― 54 ― はじめに 一般に、三国時代に関する言説は、正統論と関連を持つ 印象がある。だが、唐代までの三国論に、我々が想起する よ う な 一 尊 的 正 統 論 の 傾 向 は 極 め て 薄 い。 ま た、 『 三 国 志 演義』に典型として見られる、現在でも一般的と思われる 曹魏対蜀漢という二項対立的な捉え方も、さほど普遍的で はなかった。漠然と曹魏を中心に三国時代を捉える傾向は 強いものの、曹操英雄論と諸葛亮賞賛が同時に成立し得る など、多様な展開を見せている (( ( 。 多様な展開を見せた三国論は、周知の通り、北宋諸儒の 議論を経て、 南宋期に蜀漢正統論という一つの完成を見る。 そこには朱熹の影響が大きいとする見解が古くから有力で あ る が (( ( 、 こ の「 正 統 論 」 な る 発 想 は、 北 宋 の 欧 陽 脩 (( ( が 打 ち立てたという。本稿は、この欧陽脩に着目し、彼の唱え た三国論と正統論との関係を扱う。なかんずく重視すべき は、はじめ曹魏正統論を提唱した欧陽脩が、後にそれを破 棄したという事実である。本論はこれを鍵として欧陽脩の 三国観を探り、その特徴と背景、およびその影響について 論ずるものである。 一.初期北宋朝の三国論 欧陽脩の三国論をより立体的に把握するための素地とし て、北宋朝廷の三国論について、簡単に確認しておく。
欧陽脩の曹魏正統論とその撤回について
田
中
靖
彦
(一)北宋朝の曹魏尊崇 初期北宋朝では、三国のうちでは曹魏に対し高い地位を 与える傾向にあった。詳細は以前拙稿にて述べたことがあ るが (4 ( 、ここで再度簡単に整理しておく。 乾 徳 年 間( 九 六 三 ~ 九 六 八 )、 太 祖 趙 匡 胤 の 代 に 出 さ れ た 歴 代 帝 王 廟 の 祭 祀( 『 文 献 通 考 』 巻 一 百 三・ 宗 廟 考 三 ) によると、魏太祖すなわち曹操は、四等級に分けられた歴 代帝王の中で、第二等級となっている。加えて、文帝(曹 丕)は第三等級に、明帝(曹叡) ・高貴郷公(曹髦) ・陳留 王(曹奐)は四等級に列せられており、曹芳を除く曹魏皇 帝すべてが祭祀対象となっていることが分かる。初期宋朝 が曹魏を歴代王朝の系譜に連なる王朝と認識していたこと を窺わせる。 一方で同史料では、蜀主劉備・関羽・張飛・諸葛亮らは 「前代の功臣・烈士」であり、 「皆 勳徳高邁にして、当時 の冠為り」 という。賞賛には違いないが、 初期北宋朝にとっ て、 劉 備 を は じ め と す る 蜀 漢 人 士 は「 臣 」 な の で あ っ た。 曹魏が歴代王朝の系譜に列せられているのとは大きな違い と見るべきであろう。 かかる宋朝の三国論を概括するかのように、真宗朝に勅 命で編纂された『冊府元亀』は、三国の「正統」の所在に ついて、以下のように述べている。 ……其後、建安失御、三国分峙、魏文受山陽之禅、都 天地之中。謂之「 正統 」、得其宜矣。劉先主僻処梁益、 孫大帝遠拠江左、 自窃尊名、 靡有神器、 誠非共工之匹。 然 亦 異 於「 正 統 」、 故 同 為 閏 焉。 劉 氏 雖 為 孝 景 之 後、 有季漢之称、蓋以赤伏之数已尽、黄星之兆又彰、不足 拠 矣。 (5 ( (『 冊 府 元 亀 』 巻 一 百 八 十 二・ 閏 位 部・ 総 序。 傍線部筆者) 以前、注(4)所掲拙稿でも挙げた史料であるが、本稿の 関心である「正統」の語が確認できる欧陽脩以前の史料で もあるため、ここに改めて挙げる。同史料についての考察 は同拙稿をご参照いただきたいが、本史料の説く三国論に は、大きな特徴がある。 まず一つめの特徴は、曹魏を「正統」とし、呉蜀は「正 統」ではないと明言していることである。先に見た曹魏皇 帝に対する扱いと併せて考えても、これが初期北宋朝の三 国論に関する公式見解と見て良いであろう。 そ し て 二 つ め の 特 徴 は、 「 こ こ で 述 べ ら れ て い る こ と は 単なる曹魏尊崇ではなく、三国正統論としての曹魏正統論 である」という点である。それまでの三国論は、曹操と諸 葛亮が同時に賞賛の対象となったりと、良くも悪くも多様 な展開を見せることが多かった。また、習鑿歯のような例
― 56 ― 外 を 除 け ば (6 ( 、 宋 代 以 前 は 曹 魏 を 中 心 に 三 国 時 代 を 捉 え る 傾向が主流であった。そういった従来の三国論と比較した と き、 『 冊 府 元 亀 』 の 論 は、 曹 魏 を 中 心 に 三 国 時 代 を 捉 え るという姿勢こそ従来と共通するものの、その理由をきち んと論理立てて説明しようという姿勢が看取できる(それ が現在の我々から見て論理的な説明となっているかは、ま た別である) 。同史料は、魏蜀呉の三王朝を等しく「正統」 を 争 う 存 在 と し て 扱 い、 そ れ ぞ れ の「 正 統 」 性 を 検 証 し、 その上で蜀呉は「閏」と定義づけ、曹魏のみを「正統」と 定 義 し て い る 点 に 特 徴 が あ る。 し か も、 「 正 統 」 の 最 大 の 判断基準は、漢→魏という継承関係や三国の勢力比較とい う現実的側面に据えており、唐代までで重んじられてきた 五行説に対する関心は僅かに 「赤伏」 「黄星」 を傍証として 引 用 す る 点 に と ど ま っ て い る。 前 述 の よ う に、 「 正 統 」 の 概念を打ち立て、正統論を始めたのは欧陽脩であるという 理解が一般的である。だが、魏蜀呉をはじめとする歴代王 朝一つ一つに「正統」の資格があるか否かを検証するとい う点、そして五行説に対する関心の稀薄さにおいて、欧陽 脩 以 後 に 見 ら れ る 正 統 論 の 持 つ 要 素 が、 既 に『 冊 府 元 亀 』 所収の前掲史料には認められる。 北宋朝が曹魏を「正統」とした理由であるが、まず考え られるのは、従来の三国論が当時ではまだ影響力があった からであろう。三国時代の終了より、三国時代を曹魏を中 心に捉えることは、いわば常識であった。かかる概念が北 宋 初 期 に も 未 だ 根 強 く 残 っ て い た こ と は 想 像 に 難 く な い。 また、宋朝が曹魏を自らの仮託先とし、それゆえに曹魏を 「正統」 とせざるを得なかったという側面が看取できる。 『四 庫全書総目』は以下のように説く。 (西晋の陳寿は曹魏を、東晋の習鑿歯は蜀漢を「正統」 としたと述べた上で)此猶宋太祖簒立近於魏、 而北漢 ・ 南唐蹟近於蜀、故北宋諸儒皆有所避、而不偽魏 (( ( 。( 『四 庫全書総目』史部一・正史類『三国志』 ) 宋の太祖趙匡胤による簒奪は曹魏と似ており、北漢・南唐 は事績が蜀漢と似ているから、北宋諸儒はみな避けるとこ ろがあって、曹魏を偽としなかったというのである。この 指摘の通り、初期北宋と曹魏には類似点が多い。建国が禅 譲 に よ る も の で あ る こ と (( ( 、 天 下 最 強 で あ り な が ら、 太 祖 趙匡胤の代では天下統一は成らなかったことである。前述 の曹操の地位を定めた勅命が出された乾徳年間、南漢・南 唐・北漢は健在であり、宋が北漢を下すのは、次の太宗の 代のことである。中原に位置した宋が、境遇の似た曹魏に 自らを擬し、敵対王朝に対し自己正当化を行ったという側
面はあるだろう。 (二)北宋の自己正当化と「正統」 かかる「正統」の概念がこの時期の宋において萌芽した 理由は、景徳元年(一〇〇四)に結ばれた澶淵の盟に代表 される契丹との関係に求められる。多くの先行研究が指摘 するように、同盟約が宋側に与えた衝撃は大きく、そこか ら生じた宋による自己正当化の理論として「正統」の概念 が芽生えたと理解できよう (( ( 。 すなわち、初期北宋朝が「正統」に拘泥し、曹魏に高い 位置づけを与えたのは、宋朝みずからが自己の正当性や権 威に瑕疵があることを自覚したがゆえに、その裏返しとし て「 正 統 」 に 拘 り、 「 自 分 だ け が「 正 統 」 で あ る 」 と 宣 伝 する意図があった、という点が指摘できるのである。曹魏 尊 崇 も 斯 か る 自 己 正 当 化 の 一 環 と し て 理 解 で き る の で あ り、自己投影先として最適であったが故に、曹操と曹魏は 「正統」の地位を与えられたのであった。 ただし曹魏が高らかに称揚される一方で、劉備・諸葛亮 らも 「功臣」 という扱いながら高く評価されているように、 当 時 は「 「 正 統 」 な 王 朝 の み を 認 め、 そ の 敵 対 王 朝 は 丸 ご と否定する」といった意識もまだ確立しきってはいないこ とが窺われる。かかる三国論が展開された北宋代は、三国 論の過渡期であった。そしてこの北宋代は、正統論勃興の 時でもあり、三国の「正統」が様々に論じられている。で は、その正統論の祖とされる欧陽脩は、いかなる三国観を 有していたのであろうか。 二.欧陽脩の正統論と曹魏観の変化 蘇軾は、 「正統之論、 起於欧陽子」 (「正統論三首」弁論二) と 述 べ て お り、 か か る「 正 統 論 は 欧 陽 脩 に よ り 起 こ っ た 」 と い う 認 識 は 現 在 で も 定 説 と な っ て い る ((1 ( 。 ま た 彼 は『 新 唐 書 』 や『 五 代 史 記 』( 『 新 五 代 史 』) の 撰 者 と し て も 著 名 である。彼は歴代王朝の 「正統」 性の検証に深い関心を持っ ており、正統論に関する著述を多数残した、正統論と三国 正統論の流れの中でも極めて重要な位置を占める人物であ る。 (一)欧陽脩の著作改訂について 欧陽脩の三国論を検討する前に、確認しておくべき点が ある。それは、 欧陽脩が自著の一部を晩年に改訂しており、 該当作品は改訂の前後で大きく内容が異なるという点であ る。南宋の周必大 ((( ( は、以下のように指摘している。
