4.瞑想を構成する 3 つの要素
5. 瞑想の鍵を握る「ディヤーター(瞑想する人)」
ところで、瞑想の結果を得ようと焦らなくても、ちゃんとした方法で練習を していれば、いつか必ず深い瞑想は起こる。そのためにも、瞑想についての基
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
礎を理解して、とにかく瞑想の練習を実際にスタートしてみよう。瞑想はロジッ クじゃない。アクションだ!それに自分自身の本質は不滅で永遠なるものだが、
この肉体が生きる時間は限られている。できるだけ早く実践して、習慣にして しまった方がいい。
瞑想の実践において、一番大事なキーファクターとなるのは、「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」。つまり、私が瞑想をするとしたら、「どんな私が瞑想す るのか? 」ということ。…何をいっているんだ? 「私は私、1 人じゃないの?
」と思うかもしれないが、実は私達の中には沢山の役割が存在している。
私たちは社会の中で、毎日いくつもの役を演じて生きている。関わる人や関 係によって自分の役割を変えて生きている。あたりまえすぎて、もはやそのこ とすら忘れているかもしれない。さらに、自分とは心なのか、感情なのか、考 えなのか。体なのか、暑さ寒さや飢え渇き知る者なのか。一体何者なのだろう、
という、自分自身に対する混乱もある。
だからあえて “ どんな自分が瞑想をしているのか ” をはっきりさせておく必要 がある。効果的な瞑想の鍵を握っているのは「ディヤーターध्याता(瞑想する人)」
だ。
私たちはある日思いたって、急に「瞑想をしよう!」と坐ることはできる。
静かな場所を選び、時間を確保し、意志のもとに心の活動に集中することはで きる。しかし、自覚的にできるのはここまで。ひとたび深い瞑想にはいったら、
瞑想をしているのは、「瞑想しよう!」と決めたり、考えたりする意志ある私で はない。なぜなら深い瞑想中、意志を行使する私の中心は瞑想の対象と一体化 していて、自由意志を使う人がいなくなる。だから意志は使われない。たとえば、
眠っている時に「さて、もっと深く寝ようかな!」とか「眠りをこう展開させ よう」とか、決めたり選んだりしようとしても、自分の中心は深い眠りに吸収 されてしまっているのと同じように、瞑想中は意志が働かない。瞑想をしてい る「ディヤーターध्याता(瞑想する人)」は、決めたり選択したりする意志がなく、
だから迷ったり悩んだりもしない自分である。
さらに、瞑想中は全くの素である。社会の中で演じている様々な “ 役割 ” を、
瞑想中は手放している。瞑想中の自分とは、演じている役割でもなく、役を演 じようとする意志の持ち主でもない。瞑想をしている間は、あらゆる役からも、
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
演じることからも、何かを選び決断する意志の持ち主であることからも解放さ れている。そのシンプルでベーシックな自分が「ディヤーターध्याता(瞑想す る人)」なのだ。
< “ 役割 ” を演じること>
私たちは皆、必ず何かの “ 役 ” を演じながら生きている。人々と関わりあう社 会の中で生きるということは、だれもがそれぞれに役割をもって演じながら生 きるということである。1 人の人は、1 つの役だけではなく、相対的な関係の 上にいくつもの役をもっている。誰かに対して自分はどういう役割を求められ ているか? 関わる人によって、自分が求められている役は違う。関わる人と同 じだけの数の役を常に演じながら、私たちは世界という大きなドラマに参加し ている。
瞑想で坐っている「ディヤーターध्याता(瞑想する人)」は、何の役も演じて はいない。役をもたず、人々と関わり合わず、ただ全体世界の中で生きる “ シ ンプルな個 ” として私たちは坐っている。どんな役も演じていないベーシック な、素の自分。社会的な責任を担っていない自分は、どちらかというと自然界 の生物に近いかもしれない。全体世界の中で、自然のあるがままを知覚し、認 識する者。その個には、役もなければ、名前もない。世界を維持する秩序と自 然の理の中で、静かに息をし、知覚している存在。生きるために担っている役 割に縛られず、演じることを要求されず、ただある自分。
だから素の自分は外の世界に対して「こうであったらいいのに!、こうして 欲しい」という欲求や期待というプレッシャーがない。プライドや蔑みもない。
落胆や有頂天になることもない。偏見と主観で世界を歪めることなく、ありの ままの世界を客観的に認識する。
「あたしがする!」とか「俺がいる!」とか、「これが、わたくしの物!」な どという自己主張がない。“ 自分 ” という概念に限定された自己主義的主張がな く、シンプルに自然の法の中で息づいている。淡々と全体世界とのつながりの 中に在り続ける。その “ シンプルな個 ” が瞑想をする者である。
