1.はじめに 1983 年の「留学生 10 万人計画」および 2008 年の「留学生 30 万人計画」によって、今日 の日本で留学生を見かけるのは日常的な風景となっている。さらにこれらの計画によって国 内外で日本語教育の需要は高まり、丸山(1995)によると「留学生 10 万人計画」が打ち出 された付近の 1979 年から 1993 年の間で、日本語教育機関の数は 5.9 倍、学習者数は 12.8 倍 となっている。 現在でこそこれらの計画もあって、様々な国から日本へ留学する学生は増えているものの、 かつては「資本主義陣営と社会主義陣営」や「東西冷戦」という世界的な対立構造があり、 それは朝鮮戦争やベトナム戦争などといった紛争という形であらわれたこともある。ドイツ 民主共和国(以下:東ドイツ)にあった「ベルリンの壁」は東ドイツ国民の国外流出を防ぐ 目的で建設された。他の東欧諸国でも旅行の自由化に踏み切るまでには多くの年月を要した。 このように東側諸国では留学はおろか、旅行ですら自由にできないなど、人の往来が制限さ れた状況が続いていた。 現在のように日本への留学も手軽にできない当時の東側諸国において、日本語を学ぶ意義 はどこにあったのか、日本語学習者はどこに価値を見出していたのかという疑問が本研究の 初発的な動機である。 当時の東側諸国における日本語教育史に関する研究は、ベトナム民主共和国(以下:北ベ トナム)およびベトナム社会主義共和国(以下:ベトナム)(坪田、2017)や、ソビエト社 会主義共和国連邦(以下:ソ連)およびロシア(ヴィクター、2006)など、一国を対象にし た研究が中心であり、東側諸国全体を対象にした研究は見られない。日本との地理的距離や 社会主義体制の導入年、言語政策などが各国で異なるため、東側諸国全体という範囲での研 究が進んでこなかったと考えられる。 そこで本研究は、東側諸国全体の高等教育機関を対象に、日本との外交関係や日本語教育 開始年などを調査したうえで、東西冷戦下における東側諸国での日本語教育史について明ら かにし、社会主義国家において日本語を学ぶ意義について考察する。
東西冷戦下の社会主義国家における日本語教育史
―東側諸国での高等教育機関に着目して―
野 口 慎太朗
2.社会主義の概要 本章では、当時の社会主義国家がどのような体制だったのかについて検討したい。社会主 義の定義として『大辞林 第三版』によると次のようになっている(注 1)。 ①資本主義の生み出す経済的・社会的諸矛盾を、私有財産制の廃止、生産手段および 財産の共有・共同管理、計画的な生産と平等な分配によって解消し、平等で調和の とれた社会を実現しようとする思想および運動。(後略) ②マルクス主義において、生産手段の社会的所有が実現され、人々は労働に応じて分 配を受けるとされる共産主義の第一段階。 すなわち社会主義とは、資本主義に対立する形で生まれた新たな思想であることが分かる。 そして社会主義国家とは、引用部①にある「計画的な生産と平等な分配」を国家が主導となっ て行う国のことを指すと言えるだろう。 社会主義は突発的に生まれた思想ではなく、19 世紀前半に起きた産業革命が引き起こし た社会的問題として生まれた思想であり、イギリスのオーウェンやフランスのサン=シモン、 フーリエ、ドイツ生まれのユダヤ人マルクスらが先駆者となり、その後も多くの思想家が現 れることとなった。そして、この思想が国家として初めて成立したのはレーニン率いるソ連 であった。 1917 年のロシア革命を経て 1922 年に成立したソ連であるが、「東西冷戦」というアメリ カ合衆国(以下:アメリカ)率いる資本主義陣営との対立は第二次世界大戦以降、世界の覇 権をめぐる争いから始まり、結果として 1950 年に勃発した朝鮮戦争や、1965 年のベトナム 戦争という紛争にまで発展することになった。 東側諸国というように、「東西冷戦」はソ連対アメリカという一国同士の対立ではなく、 東側諸国も西側諸国も複数の国で構成されていた。東側諸国に属していた国々は社会主義国 家であったことが共通点として当然あるのだが、関係性をさらに強めるものとして軍事的な 同盟関係を示す「ワルシャワ条約機構」が、経済的な結びつきを示す「経済相互援助会議(以 下:コメコン)」がそれぞれあった。それぞれの加盟国については以下に示した通りである。 表 1 ワルシャワ条約機構の加盟国 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連) ポーランド人民共和国(以下:ポーランド) チェコスロバキア社会主義共和国(以下:チェコスロバキア)
