観光における「真面目」と「遊び」[Ⅱ]
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(2) 研究ノート. 期に形成され、いまだに人びとの意識に広く浸透しているものと思われる。 ディスカバージャパン・キャンペーンやアンノン族に象徴される 1970 年 代の観光では、 徐々に目的の多様化が進んでいく。また、女性中心の小グルー プによる文化的体験やショッピングなどを目的とする観光が前景に現れてく る。しかしながら、観光メディアや旅行会社の影響力は大きく、短期滞在の 消費志向の強い観光という傾向は維持されていく。特に、1980 年代に急速 に拡大した海外旅行では、パッケージツアーの隆盛をみることになった。 このように、高度成長期以降の観光における 「遊び」は、一見すると無規範 的かつ自己目的的であるかのように映る。しかし、観光が遊びの性格を強め たとしても、それは何も制約されることのない自由な行為や活動であったの だろうか。 もちろん、この時期の観光は戦時体制下のような偏狭なナショナリズムと 結びついた厳格主義や当為の原理としての 〈聖〉 によって束縛されるものでは ない。しかしながら、観光の目的に関して言えば、何を見るべきか、あるい は、どこを訪れるべきかという、文化的な規範としての〈聖〉は一定の影響力 を保っていた。観光において見るべき価値のあるモノについては、史跡や名 勝、歴史のある寺社、国宝等の文化財を典型として、ある程度、共通に認識 されていた。つまり、教養主義的な観光という真面目な〈聖〉の側面は、この 1. 時代にも引き継がれている 。これらの伝統的な文化と並んで、大きな影響 力をもつ価値規範は社会の「進歩」であろう。すでに 3 節でもとりあげた博覧 会は、近代のナショナリズムを牽引する恒常的な装置であるが、それは「進 2. 歩の時代」を象徴するイベントでもある[内田 2004 : 178 ]。第二次大戦後、 科学技術の応用によって社会は進歩し続けるという観念は、この博覧会にお いて繰り返し確認されていく。大阪万博の後、1970 年代に入ると近代以降 の進歩主義は陰りを見せ始めるものの、1980 年代末の地方博覧会ブームま では、相変わらず技術によって問題を解決し社会の進歩を遂げようとする意 識は一定の力を保持していた。 高度成長期以降の観光における遊びにおいて、 〈俗〉との関連はいかなるも のか。ひとつには、労働と余暇の関係からみたときの観光の〈遊〉の位置づけ 88.
(3) 観光における 「真面目」 と 「遊び」 [Ⅱ] 3. を考えなければなるまい 。この時期の資本主義経済の展開は雇用労働者層 をいっそう拡大したが、遊びは彼らの労働の疎外を一時的に補償する働きを もっていた。気力・体力の回復であれ、憂さ晴らしというストレス発散であ れ、日々の労働のために役立つ限りで遊びに価値が与えられるという意味で は、それは自己目的的なものとはならない。余暇としての観光の〈遊〉は、労 働という 〈俗〉 を従属的に補完しているということになろう。 ふたつには、生産と消費の関係からみたときの観光の〈遊〉の位置づけが問 題となる。現代の遊びの多くは、産業によって生産されるサービスや商品の 消費によって実現するし、その範囲は拡大し続けている。観光も交通、宿泊、 飲食、土産等の諸もろのサービスを購入し、それらを連続的に組み立ててい くことで実現できる行為である。高度成長期には、文字通りそれらをパッケー ジした観光旅行商品が登場し、消費されるようになった。また、移動や宿泊 といった基本的なサービス機能だけでなく、観光の目的となる遊び自体が商 品として次つぎ生産され、提供される。企業間の市場競争によって、常に新 しい商品が企画、開発され、それらは人びとの観光への欲求を拡大していった。 さらに、高度成長の終焉からバブル経済の破綻に至る時代は、商品本体の 機能よりもデザインやイメージといった記号に比重をおいた消費が顕在化 し、この商品の差異化による再生産の経済循環が、資本主義を支えるひとつ のシステムとして展開するようになる。観光も、いわゆる記号消費社会の一 分枝としての性格を色濃くもつようになったのである。 もっとも、近代に成立した観光は、最初から記号消費的な性格をもってい た。しかしながら、名所・旧跡や寺社、自然の景勝などが主な観光の対象で あった時代には、記号の内容は、歴史的な故事や逸話、人物や詩歌など、そ れらに張り付いている既存のイメージに依存せざるをえない。だが、高度成 長期以降には、人工的な娯楽環境を創出する技術の発達を背景に、観光アト ラクションへの積極的な資本投下が行われ、観光の記号消費的な性格は人為 的、 計画的なものへとその質を変化させていく。資本は、自ら魅力的な“文化” のイメージを生み出しコントロールすることで、人びとの欲求を創出し消費 を誘う。外国、歴史、宇宙、おとぎ話、民族等々、様ざまな表象がその典型 地域創造学研究. 89.
