オペラの風景(25)「エフゲニー・オネーギン」多様な解釈とDVD 本文 ザルツブルグ舞台での大草原 「ヴェルテル」も「エフゲニー・オネーギン」も男が主役の小説ですが、不思議なことにオペラ にすると女性が目立つし、女性の心理を追う話になっています。本来なら「シャルロッテ」「タ チアーナ」と題名をつけるべきでしょうが、小説の題名が有名だから、こうなったのでしょう。 「ヴェルテル」では幸福な結婚をしたシャルロッテに眠っていたヴェルテルへの恋情がクリス マスの夜に爆発し、彼の死で、恋情をどう処理するかがオペアの見所でした。タチアーナは爆 発したオネーギンへの恋情をどう抑えていくかが見所です。二人とも道を外れる恋をぎりぎり、 抑える経過に、観客は息をのみます。 この経過をどう表現するか、《オネーギン》では様々な演出が可能で、多数のDVDがでていま す。チャイコフスキーの音楽は元来グランド・オペラの性格があり、この強調もその一つとでし た。《エウゲニー・オネーギン》では1幕1場での農民の合唱、3場でのオネーギン拒絶の前と 後での乙女達のコミカルな合唱、2幕の田舎紳士の舞踏会、3幕の貴族たちの舞踏会など、豪 華に見せる場面が続きますから、当然グランドオペラとの見方もできますし、それなりに魅力 的です。 しかし彼の希望はオペラより「抒情的情景」であることから、そのことを強く示す演奏があら われます。平行して、このオペラの斬新性が高く評価され始めました。制作100 年後です。今 は数多くDVDが出るのは抒情オペラです。幸い8つDVDが見られましたから、それぞれの 特徴を挙げてみます。(ボルショイオペラ95東京は略) 1) 映画 ミハル・ドチョロマンスキ/ベルント・ヴァイクル:オネーギン マグダレナ・ワシャリオワ/テレサ・クビアク:タチヤーナ カミラ・マガロワ/ユリア・ハマリ:オリガ プシュミスル・コチー/ニコライ・ギャウロフ:グレーミン公爵、コヴェント・ガーデン・ロ イヤル・オペラ・ハウス管弦楽団、 指揮:サー・ゲオルグ・ショルティ 演出:ペトロ・ヴァイクル 録音:1974 年 6 月、7 月 ロンドン、キングズウェイ・ホール
映像収録:1988 年 大麦畑の大草 原 1974 年録音のショルティ盤CDを音源に使用し、ペトロ・ヴァイクル監督が映画化した作品で す。ショルティ指揮のCDは定評がありました。 映画ですから、現地での撮影が中心です。実際のオペラから「こうだろう」と想像した場面が 映画で現れます。それが名演奏にのって出てくるから、文句はない筈ですが、美しい画像を見 たわりには、物足りなさを感じます。グランド・オペラ的で心理的な切実さが伝わらないのが原 因のようです。手紙の場面での迫力不足、永遠の決別を宣言する前のタチアーナの3 幕での動 揺が物足りません。俳優が下手なのか、このように、正攻法な映像がこのオペラには合ってい ないせいなのか、私にはわかりません。 それでも大草原を歩く農民たちや、大雪原での決闘は見せますし、貴族たちの大舞踏会は正に 絵巻物です。美しい庭園を歩く若い二人などロマンチックですし、地主の巨大な屋敶には驚き ます。 2)1985 年シカゴ・リリックオペラ タチアーナ:ミレッラ:フレーニ オネーギン:ウオルガング:ブレンデル レンスキー:ペーター・ドヴォルスキー オリガ:サンドラ・ワルカー グレーニン侯爵:ニコライ:ギャーロフ バルトレッテイ指揮シカゴ・リリックオペラオケ 演出 記載なし。アメリカのビデオでは当時慣例でした。
div align="center"> フレーニのタチアーナ 前の映画は今回文を書くため買って、始めてみましたが、これは二〇年も前に買ったものを見 直しました。時代というか今の演出と違う第一は役者の動作に動きが少ないことです。《オネー ギン》はロシア語のせいか、スターの出演したものが少ししかありませんが、これは珍しく大 歌手フレーニやブレンデルがでています。彼らの演技に格調の高さを感じますが、動きの少な さが気になります。今を基準とすると学芸会に近い感じです。このことは難しい問題を含み、 私の判断をこえています。映像は今の水準より勿論务ります。この時代 1980 年頃のものが今 も廉い盤で売っていますが、「歴史的演奏」とでも銘打つべきでしょう。グランドオペラ的代表 作です。 3)1994 年グラインドボーン・フェスティバル・オペラ タチアーナ:エレーナ・プロキナ エフゲニー・オネーギン:ヴォイチェフ・ドラヴォヴィツ レンスキー:マーティン・トンプソン オリガ:ルイーゼ・ウィンター ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団 指揮:アンドリュー・デイヴィス 演出:グレアム・ヴィック 収録:1994 年 7 月 グラインドボーン・フェスティバル・オペラ
畑を背景にしたブロギナ 「抒情的情景」として「エウゲニー・オネーギン」が上演出来たDVDとしては、これが初めて ではないか、と私は思いました。全体的にトーンを落とした色調や目立たぬ装置を使い、しか も1 幕の 1 場と3場は同じ舞台。3 幕 2 場は椅子 2 脚というシンプルな設定。ここでタチアー ナが手紙をかく。3 幕では彼の手紙を普通もつのに、硬い姿勢で座っていて、オネーギンの顔 をにらみつけるだけ。この演出は二人の間に一層の緊張感がただよわせていました。タチアー ナ以外に目立つタレントがいないのも彼女の抒情性を強調するのに寄与していた気がしました。 特に男性二人の雰囲気が情けないので、タチアーナの印象が強く、このことこそチャイコフス キーの願った舞台ではなかったかと思いました。舞踏会や合唱の扱いは程よく娯楽性があって オペラとしても楽しめました。 ブロキナはこの上演以外に見た記憶がない歌手ですが、大変な名演で、トップランクに入るタ チアーナを見せてくれました。クールな感じで、オネーギンに口説き落とされる心配はありま せん。デービスの指揮は非常に表情に富んでいて、好感はもてましたか、少しやりすぎた箇所 もありました。 4)1998 年バーデンバーデンオペラ タチアーナ:ボイラン オリガ:バーフォード レンスキー:ケーニッヒ オネーギン:グルシャノフ ヨーロッパ・オペラ・ユニオンオケ&合唱団 指揮:ロジェストベンスキー 演出:ニクラウス・レーンホフ 大変特色がある演出で、普通のものと比べると違った曲に思えます。抽象的幻想的様式的とい う言葉が合うでしょうか、レーンホフ特有の演出スタイルです。歌い手も、演技をしているよ り、伸び伸び歌っている感じです。こんな方式では2 幕 1 場の前半は面白く聞けますが、緊張 感が漂う、1 幕 2 場、3 場は馴染みにくく、なりました。レーンホフが好きな方以外にはお勧 めできません。 5)2003 年パリオペラ座(バステーユ) タチアーナ: オリガ・グリャコワ
