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粛慎の楛矢に関する一試 利用統計を見る

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(1)

粛慎の?矢に関する一試

著者

飯塚 勝重

著者別名

IIZUKA Katsushige

雑誌名

アジア・アフリカ文化研究所研究年報

1974

ページ

11-24

発行年

1979

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00010321/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

'慎

桔矢

o 五 胡 十 六 国 の 波 澗 の 時 代が 展開 さ れ つ つある四 世紀前半 、 後超 天 王 石 勤 は 、 前 趨劉氏を攻破 し て 華 北 をほぼ平定 し、 東正日威 和 五 (一一一 一ニ O) 年九月 皇宥位 に 即 い た 。 改元 し て 建 平 と 号 し 、 裏国 よ り臨 湾 に 都 し た 。 晋書巻一 O 五 ・ 石 助載 記 (以 下石 勤載記とい う) に よ れ ば、 こ の 一 連 の 記 事の中 で 、 時 高 句麗 ・ 粛慎致 其 桔矢 。 字 文 屋 孤 並 献名 馬 子 勤。 と記 し 、 さ ら に 、 石勤 の 皇帝即位を 賀するた め 、 涼州 の 牧張駿 に よ り 「 奉 国送 高 昌子賓蔀善大宛

使

献方物 」 と さ れ 、 晋 の 荊 州 牧 陶侃は 「 聴子勃致江 南之珍賓奇獣 」とあり、 ま た 秦州 か ら は 「迭白獣、 白鹿 」、 荊 州 か ら 「 白 雄、 白兎 」、 済 陰 か ら は 「木連 理」 等 々 の 祥 瑞を 示す献 上口 聞があ っ た と 記 す 。 これら の 記 事 は 新 の 王 奔 の 建 国直 前 に お け る瑞 祥記事 や、 西 晋 の 文 帝 司馬 昭 の 三 国 説 に お け る 相 国府 へ の 朝 賀記事 と 類 似す る も の が あ る 。

で 石 勃載記 に よ れ ば、 桔矢 ・ 名 馬 を 献

た 使 者 に 対

た 石 勤

、 粛慎の搭矢に関する 一試 論

勃因 饗高句麗 ・宇 文屋孤 使 。 酒酎謂除光目 。 朕方自 今開基何等主也。 野 日 (略 ) 群 臣皆頓首穂高歳。 と 群 臣 と も

も饗 応 し た

あ る 。 こ の 群巨饗応 に つ い て 太平御覧 巻

0 ・ 偏 覇 部後越に引く星 鴻十 六 国 春 秋後趨録は 建平 三 (三一一 一一 己 年正 月 の こ と とするが 、 高句 麗 ・ 字 文氏 に つ い ては 触 れ て い な い。 資治通鑑も同様 と し 、 同 巻九五 ・ 成和 七年 春正月 に 「 趨王 勤大饗群臣」とし、 胡 三 省 注は 、 考異 目 。 菅春 秋 云 。 陶侃遺使聴後超 。 越王勤饗之 。 按侃輿勤必無遁使 之 理 。 今

取 。 載記 云 。 助 国 饗 高 句 麗 ・ 字 文 屋 孤

使

今但云

饗群臣 。 と 述 べ 、 高 句 麗 ・ 字 文 氏 へ の 設宴 を 否 定 し

い る 。 こ

れは

、 いくら酒宴の 席 で あ れ 、 外国使臣 の 間 前 で 臣下除光 に 「陛下神武欝略遇於高皇云 々 」 (石勤載記) とい わせ て い る 点 か ら あわせ、 単 に 一 族群臣聞 の 大饗宴であ っ た とすべ きが妥 当 で あ る かに思わせ る 。 し か し 、 こ こ で 注 意すべ きは、 こ の 時 期 の 石勤政権をとり 巻 く 周辺諸国 の 情 勢と の 関 連に つ い て で あ る 。 端的に い えば、 後趨 の 東 北に は鮮卑段氏 が 内 属 し 、 前越 が 滅 亡 し た 今 、 次第 に勢力を伸張 させて いる鮮卑慕 容部 の

(3)

