はじめに
昭和女子大学第 36 回文化史学会が 2019 年 11 月 30 日開催された。同 会で筆者は「方形周溝墓研究 60 年への歩み」と題する発表をした。こ の中で、方形周溝墓の発見及び命名事情、全国各地で発見される類例増 加状況、この墓制の特徴、他の弥生墓制との比較、弥生墳丘墓の発見と 古墳との関係、今後の研究指針などについて論及した。 本論は、上記の発表で触れることが出来なかった近年出土例が急増し ている「韓半島における方形周溝墓」について、日本列島での出土状況 と比較考察することを意図するものである。1.方形周溝墓の発見と展開
約 15 年前の 2004 年 12 月東京都八王子において「宇津木向原遺跡発 掘 40 周年記念シンポジウム 方形周溝墓研究の今」と称する記念シン ポを私共が開催した。このシンポは、「方形周溝墓」命名の契機となっ た宇津木向原遺跡が所在する八王子の地で、40 年の研究成果をまとめ る目的で企画されたもので、その内容については既に一書となって刊行 されている。(椙山・山岸編『方形周溝墓研究の今』雄山閣出版 2005) そもそも、方形周溝墓は 1964 年中央自動車道八王子インター建設工 事に伴う発掘調査ではじめて検出された。同調査団団長故大場磐雄先生 が、「墓遺構」と認識しつつ遺構名の命名に苦労し、最終的にその名称 を「方形周溝墓」と決した背景には、第 1 に四周めぐる溝による隔絶、 第 2 に中央方台部に墓壙らしき土坑の存在、第 3 にその墓壙らしき土坑 付近での特殊な副葬品の出土、第 4 に方台部、溝内から意図的に底部も しくは胴部に穴をあける穿孔土器の出土、第 5 に同時期と思われる集落 とある程度の距離をもつ点などが挙げられている。(山岸編『原始・古韓半島の方形周溝墓について
―日本列島との比較を中心に―
山 岸 良 二
代日本の墓制』1991) この墓制が学界で報告されると、瞬く間に全国規模で類例報告が公表 され、同墓制が汎日本的なものとの認識が広まっていった。 第1図 堂丁里遺跡全体図 1971 年には宮城県今熊野遺跡で古墳時代前期の類例が発掘調査され、 同墓制が東北地方には古墳時代に伝播していた事実が判明した。1973 年には神奈川県歳勝土遺跡で 20 基以上の「四隅切れタイプ」の方形周 溝墓群が発見され、隣接する丘陵上に位置する大塚遺跡で同時期の大集 落群も検出されていたことから、ここに日本初の「弥生時代の同一集団 の大規模な集落と墓」がセットで確認されることになった。 この後、20 ~ 30 基以上の大集団墓型を呈する例が山梨県上の平、千葉 県南総中、同大崎台、同寺崎、神奈川県権現原、福井県吉河、滋賀県服部、 大阪府加美、三重県草山、愛知県朝日遺跡と続々発見報告されてくる。 このような類例増加に伴い、同墓の「被葬者」像について「家族墓的 性格」とみるか、「家長墓的性格」とみるかといった論点も議論されて くるようになった。
2.韓半島 寛倉里遺跡での発見
1995 年 3 月韓国の各マスコミが大きく「寛倉里遺跡」の発掘調査成 果を報じた。その内容は、「韓半島初の水田確認」「韓半島初の方形周溝 墓を 41 基発見」「方形周溝墓の起源を明らかに」といった内容であった。 この報道をうけ、日本国内でも各マスコミがこれらの記事を掲載し、中 には「方形周溝墓は既に中国本土で 2 基、北朝鮮で 1 基見つかっており、今回の発見で中国東北地方→朝鮮半島西側→日本列島という伝播ルート が裏付けられた(注1)」とする韓国研究者の論を紹介する論説もあり、筆者に も各社からコメント要請がきた。当時、筆者がマスコミに述べた内容を 要約すると 「同遺跡の方形周溝墓の平面形態をみると、数種類あり、日本では古 いとされる四隅切れるタイプや、逆に高塚古墳との連携が説かれている 一辺中央部が切れているタイプが同居している点が興味深い。」「溝中か ら遺物が少ない点や方台部にあったであろう埋葬施設が発見されていな い点が日本と共通している。」「土器の年代観が不明だが、形態からみる とさほど古くはならないのでは」「これだけで、この墓制が半島・大陸 起源とするのは早急で、我々が考える以上に半島と日本列島との相互交 流が活発であったと思われる。」 このため、早急に発掘調査中の同遺跡を実見する必要があると判断 し、調査担当の高麗大学李先生と連絡をとった。 同年 7 月現地実見の要望が叶い、調査団長高麗大学李弘鐘先生から懇 切丁寧な説明をうけじっくり時間をかけて見学することができた。検出 された墓数は 102 基、規模は一辺 25 mクラスから 7 ~ 8 mクラスで大 型墓の周囲に小型墓が群集している状況は日本と近似している。墓の主 軸方向は、ほぼ南北で墓群形成段階からある程度方位を意識して造墓さ れていたことがわかり、これは日本の神奈川県歳勝土、福井県吉河、静 岡県山中遺跡例で筆者らが「墓道復元」から計画的造墓論を展開してき た成果と合致する思想と共通していると思われた。 主体部埋葬施設が発見されたのは 4 基に過ぎず、その中から副葬品と して「銅鏡」「鉄棒」「石剣」「玉」類が確認されている。さらに、同時 第2図 寛倉里遺跡全体図
