4.瞑想を構成する 3 つの要素
6. 本当の瞑想ができる瞑想者であるために
世界に対する主観的な物の見方を、客観的な見方に変えていくこと。それが、
瞑想のためにすべき心の準備である。自分だけの歪んだ物の見方や主観は、努 力で変えていくことができる。深い瞑想は意志では起こすことはできないが、
瞑想するため心の準備は、私たちの意志と努力でできることだ。いや、むしろ 努力あるのみ。そして何事も “ 客観的にとらえること ” に重きをおいた「リアリ ティ瞑想」の練習を習慣化していくと、少しずつ何かが変わる。それは確かだ。
本来瞑想には、劇的な変化やドラマ、イベント性は期待できない。ある日を 境に、瞑想を通じて驚くような変化が起きたという発言は、嘘か本当かは知ら ないが、沢山溢れている。「突然青い光が目の前をグルグルとまわり、天にも昇 る心持がした」、「1000 の鐘が一度に鳴り響いた感覚がおきた」とか、「クンダリー ニという潜在的な力が開けて、背骨を駆け抜けていった!」、「光が脳天に差し 込んでから、ある声が聞こえたのです」、「ある日瞑想をしていると、空から澄 んだ声が聞こえた。その日から私のすべてが変わったのだ」云々。…こんな営 業トークに目を眩ませてはいけない。
スピリチュアルな探求をする人はどこかロマンティックなところがある。確 かに、スピリチュアルロマンは魅力的だが、何も本質的なものを解決しない。
一時のイベントは所詮イベントなのだ。過ぎ去ったらまたいつもの “ ふてく された ” 自分と付きあっていかなくてはいけない。刺激的なイベントが過ぎれ ば、また次の刺激を求めることになるだろう。次なる刺激を私は求めて、“ 瞑想 的 ” イベントからイベントに走り回ることになる。しかし、私たちはそもそも、
瞑想で何をしたかったのか。何を求めていたのか。イベントだろうか? 天の声 を聞いたり、ハイヤーセルフの姿をみることだったのだろうか? 超常現象だろ うか? いいや、違う。
私たちは、ただ何かが足りないという自分の中の不満や小ささや、意味のな さをどうにかしたいと思っていたはず。自分を責めたり、受け入れられずにい る苦悩から自由になりたい。葛藤やプレッシャーのない、落ち着いて幸せな自 分でいつもいたい。そのためにできることは、物を手に入れることではなく、
別の方法を取らなければどうにもならないと思っていた。そこから、Yoga や瞑 想をはじめたのではないか。もしそれが動機なら、超常現象は私たちの問題を
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
解決しない。
同じ問題、同じ悩みは、いつの時代も、どんな場所にもある。現代日本で私 たちが抱えている問題は、大昔のインドで Yoga を志す人達も同じように抱えて いたのだ。なぜなら、自分の中の恐れや不安から派生する、“ 自分自身の受け入 れ難さ ” や “ 世界に対する違和感 ” は人間ならだれでもがもつ共通の問題だから だ。
何も持たずにある日突然ただ 1 人、この世界に放り出されような自分。自分 は、世界に対しても、自分に対しても無力。何が真実か、確固とした知識を持 たないままたたずんでいる。だから不安だし、世界を恐れる。私たちは皆同じ 問題を心の奥で抱えている。
いにしえの「ヨーギーयोगी(Yoga の実践者、達人)」たちもスタート地点は 同じ、人間特有のこの思いから自由になろうとすることからはじまっていた。
伝統的な瞑想は、この根本的な問題にアプローチする方法でもある。何が真実 なのか。悩む自分とは何なのか。
『ヴェーダ(聖典)』の教えに基づき、徹底的に “ リアリティ ” をみることで、
私たちは望まない自分から自由になる。なぜなら、受け入れ難い自分とは、た だ自分を知らないという無知だけが原因なのだから。私たちが問題と思ってい ること。その原因は実は世界にはない。原因は、あくまでも私たちの自分自身 に対する無知とそれゆえの勘違い。だから知ること、解ることが問題を取りの ぞく。苦脳からの解放。そのキーは “ 自分を知ること ”。聖典の教えに沿った瞑 想は、現実をできるだけ客観的にみること、自分自身の真実を実感することに 主題がおかれている。
自分のどこに問題の根があるのか。世界の何に自分は不満なのか。しっかり と現実を直視しなければならない。「問題のある場所は? 苦悩のある場所はど こだ? 」私が抱えるこの苦しみや強いプレッシャーは、家の中に落ちているわ けではない。隣の家にもない。目の前に坐る同僚の席にも、会社のどこをさが しても “ 苦しみ ” はない。家族の誰かがもっているわけでもない。別れたパート ナーが隠しもっている、というわけでもない。
「問題、苦しみが起こっているのは、ここだ」。現実を冷静にみるうちに、自 分の心がいうだろう。そして、問題が起こっている場所にしか、解決はない。