粛慎 の搭 矢に関 する 一試 論 存在が重 圧 と な っ て く る筈 であ る 。 後 に 詳 述 す る が 、 そもそも粛慎 は そ の 慕容 部 よ りさ ら に 東 北 方 の 、 一 名 指婁と い わ れ る 民 族 と し て 認識 さ れ て お り、 本来 、 石勤即位を敬祝す る遠 夷来貢 の 象 徴とし であれ ば 、 決 し て 粗 略 に は し が た い 所 であ る 。 と も あ れ 、 石 勃載記 に 依 捜すると し て も 、 何 故 、 高句麗 ・ 字文 両氏が饗 応を受け、 同 時 入 貢 した所 の 粛 慎 の み が 欠 落 し た の であ ろ う か 。 し か も 一 方 の 記 録で は 、 こ の 二 氏 は 後 趨朝 廷 に 一 年余も滞地 し て い た こと と な っ て い る 。 因 み に 正 日書 巻 七 ・ 成帝紀 に 成 和 五 (三 三 O ) 年 十 二 月 の こ と と し て 「 張 駿臣子石勤」 とあり、 一 連 の 記 事 か ら い え ば 、 高句麗 ・ 宇文氏も周 年 内 の 朝 貢と みら れ る か ら であ る が 、 こ の 首 尾 一貫 し な い 晋 書など の 記事を他 の 事 情 か ら 推 し て も う少 し深く追 究 し て み た い 。 ここで論を 進める 必要 上 か ら粛 慎 の 桔 矢 に つ い て 先 学 の 研 究 (後述) よりす で に 明 ら か に さ れ た 所 の 概 略 を紹介し て お か な け ればな ら な い 。 国語巻 五 の 魯 語 に 、 孔子 の 博識を 示すも の と し て 次 の 記 事が あ る 。 仲尼在 陳 。 有隼 於陳侯之庭而死。 括矢 貫之。 石語。 其 長 尺有即位。 陳恵 公使人 。 以 隼 如仲尼 之館 。 間之。 仲尼日 。 隼 之来也遠失。 此粛 慎氏之 矢 也 。 昔武 王克 商。 通道 於 九 夷 百 蟹 。 使各 以 其 方 賄 来 貢 。 使無忘職 業。 於是 粛保氏 貢桔 矢 ・ 石 器。 其長尺 有限。 先 王 欲 昭 其 令 徳 之致遠 也 。 以示後 人 。 使 永 監 吾川 。 故 銘其括日粛 慎氏之 貢矢。 以 分 大 姫。 配虞 胡公。 而封諸陳。 古者分間姓 以珍玉。 展親也 。 分異姓以遠 方之職貢 。 使無忘服也。 故分陳以粛 慎氏之貢 。 君若使有司 求諸 故府。 其可 得也。 使 求。 得之金憤c 如 之 。 こ の こ と は 、 孔子家語 や史記 巻 四 七 ・ 孔 子世 家に も 略 同 様 の 記 事 が あ り、 ま た 尚 書 の 序 に 「成王既 伐東夷Q 粛慎来賀。 王停柴伯作賄粛慎之命」 と か 、 春秋左 伝巻 二 二 ・ 昭 公九 (前 五 一一一 一一一) 年 に 「 〈周景)王 (略) 日我 自夏 以后 稜 (略) 吾西 土 也 。 及 武 王 克 商。 蒲姑商奄吾 東 土 也 。 巴撲楚郵 吾 南 土 也 。 粛慎燕 喜吾 北土也 。」 と か あ る よ う に 、 秦漢 以前 、 粛慎 の 存 在が 知 ら れ て い た 。 し か し 、 それは 周 の 北方或 い は 東 夷など と し て 知ら れて い た ょうであ るが 、 い か な る 民 族 ・ 種族 に 比 定すべ き か は い ま だ定説が な い 。 粛慎 は ま た 息慎 ・ 寝慎 と も 書か れた の で あ る (山海 経海外 西経 郭撲注) 。 降 っ て 秦 漢時代には、 遠夷来貢 を求め る 古代中国 に お ける世 界観 の 象 徴 と し て 意 識 は さ れ て い た よ う であ る が 一 、 実 在 は 確 認さ れ な い 。 と こ ろ が 六 に わ か に 粛 慎説話 は 再 現さ れ て 、 記 録 さ れただけで も 三

国親 か ら 北 斉 に か け て 粛 慎 の 入貢は 前後九 回 に 及 び 、 「粛慎園記」 な る も 朝時 代 に な る と 、 fこ の ま で著 される に 至 っ た 。 こ の 粛 慎 に つ い て 、 三 国 志説志巻 三 0 ・ 把婁 伝 に 「 其弓 長 四 尺 。 力如 考。 矢用桔。 長尺八寸。 青石潟鎖。 古之粛 慎 也。 」 とあり、 晋書 巻 九 七 ・ 東夷伝粛慎 氏 に つ い て 「 粛 慎 一 名指婁。 在不戚山北去 夫徐可 六 十 日 。 行東 積大 海。 西 接 冠漫汗因。 (略) 有石 碧皮甲 之甲。 檀 弓 三 尺 五 寸。 桔失 長 尺 有限ω 其園東北有 山 出 石 。 其利銭 。」 と し 、 また 親書巻 一00 ・ 勿 士口 伝 に 「 主口射獄。 弓 長 三 尺 五 寸 。 箭 長 尺 二 寸 。 以 石 震鉱。 (略) 大 和 十 二 年 、 勿 士口復遣使。 貢桔矢 ・ 方物於京 師 」等 々あ り、 これら の 諸記事 を 踏まえ 、 先 学 の 研 究 は 既 に 詳 細を 究 め て い る 。 即 ち 、 明 治 以 降 の 日 本 人 の 研 究で、 粛 慎桔 矢 に つ い て 触 れた 論文 ・ 報告類 は 数 多 い が 、 最初 の 本格的な論 究 は 、 白鳥庫士 口氏 の 「 粛慎

」であ る 。 ここで は 粛 慎 H把婁説 に か ら み ツ ングI

(4)

ス種 であ る こ とを 一言語学的 に 証 現し ようと し 、 合 せ て日 本 の 粛 慎説 話 に 及 んだも の で あ る 。 これ 以前、 布施千造氏 と鳥 居竜 蔵氏が 粛慎抱婁説を め ぐ っ て 若干 の 弁駁を 加 え たこ と が あ っ た 。 そ の 後 、 池内 宏氏 は 「 満 鮮地理歴 七 に お い て 「粛 慎 考 」 を 発表 さ れ 、 史研究報告」第 一 一 二冊 (昭和 七 年 七 月 ) そ の 研究 は 詳述を 究 め て い る の で問題 の 大 半 は 解 明 さ れ 終 っ て い る か の よ うで あ る 。 そ の 後 、 桔矢 の 材 料 に つ い て 、 中 山 久 四 郎氏 は 「 満 州 の 桔 矢 に つ き て 」 と い う 論 文中 で、 矢柄 が 朝 鮮う つ ぎ であ ろ う と さ れ た。 こ の 他 民