ハンガリー人民共和国(以下:ハンガリー) ルーマニア人民共和国/ルーマニア社会主義共和国(以下:ルーマニア) ブルガリア人民共和国(以下:ハンガリー) アルバニア社会主義人民共和国/アルバニア人民共和国(以下:アルバニア) ドイツ民主共和国(東ドイツ) 表 2 経済相互援助会議(コメコン)の加盟国 ソ連 東ドイツ ポーランド モンゴル人民共和国(以下:モンゴル) チェコスロバキア ベトナム ハンガリー ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(以下:ユーゴスラビア) ルーマニア フィンランド共和国(以下:フィンランド) ブルガリア イラク共和国(以下:イラク) アルバニア メキシコ合衆国(以下:メキシコ) なお、ユーゴスラビアに関しては準加盟国、フィンランド、イラク、メキシコに関しては非 社会主義協力国という扱いであった。 また、当時の東側諸国では「プレジネフ・ドクトリン」という制限主権論が唱えられてお り、各国はソ連の衛星国としての役割を担わざるを得ず、それは外国語教育のロシア語偏重 という形で教育にも現れた。 ソ連は 1991 年に解体されることとなるが、社会主義国家は現存しており、中国やベトナ ムがその代表例である。しかし、経済としては中国では「改革開放政策」、ベトナムでも「ド イモイ改革」による市場経済化で部分的に資本主義を取り入れており、完全な社会主義国家 とは言い難いのが実情である。 3.先行研究 東側諸国での日本語教育史に関する先行研究としては、一国を対象としているものが中心 で、ソ連およびロシア、北ベトナムおよび南北統一後のベトナム、ハンガリーといった国が 対象となっている。本章では、ソ連およびロシアと北ベトナムおよびベトナムに関する先行 研究について述べることとする。 まずソ連に関してだが、広大な土地を有しているため、国家全体としての教育史をたどる のは困難であり、サンクト・ペテルブルグやウラジオストックなどの都市や地域での教育史 が研究の対象になっているようである。ここではサンクト・ペテルブルグにおける教育史に ついて言及したい。
ヴィクター(2006)によると、サンクト・ペテルブルグにおける日本語教育は 1700 年代 初頭に始まったとされている。大帝ピョートル 1 世の時代に漂流民としてカムチャツカに滞 在していた日本人デンベイ(伝兵衛)が、1703 年に日本語教師の称号を与えられると、 1705 年には航海数学学校内の日本語学級で指導を始めた。これはサンクト・ペテルブルグ だけでなくロシア初の日本語学級でもあった。 その後、1736 年に科学アカデミーに付設された機関としてロシア初の日本語学校ができ るが、そこで指導を行っていたのは 1729 年に漂流民としてロシアにやってきたゴンザとソー ザという日本人であった。地理的に近いとはいえ、日本が鎖国政策をとっていた 1705 年に は日本語学級、1736 年には日本語学校が開設されたことについてヴィクターは「世界史上 でもきわめてユニークな社会現象であった」と評している。 ロシアで日本語教育が開始されてからおよそ 150 年後、日本が各国と和親条約や修好通商 条約を締結することとなる。ロシアとも 1855 年に日露和親条約が締結されると、15 年後の 1870 年にサンクト・ペテルブルグ帝国大学で選択科目として日本語教育が始まり、1898 年 には日本語学科が設立される。また、翌 99 年にはウラジオストック大学にも日本語科が設 立されるなど、大学における日本語教育は 1800 年代後半から始まっていたことがうかがえる。 1917 年の革命によってロシア帝国は崩壊し、社会主義国家であるソ連が 1922 年に成立す るが、成立当初は日本語教育の分野も発展を続け、コンラッドやネフスキーなどさまざまな 研究者が現れた。しかし、1924 年にスターリンが最高指導者になると状況は一変し、37 年 から 39 年の 3 年間で多くの研究者は「日本のスパイ」容疑で粛清・弾圧を受けることとなる。 この時代についてヴィクターは次のように評している(注 2)。 こうしてスターリンによる弾圧時代、 スパイ 容疑を理由にペテルブルグ、モスクワ、 そしてウラジオストックの各大学でも日本学者のほとんどが姿を消し、日本研究の分野 は取り返しのつかぬ大きな損失をこうむった。 粛清・弾圧を免れた研究者も、当時のソ連で日本研究を続けるのは実質不可能であったため、 亡命や帰化を行い、ソ連以外で研究を続ける者が多かった。 スターリンによって不遇の時期を過ごすことになった日本語教育・日本研究だが、第二次 世界大戦終結からおよそ 30 年後の 1976 年、藪崎(2006)によると以下の高等教育機関で日 本語教育が行われていた(注 3)。 モスクワ大学付属アジア・アフリカ大学−約 100 名、レニングラード大学東洋学部−約 30 名、国際関係大学−約 30 名、ウラジオストック大学東洋学部−約 100 名、ノヴォシ