― 5( ― 惟『居士集』経公決択、篇目素定。而参校衆本、有増 損其辞至百字者、 有移易後章為前章者。皆已附注其下。 如「 正 統 論 」「 吉 州 学 記 」「 瀧 岡 阡 表 」、 又 迥 然 不 同、 則収寘外集。 ((1 ( (『欧陽文忠公文集』附録巻五) 欧陽脩の文章には改訂されたものがあり、その中でも特に 「 正 統 論 」 は 大 き く 異 な っ て い る と い う の で あ る。 重 沢 俊 郎「欧陽脩の正統論」 (『東方学会創立二十五周年記念東方 学 論 集 』 東 方 学 会、 一 九 七 二 年 ) は、 「 欧 陽 脩 の 正 統 問 題 を主題とする論説は、はじめ七篇に分けて述べられたもの が、後に現在の「正統論」三篇の形に改編されたものと見 られている。しかし、内容上の本質的な変化はない」と説 く。これに対し東英寿は、欧陽脩が「正統」と認める王朝 に変化があったこと、最初は「正統」と認めていた五代に 「 正 統 」 を 認 め な く な っ た こ と を 指 摘 し、 重 沢 説 に 疑 義 を 呈 し て い る ((1 ( 。 東 は ま た、 欧 陽 脩 の 正 統 論 は 改 訂 前 と 改 訂 後で大きく変更が加えられているため、全編にわたって文 章修改の過程を克明に跡づけることは難しいとも説く ((1 ( 。 欧陽脩の正統論に改訂があったことは、彼の三国論にも 変化があった可能性を物語る。このことを踏まえて、彼の 説く正統論と三国論の関係について検証していこう。 まず、欧陽脩による正統論関連の文書について、本論の 関心に基づいて整理してみたい。東英寿は、 『居士外集』 (単 に『 外 集 』 と も い う ) 校 勘 の 記 述 に あ る 指 摘 ((1 ( を 参 考 に、 欧陽脩の正統論関連の著述を、慶暦四年(一〇四四)の前 後 で 大 き く 三 つ に 分 類 す る ((1 ( 。 す な わ ち、 慶 暦 四 年 以 前 の もの (「原正統論」 「明正統論」 「秦論」 「魏論」 「東晋論」 「後 魏論」 「梁論」 。東はこれをA群と呼称)と、それ以後のも の( 「 正 統 後 論 」「 魏 梁 解 」「 或 問 」「 正 統 弁 」。 東 は こ れ を B 群 と 呼 称 )、 そ し て、 こ れ ら を 更 に 編 纂 し な お し て『 居 士 集 』 に 収 録 し た も の( 「 正 統 論 序 論 」「 正 統 論 上 」「 正 統 論下」 「魏梁解」 「或問」 ) の三つである。欧陽脩は 『居士集』 編纂の際、A群の七篇のうち「原正統論」を整理して「正 統 論 上 」 と し、 残 り 六 篇 の う ち「 魏 論 」「 梁 論 」 を 除 く 四 篇を整理して「正統論下」とし、 それにB群の「或問」 「魏 梁解」を加えて収録し、更に「序論」を新たに作った。以 上が東の整理であり、 本論もおおむねこれに従う。ただし、 B群のうち 「正統弁」 は破棄されており (注 ( 5() も参照) 、 「正統後論」は『居士集』 『外集』いずれにも採録されない ので考察対象外となるため、B群の時期の欧陽脩の正統論 に 関 す る 思 想 を 考 察 す る こ と は 難 し い( 「 魏 梁 解 」「 或 問 」 が『居士集』に収録されているので、どちらかというとB 群は『居士集』所収のものと近い思想と捉えるべきかもし れ な い )。 そ こ で 本 論 で は 便 宜 上、 欧 陽 脩 の 正 統 論 を 大 き
く二つに分けて考えることとし、 慶暦四年以前を 「改訂前」 、 以後を「改訂後」と呼称し、改訂前の欧陽脩の正統論及び 三国観を示す材料として 「原正統論」 「明正統論」 「秦論」 「魏 論」 「東晋論」 「後魏論」 「梁論」 (いずれも『外集』巻九) 、 改訂後のものとして 「正統論序論」 「正統論上」 「正統論下」 (以上は 『居士集』 巻十六収録) および 「魏梁解」 (『居士集』 巻十七)を中心に検証を進める。 (二) 「正統」の定義と該当王朝 欧陽脩は、 「正統」について以下のように述べている。 「正」者、所以正天下之不正也。 「統」者、所以合天下 之不一也。由不正与不一、然後「正統」之論作。 ((1 ( これは初期の作である「原正統論」でも、改訂後の文集で あ る『 居 士 集 』 収 録 の「 正 統 論 上 」 で も 述 べ ら れ て お り、 一貫して欧陽脩の持論であった。 欧 陽 脩 は、 「 正 」 す な わ ち 天 下 の 不 正 を 正 す こ と、 「 統 」 すなわち天下の一つでない状態を一つに合すること、の二 つを分けて考え、 「正」にして「統」なるものが初めて「正 統」たることが出来ると定義したのである。事実を重視す る姿勢であり、従来の五行思想・讖緯説・天人相関説を否 定 し た 点 が ((1 ( 大 き な 特 徴 で あ る。 附 言 す る な ら ば、 現 在 で は一般に「正統」の「正しい系統」の意で用いられるとい う印象が強いが、正統論の祖たる欧陽脩の定義はそうでは なく、 「正」 と 「統」 が別個の概念であるところが興味深い。 だ が 欧 陽 脩 は、 歴 代 の 王 朝 が 必 ず し も「 正 」「 統 」 の 両 方を得られたわけではないことを知っていた。 そこで彼は、 歴 代 の 王 朝 を 以 下 の 五 つ に 分 類 す る。 す な わ ち、 ①「 正 」 に し て「 統 」 な 王 朝、 ②「 統 」 で は な い が「 正 」 な 王 朝、 ③「正」ではないが「統」な王朝、④互角な王朝が両立す る 状 態、 ⑤「 正 」 で も「 統 」 で も な い 王 朝、 で あ る ((1 ( 。 そ して彼は、 歴代王朝がこの五つの枠のいずれに該当するか、 議論を進める。 ただし前述のように、欧陽脩は初期に著した正統論関連 の作品を、後に大々的に改訂している。そのため、改訂の 前 後 で、 「 正 統 」 と 認 め る 王 朝 に も 少 な か ら ぬ 変 化 が 見 受 けられる。それについて確認してみよう。 改訂前作品の「明正統論」には、以下のようにある。 ……夫居天下之正、合天下於一、斯「正統」矣。 [尭 ・ 舜 ・ 三代 ・ 秦 ・ 漢 ・ 晋 ・ 唐。 ]天下雖不一、而居得其正、 猶曰天下当正於吾而一、 斯謂之「正統」 、 可矣。 [東周 ・ 魏・ 五 代。 ] 始 雖 不 得 其 正、 卒 能 合 天 下 於 一、 夫 一 天
― 60 ― 下而居其上、則是天下之君矣。斯謂之「正統」 、可矣。 [如隋、 是也。 ]天下大乱、 其上無君、 僭窃並興、 「正統」 無属、 当是之時、 奮然而起、 並争乎天下。 [東晋 ・ 後魏。 ] 有功者強、有徳者王、威沢皆被于生民、号令皆加乎当 世、幸而以大并小、以強兼弱、遂合天下於一、則大且 強者、 謂之「正統」 、 猶有説焉。不幸而両立、 不能相兼、 考其迹則皆正、 較其義則均焉、 則「正統」者将安与乎。 其或終始不得其正、又不能合天下於一、則可謂之「正 統」乎、 (11 ( 不可也。然則有不幸而丁其時、則「正統」有 時而絶也。 (1( ( ([ ]は割注を表す) すなわち欧陽脩は、①に尭・舜・三代・秦・漢・西晋・唐 を、②に東周・曹魏・五代を、③に隋を、④に東晋・北魏 を列し、 ⑤には特に該当王朝を記していない。そして彼は、 ①②③に 「正統」 を認めている。改訂前に見られる特徴は、 「正」 「統」いずれも重視していること、曹魏は「正統」な る王朝と定義されていること、である。 ところが、改訂後作品である「正統論下」では、少しく 様相が異なる。 ……夫居天下之正、 合天下於一、 斯「正統」矣。尭 ・ 舜 ・ 夏・商・周・秦・漢・唐、是也。始雖不得其正、卒能 合天下於一、夫一天下而居上、則是天下之君矣。斯謂 之「正統」 、 可矣。晋 ・ 隋、 是也。