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向井田みおの インドで学んだ瞑想 2012 年版 - YOGA 的リアリティ瞑想 -

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向井田みお の

インドで学んだ瞑想

2012

年版

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読者のの皆さまへ

この電子書籍は 2012 年 2 月 20 日、インドの吉日である「シヴァラートリ」 に合わせて発売された 2012 年版です。 お気づきの点や著者へのご質問がありましたら、ぜひ以下のメールアドレスへ ご連絡ください。2013 年版にて反映させていただきます。  mio2012@underthelight.jp 今後の改訂版や関連情報につきましては、以下をご参照ください。 ポッドキャスト:向井田みおの インドで学んだマントラ ブログ:向井田みお の ヨガ哲学の旅 http://www.underthelight.jp/community/mio_india/ YOGA BOOKS http://www.yogabooks.jp/ 2012 年 2 月 20 日 YOGA BOOKS

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瞑想の前に唱えるマントラ

『ヴェーダ(聖典)』が讃えられる世界では、あらゆる障害を取りのぞく力を、 「ガネーシャ गनेश(障害を取り除き、道を開く力)」と呼んでいます。象の頭を した姿がそのシンボルです。 私たちは “ 祈り ” という行いを通して、この象徴がもつ力を自分の味方につけ ることができます。 瞑想において、Yoga において、障害がなくなるように。目的がスムーズに達 せられるように。祈りは、願いを具現化するための実践的な行いです。 祈りの際に、この「マントラ मन्त्र」を唱えるとさらに効果があがります。 शुक्लाम्बरधरं विष्णुं शशिवर्णं चतुर्भुजाम्। प्रसन्नवदनं ध्यायेत् सर्वविघ्नोपशान्तये॥ シュックラーンバラダラン ヴィシュヌン シャシヴァルナン チャトルブジャン プラサンナバダナン ディヤーエット サルヴァヴィグナ ウパシャンタエ <意味> 白い衣をまとい、4 本の手をもち、すべてに行渡り、広がる者。月のよ うな輝きを放ち、笑みを浮かべた,象の頭をもつ者「ヴィグネーシュヴァ ラ विध्नेश्वर(障害を取りのぞく者、ガネーシャ)」に私は瞑想します。ど うか瞑想をし、全体に心をつなぐ者が、すべての障害から解き放たれま すように。 ओम् शान्ति॒:  शान्ति॒:  शान्ति॒:॥ オーム シャンティ シャンティ シャンティ 「シャンティ शन्ति(平和、静寂)」

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目次

はじめに --- 6 第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か ? <瞑想の定義> --- 19 第 2 章 何に瞑想をするべきか? < 瞑想の対象 > --- 49 第 3 章 だれが瞑想をしているのか? <Yoga 的瞑想者 > --- 127 第 4 章 何のために瞑想をするのか? < 瞑想の目的 > --- 165 第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか? < 瞑想の条件 > 189 第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは? < 瞑想の方法 > 第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ」を始めよう < マントラ瞑想 > --- 287 第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策 < 瞑想の障害 > --- 329 第 9 章 「マントラ(真言)」について --- 355 第 10 章 祈りのためのマントラ --- 367 おわりに --- 426 参考文献 --- 428 イラストレーション:山田 久美子

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はじめに

Yoga でも、スピリチュアルな探求でも、宗教でも、やたらと “ 瞑想 ” と名の つくものが溢れているようにみえる。 「瞑想をしましょう」。そういって息を止めようとしたり、考えをなくそうと する試みに躍起になったりするテクニックを筆頭に様々な方法や考え方があ る。呼吸だけを数時間も見つめたり、はたまた “ 過去生 ” にたどり着くような架 空の旅路についたり。実際あるのかないのかわからない “ チャクラ ” というエネ ルギー・ポイントにアクセスしようとしたり、とにかく黙って坐り、「黙想こそ 瞑想なり」といって何も考えずひたすら坐り続けたりもする。黙想が瞑想とい われたかと思えば、違う流派の人達は「瞑想とは呪文をひたすら唱えることで ある」。という。そうかと思えば、未来のお告げを聞こうと待っていたり、宇宙 人とコンタクトをとって未来の事情を伺ったり、アカシックレコードを解くこ とや、ハイヤーセルフにアドバイスを聞こうとするのも瞑想だという。ガーディ アンエンジェルや守護霊にご意見を伺うなど “ おすがりする ” のも瞑想だとい う。挙句の果てには、踊り出したり、泣き出したり、笑い続けたりも “ ○○瞑想 ” といって、“ 瞑想 ” にしたてあげてしまう。何と強引な… 瞑想とは、本当は何なのだろう? そもそも私たちは何のために瞑想をするの だろうか。目的がはっきりしないと、手段に迷う。“ 瞑想 ” をする意味。瞑想か ら期待できるメリット。目的に沿った確実なメソッドはあるのだろうか。 “ 瞑想 ” という名のもとに、たくさんの目的と方法論のバリエーションがある ようにみえるが、肝心なところが曖昧だ。ズバリ、瞑想の “ 目的と手段 ” とは? そんなシンプルな問いにすら、答えがみえない方法が罷り通っている気がする。 本質的に “ 瞑想 ” とは何のために、どうすることなのだろう? どこを目指し ていて、そのための方法は何か、ということがどうもはっきりしないなぁ~、 と長い間疑問に思っていた。 Yoga では、体や呼吸についてのあれこれをマスターした人々が、次の修行の 段階として瞑想を志すという。だとしたら、瞑想をするということには、はっ きりとした目的があり、そのためのメソッドが確立しているはずではないか。 私は、納得がいくことがしたかった。目的もよくわからず、だたフワフワ坐っ

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ていることに耐えられなかったのだ。 あんなにポーズや、呼吸についてはあれこれうるさい Yoga なのに、どうして 瞑想においては、この辺が曖昧なままであっても大丈夫なのだろうか。 長い歴史の中で、多くの人々に実践されてきた Yoga。Yoga の数あるメソッ ドの中でも瞑想は最も大事であり、かつ最終的な修行だといわれているのは度々 耳にした。また、宗教活動を含む様々なスピリチュアルな探求でも、最終目的 は心をマスターし、己を深く知るために瞑想を極める事であるという話はよく 聞く。実際はどうなのだろう? 瞑想を治めた古の「ヨーギー योगी(Yoga の実 践者、達人)」は何を目的に、どうやって瞑想をしていたのか非常に気になる! Yoga というジャンルにおいて、日本ではなかなか “ これが瞑想 ” といえるも のに出会うのが難しい。Yoga の発祥の地インドから離れているため、だれが何 を瞑想と呼んでもいいような状況がある。“ 瞑想っぽさ ” や “Yoga っぽさ ” の雰 囲気があれば、それでよし。というような…。瞑想が迷走している。迷走によっ て、瞑想が混乱している。 迷いと、混乱、そしてとりわけ Yoga の瞑想においては不確実で少ない情報し かない状態に、業を煮やした私はインドに乗り込んだ。彼の地でかれこれ8年 …。ようやく、“Yoga 的な瞑想 ” といって遜色ない考えと方法論に出会ったよう である。 その肝は、Yoga 的な考えの基盤となる『ヴェーダ(聖典)』の教えの中にあっ た。最古の聖典であり、Yoga のテクニックをバックアップする考え方も哲学も、 すべてここを起点としている。そして『ヴェーダ(聖典)』は、最終章に秘密がある。 『ヴェーダ(聖典)』は基本的に前半の章で「カルマの法則(行いの法則)」に ついて教える。するべきこと、しない方がいいこと。どうしたら運を味方につ け、欲しいモノを手に入れ、欲しくないものを避けられるか。それが、「マント ラ मन्त्र」の威力であったり、お焚き上げなどにみられる「プージャ(儀式)」 という方法であったりする。また人として守るべき規律、規律を守ることで得 られること。守らなければどうなるか? ということ。とにかく、「カルマ कर्म(行 い)」についての教えを説いているのが『ヴェーダ(聖典)』の前半である。 しかし、その『ヴェーダ(聖典)』は最後の章で、突然テーマを変える。そ もそもなぜ人は欲しいモノを手に入れたいのか。なぜ人はいつまでも欲しい!