(4) 研究ノート. 的なイメージを基に三次元の事象として立ちあげられ、それらの記号が次つ ぎに人びとに提供され、集客装置として機能する。その象徴が 1983 年に開 園した東京ディズニーランドであることは言を待たないだろう。ここに、巧 妙に設えられた装置や環境で構成される閉鎖空間の演出を楽しむ遊びが登場 し、その後の観光を代表するひとつの形となっていく。 マスツーリズムの発展過程では、教養主義的な意味づけは残るものの厳格 主義や当為の原理としての 〈聖〉 は大幅に退き、気晴らしや息抜きの〈遊〉が優 位に立つ。しかし、 遊びの性格や意味は、 経済システムという〈俗〉領域によっ てますます強く枠づけられるようになっていった。. 5.現代の観光における「真面目」の復権 ? マスツーリズムの隆盛は、観光が遊びへ重心を移動していくことを結果し たが、それは同時に多くの問題の表出をともなった。たとえば、パック旅行 での観光では、すべてが設えられており、観光客の経験や行動は表層的で 受動的なものにとどまるという指摘がなされた[ブーアスティン 1964 : 97 ]。 また、観光メディアの広めたイメージがステレオタイプのものであり、観光 客もそうしたイメージを追認するだけで、実際の国や地域あるいは民族の理 解にはつながらないといった批判も現れた。 さらに、マスツーリズムは、ホテルやレジャー施設等の開発を推し進め、 自然環境への負荷を増大させた。ゴミ、騒音、風紀の悪化等の観光公害を現 地にもたらし、個人主義や拝金主義を助長し、ホスト地域社会の結びつきを 弱めるといったことや、観光の対象となる文化を変容させ、ショーや土産と 4. して商品化するなど、様ざまな問題が指摘されてきた[安村 2005 : 12-13 ]。 1980 年代になると、気晴らしや娯楽を追求する大量消費的な観光への反 省も出てくる。マスツーリズムへの批判は、オルタナティブツーリズム、後 にはサスティナブルツーリズムという新たな観光の提唱に結びついていっ た。新たな観光は、エコツーリズム、グリーンツーリズム、スタディツアー、 エスニックツーリズム、フィルムツーリズム、産業観光、都市観光など、多 様な形で展開しつつある。目的や行先によって偏差はあるものの、これらの 90.