期の集落群もやや離れた丘陵上で検出されている。 年代観はこの時点では一番古い土器を基準に一応「紀元前 4 ~ 3 世紀 代」との見解であったが、その後何回か修正訂正があり、後日刊行され た報告書では「紀元後 1 ~ 2 世紀代」となっている。 (山岸「韓半島での本格的な方形周溝墓群の発見」『東邦考古』20 号 1996、同「韓国発掘情報―寛倉里遺跡で発見された「方形周溝墓」の衝 撃」『日本古代史神話・伝説の研究最前線』新人物往来社 1996) 第3図 永登洞遺跡全体図
3.続々発見される半島内の方形周溝墓
寛倉里遺跡の発見以前にも半島では、天安清堂洞、清州松節洞、公州 下鳳里、群山助村洞遺跡などで土坑墓を周溝で囲む類例の発見が報告さ れていたが、1995 年以降短い期間に嶺南地方の慶州サラ里、蔚山茶雲洞、 慶山仏壇洞遺跡など各地での発見が数多く公表されてきた。次にその中 の代表例をいくつかみてみよう。 忠清南道天安市の郊外にある城山にひろがる清堂洞遺跡では、三韓時 代の 25 基をはじめかなりの「方形周溝墓」が発見されている。多くが、 丘陵上、丘陵斜面に構築され、主体埋葬の木棺を囲むように周溝がある が、全周する例はなく、よく残るA-5墓でも全体の約 7 割強を巡る程 度である。副葬品は土器類が主流であるが、一部鉄器、鉄製品を伴う例 もあった。同遺跡の報告者・咸舜變〈国立中央博物館〉氏は「鉄製品を 副葬した墓は、主体部の墓坑長短比が 3 対 1 以下の分類」墓に集中して いる点に着目している。つまり、同じ金属製品の副葬も「馬形帯鉤」を 伴う例はやや古く、他はみな後の時代に集中しているとした。益山永登洞遺跡では丘陵上で 4 基の方形周溝墓が発見された。1 号周 溝墓は溝内部で規模は 12 m× 10.5 mで、周溝の一辺中央で切れるタイ プである。切れている方向は南西を向いている。主体埋葬は土坑墓で、 長さ 4 m、幅 1 mの大きさで内部から鉄斧 1 点、鉄刀子破片 1 点が発見 された。周溝内から甕棺片、灰青色硬質土器片も出土しており、造墓 時期を示していると思われる。2 号周溝墓は 1 号から 35 m離れて発見 されている。規模は溝内部で 10.5 m× 9 mで、周溝の一辺中央で切れ るタイプである。切れている方向は東南を向いている。方台部付近に土 坑らしきものが検出されたが、腐植土が多いため詳細は不明である。出 土遺物には赤褐色軟質土器片などが数点発見されている。3 号周溝墓は 2 号墓と隣接して発見された。規模は溝内部で 8.4 m× 7.5 mで、先の 2 墓と同じく周溝の一辺中央で切れるタイプである。切れている方向は東 南を向いている。方台部中央に土坑らしきものも検出されたが、詳細は 不明である。周溝角部の内部から、甕棺片が2個体分出土している。こ の周溝角部で完形に近い土器が出土する状況は、日本の弥生時代後半か ら古墳時代前期の方形周溝墓によく見られる現象と似ている。 4 号周溝墓は半分が削平されていたため、周溝の一辺中央が切れてい る部分のみが検出された。この 4 号墓も切れている方向は東南を向いて いる。以上から、第 1 号墓とその他の 3 墓とは別集団で構築された可能 性が推測される。年代観としては、原三国時代期の 3 世紀代と報告者は 推定している。 第4図 清堂洞遺跡 A - 5 墓図
4.韓半島と日本の方形周溝墓