オリガ: マリーナ・ドマチェンコ エフゲニー・オネーギン:ウラデイーミル・チェルノワ レンスキー:ピヨートル・ベチャーラ グレーミン公爵:グレプ・ニコリスキー パリ・オペラ座管弦楽団 パリ・オペラ座合唱団 ウラデイーミル・ユロフスキー指揮 ウイリー・デッカー演出 2003 年 3,4 月パリ・オペラ座(バスチーユ) 大草原のタチャーナ グリャコフ グラインドボーン同様舞台を簡素化することで、抒情性を強調しているようです。簡素化は一 層進んでいて、舞台は全面軽い起伏がある平原だけで占めてられています。その上でのパーテ イや合唱は照明で調節され、その効果が本来はセットを変えて行う効果を、出していました。 舞踏会の場でシャンデリアが上から降りてきたのが唯一のセットです。つまり抽象的な舞台作 りで、セットの変化が極力少なくなっており、舞踏会などの華やかさに注意を奪われないよう、 精神性を強調するようにしていた気がしました。タチヤーナのグリャコフは情感溢れる演技で、 聡明な女性を演じていました。見たDVDのなかでも抜群です。ユロフスキーの指揮は繊細な 音楽を作っており、全体的にみて格別に優れた上演になっていました。他の歌手は並みのでき ですが、全体が洗練されていて、もっともよい《エフゲニー・オネーギン》の一つです。 6)チャイコフスキー:『エフゲニー・オネーギン』 ゲルギエフ&メトロポリタン歌劇場管弦楽団 タチアーナ:ルネ・フレミング(S) オネーギン:ドミトリー・ホロストフスキー(Br) レンスキー:ラモン・ヴァルガス(T)、他 メトロポリタン歌劇場管弦楽団&合唱団 ワレリー・ゲルギエフ(指揮) 演出:ロバート・カーセン 収録:2007 年、メトロポリタン歌劇場(ライヴ) 映像ディレクター:ブライアン・ラージ
フレミング・タチアーナ決別の場面 ザルツブルグ音楽祭と同時にメトロポリタンでこんな「エフゲニー・オネーギン」が行われてい たのは知りませんでした。ザルツブルグ路線が全く新しい「エフゲニー・オネーギン」を意図し ているのに対し、これは3)グラインドボーン6)パリと続いた抒情路線の延長にあります。 しかも歌手がスーパースターを使っていますから、実に見ごたえのある公演です。 舞台はおおきな立方体の中で行われ、余分なものはなく精神性を感じます。1 幕はタチアーナ の手紙の場面まで、枯れ葉の上での演技です。3場オネーギンに断られるところは中央の葉が 周囲に掃き集められます。2 幕の舞踏会は周囲に置かれた椅子の輪の中でひしめいて行われ、 派手に習う要素は削られます。2 幕後半の決闘は寒々とした照明下、殺害後オネーギンは舞台 上にいるまま、衣装を舞踏会用に買えます。こうして3 幕は 2 幕の延長として捉えられていま す。物理的時間は3 年ある筈ですが。衣装変えの間舞踏の音楽は流されますが、踊り手は出ま せん。これと似た方式は6)のパリ版で使われています。なかなか効果的です。黒い衣装の舞 踏団が二人、元気よく流れ込むだけ、パーテイは立ち話程度で、舞台はオネーギンとタチアー ナの大立ち回りになります。ここの工夫が今までにないもので、3 幕 1 場と 2 場の間に暗闇の 客席まま時間をかせぎ、2 場が開くと、タチアーナの衣装が変わっています。普通は舞踏会の 衣装の上を脱いだ程度ですが。原作ではここで数日が経過し、オネーギンが何度も恋文をだす のですが、無しの礫、業をにやした彼がタチアーナの部屋にしのびこみ、手紙を読んでいる彼 女をみつけます。ここでの修羅場は普通通りですが、フレミングは危うい一線に近づいている 感じがしましたし、演技も一級でした。見た舞台のうち一番よろめきに近い。 カーセンの演出はいつも美しく、人気がありますが、今回は解釈が穏当で、しかも最近十年の 総決算の感があり、傑作です。 7)2007 年ザルツブルク音楽祭ライヴ タチアーナ:アンナ・サムイル(S) オネーギン:ペーター・マッティ(Br) オリガ:エカテリーナ・グバノヴァ(A) レンスキー:ジョゼフ・カイザー(T) グレーミン侯爵:フェルッチョ・フルラネット(Br) ウィーン国立歌劇場合唱団、ウイーンフィル ダニエル・バーレンボイム指揮、 演出:アンドレア・ブレット
ライヴ収録:2007 年、ザルツブルク音楽祭 収録時間:158 分 サムイル・タチアーナの手紙の場面 ザルツブルグの幅広い舞台を大きなロシアの表現にどう使うか、興味がありましたが、回転舞 台に頼った設計で、幅広さは余り使っていません。第1 幕では当り一面の大麦の畑がロシアを 示していたこと、女主人が使用人の頭を刈っている姿で、地主を象徴していたのは新鮮でした。 服装や動作は現代的です。普通タチアーナは本を何時も持っているのですが、それが少ないの が返って印象に残ります。2 場の手紙の場面は様々な工夫があります。温室のようなガラス室 が彼女の居間で、タイプライターで恋文を書いています。パソコンではないのが救いですが、 カラーの青い用紙は彼女らしさを暗示していましょう。熱唱は部屋の中という狭い空間内での 所作です。タチアーナ役のサムイルは知的で容姿、演技とも合っています。 3場が少しわかりません。前半の乙女たちの合唱はミシンを踏む女工の作業場でおこなわれ、 後半では乙女たちが姿をみせません。オネーギンがタチアーナに返答する姿勢が今様ガールフ レンドに対するようで、全体の時代設定にあっています。恰好つけマンであるけど、いいとこ の若い衆といった感じのオネーギン、断られたタチアーナの態度も自然です。(原作では彼の留 守宅で彼の蔵書を読みますが、そんな姿勢を演技は示唆しています。) オーケストラはバーレンボイム特有の伸縮の激しさはあるものの、予想外にドライでした。第 2 幕、タチアーナの命名祝日に集まった地主が床上の水たまりや、過剰に酔った態度で、地主 の腐敗した雰囲気をかもしだしています。トリケの歌にも普通の健康さはありません。ダンス にも秩序がないのです。こんな雰囲気だからこそ、親友二人の決闘という異常事態が発生して も不思議ではないと思わせます。そんな中で一人タチアーナが健全で聡明であるのが光ります。 彼女は健康な美声で耳をひきつけました。 第3 幕の扱いも普通ではありません。ここは貴族の夜会の筈ですが、舞踏はつけたりで、高級 キャバレーの雰囲気です。突然やってきた、オネーギンとそれにタチアーナも雰囲気から浮い ています。タチアーナの夫、クレーミン侯爵の新妻賛歌も何処か病的です。舞台バックにおか れた鏡に映る参加者の姿やライトが揺れて、パーテイの不安定感を煽ります。 恋に目覚めたオネーギンが別室にいた下着姿のタチアーナを見つけますが、彼女はオネーギン からの手紙を読んでいました。執拗に絡むオネーギンに未練を持ちながら断固拒むタチアーナ をアンナ・サミュエルは見事に演じていました。今まで見た最高に聡明で人間的なタチアーナで
あり、ペーター・マッテイは情熱以外のものはない、人間的貧しさを感じさせる対応をしていた のも演出の意図にあっていました。これは精神的に貧しい舞踏会の時代を反映するとして理解 できます。 バーレンボイムの指揮は格調があり、ザルツブルグ音楽祭らしくない、正当派の演出とともに 好感がもてました。 退廃的舞踏会 長い感想ですが、ザルツブルグの上演は《抒情的情景》ではあるものの、最近の傾向を一歩抜 き出た、解釈だと思います。友人同士の「決闘」が起こる社会的腐敗、思いつきで烈しい恋を するオネーギンの刹那的人格の背景にある時代の空しさなど、が感じられ、これが最高の「エ フゲニー・オネーギン」であるか、疑問ですが、優れた現代的演出として評価します。 オペラの風景(26)マリア・カラスの「椿姫」 本文
