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関東大震災後の福田徳三の生存権論の「転回」: 借地借家臨時処理法(大正13年法律第16号)への理論的寄与の研究

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関東大震災後の福田徳三の生存権論の

「転回」―借地借家臨時処理法(大正

13年法律第16号)への理論的寄与の研究

清 野 幾久子

[目次] 一 序 福田徳三研究における第3期と本稿の課題  1 福田徳三の生存権論  2 第3期の課題 二 福田「経済復興は先づ半倒壊物の爆破から」論文の背景  1 関東大震災と借家法(大正10年法律第50号)  2 新聞等に見る議論状況と民法学の通説 三 福田「経済復興は先づ半倒壊物の爆破から」論文の検討  1 関東大震災後の3つの課題と借地借家問題  2 借家法の問題点と法の解釈  3 法の解釈の限界と生存権  4 法律の嚮導原理としての生存権の主張  5 生存権論の水準と内容=生活本拠権、居住権 四 結びにかえて―「人間」を見た生存権論と残された課題  1 「人間」を見た生存権論と社会法  2 「借地借家臨時処理法」要綱との関係  3 法の社会化、社会法論との関係  4 残された課題

一 序 福田徳三研究における第3期と本稿の課題

1 福田徳三の生存権論  本稿は、経済学者、社会政策学者であり、明治・大正期を通じての代 表的イデオローグであった福田徳三博士(1874(明治7)~1930(昭和

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5)年。以下敬称略)1が、1923(大正12)年9月1日に起こった関東大震 災直後の時期に、その復興経済のあり方について論じた諸論稿のうち、 「経済復興は先づ半倒壊物の爆破からー『生存権擁護令』を発布し私法 一部のモラトリウムを即行せよ」2(以下、「経済復興は先づ半倒壊物の 爆破から」と略する)をとりあげ、これを借地借家問題について当時私 法分野で行われていた議論と関連づけながら分析し、そこに表れた福田 の生存権論の特徴について憲法の観点から整理し、検討を加えることを 目的とする。この作業は、また、1923(大正12)年の借地借家臨時処理 法(法律第16号)に対する福田の理論的寄与を研究するための前提とな るものである。  筆者は、1984年以来福田徳三の生存権論を研究してきた3。福田は、 1 福田徳三(明治7年~昭和5年)。東京高等商業学校卒。1900年からドイツに留学しブレン ターノに師事、ミュンヘン大学に独文の著書『日本経済史論』(邦題)を提出、博士号を得 る。1905年法学博士。東京高商教授、慶應義塾大学教授、東京商科大教授を歴任。経 済学、社会政策学、時事問題等多くの著書がある。「福田・河上論争」でも知られるように 多方面で発言、論争提起的人物でもあった。その主なる業績は46判通計10645頁にわたる 『福田徳三経済学全集』(以下「全集」と略す)9冊にまとめられている。その他、『厚生経 済研究』上下(1930)などがある。福田徳三の思想については戦前もまたは戦後も、必ずし も正当に評価されていたとは言い難い。このような中で、1974年の段階で福田徳三の社会 政策論を「福祉国家論の先駆」と位置づけその後の研究に刺激を与えたものとしてまず 特筆すべきなのは、池田信「福祉国家論の先駆―福田徳三の社会政策思想」『日本労働 協会雑誌』187号(1974年)である。その後の社会経済史学から優れた分析として、宮島 英昭「近代日本における“社会政策的自由主義”の展開―福田徳三の『生存権論』の史 的分析」史学雑誌92編12号(1983年)参照。 2 福田徳三「経済復興は先づ半倒壊物の爆破からー『生存権擁護令』を発布し私法一部 のモラトリウムを即行せよ」大正12年9月24日―25日認む『我観』1923(大正12)年12月15 日掲載、『福田徳三経済学全集6・下(経済政策及時事問題)』(同文館、1926年)1885― 1921頁。以下、福田の全集からの引用においては、「全集・巻数(上・下)頁数」で示す。な お、本稿では、福田の論稿及び当時の他の文献についても、引用に際しては、旧字は新字 に、旧仮名遣いは、現代仮名遣いに改めたが、原文のニュアンスを伝えるため、一部旧字 でそのまま表記した箇所もある。 3 筆者の福田徳三研究を年代順にあげると、以下の①~⑥となる(以下必用に応じて、拙 稿①、②・・とする)。①清野幾久子「福田徳三における『生存権論』の受容とその展開」明 治大学大学院紀要21(1984)、清野幾久子「福田徳三の『国体』・『国本』論」札幌法学2-2 (1991)、③清野幾久子「福田徳三における国家論としての国体論――生存権と非侵

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明治・大正期における社会主義、労働問題研究の先駆者であり、「反自 由放任、反社会主義」を標榜していた「日本社会政策学会」の有力会員 であり、その立場は、自由主義的社会政策ともいわれる。従って、福田 を憲法学者ということはできないが、日本国憲法制定以前の戦前の時代 に受容・展開された福田の「生存権論」は、「単なる翻訳による思想の 『直輸入』にとどまらず、自己への同化、批判という作業を経て、日本 の現状に適応すべく『展開』され」、「反社会主義という『改良』の枠 内にはとどまるが―同時期の国法学者・法律学者にすらみられない、明 治憲法の統治原理に肉迫する、という部分内容を含むのである。」とい うのが、研究当初から一貫する筆者の福田評価である(拙稿①82頁)。 2 第3期の課題  筆者は、福田徳三の生存権論を研究するにあたり、それを日本資本主 義の発達と関連づけながら、第1期(1901(明治34)年―1917(大正6) 年、第2期(1918(大正7)年―1922(大正11)年)、第3期(1923(大正 12)年―1930(昭和5)年)の3つに時期区分した(拙稿①84-85頁)。こ の筆者の時期区分では、関東大震災が、第2期と第3期を分ける指標とな っている4  ちなみに筆者は、この第3期について、「世界資本主義の『1920年代 の相対的安定期』に対して、日本経済は自らの構造的矛盾を露呈、世界 資本主義に対してずれ込んで全般的危機の時代に入る。以後恐慌と不況 の繰り返しが続く。第2期以来の、内外の労働運動・社会主義運動の高 揚への対処、ILO体制への最低限の適応の必要等から、政府は反体制的 な運動を徹底的に抑圧する一方、1902年(明治35年)の工場法に典型的 略の国家構想」法律時報68-11(1996)、④清野幾久子「福田徳三の生存権論と『社会王 制論』----大正期におけるL.v.シュタイン『受容』問題」法律論叢69-3、4・5(1997)、⑤清野 幾久子「福祉国家論と生存権論――日本とドイツ」杉原泰雄・清水睦編『憲法の歴史と比 較』日本評論社(1998)、⑥清野幾久子「1920年代の日本・オーストリーにおけるくらしと憲 法――福田徳三とL. v. Stein」明治大学文学部(2005年)。 4 この時期区分の指標等についても、拙稿①(1984)84-85頁を参照されたい。