天下大乱、 其上無君、 僭 窃 並 興、 「 正 統 」 無 属、 当 是 之 時、 奮 然 而 起、 並 争 乎天下、有功者彊、有徳者王、威沢皆被于生民、号令 皆加乎当世、 幸而以大并小、 以彊兼弱、 遂合天下於一、 則 大 且 彊 者、 謂 之「 正 統 」、 猶 有 説 焉。 不 幸 而 両 立、 不 能 相 并、 考 其 迹 則 皆 正、 較 其 義 則 均 焉、 則「 正 統 」 者将安予奪乎。東晋 ・ 後魏、是也。其或終始不得其正、 又 不 能 合 天 下 於 一、 則 可 謂 之「 正 統 」 乎。 魏 及 五 代、 是 也。 然 則 有 不 幸 而 丁 其 時、 則「 正 統 」 有 時 而 絶 也。 (11 ( …… 欧陽脩は、①に尭・舜・夏・商・周・秦・漢・唐を、③に 西晋・隋を、④に東晋・北魏を、そして改訂前には言及の なかった⑤に曹魏・五代を列し、代わりに②は定義そのも のが消失し、①③のみに「正統」を認める。 「 正 統 」 の 定 義 に 少 し く 変 化 が 見 ら れ、 ま た「 正 統 」 と 認められる王朝について大きな変化があることが確認でき よ う。 い ず れ も、 「 正 統 」 は 時 と し て 絶 え る と 定 義 す る の は 共 通 だ が、 改 訂 前 の 論 は 王 朝 の「 正 」「 統 」 い ず れ も 重 き が 置 か れ る の に 対 し、 改 訂 後 の 論 で は「 統 」、 つ ま り 王 朝が天下統一を果たしたか否かに重きを置いている。そし
て そ の「 正 統 」 観 の 変 化 か ら、 改 訂 前 は 曹 魏 に 対 し「 正 」 を認め、統一は出来なかったが「正統」を冠して良いとす る の に 対 し、 改 訂 後 は、 曹 魏 は「 正 」「 統 」 の い ず れ を も 得 て い な い 王 朝 で あ り、 三 国 時 代 は 五 代 同 様、 「 正 統 」 の 絶えていた時代だと定義されているのである。 (三)正統論改訂をめぐる先行研究 欧陽脩は、何故曹魏正統論を撤回したのであろうか。東 英寿は、欧陽脩が「正統」と認める王朝に変化があったこ と、最初は「正統」と認めていた五代に「正統」を認めな くなったことを指摘し、欧陽脩の曹魏及び五代観転換の理 由を、欧陽脩が『五代史記』執筆を通し五代に対する研鑽 を積んだ結果、これまでの自己の五代に対する見方の誤謬 に気づいたからだと説く (11 ( 。首肯しうる説であるが、 何を 「誤 謬」と見做すかという絶対的な価値基準がない以上、なぜ 欧陽脩が梁を「正統」とすることを「誤謬」と見做すよう になったかという点は疑問として残るであろう。また、三 国 正 統 論 に 関 す る 欧 陽 脩 の 見 解 に つ い て は「 「 正 統 論 」 を 書き替えた理由としては、他にもたとえば魏に対する見解 の修正(中略)を挙げることもできよう」と簡単に触れる に留まっている。 林文孝「欧陽脩の正統論と歴史叙述」 (『中国─社会と文 化 』 一 八、 二 〇 〇 三 年 ) は、 基 本 的 に 東 説 に 賛 意 を 示 し、 正 統 論 改 訂 後 の 欧 陽 脩 の 考 え を「 「 正 統 」 と い う 発 想 か ら 解き放たれ、ありのままの事実が尊重されるような歴史叙 述が、 そこからは構想され得るように思われる」と述べる。 だがもし林の指摘するように、欧陽脩が「正統」という発 想から解き放たれたのならば、欧陽脩は何故「正統論」そ の も の を 破 棄 し な か っ た の か と い う 疑 問 は 残 る で あ ろ う。 欧 陽 脩 の 論 展 開 は、 「 正 統 」 の 概 念 か ら 解 放 さ れ て い る と いうより、むしろ「正統」をこそ軸として展開していると 見たほうが自然であると思われる (11 ( 。 欧陽脩はなぜ正統論を改訂し、曹魏正統論を破棄したの であろうか。これを検討するためにも、今少し欧陽脩の三 国論について見ていこう。 (四) 「正」から「悪」へ ―欧陽脩の曹魏観― 正統論改訂前の欧陽脩は、三国の「正統」が曹魏にある ことを示すための専著「魏論」を著しているが、彼はその 執筆の目的を以下のように述べる。 ……魏与呉 ・ 蜀為三国、 陳寿不以魏統二方、 而並為『三 志 』。 今 乃 黜 二 国、 進 魏 而 統 之、 作「 魏 論 」。 (11( (「 明 正 統論」 )
― 6( ― 陳寿が編んだのが三国の歴史書であることに対し、呉・蜀 を退け魏を進めることにあるというのである。そしてその 「魏論」では、以下のように論ずる。 ……不幸東漢無賢子孫、而魏為不討之讐。今方黜新而 進 魏、 疑 者 以 謂「 与 姦 而 進 悪 」。 此 不 可 以 不 論 也。 ……自秦以来、興者以力。故直較其迹之逆順、功之成 敗而已。彼漢之徳、自安 ・ 和而始衰、至桓 ・ 霊而大壊。 其衰乱之迹、積之数世、無異三代之亡也。故豪傑並起 而争、而強者得之。此直較其迹爾。故魏之取漢、無異 漢之取秦、而秦之取周也。夫得「正統」者、漢也。得 漢者、魏也。得魏者、晋也。晋嘗統天下矣。推其本末 而言之、則魏進而正之、不疑。 (11 ( 迹の順逆、功の成敗を較べるだけ、という事実重視の姿勢 を 強 調 し た 上 で、 「 魏 が 漢 を 取 っ た の は、 漢 が 秦 を 取 り、 秦が周を取ったのと変わらない。魏を「正」とするのに疑 問は無い」と説いている。明確な曹魏正統論である。ただ し同文からは、かかる欧陽脩の曹魏論に対し疑問の意見が 既にあったことも見て取れることに留意したい。 ところが、正統論改訂後の彼の見解が、曹魏と五代に対 し 「「正」 でも 「統」 でもない」 と変わったことは既に見た。 改訂後の作品集である 『居士集』 に 「魏論」 は収録されず、 代わって彼の曹魏観が展開されるのは「魏梁解」となる。 予論「正統」 、弁魏 ・ 梁不為偽。議者或非予大失『春 秋』之旨、以謂「魏・梁皆負簒弑之悪。当加誅絶、而 反進之、 是奨簒也、 非『春秋』之志也。 」予応之曰、 「是 『 春 秋 』 之 志 耳。 魯 桓 公 弑 隠 公 而 自 立 者、 宣 公 弑 子 赤 而自立者、鄭厲公逐世子忽而自立者、衛公孫剽逐其君 衎 而自立者、聖人於『春秋』皆不絶其為君。此予所以 不黜魏・梁者、用『春秋』之法也。魏・梁之悪、三尺 童子皆知可悪。……夫欲著其罪於後世、 在乎不没其実。 其実嘗為君矣、書其為君。其実簒也、書其簒。各伝其 実、而使後世信之、則四君之罪、不可得而掩耳。使為 君者不得掩其悪、則人之為悪者、庶乎其息矣。是謂用 意深而勧戒切、為言信而善悪明也。……『春秋』之於 大悪之君不誅絶之者、不害其褒善貶悪之旨也。惟不没 其実、 以著其罪、 而信乎後世、 与其為君而不得掩其悪、 以息人之為悪。能知『春秋』之此旨、 然後知予不黜魏 ・ 梁之是也 (11 ( 。」 (「魏梁解」 ) 前掲「魏論」と同様、曹魏や五代梁を大きく扱う欧陽脩の 筆法に対する批判があることへの反論から、 同論は始まる。
そして彼は、 魏や梁の悪は子供でも知っていると言い、 「そ の罪を後世に明らかにするには、その事実を隠さずに書き 残 す こ と で あ る。 君 主 で あ っ た と い う こ と が 事 実 な ら ば、 そ の 通 り に 書 く。 実 際 に あ っ た こ と が 簒 奪 だ っ た の な ら、 その通りに書く。君主であっても悪行を隠蔽できないとな れば、人が悪を行うこともなくなっていくであろう。かか る『春秋』の旨を理解できてはじめて、私が魏や梁を斥け ないことの正しさが分かるのだ」という。 同文は一見、事実をありのまま記録する姿勢と、魏・梁 を偽王朝と扱わない点は「魏論」と変わらないように見え るが、 「魏梁解」を一見して気づくことは、 「魏論」には見 えなかった「悪」の表現が繰り返し用いられていることで ある。欧陽脩が何を以て魏・梁を「悪」と見なしたか、彼 自 身 に よ る 直 接 の 論 及 は な い。 た だ、 「 議 者 」 と の 問 答 の 論題は専ら「簒」であることや、 「『春秋』之志」の実例と して列挙される四人の君主が、いずれも自らの君主を殺し たり放逐して自分が即位したことを強調されていることか ら 判 断 す る に、 「 簒 」 が 魏・ 梁 を 悪 と す る 最 大 の 要 素 な の であろう (11 ( 。 改訂後の欧陽脩の曹魏観で特筆すべきは、以下の二点で あ る。 ま ず 一 つ め は、 「 魏 論 」 で 説 い た 曹 魏 の「 正 」 と い う定義を撤回し、代わって「悪」という評価を明確に示し たこと。二つめは、それでも曹魏を偽として斥けることを せず、 その理由は「事実をその通りに書き残し、 それによっ て魏と梁の悪を知らしめる」という姿勢、いわば「春秋の 筆法」 に基づくものであると論じていること。かかる点は、 唐代の史家・劉知幾の史論との共通性が指摘し得るであろ う (11 ( 。 なお、改訂前には単独で扱われた「魏論」が改訂後には 「 魏 梁 解 」 と な り、 曹 魏 が 五 代 梁 と 一 括 り で 論 ぜ ら れ て い ることも特徴として指摘できるが、これは改訂後のみの特 徴とは捉えないほうが良いと思われる。欧陽脩は改訂前の 正統論で既に曹魏と五代を同じ枠で 「正」 と定義していた。 改訂後の「魏梁解」はその延長上と位置づけられる。曹魏 と後梁にはいずれも天下統一に至らなかったこと、その成 立について既に世間で批判の声があったことという共通点 があり、一括して論じやすかったのであろう (11 ( 。 (五)諸葛亮への憧れ 欧 陽 脩 の 蜀 漢 観 お よ び 蜀 漢 人 士 評 価 も 確 認 し て お こ う。 彼は生涯を通じ、公然と蜀漢正統論を唱えることはなかっ た。改訂前の論である「原正統論」では「劉備、 漢之後裔、 以 不 能 一 天 下 而 自 別 称 蜀、 不 得「 正 統 」、 可 也 (1( ( 」 と 説 き (11 ( 、 劉備が漢の末裔であることを認めながらも、天下を統一し