族問題 と か らん で論 及 し た も の に 、 津田左 右士口 氏 の 論 文 な ど の 外 、 中国 ・ 日 本 を間わ ず数多く あり、 中国東 北方 史 に 欠 か せ な い 記 事と な っ て い る 。 こ れ ら 諸 先学 の 研究 か ら 明 ら か な こ と は 、 伝説上 の 粛慎 は と も か く 、 六 朝時代 に 朝 貢 し た 粛慎 は 一 名 指婁 と い わ れ 、 後 勿士口 に 吸 収 さ れ る 後 世清朝 の 祖 に つ な が るツ ングI ス系民族 の こ と で 、 伝説 はこれ に 付 会 さ れたも の であ る 。 そ の 原 因 は 、 桔と い う素 材 (或 い は 朝 鮮う つ ぎ か ) に よ る 尺 八 寸 程度 の 矢 柄を も ち 、 石銑を 付 し 、 中国 の 寄 器 に か け る よ う な 短か い 矢 を朝 貢口 問 と し て も ち来 貢 し た ことが 、 孔子 に ま つ わ る 粛 慎説話 と 照応 さ れ る に 至 っ た こ とな ど に よ る も の で あ る 。 なお詳細 に 検 討す れ ば 、 一 体 、 古 代 の 北方な い し 東北方に存在 し た 粛慎と は 、 い か な る 種 族 な の か 。 そ の 際 、 北 方 な い し 東 北 方 の 夷 と いう 、 古代中 国 の 辺 境 は ど こまで 拡 延 さ れ ることが

一O

可能 で あ る か 。 また 、 粛慎説話が い つ か ら か 東 夷伝 の 中 に組みこま れてき て い る か 、 そ の 経 過お よ び 古 代 の 東 夷 と は 一 体何を さ す の か 。 果し て六朝 時代 の 東 夷と、 秦漢以前 の 東 夷 と で は い か な る 差異が あ る の か 。 順序 とし て は これを 先ず 明 ら か に せ ね ば な ら な い 。 し か し 、 こ の こ と は 筆者 の 専 門 外に わ た る こ と も 多く 、 また ここ で の 追 及 の 直接の巨的でも ないため後の 粛慎の桔矢に関する一試論 機会 に譲りた い。 きて 、 繰り返 すこと に な る が 、 粛慎説 話 の 研究 は 池内宏氏 の 論考に詳細 が 究 め ら れて い る た め 、 氏 の 論 考 に そ い つ つ も 、 な お こ の 小 稿 の 初 め に 記 し た疑問を 含 め 、 粛慎貢献 の こ と が 南北 朝時代 の 政局に 少な か ら ず 影響あ り、 ひ い て は 中 国中 原 王 朝 を 核 と す る 当 時 の 東アジア世 界 の 一 つ の 動向が 象徴的 に 示 さ れ る も の と し て 、 交渉史的側面 か ら 再検 討 し て み た い と 思う 。 すで に こ の 点 も周知 の 事に属す る が 、 便宜上、 六 朝 時代 に お け る 粛 慎釆 第 一 回 貫記事を 掲げてお こう 。 青龍 四 (二 帝紀〕 第 二 回 景 元三 (二 六 二 ) 年夏四月 。 遼 束郡 去一口粛僕園遣使重課 入貢献 。 其閣 弓 三 十 張 長 三 尺 五寸。 桔矢 長 一 尺 八寸 。 石器 三 百 枚 。 皮品同銭雑鎧 二 十 領 。 招皮 四 百 枚 。〔親志 巻 四 ・ 陳 留王紀〕 第 三 回 文帝紀〕 第四 回 第五回 紀

LJ

第 六 回 戚寧五 (二 七 九 ) 年 十二 月。 粛慎来献桔 矢石 器 。 〔晋書 巻二 ・ 至 武 帝 元

(

)

(

二八 Ol 二 八九

)

初 復来 貢 献 。 〔 晋書 巻九

強4警

七 ・ 四夷 粛慎 氏 〕 太輿二(一一二九)年八月。 粛慎献桔矢石器。〔晋書巻六・元帝 成和五 (三 三 0 ・ 後 趨建平元) 年。 時高句麗 ・ 粛僕致其梧欠。 〔晋室田巻 一O 五 ・ 石勤載記〕

(5)

粛慎 の楢 矢 に 関 する 一試 論 至成 帝時。 通貢 於 石 季龍 。 方達 四年。 季龍問之。 答日 。 毎候牛 馬 。 向

西

南 眠

三年

。 是知 有 大

所 在 。 故来 云 。

晋 書 巻 九 七 ・四 第七回 夷粛慎氏〕 成康六 (三四O ) 年。 初漢 賂李闘魚耳目所獲。 逃奔子超 。 (略) 舎抱 婁

矢 石

於趨、 (王) 波因請以遣漢。 〔資治 通鑑 巻 九 六 ・ 晋 紀 J\

LJ

第八回 大 明 一ニ (四 五 九 ) 年十 一 月 己巳。 高麗園遺使献方 物。 粛慎園重 議献桔矢石市総。 〔宋書巻六・孝武帝紀〕 第九回 天 保 五 (五 五 四 ) 年 七 月戊子 。 粛慎遣 使朝貢〔北 斉書 巻 四 ・ 文 宜帝紀〕 これ ら個 々 の 遺 使朝貢 の 状況は池内宏氏 の 研 究 に よ り 、 ほぼ解明 さ れ て い る 。 た だ 筆者 は 、 これら九 回 の 朝貢記 事 の う ち 、 第 一 回か ら 第 五 固 まで を Aグループ、 第 六 回 か ら 第 八 回 まで を Bグループ、 第九 回をCグループ と し て 、 以上 の 三つ の グルー プ は それぞれ貢献 に至 る背 景 と そ の 及ぼ す影 響 に つ い て特 徴 が あ る と 思 わ れ 、 こ の 点 に つ い て考 察を 進 め て い き た い 。 先ずAグルー プ の 貢献記 事 で あ るが 、 これ は 六 朝 時代粛慎説話再現 の 第 一 回 に 当 る た め重 要 な意味 合 い を も つが 、 池内宏氏は 次 の よ う に い わ れ る 。 此 の 頃 遼東 の 公 孫 氏 は 親 の 塵 迫を蒙 り 、 其 の 鼻 息を窺 っ て ゐた 。 想 ふ に此 の 朝 貢 は 、 公孫 氏を介 し て 行 は れ た の で あ ら う 。 さ う し て 所謂粛 慎氏 はこれ よ り先き、 少なく と も遼東地方 に 於 い て は 、 把婁 の名 を以 て其 の 地 方 の 支 那人 に知 ら れ て い た の で あ ら う が 、 抱婁自 身が 別 に 粛 慣 の 稿 を も っ て い た わ け では なく、 貌 の 朝 廷 に 査 ら さ れ た 方 物が桔 矢 で あ っ た 事 費 か ら 、 これこ そ古へ の粛様氏に ち が ひ な い と い ふ の で 、 四 古典的 の 名稿が 説人 に依 っ て 此 の 新 し い 朝 貢者 に 興 へ ら れ た の で あ ら ふ 。 少し長 文 に わ た っ て 引 用 し た が 、 こ の 当 初 の 貢 献方式 す な わ ち 公 孫 氏 と い っ た よ う な 第三者を介 す る 形 式 は そ の 後も引き続 くものと し て 重要であ る 。 ま た す で に 見 て き た よ う に 粛 慎氏が 抱婁す なわ ち 後 の勿吉 (耽鴇!溺 海) に吸 収 さ れるツングl ス系民族 の 中国的称謂である とし て も 、 常に自

