをいう。キリスト教でも、 死後の世界、すなわち、「(肉体の死後の)永遠の命」や「天国」や「地獄」を説くが、生 まれ変わりの繰り返しは説いていない。2 インドの輪廻思想
インドの輪廻思想では、善行が、次の生で幸福な境遇をもたらし、悪行が、次の生で不 幸な境遇をもたらすとする。すなわち、行為(サンスクリット語でカルマ・漢訳は業)に 基づく因果応報の法則、自業自得の法則である。 これは、輪廻の思想と共に、インド人の死生観・世界観を形成した。特に、インド社会 の伝統的な階級制度であるカーストと結びついた。すなわち、前生のカルマの結果として、 自分が生まれた階級があるとするのである。こうして、その社会の在り方と、その社会に 広がる宗教には関連性が見られる。 さらに、ヒンドゥー教や仏教では、この輪廻を苦と見て、二度と再生を繰り返すことの ない状態を「(輪廻からの)解脱」と呼び、最高の理想とする思想がある。仏教では、輪 廻を遮断した状態を「阿羅漢(果)」などと呼ぶ。ただし、大乗仏教では、輪廻の中にあ って、何にもとらわれずに、自由な状態に至ることが最高の境地と考え、それを「仏陀の34 境地」と呼ぶ場合がある。
3 ヒンドゥー教と仏教の輪廻思想の違い
ヒンドゥー教では、肉体の死後も存続する永遠不変の霊魂・自己の本質があると考える。 これをサンスクリット語で「アートマン(漢訳語では「我」)」という。これが、輪廻の主 体である。しかし、仏教では、永遠不変のアートマンの存在は否定した(無我)。仏教は、 万物が変化すると考える。 そして、仏教の輪廻の主体は、「心の連続体」などと表現される。それは、絶えず変化 を続ける意識の連続現象のようなものである。正確にいえば、意識の連続現象というより、 相続現象と説明される場合もある。 仏教では、心や体は、一瞬一瞬生じては滅することを繰り返しているとする(「刹那生 滅」という)。そして、一瞬前に消滅したものが原因となって、次の瞬間に生じるものが 生まれ、一瞬前のものを次の瞬間のものが相続するような現象が起こっているとする。一 瞬前のものと次の瞬間のものは似ているが異なり、こうして万物は絶えず変化していると する。 そして、仏教では、永久不変のアートマンがあるならば輪廻がなくなること自体が不合 理であって、アートマンを否定する仏教こそ輪廻の停止を合理的に説明できると主張する 場合もある。4 六道輪廻
原始仏典では基本的に、天・人間・畜生(動物)・餓鬼・地獄の五つの世界を巡る「五 道輪廻」が説かれた。その後、修羅(阿修羅)を加え、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄 を、併せて「六道」と称するようになった。 その中で、天・人・修羅を六道の中で、相対的に幸福な世界として「善趣」という場合 がある。一方、動物・餓鬼・地獄を苦しみの多い世界として「悪趣」という場合がある。 なお、人間と阿修羅のどちらを上位とするかは、宗派によって違いがある。 しかし、善趣に生まれ変わるよりも、悪趣に生まれ変わる場合の方がはるかに多いとさ れる。よって、解脱して輪廻を止めることができない場合は、善趣に生まれ変わることが 仏道修行者の目標となる。 また、人間の生は、最も仏陀の教えに巡りあって、修行を行いやすい境遇だとされる。 人間に生まれて、仏陀の教えに巡り合い、その修行ができることを「貴重な人間転生」な どと呼ぶ場合がある。35
5 釈迦牟尼の輪廻思想への姿勢
輪廻は、仏教の伝統的な思想である。しかし、現代の仏教者や研究者の中には、「釈迦 牟尼は、自分が生まれる前からインドでは常識だった輪廻思想を否定はしなかったが、そ れを強調はせず、現世(この世)で悟ることを重視した」とする者が少なくない。「釈迦 牟尼は、輪廻を信じていたのではなく、方便として認めた(用いた)」と主張する者も少 なくない。 この背景としては、釈迦牟尼の直説と思われる原始仏典の中では、釈迦牟尼が輪廻を説 いている話は多くはなく、今生で悟る道を説くことに力点を置いている事実がある(釈迦 牟尼の現世指向という)。 