― 64 ― て い な い こ と か ら「 正 統 」 と は 認 め な い と 明 言 し て い る。 ま た、 同 じ く 改 訂 前 作 品 に あ た る「 東 晋 論 」 に て は、 「 若 乃国已滅矣、以宗室子自立於一方、卒不能復天下於一、則 晋之琅邪、与夫後漢之劉備・五代漢之劉崇何異。備与崇未 嘗 為「 正 統 」、 則 東 晋 可 知 焉 爾 」 (11 ( と 説 き、 天 下 を 統 一 し て いない以上、東晋の司馬睿が「正統」でないことは、劉備 も劉崇も 「正統」 ではないのと同様であると明言している。 こ の 考 え は 正 統 論 改 訂 後 も 変 わ ら な か っ た よ う で、 『 居 士 集』収録の「正統論下」にて東晋の「正統」を否定する段 でも同様の論を展開している。つまり欧陽脩は、曹魏から 「正統」 を剥奪した後も、 一貫して蜀漢および劉備を 「正統」 とする意志は無かったことが窺える。 だが、晩年の彼は、蜀漢贔屓とまではいかぬにせよ、少 なくとも呉蜀を魏と同列に扱う史観の持ち主だった。その ことは、 彼の史書分類法から窺える。 『旧唐書』 は 『三国志』 の魏書を呉書・蜀書と分けて分類するのに対し (11 ( 、『新唐書』 で は、 三 国 い ず れ も 同 等 に 扱 っ て い る (11 ( 。『 新 唐 書 』 は『 旧 唐書』の不備を補うべく、勅命によって編纂された書であ り、十数年の歳月をかけて嘉祐五年(一〇六〇)に成立し た。欧陽脩は同書の本紀・志・表を担当しており、その志 に お い て わ ざ わ ざ『 蜀 国 志 』『 呉 国 志 』 を「 偽 史 類 」 の 項 目 か ら 除 外 し た の は、 『 旧 唐 書 』 に よ る 同 二 書 を 偽 史 と す る扱いが欧陽脩にとって誤った見解だったからに他ならな い (11 ( 。 こ れ は、 改 訂 前 の 正 統 論 で「 魏 論 」 執 筆 の 動 機 と し て述べていた「陳寿が編んだのが三国の歴史書であること に 対 し、 呉・ 蜀 を 退 け 魏 を 進 め る 」( 前 述 ) と い う 思 想 と は見事に反対の論ということになる。欧陽脩は、曹魏のみ を中心に据える三国観を撤回したのである。 ま た、 瑣 事 か も し れ ぬ が、 『 旧 唐 書 』 に 見 え な か っ た 諸 葛 亮 の『 論 前 漢 事 』 が『 新 唐 書 』 正 史 類 に 見 え る (11 ( こ と も 興味深い。諸葛亮が漢を論じた書をわざわざ追加し、しか も正史類に分類することは、欧陽脩の諸葛亮に対する思い 入れの表れかもしれない。 欧 陽 脩 の 劉 備 や 諸 葛 亮 に 対 す る 見 解 は 概 し て 肯 定 的 で、 前 述 の よ う に、 「 正 統 」 で は な い と し な が ら も 劉 備 が 漢 の 後 裔 で あ る こ と を 認 め た の も そ の 一 つ で あ る。 ま た 彼 は、 理想的君臣関係として、劉備と諸葛亮の関係を引用してい る。 或有詰予曰、 「然則用人者、 不可専信乎。 」応之曰、 「斉 桓公之用管仲、蜀先主之用諸葛亮、可謂専而信矣。不 聞 挙 斉・ 蜀 之 臣 民 非 之 也。 蓋 其 令 出 而 挙 国 之 臣 民 従、 事行而挙国之臣民便。故桓公 ・ 先主得以専任而不貳也。 使令出而両国之人不従、事行而両国之人不便、則彼二
君 者 其 肯 専 任 而 信 之、 以 失 衆 心 而 斂 国 怨 乎。 」 (11( (『 居 士 集』巻十七「為君難論上」 ) 斉桓公と管仲、劉備と諸葛亮を例として、君主が臣下を信 頼し、その臣下に政務を担当させ、それによって国の統治 がうまくいったのだという主張である。後述するが、かか る論は、君主からの信頼に恵まれなかった欧陽脩の経歴と 比較したとき、極めて興味深い。自己と異なり我が子を託 されるまでに信頼された諸葛亮と、臣下に全てを任せる劉 備の関係に対し、憧憬の念があったのであろう。 以上をまとめると、欧陽脩の三国論の特徴は、初めは曹 魏を「正統」と定義したが、後にそれを撤回し、曹魏に対 して「悪」という評価を下したこと、 蜀漢や孫呉の「正統」 は遂に認めなかったが、蜀漢に対しては肯定的態度が看取 し得るということ、が挙げられる。 斯かる点を踏まえ、次章では欧陽脩の正統論が改訂され た理由について、彼の境遇も手がかりとしながら検討して みたい。 三.欧陽脩の境遇と宋の「正統」 (一)政治的挫折 景 祐 三 年( 一 〇 三 六 )、 三 〇 歳 の 欧 陽 脩 は、 范 仲 淹 左 遷 に 異 議 を 唱 え、 夷 陵 に 左 遷 さ れ る( 『 続 資 治 通 鑑 長 編 』 巻 一 百 十 八・ 仁 宗・ 景 祐 三 年 五 月 戊 戌 )。 こ の 夷 陵 貶 謫 は、 欧陽脩が官僚人生を開始して味わった、最初の大きな挫折 である。欧陽脩は夷陵の文明との縁遠さに愚痴をこぼして おり (11 ( 、自己の境遇に大いに不満があったようである。翻っ て歴史上、この夷陵において人生最大の挫折を味わった男 は、 蜀 の 劉 備 で あ っ た (11 ( 。 特 に 裏 付 け る 資 料 は 無 い が、 腐 敗政治の黒幕(と彼が見なした)呂夷簡と対立する范仲淹 を公然と弁護したことで左遷の憂き目にあった欧陽脩の脳 裏には、臣下の仇討ちに出陣し、夷陵で大敗北を喫した劉 備のことが想起されたのかもしれない。ただし、欧陽脩は 劉備主従に肯定的ではあるものの、事は「欧陽脩は劉備と 同じ場所で人生の挫折を味わい蜀贔屓になった」という単 純なものではない。現に、 「明正統論」 「魏論」など改訂前 の 正 統 論 七 首 は、 康 定 元 年( 一 〇 四 〇 ) の 作 だ と い う (1( ( 。 欧陽脩が曹魏正統論を展開したのは、夷陵貶謫後なのであ る。劉備への同情は、あったとしても一要素に過ぎぬであ ろう。ただし、この夷陵貶謫期、彼の学問傾向が大きな転
― 66 ― 換 を 遂 げ た こ と は、 既 に 多 く の 先 行 研 究 に 指 摘 が あ る (11 ( 。 そして『五代史記』執筆が開始されたのは、彼が夷陵にい る間のことであることも注意すべきである。 その後、欧陽脩の夷陵貶謫前後から、宋は西夏の脅威が 深刻となり (11 ( 、仁宗は改革を進めるべく、嘗て追われていっ た 范 仲 淹 や 欧 陽 脩 ら を 招 聘 し て、 改 革 の 任 に 当 た ら せ た。 慶暦三年(一〇四三)に始まったこの改革は、 慶暦の新政、 あ る い は 慶 暦 の 改 革 と 呼 ば れ る。 小 島 毅『 中 国 の 歴 史 7 中国思想と宗教の奔流 宋朝』 (講談社、二〇〇五年)は、 慶暦の改革を担った欧陽脩ら若手を、 理想主義を掲げる 「澶 淵の盟のあとに生まれ、契丹の脅威を感じたことのない世 代、 「戦争を知らない子供たち」 」と表現している。欧陽脩 は、知識としては西夏問題は知っていたろうが、今度は実 際の政治の場において、自らの仕える宋朝が、彼らが西方 の野蛮人と見做していた筈の西夏の脅威に怯えるという現 実を突きつけられたことになる。 慶暦の改革は、 早くも慶暦五年(一〇四五)に頓挫する。 それと時期を前後して欧陽脩は、またも左遷の憂き目に遭 う。その後も欧陽脩は、濮議において司馬光らと激論を繰 り広げ、挙げ句の果てには息子の嫁との密通で告発される など、不遇なことが多く、自ら求めて地方に転出した。彼 は 治 平 四 年( 一 〇 六 七 )、 知 亳 州 と な っ て い る。 彼 が 赴 任 し た と き、 真 宗 朝 期 に 重 視 さ れ た 亳 州 魏 武 帝 廟 (11 ( は ど の よ うな様子だったのであろうか。同年五月に現地に赴任した 欧 陽 脩 も 謁 し て い る 可 能 性 が あ る が (11 ( 、 こ れ が 彼 の 正 統 論 や曹操評価に影響を与えた形跡は無い。尤も、彼は翌年十 月には知青州として現地に赴任しているから、かくも短い 亳州滞在では無理もないであろう。その後致仕を求めて許 可された欧陽脩は、熙寧五年(一〇七二)閏七月、六十六 歳の波瀾の生涯を閉じた。 (二)現実に対する鑑戒としての史 欧陽脩の著した史書に、彼の抱いていた不満や現状に対 する危機感が投影されていること、そして歴史を鑑とせね ばならぬという意識が看取できることは、先行研究に指摘 がある。たとえば石田肇「新五代史撰述の経緯」 (『東洋文 化』四一、 四二合併号、一九七七年)は、 『新五代史』撰述 の契機を、景祐の党議における政治的挫折、すなわち夷陵 左遷に求め、 同書には彼自身の鬱憤が託されていると説く。 また石田によると、欧陽脩は、彼が生きた慶暦二年を五代 十国時代の再来とする危機意識を持ち、鑑戒として『五代 史記』を執筆したという。また小林義廣によると、慶暦の 改革を担った欧陽脩の現実社会に対する批判的認識が、 『五 代史記』において士大夫像・君主像・国家像として展開さ