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得たい!自分以外の何者かになりたい!と思うのか。人は何を手にしても、ま た次を欲しがる。欲望はとどまることを知らない。私たちが何かを欲しがり、 探求することは尽きることがない。なぜなのだろう? 根本的な欲求、“ 求める ” ということ自体に疑問を持った人に、『ヴェーダ(聖典)』の最終章は答える。 それが実は『ヴェーダ(聖典)』全体で伝えようとしているテーマになっている のだ。 人はいつも何かを欲し、何かになろうとする。満たされない思い、何かが足 りないという焦燥感や何かを得なければ!というプレッシャーが人を突き動か している。何かを探し求めて、中途半端に満足はするが、完全には心が満たさ れない。そんな風に人生は過ぎていく。そのむなしさに耐えられなくなった人。 取りに行く生き方では、本当に望むものを得ることはできないと見抜いてしまっ た人。探し続け、小さな喜びを得ることに意味を見いだせなくなった人。「何か が物足りない、何か欲しいよぉ~」といいながら、もの欲しげに終わる生き方じゃ だめだ!と、切実に思う人はいつの時代にもいる。 なぜ人は求める? なぜいつまでももっているものに満足できない? 本当には 何を望んでいる? 自分を心から満たすものを手に入れることができないまま、 走り回るだけ走って、空しく人生は終わるのか。それとも「本当は “ 求めてい ること、足りないと思っていること、満たされないという思い ” からの自由が 欲しいのではないのか」と思って生き方を変えるのか。 求め続ける生き方に終止符を打たなければ、空虚な人生が続いてしまう。自 分が本当に望むのは、手に入れられるような物ではない。求める自分、足りな いという思い、満たされていない気持ち。自分の根にある欲求が満たされない 限り、求める衝動は尽きない。だとしたら、自分は何かを欲しがることからの 自由を目指しているのではないか? そこまで思いが行き着いた人。その人に 『ヴェーダ(聖典)』の最終章の言葉が響く。 「“ 根源の満たされない思いや欲求からの自由 ”。 それは、実は人間が誰もが知りたいことである。 なぜならそれが本当の自由だからだ。 何に対する自由か? それは、“ 苦悩や欲求からの自由 ” だ」。

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“ 苦悩と欲求からの自由と、人間の本質について ”。これが『ヴェーダ(聖典)』 最終章で扱うテーマである。この特別な章は、『ヴェーダ(聖典)』の中でも、 「カルマの法則(行いの法則)」で運を味方にし、欲しいモノを手に入れようと する生き方にアドバイスを与えるような前半の章とは趣を異にする。そのため 「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)」といわれるこの聖典の部分は、『ウ パニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』という別名で呼ばれて いる。 最終章は、尽きない欲望のプレッシャーに苦しみ、苦悩に悩む人間に対して、 痛快な教えのパンチを繰り出す。 「これを読んでいる今のあなたには、ちょっと信じてもらえないかもしれない が、本当の自分自身の真実とは、すでに満ちている存在であるのだよ。“ 知・認 識の源 ” である。あまねく広がるものであるのだ。そのことを、Yoga の言葉で いえば「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」とい う。たまたま、あなたはその体や顔やキャラクターに限定されたようにみえる が、人間の本質は限りがないものだ。 目にみえることだけがすべてだと、それが真実だと結論づけるのは、あまり に早合点だ。あなたは自分の真実をまだ知らない。自分が思っている者以上の 存在が真実の自分自身なのだ。あなたは体でも、感覚でも、考えでもない。そ れらすべてに満ち、機能させている根源こそが、あなたの事実だ。あなたは本 当は何者だ? どこから来て、どこへ行くのだ? 体が自分自身だ、体が終われば 自分も終わると、本当にそう信じているのか? どうか、目覚めてほしい。無知の闇をとり払って、事実をみてほしい。あな たこそが自由の意味であり、探している幸せの意味そのものなのだということ を知るのだ。そうして事実を知り、悲しみや不安で溢れる海を越えることを願っ ている。あなたはもうすでに自由だ。幸せなのだ。ただ真実を隠している無知 や勘違いに覆われて、みえていないだけだ。まるで、輝く太陽の前に立ち込め る雲が、世界をどんよりと曇らせてしまっているように。 しかし、どんなに厚い雲が目の前にあっても、その後ろには遮られることの ない太陽が輝いている。どんなに曇っている空でも、太陽の輝きがあるから薄 暗くても空をみることができる。空は輝きを失ったわけではない。雲を退けれ

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ば太陽の輝きは、同じ空に存在している。 同じように、私の事実はいつもここにある。自ら輝き、私に認識を起こす知 の源として。幸せや心地よさの意味として、ここにある。でもそれが、無知と いう闇に遮られてみえない。ぼんやりと何か大事なものがあるとは解るのだが、 何があるははっきりとみることができない。それが無知、疑い、勘違い。事実 をみるためには、無知を退かせばいいだけだ。無知を退かす方法は、事実を教 える聖典の言葉と意味を理解することだ。事実の理解が、私たちの無知を落と し、真実が何であるかをみせてくれる。私たちの事実とは、制限がない無限の 自由であり、無条件の幸せなのだ。 どうか、自由であれ。自分自身の事実を知り、幸せであれ!あなたが常に喜 びそのものであることを受け入れ、納得するまで、私は真実の教えを語り続け よう」。 そういって、苦悩する私たちを『ヴェーダ(聖典)』は教え導く。自分自身と は、自由と幸せの意味そのものだということ。もはや、それが真実じゃないな んていえないところまで、私たちに教えている。 聖典は我々がとらえられている苦悩の正体をみせ、知識の刃で呪縛を取りの ぞく。苦悩に縛り付けられている私たちを自由へ解放する。この、苦悩の原因 を完膚なきまでに破壊し、呪縛を根こそぎ断つ鋭い刃のような教えが、『ウパニ シャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』なのだ。 「人の苦悩や満たされない思いは、すべて自分自身を知らないという無 知に端を発している。 だから、問題は無知である。 問題が無知なら、解決は何か? そう、無知を取りのぞくためには “ 知る ”、ということしかない。 人は自分の真実を知らない。知らずに、勝手に勘違いをして、自分に対 して結論を出す。自分は、この体とか、考えだとかいい張っている。 そうして誰もが不確かな結論に自ら縛られ、真実を知らないことから起 こる恐れや不安、自分の小ささや苦悩にはまって、嘆いている。 苦悩から解放され、自由になるには、事実を知ることだ。 自分とは一体何者なのかを。