釈迦牟尼が輪廻を説いたものとしては、在家信者に天界に生まれ変わる話や、悟った者 に前生を思い出す力(宿命通)が生じるとする話などがある。よって、その経典が後世に 改ざんされた可能性を考えなければ、釈迦牟尼が輪廻を否定しているという主張は、合理 性に乏しいだろう。 しかし、釈迦牟尼は、「生命(霊魂)と身体は同じか別か」などと問われた際に、その ような問いに関する議論は無益であり、修行の基本と関係がなく、悟り(涅槃ね は ん)のために は役立たないとして、答えなかったという話がある(「無記」という)。 その際、いろいろなたとえを用いて、それがどうであろうと、人は苦しんでおり、修行 をすれば苦しみをなくすことができるのに、そうした議論をしていると、人は苦しみを抱 えたまま死んでしまうなどと説いている。 こうした事実から、釈迦牟尼が、死後の世界の有無はいくら議論してもどちらとも論証 できず時間を無駄に消費すると考えていたとも推察される。すなわち、釈迦牟尼が輪廻を 信じていたとしても、その十分な証明は不可能だと考えていた可能性はあるだろう。実際 に、釈迦牟尼と同時代の有力な思想家の中には、死後の世界を否定する唯物論者も複数存 在していたというが、彼らと死後の世界の有無に関して議論することは避けたのである。 なお、現代の仏教者や研究者が、釈迦牟尼が輪廻を信じていなかったと解釈する傾向が 強いのは、現代社会では、当時のインドと異なり、輪廻は常識では全くなく、彼ら自身が 信じていないということも反映されていると思われる。 例えば、中世にインドで仏教が滅んだ後で、近代においてインドで仏教を復興する運動 が起こったが、その主導者たちは、輪廻思想が正当化するカースト制度に対しては反発し ており、そのためか、独自の経典研究の結果として、彼らは「ブッダは輪廻転生を否定し た」と考えるに至っている。36
6 生まれ変わりを信じる根拠
輪廻転生の思想は、ヴェーダ聖典に、その萌芽が見られるとはいえ、それに加え、生ま れ変わりを信じる原因となったものとして、インド・仏教などの修行者の瞑想体験がある のではないかと思われる。 特に「サマディ(三昧)」と呼ばれる非常に深い瞑想状態がある。その一部においては、 呼吸や心臓の動きが非常に微弱になり、一種の仮死的な状態に至るともいわれる。その際 に、自分の意識が体外に出たと感じる体外離脱の体験をしたり、(人間の世界以外の)別 の世界を体験をしたりするといったことがある。 これは、私も、かつてのヨーガの修行で繰り返し体験したことがある(ただし、本人の 自覚として仮死的な状態を体験していたとしても、実際にそうだったかの検証は、いまだ に不完全なものしかない)。よって、こうした体験をした昔の修行者が、輪廻転生を信仰 するようになったとしても不思議ではないと思った。 さらに、現代では、瞑想状態ではなくて、病気や事故による重症のために仮死状態に至 り、その際に体外離脱体験をする事例も報告されている。いわゆる臨死体験である。 もちろん、これらは、仮死的な状態での体験であって、実際に死んだ後の体験ではない ことはいうまでもない。これらは夢と同じで、単なる内的な体験ではなく本当に意識が体 外に出たとする十分な科学的な証拠はない。 ただし、例えば、臨死体験において、全身麻酔の状態にあった病人が、意識が体外に出 て、自分の体の傍に立っていた医師の特徴的な行動を見たという体験をして、それが実際 の医師の行動と一致していた、といった事例もあることが報告されている(その患者は、 その医師の特長的な行動に関して、事前事後に知る機会は全くなかったということであ る) さらに、「前生退行催眠(ヒプノセラピー)」と呼ばれるものがある。これは、誘導に従 って自分の過去の記憶を思い出していくものである。その延長上として、出産前の胎内で の記憶まで遡り、さらには前生の記憶まで思い出すという現象がある。 もちろん、これが想像の産物ではなく、本当の前生の記憶という科学的な証明はない。 しかし、そうした体験の中には、外国の前生の記憶を思い出して、今生は学んだことがな いその外国語を正確に話した、などといった事例も報告されている。 