1955年スカラ座でのカラス 椿姫の話は単純ですが、実在の女性がモデルのせいか、カラス=椿姫のイメージにたどり着く には幾つもの駅に止まらなくてはなりません。 実在の椿姫はマリー・デュプレシー。彼女は高級娼婦といわれていますが、物腰だけでなく、 言語は文法上の誤りや品の悪さもなく、繊細な心使いと本能的なこまやかさをもつ憧れの女性 だったそうです。デュマ・フィスやフランツ・リストの恋人となり、1847 年 2 月 3 日パリで死 にました。1824 年 1 月 24 日生まれですから 23 歳でした。 デュマ・フィスが彼女をモデルに作品として1948 年に書き下ろした小説が「椿をもつ女」、彼 と付き合っていた範囲の出来事を扱っています。デュマは彼女の死を異国で聞き、葬儀にも立 ち会わなかったそうです。 彼がその小説を戯曲(5 幕もの)としたのは 1849 年です。 ヴェルディはこの戯曲を3 幕のオペラ「トラヴィアータ」(道を踏み外した女)としました。主 人公の名はヴィオレッタ・ヴァレリーです。彼はデュマの戯曲の1,3,4,5幕を僅か10 曲 に整理し、2 幕は 5 場でのヴィオレッタのモノローグ部だけをとりあげ、これをオペラ 1 幕の 最後の長いシェーナとアリアとしました。 小説から戯曲への改変の際、デュマは父ジェルモンの役を重くし、戯曲の3 幕には小説にはな かった「ヴィオレッタとジェルモンの会話」を入れましたが、そこをヴェルデイは殆んどその ままオペラの2幕に使っています。オペラではそれ以後も要所要所にジェルモンを登場させ、 ヴェルディ特有の主役の3角関係(チャンバイ説)をつくり、恋を社会の制約と規範で挫折さ せます。 ヴェルデイの大抵の悲劇のように「椿姫」にも死が待ちうけます。 普通は愛の死は天上で二人を結びつける筈ですが(例ドン・カルロ、仮面舞踏会)、「椿姫」で は少し違います。不運な一生でやっと見つけた彼女の「愛」と「恋」、それは余りにも短い間に 打ち切られます。 「神様こんなに若いのに死ななければならないの、これほど苦しみ抜いた私は!」(3 幕最後) 私は《椿姫》を見るたびに彼女の孤独を終始感じます。1 幕の最後狂ったように、「どうかして いる、どうかしている、妄想だわ」と恋を否定。2 幕真ん中で「美しく清らかなお嬢さんにお 伝え下さい、ひとりの生贄の不幸が始まって」。3 幕末尾に「もし、清らかな乙女が若いさかり で、あなたに心をささげるとしたら」と歌い、最後には天に立ち昇るようなカンテイナーレも 一人で歌い、こときれます。残された4 人とは距離をおいて。こう取り上げれば、彼女の愛の 死は孤独な死で天上でも結ばれない、従来のヴェルデイには無い死であるのが理解いただけま しょう。 こうしてヴェルデイはデュマが作れなかった、時代を超越した新しい女性をつくりあげたと、 マルセル・プルーストが讃えたのも、その通りだと私はおもいます。
自宅のマリア・カラス マリア・カラスは19世紀半ばの名ソプラノであるのは日本でも広くしられています。今でも 日本では大変な人気でCD屋には必ずあるし、通販のアマゾンの中古書リストには関連書が5 0種近くあります。彼女はプリマドンナの代名詞ですし、我々の「椿姫」像は強く彼女に負っ ているようです。今回はカラスの椿姫に焦点をあてます。 彼女は「椿姫」を指揮者トリオ・セラフィンに学んだそうです。セラフィンの言葉があります。 「ヴィオレッタは、いかがわしい享楽の対象となる女としての姿を少しもさらしていない。そ れどころか女性としての魅力と苦悩に満ちた気高い心と愛ゆえの崇高な献身に溢れた女性とし て、舞台に立っている」。彼女のまわりには「神話的な雰囲気」が漂っているとさえセラフィン はいいます。 カラスがはじめて「椿姫」を歌ったのは1951 年 1 月 15 日フィレンツエのテアトロコムナーレ でした。「およそこの世にはまり役というものがあるとしたら、それはカラスのヴィオレッタで ある」。これはこのとき録音された「椿姫」に添えて、J.アードインが書いた文章の冒頭です。 (メキシコシテイ、ベラス・アルテス劇場) 彼女の「椿姫」のスタジオ録音は一つチェトラ盤があるだけです。全てが隠し撮りされた私家 盤で、それらは後日公開されています。本論ではそれらの録音と写真をネタにしています。結 論を先にいえば、ヴェルデイがデュマの椿姫に何かを加えたように、マリア・カラスはヴェルデ イの《椿姫》に新しい何かをくわえた、ということです。 残念ながらカラスを映像でみるのは殆んど不可能です。DVDは数枚ありますが、「椿姫」はあ りません。それらで感じるのはカラスの動作がはっきりしていることです。役者の演技のよう に後ろを振り向いたり、下をむいたりという単純な動作がすっきり明快です。 写真は比較的沢山あります。「マリア・カラス舞台写真集(アルファベータ社、主婦の友社、富 山房など)」などにあり、私のもっているCD 全曲盤はトリノ・イタリア放送盤(1953)、ミ ラノ・スカラ座盤(1955)、リスボン・サンカルロ盤(1858)、コヴェントガーデン盤 (1958)の四つです。一番好きなのはリスボン盤です。(カラスは生涯で64 回「椿姫」を 歌っています。
それらによると、彼女の声が繊細なのに驚かされます。細い感じさえします。それでいて、ピ アニシモでも劇場の末端までレーザー光のように突き抜けたことでしょう。勿論ドラマティッ クソプラノですから、強烈な歌も聞こえてきます。晩年ほど声が細く感じます。 写真は1 幕最後のシェーナとアリア「ふしぎだわ、ふしぎだわ。」 この場面でのカラスは思い 深げな動作と、恋に狂う喜びで烈しい動きを見せたのが残っています。 第3曲シェーナとアリアはこんな文です。 不思議だわ!・・・・不思議だわ!・・・・こころにあの言葉が刻みこまれてしまった! まじめな愛は私にとって、わざわいになるかしら?何を決心したの、ああ、私の乱れた心よ ---略ーーーーーー (ありあ)ああ、きっとあの方なのね!私の心がひとり寂しく胸をときめかせ、しばしば・・・
不思議だわ。不思議だわ(コヴェント・ガーデン) カラスは何んと伸びやかに演技していることでしょう。しかもクールであす。良く見掛ける恋 に狂った女性の姿はありません。ロッシーニの時代の女性に戻った感じさえあります。これは コヴェントガーデン盤ですが、残念ながら、この公演以前の例えば有名なスカラ座(1955 年)の写真はありません。 これこそ、ヴェルデイの椿姫に彼女が加えた何かではないかと私は思います。実在したマリー・ デュプレシーがどこかにもっていたクールさ?歌に絵に、私は感じます。彼女が表現した椿姫 はクラシックなものではなかったか、と感じます。 ヴェルデイは原作の2幕を殆んどカットして、「椿姫」の性格を示す部分をここに集めたのは前 にのべました。マルグリッドのような複雑な、つまり恋の手管を知り尽くした女と聖女とが一 つの肉体に同居しているという女をここで示さなければ、オペラの次の進行が予測できない筈、 それをカラスは読んでいて、写真のような演技になったのではないでしょうか。 カラスに目立つのはシェーナ-つまり、会話の部分が大変丁寧に、一語一語明瞭に喋られている ことです。フレーズがはっきりわかり、そこに神経が行き届いているのです。オペラの白眉で ある、2 幕の父ジェルモンとの「シェーナと 2 重唱」は劇的なクライマックスです。そこはこ んな会話です。 J「ヴァレリー嬢ですね」V「そうですわ]J「アルフレードの父親が私です!」 V「貴方様が」J「そうです、破滅した無分別ものの父親です、あなたに誘惑されて」 V「私は夫人でございますよ、貴方様、しかも私の家でまたなにを、もうお相手はいたしませ んわ、私のことより、あなたのおためにも」 これはオペラの台本であり、カラスは毅然として娼婦とは思えぬ応対をします。 ヴァレリーは少しずつジェルモンの説得に納得させられるときの演技は見事です。(3 連写真) ジェルモンは彼女と彼の息子との交際が、彼の未来だけでなく、彼の妹の未来を危うくしてい る、妹に差し迫った結婚が醜聞で破談になるだろうという。この場面はスカラ座の上演では写