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苦悩の原因とは何かを。 自分を苦しめているようにみえる世界とは、一体何のことだ? 本当の自 分とは? この事実を理解することだけが、満たされぬ思いや苦悩に関する唯一の 解決策だ」 人に真実を告げる『ヴェーダ(聖典)』の最終章。聖典は満たされぬ思いや苦 悩があるのは、ただ自分の本質を知らないせいだという。『ヴェーダ(聖典)』 が告げる自分自身の事実を理解すること。事実の理解が、苦悩の根である無知 というヴェールを外す。真実を覆い隠し、私たちを混乱させる無知を取りのぞ くには、本当のことを理解するしかない。 私はインドにおいて、この教えを教え続けて 50 年になる師、スワミ・ダヤー ナンダジから瞑想の意味と目的を聞いた。Yoga はインドで生まれ、現在まで育 まれてきた教えだ。その Yoga の思想を支える、『ヴェーダ(聖典)』の最終メッ セージが、最終章の『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』 にあるという。そこで貫かれる人生の目的とは何か。そのためには、人は何を すべきか。 『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』にいわせれば、“ 人 間は自由になるために生きている ”。いや、正しくいえば、“ 自由であることを 知るために生きている ”。「自分本来の姿を理解し、ありのままであれ。求め続 けている “ 安心と幸せ ” の意味そのものであるのが、自分自身だと知れ」。安心 と幸せの意味。自由の意味。それが私たちの本来の姿であると聖典はいう。で は何が問題で、苦悩の原因なのかといえば、「事実を私は知らない。わかってい ない」ということだけであるという。事実を理解すること。納得すること。" 事 実の理解 " に導く教えを伝えるのが、聖典の言葉である。でも、ただ知るだけ では足りない。知識を自分自身のこととして " 納得・実感 " というところまで深 めるのが、瞑想や Yoga いうメソッドなのだ。 Yoga や瞑想は、事実を理解する心を準備する方法なのだ。それは、長い歴史 の中で人々に実践され、確立されてきたメソッドである。そのメソッドの根幹 は、徹底的に “ リアリティ(事実)” をみて、客観的な事実を理解すること。リ アルな世界の背後にある、“ リアリティ ” をみること。この本で紹介する「リア リティ瞑想」は、この原則に貫かれた方法である。聖典、Yoga、瞑想、私たち

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の生きる目的、真実の知識。これらが 1 つの原理につながって、ブレのない軸 をなしている。 師の元で学ぶうち、Yoga の本来の目的について、瞑想がもつ役割についての 私の理解は少しずつ深まっていった。目的が明白な瞑想は、プロセスにおいて も深く、かつシンプルな明快さがある。現在もインドで毎日教えのもとに練習 を重ねているが、そうすることによって、Yoga の最もベースにある考え方、生 き方、聖典の伝える根本的な人間観、人生観がみえてきたような気がしている。 私たちは何を求め、本当は何を達成したいのか? 今していることと、求めて いることの間にはっきりとしたつながりはあるのか? 一言でいえば、やりたい ことと、今していることが一致しているのか? 人生の方向性と目的とそのため にできること、今していることを、矛盾なく一直線に貫く。その生き方が Yoga なのだ。Yoga のビジョンによって、私たちはゴールにつながるまっすぐな道を、 歩くことができる。生きることにおいて、はっきりしたゴールがある。そのた めの方法論が確立している。明快な目的と手段をもって「生きている内に、望 んでいるものを得た!」という結果を出している人々が実際にいる。そういう 人達が広い心で教えてくれている。励まし、導いてくれている。 “ リアリティ ” を理解するための瞑想、伝統的な Yoga の手法の正しさを、実 在の賢者たちが自らの生き方で私たちにみせてくれている。インドには、賢者 だとか「ヨーギー योगी(ヨーガの実践者、達人)」と呼ばれる人達が実在してい る。彼らの存在は、この目的とプロセスの正しさの証であり、私たちは彼らが 実際に生きている姿、その背中をみて後に続くことができる。それが迷いなく 道を歩んでゆくことになる。 Yoga のゴールは、私たちが “ 本当に求めること ” でなければ意味がない。“ 悟 り ” という言葉にいいかえてもいいが、私たちが心から欲しいものでなければ、 手にしたとしても何の意味があるだろうか。「ハイ、悟りました」といいながら、 不満だらけ、自分を受け入れられず、緊張やプレッシャーが心にいっぱい!も しそうだったら、その悟りに何の意味があるだろうか。 いろいろ欲しがっているようにみえるが、私が本当に欲しいのは何だろうか。 それは、満たされぬ思い、不安、恐れ、緊張や葛藤から解放され、あらゆる苦 悩から自由であること。何をしていようと、どこにいようと、誰といようと、

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どんな条件にいようと、「それでよし。これでいい。すべて OK !」ということ ができるほど、心が幸せと、安心でいつも満たされているということ。それが 自由であるということ。 天国にいかなきゃ幸せになれない、○×にならなければ自由になれない、× ×をしなければ、悟れない。逆に、○○を買えば、絶対安心だ。そんな条件が ついたような、“ 悟り ” や “ 生きるゴール ” は、安心でも幸せでも自由でもない。 そんなものは、もういらない。どこにいても、いつでも、何をしていても、誰 といても自由でなければ、幸せでなければ、安心でなければ意味がない。一時 的な満足は、もうさんざん味わって、そのはかなさと移ろいやすさに、むなし ささえ覚える私たちだ。こんな私を納得させるのは、「もはや自分は何かを求め る必要はない。なぜなら、“ 私がいる ” ということが、すでに自分が求めてきた 幸せと自由の意味であることがわかったから」というように、心の底から「す べてこれでよし」といわせるような事実を理解すること。自分自身であること を完全に受け入れ、世界を受け入れることだけだ。真実の理解が私たちを Yoga のゴールへと連れて行く。事実の揺るぎない理解のみが、私たちを完全に満た し、リラックスさせる。 インドにおいて人々に行われている Yoga は気休めではない。生き方そのもの だ。明確な目的とは、私が心から望む幸せと自由にいたること。限界のない “ 幸 せ ” と、果てしのない “ 自由 ” に納得すること。それを可能にするのが瞑想や毎 日の規律ある生活に確立される Yoga の生き方。Yoga とは、その目的達成のた めの明白な方法論だ。その中でも瞑想は、最も重要なメソッドの1つなのである。 Yoga 的な考え方の基盤となる最古の聖典『ヴェーダ(聖典)』はいう。 「だれもが幸せになりたい。自由になりたい。そのために、普通の人は 何かを手に入れようする。幸せを探し求めてどこかにいこうとする。 しかしそれが解決法なのか? では何を一体手に入れればいい? パワー か? マネーか? 完璧な体? 資格か? それとも超人的な能力か? どこ まで手に入れればいい? 」 いずれにしろ、何かを得る、というプロセスをたどって手に入れることがで きるものには限界がある。なぜなら、手に入れたり、どこかに行くという “ 行い ” 自体に限界があるからだ。限りのない幸せ、無条件の自由。いつでも、どこでも“幸