さらに、幼い子供が自分の前生を語る事例がある。だいたい2歳から4歳の間が多いと いう(5歳から7歳くらいになると、語ることがなくなるという)。そして、その中で、 その前生の話と酷似した実際の人物の存在が確認された事例がある。 この研究は、米国の精神科の教授のイアン・スティーブンソン氏によって主導され、ヴ ァージニア大学の医学部で研究された。合計 2600 程のそうした事例があり、その中の多 くが実際の人物と照合されたという。同氏は、生まれ変わりを科学的に証明したいと考え ていたのではないかと見る人たちもいる。 こうした生まれ変わりに関する科学的な研究に対して、それらは生まれ変わりの証明と37 はならないとする科学者の主張もある。実際に、前生の記憶は、ごく限られた人たちの事 例であり、全ての人が前生を記憶しているわけではない。すなわち、科学において重視さ れる再現性(誰が調査・実験しても、確認できること)が乏しいのである。 ましてや人間以外の前生ならば、検証しようがない。すなわち、人間から人間への生ま れ変わりの検証を試みることができても、六道輪廻の検証は、それを試みること自体が極 めて困難である。 さらに、転生のために前生の記憶があるのではなく、別の原因で他人の記憶を獲得した のではないかとする主張がある。例えば、ESP(超能力)によって、昔の他人の生涯を 知ったにすぎないとする主張などである。これは、いわゆる科学でいう対抗仮説である。 また、最近は、心臓移植を受けた者が、ドナーの性格や記憶を引き継ぐ事例など報告さ れている(記憶する心臓)。こうして、物質を媒体として、他人の記憶を獲得することが あるとするならば、前生のものとされる記憶が、細胞や細胞を構成する分子を媒体して伝 わってきた他人の記憶である可能性も検討する必要があるかもしれない。 こうした研究を取材・調査したジャーナリストの立花隆氏は、生まれ変わりに関するN HKの特別番組で、「生まれ変わりがあると信じることも、ないと信じることも可能であ る」と結論付けている。 また、米国の著名な科学者である故カール・セーガン氏は、生まれ変わりは信じないが、 「まじめに調べてみるだけの価値がある」と評したという。こうして、生まれ変わりは、 依然として、科学においては証明も反証もされていない状態である。
7 現代人の多くが信じる転生
こうした中で、日本や米国などで意識調査をすると、転生を信じる人たちが意外に多く、 約半数に達しているともいうことができる。 2008 年におけるNHKの調査によれば、4 割以上の人が、死後の世界・輪廻転生がある と思うと答えている。しかも、その割合が、若い年代ほど多くなり、6 割を超え、30 代の 女性に至っては、7 割を超えているという。 (https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/yoron/social/032.html) この背景としては、いろいろな理由が考えられる。例えば、先ほどの科学的な研究が知 られるようになったこともある。また、インドの思想を取り入れた神智学・ニューエイジ などの近代の欧米の霊的思想が、日本の精神世界や新宗教に輸入されたことがあるだろう。 また、近年においては、アニメ・フィクションで、転生をテーマにするものがブームに なったことがある(いわゆる転生ブーム)。さらに、近年のいわゆるスピリチュアルブー ムでは、前生の話がテレビなどの大マスコミでも真面目に取り上げられる一面もある。 こうして、輪廻転生に関しては、荒唐無稽だとして信じない人が多数存在する一方で、 信じている人も多数存在していることになる。よって、皆の前でおおっぴらに信じている38 とは言い難いが、内心信じている人も多いかもしれない。さらには、特に若い年代を中心 に、信じている人がむしろ多数派になりつつあるのかもしれない。 なお、日本は、伝統的に仏教国ではあるが、仏教の伝来によっては、インド的な輪廻転 生思想は結果としてあまり広がらなかった。