れているといい、 「欧陽脩は、 『五代史記』を叙述しながら、 自らの国家のあるべき姿を追求していたといえよう」と結 論している (11 ( 。小林義廣はまた、 『五代史記』 において 「失節」 の代表として批判される馮道への評価は呂夷簡評価と軌を 一にしており、范仲淹を筆頭とする改革派は仁宗を信頼し て お ら ず、 『 五 代 史 記 』 の 君 主 論 に は「 用 人 」 を よ く す る 理想的君主像が投影されているとも説く (11 ( 。有名な 「朋党論」 は、仁宗が范仲淹らの朋党に猜疑の目を向けたことへの弁 解的反論の性格を持つ。 欧陽脩は、 君主に対し不信感を持っ ていたというと言い過ぎかもしれぬが、少なくとも君主が 自分たちを全面的に信頼していないことに不満を持ってい たのは確かであろう。 かかる欧陽脩の君主に対する心境は、 劉備と諸葛亮の信頼関係に対する憧憬(前述)からも看取 できる。 欧陽脩の史書著述の中に彼が有していた現実的意識の反 映を看取するこれらの指摘は、首肯すべき見解であると思 われる。となれば、欧陽脩の持つ歴史意識の中でも大きな テーマである「正統」も、彼の持つ現実に対する意識、国 家観と無関係であろうはずはない。従来、欧陽脩の正統論 に対しては「正統性そのものを問題としてそこにある原理 を見出し、その原理によって各王朝の正統性の判定もしよ うとした」 (11 ( とする理解を代表に、欧陽脩の政治的な意図や 現実社会に対する主張などとは無縁のものとして検討され てきたが、彼の正統論にも何かしら現実的な意図が込めら れていると考えるべきだと思われる。実際、正統論関連の 著述である「魏梁解」にて、曹魏や梁の悪を明記すること で悪事を行う人がいなくなるという鑑戒の作用を期待する と論ずる部分があることは、先に見た。 それでは、欧陽脩が正統論に投影した現実的意識とは何 であろうか。 (三)北宋と曹魏 西晋以来隋唐まで、曹魏を中心に三国時代を捉える史観 が主流であった大きな理由は、曹魏こそ禅譲による政権交 代を確立した王朝であったことにある。北宋初期の曹魏正 統論もその延長上に位置づけられるのであって、北宋の成 立が曹魏と共通点が多かったことは、 前掲『四庫全書総目』 が「北宋の士大夫は避けるところがあって曹魏を偽としな かった」と指摘する通りであった。かかる事実を踏まえた とき、欧陽脩が曹魏正統論を撤回したことは、極めて意味 深 長 と 言 わ ね ば な ら な い。 『 四 庫 全 書 総 目 』 の 表 現 を 借 り るならば、 避けるべきを避けずに曹魏を偽としたのである。 これについて、 取り上げておきたい点がある。欧陽脩は、 改訂前の一連の正統論作品のうち、その総論的部分におい
― 6( ― て、以下のように述べている。 自周之亡迄于顕徳、実千有一百一十三年之間、或理或 乱、或取或伝、或分或合、其理不能一概、是以論者於 此而難也。 (11 ( (「原正統論」 ) これとほぼ同内容の箇所が改訂後の作品である 「正統論上」 にあることから、一貫した論であったと見て良い。ここで 注目したいのは、改訂前は、宋の「正統」について特に論 じていないという点である。大宋が「正統」な王朝である ことは自明ゆえ、 論ずる必要無しとの意識の表れであろう。 と こ ろ が、 改 訂 後 の 論 に お い て は、 「 正 統 論 上 」 の ほ か に序論でも類似したことを述べているのだが、ここには改 訂後のみに見られる要素があることに気づく。 然尭舜三代之一天下也、不待論説而明。自秦昭襄訖周 顕 徳、 千 有 余 年。 治 乱 之 迹、 不 可 不 辨。 而 前 世 論 者、 靡有定説。伏惟、大宋之興、統一天下、与尭舜三代無 異。臣故曰「不待論説而明」 。( 「正統論序論」 ) (11 ( 改定前の正統論において、 欧陽脩はわざわざ「宋は「正統」 で す 」 と 言 う こ と は な い。 と こ ろ が 改 訂 後 の 正 統 論 で は、 こ れ を 序 論 に て 主 張 し て い る。 「 論 ず る ま で も な い こ と 」 と強調しているが、その論ずるまでもないことを論じてい るのも弁解的要素が看取できよう。宋の「正統」を否定し た論だと批判される可能性があることも踏まえ、あらかじ め先手を打ったとも考えられる。そこまでして彼が主張し たかったことは何であろうか (1( ( 。 前述のように、 初期趙宋と曹魏には類似性が高い。就中、 真 宗 は 自 ら と 宋 朝 を 曹 操 と 曹 魏 に 仮 託 す ら し て い る( 注 ( 4) 所 掲 拙 稿 参 照 )。 と な れ ば、 欧 陽 脩 が 曹 魏 を「 正 統 」 から外したことは、宋の「正統」に対し何らかの意見を彼 が有していた可能性が高い。 ここで、 煩を厭わず欧陽脩の曹魏論の変遷を確認すると、 以下のようになる。改訂前の論では、曹魏は「統」ではな いものの「漢より取」ったから「正」であり、 故に「正統」 で あ る と し た。 と こ ろ が 改 訂 後 は、 「 正 」 は ほ と ん ど 顧 み られることなく「統」のみが重視され、それを達成できな かった曹魏は「正統」から除外されることとなった。 注意すべきは、かかる条件が趙宋にそのまま合致してし まうことである。趙宋は、禅譲により成立した史上最後の 王朝であり、 かかる禅譲による歴代王朝の継承関係は、 「魏 論」 (改訂前) に従えば 「正」 の定義に該当する。ところが、 改 訂 後 の 彼 の 論 で は「 正 」 は 重 視 さ れ な い。 そ し て「 統 」
の要素に目を転ずれば、欧陽脩は「宋が天下統一したこと は、尭舜三代と変わらない」と主張しているものの、実際 のところ宋の悲願であった燕雲十六州の奪回は、遂に成就 することはなかった。慶暦の改革期、西夏問題に実際に直 面した欧陽脩は、これを特に実感したに相違ない。欧陽脩 の表現を借りるならば、北宋は曹魏と同じく「統」を達成 できなかった王朝なのである。欧陽脩は、かかる宋朝の現 状に危機意識を抱いており、それが正統論にも表れたので はあるまいか。東英寿の指摘する欧陽脩の著作改訂期の分 水嶺が慶暦四年であること(前述)もこれを裏付ける。欧 陽 脩 が 正 統 論 を 改 訂 し て 曹 魏 の「 正 統 」 を 否 定 し た の は、 慶暦の改革の最中、あるいはその挫折後ということになる か ら で あ る。 東 に よ る と、 改 訂 後 の「 正 統 論 」 上 下 篇 は、 欧陽脩がその最晩年に『居士集』を編纂するに当たって作 り替えたものであるという。これに従えば、改訂後の正統 論は、欧陽脩の長い人生経験に基づく、彼のほぼ最終見解 ということになろう。 このように考えた時、改訂後の論において欧陽脩が宋朝 の「正統」に言及していることと、 曹魏や五代梁の「正統」 を 否 定 し た こ と、 「 正 」 で は な く「 統 」 の み を 重 視 す る よ うになったことは、密接な関係があるように思われる。す な わ ち、 「 天 下 統 一 で き な か っ た 魏・ 梁 に「 正 統 」 た る 資 格はない。それと同様、契丹や西夏の脅威にさらされる我 が宋朝の「正統」も揺らいでいる」というのが、欧陽脩の 主張なのではあるまいか。 ただしこのことは、 「欧陽脩は北宋と皇帝を憎んでおり、 曹操や曹魏に比して北宋朝を悪し様に罵った」ということ ではない。 これは彼なりの宋朝への忠義だったのであろう。 齋木哲郎は、 『新五代史』に見える筆法から、 欧陽脩は「君 主 に 仕 え る 一 途 さ だ け を 臣 下 の 忠 義 の 証 と し て 」 賞 賛 し、 命をかけて忠節を尽くす臣下こそが宋朝存続に欠かせない と い う 意 識 を 持 っ て い た と い う (11 ( 。 欧 陽 脩 自 身、 宋 朝 と 皇 帝に対する忠義を持っていたことは確かであろうが、その ことは、政権や君主に対し全く不満が無いことを意味はし ない。むしろ、忠誠を誓い、宋朝の繁栄を願えばこそ、主 張したいこともあったに違いない。宋朝の現状が自らの理 想と大きく乖離していることを憂いた欧陽脩が、現状に対 す る 危 機 感 を 抱 い た こ と の 表 出 の 一 つ と し て、 「 正 統 」 の 定義および曹魏評価の変化を見たほうが良いのではあるま い か。 「 宋 は 曹 魏 と 同 様 に「 正 統 」 で は な い 」 と 罵 っ た の で は な く、 「 こ の ま ま で は 宋 は 曹 魏 や 後 梁 同 様 に「 正 統 」 ではなくなってしまう」と言っているのである。 欧陽脩の曹魏観が転換した理由の一つは、ここに求めら れよう。すなわち、はじめ欧陽脩は、宋朝の公式見解と同
