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移動・定住期におけるアングロ・サクソン人の初期的動向―― 一つの覚え書き――

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移動・定住期におけるアングロ・サクソン人の初期

的動向―― 一つの覚え書き――

著者

原 征明

雑誌名

東北学院大学論集. 経済学

64

ページ

97-122

発行年

1974-03-30

URL

http://id.nii.ac.jp/1204/00024416/

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本稿の目的は、初期アングロ・サクソン・イングランドの社会的特質を把握するたぬの予備的考察として、大陸か ら移動・定住を開始する時期にあるアングロ・サクソン人の動向に少しく検討を加えておくことにある。しかし、当 面の対象となるこの時期は、なるほどアングロ・サクソン・イングランドの歴史的発展に鈴いて、いわばその序幕を 移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 九 七 一、はしがき 二、侵入者の構成とその原住地について 三、移動・定住期のプリテンと若干の問題点 四、アングロ・サクソン人の初期定住地域について 五、結び

移動・定住期における

アングロ・サクソン人の初期的動向、

目 次 | 、 は し が き

’一つの覚え書きI

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いわゆるアングロ・サクソン人︵曾哩。’段xo旨鋤︶と総称される者達が、大陸からイングランドへと大挙して移動・侵 入し、旧来の先住者達を抑えつつ、そこに新たな定佐地を求めるに至ったのは、大まかにいって五世紀中葉’六世 紀末のことであった。もとより、彼らをそのような動向にかりたてたのは、当時ヨーロッパで︽曇昌唱昌o胃F1且︺︾に ︵ 1 ︶ あるゲルマン諸族に認められる事情と、多かれ少なかれ共通のものによることは確かであったろう. ところで、さしあたり本節では当時イングランドに到来したと象なされるこの侵入者達のいま少し詳細な構成や、 また簡略ながらその大陸時代の原住地について検討を加えて茄くことにする。アングロ・サクソン人の移動・定住期 に関わる記述的史料そのものが極めて少ないことは、既に大方の学者の指摘するところであるのだが、当面の間岨に ついては、さしあたりベーダ︵呼侍︶の記述がとりあげられてよいだろう。もっとも、ぺlダの関心班はアングロ・サ ︵ 2 ︶ クソン人の定住過程にあるのではなく、その改宗︵8画く①風。国︶にあったといわれるが、彼の著作の中には移動・定住 期の、当時おそらく非常に複雑であったとおもわれる事情を明瞭・簡潔化した部分が拳られる。即ち、ぺIダば八世 移 勤 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 勤 向 九 八 なす部分ではあるのだが、周知の通り文献史料に極めて乏しく、しばしばイギリス史上の﹁空白時代﹂とまでいわれ ていることば、改めてくり返すまでもない. 本稿で扱う内容ば首記の通りであり、その手がかりをさしあたり﹃イギリス教会史﹄や﹃アングロ・サクソン年代 記﹄などに象られる若干の歴史記述に求めたが、それを補足するために地名学ならびに考古学的分野の成果も併せて ふまえることにより、考察を進めることにする。ただ、筆者の準捕がいたらないために以下の行論中不明確な点があ りはしないかと恐れるが、この領域における先駆的業績の力を借りな溌ら、当面の関心事を整理・検討しておきたい。 二、侵入者の購成とその原住地について

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紀︵七三一年︶に完結したといわれる﹃イギリス教会史﹄︵閏穐弓蔚駒黛亀曾曹・鴬吋堕舗営哩。蔓邑に詣いて、次のよ うに述べたのである。つまり﹁⋮⋮彼らはゲルマ’一ァの有力な三種の民族、即ちサクソン人、アングル人、ジュート 人からやってきたのであった.ケント人、及びウイクトゥァリI︵愚負曽、S、即ちワイト島を保持する種族、また今 日までこのワイト島の対岸に位置する西サクソン人の国でジュート種︵辱蔚、醜鴬菖§︶と呼ばれている種族ばジュー トの源から由来している。サクソン人、即ち現在オールド・サクソン人の地︵吾旬毎乱ao匡騨×・冒切︶と呼ばれてい る地方のサクソン人からば東サクソン人、南サクソン人、西サクソン人が由来した。更に、アングル人、即ちアング ルス︵跨侭ミ粛吻︶と呼ばれ、当時から今日までジュート人の国とサクソン人の国の問に侭き去られるままになっていた といわれる国のアングル人からは、東アングル人、中部アングル人、マーシャ人、ノーサンブリア人、即ちハンバー ︵ 3 ︶ 河以北に居住した種族のすべての子孫、及びその他のアングル人が生じた..:⋮﹂と.以上、少しく長為と右に引用 した箇所は、しばしばわれわれの目にふれる有名な部分であるのだが、当面の問題に関してこの歴史記述から与えら れる手がかりは、次のように要約される。即ちそれは、イングランドに到来したと思われる者達の構成とその原住地、 更にその相互的位確関係が、オールド・サクソンからきたサクソン人、ジュートからのジュート人、またこの両者の 中間の地であるアングルスからきたアングル人であったということである。また、この定住説話では、いわゆるアン グロ・サクソン人がそもそも異穂族をなしていたものとして述べられていることも注目されよう。もとより、われわ れにとってはこのように明瞭・簡潔に表現されたベーダの記述も一つの参考にすぎないわけであるが、以下では遁説 をふまえつつ更に考察を進めて染ることにする。 先ずアングル人に関して、漠然と彼らがアングルスぐざ鬮餅︶からきたといわれる時、それがいま少し具体的には どこを恵味していたかということからである。さて、ベーダとは別にアングル人とその位瞳についてふれた記述には、 移 動 贈 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 勤 向 九 九

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さて次に、移動・定住期に諦けるいま一つの主流、サクソン人の場合について補足を試染る.丁度アングル人の場 合と同様に、語源上から染て︽鯛画xo弓ごなる言葉が何を意味したかということも、少しく興味あるところである。もと より、これについての厳密な意味は不明であるが、他方次のようなことがしばしばいわれていることも事実である。 即ちそれは蟹×・ロが、そもそも鋭利な片刃の短剣・ナイフという意味の︽︽淵酋x︺︾またば震憩冨菖からの派生譜をなして いるという指摘である。従って、あるいは彼らが実際にそのような特徴の武器茜使用していた者達であったかもしれ ︵ 9 ︶ ないし、また何らかの関係でそこから名前を付与された部族であったと推論することも可能だろう。このようなサク 移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 勤 向 一 ○ ○ 例えばタキトゥスやプトルミー亀8行目己のものがある。即ち﹃ゲルマー’一ア﹄の中では恥曽興職なる名のもとにあ るのがそれで、彼らはネルトゥス︵這可詩禽︶女神を尊信する七族の一つとされ、エルペ河下流地方からユトランド半 ︵ 4 ︶ 島の北部にかけて、その原住地があったと思われることである。これに対して、プトルミーはアングル人を内陸の者 ︵ 5 ︶ 達と魏なし、彼らをエルペ河中流の西に位置づけたといわれ、タキトゥスの場合とくいちがっているのだが、この点 ︵ 6 ︶ に関する限りプトルミーの指摘は誤りであったと象るのが油説である。な講、語源上から詮た場合、そもそもこのア ングルスというのは︽︽艶侭冨旨に関わるオールド・イングリッシュの農曽侭亀︾で、釣り針急普古8画と同じ意味を ︵ 7 ︶ 有する言葉なのであり、おそらくその場所が河川の屈曲した所、曲りくねった河川の所にある地と表現される、いく つかの地形的特徴を有していたことが考えられている。要するに、これらのことからアングルスは、大まかにいえば ︵ 8 ︶ 今日のユトランド半島とそれに隣接する島々を包含した地域を意味するといえよう。ただし、より直接的にほその中 の比較的小さな地域、即ちシユレスヴィッヒ︵稗匡の唖君侭︶付近にアングル人の原住地が求められるのである。もちろ ん、この点に関しては考古学的側面から与えられる若干の証拠もあるが、それは後で簡略ながら指摘しておくことにん、こ︵ したい。