真に残っています。ヴィオレッタはそういう真実を聞きたくなくて、喉にやっていたのが、や がて《身を支えるためかのように、椅子の肘掛を握り、やがて手を膝の上に移して開き、諦め の気持ちを示しています。 ヴァレリーはすこしずつ諦めていきます。(スカラ座) 2幕1場の最後はマルグリッドが自分の不運を嘆く場面です。自分の不幸を呟いたあと、気 持ちをきりかえ、ジェルモンに向って訴えます。言葉にもならない、空をさすらうような声、 この長さは格別です。それが言葉になっていく様は、涙なしには聞けません。 ( むかしおちこんだ不幸から抜け出すのぞみは こうして失われてしまったのだわ たとえめぐみ深い神様が寛大でいらしても こういった人間は決してゆるしてくださらないわ)《ここまでは独 白》 (ジェルモンに向ってなきながら) 「美しくきよらかなお嬢さんにお伝え下さい。 一人のいけにえの不幸がはじまって残されたたったひ一すじの しあわせな光を・・・・ あなたにおささげして、死んでいくのだと」
ジェルモンに訴えるヴィオレッタ (コヴェンド・ガーデン) パーテイ会場に逃げてきた2幕第2場では事情を知らないアルフレッドのせいで晒し者になっ てしまいます。客達のアンサンブルでの助けでためらいがちに歌う訴え、ここに深い愛を感じ ない観客はいるでしょうか。はにかみがちな性格から滲み出た愛の賛歌です。マルグリッドの 性格をカラスは推察して見事に表現しているアリアだと私は感じます。 アルフレード、アルフレード、この心の愛の全てを わかってくださらないのね。 あなたのさげすみをかってまでも、 この愛を明かしていることを、あなたは御存知ないのね。・・・・・・・・・・
「 アルフレード、アルフレード・・・・」(コヴェント・ガーデン) 第3幕、死の場面での「もし、清らな・・・」というアリアの写真はありません。カラスの演 技についてかいた舞台装置担当のピエロ・トーシ文を主婦の友社盤「マリア・カラス」からとり ます。 「死の瞬間、ヴィスコンティ(演出家)はカラスの女優としての天才に全てを求めました。自 分の運命を受け入れてアルフレードに自分の肖像を渡し、ヴィオレッタの最後の詩句となる。 もし、清らかな乙女が 若いさかりで、 あなたに心をささげるとしたら・・・・・ いっしょになってくださいな・・・・きっとね この肖像をそのひとにさしあげて、 贈り物だといってほしいの 天国で天使にまじって そのひととあなたのためにお祈りしている女の贈物だと。 はれやかに、彼女は、アルフレードに、苦痛がやみ、昔の力が甦り、新しい命がうまれようと していると語り、「おおこの喜び」と絶句して死にます。
おおよろこびよ(コヴェント・ガーデン) カラスが作り上げたヴィオレッタ像は写真を見ながらCD をきくと、自ずと私には浮き上がり ます。それがカラス以降の歌手の演技にみえてくるのを次回に述べます。
オペラの風景(27)アンナ・ネトレプコの「椿姫」
本文 戯曲「椿姫」のモデルがマリー・デュプレシーという名で19世紀初頭にパリで名をなした高 級娼婦であるのは有名な話です。オペラ「椿姫」は、デュマ・フュスの戯曲を原作とした「音 楽劇」とされています。当然主役ヴィオレッタには人格がある筈です。イタリアオペラ全体の 傾向ですが、オペラの台本は主役の人格に殆んど触れません。劇としては不思議なことです。 《椿姫》でも原作から台本を作るとき、ヴィオレッタの性格が書いてあった、第ニ幕を殆んど 省いてしまいました。 アンナ・ネトレプコが2005年のザルツブルグ音楽祭で「椿姫」で近来稀な話題を提供しましたが、マリア・カラスの「椿姫」と全く違う人格で、これが《椿姫》であったか、考えさせ られました。これでも台本の指定に違反しません。 ここでは歌手個人の違いに配慮しながら、色々なDVD からヴィオレッタの魅力を考察します。 恋人兹作者デュマ・フィスが1867 年、彼の戯曲全集第1巻序文に残した文から、マリーの面影 を引用します。 「ヒロインはアルフォンシーヌ・デュプレシーという人である.尤も、アルフォンシーヌ・デ ュプレシーよりも響きがよくて高貴だというので、自らはマリー・デプレシーと名のっていた。 彼女は漆黒の髪とバラのような輝かしい肌を持ったすんなりと背の高い人だった。こじんまり した顔にエナメルのように輝く瞳は日本人のように切れ長だったが、生き生きと生気にあふれ ていた。唇はサクランボを思わせ、歯はこの世のものとも思えないほど美しかった。マイセン 焼きの陶器の像と評したら当っていようか。1844年、私が初めて彼女に会った時、彼女は 華やかさと美しさの絶頂にあった。胸の病のため、1947年23歳の若さでこの世を去った。 彼女は情というものを持った数少ない高級娼婦のひとりだった。あれほど若くして死んだのは きっとそのせいに違いない。才気があり、利己心をもたぬ女性だった。豪華な屋敶で彼女は貧 困のうちに死んだ。家は債権者たちが担保にとっていたのである。彼女には生まれながらの気 品があり、服装の趣味もよく、歩く足取りには優雅さ威厳さえ感じられた。・・・・」 マリー・デュプレシー これより早く、1852 年、ジュール・ジャナン(文芸評論家)は小説「椿をもつ女」第 2 版にヒ ロインのモデルになったマリー・デュプレシの実像をかいています。 「1845 年の出来事である。夢のように魅惑的な面立ちをもった若くて美しいひとりの女性が現 れて、周囲のうやうやしいまでの賛嘆の目を集めた。初めて姿を見せたとき、誰も彼女の名前 を知らず、何をしている人なのかもわからなかった。彼女は実際、きわめて高貴な世界に生き る女性ならではの率直なまなざしとあでやかな身のこなし、大胆であると同時につつしみ深さ も感じさせる足取りをごくしぜんに身につけていた。まじめな顔つき、印象的な微笑み・・・・・・」 二人の表現は似ていますが、デュマより早い時期にジャナンが言っているだけに、一層興味が あります。この年にマリーは既にデュマと知り合っています。ジャナンと同席していたのが後
年の恋人、フランツ・リスト(大ピアニスト)でした。 もう一つマリーの話として女優マダム・ジュビエットの物があります。「オネーギン」のタチア ーナの挙動が自然に根ざしたことに由来したように、マリーの美が強い贅沢への憧れに根ざし ていたかららしいという話です。マダムに彼女が「どうして娼婦になったか」、話をしてくれた とき、彼女は顔を隠していました。 「どうして自分を売るようなことをしたかとおっしゃいますの?まじめな仕事では決して贅沢 はできない、そう思ったからですわ。心の底から贅沢に憧れていたのです。といっても、堕落 していたわけでも、人様を妬ましく思っていたわけでもないのです。ただ、優雅で洗練された 環境での喜びや楽しみや上品を知ってみたいと思って・・・・私は自分の友人はいつでも自分 で選んできたのですけれど。私の愛にこたえて下さった方はひとりもいませんでした。私の生 活で一番つらいのはそのことなのです・・・・・」 これは1839 年ころの話で、デュマと知り合う 1844 年より前です。 蛇足ですが、こういったマリーの性格を演技として一番よく示していたのはマリア・カラスで す。 マリア・カラスが椿姫人気を支えたように、それまで 100 年続いた、《椿姫》人気も似たよう な歌手によって支えられてきたのでしょう。大成功した1853年ローマ以後ヴィオレッタ歌 手として名声を博したのは5 指に余ります。アデリーナ・パッティ(1859~1914)ジ ェンマ・ベンリンチオーニ(1886 年まで)ロジーナ・ストルキオ(1900~1920)ネリ ー・メルバ(生存は1932 年迄)などです。 バッティーは長く続いたヴィオレッタ歌手 カラス以後は映像残っています。彼女らの演技を1 幕の「ふしぎだわ、不思議だわ」。2 幕のジ ェルモンとの掛け合い、3 幕の末尾「もし、清らかな乙女が」の 3 箇所に注目して感想をのべ ます。