鳴.

族名 を使 用 さ れ な か っ た こと に つ い て も 注意を要す る ところ で あ る 。 Aグルー プ の 第 二 回 の 貢 献 は 池内宏氏の い わ れる通り、 司馬昭 が 遠 夷 の 来朝を 宣伝する た め に 、 王 奔 の 故事を踏襲 し 、 「特 に 其 の 国 を 来 朝 せ し め る 為 め の 使者を 発遣 し」 、 「其 の 事 を掌 っ た も の は 、 遼東の 東夷校尉であ ら

←川一

と さ れ る の が 妥 当であ る と 思 わ れ る 。 さら に 第 三 ・ 四 ・ 五 回 とも遼 東 に駐 在 す る 東夷校尉府 か ら の 中継であ っ た と し て 差 し支えな い で あ ろ う 。 八 王 の 乱 以 後 西 晋 の 滅 亡を経 て 東 晋 に至り、 再開さ れた第 五 回 目に つ い て 、 山海経 大荒 北経 ・ 粛慣氏之園郭嘆注で、 E日太興三(二?)年 。 卒州刺史佳悲遣別駕高倉使来献粛慎氏之弓矢・ 箭銭 。 有似銅骨作者。 と あ り 、 こ の 時 の 遼 東 は 鮮卑慕容部 の 伸 張 に あ い 、 か ろ う じ て 晋 側 の 拠 点 を確保 し て い た 在 感が中原と の 連携を求め た 時 であ り、 それ に も か か わ ら

太 興二 ( 一 一二 九)

十 二

に は、 ついに崖葱が高句麗に逃げ、 遼東は慕 容庇 の 制 圧 す る と こ ろ と な っ た 、も の で あ る 。 四 つ い でBグループ の 例 の検討 に は い る が 、 第 六 回か ら 第 八 回 は 先 の A グ

(6)

ループ の 例 と比較し て 、 その形式 ・ 内 容に か な り の 相 違が 生じてい る筈で あ る 。 すな わち、 粛慎が 貢ず べ き対象が 非漢民 族 王 朝 に も 及 ん だ こ と 、 っ て 仲継 を し た で あ ろう親晋 の 東夷校尉府はもはや存 在 し ていな い こ と な ど に よ る 。 そ れ が ど の よう な内実 をも っ て 表 れ た か を 考 察す る た め に 、 第 六 ・ 七回 の 貢 献 に い た る 前 後 の 事 情 を 究 明 し て み た い。 晋 書 巻 一 O 五 ・ 石勤載記 や湯球 撰十 六 国春 秋輯補後趨 録 な ど に よ り 、 石 勤および石虎 の 後 超国建国等 に い た る 過 程を 概観 す る と お よ そ 次 の よ う に な る 。 上党武郷 の 掲 人 よ り 起 っ た 石勃 は 一 旦 は 漢 人 の 奴 と な り 、 山 東 に転 売 さ れ た が 、 免 か れ て 後 、 郡盗 よ り次第に勢 力 を得 、 旬奴劉 氏に投じ て 一 方 の 将 と な っ た 。 河 ・ 推 の 聞 で 平定活 動に 従 っ た後 、河 北に転じ、 裏国に 根拠 地を設 け た (一一二 二年 ) 。 こ こ に 、 旬奴劉 民 の 漢 と は 表 面 的 な 服 属 関 係 を 一五 も つ も 自 立 の 態 勢を と り 、 幽州 (河北) にい る 王 没 、 井州 (山西) にい る 劉

耽一り

と鋭く対立するに 至 っ た 。 こ の 王没と 劉現は 西耳目 誠亡後 の 華 北 に 残 留 し た 漢 人集 団 の 指 導 者 と し て 次 第に 自 立 の 止 む な き に至 っ て い た の で あ る が 、 隷下に は む し ろ 非漢民族 た る 烏桓、 鮮卑段 部、 鮮卑拓政部 が 中 核戦 間集 団 と し て重 用 さ れ た の で あ る 。 従 っ て 、 こ れ ら非漢民族 の 去就こそ華 北 の 政 情 を 左右 するも の で あ っ た 。 こ の こ と は 石 勤政権 の 存 続 に つ い て も 同様で あ り 、 こ れ ら周 辺諸 族 を ど う と り 込む か が 、 五 胡 十 六 国諸国 に共通 した宿命 で あ っ た と もいえ る 。 石勃政権 に 限 っ た こ と で は な いが 、 多く非 漢民族相 互 に 共 通す る 相 互連盟 と胡漢対 立 の 様 相 は 、 巨 大 な漢文化 コ ンプ レ ッ グ ス に 対 す る 受 容と排 除 の 両 面 を な い ま ぜ に し て 、 時に矛盾が 激 し く 露呈する こ と が あ っ た 。 石勤政権 に お い て も 、 当面 の 勢 力 拡大 の た め に 偽 粛慎の桔矢に関する一試論 っ て 臣 と 称 す る こ と を も 辞 せず、 ま た 自己 の 政 権下に 服従させる ため には 力、 徹底的 な時 味 も し 、