次に近年の韓半島における方形周溝墓研究状況を韓国と日本の研究者 論考を参照しながら、日本との比較を最後にまとめてみたい。 崔完奎氏は湖南地方の方形周溝墓をまとめて、現状での分布状況は韓 半島の中西部地域に集中しており、寛倉里、堂丁里遺跡などのように群 集して検出されている。立地傾向としては、平野部の丘陵部、大小河川 に囲まれている地域、中でも本流よりは支流域に近接する地点が多いと 指摘している。群集状況についても、全体的に重複するケースが少なく、 大規模な群集墓群の中に小規模な群集が造成されている例が多かった。 この点、溝を共有していく群集状況が造成される日本の周溝墓群とは異 なる様相としている。平面形態についても、方形を主流とする日本とは 異なる長方形、円形、楕円形が見られる点が特徴であるとしている。墳 丘高については、0.5 ~ 1 m程度が多い点から、周溝内の封土を積み上 げた量と思われる。この点は日本での検出状況と近似しており、同墓制 の第 1 義造成意図があくまでも平面区画意識だったことを示している。 埋葬施設についても、寛倉里遺跡では 99 基中 3 例しか発見されてい ない。堂丁里遺跡では 23 基中 1 例しか確認されていない。このような 状況も、日本での事例と近似している。この現象は先の封土量の問題と 関連するもので、この墓制では埋葬施設は「方台部上据え置き」(周溝 内の土を封土として積み上げた上に木棺などを据え置いた)型だった可 能性をかつて筆者は唱えたことがある。 崔氏は同論文で栄山江付近の「甕棺墓」群との比較し、両墓制にはかな り濃い共通性がある点も指摘している。つまり、韓半島では「甕棺墓」 も「方形周溝墓」も共通の造墓思想で構築されていた可能性を指摘して いるのである。 中村大介氏は韓半島の方形周溝墓をまとめた論考で、青銅器時代の類 例として春川泉田里遺跡の内容分析を行った。その結果、支石墓制との 共通性が高いことから、周溝墓は支石墓が半島を南下する過程で影響を うけた墓制という可能性を示した。また、続く粘土帯土器時代の谷城大 坪里遺跡例などから、湖南地域では粘土帯土器時代後半には周溝墓が形 成され、馬韓地域全体に広がっていったとしている。さらに、半島南部 での周溝墓例の出土数が現状では少ない点から同墓制が直接的に日本列 島に伝播したとする可能性が低いことを示唆し、支石墓における地上式の埋葬施設を構築する風習が畿内の周溝墓制に影響したと結んでいる。 上記の先学 2 名の論をうけ、筆者の見解をまとめたい。 第 1 は、溝による平面区画性の思想による墓制は中国本土にもあり東 アジア地域共通のもので、始原を大陸とする可能性は高い。 第 2 に、本墓制は集団墓構築に意義があり、この墓制保有集団は居住 域構築段階で、墓域、生産域も計画的に併設していた。この点は寛倉里 遺跡や日本の大阪府安満、神奈川県大塚・歳勝土、同県中里遺跡例でも 確認されている。 第 3 に、方台部中央の埋葬施設痕跡が残存していない点など半島と共 通することから、この墓制があくまでも溝による「平面区画性」が第 1 義である点がここでも確認できる。 第 4 に、出土副葬品の少ない点も共通し、保有集団の「葬制儀礼」を 考察する上で共通する重要な部分である。 筆者は以前より、「方形周溝墓制造営集団」=「水稲稲作保有集団」 の可能性を指摘し、各個別墓の基準と小水田区画の基準比較研究を進め てきた。韓半島でも水田遺構の検出例が増加しており、今後これらの点 がより深化していくことに期待したい。 以上から、現状ではこの「方形周溝墓」墓制の始原は中国大陸か韓半 島とする可能性が高いと考え、水稲農耕保有集団の伝播ルートを今後追 跡することで具体的な流れをトレースできると考えている。 (協力者) 高久健二 中村大介 梅咲直照 上保敏 (注)1・・毎日新聞 余白ノート 1995 年 3 月 13 日 〈参考文献〉 1996 年山岸良二「韓国発掘情報―寛倉里遺跡で発見された「方形周溝墓」の衝撃」 『日本古代史 神話・伝説の研究最前線』新人物往来社 同 山岸良二「韓半島での本格的な方形周溝墓群の発見」 -韓国忠清南道 保寧市寛倉里遺跡見学記―『東邦考古』20 号東邦考古学研究会 1996 年 威舜燓「天安 清堂洞遺跡周溝墓の特徴」『第 39 回全国歴史学大会』 発表要旨
1996 年 崔完奎「益山 永登洞 周溝墓」『 同 上 』 1997 年 尹世英、李弘鐘『寛倉里周溝墓』高麗大学校埋蔵文化研究所 2000 年 崔完奎「湖南地方 周溝墓の諸問題」 2004 年 中村大介「方形周溝墓の成立と東アジアの墓制」『朝鮮古代研究』第 5 号 2007 年 中村大介「方形周溝墓の系譜とその社会」『墓制から弥生社会を考える』 六一書房 2009 年 3 月 山岸良二「周溝墓制の始原問題を考える」『考古学と地域文化』 p123 ~ 130 2015 年 5 月 山岸良二「新たな方形周溝墓研究へ 5 つの提言」『考古学ジャーナ ル』674 号 ニューサイエンス社 p4 ~ 8 同 中村大介「韓半島における方形周溝墓」『 同 』p36 ~ 40 2016 年 10 月 山岸良二「韓国の方形周溝墓―日本との関係を探る―」『大東文 化大学オープンカレッジ』講演会要旨