― (0 ― 様、曹魏を「正統」としたが、慶暦の改革の当事者として 宋朝が「統」でないことを痛感したことにより、現状に対 し 強 い 危 機 感 を 抱 き、 「 統 」 を 重 視 す る 正 統 論 を 展 開 す る に至った。そして、先代皇帝・真宗が尊崇し、北宋朝と類 似 し た 点 の 多 い 曹 魏 の「 正 統 」 を 否 定 す る こ と を 通 し て、 このままでは宋自身も「正統」たりえないと警鐘を鳴らし たと考えられるのである。曹魏の「悪」を強調するように なったのも、現状に対する鑑戒の意識の表れであろう。前 述のように、欧陽脩の考える曹魏の「悪」とは簒奪を主に 指していると思われる。 これを厳しく批判する彼の思想は、 齋木の指摘する「命をかけて忠節を尽くす臣下こそが宋朝 存 続 に 欠 か せ な い と い う 」 欧 陽 脩 の 意 識 と 軌 を 一 に す る。 慶暦の改革を経験した欧陽脩にとって、曹魏は真宗期に見 ら れ た よ う な 宋 の 仮 託 で あ っ て は な ら ず、 「 正 統 」 の 面 か らも「悪」の面からも、宋の反面教師たるべき存在となっ たのである (11 ( 。 (四)欧陽脩の三国論の位置づけ 正統論の祖とされる欧陽脩であるが、注( (0)などでも 述べたように、彼以前から「正統」の表現はあった。とく に、欧陽脩に先行して編まれた『冊府元亀』で展開される 三 国 正 統 論( 前 掲 ) は、 曹 魏 の み を「 正 統 」 と し た こ と、 その理由を後漢から禅譲を受けたことに求めたこと、呉蜀 の「正統」を否定したこと、五行説への関心が薄いことを 特徴としているが、これは欧陽脩の正統論と極めて類似し た論展開になっている。つまり欧陽脩の正統論は、彼が一 から発明したものというより、 当時の宋朝における「正統」 の概念の萌芽という大きな流れの中で形成されたものと捉 えるべきであろう。そしてこの「正統」という概念は、欧 陽脩によって具体的な定義を与えられ(後世の論者は必ず しも彼の定義を遵守はしなかったが) 、それまで曖昧であっ た 前 代 政 権 に 対 す る 評 価 も、 「 正 統 」 を 検 討 す る 議 論、 す なわち正統論という形で具体化されたのである。 欧陽脩自身は、三国の中で曹魏を中心に扱うことは一貫 し て い た も の の、 そ の「 正 統 」 は 否 定 す る に 至 り、 「 悪 」 という評価をも下した。また、曹魏と梁を同列に扱ったこ とにより、曹操は唐の簒奪者として大いに憎まれていた朱 全忠に比肩する悪人と定義されたことになる。無論、既に 見 て き た 通 り、 曹 操 を 悪 人 と す る 意 見 は 既 に 存 在 し た が、 朱全忠という彼らの生きた時代に近い憎まれ役に比せられ ることにより、簒奪者・悪人としての曹操像は、具体的で 強い形象を持つことになったと思われる。 と ま れ、 北 宋 諸 儒 の 三 国 論 は こ れ 以 降、 「 正 統 」 を 軸 と し て 展 開 し (11 ( 、 南 宋 に お け る 蜀 漢 正 統 論 へ と 繋 が る の だ が、
斯かる「正統」を軸とした三国論の展開は、欧陽脩抜きに 語ることはできないのである。 おわりに 北宋における正統論は、従来の単なる王朝の自己正当化 の手段から一歩昇華した側面を有していた。かかる正統論 を確立した人物こそが欧陽脩なのであり、 彼の正統論は 「正 統 」 が 時 と し て 絶 え る こ と を 公 言 す る な ど の 側 面 を 持 ち、 現代の我々から見ても現実的な歴史観の持ち主だと思わせ る。ただし、 彼の正統論は必ずしも純粋に「原理を見出し、 そ の 原 理 に よ っ て 各 王 朝 の 正 統 性 の 判 定 も し よ う と し た 」 (11 ( 側面のみによって構成されているのではない。彼の著した 『 五 代 史 記 』 が そ う で あ っ た よ う に、 彼 の 史 観 の 一 側 面 を 担う正統論にも、欧陽脩自身の持つ現実社会への意識を反 映したという性格がある。彼の正統論には、契丹や西夏と いった勢力の擡頭に対する危機感の表出としての性格が認 められるのであり、一度は自ら認めた曹魏の「正統」を後 年になって否定したことは、その最たるものであった。ま た、劉備と諸葛亮の君臣関係に対する賞賛は、政治的に不 遇なことの多かった欧陽脩による劉備主従への理想視とい う性格を有している。 欧陽脩の立てた「正統」という定義は、同時代のみなら ず後世に大きな影響を与え、その後の三国論に対しても理 論的枠組を提供した。かかる性格を帯びた三国論は、北宋 諸儒の広範な議論へと発展してゆくが、それは稿を改めて 論じたい。 注 ( () 六 朝 よ り 唐 代 の 三 国 論 の 特 徴 と そ の 変 遷 に 関 し て は 、 拙 著 『 中 国 知 識 人 の 三 国 志 像 』( 研 文 出 版 、 二 〇 一 五 年 ) 一 ~ 六 章 を 参 照 。 ( () こ れ に つ い て の 概 観 は 、 近 藤 正 則 「 資 治 通 鑑 綱 目 の 周 辺 ─ 蜀 漢 正 統 論 と 諸 葛 亮 評 価 を め ぐ っ て─ 」( 『 漢 文 学 会 会 報 』 三 一 、一 九 八 六 年 ) を 参 照 。 ま た 筆 者 も 、 以 前 こ れ に 関 し て 「 三 国 論 に 見 る 朱 熹 の 歴史 意 識 」 と 題 し た 発 表 を 行 い ( 東 方 学 会 平 成 二 十 四 年 度 秋 期 学 術 大 会 )、 現 在 論 考 を 準 備 中 で あ る 。 ( () 欧 陽 脩 に は 、「 欧 陽 修 」 と す る 表 記 も あ る 。 こ れ に つ い て 小 林 義 廣 「 欧 陽 修 か 欧 陽 脩 か 」( 初 出 は 『 東 海 史 学 』 三 一 、一 九 九 六 年 。 の ち 、 小 林 義 廣 『 欧 陽 脩 そ の 生 涯 と 宗 族 』 創 文 社 、二 〇 〇 〇 年 に 収 録 ) に よ る と 、本 人 が 「 欧 陽 脩 」 と 記 す の を 好 ん だ 傾 向 が 認め ら れ る と い う 。 ま た 『 宋 史 』 巻 三 百 一 十 九 の 本 伝 で も 「 欧 陽 脩 」 と 記 し て い る 。
― (( ― 本 論 で は こ れ ら を 踏 ま え 、 先 行 研 究 題 目 な ど の 例 外 を 除 い て 「 欧 陽 脩 」 で 統 一 す る 。な お 、 欧 陽 脩 の 生 涯 に つ い て は 、 前 述 し た 『 宋 史 』 本 伝 に加 え 、 小 林 義 廣 『 欧 陽 脩 そ の 生 涯 と 宗 族 』( 前 掲 ) 所 収 「 欧 陽 脩 小 伝 」、 東 英 寿 『 欧 陽 脩 古 文 研 究 』( 汲 古 書 院 、 二 〇 〇 三 年 ) 上 篇 第 一 章 「 欧 陽 脩 の 略 伝 ─ そ の 古 文 制 作 と の 関 連 を 中 心 と し て ─ 」、 王 水 照 ・ 崔 銘 『 欧 陽 脩 伝 』( 天 津 人 民 出 版 社 、二 〇 一 三 年 )、 劉 徳 清 『 欧 陽 脩 紀 年 録 』(上 海 古 籍 出 版 社 、 二 〇 〇 六 年 ) を 参 照 し た 。 ( 4) 前掲 拙 著 第 七 章 「 澶 淵 の 盟 と 曹 操 祭 祀 ─ 真 宗 朝 に お け る 「 正 統 」の 萌 芽 」、 第 八 章「 宋 代 に お け る 三 国 論 の 展 開 と「 正 統 」」 を 参 照 。 ( 5) 其 の 後 、建 安 失 御 し 、三 国 分 峙 し 、魏 文 山 陽 の 禅 を 受 け 、 天 地 の 中 に 都 す 。 之 を 「 正 統 」 と 謂 ふ は 、 其 の 宜 し き を 得 た り 。 