一七

ど に よ り、 次第 に 勢 力を伸 ばす こ と が 可 能 と な っ た 。 こ こ にお いて石勤は 一 方 に おい ては非漢 民族 の 君 長 を厚く待遇 し た こ と な 先ず 幽州 に よ る 王 設 を滅 ぼ し 〈一一 二 四 ) 、 烏桓、 鮮卑 段 部 の 一 部 を 収 め、 つ い で劉現 を 降 す (一一 二 七) こ と に よ っ て 、 華北 の 東 半分 を掌中に 収 め 得 た 。 かく し て旬 奴漢 の 劉 聡と 全 面 的 な 対立 を 呼 ぶ こ と と な る 。 漢 は 劉 聡が 没し た 〈一一二八) 後、 内-証 を へ て 劉 曜に代わ り、 そ の こ (光初 ・ つ二 九)

一八

年に 国号 を超 (前趨) と改 めた。 こ れ に よ り 石 勤 は そ の 対 抗上、 同様に圏 号を趨と 改 め た た め 、 一 般 に後越 と称 す る が 、 こ の 対立も 東晋 成和四( 二 九 ) 年、 劉曜 の 子照が殺 され て 前 越が滅亡 し て 終 る 。 こ の よ う に し て 山 東 か ら険西、 甘粛 の 東 南 部 に か け て の いわば華北 一 帯 を 統 一 し た 石勤政権 には、 改 め て 彼 を 取 り 巻 く外周諸民族 の 圧 迫が 露 わ な も の とな っ て き た 。 そ の 故 に 、 石勃政権 の 内 部 に お い て さら に 統 治 の 内 突 を 強 力 に 補 完する諾 国家と の 同 盟が 必 要 と な っ て き た の で あ る。 石 勃 を つ いだ族 子石虎 の 政 権 下 に お い て も 情況 は 継 続 され 、 その範囲が やや拡 大 さ れ た 時 点 で 第 七回 の 粛慎貢献記事が 伝 え ら れ る の で あ る 。 こ の 石勅が 統 一 し た 後超国 の 周 囲 を みる と、 江南に 復 活 し た東晋 と堅 固な要 地 萄 を 占 め る賓民李氏 の 成 国 (後、 漢 と 称す) が 南 方お よび西南 方に あ る 。 西に漢 人集 団と し て 涼 州刺史 よ り 自 立 し た 涼 (前涼) の 張 氏が あり、 北方 に は 、 旬奴劉氏 の 遺 臣 や 華 北 の 漢 人集団を 次第に収容し つ つ 南 下 を 始 め た

一九

鮮卑拓 政 部 の 代 国が あ っ た 。 一 方 、 東北部 に は シ ラ ム レ ン (遼) 河 上 流 を

三O

中 心 と す る 鮮 卑字 文部 と 、 遼東 ・ 遼 西 に 勢 力を拡 大 し た 鮮卑慕 部容、 そし て こ の 慕 容部 の 圧 迫 を う け 守 勢 に た っ た 高句麗 国 な ど で あ る 。 こ れ ら諸民

一五

(7)

粛慎の法夫に関する一試論

族 、 諸 国 家 間

対 立

抗 争が 中 国

い わ ゆ る 中 原 を め ざ し て そ の 支 配権獲 得

絞 られ

そ 、 五 胡 十 六 国 時代 の 特 徴 で あ る 。 そ の 細 部 は す で に 多 〈の 研究 が あ り、 今 は 第 六 回 お よ び 第 七 回 の 貢 献関 係 に 絞 っ て 直 接 の 事 情 に触 れ る こ と と

る @ 先ず高句 麗と石 勃政権 と の 関 係 であ る 。 高句麗は 紀元前 一 世 紀填 か ら 中 国 の 文 献 に 知ら れ る よ う に な り 、 そ の 後 の 状 況 は 必 ず し も明 瞭 で は な い 。 三 国 志 巻 三 0

東 夷伝 高 句 麗 の 条 等 に よ れ

そ 次 の 通 り で あ る 。 高句麗 は 王 奔 の 新 の 時 遼 東 に 進 出 し た が 、 時 の 高句麗 王 賜 は 新 の 厳尤

一一一一

一 時 下旬 麗と 蔑称され侯固 に 位 置づけ られ た 。 後漢光 武 帝 八 年 誘殺され 、 「高句 麗王遣 使朝貢始 見 稿王 」 と あ り 、 そ後玄蒐郡 ・ 遼 束郡 を め ぐ っ て 後 漢 と の 攻 防が あ り 、 後 漢未公孫氏 の 遼 東占拠 で は 直 接に は 公 孫 氏 と抗 争す る こ と と な っ た た め 、 公 孫 氏 は 周 辺 の 諸民族を 含 め そ の 懐 柔 に 充分 の 意 を 二 三 注 が ざ る を 得な か っ た 。 やが て 政 権が 三 国 規 に 移 る と 、 景初二 (二 一二 八 ) 年公孫氏 は 討 滅 さ れ た が 、 正 始 五 (二 四 五 ) 年 、

将 母 丘倹 に よ り 高 句麗 園都 の 丸 都城 ( 輯 安) が陥 い れられ 、 さ ら に 翌 年玄 蒐太守王 聞 に よ っ て 再 度 丸都城 は 屠

れ 、 時 の 高句麗 王

東 川 王 位 宮 は 粛 慎

南 界

で 逃 亡 し た

二四

と い う 。 耳

代 に は い る と、 晋警東夷 伝 に は 高 句 璽 伝 が 欠 け て い る の で 関係 し た 史 二 五 料をたど ること に な る が 、 規 は 公 孫氏討滅 後平州 に 東 夷校尉 を置き 、 古 も