平安時代には、源信の往生要集などによって、 地獄への転生を含め、インド型の輪廻転生思想が広まった時期もあった(いわゆる浄土教 の広がり)。 しかしながら、結果として、日本では、「人は死んだら皆が神になる、成仏する」とい った考えが強くなっていった。その背景には、弥生時代からの伝統的な祖先信仰(死んだ 祖先は神になる)や神道などの常世と こ よ思想もあるだろうし、仏教においても、浄土宗・浄土 真宗などによって、念仏で誰もが容易く極楽浄土に生まれ変わることができるとする教え が広まった影響もあるだろう。 よって、学者の中では、日本人は近代になって欧米を通してインド型の輪廻転生の思想 を再輸入した一面があり、そのため、現代の日本人にとって輪廻転生思想は新鮮な印象が あるのではないかとも考えられているという。
8 輪廻転生を信じるメリット
さて、科学的には、今現在、「生まれ変わりがある」という十分な証明はない。同時に、 「生まれ変わりがない」という完全な反証もない。よって、ある可能性も、ない可能性も あると考えられるし、信じることも信じないことも可能である。 そこで、視点を変え、信じるメリットとデメリットについて考えてみたい。そして、こ れは、社会的にも、非常に重要な意味を持つ。 信じるメリットとしては、まず、死ですべてがなくなってしまうという虚無感・絶望感 を和らげることがあるだろう。転生を信じることで、死とは、肉体という衣を着替えるこ とにすぎず、新たな生への旅立ちであるとも考えることができる。 次に、釈迦牟尼の時代から、死んだら何もなくなるとか、死後の境遇は生前の行いとは 無関係に定まっているという考えになれば、道徳・努力の必要性が失われるという主張が ある。わかりやすくいえば、悪いことをしても見つからなければよく、逃げ得であるとか、 良いことをしても、必ずしも報われず、正直者は馬鹿を見るだけだという考えが強まると いうことである。 実際に、釈迦牟尼の時代には、独自の思想を自由に説く 6 名の著名な思想家(六師外道) がいたが、死んだら終わりで何も無くなるという思想(「断見」・唯物論)や、死後に永遠 不変の霊魂があるという思想(「常見」)を説く者がいた。例えば、プーラナ・カッサパは、 魂恒常論を主張し、マッカリ・ゴーサーラは、運命決定論者であり、アジタ・ケーサカン バリンや、パクダ・カッチャーヤナは唯物論者であるとされる。 釈迦牟尼は、こうした常見と断見の双方を否定したという(「不常不断」)。これを「(有39 無)中道」の思想とか、不常不断の思想という場合がある。そして、開祖が有無の両極(「二 辺」)を避けた仏教教団の思想は、その後、前に述べたように、縁起の法に基づいて、死 後の意識を含めたあらゆる物は、そのままの状態として存在し続けることはないが、変 化・連鎖・相続を繰り返しつつ存在するという主張となっていった。
9 信じるデメリット
一方、信じるデメリットとしては、今生よりも来世が重視されてしまい、今生が軽視さ れ、破壊されてしまう場合がある。 例えば、自分の宗教のために戦えば、命を落としても来世は幸福になると考える聖戦の 思想がある。例えば、イスラムの自爆テロでは、自爆して死んだ後、幸福な天界に生まれ 変わると信じられているという。日本では、戦国時代の一向宗(浄土真宗)が、信長と戦 って死んでも極楽浄土に生まれ変わるが、戦いから逃げれば地獄に落ちると主張し、信者 を戦闘に駆り立てたという。 また、オウム真理教が取り入れた、一部の密教に見られる度ど脱だ つ・呪殺・ポアの思想のよ うに、他人を殺しても、幸福な来世に導けば救済であるという考えの土台になる可能性も ある。 これは、突き詰めると、「信者の来世エゴ」ともいうべきものかもしれない。自分の来 世の幸福にとらわれるあまり、その宗教の教義に従って、自殺・他殺を行なう結果、実在 する今生の他者(と自己)を、いろいろな意味で傷つけることになる。 さらに、前生の悪行のために、今生不幸になっていると考えるならば、インドのカース ト制度のように、結果として、差別思想を正当化する可能性がある。他人が不幸でも、前 生の行為による自業自得と考えるからである。10 否定も肯定もしない姿勢、中道の道