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な生産主義的労働政策の転換をせまられ、内務省外局として社会局設置 (1922年)。翌年福田は新社会局の参与となり5、以後実践的に政策提案 をする。」としている(拙稿①85頁)。  その後、第1期については拙稿①で比較的詳細に、第2期については、 拙稿①に加え、その後の拙稿②③④⑤で検討してきた。  筆者は、第3期について、拙稿①で、それまで、いわば机上の議論とし て論じられてきた福田の生存権論が、関東大震災という「現実」に触発 されて転回を見せ、自ら組織した被災地調査によって、福田の生存権論 の幅が、「所有権の濫用の制限」、「『極窮権』の発動」ということま で広がりを見せ、生存擁護のために「勅令」を発布することまで求めた こと、福田が内務省外局として設置された新社会局の参与となり、また その後帝国経済会議の議員となり、1924年(大正13)年の「借地借家臨 時処理法」案(諮詢に対する答申。同法の具体的改正案を要綱として示 している。以下、「借地借家臨時処理法」要綱とする)をまとめ、同法 立法化の道を開き、また、1925年(大正14)年発表の、「職業紹介事業 改善案」の作成に携わったことなどを、筆者なりに道筋を立て、文献を 引用しながら述べた(拙稿①92-94頁)。  とりわけ、筆者は、1984年の時点で、福田が、関東大震災後の復興は 物の復興ではなく、「人間の復興」でなければならない、と述べている ことに注目し、これを指摘していた(拙稿①93頁)ので、2011年の東日 本大震災以降の福田への再評価の動き6は、社会思想家としての福田への 一般的理解を促進させ、含蓄多い福田理論への再評価の機運の高まりと して、大変喜ばしいことに感じている。  この第3期の福田の生存権論について、筆者は、現在でも拙稿①で行っ 5 池田信「労使協調政策の形成――内務省社会局(外局)設置の意義について」『日本労 働協会雑誌』1978年1月号17頁。 6 東日本大震災をきっかけとして福田徳三を広く再評価する動きの一つとして、2012年7月31 日放映のNHK取材班によるETVのシリーズ『日本人は何を考えてきたのか』の第9回(大 正期)で、「河上肇と福田徳三」が取り上げられたことは、人間の復興を主張する生存権 学者である福田徳三の存在が広く一般に周知されるのに役だつものとして、特筆に値する であろう。

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た分析視角や枠組、内容を変更する必要はいささかも感じていないが、 内容的にまだまだ論じ足りないところが多いことも事実である。  具体的には、(1)社会政策学会左派と目され、大正期には吉野作造ら とともに黎明会を組織して、「デモクラシー」や自由、生存権について 活発な言論活動を行っていた福田が、なぜ、社会局の参与となったのか という、福田と社会局との関係、(2)―1 経済会議における福田の位置 づけと役割、とりわけ、「借地借家臨時処理法」要綱をまとめた経緯と その内容、(2)―2 同じく、中央職業紹介委員会委員としての福田、 とりわけ福田がまとめた「職業紹介事業改善案」の作成の経緯とその内 容、(3)これらの福田の社会法立法化に向けての活動と、福田の第3期 の生存権論のさらなる「転回」との関係が課題として残されている。  この第3期の残された課題、(1)、(2)―1について、筆者は、本稿と 同時期に発行予定(2014年3月末)である論文でいささかの検討を試みた7  同論文では、まず、当時の社会局と福田の考えが「連動」しているこ とを示し、関東大震災後という非常時・緊急時態という限定つきなが ら、「戦前日本において成立した貴重な社会法の一つ」たる「借地借家 臨時処理法」要綱案の作成において、その舞台となった大型審議会であ る帝国経済会議を構成する議員の中において、黎明会の後継団体とも言 える、吉野・福田らを中心とした、緩やかな人的結合である「二十三日 会」を基礎とした、「福田徳三・末弘厳太郎・賀川豊彦というトリオ」 が存在したことを示した。とりわけそのトリオの中でも、「福田・末 弘」の連携のもとで、当初内務大臣から諮詢された内容が一部変容・限 定化され、被災した借家人保護の内容を含む、「借地借家臨時処理法」 要綱案が作成されたという、いわば「人的つながりから見た経緯」を示 すことができたと思う。  しかしながら、福田は、この「借地借家臨時処理法」要綱の成立につ いて、職業紹介事業改善案と並んで、「私の主張の一部が容れたれた」 7 清野幾久子「関東大震災後の福田徳三の生存権論―社会局、帝国経済会議との関係 を中心に」『明治大学法科大学院論集』第14号所収(2014年3月発行予定)。

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と述べている8。では、関東大震災で顕在化した借地借家問題について、 福田はどのような考えを有していたのか。上記課題の(2)―1を考察す るためにも、それを明らかとすることが必要である。  本稿はこの問いに答えるための作業であるという面を持つ。この作業 を通じて、「民法学者でもなければ、法律学者もない」福田の法解釈の レベルを知り、当時の他の法学者の議論と比較することにより、「憲法 学者でない」福田の生存権論の憲法的検討についてのヒントなりを得た いと思う。  その際、福田の議論のありのままの姿を描出することに努め、当時の 政治的状況における福田の立ち位置や、生存権論の「正統性評価」、思 想問題を含め、福田への「政治的評価」を加えることは、本稿の目的と するところではないことをお断りしたい。