れ を 置 い て 東夷諸族を 罷 探 し た 。 し か し 、 そ の 後 の 八 主 の 乱 に 続 く、 晋 王室自体 の 衰 亡 が 東夷 校 尉 を 名 目だ け の も の と し 、 自律権 力 を 生 ず る に 至 っ た 。 そ の 問 、 高 句麗 は 次 第 に 復 興 し、 三 国 史 記 に よ れ ば 、 高 句 麗本 紀美 川 王

一 二 (一一 二 一) 年

一六

秋八月 。主 遣 将襲取遼東 西安千 @ つ い で 同 一 四 ( 一一二 三 ) 年 に 、 多十月。 侵梁浪郡。 虜獲男女二千徐日。

一一七

と あ り 、 池内宏 氏 は こ れ を も っ て 晋 の 楽浪郡 の 滅 亡と され、 そ の 証拠 とし て は 、 資治通鑑巻 八 八

西 正

感 帝 建 輿元 (

一二 三 ) 年 の 条 に 、 遼 東 張 統 援 策 浪 ・ 帯方 二 郡 ο 輿 高句麗 王 乙弗利 相 攻。 連 年 不 解 。 繁 浪 王 選

統 。 師 其 民 千 絵 家 野 (慕容 ) 庫 。

矯 之 置 繁 浪 郡。 以 統矯 太 守。 選 以 参寧 。 と あ る の を 示 さ れ た 。 か く し て 高 句 麗 は 朝 鮮 半島 に お い て 東進 し 、 楽 浪H 平壌を得、 南下 の 態 勢 を 示 す と 共 に 、 本稿 と も か か わ り あ る 次 の 事 件 に 遭 遇 す る こ と と な る 。 そ れ は 本 稿 で す で に触れた よ う に 、 粛慎 の 貢 献 A の 第 五 回 に推 測された 晋 の 東夷校尉崖蕗と 高句麗、 慕容 部 と の 関 係 で あ る 。 晋書 巻 一 O 八 ・ 慕 容 原載記 に 、 時不川刺史東夷校尉屋地必白以震南州士望。 意存懐集。 而流亡者莫有赴 之。 悲意見拘留。 乃陰結高句麗及字 文。 段園等謀滅毘 以 分 其地。 太輿 初 Q 三 園 伐一施。 (略) 尻閉 門不戦。 遺使途牛酒 以 塙 字文 。 (略 )於是 二 園 果疑宇 文同於毘。 引兵 市掃。 (略 )法輿数十騎棄家室奔子高句麗Q ( 略 ) 明 年 。 高句 麗 冠 遼 東 。 尻 遣

撃敗之 。 と あ る 。 鮮卑民 族慕容 部 に つ い て は す で に 多 く の 研 究 があ る の で 、 今 こ こ に 詳 し く は 述べ な い が 、 慕容渉帰 の 子 慕 容魔 に 至 り 、 遼 東塞 外 か ら は い っ て 大 凌 河流域に定着し、 先住段部を圧迫して遼西に地盤を固めつつあったのがご一

(8)

世紀末 である。 つ い で晋の内乱を契機 に 多 く の 帰 属 漢 人 を指 導者層 に 迎

二九

ぇ、 郡県を整 備 し 、 先 に 長文を 引 い た 如 く、 山佳悲 の 事 件 を 機 に 遼 東 ・ 遼 西 を 掌 握 し た 。 これ に よ り 東 は 高句麗、 西 は 字 文部、 南 は 段 部と対立 す る こ と と な り 、 さら に 石勤が 華北を 平 定 し た と き 、 慕容 部と 鋭く対 立すること とな っ た の で あ る 。 一 方 、 字 文 部 に つ い て 、 そ の 出自 は 鮮卑若く は旬 奴とい わ れ る

一町

三世 紀中頃 に起り、 シ ラ ・ ム レ ン 河 上 流 域 か ら 次第 に 伸 張し、 慕容魔 の 父渉帰 が遼東 の 北 へ 廻 っ た の も こ の 字 文 部 の 圧 迫 に よ る と い わ れ

。 親 善巻 一 O =7旬奴宇文莫塊 伝 に よ れ ば 、 模塊 の 代 に な っ て 慕 容昆と度 々 戦 闘 を く り 返し て お り 、 晋書巻 一 O 八 慕 容魔載記 で は 字 文莫圭と し て 記 し 、 そ の 後 、 先 に あ げ た 崖 悲 の 事 件 を 記 す の で あ る が 、 星山誌が 字文 ・ 高 句麗 ・ 段 の 三 国 連合 に 失 敗 し た と み る や 、 慕容部はすぐ に 字文部 攻撃を行 い、 (字 文) 悉濁官自侍其衆 不設備 。 見昆 軍 之 至 ω 方率兵距 之。 前鋒 初 交。 (慕 容) 翰己 入 其管縦火焚之 。 其 衆皆震擾 不知所潟 、途大敗 。 悉濁 官僅 以 身兎謹倖其衆於其鋒候 。 獲皇帝 玉璽 三 紐 。 と 大 勝 を 示 し 、 そ の た め 宇 文部 は 後超石勤 と連 結 せ ざ る を 得なく な っ た よ う で あ る 。 東晋大 寧 三 ( 一三 一五 ) 年春 二 月 の 事 で あ る (資治通鑑巻 九 三 に よる ) が 、 晋書 慕容見載記 に 、 遼西 鮮卑段未波 を 討 っ た 後 の 事 と し て 、 石勘違使通知魔距之 。 法其 使於建鄭。 勤怒遣字文乞得亀 撃魔。 魔遺説 距之 (略) 悉虜其衆乗勝抜其圏域。 其資用億計。 徒其人 数寓戸以時。 と あ り 、 も は や 字 文 部 に は そ の 存 命を 策する た め に ま す ま す石勤 政権と密 接な 関係を 保 つ 以外 に 手 は なか っ た よ うであ る 。 一 方 、 慕容 部 は こ う し た 状況 か ら 東晋 の 大尉陶 侃 へ の 書 翰 (正白書慕容廃載記) のム中で、