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ソン人の原住地として、周知の通りベーダはそれをオールド・サクソン︵○露醗xoご︶であるというのだが、タキト ゥスによってはこの者達に関して言及されなかったのである。それに対してプトルミーは、サクソン人達をキムブリ ァ半島︵。目高。罵冒冒切昌騨︶lユトランドーのつけ根、即ちおそらく今日のホルスタイン︵函。箭房gに相当する ︵ 脚 ︶ 地域に位瞳づけていたといわれる。もちろん、このようなプトルミーの記述もそれ自体適切であったか否かというこ とが問われればならない溌、結論的にいえばサクソン人に関する彼の位置づけは、事実上適切であったと思われる。 さて、以下に象る考古学的分野からの若干の指摘ば、このサクソン人達の原住地が大む湘西ホルスタイン︵竃の鷺 国。宮①旨︶地方であったこと、また前記アングル人のそれがシユレスヴィッヒ付近に求められることを示唆するものと いえよう。その考古学的証拠というのは、例えばアングロ・サクソン人における埋葬上の慣習や、それとの関わりで 与えられるものなのである。即ち通説によると、イングランドに移動・定住を行なった異教時代のアングロ◆サクソ ン人達ば、死者を火葬︵R①目昌o口︶にし、これを衣服の結び合わせに使用するバックル、また、ブローチなどの装飾品 と共に骨壷に入れて埋葬する慣習を有したといわれている。従って、この場合に用いられた壷の特徴から、それがと りわけアングロ・サクソン人のものであると判断され、同時にその発掘地点が明らかにされるなら、当面の問皿であ る彼らの原住地に関して手がかりが得られることはいうまでもない。この種の方法による初期アングロ・サクソン人 の分布を早くに手然けたのはドイツの伊里豊丙であり、彼は冒恩⑦く。目②晩のアングロ・サクソン人区域のものと検 証される篭のタイプが、それぞれ南シユレスヴィッヒならびに西ホルスタインの共同墓地で、われわれの時代の堆初 ︵ 皿 ︶ の二世紀間に見出されるものであることを主張したという。また、アングル人に関わるものとして、リーズa︲弓. 原&“︶がとりあげているポルグシュテッ卜︵呼侭肖邑の大規模な厘日︲牙壷の例証がある。この場所ばシュレスヴィ ッ上の犀且抽冒侭の北約半マイルのところに位腫しており、そこからはいずれも火葬の骨壷が多数発見されたので 移 動 定 佐 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 一 ○ 一

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移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 一 ○ 二 ある。この場合、壷の形状や装飾は必らずしも統一していないが、しかしそれらはまさにイギリスの多数の墳墓、特 にアングル人地域から出土するものに対比でき、また内容物から判断してそれらの火葬骨壷が、四世紀ならびに五世 ︵ 吃 ︶ 紀の一部を含む時期にわたるものだというのである。 以上、簡略ながらアングル人ならびにサクソン人の原住地に関わる考古学的証拠を付記したが、これらのことによ り両者の原住地がそれぞれシユレスヴィッヒと西ホルスタイン地方であったと染なしてよいだろう。もちろんこのこ とは、イングランドに到来したアングロ・サクソン人達が、侵入期の直前まで彼らの原住地に留まっていたというの ではない.例えば、少なくともサクソン人達は、既に三世紀の中葉頃までに海岸を伝って南下するという様に、漸次 ︵ 卿 ︶ その移動を開始していたことが認められるからである。 さて次に、本節ではここに二つの問題があること竃つけ加えておかねばならないだろう。その第一は、ジュート人 ︵管扁鰯︶のことである。前掲のベーダによる歴史記述と、アングル人・サクソン人に関するこれまでの考察を合わせ ると、そもそも大陸におけるジュート人の原佐地は、その名称の類似によっても示される通り、今日のユトランド半 島、特にアングル人の原住地と考えられる砕匡①吻君侭の更に北方のところに位置づけられることになるだろう。け れども、学説上に猫けるジュート人の取扱いに関しては種々の論議が展開されておるのであり、この点に注目しなけ ればならない。例えばマイヤーズ色.zF,冨冑巾吻︶に無いては、そもそもベーダの記述解それ自体彼によって行なわ れた後年の挿入であり、執筆当時︵八世紀︶の政治的区分をそのまま移動・定住期に適用した点無理あったと考えら れること、その他の理由から、少なくともジュート人に関してばその者達がイングランドへの移動・定住期にあって ︵ Ⅲ ︶ も一つの種族として存在していたか否かについて疑問が投じられている。他方、ステントン亀.富.鱒の具。ョ︶にあって は、ジュート人の大陸時代の位置に関して、ベーダの歴史記述はミスプレイスであったとし、むしろイングランドで

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彼らが定住したといわれるケントは、その社会制度の特質、とりわけ初期のケント諸法や土地制度に象られ為それが ︵ 鴫 ︶ 大陸ラインランド︵閑雰目①雷且︶との類似を有するとし、ジュート人がライン河口あたりから来たとする立場にある。 ︵ 肥 ︶ このぼか、ホジキン篇④国.園&畏且も一節をさいて種々の観点から検討を試桑ていることはいうまでもなく、また わが国でも戸上一教授承この問題を詳細に論じ、結論的にはステントンとぽぽ同じく、大陸に請けるジュート人の位 ︵ ” ︶ 置をラインランドに定め、且つまたジュート人の最初の移動・定佐が極めて少数であったことを指摘するのである。 ただしその場合、戸上教授にあってにジュート人に関する問題の解決を峰首唱旨印の位置に求め、これをフリージア の弓⑦92と推論される点、通説と見解を異にするのである。いずれにせよ、このようにジュート人に関しては学説 史上多くの問題があることを指摘できよう瀞、私にばいまこれらを更に進んで詳しく検討し、解明する準備がない。 ところで、本節につけ加えるべきいま一つの問題がある。それは、いわゆるアングロ・サクソン人の移動・定住に フリージア人弓風“旨目“︶l大陸ウェーゼル河から今日のオランダに至る海岸地帯を保持していた者達lも一部加 わっていたと思われることである。もとより、このフリージア人は既に四世紀ローマン・ブリテンの軍団の中に数え ︵ 肥 ︶ られ、防備を担っていたともいわれるが、ここで言わんとするのはそれ以上の理由があるからである。即ち先ず第一 に、このフリージア人に関してベーダの前掲引用箇所ではふれられておらないが、既に六世紀ビザンッの歴史家プロ ︵ 四 ︶ コピウス亀88宮匡輌︶ば、彼らをイングランドへの定住に参加した者達として記述していたという。加えて第二に、東 部イングランドでは尊曹﹀軍筈魯︾卑騨輿など、明らかにフリージア人の存在を示す語に由来する地名が散見されてい るからである。例えば、サフォークに諦ける蜀忌、9口﹀印冨。ロ︾またリンカンシャーの卑万ゆぢ邑などがそれであり、 ︵ 恥 ︶ これらは共に︽︽雷門目ゅ吊且具穿璽自“︾ゞを意味する初期の地名形態なのである。従って地名学的見地からも、こうし た地名の存在は若干のフリージア人がおそらくアングロ・サクソン人と共にイングランドへの移動・定住に参加して 移 勤 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 一 ○ 三