ビルスク大学外国語学科−約 20 名、キエフ大学東洋学科−約 30 名 日本語教育が 1700 年代初頭から始まっていたこと、日本との外交関係が樹立されていたこ とを鑑みると、この数は決して多いとは言えない。社会主義国家であったソ連において、ス ターリン時代のような粛清・弾圧はなくとも、活発に行われていたとは言い難いだろう。 一方で、1700 年代から続いてきた日本語教育を規模の差はあれども、脈々と受け継いで きたこともまた事実である。 続いてベトナムについてだが、ベトナムは 1976 年に南北統一されるまで、北ベトナムと ベトナム共和国(以下:南ベトナム)に分断されていた。本章では坪田(2017)に則って北 ベトナム及び南北統一後のベトナムの日本語教育史について述べていく。 北ベトナムおよび統一後のベトナムにおいて、軍事・政治・経済の支援国はソ連であった ことはベトナムがコメコン加盟国だったことからもうかがえるが、教育分野においても同様 で、当時の外国語教育政策ではロシア語を最重要視していた。一方の日本は、同じアジア圏 に属していたが資本主義陣営であり、対立関係にある一国に過ぎなかった。 対立関係にあり、教育をする必要もなかった日本語を公教育として学ぶようになったきっ かけには国家としての施策が関係している。「学生分配」や「職業割り当て」と呼ばれてい たこの施策は、ある特定の外国語を身に着けさせるために、学生を海外に語学留学させると いうものだった。日本語もその対象となり、1955 年に開始されたとみられ、当時の主な留 学先としてはソ連と朝鮮民主主義人民共和国(以下:北朝鮮)であった。こうして日本語を 学んだ留学生たちは大学卒業後、国家によって割り当てられた機関で働くこととなった。 国家主導とはいえ、ロシア語以外の外国語教育について進展があったことは先述した通り であるが、その中に日本語が含まれていたのはなぜか。坪田が行った聞き取り調査によると、 「敵である資本主義の考え方も知らなければならない」、「ホー・チ・ミンの先見の明だ」と いう理由であったと考えられる。この考えを裏付ける公的文書などは見つかっていないが、 実際に北ベトナムは 1973 年に日本と外交関係を樹立し、経済的に交流を深めていくことと なったため、一概に切り捨てることはできないだろう。 ベトナムは 1976 年に南北統一されると 2 年後の 78 年、カンボジア侵攻を行う。これに対 して資本主義陣営である西側諸国は経済制裁を行った。日本も例外ではなく、ベトナムに対 して経済制裁を行ったが、その余波は日本語教育にまでやってきた。1961 年から日本語教 育を始めていたハノイ貿易大学では、1980 年から 8 年間日本語コースは開講されず、「後退期」 を迎えることとなった。 以上、ソ連とベトナムの社会主義体制時の日本語教育史について述べてきたが、共通点と してソ連では粛清や弾圧があり、ベトナムでも職業選択の自由はなく、学習内容についても
国家によって割り当てられており、外国語教育が国家の施策によって左右されていたことが あげられる。また、ベトナムに関しては語学留学という形で日本語教育が始まったが、日本 ではなくソ連や北朝鮮への留学で日本語を学んでおり、対立関係にあった二国間での人の往 来の困難さがうかがえる。 4.調査の概要 調査対象となる国をワルシャワ条約機構の加盟国および、非社会主義協力国を除くコメコ ンの加盟国の 12 か国とし、以下の 5 項目を調査した。 ・第二次世界大戦後における日本との外交関係樹立年 ・社会主義体制を導入した年 ・社会主義体制を放棄した年 ・社会主義体制下での高等教育機関における日本語教育の開始年 ・社会主義体制下で日本語教育を開始した機関名 なお、日本との外交関係樹立年は外務省や各国の駐日大使館のホームページから、日本語 教育の開始年と機関名に関しては国際交流基金ホームページの「国別の日本語教育情報」か らそれぞれ抜粋している。 