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せ ” でいるために、“ 自由 ” であるためには、どうすればいいのか? 自由というものは、何かと引き換えに買うことはできない。幸せというもの は、世界のどこかに転がっているわけではない。誰かがつくっているわけでも ない。もし、“ 自由 ” という “ 物 ” があるのだとしたら、それはたぶんどこか世 界の中の 1 つの場所にだけある。1 つの場所にだけあるということは、それ以 外の他の場所には “ ない ” ということだ。そんな “ 自由 ” は 1 つの場所に限定さ れてしまう。その場所にいなければ自由になれない、ということだ。 もし “ 幸せ ” という “ 物 ” があったとしても同じこと。ある一定の時間と場所 に限定される。そのものが形を保っていられる時間に限って幸せであるのなら、 その幸せには時間の限定がある。無条件で限りがない幸せと自由を求めるなら、 それは物や場所ではない。 聖典が語る唯一の “ 限りない自由や幸せ ” は、時間にも場所にも限定されな い。だったら今、まさにここにも、自由や幸せはあるはずなのだ。そうでなく ては、限りがない、ということにならない。無条件、永遠、無限ということは そういうことだ。だとしたら、無条件の幸せや自由は、手に入れるものではなく、 はじめからここに “ ある ” ものということになる。今まさに、この瞬間に “ ある ” ということでなければならない。 聖典の最終結論は、普遍であり、永遠の自由と幸せの意味とは、今この瞬間 の自分自身であるという。私たち 1 人 1 人の存在と事実が、今まさに、この場 所に “ ある ”。その “ 存在 ” が幸せであり、自由の意味である。これを理解する ことが “ 真の解放 ” への唯一の道だ。「自分自身の真実こそが、自分が求めるこ とのすべてである」。これが『ヴェーダ(聖典)』の最終的な教えだ。 私たちは手に入れられる何かが欲しいのではない。何かして、やっと手に入 れられるようなものでは、いつまでも満足できないことを、いい加減経験の上 で知っている。手に入れたいのは、変わることのない自由であり幸せなのだ。 もし聖典がいうように、それが “ 本当の自分自身 ” であるのなら、私たちは、 その “ 本当 ” の意味を理解しなければ納得がいかないだろう。果てしない自由や 無条件の “ 幸せ ” は、それになろうとしなくても、手に入れようとしなくても、 初めからここにある。これを知ることしかない。 「何かを求める自分が、求めていたものそのものであった」。だから、人生の

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諸問題に対するソリューションは自分を理解することしかない。自分の事実を 知り、堂々と自分自身であることに誇りと喜びをもって生きること。何をして いても、たとえ世界でどんな役を演じていようと、完全に「それでいい!すべ てこれでいい」といい切れるように。 自分自身であることに何の違和感も問題もなく、完璧な自分を、完璧に受け 入れている。自分自身こそが幸せと自由の意味であるということを納得し、自 分を受け入れること。それが、何かを求めて探し続ける生き方を終わらせるこ とになる。自分を完全に受け入れている、ということは、もう足りないものも、 求めるものも、探さなければならないこともないということ。この “ 自由 ” へ私 たちを導く教えが『ヴェーダ(聖典)』の最終章「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖 典の最終章)」なのだ。 聖典の教えを理解する大事なステップとして Yoga や瞑想がある。瞑想は、自 分こそが自由の意味であると理解し、実感するための方法。聖典の知識を、実 感に変えることが瞑想の主目的なのだ。だから、瞑想のターゲットは徹底的に リアリティ(現実、真実)をみることにある。あるがままの世界を客観的にみ ること。あるがままの自分を徹底的に分析し、実感すること。それが、Yoga 的 な瞑想、リアルにアプローチする「リアリティ瞑想」だ。 瞑想自体のテクニックはシンプルなものである。しかし、そのテクニックを 生かすためには聖典の教えというビジョンが必要になる。この本では、瞑想の テクニックと同時に、聖典の教えを展開することがメインである。前半は、ほ ぼ聖典のビジョンの解説となっている。なぜなら、聖典が私たちに何をみせ、 何をわからせようとしているのか、それがわからなければ、瞑想の意味と目的 を明確にすることはできないからだ。ビジョンが確立すれば、自ずと「手段」 は 1 つに定まる。 聖典の解説の後に、具体的なテクニック、そして瞑想実践中にでてくる問 題点などをまとめた。後半には、瞑想や Yoga の練習の際に有効な「マントラ मन्त्र」を意味と共に載せている。また 1 人でも練習できるように音声のヘルプ も用意している。 ポッドキャスト『向井田みおのインドで学んだマントラ』 http://www.underthelight.jp/community/mio_india/

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聖典をベースに、長い歴史と伝統に体系づけられ、多くの「ヨーギー योगी(ヨー ガの実践者、達人)」と賢者たちの実体験に裏打ちされた本当の意味での Yoga 的瞑想を理解しよう。 この本は、『ヴェーダ(聖典)』の教えを忠実に自分の生き方とし、50 年以上 説かれているスワミ・ダヤナンダ師の教えが基盤となっている。 私たちが瞑想の名のもとに、さらなる混乱と迷いに誘い込む嘘や間違いを見 抜けるように。だれかの思いつきで始めた “ 瞑想っぽい ” アイディアを迂闊に 買ったりしないように。本物を見極める賢さをもって、歩き始めた Yoga の道に おいて迷わないように。生きている意味を知ること。自分が何を求めているか がはっきりとわかっていること。Yoga をする私たちが「ムムクシュ मुमुक्षु(自 由を目指す者)」として、きちんとしたメソッドで目的を達成できるように。道 を目指す者に祝福があるように。祈りをこめて。 静寂と平和がいつもこの場所にあるように。 ओम् शान्ति॒:  शान्ति॒:  शान्ति॒: ॥ オーム シャンティ シャンティ シャンティ 2012 年 2 月 著者 向井田 みお

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第 1 章

Yoga 的な瞑想とは何か ?

<瞑想の定義>

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?

1.もう瞑想に迷わない!

伝統的な Yoga の経典には、瞑想をはっきりと定義する言葉が記されている。 それによると、“ 心でする行い ” こそが瞑想だという。だからこの定義に沿っ ていないものは、厳密には瞑想とは普通いわない。 瞑想は、精神的でスピリチュアルな活動や、鍛錬法と位置付けられているが、 ひたすら黙って坐っていればいいというものでもない。瞑想は、沈黙や黙想と は違う。だとすれば、一体何をどう行えば瞑想といえるのだろうか。 その方法 は? 結果は? それによって何のメリットがあるのだろうか。 はじめに、瞑想 について知っているようで知らないこの辺りの条件を、聖典に記されたビジョ ンをもとにみていこう。 油断がならないのは、目をつぶって静かに坐り、いかにも瞑想しています! という雰囲気たっぷりだったとしても、その人が瞑想をしているとは限らない ということだ。 心が活動をやめて眠っていたら? それは瞑想ではない。単なる “ 居眠り ” だ。 心が何も考えていなければ? それは “ 沈黙、黙想 ”。瞑想とは違う。 心が悩む活動に忙しかったら? それは瞑想ではない。悩んでいるのだ。 雑念に弄ばれていたら? それは “ 迷走 ” だ。 一体 Yoga の精神的な修行法のうち、瞑想とはっきりいうことができるのはど ういうことなのだろう。信頼できる聖典や Yoga の経典をリソースとした定義 सगुणब्रह्म विशय मानस व्यापार:। サグナブランマ ヴィシャヤ マーナサ ヴャーパーラハ 瞑想とは、心を 1 つの対象(具体的には、全体世界の秩序と法則の姿) につなぐ、心でする行いのことである。 『ヴェーダーンタサーラ वेदान्तसार्』