劉 先 主 は 梁 益 に 僻 処 し 、 孫 大 帝 は 江 左 に 遠 拠 し 、 自 ら 尊 名 を 窃 む も 、 神 器 有 る 靡 く 、 誠 に 共 工 の 匹 に 非 ず 。 然 し て 亦 た 「 正 統 」 に 異 な れ ば 、 故 に 同 に 閏 為 り 。 劉 氏 孝 景 の 後 為 り て 、 季 漢 の 称 有 り と 雖 も 、 蓋 し 赤 伏 の 数 已 に 尽 き 、 黄 星 の 兆 又 彰 ら か な る を 以 て 、 拠 る に 足 ら ず 。 ( 6) 習 鑿 歯 の 三 国 論に つ い て は 、 前 掲 拙 著 第 三章 「 再 仕 官 へ の 希 望 と 曹 操 評 価 ─ 『 漢 晋 春 秋 』 の 「 蜀 漢 正統 論 」 に つ い て ─ 」 を 参 照 。 ( () 此 れ 猶 ほ 宋 太 祖 の 簒 立 は 魏 に 近 く 、 而し て 北 漢 ・ 南 唐は 蹟 蜀 に 近 く 、 故 に 北 宋 の 諸 儒 は 皆 避 く る 所 有 り て 、 魏 を 偽 と せ ざ る が ご と し 。 ( () 趙 匡 胤 の 即 位 に 関 す る 「 陳 橋 の 変 」 は 、 趙 匡 胤 が半 ば 強 制 的 に 即 位 させ ら れ た 美 談 と し て 有 名 だ が 、 こ の 一 連 の 即 位 劇 が 入 念 に準 備さ れ た 簒 奪 で あ っ た こ と は よ く 知 ら れ て い る 。 つ ま り 趙 匡 胤 の 即 位 は 、 禅 譲 の 形 式 は 取 っ て い る が 実 際は単 な る簒 奪 で あ り 、 こ の 点 も 漢 魏 革 命 と の 類 似 点 で あ る 。 ( () 澶 淵 の 盟 が 宋 の 士 大 夫 に 与 えた衝 撃 は 、 近 藤 一 成 「 宋 代 士 大 夫 政 治 の 特 色 」( 『 岩 波 講 座 世 界 歴 史 9 中 華 の 分 裂 と 再 生 』 岩 波 書 店 、 一 九 九 九 年 ) な ど を 参 照 。 ま た 、 溝 口 雄 三 ・ 池 田 知 久 ・ 小 島 毅 『 中 国 思 想 史 』( 東 京 大 学 出 版 会 、 二 〇 〇 七 年 ) は 、 唐 全 土 の 「 再 統 一 」 を 果 た せ な か っ た 宋 が 、 遼 に対 抗 し て 自 ら を 唐 の 後 継 と 主 張 する た め に用 い た 理 論 が 正 統 論 で あ っ た と 指 摘 す る 。 澶 淵 の 盟 の 衝 撃 は 、 こ う い っ た 遼 に対 し 優 位 性 を示 そ う と する 宋 の 意 識 を 決 定 的 な も の と し た の で あ っ た 。 ( (0) 例 え ば 、 西 順 蔵 「 北 宋 そ の 他 の 正 統 論 」( 『 一 橋 論 叢 』 三 〇 ─ 五 、一 九 五 三 年 。『 西 順 蔵 著 作 集 』 内 山 書 店 、 一 九 九 五 年 、 第 一 巻 に 採 録 ) も 、「 正 統 と い う 題 目 は 北 宋 の 欧 陽 脩 が は じ め て 立 て た 」 と 指 摘 す る 。 無 論 、 欧 陽 脩
以 前 に 「 正 統 」 と い う 表 現 が 無 か っ た わ け で は な い 。 例 え ば 、 饒 宗 頤 『 中 国 史 学 上 之 正 統 論 』( 香 港 竜 門 書 局 、 一 九 七 七 年 ) は 、 王 褒 「 聖 主 得 賢 臣 頌 」 に 見 え る 「 正 統 」 を 引 い て 、 こ れは 『 春 秋 』 の 「 王 正 月 」 と同 義である と す る 。 ま た 、 汪 文 学 「 再 論 中 国 古 代 政 治 正統 論 」( 『 貴 州 文 史 叢 刊 』 第 六 期 ) は 、 班 固 の 書 の 中 に た び た び 「 正 統 」 が 登 場 す る こ と に 論 究 し 、 そ の 意 味 する と こ ろ は 「 帝 位 の 正し い 継 承 、 血 統 の 正し さ 」 と い っ た 意 味であ る と 指 摘 す る 。 ま た 本 論 で 述 べ た 通 り 、『 冊 府 元 亀 』 に は 欧 陽 脩 の 正統 論 と 極め て 似 た 概 念 で 「 正統 」 の 語 を使 用 し た 例 が あ る 。 ( (() 南 宋 の 人 。 欧 陽 脩 の 著 作 を 集め 『 欧 陽 文 忠 公 集 』( 『 欧 陽 文 忠 公 文 集 』と も )を 編 纂 す る 。 入 念 な 校 訂 を 経 た も の で 、 東 英 寿 「 欧 陽 脩 の 『 居 士 集 』 編 纂 の 意 図 」(『 中 国 文 学 論 集 』 一 七 、一 九 八 八 年 ) は こ れ を 「 後 の 欧 陽 脩 文 集 の 版 本 の 決 定 版 」 と 指 摘 す る 。 本 論 で 用 い る 欧 陽 脩 の 著 作は 、 四部 叢 刊 版 『 欧陽 文 忠公文 集 』 を 底 本 と し た 。 な お 、 李 逸 安 点 校 『 欧 陽 脩 全 集 』( 中 華 書 局 、 二 〇 〇 一 年 ) は 、 底 本 に こ の 周 必 大 に よ る 版 本 で は な く 、 欧 陽 衡 に よ る 版 本 を 使 用 し て い る 。 こ れ に つ い て は 、 東 英 寿 「 欧 陽 衡 『 欧 陽 文 忠 公 全 集 』 に つ い て ─ 中 華 書 局 『 欧 陽 脩 全 集 』 の 底 本 選 択 の 問 題 点 ─ 」( 『 橄 欖 』 一 〇 、二 〇 〇 一 年 一 二 月 。 前 掲 『 欧 陽 脩 古 文 研 究 』 に 収 録 後 、 再 改 訂 の 上 、 同 『 欧 陽 脩 新 発 見 書 簡 九十 六 篇 』 研 文 出 版 、 二 〇 一 三 年に 収 録 ) に て そ の 問 題 点 が 指 摘 さ れ て い る 。 ( (() 惟 だ 『 居 士 集 』 の み は 公 の 決 択 を 経 、篇 目 素 よ り 定 ま る 。 而 れ ど も 衆 本 を参 校 す る に 、 其 の 辞 を 増 損 す る こ と 百 字 に 至 る 者 有 り 、 後 章 を 移 易 し て 前 章 と 為 す 者 有 り 。 皆 已 に 其 の 下 に 附 注 す 。「 正統 論 」「 吉 州 学 記 」「 瀧 岡 阡 表 」 の 如 き は 、 又 迥 然 と し て 同 じ か ら ざ れ ば 、 則 ち 外 集 に 収 寘 す 。 ( (() 東 英 寿 「 欧 陽 脩 の 『 居 士 集 』 編 纂 の 意 図 」( 前 掲 )。 ( (4) 東 英 寿 「 欧 陽 脩 古 文 考 ─ 「 陰 柔 」 の 美 の 形 成 過 程 ─ 」(『 九 州 中 国 学 会 報 』 二 七 、一 九 八 九 年 ) お よ び 同 「「 吉 州 学 記 」 よ り 見 た 欧 陽 脩 の 文 章 修 改 に つ い て 」( 『 鹿 大 史 学 』 四 九 、二 〇 〇 二 年 )。 い ず れ も 改 題 の 上 、 前 掲 『 欧 陽 脩 古 文 研 究 』 に 収 録 。 ( (5) 「慶 暦 四 年 、京 師 刊 『 宋 文 粹 』 十 五 巻 、皆 一 時 名 公 之 古 文 、 「正 統 論 」 七 篇 在 焉 。 蓋 公初 本 也 、『 外 集 』 此巻 。 則 公 所 自 改 者 、 至 『 居 士集 』 十七 巻 、 方 為 定 本 。 今 並 存 之 、 使 学 者 有 考 焉 。( 慶 暦 四 年 、 京 師 に て 『 宋 文 粹 』 十 五 巻 を 刊 す 、 皆 一 時 の 名 公 の 古 文 に し て 、「 正 統 論 」 七 篇 は 焉 に 在 り 。 蓋 し 公 の 初 本 は 、『 外 集 』 の 此 の 巻 な り 。 則 ち 公 の自 ら 改 む る 所 の 者 は 、『 居 士 集 』 十 七 巻 に至 り て 、