第一はカラスの代役としてデビューしたレナータ・スコット。彼女はCDには名盤が残ってい ます。大変表情豊かで美声です。映像はNHKイタリアオペラとして 1973 年に東京でヴィオ レッタをやったものが見られます > レナータ・スコット スコットの演技はどのオペラでも抜群です。不幸なことに容姿が椿姫に合っていません。しか し画像を見ているうちに容姿のことは忘れます。それでも死の場面はやはり気になります。こ んな健康な姫の死はありえない。 「椿姫」は痩せていなければならないのは、結核ということから必要条件でしょう。マリア・ カラスもデビュー時には90 キロあったのがスカラ座で「椿姫」をやったときには 30 キロも痩 せていたのは有名な話です 太ったカラス(シチリア島の晩祷) 。
痩せたカラス(椿姫) 1983 年「椿姫」の映像がVHSという方式で商品化されました。テレサ・ストラータスがゼッ フィレルリの演出で登場しましたが、彼女の痩せた美貌と演技の上手さで目を引きました。映 画でしたから多少の抵抗はあったものの感銘は受けました。2 幕は映画的扱いで、父との対決 色が薄く、3 幕の悲しみが最高です。カラスと比べられるかというと、私には劇的なセンスが 少し落ちるように思えます。このオペラは音楽劇であるのが、大事な要素の一つ」ですから。 </ テレサ・ストラータス ゼッフィレルリは 2002 年にポンファデッリという美貌の歌手を使って違った演出をオペラと してやっています(プッセードのヴェルデイ劇場)。彼女は小柄で美貌です。歌はスターとして 通用します。音楽容姿演技を総合すれば、このオペラは上のできです。ただ椿姫の2 重顎はど うも気になりますがね。太った椿姫が野次り倒された例は多いから。
</div ステファニー・ポンファデッリ 名演出家 P・ホールがマリー・マクローリンを使って極めて優れた音楽劇を作っています。グ ラインドボーン音楽祭 1987 です。マクローリンの病的な表情はヴィオレッタの一面を示して いますし、全体が落ち着いたトーンで仕上げられていて、通好みというのでしょう。歌手が一 流半の所為か、ピリッとした感じにかけ、特に2 幕はおかしいけれど、劇とみれば他の作品か ら際立っています。死の場面は印象に残ります。 </
マリー・マクローリン 90 年台に話題を呼んだのが 92 年ロイヤル・オペラでのゲオルギュの椿姫です。指揮はショル テイ。清楚過ぎる娼婦ですが、このオペラでは違和感を与えません。特筆すべきは、2 幕のジ ェルモンの演技で、レオ・ヌッチが憎まれ役ピッタリです。対抗するゲオルギューがクイーン の貫禄を示すので、2 幕の迫力は格別です。演出も普通より簡素化されたセットで、爽やかで す。新しい「椿姫」像を作ったと私には思えました。 この年1992 年スカラ座ではカラス以来と言われた「椿姫」上演がありました。フレーニが 70 年にやったのですが、カラスのイメージを汚すということで不評に終り、以来なかった。新人 ファブリッチーニを使い、周到な準備で行われたそうで(カヴァーニ演出)、テレビで放映され ましたが、その割には評判になりませんでした。ゲオルギューのショックが大きかったせいで しょう。 </1/124116200906716425927.jpg" 話題ゲオルギュのヴィオレッタ 1992 年頃はチェリル・スチューダが抜群の人気を誇ったから、彼女の「椿姫」が CD で出てい ます。若さの美しさはあったものの、太め、しかも相手役はパバロッテ(指揮はレバイン)。い くら何でもこれでは映像化は無理でしょう。私の記憶ではドミンゴ相手は放映された筈ですが、 商品になったかどうか
チェリル・ステューダ 1994 年彼女に不調が出始めたころ、ミュンヘン音楽祭で代役をしたのが、ガイアルド・ドマシ ュ。評判になったそうですが、映像をみていません。まだ 30 歳になっていなかったのでしょ う。それ以後爆発的人気は聞いていません。チリ生まれです。雰囲気はヴィオレッタに合って います。私は好きですが。 クリスティーナ・ガイヤルド=ドマシュ 60 年台後半から 70 年台はオーディオの技術の進歩が大きく、再生音の向上に多くの努力が払 われました。カルロス・クライバー指揮のイレアーナ・コトルバスの「椿姫」が当時の彼女の イメージとあって人気がありました(LP、1977 年バイエルン歌劇場)。音の微妙な間合い強弱 で劇的な楽しみが伝わってきます。前記スコットのスカラ座、スチューダのメトロポリタン・ オペラでの公演なども、美しいアリアが格段に多いこの曲、目をつむって見るオペラの魅力は DVD 以上です。
イレアーナ・コトルバス ザルツブルグ音楽祭2005 での「椿姫」の爆発は未だ新鮮で、どう評価すべきか迷います。 この上演は色々の仕掛けがあったと事前に聞きました。2004 年にネトレプコは BBC プロムス に出演、(彼女キーロフ・オペラではスター)2005 年 3 月にはネトレプコも東京にきて、アリ アを歌って帰りました。5 月には東京で切符が10 万円で買えました。著名な指揮者が降りた という噂を聞きました。5 月に彼女はウイーンのオペラにヴィラソンと「愛の妙薬」にでてい ます。こうした商業主義的な話題が広がって、夏がきました。もう 10 万円では買えない人気 になっていました。 あとからみるヴィデオでは格別な演出、広いザルツブルグの舞台に置かれたセットはソファー と大時計だけ(演出はデッカー)ワンピースのヴィオレッタ、ワイシャツのアルフレード(ヴ ィラソン)、二人の熱演で主役である筈のジェルモン(ハンプソン)は消されてしまいました。 展開されたアニメ「椿姫」は大変な人気を呼び、無名のネトレプコはスターダムのトップに登 りました。病気(結核)も、親権(圧力)も、死さえも忘れられた青春オペラが爆発し、突発 した死の悲しさだけが、涙を呼びます。こういった単純化はアニメの世界です。 死の床は大きな舞台の床。それがザルツブルグの舞台だということに意味があったと思うし、 「椿姫」の一回限りの新天地と私は評価します。ネトレプコの美貌はヴィオレッタには合って いないし、声も太い。次の年までも話題に残るほどのショックで十分、2006 年ザルツブルグで のモーッアルト・イアーへの立派な 橋となったのは確かです。それが予期せぬ大爆発となっ たと私は解釈しますが、どうでしょうか。