二 福田「経済復興は先づ半倒壊物の爆破から」論文の背景

1 関東大震災と借家法(1921(大正10)年法律第50号)  この福田論文は、関東大震災後二ヶ月も経たない、10月15日付の雑誌 「我観」に掲載されている。背景としては、9月1日の大震災とそれに引 続く大規模火災によって、東京で17万人を超える人々が焼け出され、罹 災者となったということがある。当時の東京は、持ち家というものがほ とんどない状況で、貧富や職業を問わず、9割以上が借家暮らしをする借 家人であったとされることは9、記憶に留めるべきことである。  このような中、家屋の消失により住む家や営業の本拠を失い、行き場 を無くした人々(元借家人)が、消失家屋の跡地にバラックといわれ る仮小屋を造って雨露をしのぎ、生活の本拠としたという実態があった (以後、当時論壇でよく使われていた「バラック」という言葉を使っ 8 これについては、福田は次の二箇所で述べている。福田徳三「復興経済の原理及序の 二」全集6・上16頁、および、前出、福田註2論文1921頁。 9 渡辺洋三『土地・建物の法律制度』上(東京大学出版会、1960年)363頁参照。

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て、バラック建造という)。震災後直ちに学生とともに、3万数千人の罹 災者調査をした10福田徳三は、この実態につき、身を以て見聞きするこ とになった。  しかし、当時施行されていた借家法(1921(大正10)年法律第50号) は、民法の賃貸借規定を前提としつつも、ア、「引渡し」を要件に借家 権の対抗力を実質的に認め、イ、一定の借家権の存続を図り、ウ、賃借 人の造作買取り請求権を認めるなどしたが、借家権の存続保護において 不十分であり、期間の定めのない借家権は6月前の解約申入れで終了でき ることになっており、さらに期間の定めがある借家権であっても、以前 の賃貸借と同一の条件で賃貸借をなすものとみなすことにおいて一定の 制限があり、借家人に再築建物への権利を認めるような規定も存しなか った11  他方、社会実際上は、「借家権」は存在し、売買すらされるものであ った。当時施行されていた借地借家調停においては、裁判所が認めない 「引越料」の名目で、借家権の売買が認められるという、実態に即した 運用も行われていた12  かかる「実態に即した運用」は別として、借家人の保護が十分とはえ いない借家法については、成立当初から批判があり、帝国会議に毎年の ように改正法案が提出されており、そこでの議論の貴重な積重ねもある が、大正期にはその抜本改正は行われなかった13  いずれにしても、法の規定の不備・不十分に加え、関東大震災と大 火災という不可抗力による建物喪失という事態が起こった。借家法を 10 福田のこの調査は、例えば、9月10日から14日まで延べ5日間にわたって行われ、対象者は 老若男女合計3万2千人余にのぼった。福田はその結果につき、直ちに雑誌『太陽』に掲載 し(『太陽』1923.11.1号、同年12,1号)、早急な失業対策などの実施を含む主張を行い、広 く社会問題化した。これらの論文は、全集6・下に所収されている。 11 この1921(大正10)年の借家法につき、稲本洋之助・小柳春一郎・周藤利一『日本の土地 法―歴史と現状』(成文堂、2004年)32頁など参照。 12 その実態に即した運用の例として、例えば、『法律新聞』2166号(1923(大正12年)10月5 日12頁など参照。 13 渡辺洋三『土地・建物の法律制度』上(東京大学出版会、1960年)393-407頁参照。

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建前どおり適用すると、建物という物権が消滅し、建物から焼け出さ れた(元)借家人14が、焼けてしまった家の跡(焼跡)に、バラックを 自力で建造し、そこで雨露をしのいでいるという場合には、借家法には (元)借家人の権利を守る規定がないのであるから、バラック建造は違 法となってしまう。賃貸人である土地所有者等が妨害排除請求を提起し た場合、借家人が路頭に迷うという問題が生じたのである。  しかも、震災後の利潤追求からする地震売買がこれに追い打ちをかけ た。(元)借家人は、新家主や新地主よりも立退きを迫られ、追出しを かけられるという状況が広く生じ、実態として、多数の行き場を無くし た人々が数多く存在し、借地借家紛争が多発した15 2 新聞等に見る議論状況と民法学の通説  これらの借地法の不備は、震災後の借地借家問題として多くの人々の 実生活にかかわる事柄であったので、直ちに社会問題化した。例えば、 東京朝日新聞では、この事態を受け、はやくも9月20日に「本社仮事務所 内に 法学博士 岩田宙造氏を顧問とする、『震災善後法律相談部』を 設けた」旨を報道し、バラック問題について、「岩田宙造氏」の次のよ うな法律解釈を掲載している。  「借家契約は、家の焼失によって消滅したのであるから、旧家主及 び地主は、いつでもその建造物の取払いを命ずることを得。この場 合、借地人は、法律上何らの保護を受けざるものとす」(9月20日付東 京朝日新聞)  「家主及地主の承諾無くして、バラックを建てた場合には家主又は 地主の要求あるときにはいつでも取毀さなくてはならない」(9月21日 付東京朝日新聞) 14 この場合の借家人には、借地上の建物の借家人と、土地所有者の所有する建物の借家 人の二種類があるが、借家しているという点では同じであるので、「借家人」としておく。 15 福田徳三は、帝国経済会議社会部会総会(1925(大正14)年5月30日)で直裁にこの事態 を述べている。山本義彦編『第一次大戦後 経済・社会政策資料集』(柏書房、1987年) 第1巻12頁。また、末弘は、借地借家調停の委員としてこの実情を知りうる立場にあった。

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 これが当時の民法学や借地借家の実務に携わる実務家における通説的 見解ともいうべき説であった。  これに対し、10月2日付東京日々新聞には、仮小屋建設は違法であると いう上記のような見解を形式的、抽象的であるとする、「焼跡の仮小屋 問題」という牧野英一の論稿が掲載され16、『法律新聞』などの専門雑 誌も、借地借家問題について相次いで論稿を掲載した17  これらの論稿は、あるいは一般読者向けであり、あるいは短いもので あるが、当時のバラック問題の深刻さと混乱、それに対応すべき学界の 議論の一端を示している。  なお、福田の「経済復興は先づ半倒壊物の爆破から」論文掲載雑誌の 奥付は10月15日となっているが、論文末尾に「9月24―5日認む」とわざ わざ記載18があることから、バラック問題に関する福田の考察は、これ らの東京朝日新聞などの記事を踏まえて書かれていると見てよいであろ う。