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移 動 定 住 期 に 鐇 け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 一 ○ 四 いたことの証拠であると黙ることが可能だろう。また、このことに関わるものとして、中世イースト・アングリァ社 会をフリージア社会と比較・検討したホマンズ︵⑦.。、銅。目豐“︶の研究もあげられよう。彼はその中で、両社会が土地 制度やそこに存在する社会的身分など、いくつかの点で著しく類似するとして、イースト・アングリァ地域にば既に ︵ 型 ︶ 五世紀にさかのぼり、フリージアと密接な関わりを有する者達が侵入したと象るのである。もっとも、戸上教授によ るとホマンズのこの主張は、用いた史料が後世のものに属する点にその弱点があるといわれるが、少なくとも先の歴 史記述や地名学的証拠を考慮にいれるなら、詣そらく当時の東部イングランドには事実上フリージア人の移動・定住 があったと熟なして必らずしも間違いでないだろう。ただし、この者達がベーダの注意をひかなかったのは、ステン トンなどによって指摘されている通り、その数が比絞的少なかったため、移動・定住の過程においても重要な役割藍 ︵ 理 ︶ 演じていなかったということにあると思われる.あるいはまたそれば、彼らが移動・定住に際し例えば大陸のサクソ ︵ 幻 ︶ ソ人達に吸収・融合されて当面その正体を消失していたという、この時代にば珍らしくない出来事によったというこ とでもあるだろう。 注 ︵1︶周知の通り、アングロ・サクソン人が移動した原因に関しては、例えば人口増加による土地不足という経済的理由をはじ めとし、彼らがフン族などに圧迫されていたこと、ヨーロッ・︿大睦海岸地方で歴史時代以降に入ってから生じた地殻運動 による海浸作用の影響があったことなど、いくつか指摘されてきた・田中正義﹁初期アングロⅡサクソン社会の基本構造﹂ ︵ ﹃ 社 会 経 済 史 大 系 ﹄ Ⅱ 、 中 世 前 期 、 所 収 ︶ 二 二 六 頁 、 今 井 登 志 喜 ﹃ 英 国 社 会 史 ﹄ ︵ 上 ︶ 二 ○ 頁 等 参 照 。 ︵2︶⑦.○切葛厨︾弓胃冨&甫畠一句。目号号儲畠閃口哩自具患認︾ロ釦︾罰“⑦,。︺冨畠君8﹄陣].z“旧冨と繭]罰。目自 国 1 g 白 目 空 言 胃 両 晶 一 罫 望 号 日 g 厨 、 愚 認 も . 駕 鈎 ︵3︶国毘の︺鼬冴8凱圏間R苛昏蔦。負Q㈹鴬酔い営踵。曽鼠種印長友栄三郎訳﹃イギリス教会史﹄三七’三八頁を参照。なお、挿入

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ヘハヘ〆、 /、〆、へ 17 1615 1413 1211 −ゴレレL=〆呈ノ ミー曹 へへへへへ 8 7 6 5 4 曹曹一曾曹 ハヘ 21 20 ーノ曹 ヘヘ 19 18 曾曹 ︵9︶ ︵蝿︶ 呉詞国◆国&ぬ蚕働、。、句韓、︾石口f酔 固.弓?Fmam︾﹃ず①P3ゴ儲。盲唖電呉号のジロ唾。わ侮洪C国印①三命冒昂画誌︾患ざ︸己詞電1$. &、宛↓⑦、。Q雲ョ噌目Ca陣]◆zF冨冑⑮的︾。、、詩.、ロ圏鱒︾飼嗣.国里司、。、句碑︾己勺やlぢ. 詞↓○?。○蚕。鳴く8﹄陣].z、F◆冨冑⑱的︾邑澄も鷺.︸己口器罫駕?望刃 甸 . 夛 角 切 席 ご ざ 己 ︾ 。 、 、 鴬 . 管 固 詞 揖 ↑ l 揖 皿 詞、国.国&ぬ酉画︾。、、鷺.、口望臨 戸上一﹁大陸との関係においてみた形成期のケソト、イースト・アンダリァ﹂︵﹃日伽学院論集﹄躯二号、昭和三三年所 収︶一四四頁および一五一頁注︵駒︶参照. 勺関里里﹃ゞ罰。日四口国昌里邑由乱両胃辱両昌一脚旦、訊国、。.l診、口電]︾届駅・弓﹄鱈I思い &.同冨.聾、具。日、。、日韓..g”や卸.口冨.葛号C星弓冨酔品さ︲駛課。p岨︾后篭︾種馨.もっとも、プロコピウスの場合は 当時プリテンの住民をアングル人、フリージア人、それに土諦のブリトン人であったとみた。 尻○日篇3国、。殉、鼠亨詞圏巻⑦﹄,○○浬喝尋。諺。鷺,↓もロ﹄望l﹄総︲、殉国.里巴﹃︾。、民菖↑、ロ]ご︲ ⑦.。.国。ョ自晩︾弓冨印璽豊切言祠關ござ哩冨︵冒号⑮閃8曽豊特配宮。亀殉閏静思︾壁岸、負ごC一・〆岳矧I思認︶この中で 移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 一 ○ 五 己 騨 凰 嘩 ・ ︸ 。︹閥国⑳ 榿 哩 ○ 厚 石 ↓ 脾 口 唾 。 黒.民.︵騨日印8国雫 皇‘勺.出ゞ囚巴﹃、 ] 中 ① 興 己 ↓ ﹄ ① 。 した欧語は句.冨.聾、目8日﹀毎口唾。助農。回国畠一四且.岳謡.ロ蝉による。 ﹃ゲルマーニァ﹄四○、田中・泉井訳︵岩波文叩︶一三七’一三九頁。 句 . 辱 戸 ゆ 席 画 8 回 や 。 薄 口 野 己 詞 胃 騨 I ﹄ 鈎 勺.関国風﹃、酔目冒司且巨25国3Pご唾?い“費︺目両目逼騨日旦思曾、石口甲Pゞ司‘言.聾、貝。己、司罰品︾官罵. 。.]ゞno浬嬰、圃侭房ゴ逗画。印,zmg⑪、騨口己弓冨一﹃○H薗冒的↓思型、詞]曽. 尻.●§関ロ目↓両冒哩罫国騨。⑯z自昂出、愚$々詞翁“.で.懐里昌﹃、罰C目凹口國島巴ご由且同質与国畠盲且.段国.○.1戸己.電岸 勺?︽ 。 轄 向 員 . 、 ロ 儲 . ︾ 罰 ︲ 西 ︲ 函 & ぬ 翫 目 ﹀ 醒 国 宮 : q 息 号 ⑱ シ ご 哩 ○ の 酌 洪 O 日 切 ︾ 馬 電 、 罫 己 一 ・ ︺ 、 ロ 、 、 シロ旨耳R言昌ロロ5醒己哩?留曽邑両ご哩凹且︾愚g︺ロP閃.巨聾②貝。貝§員。.石屋・“脚侭閏&鴇旨︾