(5) 観光における 「真面目」 と 「遊び」 [Ⅱ]. 観光は、環境との共生、現地ホスト社会や文化の尊重、滞在による交流や体 験、既存の資源活用などの要素が組み込まれた概念として提起されている。 ここでひとつ注目されるのは、新しい観光の多くが“ツーリズム”という呼 称をとることである。これは、 観光の負の側面が問題視されるにつれ、 “観光” という語彙がマイナスイメージでもってとらえられていたことを示していよ う。環境との共生、人と人の交流といった新しい観光の理念を込めるために は、入れ物としての言葉も手垢のついていないものが求められたのである。 人びとの一般的な社会意識の変化として、 「環境保全」 、「心の豊かさ」 「人 間らしさの回復」 、といった新しい〈聖〉の眼目が前景化し、観光の領域にお 5. いても、理念や理想を表す指標としての役割を果たすようになる 。換言す れば、観光における真面目の復権が図られるようになる。この変化を示す具 体的な社会現象として観光まちづくりをあげることができよう。1990 年頃 に、日本の観光は一つの曲がり角に達したと考えられる。旧来の温泉観光地 の経営やリゾートブームで採用されたような、大型施設開発によって地域の 観光を促進するという思考や方法が限界を迎えた。その一方で、地域固有の 歴史・文化・産業・生活等の資源を見直してアレンジを施し、独自の魅力を 発信して外部からの来訪と評価を高め、地道に観光を発展させるような手法 が注目されるようになった。そして、それまでの開発主義的な大量消費に対 応した観光から、地域の個性や独自性に根差し、交流や体験を重視する観光 を志向する議論、すなわち観光まちづくり論が登場してくる。そこでは、観 光を産業と行政の領域に限定せず、 住民も含んだ地域のテーマとしてとらえ、 住みよいまちづくりが観光につながるという主張が展開された。つまり、外 部に依存せず、自ら内発的にまちづくりを進め、地域の自然・社会環境の許 容量を配慮して観光と産業と環境のバランスを維持するシステムの構築をは かることが提起されたのである。眼目となる地域の主体性と持続可能性は、 観光をめぐる新たな 〈聖〉 を示す理念である。 もっとも、こうした理念も、ほどなく政府の政策や旅行業のプロモーショ ン活動に回収されだし、新たな展開をみることになる。観光まちづくりは、 地域経済の活性化や訪日外国人旅行者の増加といった目的と連接され、再び 地域創造学研究. 91.
(6) 研究ノート 6. 経済という〈俗〉の領域に取り込まれていく 。つまり、政府による観光まち づくりの政策化であり、地域による観光まちづくりの経営戦略化である[堀 野 2016 ]。 一方、 〈遊〉 と 〈聖〉 の関係はどうか。新しい観光の登場によって、 〈遊〉は〈聖〉 の光のもとに雲散霧消してしまうのだろうか。たとえばグリーンツーリズム では、観光客が農作業や田舎の生活を体験し、現地のホストと交流をはかる ことが大きな目的となっている。しかし、それは実際にホストと同じ労働や 生活をするわけではない。疑似的に、いわばお試しで体験しているにすぎな 7. い 。それは、社会的に成果をあげる必要性や、失敗が許されない厳しさと は別の次元で、労働を遊び、生活を遊んでいるのである。. むすびにかえて 近世以降の観光における 「真面目」 と 「遊び」 を考えてきた。観光の本義とし て使われてきた 「国の光を観る」 という言葉は、金科玉条のごとく時代を超え て掲げられてきた。現代の観光の議論でも、観光が単なる遊びではなく、何 かそれ以上の意味や価値を加えて、個人や社会に役立つものであるべきだと いう意識が強く表れていよう。それは見方を変えれば、常に実際の観光が、 優れた文物への理解とは異なる一時的で気楽な物見遊山の行為とみなされて きたからだろう。 しかし、真面目と遊びは二項対立的な関係ではない。遊びは真面目に緊縛 される一方で、それをタテマエにしてしぶとく持続してきた。観光は真面目 に「国の光を観る」 こととして説明することもできないし、かといって、単純 に気楽に遊ぶこととして説明することもできない。また、観光は生産・消費 という経済行為の 〈俗〉 領域からも強く影響を受け、遊びの内実が左右されて きた。観光は〈聖〉 〈俗〉 〈遊〉の相互依存と循環のなかで発展を遂げてきたの であり、それらの交錯し、ときに矛盾する統一体のダイナミクスとして展開 してきたものと考える。 本稿では、こうした構造および動態として観光の真面目と遊びをとらえ、 その歴史的変遷を追うことを試みたが、あくまで仮説的に輪郭をラフに描い 92.