三 福田「経済復興は先づ半倒壊物の爆破から」論文の検討

1 関東大震災後の3つの課題と借地借家問題  以上の社会状況、民法学を初めとする私法解釈からする議論に対し て、震災当時の借地借家問題についての福田の主張とはいかなるもので あったのだろうか。以下では、前出した福田の「経済復興は先づ半倒壊 物の爆破から」論文の内容につき、具体的に紹介し、検討したい。  同論文は、震災後に福田が、まさしく「昼は罹災地を歩き」、夜は 「痛い足をさすりながら文を綴った」、「現実を見て考察を深めた」 (拙稿①93頁)時期の論稿の一つである。  ここでは、「民法学者、私法学者ではない」福田の理論を法学的に見 16 後に、牧野英一「焼跡の仮小屋問題」『法学志林』25巻10号(1923)に所収。 17 例えば、『法律新聞』2166号(1923(大正12年)10月5日12頁などは、紛争後の調停問題に ついて触れている。 18 全集6・下1921頁。

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て紹介・検討することにする。というのは、福田は経済学者・社会政策 学者であるが、同論文では、「以上法律に関する拙論は、専門家の失笑 を購ふことを覚悟して居るものである。細かいことは、専門家諸君に宜 しく叱正を希う次第である」(全集6・下1902頁)としており、当時の民 法学の理論に批判的視点から言及しているからである。  この論文は、震災後の経済復興について述べている論文なのである が、まず、題名自体不可解かついささか物騒な表現が使われている。す なわち、「半倒壊物の爆破」である。この理解には少々説明を要す。  震災後は、復興のため、東京市中における危険な半倒壊建物の爆破が 当局によって行われていた。このような反崩壊建物爆破として、戦前の 東京における高層建築として一種の観光名所となっていた浅草十二階の 爆破、日本橋丸善の爆破を目撃した福田は、これら有形物の爆破による 除去と同じように、「経済上社会上の無形な建設物造営物中に甚だ多数 の半倒れ、半焼けものがあってその多くはまだ甚だ大なる危険を以て 我々の共同生活を脅かしつつある」こと、つまり、「役人中には、今も なお六法全書と首っぴきして行動の規準を其の中の求めて居るもの」が あり、「我が私法の中に」「甚だしき危険状態に陥っている半倒壊物が 累々として存している」とする(全集6・下1886頁)。すなわち、福田に あっては、「半倒壊物」とは、「私法の中」や「役人中」の「六法全書 と首っぴきして行動の規準を・・・を求めているもの」の中に見いださ れている。  そして、福田は、関東大震災後の目下の復興にあたり、共同生活を脅 かしている無形の危険は、「一 火災保険問題」、「二 土地家屋賃貸 借権問題」「三 雇用者解雇失業問題」の三つの問題(全集6・下1987 頁)であり、その問題について、「半倒壊物」である私法や役人的解釈 がいかに役に立たないかを喝破し、それを「爆破」しなくてはならない ことを説く。  福田は、「一 火災保険問題」においては、火災保険の約款において 地震による火災が除外されており、せっかく備えた保険の保障がうけら れないことの不合理を、「二 土地家屋賃貸借権問題」においては、先

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にあげた、行き場のない借家人の「バラック問題」について、「三 雇 用者解雇失業問題」においては労働契約の不公平性について、いずれも その解決策を含めて論じており、それぞれ法的示唆に富む問題提起をし ている。本稿では、紙幅の関係もあり、このうちの2つめの、「土地家屋 賃貸借権問題」に限って、福田の論をみていくことにする。 2 借家法の問題点と法の解釈論 (1)「岩田博士」の法解釈について  この時期借家関係を直接規律する法が、1921(大正10)年の借家法し かなく、そこでの通説的見解が、借家人の保護に十分には資さないとい う状況についてはすでに述べた。  福田は、そのような民法学者や実務家たる弁護士、役人の議論を、 「法治の神の行者たる法冠法服厳めしき人々」(全集6・下1891頁)(筆 者註・いうなれば法律の解釈論を金科玉条とする人々の意ということに なろうか、以下「法治の神の行者」と略して標記する)の議論は、震災 復興の善後策とはならず、「善後とは、地主、家主等の財産の善後のこ とであって、職無く衣なく、更に住無き哀れなる罹災者の立場から云え ば」「悪後」の相談になってしまうと厳しく批判し、その最たる論者を 「岩田博士」とする(全集6・下1892頁)。  福田は、同論文において「岩田博士」についてフルネームで示してい ないが、先にあげた9月20日付東京朝日新聞の「震災善後相談」の回答を 書いたのが、「岩田博士」であることからすると、「岩田博士」とは、 当時有名な弁護士であった岩田宙造博士(1875-1966)のことと考えられ る。福田は、「岩田博士」を「法治の神の行者」と言っている箇所から しても、その「回答」に書かれたことが私法学の通説であることを前提 として議論を進めている。  福田は、9月24日付東京朝日新聞付の「焼跡のバラック問題」について の「意見」に、岩田博士が答えた次の箇所を引用している(全集6・下 1894頁)。  「借家権は借家の消失とともに消滅し、借家人は焼跡の土地を使用

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し、バラック等を建設して居住を継続する権利はない。法律の解釈は 如何なる場合にも最も冷静公正を要する。この点は法の擁護運用の任 に当たるものが、最も慎重に考慮を要する所と思う」  福田は、爆破されるべき「法治の神の行者」とするのは、まさにこの ような岩田博士の意見であるとする。これについて福田は、「博士の法 理論は、如何にも痛快に終始一貫したものである」が、「それと同時に その半崩壊状態から来る危険は殊更に甚だしいのである」とする。「そ れは法理論として正しいだけ、それだけ不幸幾百万の人民の災役を更に より悪くする作用」しか有さないとする(全集6・下1894頁)。  では、岩田博士の意見に代表されるそれがなぜ「危険」なのかである が、福田にあっては、「広く人間という立場高く人間生存の擁護と云う 立場からみるときは、その人間が現在辛うじて支えつつある其の生存を 最大の脅威を以て脅す」からであるとする。福田によれば岩田博士の 解釈方法は、「法は悪し、悪き法を善く解釈するものは、更により悪 し。」と糾弾されるべきものなのであった(全集6・下1895頁)。  そして、福田のいう、爆破されるべき半倒壊物の具体的内容は、震災 に際して住む家なき罹災者である借家人の役に立たない借家法という現 行私法の一部であり、爆破されるべきは、そこに「冷静公正なる法律解 釈とか、慎重なる法の擁護とか称して、旧式所有権一点張り」の法理論 が、「バラックや怪しげな仮小屋を建設する権利があるかないかの人間 そのものから見た法律論」と「没交渉であろう」(全集6・下1895頁)と いうことである。  福田は、このような「岩田博士」の法解釈の方法を通じて、当時の通 説的民法解釈に対し、「人間そのものから見た法律論」の欠如を指摘 し、そこに、「広く人間という立場」「高く人間生存の擁護と云う立 場」を含ませることを主張していることが読みとれる。 (2)「今村裁判所長」の法解釈について  このようにして福田は、岩田博士の法解釈を批判すると同時に、「同 じく解釈法律論ではあるが遙かに多くの人間味を有するものに今村裁判