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周知の通り、前節においてペーダの記述を引用したのは、いわゆる侵入者の構成とその原住地について少しく検討 するためであった。ところで、﹁:.⋮彼らはゲルマ︸一ァの有力な三種の民族、即ちサクソン人、アングル人、ジュー ト人からやってきたのであった。:⋮・﹂とある先の文脈は、その前後の記述と相俟って、本節での考察に再び手がか りを与えるものである。即ちそれによると、アングロ・サクソン人の移動・定住期における当時のブリテンにば、蛮 族によるあいつぐ侵略・掠奪があったことを示している。この場合、ベーダが挙げている蛮族というのは北方からの ピクト人︵閣員﹀国:︶であるのだが、実際にはそのような蛮族に加えられるべきものとして、スコト人︵脾。房︶があ ったこと椎明らかである。例えば三六七年頃ピクト人ならびにスコト人の双方が行なった大襲撃により、ダイン河と ソルウェー湾頭を東西に結ぶ﹁ハドリァヌス塁壁﹂︵璽且凰煙己。津。昌閏︶は数度にわたる破壊にさらされたといわれ ︵ l ︶ ている通りである。もとより、こうした蛮族による襲撃は、かってこの島を自らの屈州として支配したローマの衰退 ︵ 2 ︶ とこれに伴なう軍団の撤退により、一層深刻なものとなったことは確実だろう。このため、自衛を唯一の手段として いたこの島の先住者ブリトン人︵国昌。国吻︶達も、ついにローマにむけて支援を要調するに至ったといわれる。そのこと は、いま一つの歴史記述﹃アングロ・サクソン年代記﹄︵弓胃幹侭寄留xo口。言。。巨句︶にもエントリーされているの 移 動 定 住 期 に 鈴 け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 一 ○ 六 あげられている著しい類似点というのは、例えば土地保有の単位が三号でばなく豆。届三聖邑であり、しかもそれが固 まって保有されていること。このため開放耕地制が存在せず、両地域ともマナー化が遅れる。それとの関連で、自由腱民 の比率が他の地域より高いことなどである.なお詳しくば、戸上一・前掲論文一五一’一五三頁に紹介されている。 ︵理︶蜀.冨聾の8ョゞ。、畠.︾9.切占 ︵認︶飼冨.壁①目。曇.爵弾︾。.富.篭一百コ.§畠.ゞで、望, 三、移動・定住期のブリテンと若干の問題点

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︵ 3 ︶ だが、年代記は先住者進のそうした要請謀満されなかったことを示すのである。 以上のようにして、歴史記述の語るところに従えば、蛮族によるあいつぐ侵略・掠奪から逃れ、あるいはそれを雌 退するために、いかなる方策をとるべきかということが、今やこの島の先住者達にとり決定的に覗要な問鼬をなして いたことになる。そして、このような状況との関わりで周知のアングロ・サクソン人が到来したことになっているの で、再びぺIダの﹃教会史﹄が語るところを、ここに少しく要約しておくことにする。 それによると、凹当時プリテンには、ウルティゲルンなる王がいて、この王はブリトン人選との合意を染て、先ず サクソン人達を呼びよせた。②それらのサクソン人達は、北方から攻撃をしかける敵と交戦し勝利を得、前述の王は サクソン人達をこの島の東部にとどまらせるべく要請をする。⑥戦闘の勝利とこの島の肥沃さが大陸の故国に報ぜら れ、今度はヘンギスト︵国①長宮︶ならびにホルサ︵国。圃陣︶を首長とする者達が、あいついで派避された。それが周知の サクソン人、アングル人、ジュート人であり、彼らは以前のものと合流し無敵の軍隊を形成した。仙彼らのうち或る 者は軍役につき、また残りの者はそのための費用供出を条件催、プリトン人の許可を神て居住地を得た。⑤ところが、 ︵ 4 ︶ 彼らの数は先住者達も恐れるほどにまで達し、やがて旧来よりの盟約者に武器をむけぽじめた、とある。このよう にして、ベーダが語るところによれば、蛮族による攻撃に対処する新たな方策というのは、そもそも後で侵略者とな る者達を外部から怖兵の形で導入し、その代倣として居住地を提供するということなのであった。換言すれば、この 方策はいわば蛮族をとらえるために蛮族をあてがう結果になったというものだろう。 ところで、以下本節では右の要約に関わるいくつかの点を補足していくことにする。先ず、今翠たように歴史記述 はアングロ・サクソン人の移動・定住が、その端緒にば傭兵の形をとって行なわれたことを示すのであるが、あるい はまたこれとちがって、初めから侵略の形をとった場合も考えられるとしても、いずれにせよその際一般に軍事力が 移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 一 ○ 七

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移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ◆ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 励 向 一 ○ 八 当時重要な意味をもっていたことは確かであったろう。従って、プリトン人の王の要請で最初にこの島へ到来したと いわれるサクソン人達が、戦士団竃形成していたことはもとよりのことといえようが、その後に大挙してアングロ・ サクソン人の移動・定住が行なわれたという場合にも、大陸に溌ける彼らの社会組織は詣そらく戦闘能力を中心とし て、さしあたり移動に適合するものに再編成されるに至っていたと思われる。このように考えられるとするならば、 移動・定住期のアングロ・サクソン人が戦士層とそうでない者とに分れていたl前掲ベーダによる叙述の要約い lというのでばなく、むしろ彼らのうち成年男子はおそらくその全体が少なくとも戦闘能力をもって詣り、またさ ︵ 5 ︶ しあたり実際の戦闘にも多かれ少なかれ参加していたものと考えられるのである。さらに、先の歴史記述に関わるヘ ンギストやホルサを高貴な生まれの勇者であると蕊る通説をふまえれば、この当時のいわゆるアングロ・サクソン人 達はそもそも別個の種族をなしていたのでばなく、これら幾人かの共通せる統率者をもった集団であったと象なすこ ところで次に、当時ピクト人などによる北方からの侵略・掠奪に対処するために、ゲルマンの鮒一共を招じ入れたと いわれるウルティゲルンなる王についてふれて溌きたい。この王の名前はアングロ・サクソン語で専管&鶴亀苫また 今日一般にく。昌鳴目と記される者であるが、最初の形態ばく軒忌明判割ぃであったといえる。即ち、ベーダはこれ を﹃イギリス教会史﹄以外の著作︽6胃。己畠冨ao昌どの中で使用して諮る謀、おそらく朧ギルダス︵Q匡儲︶その他 ︵ 7 ︶ 彼自身がテキストとして使用した初期プリテンの史料から得たものと考えられているからである。また、その語の構 造から判断して、認灘崎罰菖噛は元来オーバー・ロード︵。鎧曾︲百sないしハイ・ロードe億三。a︶を意味する一つの 称号であったが、この時代にはパーソナル・ネームとして使用されるようになっていたという折摘があることも注目 ︵ 8 ︶ されてよい。 ︵ 6 ︶ とも可能であろう。 と こ ろ で 次 に 、 叩