(7) 観光における 「真面目」 と 「遊び」 [Ⅱ] 8. たにとどまっている 。今後もさらに視野を広げて、観光における「真面目」 と「遊び」 の関係をより深く追究し、明らかにしていきたい。. [注] 1. 2. 3. 4 5 6. 7. 8. 観光基本法( 1963 年制定)では、国が保護、育成及び開発を図る対象を「史 跡、名勝、天然記念物等の文化財、すぐれた自然の風景地、温泉その他産業、 文化等に関する観光資源」と規定していた。 内田によれば、進歩とは神が死んだ時代=近代においてなお宗教的な信仰 心を維持するひとつの仕方であるという。万博は展示する工業製品や建築 物を生み出した技術を通じて、「人間の勝利」=超越論的主体を誇示する儀 式なのである[内田 2004 : 178 ]。 藤村正之は、 「仕事と遊びの社会学」について、労働・余暇、生産・消費、真剣・ 距離という三つの枠組みを設定し、これらの二項の関係性のなかにとらえ ている[藤村 2008 ]。 ただし、マスツーリズムの評価については推進・批判の両論があり、多様 な視点から議論されている。たとえば大橋 2011 を参照。 二つの大震災を経験した今、さらに「絆」という価値規範が加わることになる。 本論とは異なる視点からではあるが、観光と遊びについて遠藤英樹が興味 深い指摘をしている。遠藤によれば、観光という遊びは一度たりとも資本 主義の外部に出たことはないという。しかしながら、観光に参与する人び とが偶然的に創る相互の交歓=宴の場において、遊びは資本主義の枠を抜 けでて自存する瞬間がありうるとし、これをコンヴィヴィリアリティとし て想定し議論を展開している[遠藤 2010 ]。 真面目と遊びは、単純に二項対立としてとらえきれない錯綜した関係にあ る。チクセントミハイが指摘したように、何かに没入して快の感情を抱く フローとしての体験は、いわゆる遊びだけでなく、労働や仕事にも存在する。 逆に、遊びに真剣に没頭する状況は、仕事に専念しているときのそれと類 似してもいる[チクセントミハイ 1979 ]。しかし、カイヨワが言うように、 遊びのなかでは、思い切った冒険や実験が可能だが、その結果、みごとに 失敗しても、結局のところたかが遊びであり、実質的に「何が駄目になった わけでもない」 [カイヨワ 1990 : 25 ]。遊びのように仕事をすることは、あ 4 4 4 くまで「遊びのように」であって、遊びそのものにすることはできない。反 対に真剣に遊ぶという現象もみられる。真面目に遊ぶことは、その満足を 高める上で重要である。しかし、その遊びの真剣の度が過ぎて他者や外部 に影響を及ぼすのであれば、もはや遊びの域を超えてしまう。 上述したように、遊びが、労働・生産に対して従属的な位置を占めるとし ても、一方で、そうした遊びは、距離というパースペクティブを内在させ 地域創造学研究. 93.
(8) 研究ノート るものでもある。その働きは、ひとつは〈聖〉との距離化であり、観光を理 想化し、当為の領域へと緊縛しようとする力から相対的に自由であろうと する。もうひとつは〈俗〉との距離化であり、観光を手段化し、生産・消費 のサイクルに回収しようとする力から相対的に自由であろうとする。. [参考文献]. 遠藤英樹 2010「観光の快楽をめぐる「外部の唯物論」」遠藤英樹・堀野正人編『観 光社会学のアクチュアリティ』晃洋書房 大橋昭一 2011「現代マスツーリズムの特性についての一考察 ── バナル・マス ツーリズム論の展開」 『 関西大学商学論集』第 56 巻第 2 号 ダニエル・J・ブーアスティン 1964(星野郁美・後藤和彦訳) 『幻影(イメジ)の時 代 ── マスコミが製造する事実』東京創元社 M. チクセントミハイ 2000『楽しみの社会学 *改題新装版』新思索社 藤村正之 1995「仕事と遊びの社会学」井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・ 吉見俊哉編『仕事と遊びの社会学』岩波書店 堀野正人 2016「観光まちづくり論の変遷に関する一考察 ── 人材育成にかかわ らせて」 『地域創造学研究』32(『奈良県立大学研究季報』第 27 巻第 2 号』 ) 守屋毅 1989「「遊び」を考える視角」守屋毅編『日本人と遊び』ドメス出版 安村克己 2005「開講案内 観光事業にかかわる現代観光の動向」安村克己・細野 昌和・野口洋平編『観光事業論講義』くんぷる ロジェ・カイヨワ(多田道太郎・塚崎幹夫訳)1990『遊びと人間』講談社(講談社 学術文庫). 94.
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