5.調査の結果 調査結果は以下の通りである。 表 3 調査結果 国名 日本との外交 関係樹立年 社会主義体制 の導入 社会主義体制 の放棄 日本語教育 開始年 機関名 キューバ 1952 年 1959 年 1992 年 ハバナ大学外国語学部 ユーゴスラビア 1952 年 1943 年 1992 年 1975 年 ベオグラード大学言語学部東洋言語学科 ソ連 1956 年 1917 年 1991 年 1956 年 モスクワ大学附属アジアアフリカ諸国大学 ポーランド 1957 年 1945 年 1989 年 1956 年 ワルシャワ大学 チェコスロバキア 1957 年 1948 年 1989 年 1947 年 カレル大学 ハンガリー 1959 年 1949 年 1989 年 1959 年 パーズマーニ・ペーテル大学 ルーマニア 1959 年 1947 年 1989 年 1978 年 ブカレスト大学外国語学部 ブルガリア 1959 年 1944 年 1989 年 1968 年 ソフィア「聖クリメント・オフリドスキ」大学
東ドイツ 1973 年 1949 年 1990 年 1949 年 フンボルト大学 モンゴル 1972 年 1924 年 1992 年 1975 年 モンゴル国立大学文学部 ベトナム 1973 年 1945 年 1961 年 ハノイ貿易大学(当時、北ベトナム) アルバニア 1981 年 1946 年 1992 年 社会主義体制時では確認されていない アルバニアを除く 11 か国で日本語教育が行われていたことがわかる。この 11 か国を日本 との外交関係樹立年に基づいて 3 つのグループに分類すると、次のようになる。 (Ⅰ)日本との外交関係樹立の前から日本語教育が行われていた。 ソ連(注 4)、チェコスロバキア、ベトナム(北ベトナム)、東ドイツ (Ⅱ)日本との外交関係樹立とほぼ同時期に日本語教育が始まった。 ポーランド、ハンガリー、モンゴル (Ⅲ)日本との外交関係樹立より後に日本語教育が始まった。 キューバ、ユーゴスラビア、ルーマニア、ブルガリア (Ⅰ)のソ連、ベトナム(北ベトナム)において日本語教育が行われていた背景は、先行 研究で述べたとおりである。チェコスロバキアについては、ベケシュ(1991)によると 1930 年代からすでに日本語講座は始まっており、第二次世界大戦終結から間もない 1947 年 から始まったことも納得できる。 東ドイツにおいては 1949 年にフンボルト大学で始まったとしているが、これはドイツ分 断以前から行われていたのが引き継がれたと考えられており、さらに東ドイツの高等教育機 関における日本語教育はフンボルト大学の 1 校のみであった。ベケシュの研究でも東ドイツ は対象から外されており、ほぼ行われていなかったと考えても良いだろう。 (Ⅱ)のポーランドについては国家の消滅もあったが、1920 年代から日本に関する研究は 進んでいた。ハンガリーも同様に日本への関心は日露戦争が起こった 1900 年代初頭からす でにあり、両国とも日本研究・日本語教育を行う土壌は形成されていたと言える。しかし公 教育、特に高等教育機関で体系的に行うとなると、教師の確保や教材の開発などが必要とな る。対立関係にあった日本人が容易に入国できるわけもなく、組織的に行うには外交関係を 樹立するまで待つ必要があったのだろう。 モンゴルにおいては、1975 年に外交関係樹立、翌 76 年に高等教育機関で日本語教育が始 まるが、民主化が起こった 1990 年までは少数精鋭で、日本語を学んでも就職先がないなど 日本語を特に学ぶ必要性がなかったように思える。それでも外交関係樹立直後に始まったの は、やはり日本との交流が少なからずあったからだろう。外交関係が樹立されると経済的な 交流はもちろん、大使館を設置する必要もある。当時のモンゴルにおける日本語教育の目的