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ところで、このウルティゲルン︵Ⅱ割ず昌鳴目︶なる王は、そもそもローマン・ブリテン時代の○ミぎご獄、即ち当時 の主要な都市の一つであるロックスター︵零3曽日︶、ならびに軍事的拠点であった今日のチェスター︵・胃“爵︶を包 ︵ 9 ︶ 含したウェールズ近傍の地域の中で、貴族的境遇に生まれ育った者と思われる。因に、地図上ではこの。弓§畠領 域が、アングロ・サクソン王国の一つに数えられる團急淵王国の位置と重復するところなのである。従って、その 地域に形成された胃葛滞王国は、おそらく彼を創始者とするものであったと承てよいだろう・このことを示唆する他 の材料としては、例えば今日のウェールズに属する巨曽唱需ョからぼど遠くない場所にあるく皇。冨旦頚修道院に 立っている古い十字架上の記録がある。それにはぎa﹃“王国の統治者達が前掲く。昌鳴目の後畜であると解読され ︵ Ⅲ ︶ た文脈が刻象こまれているという。以上のようにして、ウルティゲルンなる王が峨初に統治していたとおもわれる領 域は、そもそもイングランドの西部とウェールズの一部にまたがっていたといえようが、とりわけローマ支配の終焉 を契機として、この王は漸次東部へと勢力を伸長し、その影響を及ぼすようになっていたと考えられる. 次に、アングロ・サクソン人達がイングランドに到来した時期に関して、歴史記述はそれを五世紀中葉︵四四九年︶ であるとするのだが、しかし少なくともその一部lとりわけサクソン人lほこれより早く侵入する動向を示して いたといえよう。例えば、ノーフォークの国﹃:3切目からハンプシャーの罰H再訂駒目に至る東部海岸地帯は、い わゆるサクソン・ショァ︵辞×g望。Hの︶と呼ばれているところだが、そこには既にローマン・プリテン時代から多く の要塞が存在していたことが知られている。チャドウィック女史︵z,瞬厚且且鳥︶によると、それらの要塞は満そ らくカラウシウス︵・胃目”旨”︶やアレクトウス︵シ馬。冒吻︶によって構築され、当初はむしろ蕊奪期にあるローマ権力の 攻撃から自分達を守ることにその目的を有したが、やがてサクソン人の襲撃に対抗する防衛体系として役立てられて ︵ 皿 ︶ いたと説明されている。また、ブレィア弓.函.里巴H︶においても、イングランドのこの東部地域は、ウルティゲルン 移 勤 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 勘 向 一 ○ 九

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移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 二 ○ ︵ 唾 ︶ 王の時代のずっと以前に強力なサクソン人の影響をうけていたことが指摘されているのである。従って、実際この東 部海岸地帯がそもそも大陸と接近する地理的条件にあることもふまえれば、以上のような指摘がある通り、五世紀中 葉以前でも本格的な移動・定住に先立って、とりわけ一部サクソン人によるいわば海賊的な侵入の動向が既にあった と象なさなければならないだろう。 さて鍛後に、われわれは次のことをつけ加えて誰かなければならない。即ちそれは、歴史記述に黙る五世紀中葉の アングロ・サクソン人侵入が、その本格的な定住をイングランドにもたらすうえで重要な契機をなしたといえようが、 しかし彼らは少なくともその後この島の先住者達を終局的に征服する過程において、一連の抗争を伴なうほぼ一世紀 余りの期間を要したということである.このことばゲルマン系ならびにケルト系地名の分布状態によっても極めて大 づか象に示されるといえようが、それは征服の過程が少しづつ東から西へと進行したことを物語るのである。﹃アン グロ・サクソン年代記﹄によると、先ず四五五年には侵入者達のリーダーといわれる前述のヘンギストとホルサが、 ウルティゲルン王と今日のケントで交戦し、その時ホルサば殺害されてヘンギストがその国︵ケント︶を継承したと ある。同様にして、ヘンギストば息子闘協と共に四五六年、四六五年、四七三年に、あいついで先住者達と交戦した ことが記録されている.また他方、四九五年にはケルディック︵P且。︶とその息子キンリック︵○首胃︶なる二人のア ルダーマン︵騨産日日:︶が大陸から五隻の船でこの島に到来する。そして、この者達とその後畜など、いわばウェセック ス王国の創始を担ったといわれている者達も、その後臆ぼ六世紀の末葉に至るまで先住者達と一連の戦闘を行なって ︵ M ︶ いたことが翠られるのである。もとより、こうしたアングロ・サクソン人による征服過程において、一連の戦闘が常 に先住者達の敗北を意味したわけでない。例えば、﹃イギリス教会史﹄の中では、劣勢にあるブリトン人達がアンブ ロシウス・アウレリァヌス︵ショ胃。“旨”シ巨﹃豊営匡“︶なるローマ人を指導者に得てその力を回復し、侵入者と交戦して

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︵ 喝 ︶ バンドン山の戦いで勝利を得たと記述されている。ただし、この属。蔚騨号凰2めの戦闘が行なわれたといわれる 時期と場所に関してば、種々の主張があって見解を異にしている。即ち、先ずこの戦闘の時期に関してばそれをいく つかの側面から検討したマイヤーズ色。z、F、冨冑研︶も、四九○年から五一六年の間のどこかに瞳かれるであろうとい ︵ 鴫 ︶ っておるだけで、われわれにはそれが一応五○○年前後であったことしか判らない。他方、この戦闘が行左われた ︵ ” ︶ 場所に関しても、ホジキン角“函︲喝且鴇首︶はそれをテムズ河上流あたりと象ているのに対し、プレイァはドーセット ︵ 胆 ︶ シャの君冒宮昌に近い恩号匡侭詞冒鴇と呼ばれた鉄器時代の岡砦が岐も有力であるといっている。このように、 富自切国且○風。二”の戦闘は、それが確かにあったと鍬られるだけで詳細なことを欠くのだが、いずれにしてもこのよ うに一時期でさえ侵入者達を敗北させるぽど先住者が強力であったということは指摘されてよいだろう。けれども、 先住者達のそうした抵抗にもかかわらず、結局彼ら腕アングロ・サクソン人達の攻撃によって六世紀末葉頃までに決 定的な敗北をこおむつたようである。 ︵4︶ ︽Eu︶ ︵虞U︶ ︵3︶ 1 哨 坤 J 1 Ⅱ 、 ノ 行1工︶ へ、垂︶ ず 、 目ゴmも色弄の﹃O胃。三伺庁︵シx畠、︾目冨Fm巨今○罫。弓邑⑱︵閃︶造隣︵一画善⑩﹂韓廷。︲助QHc翼のご︵ご鼬起句︾耳凹蔚一日&幽己ユの会一且 ケ閨の、zの曽曽。ご餉君畠、悪闇、己恒届l]陣︶ 国凰の,鞠営日昏河R詩爵農句目⑦鞄画爵醤昼浬。ミ胃、一︺屋l扇.長友栄三郎訳﹃イギリス教会史﹄三六’三八頁参照. 例えば、永井一郎﹁アングロ・サクソン腱民の耶役参加について﹂角社会経済史学﹄三六’一︶五八頁も↑﹂のことを備摘する。 三好洋子﹃イングランド王国の成戒﹄四○頁参照。 移 勤 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 一 二 勺.閏.国豊﹃︺宛。日脚己国﹃菅三四乱隠ご面畠一四邑訊国。lシ,口電]↓患駅ゞ官]急伸ロ騨貝砦罵且寅﹀ プリテンにおけるローマの郡事的終焉の時期に関しては、四一五年という説が蛾近では支持されているという。亀.z宍 。g号且鼻︾O警言国二sごゞ届電も.鵠.もちろん、それ以前から既にローマの支配が急速に裏遇しつつあったことは想起さ れねぱなら雄い、