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? は、瞑想についてどんなことをいっているのか。何をどうしたら瞑想といえる のだろう。そして、瞑想に時間を費やすことの目的と結果は何か。 まず私たちは、“ 瞑想っぽい ” フェイク(偽物)と本当の瞑想との違いを見通 す必要がある。少なくとも瞑想において、目的と手段というメソッド(方法論) がしっかりしているものでなければ、いつまでも瞑想において確実な成果を得 ることはできない。瞑想っぽいもので、その場しのぎの満足感や、一時の至福 感に浸るのなら、曖昧なままでもいいかもしれない。「なんか、スピリチュアルっ ぽいことをしている、あたしって素敵♡」と自己満足できるならそれでもいい だろう。でも、私たちは Yoga を極めようとしている。Yoga で得ることができ るといわれる、確実な何かを達成したいと思っている。 今の自分に納得がいかず、この生き方の延長では、自分はこの先本当に望ん でいること、心から生きることに意味を見いだせるようなことはないかもしれ ないと思って Yoga を志したのではないか。一般的な Yoga では飽き足らず、瞑 想をしてみようと思ったのではないか。このままではいけない、という思いが、 私たちに Yoga や瞑想を選ばせ、この道を歩かせている。生きる意味や目的を曖 昧にしながら、目の前に迫る楽しいこと、適当な気晴らしを追いかけて、深遠 な問題に触れないようにして、うまくやり過ごしてしまえたかもしれない。だ けど、心の奥にいる自分が、無意味に、無目的に、さ迷うように生きることを 許さなかった。だからスピリチュアルな活動として Yoga をしようと思ったので はないのか。 “ 今のままではだめだ。何かが違う ” ということはわかっている。でも “ 何が 違うのか ” がはっきりといえない。何か確実なものを自分は求めている。それ に気がついているけれど、本当に自分が望むことは何かがよくわからない。 ただこの生活の範囲内、この延長上には “ 探しているものはない ” ということ は、はっきりといえる。心の奥で何かがうごめいているようなのだ。満たされ ることのないエネルギーの暗い渦から、浮かれた自分を冷静な目でみている者 がいるのだ。「何かが足りないよぅ、何か不安、どこか満たされてないよぉぉ」。 それはいつもそういって、何かを手に入れても、どこにいっても、心の奥から 顔をのぞかせる。満たされることを知らない存在が、心の中心に居坐っている。 今まで何を手に入れたとしても、それによって味わえる喜びや達成感はほんの 一瞬、一時的なものでしかなかった。満足した気分はすぐに薄れて、また次の

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? 別の何かへの欲求に私たちは駆り立てられてしまう。なぜなら、自分のこの中 心の思いがいつも満たされることがないからだ。私たちの中心が満たされるこ とがない限り、沢山の物を得たとしても永久的に何かを探し続ける。何によっ ても心から満足することがない。自分が手に入れてきたものによって本当に満 たされている気がしない。だから、私たちは確実なものを掴みたいと思う。 そしてそれは、Yoga で叶うような気がしている。だから、この探求に踏み出 したのではないか。このままでは確固たる「生きる目的」が達成できないよう な気がしていた。満足を知らず、自分自身を受け入れることができず、いつも 自分に批判的な者が心の内にいる。そんな自分から自由になりたいと思ってい た。 何も考えずに、やり過ごすように生きることもできたかもしれない。勉強を して、仕事をして、適当に余暇を楽しんで、たまには旅行に行って気晴らしを して、誰かと結婚して、離婚して、やがて老いて、穏やかに体を手放す生き方。 その時まで、“ 食べて、寝て、排泄し、子孫を残す ” という肉体維持の活動を続 けながら、目的も生きがいも特に感じられないまま、流され、時間を消化する ように生きる。そういう生き方に疑問を持ったから私たちは Yoga をしようと 思ったのではなかったか? Yoga によって体を動かし、呼吸を整え、自分の肉 体と感覚と精神に向き合う習慣をつけ、今度はより深く自分の内面に迫ろうと して瞑想を志したのではなかったか? だったら、フェイク(偽物)では、私たちは満足できない。経典の定義で位 置づけることができない “ 瞑想っぽい ” 偽物が良くない、といっているわけでは ないのだ。それで、満足できるのなら、それでもいい。実際それを求めている 人も大勢いる。人は何をしても自由だ。自由に好きなことをする権利はだれに でもある。しかし、その方法で自分が心から望むことは得ることができるのだ ろうか? 曖昧なことで誤魔化して、“ 結果 ” はでるのか。証はあるのだろうか。 たとえ、その瞑想といわれる何かが、誰かが思いついて始めた鍛練法だったと しても、そこに自分が望む結果はあるのかどうか。 何をもって瞑想というのか。瞑想では何を目指し、何が達成できるのか。そ のための具体的な方法とは何か。少なくとも瞑想において、“目的と手段 ” をはっ きりさせなければならない。そうでなければ、生きることの迷いに終止符を打 つはずの瞑想においても、迷い続けてしまうことになる。

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? 瞑想における目的と方法が記されているのが、古典といわれる Yoga の経典 である。経典のベースとなる精神性やビジョンを示しているのが聖典である。 Yoga の場合は、『ヨーガスートラ』という経典、『バガヴァッドギーター』とい う経典がある。それらの考えのベースは『ヴェーダ(聖典)』にある。 この章では、経典と聖典にバックアップされた瞑想の定義をみていこう。ま ず瞑想とは何かをはっきりさせよう。何のために行うのか、明確な目的をみつ けよう。そうすれば、なすべき方法は自ずとみえてくるはずだ。さらに、『ヴェー ダ(聖典)』の教えに基づいた瞑想の方法論、そして瞑想のテクニックや実践の 途上に起こる障害や問題なども知っておいたら怖いものなしだ。 私たちは確固たる意志で Yoga の目的に向かっていく。瞑想にもう迷わない。 Yoga で成し遂げたい目的とそのためのストレートな方法を自分のものにして、 揺るぎない態度で Yoga をしよう。本当に私たちが望むことにつながる Yoga の 道を、怯まずに歩んでいこう。

2.Yoga 的古典による瞑想の方法

しかしなぜ、今更 “ 伝統 ” や古典の経典に従った忠実な定義が必要なのだろう か。大きな理由の一つとしては、それが確実に結果がでる方法だからだ。 今日まで伝統として残っているメソッドには、長い歴史の積み重ねの中で、 沢山の人に実践されてきたという証がある。今まで同じ方法を行ってきた多く の人が、確実な結果を出してきたからこそ今日まで続いてきている。古典には 信頼に足るデータと実績がある。 Yoga を生み、育み続けてきたインドには、今も「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、 達人)」といわれる人や賢者といわれる人が実際に多く生きている。Yoga、瞑想、 経典の学習、マントラの斉唱など、彼らは教えの伝統に守られた昔からのメソッ ドを実践し、今も毎日のように同じ修行を積み、同じ聖典を学び、人間として の深みに達し、自由に至っている。彼らの存在は伝統に基づく Yoga の正しさを 証明している。 心の中に葛藤や問題がなく、自分であることにくつろぎ、世界を偏見なくみ