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所長、布施弁護士・・・のそれがある」と、他の「解釈法律論」の可能 性についても言及している(全集6・下1896頁)。  この場合の「今村裁判所長」も、フルネームや裁判所名が示されてい ないが、述べている意見、新聞等の記載からして、当時東京地方裁判所 所長を務めた今村恭太郎(1869-1936)のことと考えられ、また、「布 施弁護士」とは、同じくフルネームで示されていないか、人権派の弁護 士と知られる、布施辰治(1880―1953)のことと考えられる19  当時の新聞を調べると、「今村裁判所長」は、罹災者借家人のバラッ ク建造の可否について、9月21日付東京朝日新聞に、「焼け跡の仮小屋に 抗議は申込めぬ」として、「今度の如き範囲の広い火災の場合には、他 に適当な避難場所が見当たらないから元の場所に戻るのは当然で」「こ れに対して地主や借地人が抗議を申込むことは出来ない」という、バラ ック建造を容認すべきと受け取られかねない談話(筆者註・以下便宜的 に「第1回談話」とする)を報じられている。  福田は、今村裁判所長のこの第1回談話につき、「現行法の解釈という 束縛を被らざる我々の論としてなら当然の話であるが、その狭い束縛の 中に、何とかして出来る丈の人間味をとりいれねばならぬ気の毒なる地 位にある今村氏の論としては、到底支持することはできない」(全集6・ 下1896頁)としつつ、それを「新聞記者早合点の誤報であったのであろ う」と弁護してその行き過ぎを不問とし、訂正文として出された第2回の 談話(筆者註・ 以下便宜的に「第2回談話」とする。福田は、この両三 日の新聞は第二回の訂正文を揚げて居るとしているのが、筆者はこれを 確認できなかったので、本稿では法律新聞大正12年10月5日号8頁を参照 した。)について、以下のようにその要領をまとめている(全集6・下 1897頁)。  「・・・借家人は、家を借りてある種の物品を持ち込み従って有る 地点を占拠して居る。其の家が焼失したと共に、その所にはなお焼け 19 この2人を今村恭太郎裁判官及び布施辰治弁護士とすると、両者とも明治法律学校(現 在の明治大学)という私学の出身者であることも、法思想的史的には留意すべき点であろ うかとも思うが、今後の課題としたい。

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残りの動産物権が残存して居る。これを整理保管する為にはなお其の 地点に止まり、処理することができると思う。故に仮小屋を造ってこ れを処理することはできると思うが、その所に半永久的の家屋を建て られると云う訳ではない。一時的の仮小屋を造り残品の処理も済み、 他に適当の場所があれば撤退するのが至当であると思う。此れは新た に借地権を得たというわけでなく又家屋の借家権が家屋消滅後まで存 続するというのではない。さればバラック式家屋も一時的のものでな ければならぬ」  ここで言われている「今村裁判所長」の解釈論は、焼跡にある借家人 自らの「動産処理・保存」の必要があるという観点から、相当な期間 (短期間)に限り、元の借家人は、借家の存在した土地に立入り、土地 を使用したり、バラッ建造をしたりすることができるという解釈であ り、当時借地借家調停で行われていた、借家取引における「動産評価」 という実務にも則った、借家人のバラック建造を一定の範囲で容認する 妥協的解釈であった。  福田は、この「今村裁判所長」の第2回談話の法解釈の方向性につい て、「情理兼備甚だ能く人間の現実生活に立脚したものなるを見て、ほ とんど蘇生の思をした」と評価すると同時に(全集6・下1896頁)、そこ までの解釈をしなくてはバラック建造にまで追込まれた元借家人を救え ないことに、借家法という私法の一部の半倒壊物性=人々の生活の安全 上役に立たたない危険物になってしまっていることを次のような言葉で 憂いている。すなわち、「現行私法がこの度の大災のために、その一部 甚だ危険なる倒壊に陥ったことをただただ確かめるの外がない」として いる(全集6下・1896頁)。  福田は、「今村裁判所長」に代表されるような解釈を、「現実生活に 立脚した」「遙かに多くの人間味を有する」ものであると評価する一 方、その限界を、「物を本位とし財産を最高祭壇に祀る現行私法の解釈 としては、これ以上に一歩も出ることは許されない」(全集6下・1897 頁)と指摘する。  福田にあっての問題は、まさにその「法の解釈の方法」に関わる部分

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にあった。福田は、この解釈は「焼け残りの物品(それは貴き財産権の 客体である!)の処理の為に一時的仮小屋を造ることを許すのみで、肝 心要の焼け残った人間の始末、人間生存の処理の必要と云うことは、全 く之を考慮に入るることを許さないのである」と述べている(全集6下・ 1897頁)。  これは、現実の必要性から生じた人間の生存のためにやむを得ず作る バラック建造の合法違法の判断において、財産権の処理(問題)の付随 的問題としてこれを論じ、本来的問題である、そこに住むべき人間の生 存問題ということを法の解釈の要素に入れないことについての、鋭い指 摘である。  ここに、関東大震災という非常時・緊急事態を前提としてではある が、人間の生存問題は、財産権に付随して考えるべきではなく、生存問 題として現実の私法の解釈に取りこむべきことであるとする、この期の 福田徳三の私法学への批判的考察が見てとれる。 3 法の解釈の限界と生存権   結局、福田にあっては、この「今村裁判所長」の解釈論に対しても、 半倒壊している危険物である私法を「何とか応急処理しようとするもの であってその危険を一掃し去るものではな」く、却って「危険状態を継 続」することに奉仕する結果となるとの観点から、「この際一挙に」 「徹底的破壊」(全集6下・1901頁)すべきことを力説する。  もちろん、第2期で「改良の社会政策」を標榜し、国家や法の革命的破 壊者ではない福田は、「私法全体に亘って根本的改正を加えること」に ついてはこの緊急の場合には無理であることを認める(全集6下・1901 頁)。では、このような危険を有する私法(筆者註・この場合には借家 法)に対し、誰が、いかなる方法で徹底破壊すべきというのか。その実 施主体と手続が問題となる。  福田によれば、この徹底破壊の実施主体は、「国家と其の権力」であ り、具体的な方法は、「日本の国家はその最高権の発動によって、私法 一部のモラトリウムを即行すべきこと」であるという(全集6下・1901