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これまでわれわれば、﹃イギリス教会史﹄や﹃アングロ・サクソン年代記﹄などの歴史記述を素材とし、そこに語 られたいくつかの内容から侵入者達の構成や大陸時代の原住地、さらにまた移動・定住期プリテンの状況などを中心 に考察をした。もちろんその場合、地名学や考古学的分野から与えられるいくつかの指摘にもとづいて、歴史記述が 語る内容に少しく補足されるべき余地を得たことも周知の通りである。ところで本節の問題は、首記の通りイングラ ンドに謂けるアングロ・サクソン人の初期定住地であるのだが、これと併せて彼ら誤定住地な求めて侵入を試染た経 ︵。○︶ ︵句I︶ ヘハハハハ〆 、ハハヘヘ 1817 1615 1413 12 11 10 9 叫曹一一、=ノ 、_J L−ノ廷ノンレ 移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 二 二 z,〆○冨号昌鼻︾○史号卑冒旨も恒穐Iお巴罠目.O冨号胃凌ぐ︵︶昌鴨旨︵旨夢①鴬員時的腎因口逗駒孔爵浄国営画噌︾㈹島︵且 罫 . z , 尻 O 冨 今 且 、 〆 岳 $ ︶ 宿 誤 . ﹁噂は農。ご輔司︾︶と同義であり、また靴粗罰噴︵Ⅱ高の目︶は︽﹂冒艮祁善︾︵ウェールズ語の轡、アイルランド語の詩轟とい う言葉に由来すると考えられる。函.富,○冨昌鼠烏︾津鴬.亀.埼伸目。吊程。 勺 国 . 里 脚 度 。 衿 、 蕊 ︾ 画 ﹄ 雪 . 同 西 . 国 崗 簾 駒 諏 弘 ︾ 己 韓 扇 ? 罵 炉 函 ‘ 目 . ○ ず 且 乱 鼻 ︾ ・ 管 向 舞 ︾ 恒 麗 . z,属.○冨身国鳥︾・毒、鼠︾祠鵠. 、 ‘ 餌 . 里 昌 埼 、 。 爵 、 鼠 亨 や 温 蝉 & ‘ 罰 . ○ “ 日 ⑰ H C 目 ︾ 両 ロ 哩 一 島 国 胃 、 z 曲 目 ㈹ い ゞ 患 忠 、 ご ロ . 駐 i 急 、 ①.z,の、口冒O冒ぃ君亀︾国吊P口軽。,勲崗日]○胃C冒旦①︾署“局I閏. 国且①︾韓営。瓢圏間目苛絶凰靴§Q句韓爵隆臘苛鴬蒼︾一ゞ扇、長友訳、前掲書四○頁。 屍 の ︲ O 呈 旨 明 き & 陣 ︺ . z , 間 . 冨 胃 罪 め ゞ 両 。 日 韓 冒 卑 冒 冒 凹 且 忌 印 同 曰 警 号 静 己 ⑩ ョ 掘 昌 “ ︾ 患 認 ﹀ P 弓 豐 些 間 目 目 ゞ 弓 溺 餌 国 & ぬ 蚕 昌 ︾ P 国 璽 。 q 具 昏 ㈹ P 国 哩 ? 切 胃 C 扇 ↑ 岳 電 ︾ ご 具 ] ︾ 己 固 ﹄ 隠 山 鵠 . 句 . 閏 . 国 日 舞 ︾ ・ 雷 。 農 、 己 碩 冨 ? ﹄ 麓 . 四、アングロ・サクソン人の初期定住地域について

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路についても概観して糖くことにする。そこでこの問題に関してば、先ず地名学的側面から、次に考古学的側面から 与えられる証拠にもとづいて順次検討しておきたい。 さて、地名学的に染た場合、アングロ・サクソン人の初期定住地を示すものとして一般に指摘されるのは、先ずイ ンガス地名なのである。即ちそれは、特定の.︿Iソナル・ネームと結合し、且つまたオールド・イングリッシュのl 普蝿の複数形たるl営噌蝿を語尾に有するところにその特徴をもつ地名の形態なのである。例えば雨常豊農園などが これに属し、一般に。︷吾の月。己⑩a顛臘ミ︾であり、従ってその意味ば﹁⋮⋮の人を︵後窟︶﹂であると思われる ︵ 1 ︶ が、同時にまたそれは﹁⋮。:の従者﹂でもあったと翠られることである。従って、これらl鷺囎蜀でおわる形態は履 初から地名そのものであったわけでなく、元来はフォーク・ネームもしくはグループ・ネームであったといえるので ︵ 2 ︶ ある。換言すれば、要するにそもそもこのようなインガス地名の多くは、堀そらく移動・定住期に堀いて特定の指導 者の下で相互に結合された血縁者や従属者達を包含した集団を意味したものであるのだが、やがて当該の集団が特定 の場所に定住を開始した時期に、それが地名に転化していったものと考えられるのである。つまり前述の弔篇畠戟瞥吻 ︵I函曾ゅ言明︶はもとよりのこと、例えばバークシャー”の鱒島侭の場合においても同様に、元来は聞知亀昔鷺吻なる集 ︵ 3 ︶ 団名であったものが、やがて﹁両習患誌鷺吻の場所ないし地域﹂を示す地名になった、というようにである。もちろ ん、インガス地名をそのすべてが例外なく、こうした形態であったとして把握することはできない。即ちあるものは可 ︵ 4 ︶ その地域の自然的︵Ⅱ地理的︶特徴に由来する語と結合して形成されたと考えられるからである。この種のものとし て、例えばグロースターシャーのシくの昌侭などがあげられるのであるが、いわばそれは﹁アヴォン河近傍の者達﹂ を意味していたと思われる。 ところで、l酎哨が他の要素と結合し、やはりアングロ・サクソン人の初期的定住地を示していると思われるの 移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 二 三