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
とてもあたりまえのことだ。しかし、これに気がつかない程、私たちは混乱し、
何かにすがりたいと思ってしまう。
「部屋の中で落とした “ 針 ” は、部屋の中をちゃんと探さなければ見つからな いよ。どんなに部屋の中が暗くても、“ 針 ” はそこにしかない。たとえ外が明る くても、外に探しに行くわけにはいかない。いくら探したふりをしても、落と した場所以外で “ 針 ” は絶対に見つからない。“ 問題 ” が無いところに “ 解決 ” はない。逆に問題のあるところにだけ、解決がある」。
自分の抱える問題の原因は、外の世界にはない。だから苦悩を取りのぞくた めに、世界のどこを探しに行っても解決はみつからない。探すべき場所は、問 題のあるところのみ。それは自分の考え方、ものの見方、認識である心の中に しかない。“ 自分の中心 ” が問題であれば、解決は “ 自分の中心 ” にしかないのだ。
瞑想は、この “ 自分の中心 ” にあるものの見方を変える。
問題や、苦しみを抱えている原因は、私が現実的に、客観的に世界を見てい ないからかもしれない。だれの生活にも、体が痛むことや、心が重くなるよう な出来事はある。しかし、それを「なぜ自分だけこんなに苦しいのだ!」と悩 んだり、「もう絶望だ!」といってみたりすることは、ある出来事や状況から自 分が勝手に判断した結論でしかない。
「自分の見方が、問題や苦悩をつくる」と聖典はいう。問題の原因をはっきり させることも、瞑想の目的である。「ただの出来事を問題にしてしまうのは、実 はこの自分なのでは? 」。落ち着いて自分と向き合うことで、問題の核心に触 れることになる。それによって解決の糸口がしだいにみえてくる。「私の主観的 な見方と、自分で勝手に出した結論が ” 苦悩 “ をつくっている。だったら客観的 に、ありのままにとらえられるように自分が変わったらどうだろう? 」
変わるべきは世界ではない。世界は、私がどんなに泣いて嘆いても変わらな い。私は世界を変えられない。このことを潔く認めること、これが客観的であ る初めの一歩。「何が起こっても仕方ない。世界はそうなっているのだから」と いう認識。隣に坐っている誰かさんがどんなに気に食わなくても、私にその人 を変える力も権利もない。恋人や家族がどんなに自分のいうことを聞いてくれ なくても、それは仕方ない。私には他人を変えられない。これが世界に対する 客観的な態度。
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
そして、勇気をもって知っておくべきことは、“ 変えられるのは、私の「世界 の見方、とらえ方」のみ ” ということ。自分には変えることができない世界の 事実をそのまま受け止めること、認められることが私にできること。この態度 が、私の心に映る世界を変える。
現実をみる瞑想と、瞑想ができる心を準備する過程で、私たちは毎日関わり あう世界に対する態度や、人々に対する自分の態度を変えていく。緩やかなプ ロセスだけれど、客観的に物事をとらえられる広さと大きさをもって世界に接 することができてくる。この広さと大きさが、心の成熟や、ゆとりと呼ばれる。
心の成長があって初めて、私たちは確実に真実に近づくことができる。
そして真実を理解した時、求める自由はもうそこにある。世界は自分をとら えられない。世界は自分を傷つけることができない。なぜなら、ありのままを ありのままに知ることのできる心には、「こうなってほしい!、ああしたい!」
という欲求自体がないのだから。欲求がなければ、不満も葛藤も、プレッシャー も落胆もない。
内面の変化は、とてもゆっくりしたプロセスで起こる。長い間積み重ねた “ 主 観的な物の見方 ” や “ 世界への期待 ” が問題をつくり出しているとしたら、同じ くらい長い時間をかけて問題をゆるめて、ほどいていくしかない。
逆に一時的なイベント瞑想は、その瞬間だけに起こるインパクトある出来事 で終わってしまう。私の内面を何も変えず、問題の根源を解決することもない。
客観的に、ありのままに世界をみること。目の前に広がる世界をそのまま受 け入れることのできる悩みのない大きな心。その心で自分自身の本質を確信す ることができる。変わりゆく世界の渦に巻かれながらも、自分自身の本質を見 失わずにいることができる。さらに、このゆとりとキャパシティーが優しさや 慈悲という形をとって現れるようになる。
「自分にも、世界にも問題はない」。事実の理解に基づく葛藤のない落ち着い た心に、深い瞑想は自然に起こる。この心を準備するために私たちは、適切な アプローチとメソッドで瞑想の練習をする。
毎日自分と向き合う時間を確保し、坐り、一定時間自分の主観的な見方を正 していく。意志と努力によって心の準備が整ったら、意志の働きとは無関係に 瞑想は起こるのだから、あせらずに安心してやっていけばいい。