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? ている、慈悲に溢れているような人。人々に囲まれ、世界と関わりあいながらも、 世界に振り回されず、確固たる真実に揺らぐことがない強さと、強さゆえの深 い慈しみと優しさをもつような人。自分と世界に何の不満もなく、完全に満た され、くつろいでいる人。その人がいるだけで、周りの人までが幸せに満ち足 りた気持ちになるような人。その人たちが歩んできた Yoga の道は、伝統という プロテクターに守られながら確実に結果をだす方法として私たちの目の前に広 がっている。その道のずっと先を歩いている「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、 達人)」たちが、これからこの道を歩こうとする私たちを導いている。伝統と歴 史と人々の経験がつくってきた Yoga の道を歩くことで、私たちも彼らのように 心に葛藤や違和感なく落ち着いていることができるようになるだろう。望む自 分であるための確実な術を実践することができるようになるはずである。心の 奥に潜む満たされない自分と和解できるのは、きっとこの道にこそあると思え る。 伝統や経典を重んじるのには理由がある。人々が長い間かけて保ち続けてき た方法に従うことで、私たちも確実にメリットを得ることができる。だからこ そ、多くの人に実践されてきたのだし、今も結果を出し続けている。その事実 が方法の正しさの何よりの証だ。マヤカシ物の Yoga に迷わないために、私たち は教えの伝統をもつ確実な方法を知るために経典や聖典の教えに触れる必要が ある。 Yoga の道において瞑想は要となる項目である。安定して坐るための体をつく り、肉体のレベルから自分と向きあう練習「アーサナ आसन(姿勢、Yoga のポー ズ)」から始まる Yoga の手法において、瞑想は心を治めるために最終的に達成 すべき目標である。そして信頼できる方法に従った瞑想をすることで、私たち は望む自由に至ることができる。Yoga で目指す自由とは、葛藤や問題から自由 であること。自分自身に和解し、自分であることを完全に受け入れ、心から自 分と世界にくつろぐことができるということ。 聖典はいう。「自分自身の本質とは、自由という言葉や、幸せという言葉、満 たされているという言葉の “ 意味 ” そのものである」。そこまで深い自分の真実 についての教えを教えているのが、古典といわれる経典や聖典だ。聖典によっ て伝えられる教えを理解し、真実を納得と実感に変えていく作業が瞑想である。 Yoga の経典『ヨーガスートラ』によれば、最終的に Yoga のテクニックのすべ

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? てが、瞑想へと続いているのだ。

3.経典で規定される瞑想とは?

経典の言葉では「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)」という。はじめにみた瞑想の 定義を、さらに詳しくみていこう。 “ 瞑想とは何か? それは心の活動である ” 「マーナサ・ヴャーパーラ मानस व्यापार:(心の活動)」。100%心で為される行 いが、瞑想であると聖典はいう。そうすると心でする行いはすべて瞑想になる のだろうか。「悩みも、考えごとも、怒ることも、すべて心の行いだけれど、そ れが瞑想? 」「妄想も、夢をみるのも心の活動ですが、瞑想なの? だったら、 普通に過ごす時間のほとんど、私は瞑想状態ということになるのですが…? 」。 こうなることを考慮して、経典は譲れない条件として、もう 1 つ言葉を挟ん で瞑想を規定する。それは、何に対する “ 心の活動 ” なのか、ということ。心の 活動を向ける “ 対象 ” が定義には規定されている。心の活動を何に向けるのか? その対象は「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」という言葉で表さ れる。 ゆえに、瞑想とは、全体世界の現れに心をつなぐ行いのこと。 瞑想はただ眼を閉じて、静かに坐っていればいいというものではなく、む सगुणब्रह्म विशय मानस व्यापार:। サグナブランマ ヴィシャヤ マーナサ ヴャーパーラハ 瞑想とは、心を 1 つの対象(具体的には、全体世界の秩序と法則の姿) につなぐ、心の行いである。 『ヴェーダーンタサーラ वेदान्तसार』

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? しろ、積極的な心の活動。さらにいえば、心を全体世界、「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」という対象に向け続ける活動を意味する。 しかし、経典のいう瞑想の対象「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」 とは一体何だろう? 瞑想で私たちが心を向けるべき先は “ 全体世界 ” らしいが、 なんだかスケールが壮大すぎてよくわからない。この内容については、後で時 間をかけてゆっくり見ていこう。 今は、“ 瞑想とは 1 つの対象に心を向ける活動である ” ということを心にとど めておきたい。申し訳ないが、目を閉じてボーっとすることや、ただ黙ってい ることは Yoga では瞑想とはいえない。ここが揺れると、スピリチュアルマーケッ トに出回る怪しい瞑想商品に振り回されてしまうことになりかねないので強調 するが、Yoga で定義される瞑想とは、積極的な心の活動のことだ。アクティブ でありながら、静かな行い、それが瞑想なのだ。ウトウトと夢とうつつの間を さまよったり、雑念に遊んだり、妄想にゆらゆら揺れたり、静かに押し黙って いることは、瞑想とはいえないのだ。

4.瞑想を構成する 3 つの要素

“ 全体世界に心をつなぐ活動 ”、それが瞑想の定義。この瞑想は、3 つのファ クターで構成される。 瞑想する人が、瞑想の対象に、瞑想をする。この 3 つが揃って初めて瞑想は 行われる。あたりまえ、といえばあたりまえなのだが、経典はこの辺りをきっ ちりさせている。 ①「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」 ②「デーヤン ध्येयम्(瞑想の対象)」 ③「ディヤーナン

ध्यानम्

(瞑想)」瞑想をすること

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? ① 瞑想をするのはだれ?  ⇒ 「坐ろう!」としている自分。  これが一番大切な要素だ。瞑想しようとする私は「ディヤーター ध्याता(瞑 想する人)」と呼ばれる。 ② 何に瞑想をする?  ⇒ 瞑想をする自分は、心の動きを 1 つの対象 に向けている。 瞑想する人が心を向けている対象は「デーヤン ध्येयम्(瞑想の対象)」と 呼ばれる。定義によると、対象は「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世 界の現れ)」である。そのポイントからみれば、瞑想とは “ 世界に心をつ なぐ行い ” のこと。しかし、私たちはいきなり全世界に向かって、心を 定めることはできない。1 つの対象に心をつなぎとめておく作業が瞑想 だけれど、“ 全世界 ” は瞑想の対象としてはあまりにも広大すぎる。 私たちの心が、世界全体を一度に考えることは無理だ。だから私たちは “ 全体世界 ” を象徴しているシンボルをもつことになる。このシンボル 化された全体世界の象徴を対象に、私たちは瞑想をする。 シンボルには、“ 音と形 ” という 2 つのタイプがある。音で表したシン ボルが「マントラ मन्त्र」である。全体世界を維持する様々な力と法則 の象徴を音で表現したものである。形のシンボルは、自然の理を表現し た絵や写真や像だ。私たちは “ 音か形 ” どちらも瞑想の対象として選ぶ ことができる。 瞑想とは、「デーヤン ध्येयम्(瞑想の対象)」に心の動きをつなぎとめて、 考えを 1 つの流れに方向付けることである。 ③ 瞑想で行われていることは?  ⇒ 瞑想する人が心を 1 つの対象に つなげること。 瞑想そのものは、「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)」と呼ばれている。1 つ の対象に心をつなぎとめておく行い、活動が瞑想である。ぼーっと、黙っ て坐っていても瞑想にはならないのだ。