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移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 二 四 ば、インガム︵I旨娯国︺爵ョ︶形態の地名である。そして、このI旨署騨目形態の地名は、概して前述のi営蝿鼠地名よ ︽ 匡 J ︶ りもさらに広範な地域に分布するとさえいわれるが、この場合胃蚤即ち︽ザ。貝①“房且︾、厳いし、いわば︽︽ぐ筐侭①︺︺ を意味する語が新しい要素なのである。こうした地名の一例をなすのは、ゥオーリクシャーの駒恩副軋農善§︵1国き︾ 鷺頓曹邑であり、いわばそれば員言ョの吻蔚且。胃斎犀ミ菖尉農︵Ⅱ用。︻ョ爵罵。号︶︺ゞであったといえるだろう。因に、 こうしたI篇蒔き形態の地名と既述の!、侭罵形態の地名の関係についていうならば、おそらく後者がオリジナルな ︵ 6 ︶ ものであり、前者はそれより一世代程鹿遅れて使用されるようになったということ謀指摘されている。しかし時期的 に緊密な関係にあることからして、両者ともアングロ・サクソン人の初期定住地を示していることは明らかである。 なお、インガム形態の地名とばぼ同じ時期に属するものとして、このほかl雷呉巴ご鼠形態も存在する。この場合、 浄患なる語が場所としては浅瀬とか渡河地点に相当し、そこにしばしば砦が設けられていたといわれるが、しかし インガム地名と比較してその数も多くなく、また定住地そのものの名前であったかどうか必ずしも明らかでない。 さて、以上のことをふまえつつアングロ・サクソン人の初期定住地に関わる地名の分布を染ると、その多く解イン グランドの南東部ならびに東部海岸寄りの地域に生じ、また一般に西方へと向うに従って減少する傾向にあることが ︵ 7 ︶ 指摘されてよい。いま少し具体的に象るならば、とりわけオリジナルなものと思われるj、営曽鏡地名が多く数えられの ば、サセックス、エセックス、ノーフォーク、ケントなどの諸州であり、これに続くのがサフォーク、サリーそして リンヵンシャーなどである。他方これらの諸州と比較して、その数が以外に少ないことで注目されるのば。ハンプシ ャー・ワイト島なのである。また、l爵建間君地名についてぷると、ノーフォーク、サフォーク、ヨークシャーのイ ︵ 8 ︶ 1スト・ライディング、ケントなどの諸州においてそれが多いのである。 次に、これと併せて指摘されるべきことば、例えばバークシャーやハンプシャーなど初期定住に関わる地名がけっ

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して多く翠られないところでも、いくつかの事例がテムズ河とその支流に沿って出現することなのである。もとより 南東部でも、例えば冨且弓昌やロ弾認昌河沿い、そしてケント北部ではテムズ河の近傍に多数の事例が群がってい る。同様に、東部海岸寄りに位侭するエセックス、イースト・アングリァでもまた、インガスならびにインガム地名 ︵ 9 ︶ の双方が主要な諸河川に沿って集中的に生ずるのである。要するに、初期定住を示す地名は、このようにして一般に 河川の周辺に多く出現する傾向にあるといえるのであるが、これらのことば他方イングランドにむけてアングロ・サ クソン人が侵入した際の経路をもまた示唆するものといえるだろう。即ち、彼らがたどった侵入経路として、およそ 次のようなケースが考えられるのである。先ず第一に、大陸からきたアングロ・サクソン人達は、海峡を渡ってイン グランドの南岸地帯から上陸したということである。それは、インガス地名の分布がとりわけサセックスにおいて妓 も稠密であることを考慮してのことである。また第二には、彼らがテムズ河から侵入し、これより南下またはその上 流へとさかのぼったことである。第三に、ウオッシュ湾から侵入し、そこに注ぎこむ諸河川を経て内陸地へと向った こと、さらにまた彼らばハンバー河からも侵入し、その支流に沿って南下や北上したと翠られることである。 以上、われわれは簡略にではあるが、地名学的に示されるアングロ・サクソン人の初期定住地の分布と、彼らの侵 入経路について考察をした。そこで、これらのことを念頭におきながら、次に考古学的側面から与えられる事柄をい くつかつけ加えておくことにする。 さて、アングロ・サクソン人による初期定住の勤向を示す考古学的材料は、いうまでもなく彼らの埋葬地e員邑︲ 亘胃①︶ないし共同墓地︵鳥目員の暑︶の分布と、そこから出土する埋葬品の内容なのである。そこで先ず、イングランドに おいてアングロ・サクソン人の初期定住に関わる埋葬地の分布から象ると、一般にそれが既に難た定住地名の場合と 同様の傾向にあることが指摘されてよい。即ち改めてくりかえすまでもないのだが、それは各々の事例がおよそ主要 移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 二 五

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GLO-SAXON IALPLACES ).450-650 AN( BURI A.D 一一 移動定住期におけるアングロ・サクソン人の初期的動向

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な諸河川とその支流に沿って多数発見されるということなのである。なお、このことと併せて注目されるべき点ば、 例えばリーズ︵画弓.時a、︶などものべているように、アングロ・サクソン人の定住地ないし村落は、たまたまの例外 を除いてその大半がいわゆるローマン・ロードの線上から少なくとも半マイル程度右か左に離れた場所に位置すると ︵ 、 ︶ 承られることである。もちろん、アングロ・サクソン人達謀ローマン・ロードに隣接してその定住地をおくことを回 避したという事実は、いかに解釈されるべきかという問題も生ずる。その場合、おそらくケント地方はこの事実から ︵ 皿 ︶ 除かれてよいといえようが、一般に次のように考えられるのである。即ちそれは、そもそも軍事的性格を鏥びたロー マの道路体系が、全体としてぽぼ直線的にイングランドの諸地域を通過し、いわば農業的な定住に最も有利な河川に ︵ 胆 ︶ 隣接する低地地帯を回避していたという理由にあるとおもわれる。いずれにしても、このようにして移動・定住期に あるアングロ・サクソン人達は、その侵入コースとしてしばしば河川を利用すると同時に、定住地の設定においても 土壌の性質に大なる配慮をしたということなのである。そこで、以上のことをふまえつつ次にいくつかの個別地域に 焦点をあて検討して鈴くことにする。 先ず、アングロ・サクソン人の初期定住と関わる埋葬地が、謂そらくイングランドで雄も豊富であると考えられる のはケントである。ここでは、発見された共同墓地の多数瀞葛目房當目。冨目里北端の罰①2写禽からカンタベリー ︵ 卿 ︶ を経て、南海岸へとひかれる線の東側で稠密に分布しているといえよう。もちろん、ケントの北部でも共同墓地はか なり染られるが、この地域では冨凰毒豊、河を境とする西側でその分布が稀薄になることである。 次にサセックスについてである瀞、この地域では異教時代の定住に関わる埋葬地が比較的少ないのであって、既に 鍬た地名学的成果から得られる印象との間に対照的な差異を形づくっている。とりわけ、睡画“冒噌などこの地域の 東側では共同墓地がぼとんど発見されず、また西側においても弔曹目色里近傍でサクソン人の出現を物語る若干の塚 移 動 定 住 期 に 講 け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 勤 向 二 七