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頁)。ここで福田は、関東大震災後の世情不安や経済的混乱を背景と し、当時政府が発布していた5つの勅令、すなわち「厳戒令、支払猶予 令、徴発令、暴利取締令、供給令」に加え、「憲法第8、第9両条の許す 範囲内に於いて、此の度の直接又は間接の震火災地に対し、私法一部の 適用を停止すべき広汎なるモラトリウム勅令を発布すべきである」とす る(全集6下・1901頁)。  ここで、福田が述べる「勅令」という言葉にいささかの戸惑いを感じ るが、福田にあっては、借家人のバラック問題は、他の勅令に匹敵する 価値・内容があるという考えからでていることであると考えると、納得 がいく。また、福田は、勅令という法令の形式に拘るのは、現に住むと ころなく、地主からも追い立てられているバラック居住の人々の救済に 間に合わないからでもあると説明している(全集6下・1901頁)。しか も続けて、福田は、このような勅令の発布の後は、「出来るだけ早く臨 時議会を招集し、之を法律たらむべく協賛を求むべきである」として、 「勅令」の内容の速やかな立法化を要求している(全集6下・1902頁)。  では、福田の云う「爆破」の内容―「生存権擁護令」の内容はいかな るものであったか。  バラック問題について、当時の借地借家法の不備や私法学者の解釈の 限界ということを把握した上での福田の立論の特徴は、この勅令を、 「生存権擁護令」というモラトリウム勅令とするところに真骨頂があっ たが、福田はその内容として、以下のようなモラトリウムが実施される べきであることを示している(全集6下・1902頁)。  「『政府はこの度の震災によって危殆に置かれたる人民の生存を擁 護するに必要と認めたる条項に限り、現行法律の適用を来年何月何日 まで停止し、之に変わるべき命令を発することを得』とし、所有権及 その派生諸権と債権、就中契約に関する事項中、罹災民の生存を擁護 するに不適当と認めたる条項の効力を一次停止し、之に代わるべき法 規を命令として発すべきである。火災保険契約も、土地家屋の賃貸借 契約も、雇用契約も、無論その中に含ましむべく、罹災地または其の 近郊の土地所有権も又然るべきである。」

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 ここで言われていることは、一見大変な荒療治の提案に思えるが、福 田によれば、この「爆破」は自然倒壊やモツブ的爆破と比して、決して 危険ではなく、有機物たる建物の爆破と同じように、「老熟錬達の立法 技術を官僚、吏僚中に有する現内閣」が爆破事業の実施主体として期待 されることが述べられている(全集6下・1903頁)。ここに、福田徳三に おける、「立法技術に長けた官僚」に対する信頼や期待ということが見 て取れる。 4 法律の嚮導原理としての生存権の主張  ここで、福田は、「法律の解釈は如何なる場合にも、冷静公正を要 し、法の擁護運用は最も慎重の考慮を須ゆべきは言う迄もない」とい う、「岩田博士」をはじめとする当時の民法解釈論者の正道の言をもっ ともなことと認めつつ、<法律と生存権との関係>につき、「生存権は 法律よりも重く、生存の擁護は法の擁護よりも貴し。極窮権の発動を防 ぐは、唯生存権の擁護あるのみ」(全集6下・1903頁)と、力強く生存権 の優位性を宣言した20。生存擁護という原理を、「法律を超えるもの」 として措定するところに、この時期の他の論者にない斬新さがある。  福田は、この生存擁護(生存権)の優位を受け、法律の解釈者(法 曹)の解釈のあるべき方向性についても、次のように論じている(全集6 下・1903頁)。  「法律は人間の為の法律である、人間は法律の為の人間ではな い。」ので、「人間は人間の擁護に、生存者は生存の擁護に当たるべ き最高の責務を有する」から、「法曹も又人間としての法曹でなけれ ばならない。」「人間の生存は如何なる場合にも、一切を超越して、 冷静公正慎重なる考慮を要する」。  ここで福田が言わんとしていることは、人間、人間としての生存の擁 護ということを基礎に据える立場から、法律を論ずることの大切さであ 20 ここにおける『極窮権』とは福田の造語であり、緊急事態における自力救済的な権利の一 種である。福田は米騒動を一種の『極窮権』の発動としている。『極窮権』につき、全集6・ 下1936頁、拙稿①93頁参照。

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り、弁護士である岩田博士のいう「公正慎重」への痛烈な皮肉、反論と なっている。 5 生存権論の水準と内容=生活本拠権、居住権  福田論文「経済復興は先づ半倒壊物の爆破から」の副題は、「『生存 権擁護令』を発布し私法一部のモラトリウムを即行せよ」であった。  福田論文の真骨頂は、ここで、<法律と国家と人間の関係>、勅令の 役割についても、生存権との関係を含め論じていることである。それは 次の箇所にも見て取ることが出来る(全集6下・1902-3頁)。  「法律は国家と其の人民との為の法律であって、国家と人民は法律 の為の其れではない国家は生存する人より成る。」「人民生存せざれ ば国家又生きず。国家最高の必要は生存者の生存擁護之である。其の 生存が危殆に瀕することは、国家の最緊急時である。憲法第8条はまさ に、此くの如き場合に於いて有力に発動すべきものである。」  福田は、ここでいう具体的な生存権擁護令の内容事項について、先に あげた震災後の3つの課題に対応して述べているが、ここでは、その中 で借地借家問題に限ってあげておく。それは、すでに述べた如く、「罹 災地方に於ける土地家屋の賃貸借契約は建物の焼失せると否とに拘わら ず、来何年何月何日までは、9月1日におけると同様の効力を有す」とい うことである(全集6下・1904頁)。  福田徳三が、このように生存擁護の主張をすることの背景には、土 地家屋の賃貸ということにつき、土地や家屋、ということは、その 形体に過ぎず、その実質、「真正、現実の理由」は、借家人が「そ こに居住すること、そこで営業すること」であり、当たり前の人間 の目から見れば、土地家屋の賃貸は、「居住者もしくは営業本拠 (Lebens=oder=Erwerbsstandort)の賃貸である。」ということにあ る。福田徳三は、このことを、「生存(又は営業)本拠権」(Lebens) =(Erwerbs) Standortsrecht)略して「居住権」(Wohnungsrecht) というべきことを提案している(全集6下・1905頁)。  今日からみても大切に思えることは、この居住権の権利性と効力につ