が「日本語・日本研究者養成」であったことを考えても、民間ではなく公的機関で日本語を 扱える人材を確保する必要があったのではないだろうか。 (Ⅲ)のユーゴスラビア、ルーマニア、ブルガリアについては背景が酷似している。ベケシュ によると、日本への関心は 19 世紀末頃からと共通しており、日本研究の手段として文学作 品の翻訳を行っていたが、1960 年から 70 年代までは重訳が主流であったことも共通点とし てあげられる。また、日本研究においても趣味的、ジャーナリスティックな範囲内にとどまっ ており、そのことが高等教育機関のレベルで日本語教育・日本研究が行われるまでに時間を 要していた要因の一つだと考えられる。 キューバに関しては、1962 年のキューバ危機にもみられるようにソ連との結びつきが強 い国であった。その状況に変化が生まれたのは、1991 年のソ連崩壊である。経済的に依存 していたソ連がなくなったことで、新たな経済政策を打ち出す必要があったキューバは観光 客誘致による外貨獲得を目指すことになる。そのことによって、日本語を扱える人材が必要 となり、1992 年の高等教育機関での日本語教育が始まることとなったのである。 6.各国の外国語教育政策 社会主義国に限らず公教育における外国語教育は、国家の思惑でどの言語を学ぶのか決め られることがほとんどである。日本でも外国語教育として英語を学んでいるが、英語でなく ても中国語やドイツ語、ポルトガル語でも良いはずである。なぜ日本での外国語教育は英語 なのか。それは、国家としての発展やグローバル化が進む世界情勢のことを考えると、英語 を学ぶことが他の外国語を学ぶよりも合理的であると国が判断したからであろう。 他にも、オーストラリアは多民族国家であるためそれだけ使用言語が多いのだが、その中 で英語に加え、日本語・中国語・インドネシア語・韓国語が重要であると国家が定めている。 このように外国語教育政策は、国家の何らかの目的や目標の達成に向けて、どの言語を対 象とするか決められることが多い。それでは、社会主義国家における外国語教育政策はどう なっていたのか、また外国語としての日本語がどのように扱われていたのだろうか。今回は ベトナム、中国、チェコスロバキアを例として取り上げる。 ベトナムは先行研究でも述べたように北ベトナムが第二次世界大戦後、社会主義国として 成立した。成立当初は東西冷戦における東側諸国の一員ではなかったものの、社会主義国の 代表であるソ連で使用されるロシア語を重視する政策がとられていた。外国語学校では、ロ シア語の他に中国語と英語を教育していたようだが、中国語という地理的に近いうえに社会 主義国である中国で使用されている言語を教育することは、社会主義国北ベトナムという姿 勢を表しているという見方もできる。
日本語教育については先行研究において述べたように、国家主導のもと留学という形でス タートされた。その後、北ベトナム国内の大学でも始まるが、日本語を学ぶ学生は自主的に 選択した者は少数派であり、多くは国家や親が学ばせた者である。それは、今後の日本との 交流を見据えたものであり、国家主席であったホー・チ・ミンも日本語を扱える人材の必要 性は認めていたため、国家主導となったのであろう。 その後、カンボジア侵攻による「後退期」も迎えたが、1991 年にソ連が崩壊すると、西 側諸国であったアメリカや日本から様々な投資・援助を受けることになる。そのことによっ て、英語や日本語を扱える人材は以前に増して必要となったため、英語教育や日本語教育の 需要は急激に高まっていった。 中国に関しては、本学にも多くの留学生が来日しているが、変遷をたどれば発展と減退を 繰り返していることが分かる。1949 年に社会主義国として中華人民共和国が成立すると、 当初は北ベトナム同様、ロシア語が第一外国語に定められるといったロシア語偏重の方針を とる。しかし、1960 年に中ソの両国が対立すると、英語、ドイツ語、フランス語、日本語 といった西側諸国において使用される言語も重要視されるようになってきた。 ロシア語や英語など言語の違いはあれど外国語教育が行われていた教育現場は 1966 年に 起こった文化大革命で一変する。教師が外国と通じているという理由でスパイ容疑にかけら れたり、研究者が投獄されたりしたことで教育現場は崩壊した。そのことによって日本語の みならず一切の外国語教育が行われなくなる。1976 年に文化大革命は終焉を迎えるが、 1972 年の日中国交正常化にみられるように 1970 年代に入ると中国自体が西側諸国と国交を 樹立するなど、国際情勢の変化に伴い外国語教育の重要性について見直されるようになった。 日本語教育においても国交正常化によって第一次日本語ブームが起き、日本語学習者が急増 した。 チェコスロバキアは調査結果でもみられるように、日本研究・日本語教育が古くからおこ なわれていた国である。歴史的変遷は割愛するが、現在まで日本研究や日本語教育が続いて いたわけではない。