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︵ 班 ︶ 事実もある。 さ て 次 に 、 さ て 次 に 、 移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 二 八 ︵冨罵。葛︶謀翠られる程度なのである.そして、これらの塚では死体と共に埋められたナイフなどが出土する程度とい われている。もっとも、園、号。日ロ①﹀罰持冨0口︾葛日旨招、それに庸芝①、の周辺などサセックス中部南岸の砂丘地 ︵ M ︶ 帯では、共同墓地談かなり稠密に分布する。 ところで、それらの共同墓地の場合でも、火葬の形跡をとどめるものは二つの事例にすぎないというように、サセ ックスでば火葬の慣習が早くに消滅したとおもわれる。もちろん、このことはサリーの共同墓地にもあてはまり、火 葬ば一’二世代にわたり実施されたと染られるが、いずれにしてもこれら双方の地域では、火葬でない新たな埋葬様 ︵ 崎 ︶ 式へす承やかに変っていったと考えてよい。な糖、一般に異教時代には火葬が行なわれ、その後土葬︵旨冒冒呂。ロ︶へ と諦きかえられていったといわれている。因に歴史記述によると、ローマ教皇グレ・コリウス一世の派遣したアゥグス チヌスが布教・改宗の目的でインランドに到来したのは六世紀末︵五九五年︶のことなのである。しかしながら、既 にローマン・プリテン時代の末期にはキリスト教が伝来していたといわれるのであるから、あるいは先住者達に継承 されたそれがアングロ・サクソン人の侵入で完全には消滅させられず、早くから影響を及ぼしたのかもしれない。例 えば、ゥエスト・サクソン地方の聖旨魁。口では、火葬と土葬の入り混った共同墓地︵目関&ご盲目農。具。愚冒豊︼。国 。①日曾曾己が出現し、発堀された二○一基のうち火葬は八二基にとどまり、そこではむしろ士葬那通例であったという ノーフォークI特にその西部lとケンブリッジシャー地域について染ると、ここでば共同墓地の分 布が次のようなことを示唆するといえよう。即ちそれは、ウオッシュ湾へと流れこむ諸河川が、アングロ・サクンソ ︵ Ⅳ ︶ 人達を沼沢地帯をこえて広がる排水のよい砂礫地︵噴酌蔚旨胃晩︶へと導いたということなのである。また、これらの諸 河川を利用してさらに南西・西部へとむかった者達は、その流域で居住に適する乾燥地を見出したと無もわれる。こ

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の地域は、いうまでもなくミドル・アングル人の領域を形成するところだが、そこには五世紀に属する極めて多くの ︵ 岨 ︶ 埋葬品が包含されて詣り、且つまたアングル人とサクソン人の双方のもの添混っていることが指摘されている。 ところで、ハンゞハー河以北で多数の共同墓地が翠られるのは、ヨークシャーのイースト・ライディング︵團鷺輝箆 どもにおいてである。しかし、それらの多くば粗雑な発堀と出土品の消失のため詳細を欠くといわれるが、少なくと も丘陵地帯︵葛皇らの若干の地点では既に五世紀の段階でアングロ・サクソン人による占領の状態が承られるので 最後に、われわれはテムズ河流域におけるアングロ・サクソン人の定住についてふれねばならない。一般に、テム ズ河とそれにつらなる諸河川沿いには広々とした排水のよい場所があり、それが既にローマン・ブリテン時代から繁 栄の基礎をなしていたことでしられている。従って、この同じ地域が新たな侵入者たるアングロ・サクソン人の定住 にとっても、有利な自然的条件を提供していたことは明らかである。とはいえ、テムズ河の中流地域では、前掲の地 図も示す通り、埋葬地点の稠密な分布が象られない。その理由は、溝そらく中流地域の北側にはg言の目森林があ り、またその南側でも瀧木と痩せた土壌があったため、上流の広々とした穀草地帯と比較して、さしあたり定住に不 ︵ 卯 ︶ 利な自然的条件を示していたことによるだろう。 さて、テムズ河上流は、バークシャーの曾号曰9厘罠⑦国畠︺鈩巨日魁目︾ロ負号①叩誌制︾醇号aなどをはじめとし、 さらに上流を厳すところと相俟って、多くの埋葬地が分布する地域なのである。ここで注目されるべきことは、その 場所が侵入者達によって五○○年以前にも既に使用されていたことを共同墓地からの出土品が示唆していることなの ︵ 副 ︶ である。例えば、ロ。月冨“爵の二つの墓地からは、十字形ブローチ︵。昌昌。門目胃8Cs、バックル、それに種々の ︵ 型 ︶ 半端物など、実際イングランドで糸られる鎧も初期のゲルマン系出土品が発見されたとさえいう。いずれにしても、 移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 二 九 ︵ 旧 ︶ ある。

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以上われわれは、大陸からイングランドへの移動・定住過程腱あったアングロ・サクソン人の初期的勅向について 少しく考察をしてきた瀞、以下これまで述べたことの要点と向後の課題を簡略に記して本稿を結びたい。 先ず、大陸漣原住地があったこれらアングロ・サクソン人のうち、少なくともその一部の者達は、そもそもイング ランドが置かれた地理的事情により、早くからいわば海賊的な侵入を試染ていた形跡があるのだ瀞、いわゆる歴史記 述によれば、とりわけ五世紀中葉以降からその本格的な移動・定住を行なったものと象られよう。また、おそらくそ の場合、大陸における彼らの社会組織は当面の目的に適合するように編成されていたのであって、さしあたり軍事的指 導能力をもつ者が、そのときの中心的な存在をなしていたものと考えられてよいだろう。もちろん、アングロ・サク ソン人の移動・定住というこの過程は容易に達成されたわけでなく、執勘な抵抗を示す先住者達を漸次征服し、イン 移 動 定 催 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 言 二 〆呈、 〆一、 ダヘ〆=、‘ 2221 20 19 ゾ ミーノ 、吉昇 、=丑 ︵ M ︶ ︵ 蝿 ︶ ︵蝿︶ ︵Ⅳ︶ ︵鳩︶ 急、詞、関国&画酉国︾シ国冨C昌呉号⑰シ冒哩。︲の凹〆O旨い︾名呈⑳]、届電、己詞旨や罠罰、詞玉.国凰﹃︾・壱、鷺.︾己]朝︲ 詞、国.四○阜函蚕邑︾口語、鷺.、ロ旨別 口.字閂.畢富一賀︺口︾。、、罠.、壱百““I幽鱒 で、国◆国里﹃、。、、愚.︺ロ房P ホジキンによると、ドイツの考古学者ローダー︵騨陞臼︶は、例えばケンブリッジ地域から出土した二個のg巨弾一也﹃旨⑪︵一 宮8号の時期を、およそ五世紀末頃に帰属させるという。&.詞.函.国。岳宣二︾︵︶、ミ亀9.筐甲巨か 兵〃困困.里巴﹃、︽︺お甸菖.︾己ロ届?︺電. 詞’四国&ぬ蚕ロ、。、、鼻.回巨跨 & 両 国 . 国 凰 ﹃ ︾ ・ 蚤 、 罠 ? ︾ p g 卸 記 § 國 國 。 ﹂ ぬ 匿 画 ︾ 。 、 同 異 ︾ p g p 五 、 結 び

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移 動 定 住 期 に お け る ア ン グ ロ ・ サ ク ソ ン 人 の 初 期 的 動 向 一 二 二 グランドにその支配を確立していくために、少なくとも一世紀余りの期間を要したということなのである。そして彼 らの侵入は、地名学や考古学的証拠をふまえれば、おおむね主要な諸河川を伝って行なわれたのであるが、また同時 にそれら諸河川と支流の周辺は、定住地としても利用されたと考えてよい。というのは、それらの場所がアングロ・ サクソン人のいわば農業的な定住に、しばしば有利な自然的条件を備えていたからなのである。極めて大づか象にい えば、このような点を要約として指摘できようが、もちろんわれわれにはなお詳細に検討されねばならない問題が残 されている。例えば、それは初期定住地名と埋葬地点のいま少し具体的な関係であり、またこの移動・定住期に適合 して形成されたアングロ・サクソン人の社会組織には、先住者達との戦いが減少し定住化がさらに進行するときに変 化がもたらされたかどうか、ということである。加えて、残存した先住者達がアングロ・サクソン人の支配下にある イングランドで、いかなる在り方を示したかということも問題となるだろう。これらのことについては、他に機会を 求あて検討して染たいと考えている。

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