はじめに 滋賀大学の教育学部図書館所蔵の理科教科書関係分は、840冊に達する。明治初年からの教 育の歴史を縦軸とし、理科教科書の分類を横軸として考察することを試みる。教育学部分館の 理科教科書は、次のように分類番号を付けている。 理科(23−)物理(24−)格物(25−)化学(26−)理化(27−)動物(28−) 植物(29−)植学(30−)地学(地文)(31−)地学(地質鉱物)(32−)博物(33−) これらの教科書の部数と冊数を時代別の分類表にしたのが、表1である。 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷
理 科 教 科 書
(教科名は、1872年の「小学教則概表」による) 表1 戦前の理科教育の変遷及び教科書の種類(教育学部分館所蔵分) 数字は部数、( )内は冊数 1872 1879 1886 1910 1919 1941 1947 (明5) (明12) (明19) (明43) (大8) (昭16) (昭22) 制度 学制時代 教育令時代 小学校令 小学校令 国民学校 戦後 検定時代 国定時代 教科 養生、究理 博物、物理 理科 理科 理数科 理科 博物、化学 化学、生理 自然の観察 生理 地文 理科 23 理科 1(2) 53(180) 17(21) 26(39) 2(8) 24 物理 8(37) 8(19) 21(31) 7(7) 25 格物 1(16) 26 化学 11(54) 3(4) 21(56) 9(9) 12(16) 27 理化 1(4) 2(2) 6(6) 28 動物 2(3) 6(14) 9(12) 2(2) 4(4) 29 植物 3(4) 7(7) 2(2) 2(2) 30 植学 3(9) 31 地文 2(12) 1(1) 8(8) 1(1) 3 32 地鉱 2(3) 7(11) 8(8) 1(1) 3(3) 33 博物 8(40) 6(25) 8(11) 1(1) 2(1)ったり、一つの教科書が何冊かから構成されているので部数よりも冊数の方がはるかに多い。 1 「学制」以前と「学制」時代 1879(明治12)年まで 明治政府は文明開化、近代国家建設を急いだので、自然科学教育に重点をおいた。1872(明 治5)年に頒布した「学制」では、表1「小学教則概表」による教科として、「養生口授」「究 理学輪講」「博物」「化学」「生理」の5教科を設けて多くの時間を割いた。しかし、当時の小 学校は私塾や寺子屋程度のものであり、教師は科学についての素養はほとんどなく、洋学者に よる啓蒙書や翻訳書を棒読みするしかなかった。 「学制」以前に採用された教科書で、分館に存在するものとしては、アメリカ人カッケンボ スおよびフランス人ガノーのNatural Philosophyの著書から翻訳した『物理全志』宇 う 田 だ 川 がわ 準 じゅん 一 いち 訳 1875(明治8)年、ロスコー氏化学書の訳本『羅斯珂氏化学』文部省、グードリッチ氏 博物学の訳本の『具氏博物学』須川賢久訳 1876(明治9)年などがみられる。1872(明治5) 年の「学制」施行で文部省の官版がいくつか出版された。当時の和本教科書は木版であり、和 綴じですぐバラバラになったり、虫くいも生じ易いものであった。 当時よく用いられた教科書で分館所蔵本を、参照文献をもとにひろい出してみよう。 『天変地異』小幡篤次郎 慶応義塾 1868(明治元)年 『博物新編訳解』大森秀三訳 D翠居 1869(明治2)年 『博物新編補遺』小幡篤次郎訳 尚古堂 1869(明治2)年
チャンブル著 Introduction of the Science
『化学入門』桂川甫策 石橋八郎訳並註 一貫堂 1870(明治3)年 『化学訓蒙』石黒忠悳訳 英蘭堂 1870(明治3)年 『物理階梯』片山淳吉訳 文部省 1872(明治5)年 『小学化学書』市川盛三郎訳 文部省 ロスコー著 1874(明治7)年 『格物入門和解』柳河春三等訳 1875(明治8)年 アメリカ人マルチン・ウィリヤム著 『牙氏初学須知』田中耕造訳 文部省 1875(明治8)年 フランス人ガリグェー著 『具氏博物学』須川賢久訳 文部省 1876(明治9)年
アメリカ人グードリッチ著 Victorial Natural History
これらのうち『物理階梯』(図1)は明治初年に最も普及したもので、原本はR. G. Parker のFirst Lesson in Natural Phi1osophyである。片
かた 山 やま 淳 じゅん 吉 きち がカッケンボス(Quackenbos)の究 理書(格物書)を参照し、特に物性論に重きをおいて書いたものである。直訳書が多く作られ た中では、珍しい独創的な本であった。