チェコスロバキアは 1948 年に社会主義体制に移行すると、ソ連の衛星 国としての役割を担うこととなった。日本語教育に関しては 1947 年に始まり、社会主義体 制においても東洋研究の一部としてその地位を築きあげることとなった。 その状況が一変したのは 1968 年におきた「プラハの春」と呼ばれる社会主義体制の改革 運動であった。改革運動はワルシャワ条約機構軍によって鎮圧されるが、鎮圧後の東洋研究 の処遇についてヴラースタ(1994)は次のように述べている(注 5)。 以前チェコスロバキアの科学の誇りとなっていた東洋研究は「ブルジョアなまかじりの 学問」と指摘されて、計画的に荒らされていった。大学の教師や東洋研究所の研究員達
(プルーシェック所長も含めて)は政治的理由で仕事を辞めさせられ、大学で研究され て来た専門的学問が強制的に減らされていった。 機関として研究が進められなくなった研究家たちは、数少ない資料を基に個人的に研究を 続け現在にその功績を残しているということになる。 以上、3 か国における外国語教育政策、日本研究・日本語教育の処遇について述べてきたが、 ベトナム、中国に共通することとして国家成立当初にロシア語を重視していたことが挙げら れる。これは様々な理由が考えられるが、国家が成立してわずかで基盤が脆弱な中で、同じ 社会主義国でも大国であったソ連と交流を行うために優先的に教育されていたのではないだ ろうか。一方の日本語教育は当時、国交も樹立されておらず西側諸国という対立関係にある 国の言語であるということもあり、重要視されるまでに時間を要したと考えられる。 また、中国における文化大革命やチェコスロバキアのプラハの春にみられるように、国内 で動乱が生じたときに、教育制度そのものが停滞してしまい、外国語教育や研究が減退して しまう。これは民族や東側諸国といった所属の一体性やイデオロギーに起因していると考え られ、特に社会主義国にとって敵であった日本語は排除すべきものであったのではないだろ うか。 7.おわりに 社会主義国における高等教育機関での日本語教育は、ソ連と日本のように地理的近接性に よって古くから行われていたのが受け継がれたり、日本との外交関係樹立をきっかけとして 始められたりと、それぞれの国によって異なっていることが本研究を通して判明した。 また知的探究心から行う個人の研究とは異なり、機関として行う外国語教育に関しては、 そのスタートには何らかの国家の思惑や政治性がはらんでいることも明らかになった。しか し外国語教育政策としてこれは必然であり、社会主義国においてはロシア語を重視する国が 黎明期には多くみられる。 外交関係が樹立される以前で交流が少ない日本語を学習する意義に関しては、自主的に選 択する学生は少数派であり、半ば強制的に学習させられるものがほとんどであった。仮に日 本語を学ぶ意欲があったとしても、卒業後に就職できる企業はほとんどなく、学習者が自ら 学習する意義を見出すことはほとんどなかったと考えられる。 今回の調査は一国が対象となることが多かった社会主義国における日本語教育史について、 対象を東側諸国全体に広げることで様々な共通点を見出すことが出来た。しかし、ソ連の崩 壊や東欧諸国の民主化からすでに 30 年近く経っていること、社会主義国で行われていた情
報統制などもあり、十分な情報を集められたとは言い難い。またすべて文献調査としたため、 開始当時の詳細な日本語教育事情については把握することができなかった。今後はソ連崩壊 後に独立した国家や、民主化が起こった後の東欧諸国における日本語教育事情の詳細につい ても調査し、比較を行うことで社会主義国における日本語教育の特徴についてより明確に示 す必要があると思われる。 注 ⑴ 松村明(2006)『大辞林 第三版』p.1154 ⑵ ルィービン・ヴィクター(2006)「〈研究ノート〉サンクト・ペテルブルグ(ロシア)に おける日本語学習と日本研究の 300 年のあゆみ」p.274 ⑶ 藪崎義雄(2006)「ロシアにおける日本語教育の現状と問題点」p.150 ⑷ 図 3 においては 1956 年となっているが、ヴィクター(2006)において 1898 年には大学 に日本語学科が設立されたと記述されていることから(Ⅰ)に分類した。 ⑸ ヴラースタ・ヴィンケルホーフェローバー(1994)「チェコスロバキアにおける日本研究」 p.151 〈参考文献〉 ヴラースタ・ヴィンケルホーフェローバー (1994)「チェコスロバキアにおける日本研究」 国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー『 日 本 研 究: 国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 紀 要 』 第 10 巻 pp.149 − 155 外務省(1960)「わが外交の近況(第 4 号)」 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1960/s35-contents.htm (2020 年 5 月 25 日アクセス) 外務省(1974)「わが外交の近況(第 18 号)上巻」 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1974_1/s49-contents.htm (2020 年 5 月 25 日アクセス) 外務省(2019)「国・地域 アルバニア共和国」 https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/albania/index.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 外務省(2019)「国・地域 ブルガリア共和国」 https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bulgaria/index.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 外務省(2019)「国・地域 ルーマニア」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/romania/index.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 外務省(2020)「国・地域 キューバ共和国」 https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cuba/index.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 外務省(2020)「国・地域 チェコ共和国」 https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/czech/index.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 外務省(2020)「国・地域 ポーランド共和国」 https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/poland/index.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 木村靖二、岸本美緒、小松久男(2017)『詳説世界史研究』山川出版社 p.329、506、513 国際交流基金(2017)「日本語教育 国・地域別情報 アルバニア(2017 年度)」 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/albania.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 国際交流基金(2017)「日本語教育 国・地域別情報 キューバ(2017 年度)」 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/cuba.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 国際交流基金(2017)「日本語教育 国・地域別情報 セルビア(2017 年度)」 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/serbia.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 国際交流基金(2017)「日本語教育 国・地域別情報 チェコ(2017 年度)」 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/czech.