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いての以下の記述である(全集6下・1906頁)。  「居住権は建物の焼失と共に焼け去るものではない・・・火に焼け ず雨に流されざる堅固なる無形なる人間本来固有の権利である。(私 法学者は云うであろう。そんな権利は六法全書に載せてなく、又はコ ザックの教科書にも書いてないと!(筆者註・この部分、原文半角2 行))。現実の生きて働く人間は、この無形堅実なる本来権を得んが 為に、土地家屋の所有権を獲得したり、その賃借権を収得したりする に外ならないのである」  では、この「人間本来固有の権利である」居住権の「実現主体」と 「水準」はどう考えられていたか。福田は、そもそも国家に役割ありと いう発想から出発する。「生を国家のうちに享くる者は、借料を支払い 得ると得ざるとに拘わらず、必ず何程かの生存(及営業)本拠権を確保 せられねばならぬ」とするのである(全集6下・1906頁)。しかも、それ は「人間にふさわしい住むべき何らかの建物を要する」とし、その水準 に関しても、「人間にふさわしい」レベルという水準を示す(全集6下・ 1906頁)。これは、国家が人間にふさわしい生存の条件を確保する義務 を持つという、第二次世界大戦後の生存権の主張に繋がる発想といえよ う。  もっとも、福田は「今日の幼稚不完全な国家は、まだその臣民に普く 生存本拠たる土地と家屋とを供給するまでに進んで居らぬ」とする。そ こでは、高官などへの官邸はあるが、大多数の国民については、「住宅 政策によって応急的に微少な試みをなして居るにすぎない。従って大々 多数の人々は賃貸借契約によるか自己所有権によるかして、私法的に之 を獲得するに放任せられている」。ここでは、私法(=借家法)の原 理が通用ことになる。そして、福田にあってはまずこれが原則とされる (全集6下・1906-7頁)。  しかし、これは、震災後という、非常時・緊急事態にある罹災地にお いては、「右いずれによるも生存の本拠を得る能わざる状態にある時 は、ここに私法の原則は自然的に停止せられ、国家はその本来の当然の 使命に覚め来る。」として、ここに国家の役割の転換をおくのである。

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背景にあるのは、「国家は自己擁護の立場から云っても、住むに本拠な き人あってはならぬ。況んや生存の擁護という最高の任務の立場からお や」という考えである(全集6下・1907頁)。

四 結論と課題―「人間」を見た生存権論と残された課題

1 「人間」を見た生存権論  福田徳三の生存権論形成の流れを総体として見た時、第3期は、関東大 震災によって崩壊した建物や生活に逼迫する市民の現実生活を、自らの 膨大な社会調査によって直接見聞きし、自らの手と足で物事を知り、こ れらを踏まえて考えたことに最大の特色がある。この第3期の福田徳三 の生存権論を、生活する人間の現実を見た生存権論という意味で、「人 間」を見た生存権論と名づけたい。そして、福田のこの生存権論は、現 実から出発したという点で、第2期で「展開」された、ブレーンワークの 生存権論とは区別された、新たな質的「転回」を遂げたといってよいで あろう。  もとよりそれは、大震災という大規模自然災害に惹起されたものであ り、資本主義の行き詰まりによる労働者の貧困化ということを直接見聞 きするという類のものではなかったし、労使いずれの立場にも組みしな いというスタンスに立つ福田からすると、それらの労働者の生存権回復 闘争に連動するものでも無かった。しかしながら、それは、広い意味で の当時の法律学における「法の社会化」の流れの中で、具体的な人間の 生存問題を、法的に解決する手法という視点を持ったものであった。  このように「転回」した福田の生存権論は、1920年代という「戦前最 後の開明的な時期」に、社会局、帝国経済会議という立法に直接影響を 与えることができる組織に、ぎりぎりの人選で入ることができた21福田 が、そこで「生存権」の考えを最大限発揮できる場を得たという条件に も裏打ちされ、戦前の特筆すべき社会法である「借地借家臨時処理法」 21 この経緯につき、註(7)拙稿を参照。

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という現実の立法として結実したのである。  「人間」を見た生存権論としての内容やその特質は、本稿三で詳論し たが、最後にこれらを幾つかの視点からまとめ、今後の課題を示してお きたい。 2 「借地借家臨時処理法」要綱との関係  本稿で取り上げた、第3期の福田論文における生存権論は、「バラック に住むしかない人たち、食うに米なき十数万の哀れな人間の生活擁護こ そ物の復興より先んじる問題」なのだという、「現実」から出発してい る。  しかし、すでにある法(借家法)はこれに対応するものになっていな かったし、民法はじめ私法の「正当派」的解釈論もこれに無力であっ た。  これに対して福田は、「物」の保存・保障に優先されるべき、「生 存」に重きをおいた「生活本拠権」「居住権」を説き、これを法律の上 位に位置づけることにより、現実に対応しようと試みた。生存権の理論 を法およびその解釈に取りこみ、理論化しようとしたのである。  福田は、「生活本拠権」「居住権」について、広い意味での生存権の 中で捉えており、それらについて、福田としても初めての言葉づかいで ある、「人間本来の権利」という表現をしている点でも「転回」があっ た。しかもこの生存権は、法律解釈の指針となり、法律に優位し、法を 超える原理として示されたところに、同時代の学者と比しての福田の卓 越した視点がある。  第3期の福田は、このような「生活本拠権」、「居住権」たる生存権の 実施主体とその実現方法において、天皇制の明治憲法の下では、緊急事 態に対応できる勅令の形式で行い、これに後から議会の協賛を得るとい う手順を示した。この、生存権実現の実施主体として、「国家とその権 力」を考察するところに、観念的にもせよ、「国家」と区別された「社 会」を発見し、そこに労働者の生存のための生存権発展のダイナミズム をみた第2期の福田の生存権論(拙稿①88-92頁参照)との相違が際だつ