</ </ アニメ・オペラのヴィオレッタ 2006 年、才女フレミングが「椿姫」をやったのは、翌年彼女がメトロポリタンと来日したとき に日本で知られました。ロスアンジェルス・オペラでヴィラソンとブルソンという最高スタッ フをそろえてのこと、指揮はJ.コンロン、演出は M..ドミンゴ夫人.。三人スターが揃うのは「椿 姫」では珍しいことです。フレミングに 18 歳を期待するのは無理ですが、安定した演技でし た。前年のショックがあり、ヴィラソンがどんな演技をするか興味をもちましたが、3 幕は目 覚しい活躍で、彼の才能が一過性でないのは確かです。演出は贅沢ですが平凡で、役者が揃っ た割には強い感銘は与えません。
</ 才女フレミングのヴィオレ ッタ登場 豪華な椿姫が相次いで登場し、本家スカラ座も黙ってはいられなくなったのでしょう。2007 年 因縁のある「椿姫」が登場します。ヴィスコンテイ=カラスの名演で確立した権威は弟子のゼ ッフィレッルリ=フレーニで失墜し、兄弟弟子カヴァッリ=ファブリッチーニで 1992 年に様 子を見、15 年後、再登場。今度はヴィオレッタはゲオルギュ、アルフレッドは売れっ子・テナ ー、ヴァルガス、ジェルモンは人気のフロンターリです。カヴァーニの演出は15 年前と同じ、 残念ながらゲオルギューは15 年歳をとってしまいました。カラスのスカラ座は 35 歳くらい、 10 歳違います。ヴァルガスとのコンビはそれなりに面白くみられますが、フロンターリとの関 係はヴィオレッタの勝ち、それにゲオルギューのオペラは少し演劇性に欠け、歌が勝ちがちで す。今回もそんな場面が何箇所か気がつきました。
</ 今のヴィオレッタ・ゲオルギュー ヴィオレッタの魅力をつくる人間像はどの公演でも共通の筈です。マリー・デュプレシーのイ メージに基調をおいて、これらのオペラに共通して見られる筈です。ここ 50 年間に限れば、 カラスから生まれたもろもろの魅力です。マリア・カラスが条件の多くをみたした、共通のイ メージは先ず声。カラスの声は劇的で繊細な強さです。甘い声ではないのは確かです。ストラ ータスやゲオルギュに面影はあります。次は豊かな演劇性、これはストラータスには感じられ ます。第三の優れたギリシャ的な形態感は近頃の歌手に感じられませんが、マクローリンに少 しありましょうか。第四の容姿、印象はどうでしょう。ヴィオレッタは美人ではあってもネト レプコとは全く違います。カラスは美人ではないが、ヴィオレッタとして受けたのは確かです。 ストラータスが近いイメージでしょうか。第五の清楚な感じはカラスは演技で出していました が、どの歌手に余り感じません。マクローリンはどうでしょう。ゲオルギューの第一回には自 ずと漂ってきましたが、第二回目には消えました。 こうしてみると、この 50 年の繁栄はカラスの残像を多くの歌手が一部ずつ身につけ、維持さ れたようです。ネトレプコの作った椿姫はカラスとは全て異質ですが、本質的なものではなく、 人気は一過性であり、新しい椿姫像ではないと私は思います。 ネトレプコ以外の 30 代女性ホープは何人かいます。私が見た椿姫ではエレナ・モシュク、エ ヴァ・メイ、クリステイーナ・ガイヤルド=ドマシュ、パトリチィア・チィオフィー。彼女ら には格別の新しさはありません。古楽出身の硬質な音のソプラノの出現に期待します。 話を最初にもどします。ヴィオレッタ誕生のイキサツです。彼女は贅沢願望とそれゆえに生ま れる優雅さ、品位、それらへの願いの強さが生んだ女でした。そんな女性がありうるのか、実 在した娼婦をモデルとしたこのオペラもここが嘘っぽく感じられるとしたら、これはロマン派 の生んだ神話ではないか、と考えていいでしょう。次に嘘のかたまりである「とリスタンとイ ゾルデ」を取り上げます。
オペラの風景(28)「トリスタンとイゾルデ」と《愛の妙薬》 本文 div> トリスタンとイゾルデの壁画 「トリスタンとイゾルデ」は情熱的恋愛の代表的な話です。これ話がケルト民話だと知らない 人でも、麻薬が使われたのは知っていましょう。ネトレプコ扮するアディーナが「トリスタン 物語」を読んで面白がっている。彼女に恋するネモリーノ(ヴィラソン)。二人は幼馴染なのに 思春期になると関係は微妙。彼はイカサマ薬屋から(惚れられ薬《愛の妙薬》)をなけなしの金 で買って飲む。薬の効果は顕著。伯父の遺産がネモリーノに入る噂が広がり、彼はモテモテに なる。噂をしらない彼はこれを「薬の効果」と信じる。二人は紆余曲折で結ばれる。(このオペ ラ「愛の妙薬」(1832 年ドニゼッティ作)は DVD になっています。) ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」(1865 年作オペラ)は同じ原話ですが、うんざりする ほど真面目な話です。《愛の妙薬》はイゾルデの母が娘が年長の王との婚姻するため調合した麻 薬。二人が同時に飲むことで肉体的に変化が起きて、夫婦は永久に円満となる。オペラではこ の妙薬を下女フランゲーネの深慮で、憎からず思っていたトリスタンとイゾルデに使って起き た事件。胸の思いを素直に出せず、自死寸前の二人の仲は意外な方向に発展し、二人の愛は哲 学的深まりをみせ、完全な愛を求めて二人は死に至る。その経過がこのオペラです。 《愛の妙薬》は薬の心理的効果を強調したコメディですが、「トリスタンとイゾルデ」は二人の 前史と薬の効用、死に至るほどの愛の深まりが劇になっています。 ワーグナーは普通オペラとか楽劇とか呼ぶ音楽劇を「3幕の劇進行」と名づけています。 歌と合唱とオーケストラで劇は出来ていますが、ワーグナーの前作「タンホイザー」や「ロー エングリン」のように聞くと「劇進行」は全く面白くありません。前作オペラはヴェルデイの オペラと似た仕方、つまりアリアや、歌手の動作を気にして、オーケストラを伴奏的な役とし てきいて楽しめますが、この「3幕の劇進行」では関心が持続出来ません。どうして違うのか。 先ず台本の筋を《椿姫》と比べながら、特異性を追ってみます。 (椿姫との比較)
(第1幕)「椿姫」も一目惚れオペラです。一方的にアルフレードが1年間思っていた時期はあ ったもののヴィオレッタが彼と一度口をきいて「不思議だわ、不思議だわ」になります。 「トリスタンとイゾルデ」の第1幕は殆んどが前史の紹介です。王妃として迎えられたイゾル デは、船中トリスタンが挨拶に来ないのを怒る。彼が命を二度まで彼女に助けられ、しかも彼 女の恋人モロオルトを殺している。そんな前史がありながら、長い舟旅の間中、彼女を避けて いた。二度も下女に命令したのに、舟がタンタジェルにつく直前彼は現れた。彼女の指摘に、 彼は毒薬を飲む決意をし、彼女も意にそわない結婚ゆえ、その半分を飲む。下女フランゲーネ は、命じられた毒薬の代わりに媚薬(愛の妙薬)を用意した。死んだつもりが、目を開けた二 人は熱烈な恋に落ちる。つまり強烈な一目惚れで、港についても二人は正気にもどらない。迎 えに来た王は事態の異常を察知し、疲労を理由にその場をとりつくろう。 様々な出来事のため(前史)、お互い好きだといえないが、そのバリアーを崩したのが「愛の妙 薬」である麻薬。麻薬を飲んだ以後、時間の進行が止まり、お互いに好きだ好きだと言い合っ ているだけです。愛の感情の様々な相がオーケストラで示されます。1幕最後から、2幕の 2 場まで劇は外見的には止まります。 ここは薬の有無に関係なく、一つの強烈な恋の表現で、もはや言葉はいりません。 イゾルデ(I)「トリスタン!」、トリスタン(T)「イゾルデ!」、(I)「不実な人!」、(T)「幸 せな人」・・・・・・・・・・・・・ (I)と(T)「ああ心の 波がたかまる! 感覚すべてが よろこびにふるえる! あこがれの愛が ゆたかに花咲、 やつれる恋が しあわせに燃える 胸をそそる!