粛慎の借矢に関する一試論

況今臭土英賢比肩。 而不輔翼翠 主陵江 北伐。 以義聾之置。 討逆暴之

命 蓄 都 之 士 。 招

存 本 之 人。 と、 後越挟撃を の ベ 、 晋 の 意 向 を 伺 っ て い る 。 以上や や繁 雑に わ た っ た が 、 第六回貢献 に い た る四 囲の情勢 は そ れぞ れ の 国 に お い て 全 く予断 を 許 さ な い 事 態 に あ っ た と い え る。 こうし た 中で、 後越石 勤 の も と に 貢 ぜられ た 桔 矢 は 粛 慎或 い は 抱 婁 の 自 発的 な貢 献 で あ っ た か 、 そ れ とも石勤側 の 招 致 に よ っ た も の で あろう か 。 最初 に み た 如 く、 普書石勤載記 の 記 事が 正 し い と す れ ば 、 粛 慎 は 正 月 の 饗宴 に 与 か っ て い な い 所 か ら 重 訳 来貢 の 可 能性 を 除 き、 直接 の 貢 献 に つ い て は 先ずそ の 可 能性 を 削 っ て お き た い 。 次 に 検討す ること は 、 先 に も記し 一一一 二 た よ う に 、 西 晋 の 誠 亡 に よ っ て 東 夷校尉府 は 慕容昆 の 掌 握 下 に あ っ て 石 勤 政権 に 通 ず る も の は な く、 従 っ て 説 ・ 西 晋 時 の ような 中継者が 存在 し ない と い う こと に つ い て で あ る 。 と こ ろ で 、 こ の 粛 慎梧矢 に 象 徴 さ れ る 遠夷来貢説話 を 当 面必要とするも の は 石助政 権自身 で あること は も と よ り で あ る が 、 東北 に慕 容部が 盤居し て い る今 、 こ の 背後 の 仮 に 抱 婁 族 と し て 、 これを直接 に 招 致する機 会が な い こ と は こ れ ま で に み て き た 通り で あ る 。 し か し 、 こ の 桔 矢の 実物 は 、 後 に 第 七 回 の 時重要な 国際関係 の 役 割 を荷う筈 で あ る か ら、 何ら か の 手 段を 通じ て 獲 得 さ れ て い な け れ ば な ら な い 。 ここ にもう 一 つ の 可 能性 、 高句麗 の 存 在 を 考 え る 必要が 生 じ る の で あ る 。 端的な 結論 を示 せ ぽ 、 Bグ ル ー プ の 第 八 回貢献記事で ある 。 こ の 時 は 宋 の 大 明 三 年 であ り、 すで に 記 し た よ う に 粛 慎 は 「重訳」し て 献 じ た と あ る が 、 誰が それを仲 介 し た か 。 宋書 巻 九 七 ・ 東 夷高 句麗伝 は 、 七

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粛慎 の椅矢に関す る 一試 論 (高句麗 壬) 瑳毎歳遺使 。 (元嘉 ) 十 六 年 太 租 欲 北討 。 詔瑳迭馬 。 理 献馬 八 百 匹 。 世租孝建 二 年 (略) 並 離 方物。 大 明 一ニ 年叉献粛横 氏桔矢 石語 。 こ の 一 事 は 明 瞭 に 高句麗が 粛慎(H把婁) の 桔 矢を直接 に 献 じ た こ と を 表 わ し て い る 。 第 六 回 の 貢献も実 は 高 句麗 で は な か っ た か と推 測 さ せ る に つ い て は 、 高 句麗 を と りまく情 勢が 、 と り わ け 慕容部 の 庄 迫 を 受け、 字 文 部 ら と 連 帯 の 必要 に 迫 ら れ て い る こ と に も 明 ら か な よ う に 、 高 句麗が 中国 側 と の 要 盟 を と り 結 ぶ 最も効 果 的 な 貢 献物 で は な か っ た かと い う 点 に あ る 。 それ で は 、 高句 麗が 何故粛慎桔 矢 を 用 い る に 至 っ た の か。 も ち ろ ん 高 句 麗 の 内 部 に は 多 く の 漢人が い た こ と は 、 古く は箕 氏朝鮮 に 始 り 、 こ の 時期 で も 楽浪 ・ 玄克 諸郡 な ど に 残 留 或 い は 進 ん で 赴 い て い た こ と (前掲建 輿元 年記事 ) な ど に よ り 言 う ま で も な い 。 し か し 、 最も直接的 に はAグル ープ の第 五 回 の 貢献記事 で 触 れ た 通 り 、 遼東校尉崖 越 の 高句麗と の 関係が濃 厚 で あ っ た こ と に よ るも の で は な いで あ ろ う か 。 し か も 彼は 東晋朝 に 粛 慎 の 来貢 を 伝 達 し て い る の で あ る 。 高句麗 と石 勤政権と の 関 係 は こ の 慶 賀記事 一 つ で は な い 。 晋 書 巻 一 O 六 ・ 石季 龍載 記 に よ れ ば 、 石 勤 を 嗣 いだ石 虎 は 、 慕容庇 を闘 いだ慕 容獣 討 伐 を 策 し 、 因成予海島。 運穀 三 百寓創以給 之 。 叉 以船三 百般運穀 三 十 寓餅詣高 句 麗 。 使 典農中 郎 賂王 典率衆寓 徐屯田子 海演 。 と し て 、 こ の 企 て は 成 功 し な か っ た が 、 海路 に よ り高 句麗と の 同 盟 関 係 を 活用 し よ う と し た の で あ っ た 。 J\ か く の 如く石勤 が 山東半島を掌握し て 、 こ こ を 基 点 に 溺 海湾 沿 い に 高 句 麗と緊 密 な 連 携 を も っ て慕容部牽 制を充分と り 得 る と す れば、 石勤 の 皇 帝 即 位 に 当 り 、 態 々 彼が招 致 せ ず と も 、 単 な る 慕 化来 朝 の み な ら ず 、 それ 以 上 の 意 味 合 い を も っ て高 句麗が 来廷 す る こ と は 当 然であ っ た と思 わ れ る の で あ る 。 さ て 、 B の 第 七 回 の 記 事 に つ い て で あ る が 、 こ の 時 必 ず し も 粛 慎 の 来 貢 を必要と せ ず 、 石勃以来 の 桔 矢、が あればよ い の で あ る 。 し か し 、 或 い は こ の 時 も高句麗 は 何 ら か の 役 割 を 果 し て い た の か も し れ ない。 池内宏氏 の 所 説 に 従 えば、 都中記 に 、 粛慎在邦之東北 。 去部 五 寓 里 。 遣使 四年 。 乃達 。 献 石碧 ・ 括矢。 と あ り 、 晋 書 巻 九 七 ・ 東夷伝粛 慣 氏 に 、 至 成 帝時 。 温貫於 石季 龍 。 問之 。 答 日 。 毎候牛馬 。 向西南眠三 年央 。 是知有 大圏所在 。 故来云 。 三 四 と あ る も 、 「所 伝 の 事 実 で な い 事 は閏 より論を侯たぬ 」 と さ れて い る 。 今 迄 の 考 察 の 過 程 で も粛慎も し く は 抱 婁 の 直 接 の 来 貢 を 示す記事 を認 め難 い た め 、 筆 者も こ の 意 見 に 賛成 で あ る 。 それ は と も 角、 粛 慎 な り 桔 矢 な り が 非漢民族 (掲) か ら 非漢民族 (賓) へ と 送授 さ れ 、 五 胡 十六国 史 の 一 場 面 を展 開 さ せ た こ と に 、 従 来 の 漢人社 会 に お け る 伝 説 の 次 元 を 越え た 意 義が 認 め ら れ る の で あ る 。 こ の 貢 献物を 受けた李 氏成漢 国 で は 、 晋 書 巻 二 二 ・ 李寿載記 に あ る 如 く 、 か ね て か ら 石 虎 側 か ら 、 先是季 龍遺書 書 欲 蓮横入冠約分 天下。 ?と誘 い が あ っ た こ と もあり、 同載記 に 、