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 国際交流基金(2017)「日本語教育 国・地域別情報 ハンガリー(2017 年度)」 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/hungary.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 国際交流基金(2017)「日本語教育 国・地域別情報 ブルガリア(2017 年度)」 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/bulgaria.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 国際交流基金(2017)「日本語教育 国・地域別情報 ベトナム(2017 年度)」 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/vietnam.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 国際交流基金(2017)「日本語教育 国・地域別情報 ポーランド(2017 年度)」 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/poland.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 国際交流基金(2017)「日本語教育 国・地域別情報 ルーマニア(2017 年度)」
https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/romania.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 国際交流基金(2017)「日本語教育 国・地域別情報 ロシア(2017 年度)」 https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/russia.html (2020 年 5 月 25 日アクセス) 孫暁英(2014)「中国の外国語教育に関する一考察―大平学校における「文革世代」の学び に焦点をあてて―」早稲田大学大学院教育学研究科 『早稲田大学大学院研究科紀要』 別 冊 21 号第 2 巻 pp.25 − 35 ダンザンニャム=ブレンチメグ、馬場久志(2009)「モンゴルにおける日本語学習者の現状 と課題」埼玉大学教育学部 『埼玉大学紀要』教育学部第 58 号第 2 巻 pp.145 − 157 坪田珠里(2017)「社会主義国家ベトナムの日本語教育政策の変遷とその目的(1945 年∼ 1991 年)―外国語教育政策の史的展開に位置づけて―」日本語教育学会 『日本語教育』 第 168 号 pp.40 − 54 羽太園(1991)「旧東ドイツ フンボルト大学の日本語教育とドイツ統一」日本語教育連絡 会議 『日本語教育連絡会議第 4 回総合報告書』 pp.7 − 9 ベケシュ・アンドレイ(1991)「東ヨーロッパにおける日本語教育概観」明治書院『講座日 本語と日本語教育 16 日本語教育の現状と課題』pp.147 − 165 松村明(2006)『大辞林 第三版』三省堂 p.1154 丸山敬介(1995)「「留学生 10 万人計画」以後の日本語教育」同志社女子大学 『同志社女子 大学日本語日本文学』第 7 号 pp.76 − 101 藪崎義雄(2006)「ロシアにおける日本語教育の現状と問題点」創価大学大学院 『創価大学 大学院紀要』第 28 号 pp.149 − 172 ルィービン・ヴィクター(2006)「〈研究ノート〉サンクト・ペテルブルグ(ロシア)におけ る日本語学習と日本研究の 300 年のあゆみ」国際日本文化研究センター 『国際日本文化 研究センター紀要』第 32 巻 pp.261 − 284
Jelena GLISIC(2016)「Balancing among Superpowers: Japan-Yugoslavia Relations during the Cold War」http://japan.tsukuba.ac.jp/research/JIAJS8_ON2_Glisic.pdf
(2020 年 5 月 25 日アクセス) (のぐち しんたろう・本学大学院在学)