『小学化学書』(図2)は、イギリスの代表的科学者Huxley(生物学)、Roscoe(化学)、 Balfour Stewart(物理学)が共同編集したScience Primer叢書の中のRoscoe: Chemistryの 直訳である。この本はその序にいうように、 「其の主意たるや、徒に いたづら 事物の理を論じ、生徒をして之を暗記せしめんとするに非ず、 生徒を誘導し直に造化(自然)に接して自ら其の妙理を悟らしむるにあり。是が為に許 いく 多 た の試験(実験)を設け、各自専ら実地に就いて其の真理を証するを旨とす」 とある。観察実験をし、そこから法則を導き出そうとする形をとっていて、ファラデーの「ロ ーソクの科学」の手法そのままである。ロスコーはファラデーの弟子に当たるといわれる。し かし、実際に日本では、実験をしたものは少なかったようである。 『格物入門』の書名タイトル「格物」とは、物理のことであるが化学も含んでいる.この本は中国 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷 図1 『改正増補 物理階梯』1876(明治9)年 図2 『小学化学書』1874(明治7)年
あった。中国訳から和訳されたものは、この他に『博物新編』、『化学入門』などがある。 福沢諭吉の『訓 くん 蒙 もう 窮 きゅ 理 り 図 ず 解 かい 』慶應義塾 1868(明治元)年は分館にはないが、分館所蔵本の小 幡篤次郎『天 てん 変 ぺん 地 ち 異 い 』および『奇 き 機 き 新 しん 話 わ 』麻生弼吉訳 1869(明治2)年とあわせて、当時の 啓蒙書を充実させた。1872(明治5)年以後には、文部省が計画的に教科書を出版したので、 一般もまたその形に従うようになった。 2 「教育令」時代 1879∼86(明治12∼19)年 「教育令」(1879年)、「改正教育令」(1880年)とそれに続く「小学校教則綱領」が相次いで 出された。小学枚は初等科3年、中等科3年、高等科2年に3分され、「養生口授」「理学輪講」 は廃止された。中等科で「博物」「物理」を、高等科で「化学」「地文学」「生理」「博物学」を 課すようになった。これ以後、教科書は学年別に編集されるようになった。この時期から修身 が筆頭教科となり、皇国主義教育が芽を出し、科学教育は形骸だけで精神はむしろ教えない方 針が固まり始めた。 このころになると訳本を教科書とすることは少くなり、文部省の作った松村任三『植物小学』 1881(明治14)年、松本駒次郎『動物小学』1881(明治14)年といったものが多用され、内容 的には物理・化学が縮少され、博物教育が重視されるようになった。前述したBalfour Stewordの物理学の訳書だけは大いに流行した。以下の本が分館にみられる。 『士都華氏(スチュアート)物理学』清野勉訳 清風閣 1878(明治11)年 『学校用物理書』山岡謙介訳 丸家善七出版(丸善) 1881(明治14)年 但し附録のみ 『物理初階』宇田川準一訳 青海堂 1881(明治14)年 『物理学初歩』磯野徳三郎訳 杉 すぎ 浦 うら 重 じゅう 剛 ごう 校閲 文栄閣 1884(明治17)年 『啓蒙物理書』住田昇 博文堂 1885(明治18)年 上記はスチュアートの直訳のものや、パーカーの著書との折衷訳などである。 後 ご 藤 とう 牧 まき 太 た 他著『小学校生徒用物理書』1885(明治18)年は、実験を多く載せ、教師または生 徒が自作した器械で試みるように配慮した教科書であった。「小学校令」時代に入って、この 試みも消えてしまった。 この頃は簡易実験法の研究も芽をふき始めており、後述する中 なか 川 がわ 謙 けん 二 じ 郎 ろう や後藤牧太らが簡易 実験法を進めていた。後藤牧太・三 み 宅 やけ 米 よね 吉 きち 『簡易器械 理化学試験法』普及舎 1869(明治2) 年も、その一つの現れであった。「理化」という言葉がみられるが、その一番最初はハラタマ 述『理化新説』含 せい 密 み 局 1869(明治2)年であった。ハラタマは、大阪の舎密局にいたオラン ダ人で、実験を多く紹介し教育にも携わったお雇い外人である。 博物教育は、物理・化学をおしのけて強調され始めた。その根源はアメリカのWilsonの