こうした視点から、輪廻転生が「ある」とばかり考えたり、「ない」とばかり考えたり せず、その双方に偏らない考え方も、選択肢の一つではないだろうか。 というのは、実際に、あるともないとも証明されておらず、ある可能性もない可能性も あるのだから、それをそのまま自分の考えとするのである。そして、そうすることによっ て、ないとばかり考える場合の危険性と、あるとばかり考える場合の危険性の双方を抑制 することができる。 これは、前に述べたとおり、釈迦牟尼が、「生命(霊魂)と身体は同一なのか別個なの か」と問われた時に、どちらであるとも答えなかった姿勢と通じるものがないだろうか。40 釈迦牟尼は、「どちらかわからない」とか、「どちらの可能性もある」とは言わなかったが、 「議論しても時間を無駄に消耗するだけで、現実の苦の解消に役立たず無益である」など と主張をした。そして、仏教研究上は、これも広い意味での「中道」の思想だと解釈され る場合がある。 さらに、他人に法を説く場合に関していえば、輪廻転生がある可能性を強調する方がよ い人もいれば、ない可能性を強調する方がよい人もいるのではないか。実際に、教えの善 悪は、多くの場合、聞く人の条件によって変わるものである。釈迦牟尼が、相手によって 説く法則を変えたことは、よく知られている(「方便自在」・「対機説法」)。そして、輪廻 転生についても、それを説く時と説かない時があったのは、すでに述べたとおりである。
11 《付記》釈迦牟尼が説いた他の中道思想
釈迦牟尼・仏教の思想を特徴づけるとされる中道思想には、輪廻転生に関連する「有無 中道」に限らず、「苦楽中道」という思想がある。 インドの思想では、苦と楽に関する考え方の違いに応じて、右道・左道・中道の三つの 道があるとされる。右道とは、厳しい苦行、左道とは快楽主義であり、その双方に偏らな い道が、釈迦牟尼が説いたとされる苦楽中道である。 釈迦牟尼は、断食を含めた長年の厳しい苦行の末に、「いくら厳しい苦行をしても、悟 りを得ることができない」と考えて苦行を捨て、中道に基づく修行に励み、目覚めた人(= 仏陀)となったという。 釈迦牟尼が初めての説法を行った際にも(「初転法輪」)、この「苦楽中道」を(四諦・ 八正道に先んじて)真っ先に述べたことが、パーリ語経典相応部の経典などに描かれてい る。 「比丘たちよ、出家した者はこの 2 つの極端に近づいてはならない。第一に様々な対象 に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求 める者のすることではない。第二に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、 尊い道を求める真の目的にかなわない。 比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開 き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立つもの である。」 なお、釈迦牟尼の直弟子の一人であったデーヴァダッタ(提婆達多)は、教団の戒律を より禁欲的・苦行的性格が強いものへと変更するよう釈迦牟尼に求めたが、釈迦牟尼はこ れを「極端はいけない」と言って拒否したという。このことも、中道の考えに基づくもの と考えられる。また、先ほど述べた釈迦牟尼の時代の自由思想家の中では、ニガンタ・ナ41 ータプッタ(ジャイナ教)が、苦行主義者とされている。 また、釈迦牟尼は、「緊緩中道」ともいうべき修行上の訓戒をなしている。パーリ語の 経典では、釈迦牟尼が、どんなに精進しても悟りに近づけず絶望感を募らせていた僧に対 して、「弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない。程よく締められてこそい い音が出る。比丘の精進もそうあるべきだ」と諭し、その僧が、その通りに精進して、後 に悟りに至ったという。現代的にいえば、焦らずたゆまずということである。