ああ、この楽しさ! イゾルデ、トリスタン この世をのがれて、 私のもの 貴女ばかりをただ思う、 この上ない愛のよろこび! 」 アイルランドからイングランドの西端コンワル地方への船旅の最後、オーケストラは激しく、 甘く二人を挑発します。 港について、二人は別れさせられます。 (第2幕1場)「椿姫」では1幕最後で愛を認め、幕間で同棲3ヶ月が経過し、第2幕が始まる とすぐ父ジェロモンというお邪魔虫が登場してしまいます。だからアルフレードとヴィオレッ タが同時に味わう愛の喜びは殆んど表現されていません。2幕最初にアルフレードが「僕は幸 せだなあ」と一人で歌ういますが。義父に「別れる」と約束した後、ヴィオレッタが「どうし てないているの」(アルフレード)の質問に答える所だけが、二人が語りあう唯一の愛の表現で す。 「涙が必要だったのよ・・・・・いまは気が鎮まったわ・・・・・・おわかりね?・・・・笑っているでし ょ・・・・・・ここにいるわ、あの花と一緒に、いつもあなたのおそばに。私を愛してね、アルフレ ード、私が貴方を愛していると同じだけ、さようなら」 この場面はちぐはぐではあるけれど、愛の表現としては最高だと私は思います。2幕の真ん中、 オペラ全体としても真ん中です。 トリスタンとイゾルデ、二人の恋には「愛の妙薬」を飲ませたフランゲーネの他に、王と腹黒 い家臣メロートの関わることが第ニ幕第一場で説明されます。しかし彼らは「椿姫」の父ジェ ロモンのように、二人の恋を邪魔するものとして表に姿を見せません。 「オペラ」(椿姫)では邪魔者ジェロモンとの戦いが第2幕1場では中心です。「椿姫」の2幕 1場では、ヴィオレッタの愛は、身を引く根拠を深い感情を述べることで、表現されます。美 しく深いアリアです。
「美しくきよらかなお嬢さんにお伝えください ひとりの生けにえの不幸がはじまって、 のこされたたったひとすじの幸せの光を・・・・・・ あなたにお捧げして、死んでいくのです。」 「劇進行」(トリスタンとイゾルデ)での2幕1場では邪魔者二人の行動は愛の進行の裏側で起 きているものとして説明されるに過ぎず、表はイゾルデのトリスタンへの愛が綿々と語られる だけです。 2幕2場の愛 (第2幕第2場)「オペラ」では恋人二人の愛の表現が背後に暗示されます。ヴィオレッタは手 切れ金をぶつけられ 「アルフレード、アルフレード、この心の愛のすべてを わかっては下さらないのね。 あなたのさげすみをかってまでも、この愛をあかしていることを御存知ないのね」 「劇進行」では、イゾルデからトリスタンへの合図の松明が消えたとき、トリスタンが駆け込 んできて、「イゾルデ!」と叫ぶ。 イゾルデはとびついて「トリスタン!」 それから暫時二人の間に交わされる言葉は会話になっていません。 (I)(イゾルデ)「貴方は」(T)(トリスタン)「あなたも私のものですね!」(I)「こうして捕ま えていていい?」 (T)「これ、ほんとうかしら?」(I)「やっと、ようやっと」 会話らしくなるのは数分後です。 (T)「明かり、明かり! ああ明かりが なんと長い間きえなかったことか! 日が沈んだとき、 昼がさったが、 嫉妬の息を なおも絶やさず、 威嚇の印を 松明につけて 私が近づけないように 恋人の戸口をかざすとは (I) [けれど恋人の手は その明かりをも消したのよ 腰元が邪魔したけれども 私はひるまな かったわ、 愛の女神に力づけられ守らあれて 私昼 に反抗したのよ」 この後の二人の会話は呟くように、囁くようにピアニシモで進行し、音にならないほどです。 この間フランゲーネの忠告が二度入るが、二人の愛の告白は抱き合ったまま。2場全体に続き ます。 二人が同じことを言い合っているのですから、話は少しも進行しません。劇は本来違ったこと を言い合って、変化していく筈ですが、この場面はそうではなく、劇は停滞しています。ワー グナーの独創ここに極まれり、の感があります。ここでは内面的な感情の動きが強調されるよ うですが、これは次回議論します。 劇が停滞していると劇の見かけの進行は余りにも単純です。2場で言えば、フランゲーネが「警
戒してください」と声をかけるだけです。二人は無視します。「オペラ」につきものの紛争は起 こっていません。ここの心理的過程は音楽を聴いて理解するしかありませんが、ここの音楽が 甘いだけでない、複雑な表現をみせているのに気づくためには1幕全体を通じて述べられる、 前史、つまり舟に乗って王のお嫁にくるまでの話しを理解しておく必要があります。前史の殆 んどはイゾルデ姫の独白として触れられます。 (2 幕3場以降の展開) 「オペラ」(椿姫)の3幕は死の準備と死で、格別の愛の表現はありません。誤解がとけ、父が 愚かさを悟り、アルフレードも後悔し、涙をそそる円満な終末になります。死の恐怖下十分劇 的です。 「劇進行」では2 場で愛のよろこびを歌い、前述のようにそれが死に通じるものとトリスタン は思っています。王と奸臣メロートが二人を探しに森に着き、不倫の現場を見つけ、王に切々 と諭されますが、トリスタンは弁明をしません。死に憧れていたからで、イゾルデが彼につい てくるのを承諾し、彼はメロートの刃に身を投げ出します。ここは外見的にも劇的に進行しま す。 第3 幕はフランスのブルゴーニュ地方カレオール、タンタジェルの森で傷を負ったトリスタン を忠臣クルヴェナールがここに連れてきました。トリスタンの死とイゾルデへの憧れが述べら れます。1幕でのイゾルデが前史を述べるのに対応していますし、外見的にはドラマは進みま せん。そこへ彼の依頼で舟でイゾルデが到着します。そして「愛の麻薬」」の話の経過をフラン ゲナールから聞いた王は、罪を許し二人の恋を公認するため、はるばるやってきますが、時既 に遅く、トリスタンは死に、イゾルデも後を追います。最後は少し外見的に劇が進行します。 このように「二つの音楽劇」を比べると、外見的には「椿姫」が遥かに変化に冨み、面白くみ られます。「劇進行」は外見的変化は乏しく面白くないものです。「トリスタン物語」は 1000 年の時間に耐えて残っているのですから、外見的変化も面白い話です。そこから話題をとった ワーグナーの狙いは外見的なところになかったと考えざるをえません。名前を「楽劇」ではな く「劇進行」と変えてまでして、「トリスタン」を取り上げたのは内面的劇進行に異常な関心を 寄せたからでしょう。作品が150年も生き残っているのは傑作だったことを明かしています。 トリスタンの内面的劇進行の秘密はどこにあるか、それは恋愛の異常さ、つまりドラマに入る 前の前史が極めて特異なことに強く負っているのは確かです。