― (4 ― 方 に 定 本 と 為 る 。 今 並 び に 之 を 存し 、 学 者 を し て 考 有 ら し む )」 (『 外 集 』 巻 九 ) と あ る 。 ( (6) 東 英 寿 「 欧 陽 脩 の 『 居 士 集 』 編 纂 の 意 図 」( 前 掲 )。 同 論 は 、 慶暦 四年 、 改 訂 前 の 正 統 論七 首を 含む 『 宋 文 粹 』 が 刊 行 さ れ た こ と を 以 て 、 同 年 を 分 水 嶺 と し て い る 。 ( (() 「 正 」 は 、 天下 の 不 正 を 正 す 所 以な り 。「 統 」 は 、 天下 の 不 一 を 合 す る 所 以 な り 。 不 正 と 不 一 に 由 よ り 、然 る 後 に 「 正 統 」 の 論 作 おこ る 。 ( (() 寺 地 遵 「 欧 陽 修 に お け る 天人 相 関 説 へ の 懐 疑 」( 『 広 島 大 学 文 学 部 紀 要 ( 日 本 ・ 東 洋 )』 二 八 ― 一 、一 九 六 八 年 ) は こ れを 専 門 に 論 じ て い る 。 金 鑫 ・ 曹 家 斉 「 説 欧 陽 修 的 正 統 論 思 想 」( 『 史 学 史 研 究 』 二 〇 〇 五年 二 期 ) は 、 欧 陽 脩 の 正 統 論 は 五 徳 終 始 説 へ の 批 判 を 基 礎 と し て お り 、『 春 秋 公 羊 伝 』 を 理論 的 根 拠 と し 、 宋 学 の 特 徴 を 帯 び た も の で あ る と い う 。 一 方 で 小 林 義 廣 「 欧 陽 脩 に おけ る歴 史 叙 述 と 慶 暦 の 改 革 」( 『 史 林 』 六 六 ─ 四 、一 九 八 三 年 。 改 題 の 上 、 前 掲 『 欧 陽 脩 そ の 生涯 と宗 族 』 に 収 録 ) は 、 欧 陽 脩 の 天 人 相 関 説 の 否 定 は 全 面 的 な も の で は な い と す る 。 ( (() 西 順 蔵 前 掲 論 文 で は 、 本 稿 の 区 分 する ④ と ⑤ は 統 一 し て 扱 っ て お り 、 差 異 を 設 けて い な い 。確 か に 、 欧 陽 脩 の 文 章か ら は④ と ⑤ に 境 界 が 設 け ら れ て い る か 否 か微 妙 で あ り 、 また ④ ⑤ い ず れ も 「 正 統 」 と 認 め て い な い 点 は 同 様 で ある 。 だ が 本 論 で述 べ た よ う に 、 改 訂 後 の論 に お い て 欧 陽 脩 は 、「 両 立 し 、 い ず れ も 「 正 」 で 義 が 等 し い 」 例 と し て 東 晋 と 北 魏 を 挙 げ て い る の に 対 し 、「 正 」「 統 」 い ず れ で も な い 王 朝 と し て 曹 魏 と 五 代 梁 を 挙 げ 、 両 者 の 間 に厳 然た る差 異 を設 け て い る 。 欧 陽 脩 の 三 国 観 を 主 題 と す る 本 論 で は 、 こ れ を重 視し 、 ④ と ⑤ に 分 け て 考 察 を 進 め る こ と と する 。 な お 、 西 も 重 沢 俊 郎 同 様 、 欧 陽 脩 の 正 統 論 に 改 訂 が あ っ た こ と に つ い て は 触 れ て い な い 。 ( (0) 四 部 叢 刊 所 収 『 欧 陽文 忠 公 文 集 』 所 収 『 外 集 』 巻 九 の 校 勘 で は 、こ の 箇 所 に つ い て 「 此 下 注 文 一 有 「 魏 及 五 代 是 也 」 六字 」 と あ り 、 斯か る 割 注 を 記し た 版 本 が 存 在し て い た こ と が 分 か る 。 李 逸 安 点 校 『 欧 陽 修 全 集 』( 前 掲 ) 第 二 冊 収 録 の 同 文 が 同 箇 所 に 「 魏 及 五 代 是 也 」 と い う 注を 入 れ て い る の は 、 こ れ を 踏 ま え て で あ ろ う 。 た だ し 、 斯 か る 割 注 が こ の 箇 所にあ っ た場 合 、 同 文 の前 の 部 分 にあ る 「 斯 謂 之 「 正 統 」、 可 矣 。[ 東 周 ・ 魏 ・ 五 代 。] 」 と い う 一 節 や 、「 魏 論 」 で 展 開 さ れ る 曹 魏 を 「 正 」 と す る 議 論 と 矛 盾 す る こ と に な る 。 推 測 の 域 を 出 な い が 、 と あ る 版 本 で は 、 欧 陽 脩 の 正 統 論 に 改 訂 が あ っ た こ と に 留 意 せ ぬ ま ま 、 改 訂 後 の 「 正統 論 下 」 の 本 文 に あ る 「 魏 及五 代 是 也 」 の 六文 字 を 、 改 訂 前 の 「 明 正統 論 」 に 割 注 と し て 混 入 し た
と い う 可 能 性 を 指 摘 し て お く 。 ( (() … … 夫 れ 天 下 の 正 に 居 り 、 天 下 を 一 に 合 す 、 斯 れ 「 正 統 」 な り 。[ 尭 ・ 舜 ・ 三 代 ・ 秦 ・ 漢 ・ 晋 ・ 唐 。] 天 下 不 一 な り と 雖 も 、 而 れ ど も 其 の 正 に 居 り 得 、 猶 ほ 天 下 当 に 吾 に 正 に し て 一 な る べ し と 曰 ふ 、 斯 れ 之 を 「 正 統 」 と 謂 ふ は 、 可 な り 。[ 東 周 ・ 魏 ・ 五 代 。] 始 め 其 の 正 を 得 ず と 雖 も 、 卒 に 能 く 天 下 を 一 に 合 し 、 夫 れ 天 下 を 一 に し て 其 の上 に 居 ら ば 、 則 ち 是 れ 天 下 の 君 なり 。 斯 れ之を 「 正 統 」 と 謂 ふ は 、 可 な り 。[ 隋 の 如 き は 、 是 れ な り 。] 天 下 大 い に 乱 れ 、 其 の 上 に 君 無 く 、 僭 窃 並 び 興 ら ば 、「 正 統 」 は 属 す る 無 し 、 是 の 時に 当 た らば 、 奮 然 と し て 起 ち 、 並 び に 天 下 を 争 ふ 。[ 東 晋 ・ 後 魏 。] 功 有 る 者 は強 、 徳 有 る 者 は王 た り て 、威 沢 は 皆 生 民 を 被 おほ ひ 、号 令 は 皆 当 世 に 加 へ ら れ 、 幸に し て 大 を 以 て 小 を 并 せ 、 強 を 以 て 弱 を 兼 ね 、 遂 に 天 下 を 一 に 合 せ ば 、則 ち 大 に し て 且 つ 強 な る 者 、之 を 「 正 統 」 と 謂 ふ は 、 猶 ほ 説 有 り 。 不 幸 に し て 両 立 し 、 相 兼 ぬ る 能 は ず 、 其 の 迹 を 考 ふ れ ば 則 ち 皆 正 に し て 、 其 の 義 を 較 ぶ れ ば 則 ち 均 し け れ ば 、則 ち 「 正 統 」 は 将 は た 安 く に か 与 へ ん 。 其 れ 或 い は 終 始 其の 正 な る を 得 ず 、 又 天 下 を 一 に 合 す る 能 は ざ れ ば 、則 ち 之 を 「 正 統 」 と 謂 ふ 可 き や 、不 可 な り 。 然 ら ば 則 ち 不 幸 に し て 其 の 時 に 丁 あた る こ と 有 ら ば 、則 ち 「 正 統 」 は 時 と し て 絶 ゆ る こ と 有 る な り 。 ( (() … … 夫 れ 天 下 の 正 に 居 り 、 天 下 を 一 に 合 す 、 斯 れ 「 正 統 」 な り 。 尭 ・ 舜 ・ 夏 ・ 商 ・ 周 ・ 秦 ・ 漢 ・ 唐 、 是 れ な り 。 始 め は 其 の 正 を 得 ず と雖 も 、 卒 に 能 く 天下 を 一 に 合 し 、 夫 れ 天 下 を 一 に し て 上 に 居 ら ば 、 則 ち 是 れ 天 下 の 君 な り 。 斯 れ 之 を 「 正 統 」 と 謂 ふ は 、 可 な り 。 晋 ・ 隋 、 是 れ な り 。 天 下 大 い に 乱 れ 、 其 の 上 に 君 無 く 、 僭 窃 並 び 興 ら ば 、「 正 統 」 は 属 す る 無 く 、 是 の 時 に 当 た り て 、 奮 然 と し て 起 ち 、 並 び に 天 下 を 争 ひ 、 功 有 る 者は 彊 く 、 徳 有 る 者は 王 た り て 、 威 沢 は 皆 生 民 を 被 ひ 、 号 令 は 皆 当 世 に 加 へ ら れ 、 幸に し て 大 を 以 て 小 を 并 せ 、 彊 を 以 て 弱 を 兼 ね 、 遂 に 天 下 を 一 に 合 す れ ば 、 則 ち 大 に し て 且 つ 彊 な る 者 、 之 を 「 正 統 」 と 謂 ふ は 、 猶 ほ 説 有 り 。 不 幸 に し て 両 つ な が ら 立 ち 、 相 并 す こ と 能 は ず 、 其 の 迹 を 考 ふ れ ば 則 ち 皆 正 に し て 、 其 の 義 を較 ぶ れ ば 則 ち 均し け れ ば 、 則 ち 「 正 統 」 は 将 た 安 くに か 予 へ 奪 は ん か 。 東 晋 ・ 後 魏 、 是 れな り 。 其 れ 或 い は 終 始 其 の 正 を 得 ず 、 又 天 下 を 一 に 合 す るこ と 能 は ざ れ ば 、則 ち 之 を 「 正 統 」 と 謂 ふ 可 け ん や 。 魏 及 び 五 代 、 是 れ なり 。 然 ら ば 則 ち 不 幸 に し て 其 の 時 に 丁 る こ と 有 ら ば 、 則 ち 「 正 統 」 は 時 と し て 絶 ゆ る こ と 有 る な り 。 ( (() 東 英 寿 「 欧 陽 脩 の 『 居 士 集 』 編 纂 の 意 図 」( 前 掲 )。 ( (4) そ の 他 、 欧 陽 脩 の 正 統 論 に 関 す る 先 行 研 究 の 代 表 と し て 、 陳 芳 明 「 宋 代 正 統 論 的 形 成 背 景 及 其 内 容 ─ 従 史 学 史 的