Readerにならって『小学読本』に多くの博物教材をいれたことにある。後の『尋常小学国語 読本』でも、理科教材はかなり多く含まれていたのである。もともと欧米ではキリスト教教育 の影響もあって、博物教育は大きな地位を占めていた。しかし、「教育令」時代の博物教育は 博物学ではなく、身近な動植鉱物について分類学的に比較観察を行わせ、「もの」を整理する 能力をつけるといったことが大きかった。 辻敬之『通常金石』普及舎 1882(明治15)年および『通常動物』、『通常植物』は代表的な 教科書であった。この他の動物関係の教科書は、どれも絵と説明がついているだけの辞典的な もので、自然認識や形式陶冶的な面は少ない。岩石・鉱物のことを当時は金石学といったので、 その名称の使われた教科書も多い。 3 「小学校令」、検定時代 1886∼1910(明治19∼43)年 1886(明治19)年に「小学校令」と「小学校ノ学科及其程度」が示され、小学校は尋常小学 校4年(義務制)と高等小学校4年とされた。「博物」・「物理」・「化学」・「生理」はまとめて 「理科」となり、高等小学校から課すことになった。教科書は検定制度になり、国家統制を受 けるようになった。 「小学校ノ学科及其程度」は、次のように事物・現象の名前を陳列している。 「理科ハ果実・穀物・蔬菜・草木・人体・禽獣・虫魚・金銀銅鉄等、人生ニ最モ緊切ノ関 係アルモノ、日月星・空気・温度・水蒸気・雲・露・霜・雪・霰・雹・雷電・風雨・火 山・地震・潮汐・燃焼・錆・腐敗・e筒(ポンプ)・噴水・音響・返響・時計・寒暖計・ 晴雨計・蒸気器械・眼鏡・色・虹・槓杆(てこ)・滑車・天秤・磁石・電信機等、日常児 童ノ目撃シ得ル所ノモノ」 科学そのものを教えることは止めて、その後の理科教科書の性格を大きく変えたのであった。 この時期に5つの大きな教科書会社から出版された理科教科書のうち、次の4種が分館に存在 している。 『小学校用理科 物理篇』平賀義美 杉浦重剛閲、『同 化学篇』普及舎 1887(明治20)年 『小学校用理科 植物篇』朝夷六郎編、『同 生理篇』、『同 鉱物篇』、『同 地文篇』 普及舎 1887∼88(明治20∼21)年 *動物篇は分館にない 『新撰理科書』高島勝次郎編 文学社 1887(明治20)年 『小学理科書』小野太郎編 集英堂 1887(明治20)年 前の三つは、旧制度の科学教科書をよせ集めたようで、内容も物理・化学・動物・植物など の巻にわかれている。高島の教科書には、理科の定義が述べられているが、この過渡期に対す る悩みを吐露したようにみえる。「小学校ノ学科及其程度」に詳しく規定されているようでも、 後の「小学校教則大綱」のような明確な拘束性はなく、まだ自由度があった。 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷
して文部省の満足する形になっていた。すなわち、物理の概念や思想よりは道具・器械を中心 とし、挿絵もふんだんにいれたものであった。 また、この時期には欧米の翻訳書もまだ興味深いものが多く出ている。 『新撰理科読本』武田安之助訳 金港堂 1887(明治20)年 イギリス人バルチン著 Science Reader 『新式理科読本』中川重麗 杉本甚之助・岡田新次郎 1888(明治20)年 『理科読本』西 にし 邨 むら 貞 博文館 1893(明治26)年 これらは訳書の形をとりながら、理科を単なる道具・器械中心の術や事項・物の解説のみで なく、科学の根元に到らしめようとの努力がなされた。やがて、国定教科書への大浪に姿を消 してしまう。 1891(明治24)年に「小学校教則大綱」が決まり、理科は天然物・自然現象の観察や生活応用の面 に重点をおき、理念部分が薄められた。新しい教科書がそれを加速するように現れてきた。 『小学理科新書 甲種』学海指針社編 『同 教師用』集英堂 1892(明治25)年 『明治理科書』高島勝次郎 文学社 1893(明治26)年 『新定理科書』『同 生徒用』『同 教師用』文学社編輯所編 1893(明治26)年 『小学校用理科新篇』金港堂編輯所編 1894(明治27)年 『小学理科』西村正三郎編 普及舎 1900(明治33)年(図3) 教科書会社編のものが多く、教則大綱にしばられ、時間にあわせるため内容も減っている。しか し、それなりに個性を出そうという努力のあともみられ、後の国定教科書とは比べものにならない。こ の時期に、ドイツから新しい教育法が紹介され、教授術研究も盛んになった。浅田新太郎『新編小学 教授術 理科』金 港堂 1893(明治 26)年は教科書で はないが、資料、 略画、教案、製作、 問 答 が あって 興 味深い。 チャールス・ スコレット『理 科教授指針』は、 歌を所々に挿入 図3 『小学理科』 普及舎 1900(明治33)年