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? この 3 つの要素が揃って初めて瞑想がスタートする。最終的に瞑想が深まっ た時、3 つの要素はすべて融合し、1 つになる。瞑想のレベルが深くなるにつれ、 瞑想する人の心は瞑想の対象と一体化する。瞑想をする人と瞑想の対象との境 目が、瞑想の深まりとともに無くなる。こんな風に、“ 主体と対象 ” が一体化す ることが自然に起こる深い瞑想である。 『ヨーガスートラ』という Yoga の経典では、主体、対象、行いの 3 つの要素 から始まり、そこで達成される瞑想の深まる境地を、「サヴィカルパ・サマー ディ सविकल्प -समाधि(対象に一体化する瞑想状態)」と呼んでいる。「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」とは、行いをする主体と、行いの対象(客体)そして 行い自体がすべて一体化した深い精神状態、心のありようのこと。別名、「सम्म्यग्  आहित बुद्धि サンミャク アーヒタ ブッディ(しっかりと治められた『ブッ ディ बुद्धि(心、知性)、自分自身に確立した心』)」という。これが、「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」の状態である。 「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」状態にいるとき、私たちの中には緊張 や恐れが全くない。自分であることに心からくつろぎ、リラックスしている。 まるでスヤスヤ何もかも忘れ眠っている時のように、不安や苦しみがない。世 界で何が起こっていようと関係ない。世界に身を置きながらも、自分自身に完 璧に安らいでいる。瞑想で体験する深まりは、はっきりした意識をもちながら、 この一体感と安心感、絶対的なくつろぎにとどまることである。その時、恐れ や不安、葛藤から自由な自分を知ることができるのだ。 私たちは、普通自分と世界を分けて物事をみている。しかし、深い瞑想の境 地では自分が世界と離れているという感覚や思いがない。離れているものなど 何もないという一体感の中で、私たちは心からリラックスする。実は、私たち は何かと “ 離れている ” という思いをもつ時に、恐れや不安を感じる。瞑想の深 まりの中で一体感を深いレベルで知った時、自分が世界から離れているという 感覚は起こらない。瞑想する人、瞑想の対象、瞑想することがすべて一体になっ ている。その一体感にいる時、私たちの中には 1 ミリの恐れも不安の原因もな い。なぜなら、何も自分自身から離れたものなどないと瞑想の深まりの中で実 感するからだ。恐れから自由ということは、世界に対して無敵な状態だ。「サマー ディ समाधि(深い瞑想状態)」は、私たちが心からの安心とくつろぎと心地よさ を感じる体験になる。無敵で自由な自分を知ることができるのだ。

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? 瞑想のスタート時点では、瞑想をする自分と瞑想の対象は分かれている。こ んな風に別れている状態が「サヴィカルパ सविकल्प(主体と対象と区別のある状 態)」だ。ここからスタートして得られる深い一体感を「サヴィカルパ・サマーディ सविकल्प - समाधि(離れた状態から、瞑想によって一体化する状態、その経験)」 という。 ところで、実際「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」の状態とはいかなるも のなのだろう? Yoga をしていたら、だれもが気にしている一度は味わってみ たい状態。「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」は日本語で “ 三昧 ” などといわ れている。話によればそれは、とんでもなく心地の良い状態であるらしい…。 そればかりでなく、地上では聞いたことのない美しい音が聞こえるとか、青い 光をみるらしい、どうも体がちょっと浮くらしい…などと、サマーディに関し ては、ファンタジックな噂が多くある。 しかし、私たちは「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」に近い状態を毎日経 験している。それが、深く眠る体験なのだ。熟睡中は、「眠り、寝ている人、眠 りの対象(少し前は夢)」という区別がない。深い眠りについているとき、この 区別が一体化して、自分の中で 1 つになっている。その証拠に、寝ている時に は外の世界も自分のこともなんだかよくわからなくなっている。とにかく心地 よく、すべてが 1 つになっている状態である。これが、自分から離れたものな どない、無敵な自由を実感する経験。限りなく「サマーディ समाधि(深い瞑想 状態)」に近い。だから熟睡中私たちは、恐れからも、不安からも、葛藤からも 解放されている。夢の世界を超えた深い眠りのもとにいる人は、怒ったり、不 安になったり、悔しさでいっぱいになったりはしない。どんなに悲しいことが あっても、苦しい現実に襲われても、私たちは眠っている時、すべてから解放 された束の間の自由を味わい、自分自身にくつろぐことができる。 熟睡中の心地よさは、外の世界のもので埋めたわけではない。新たに獲得し、 何かを得ることで味わう安らぎでもない。くつろぎや心地よさや静けさや安心 感は、自分自身の意味として、すでに私とともにあった。心地よさは、はじめ からここにあったのだ。私たちが何の邪魔もなく自分自身でいられる時、“ 幸せ であり、心地よさ ” の意味である自分を知るのだ。恐れを知らず、悲しみを知 らない、苦悩のない境地。静かに満ちている安らぎ。それが自分自身の本当の姿。 深く眠る時、そういう自分を誰もが体験する。悩みや問題から解放され、自分

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? 自身にくつろげる時間。だからだれもが良い眠りが大好きだ。 ところで、眠っている時、体は活動していないし、考えも感情も意志も働い ていない。それなのに私たちは眠りから覚めた瞬間、「ああ、気持ちよかったぁ ~」といっている。なぜだろう? それは、考えが働いてなくても、たとえ体が丸太のように動かなくなってい ても、自分自身の存在までが消えてなくなることはないからだ。感情や意志が 機能していなくても、自分自身がいなくなることはない。むしろ自分のもって いる様々な機能が眠っている間に休むことで、私たちは本当の自分自身にとど まることができる。 聖典の教えによると、自分自身の意味とは、熟睡中体験している “ 安心、静寂、 心地よさ ” そのものである。私たちは皆、自由と心地よさの意味として存在し ている。本当の私たちの意味を知り、深く自分を納得するための経験の 1 つが 眠りである。 ここからわかることは、心地よさは、獲得するものではないということ。幸 せも安心も、わざわざつかまなければならないものではない。外に取りに行く 必要は全くない。幸せも、安らぎも初めからここにある。眠りや瞑想は、純粋 な自分自身の意味そのものにとどまることができる。熟睡の後や、深い瞑想の 気持ちよさは、歪みや偽りのない自分自身にとどまっていたことを意味してい る。安心、静寂、心地よさとは、外にあるものではなく、自分自身の真実に他 ならないことが理解できる。 外の物を付け足すこともなく、獲得する努力など必要ない心地よさが私たち の素の状態。これが真実であるから、私たちは誰もが常にそうでありたいと願っ ているし、求めている。 私たちは幸せでありたい、安心していたい。実際何かを探して忙しく日々生 きているようだけど、突き詰めれば皆「幸せと安全」を探求している。瞑想の 意図は、探している “ 幸せや安らぎ ” は初めから自分自身の意味としてあると知 ることでもある。 自分以外の何かなんて存在しない、という事実を知る時、私たちは恐れの “ 原 因 ” から自由になる。自分とは違うものがある、異質な何かがある、という考 えが無いとき、私たちは不安にはならない。離れているものなどないと知る時、

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? 何かに対して恐れる理由がなくなる。恐れがないということは、不安や怒り、 嫉妬、落ち込み、悲しみ、自己卑下や受け入れられなさなど、自分を苦しめる 原因から自由になるということ。いや、自由になるというよりは、初めから自 由である自分を知るだけだ。 自分自身の事実の理解と実感が、瞑想の深まりの中で起こる。そして違和感 も不都合もなく、ただ自分自身であることができる。そこまで深い瞑想「サマー ディ समाधि(深い瞑想状態)」は、意志の力や努力では起こせない。まるで “ 熟睡 ” のように、一定の条件が揃った時に自然に起きる。「熟睡してやる!」と一大決 心しても、条件が揃わない限り、熟睡状態には入れない。「よぉし、寝るぞ、がっ ちり寝てやるぞぉ、さあ、寝よう、寝よう、寝よう!」と鼻息荒く腕まくりし ている間は、絶対に熟睡できない。瞑想も同じ。瞑想は気合いでも、凄まじい 努力と意志でも、勢いでも、厳しい修行でもない。 よい眠りは意志と努力で獲得するわけではない。眠りのために私たちができ ることは、眠るまでの準備のみ。眠りの時間を確保し、安全な場所をみつけ、 快適な布団をしつらえ、体を適度に温め、心を落ち着かせ、リラックスして、 体を横たえる。ここまでが私ができる行いだ。後は、熟睡が起こるのを待つ。 深い瞑想も同じように、準備することはできる。静かで安全な場所を見つけ、 瞑想の時間を確保し、快適な座をしつらえ、心を鎮め、リラックスして坐る。 私が意志と努力によってできる行いはここまで。後はある一定の条件が揃うこ とで、深い瞑想は起こる。 ただ瞑想が眠りと違うのは、瞑想中はどんなに深くても考えや感覚という機 能までが活動休止にはならないということ。瞑想中、考えは眠りに落ちている わけではない。だから、活動している考えと感覚によって、はっきりと一体感 をみることができる。 また、熟睡は初めから肉体と機能にセットされプログラムされた本能である。 だから私たちは “ 熟睡 ” するために努力しなくてもいい。眠くなれば、体が自然 に準備をする。眠りという本能のために、体や生理機能、精神が勝手に熟睡へ の準備を行う。しかし “ 深い瞑想 ” というのは私たちの活動の初期設定にはな い。だから瞑想を練習すること、瞑想を準備することに対して、明確な瞑想の 目的と意志が必要とされる。瞑想は自然に起こるが、瞑想の練習は意志のもと