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のであるが、これは第3期の福田の生存権論が、あくまで「非常時」・ 「緊急事態」の生存権論であるからであり、福田自身、生存権保障にお ける国家の役割について、平常時と緊急時の違いを十分に認識している ことも本稿で示した。  震災後という緊急時に、このような内容をもつ福田の生存権論(借地 借家問題への考え方)は、契約自由原則について、人間の生存の観点か らの法の解釈による修正の主張に結びつくのみならず、修正が限界を超 える場合であれば、生存権の観点からむしろ、従来の法の条規の内容を 改正すべきこと=「新しい法の制定」という主張にいたるのである。  あくまで私見の域を出ないが、筆者は、「民法学者でない」福田が、 そこに生活の本拠がある人の生存を保護するという考え=居住権、生活 本拠権という「人間の権利」に 基づき、国民の生存保障の観点から借地 借家問題を考察し、法律学に光を与え、議論の幅を増したという点で、 当時の民法学者の考えを超える部分を含んでいたのではないかと考え る。  例えば、帝国経済会議の社会部会で、福田徳三とともに借地借家臨時 処理法要綱案の立案作業にたずさわった末弘厳太郎は、同時期に執筆 した「帝都復興と借地権・借家権の保護」(1925(大正14)年)におい て、借地権につき「社会実際上立派に認められた『権利』である」とす る論を展開しているのであるが、それは、あくまでも法律家らしい構成 で、土地所有権に比してそれを保護するという発想であり、財産権との 類似性が根拠となっている。そこでは、福田のように、財産権と対比さ れ、それを嚮導する生存権や、生存ということが法律に優位するという 考え、ましてや国家に優先されるべき国民の生存問題ということにつき 言及されてはいない22  これに対し、この期の福田の生存権論は、借地借家法制に対し、現実 の生活の視点のみならず、生存権の視点=国家の干渉による契約自由の 22 末弘厳太郎「帝都復興と借地権・借家権の保護」(1925(大正14)年)末弘厳太郎『法曹 閑話』(彗文社、1925年)172頁。

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修正を認めることをも含み得るものであった。  筆者は、このような特色を有する福田の考えは、「借地借家臨時処理 法」要綱、そして同要綱の内容がほぼ全面的に認められた借地借家臨時 処理法(1924(大正13)年)において、震災後の建物不足により家主・ 地主が不当な利益を得たことへの対策として、①著しく不相当な賃貸借 条件を裁判所という国家機関が変更しうること(2条)、②震災により滅 失した建物の借地権は、対抗力があること(7条)、③罹災建物の借主 は、滅失した建物の敷地又はその後地上に建設される建物について、建 築物の完成前に申し出れば優先的に賃借することができること(3条)が 規定された23ことなどに不十分ながらも反映したといえるであろうと考 えている。  福田の「理論」と、帝国経済会議という現実における「応用」はいか なるものであったのか。福田は、「借地借家臨時処理法」要綱作成の過 程という現実においても、「老熟錬工」たる「立法技師」である法律専 門家の末弘厳太郎の手を借り、司法省という「官僚、吏僚」のバックア ップも得て、帝国経済会議という審議会の審議を通じて、現実の生存を 見据えた、罹災した借家人の権利擁護に資する社会法案を成立させるこ とに成功した24。緊急時という例外的な時期においてであるが、この期 の福田の生存権論は、実際にその内容を認められ、手続的にも実効性あ るものであったこと、この立法化の時期はそれが可能な時代であったこ とが示されている。 3 法の社会化、社会法論との関係  福田の民法理解や法の解釈についての理解は、借地借家問題に関する 限り、現在の目から見ても当時の民法学者の議論水準を十分踏まえたも のであり、その議論は法律論として現実味を帯びていた。  ところで、大正末期から昭和にかけての法学界では、様々な法解釈論 23 前出註(11)、稲本・小柳・周藤34頁参照。 24 この経過につき、註7 拙稿参照。

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の百家争鳴時代であったが、この期の福田の生存権の立論は、借地借家 法についての社会法的把握といえ、当時の法の社会化、社会法論の議論 に連なるものであった。  当時の法の社会化論には、2つの方法があったと考えられる。一つは自 由法論であり、一つは末弘厳太郎に代表される「生ける法」からのアプ ローチであった。その中で、福田の議論は、現実から出発して、「ある 法」と「あるべき法」の乖離を問題とするという点に特徴があるように 思える。  すなわち、福田の議論においては、「現実」から出発して実定法を見 ること、そこで両者に乖離が生じている場合には、まず、「物」の保 存・保護ではなく、「人間」の生存の観点から解釈すべきこと、しか し、それは、自由法解釈的にではなく、解釈の限界を超えるときには、 法の「破壊」=生存権擁護の方向に法を改正することを通じて生存権の 実現を図ることが示されているのである。  そして、その限りにおいて、「実態」を重視する「法解釈論」の展開 により問題解決を図ろうとする末弘法学25や、「生ける法」理論を前提 とした法解釈方法論の考えに通じるものが見てとれる。その意味で、筆 者は、福田の第3期の生存権論には、戦後の法社会学に通じるものがある のではないかと考えている。 4 残された課題  最後に、今回取上げた福田論文の中で、福田によって震災後に克服さ れるべき3つの課題とされたことのうちの、「三 雇用者解雇失業問題」 と福田の生存権論との関係について検討すること、及び、それを含む 福田の生存権論を、広い意味での戦前の法律学の理論状況の中で位置づ け、それを今日的にいかに考えるかということを、本稿において残され た課題として記しておきたい。 25 末弘厳太郎についての文献は枚挙にいとまがないが、ここでは、比較的新しい研究とし て、六本佳平・吉田勇一編『末弘厳太郎と日本の法社会学』(東京大学出版会、2007年) に所収された諸論文をあげる。

参照

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