トリスタンとイズ ー (前史、二人の出会い、恋の宿命) 「トリスタンとイゾルデ」はケルト神話で、原作者は不明ですが、ウエールズと南西イングラ ンド(コーンワル地方の地名は今もある)にいたケルト民族の間に伝わったものとされていま す。これが色々な国国に伝わりました。アングロ・ノルマン系にはベルールやトーマスが12世 紀に書いた詩があります。その後ベルールに近い話をドイツ語圏で12世紀末にアイルハルト が書いています。13世紀始めドイツの吟遊詩人ゴットフリート・フオン・シュトラースブル グがドイツ語でトーマスに近いものを書き、ワーグナーが読んだのは、シュトラースブルグの 現代語訳だったとされています。 今、日本で手に入りやすいのは岩波文庫の「トリスタン・イズー物語」(ヴェティエ編)は、フ ランス語圏の訳が失われたので、彼がベルールやトーマスの本から編集したそうです。これで 前史の説明をします。 数多くのトリスタン伝説には共通の話はこうだそうです。 コーンワル地方のタンタジェルtantagel に城をもつマルク王は妃になるイズー姫を迎えに、甥 のトリスタンを、アイルランドのウエクスフォードwexford へ行かせた。甥が姫をつれての帰 途下女の手違いから、新婚の初夜二人が飲むべき媚薬をトリスたンに飲ませてしまう。この薬 は生死を越えて生涯愛し合う力を持ち、ふたりは抱き合う。当座は誤魔化し、王と姫は結婚す るが、やがて王の知る所となり、二人は森へ追放される。惨めな生活をしていた二人が偶然王 とであい、イズーは王の哀れみで城に帰るが、トリスタンは海の彼方に追放される。忠実な部 下クルヴェナールの案内で彼の祖国フランス・ブルターニュ地方のカレオールに逃げる。トリ スタンとイゾルデは情熱の限りを尽くして出会う努力をするが、トリスタンは異郷で死に、駆 けつけたイズーもその後を追う。二人の魂は死によって永久に結ばれる。 二人、特にイズー姫は複雑な前歴をもつので、「劇進行」理解には前史をに詳しく述べます。 イズー姫の婚約者モルオルトがアイルランドのウエックスフォードからイングランドのタンタ ジルに税の徴収にきます。長年滞っていたから、300人もの15歳の奴隷、多額の金銀を含 む過酷な徴税で、タンタジル王は到底受け入れられない。他の方法はモルオルトとの戦い勝つ だけ。しかしモルオルトの外見から諸侯は尻ごみする。一人トリスタンだけが、名乗りをあげ、 二人は離れ小島サン・サムソンで戦った。
</ コンワルとウエックスフィルド 島からタンタジェルに戻った船にはトリスタンが乗っていた。彼は人人の熱烈な歓迎を受けた。 城に入り、報告するとトリスタンは王の腕に倒れた。血がドクドクとながれた。彼の傷口の血 はモルオルトの切っ先に塗られたアイルランドの魔薬のせいで何時までも止まらなかった。悪 臭を放つので、一人野原に寝かされ、王と2人の家臣だけが介護に当った。死を待つだけなの を彼は知り、王に小船に乗せて海に放つよう頼んだ。 一方モルオルトの家臣は彼の遺骸を乗せて、イズー妃の待つウエクスフォードについた。少々 の傷なら麻薬で直せるィズー妃も、このたびは放棄し、頭蓋に食い込んだ刀の破片を取り出し、 宝のように象牙の小箱に収めただけだった。 トリスタンの執拗な要求に王は屈した。トリスタンは7日7夜櫂もなしに、海上をさすらい、 ウェクスフォードについた。自らをタンタルスの名乗り、イズー妃の治療を受けるのに成功し た。 イズー妃は彼の刀の刃こぼれをモルオルトの頭蓋からとった破片と照合し、タンタルスがトリ スタンであるのをしったが、秘法を尽くして治療に当たった。 血を腐敗させた麻薬を開発した知識は腐敗した血を正常化する麻薬の開発にも成功し、タンタ ルスの健康はもどった。そこでイズー妃は彼に復讐の刃を振り下ろそうとしたが、彼の視線の 力に負けた。彼女は彼を愛してしまった。トリスタンは秘かにアイルランドを脱出し,苦労し てマルケ王のもとにたどり着いた。 これはワーグナーの「劇進行」台本にない部分も含んでいます。「劇進行」ではイズーが前史を 語っているから、トリスタン側の出来事をイズー姫は知らないからです。 帰国後トリスタンが王の妃にイズー姫を推挙して、訪ねる2 度目のアイルランドでの出来事も 「劇進行」では殆んど取り上げられていません。 そもそもが、イズーを王の妃として推薦する動機が「劇進行」の台本では明らかにされていま せん。命を助けてくれた、黄金の髪の美女にトリスタンが抱いた感情は愛に違いないのに、彼 女を王の妃に推挙するのは大変屈折した愛の表現です。トリスタンの王への忠誠だけが表向き
の理由です。つまり妃を亡くした王の後妻としてイズーが最適と判断するのが忠誠の証です。 こんな愛の表現をイズーが兎も角受け入れたのはトリスタンの怪物退治という事件があったか らです。これも台本にはありません。 彼は結婚をイズー姫に申し入れをする具体的な術も無く、アイルランドに上陸して、門前で異 様な噂をきく。朝になると祠から怪物が出てきて、人身御供の娘を食って帰るという噂である。 娘がいないと門の出入は一切できないので、王は「退治した騎士にイズーを嫁に与える」とい うオフレをだした。今まで 20 人もの騎士が怪物退治に挑戦したが皆が負けた話を聞いて、ト リスタンは敢えて挑戦を決める。翌朝彼は見事怪物を殺したが、切り取って持ち帰った舌から でる毒で瀕死の状態となった。イズーはこの噂を聞いて彼を探し、毒に苦しむ彼をみつけ、帯 刀の刃こぼれから、モオルトを殺したトリスタンと知りながら治療をし、全治させる。完治し た彼を浴槽の中に襲ったが、彼が述べる今日までの経過、すなわち、ツバメが運んだ二筋の黄 金の髪の毛からイズーを思い、今回の挙に出たこと、2 度目の助命をえて感謝していること、 死は恐れないことを述べた。この弁明にイズーは納得した。トリスタンは王の前で彼女を彼の ものではなく、彼の主君の妃として招き、アイルランド、コンワル両国の友好に資したい、と のべ、許された。 2 人は舟の旅でコーンワルに向った。ここから「劇進行」は始まる。 コーンワル地方ランズ・エンド こんな前史がトリスタンとイゾルデ(イズー姫)の記憶にどろどろとした形で固定されていて、 それらが展開する恋愛のあり方に影響を与えます。さらには当時、ショーペンハウエルの思想 に心酔していたワーグナーには、この話に含まれる、愛が死に通じるという、「爆薬のような思 想」が大変魅力的でした。「究極的には愛は死においてのみ実現する」という見解をワーグナー は採用します。この考えは全く中世的ではなく、19世紀市民的モラルです。ワーグナは「劇 進行」の中で、この思想を音楽で徹底的に表現しようとしたというのは定説となっています。 そうだからと言って「劇進行」の筋は古伝説とそう違っていません。つまり、一見おとぎ話風 のケルト伝説にも、二人の出会いに立ち入ってみると、「複雑な事情を含み、大思想の契機とな るものさえそこにはあります。 この話、いつもわからないのは何故3幕でイゾルデが舟に乗ってやってくるという筋立てです。 森の中での密会の現場を見つかって、その場でトリスタンはメロートの刃に身をなげるが、イ ゾルデは王に許されたと、ワーグナーは理解したのでしょう。 ケルト民話では一旦二人は森の中に追放され、鹿狩りで口をそそぐ、貧困生活に陥ります。だ
が幸福な暮しを続け、やがて困り果てたところを王に見つかり、イゾルデは許されるが、トリ スタンは外国へ追放され、彼は小ブルターニュのカルオールで暮すことになっている。再会を こころみ、短期間の成功はあっても、二人が結ばれることはなく、最後はトリスタンが蛮族退 治で受けた傷で死ぬ。知らせを聞いたイゾルデ妃は毒抜きのためカルオールにおもむくが間に 合わなかった。死体に取りすがったイズー妃はトリスタンの口から毒を吸って死ぬ。 これは岩波文庫(ベティエ編)の筋です。これをワーグナー流に短縮した結果、「劇進行」のよ うになったと、私は理解します。それにしても、19章のうち、9章以下を大幅に削除、変更 して、意図した内的劇進行に仕上げたワーグナーの台本制作力は見事です。 以上の経過をしると、「劇進行」では、複雑な前歴を配慮した特異の熱愛に応しい心理的な動き が音楽的に表現されているのは予想できます。これは1冊の本