例えていうなら、夢を見ている時、私たちは自分の考えがつくり出した世界 の中にいる。記憶をもとに自ら想像した夢の世界の中で、“ 自分 ” という 1 つの
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ポイントを置いて、そこを中心にドラマを展開する。夢の世界に “ 私 ” という小 さな点をおいて世界と関わりあい、周りに期待し、時に喜び、時に落胆し、恐れ、
楽しみ、世界のドラマをつくり出し、つくり出されたドラマに自ら夢中になる。
しかし、熟睡が起こったらどうだろう? 夢の世界にいた “ 私 ” は、演じてい た役も、小さなスタンドポイントも手放す。役を手放した以上、当然、役につ いていた期待や主観、様々な感情に踊らされることはなくなる。「私、私!」と いっている小さなポイントが無くなれば、そこにすがりついていた考えや感情 や悩みは、当然寄る辺を失う。その熟睡は夢の世界を体験している “ あなた ” の 意志や考えや期待と無関係に、ただ起こる。
熟睡する時、あなたは眠りの世界に満ちる者としてあり続ける。夢の世界を 展開していても、眠っていても、あなたというこの “ 存在 ” は変わらない。あな たをベースにどちらもある。夢の世界のベースとしてすべてに広がり、同時に 夢を展開させるのはあなただ。あなたの存在は、夢で問題を抱えようが、悩も うが、夢中になろうが、はたまた熟睡しようが、何も変わらずに、夢と眠りの どちらにも満ちている。
夢の世界に満ちながら、夢の世界のドラマとも、その中の役とも一切関わり 合わない。ドラマを繰り広げるベースでありながら、それでもドラマに巻き込 まれることがない。その自分には、恐れも不安も、苦悩もない。眠りの世界の 法則の中に、ただある。
同じようなことが、世界と、世界に生きる自分との関係においても起きてい る。眠っている自分と、夢の世界の関係と同じように、世界は、自分自身とい う存在をベースにしてある。世界に自分は、1 つの “ 私 ” というポイントを置い て、ドラマに参加している。本当の自分自身は “ 世界のベース、存在 ” である にもかかわらず、1 つの私というポイント、それにつけられた名前や場所に縛 られ、関係に取り込まれ、能力や考え、もち物など自分の付属物に限定される。
自分自身の事実を忘れ、世界のドラマに夢中になる。だから、喜びも苦悩も、
悩みも、恐れもリアルになる。
瞑想をする時は、私たちはこのドラマにのめりこんでいた 1 つのポイント “ 私 ” という考えを手放している。当然、“ 私 ” というポイントに絡みついていた悩み や問題たちも行き場を失う。その自分には、恐れも不安も、苦悩もない。
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
役を演じているとき、私たちは純粋に役割だけをもっているわけではない。
“ 役の上に起こっている様々な問題 ” も一緒に背負っている。それぞれの役には、
それぞれに問題や課題が課せられている。私たちは役ごとに抱える課題をこな し、問題に直面して悩み、苦悩し、時に楽しみながらドラマを生きる。それ自 体に問題はない。問題は 1 つの役に特有の問題が、別の役とも混ざり合い、混 乱を引き起こしているということ。さらに、混乱した自分は、役を演じている 本来の自分を忘れ、役のリアリティだけを、よりリアルに感じてしまっている。
そして、役に没頭し、役の中だけの問題に無我夢中になり、“ ベースにある本来 の自分 ” が何者かわからなくなってしまう。
「私とは何か」。これが思いだせない…。私たちが問題にハマってしまうカラ クリはここにある。この混乱は瞑想の妨げになる。「瞑想をしよう!」そう決め て、場所を定め、座をつくり、体を坐らせる。目を閉じ、瞑想の対象に集中し、
瞑想を始める。ここまでは意志でできることだ。しかし、これだけでは瞑想は 起きない。
目を閉じた後の数分間はたぶん大丈夫。心も落ち着き、なんとなく坐ること に安すらぎすら感じる。しかし、しばらくすると、心はあちこちに飛びまわる。
目を閉じて、静かにすることで、外の刺激に飛び出していけない心は、内なる 世界に縛りつけられる。
心は閉じ込められた内なる世界を忙しなく走り廻り、終わりのない考えの鎖 につながれ、不毛なループを廻りだす。瞑想中、雑念に苦しむとか、普通にし ている時よりもかえって落ち着かない、などの経験はだれにでもある。役を引 きずって、混乱したままの考えが、私を静かに坐らせないのだ。心はどんなに 内なる世界を走り回っても、そこから逃れられはしない。
瞑想で坐ることによって、心は坐る前より落ち着かなくなっているような気 がする時がある。その理由は、“ 坐っている人 ” の中心が落ち着いていないから だ。この中心の落ち着きが、瞑想に必要な心の準備となる。瞑想に適した質が あるということだ。これが準備できていない限り瞑想はできない。
瞑想は、“ 坐る人 ” の内面をはっきりと映し出す。その人の生き方における姿 勢、世界や人々に対する態度、その人を取り囲む様々な状況に対する反応や心 のあり方を浮き彫りにする。自分に起こりうる様々な出来事に対して、どんな