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? に行い、深い瞑想が起こるための条件を努力によって準備する必要がある。準 備をしたら、あとは瞑想が起こるまで、ひたすら練習を重ねる。 こうして練習を続けることで、やがて “ 深い瞑想 ” が起こる。そのための一 定の条件というのが、「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」「デーヤン ध्येयम्(瞑 想の対象)」「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)」という 3 つの瞑想のファクターが融 合すること。そのためには、集中力と落ち着き、客観的な態度が不可欠だ。そ れに加えて、瞑想の練習と聖典の学びと規律ある Yoga 的生活など、様々な恩恵 によってもたらされるものである。 अभ्यासेन तु वैराग्येण च गृह्यते।६.३४ 瞑想を極めるためには、たゆみない練習と物事に対する客観的な態度、 落ち着きあるのみ。 それによってアルジュナ君、キミは自分の心を扱えるようになる。 『バガヴァッドギーター』6 章 34 瞑想はイベントではない。たった一度の瞑想体験が、ドラマティックに人生 を変えたりすることはない。深い瞑想の体験で、信じられないような明るい光 をみるとか、天上の音を聞く等、ありえないような出来事にでくわすことは期 待しない方が賢明かもしれない。瞑想の練習は、ドラマを感じることでも、ロ マンを追いかけることでもない。ひたすら、現実的に、客観的であり続けるこ とだ。 己のあり方をみるために、毎日、朝晩、決まった時間に静かに坐るという地 道な積み重ねが、確実に瞑想の質を向上させる。どんなに忙しくても、瞑想の 時間を確保し、地道に己に向かい続ける。そうするうちに、徐々に何かが少し ずつ変化する。 体を動かす Yoga はたった一度のイベントでは意味がない。日常生活の習慣と なって初めて効果をもたらしてくれる。同じように、心の活動である瞑想は毎 日の中で習慣づけ、練習することで初めて意味をもつ。

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? <瞑想の準備のためにできること。“ 目的をはっきりさせる ” > 瞑想を深めるための準備は、Yoga で鍛えた強い意志にゆだねられている。そ して毎日続けるモチベーションを維持するためにも、目的ははっきりさせてお く必要がある。「何のために、何を目指して自分は瞑想をするのか? 」。ここに 迷いがなければ、瞑想の練習を続けることは苦にならない。瞑想における方向 性を定め、揺れないようにするために、Yoga 的考え方の背景を学んでおくこと は非常に有効なのだ。 Yoga 哲学は一見難しい言葉ばかりで不安になるが、恐れるに及ばない。細か い言葉やサンスクリット語がわからなくても大丈夫!なにしろ Yoga の哲学は大 変に明るい。学べば学ぶほど、明るいビジョンに勇気づけられ、世界に対する 恐れや、自分に対する違和感が薄らいでゆくのを感じると思う。なんといって も、聖典の第一声は「タット・トヴァン・アシ तत् त्वन् असि(あなたは、もう今 のままで完璧だ!)」であるのだから。 『ヴェーダ(聖典)』のビジョンに触れる度に、「それでいいのだ!」と力強く いわれる。 「それでいい。それでいいのだ!今あなたが、あなたでいることが、そのまま で完全なのだから。本当のあなたの姿を歪めずに見て、知りさえすればいい。 今でも、この瞬間でさえ、あなたは完璧である。ここにいること。何かを知り、 認識することができていること。存在し、知覚と認識が起こっている。という ことがあなたには、はっきりみえている。それがすでに真実を表しているじゃ ないか!? 自ら存在し、自ら明らかであり、満ちている者。それがあなただ。 足りないものなど何もない。完璧なあなたを脅かすものなど何もない。存在の 意味そのもの、自由の意味、安心であること、幸せであること、満ちていること。 それらの言葉の意味があなたなのだ。あなたの本質が、“ 心地よさ ” という言葉 が運ぶ意味である」。というように、今ここにいる私たちを、とにかく全肯定。 100%あなたはそれでいい!といってくれている。 でももし、あなたが「いや、ちょっとまってくださいよ。自分は完璧なんて、 そんなんじゃないですよ。私は不安や恐れや苦悩でいっぱいなんですって。幸 せの意味だなんてとんでもない。何を能天気なこといってんですか? !」なん ていったなら? 「それはあなたが、自分自身の本当の姿を知らないからだ」。そ

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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か? う聖典はいう。 私たちは Yoga をして、まるで理想的な完全な自分になろうとしている、か のようにみえる。しかし、実際は Yoga をしようとしなかろうと、聖典のビジョ ンからすれば、すでに私たちは完璧なのだ。自分以外の何かになろうとしなく てもいい。自分自身以外の何かを付け足さなくても大丈夫。“ 自分自身の本質と は、自由・幸せという言葉が明らかにしている「意味」そのもの ”。この事実を 知らないことだけが、内なる世界に問題を生む。自分についての無知が、私た ちを恐れと不安と苦悩の渦に突き落としている。私の問題は、自分を “ 知らな いこと ”。それだけが唯一の原因だ。 だったら、この問題に対するアプローチは何だろう? そう!解決方法は “ 知 る ” ことしかない。とるべき方法はただ 1 つ。自分自身の事実を理解すること。 さらに、それを実感すること。事実に揺らがなくなるまで、はっきりと、徹底 的に自覚すること。 Yoga のゴールは本来の自分自身、完全なる自由の意味、幸せの意味である自 分を知り、実感することでしかしかない。私たちが自分自身をはっきり理解し た時、今までの世界と自分の見方が 360 度変わるだろう。体や感覚という機能 は今までと変わらずにそのままありながら、世界へ対する態度、自分に対する 態度がまるで違ったものになるに違いない。 瞑想は、Yoga の道を歩く私たちが明るいビジョンで世界と自分を受け入れる ことができるようになるための最も確実で、最も大切なプロセスだ。私たちは Yoga の教えとともに、瞑想を実践する。 そうすることで聖典が伝える本来の自分自身にしっかり足をつけ、堂々と世 界を生きていけるようになる。「心配することなかれ!完全なる者よ」。経典は いつもそういって、心強いエールを送りながら私たちを導いている。

5. 瞑想の鍵を握る「ディヤーター(瞑想する人)」

ところで、瞑想の結果を得ようと焦らなくても、ちゃんとした方法で練習を していれば、いつか必ず深い瞑想は起こる。そのためにも、瞑想についての基

参照

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