した面白い教科書である。ユンゲの生活共同体学習やヘルバルトの五段階教授法もわが国に入 ってくる時代であり、棚橋源太郎の影響をもった教科書が多くみられた。 『小学校理料教科書』児童用 棚 たな 橋 はし 源 げん 太 た 郎 ろう ・樋 ひ 口 ぐち 勘 かん 次 じ 郎 ろう 『同 外篇』金港堂 1900(明治33)年 『小学校理科教授法』棚橋源太郎 金港堂 1904(明治37)年 『小学校に於ける理科教材』上・下 棚橋源太郎・佐藤礼介 宝文館 1904∼06(明治37∼39)年 棚橋は、東京高等師範学校で理科教授法の研究を行い、1900(明治33)年ごろより上述の教 科書を著わし、全国にその影響を与えた。当時の文部行政にマッチさせながら、ドイツの教授 法をとり入れ、各種講習会で指導を強めた。この時期の本の中で、白井光太郎『日本博物学年 表』丸善書店 1891(明治24)年には、1610(慶長15)年以後の博物学の流れが毎年記録され、 その歴史を知るのに興味深いものである。 4 「小学校令」、国定教科書時代 1911∼40(明治44∼昭和16)年 検定教科書時代の終わりになって、教科書疑獄事件がおこり、教科書の国定化が断行された。 理科のみならず、すベての教科の教育、教科書の質的向上がストップしてしまい、それが40年 も続いて日本教科書史に一大暗黒時代をもたらした。 この間に、1907(明治40)年には尋常小学校の義務年限が4年から6年に延長され、また第 5、6学年だけだった理科授業が、1919(大正8)年から第4、5、6学年に変更された。 理科は、自然の事物に直接ふれることを大目的としたため、児童用は使用禁止となり、教師 用のみ検定時代の延長のようなものが使われた。生徒には筆記帳に類するものを与えたが、分 館には見当らない。しかし、教師用も児童用もその要求が高まり、1910(明治43)年から採用 され、翌1911(明治44)年から国定理科教科書が使用されるようになった。その内容は、断片 的な物の名前を示して、絵とその解説があるといった、明治初期の博物図に近い低レベルのも のとなってしまった。 1918(大正7)年ごろに小改訂はあったが、漢字がかなに改められたり、配列をいじったり という程度の変化しかなかった。1919(大正8)年に4年生から理科を始めたために広げた部 分が少々あったり、1929(昭和4)年ごろまでには文語調が口語調に変っただけである。 第一次世界大戦の影響で、科学振興の勢いは大きくなり、理科教育ブームが起った。生徒実験 が普及し、そのための援助金が出るという時代を迎えたのに、教科書が改訂されなかったのは 不思議の一語につきる。しかし、実験用の教科書、副読本の類いは多くなった。 実験関係の教科書として次のようなものがある。 『物理学初等実験集』文部省 1914(大正3)年 第Ⅰ部 明治期から昭和戦前期の変遷
『化学実験用書』近藤耕蔵 光風館 1919(大正8)年 『中等教育 化学生徒実験書』亀高徳平 開成館 1920(大正9)年 『中等教育 物理実験書』野口貞編 開成館 1920(大正9)年 大正期から昭和初期には、成城小学校の理科教育改造研究、理科教育研究会の発足、低学年 理科特設運動など、教科書以外でみるべきエネルギーがみられた。昭和に入って軍国主義化の 時代において、国民学校時代の理科に発展する芽をたくわえていったといえる。 5 国民学校、理数科理科の時代 1941∼45(昭和16∼20)年 「理数科理科」は、「通常の事物現象を正確に考察し処理する能力を得、之を生活上の実践に 導き合理創造の精神を養うこと。自然界の理法とその応用に関し、生活に必要な知識技能を得し め、科学的精神を養う」ことをねらった。実に精神構造の重要性を考えた点で、これまでの国定教 科書と異なっており、国防や国運の発展というものがついてまわった。しかし、理科を低学年から 課すという理科関係者の年来の願いがなしとげられ、第1、2、3学年で『自然の観察』を、第4学 年以上で理科一般として『初等科理科』 1942(昭和17)年(図4)を発行した。 初等科理科のねらいとして、(1)生物環境や季節との関係を調べて生態を重視する。(2)軍 国生活と関連があるが、でん粉とり、メッキなど生活の重視がある。(3)イモ植え、種まき、 タコ作りの作業を通して技能・態度の育成をはかる、などがみられた。 新教育運動の影響をうけて、測定、実験、観察、飼育、栽培を行わせ、教科書も「調べてみ よう」「考えてみよう」というオープンエンド型の質問を多くとり入れた。 (北村 静一) 図4 『初等科理科』一 1942(昭和17)年