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舎李関・王摂従部還。

盛稀季龍威張宮観美麗(略)蕎心欣慕。

人有小

過 帆 殺以立威 。 と後越 の 統治方針と 石 虎 の 独 断振り に 並 々 なら ぬ 関 心 を も っ て 実 行 に 移 し 、 却 っ て 民 を疲 弊 さ せ る の で あ る が 、 肝腎 な桔矢 に つ い て は 、 晋書石季 龍載記 に あ る 如 く、 李宏既至局漢。 李毒欲 誇其境内。下令云 。 掲 使来庭蹴其桔矢 。 季 龍 聞 之怒甘担 割王波。 と石虎 の 意 志と は 異 な っ て 逆 用 さ れ た 如 く、 同 じ 時 代 に あ り な がら地域的 な緊 張関係 の 欠 如が よ く 示 さ れ て い る 。 C グ ル ー プ に つ い て は 第 九 回朝貢 の 一 回 の み で あ る が 、 入貢先が 北朝 の こと で あ り 、 当時 の 東 北 ア ジ ア 諸族、 契丹 ・ 室 主 ・ 地 一息子 ・ 庫 莫 渠 ・ 高 句 三五 麗 な ど が 相 つ い で 朝 貢 し て い る 。 そ う し た 中 で そ の 民族 比 定 に 貴 重 な 要 素 を も っ粛慎 の 入 貢 で あ る が 、 そ の 詳 細 を 欠 く こと を遺 憾 と す る 。 池内宏氏 はこれ に つ い て 「特別な る意 義 は あ る ま

円い

と さ れ る が 、 さ ら に 細部を検

司1

討す る と 別 の 次元 か ら の 問 題 点 も 生 じ て く る で あ ろ う。 い ず れ に せ よ 従 来 か ら の 関係 か ら抱婁も し く は そ れ に 代 る 種 族 の 単 独朝 貢 の 他 に 、 何ら か の 形で の 高 句麗 の 関与を推 察す ること も可能 で あ ろ う 。 五 前節 ま で に 諸 種 の 考 察 を 加 え て き た こ と が 大 旨妥当 で あ る と す れば、 粛 慎 の 朝貢 に 関 し て そ れ ぞれ A -B ・ C の 三 グ ル ー プ に つ い て の 特 徴を次 の よう に ま と め る こ と が で き る 。 〔Aグ ルー プ の 朝 貢〕 説 ・ 晋を通じ、 遠夷来 貢を強 調 す る た め に 、孔 粛慎の桔矢に関する一試論 子にまつわる薦慎説話をかりて東夷に仮託 し、 従ってその介在者、が遼東の 東夷校 尉 で あ っ たこと。 入貢 を 従 容 し た も の は 隷 ・ 晋 を 通じ司馬氏 一 族 で あ っ た で あ ろ う こ と な ど で 、 桔矢 ・ 石器と い う素材 の 入手そ の も の が 遠 夷 来貢 に 擬 せ ら れ た も の で あ る 。 〔Bグル ー プ の 朝 貢〕 商晋滅亡のあと中原に 進出 し た非漢民族諸族の 国家建設 に 伴 な い 、 当時 の 東 北 ア ジ ア の 情 勢が複雑 に 影 響 し あ い 、 自 立 と 同盟 の 紐 帯に 伝統中国 の 説 話 さ え も が 援 用 さ れ 止 揚 さ れ て い る 。 特 に 残 留 も し く は 流 亡 漢 人 が 多 く 相 つ い だ 高 句麗が桔矢 ・ 石 器 を も っ て か つ て の 東 夷校尉府 の 役 割 を 担 い 五 胡 の 争 乱 に 深 く か か わ っ た も の で あ ろ う こ と 。 従 っ て 小稿 の 最 初 に 掲 げ た 石勤載記 に あ る 高 句麗 ・ 字 文 氏 の 朝 貢 と 饗 応 が 可 能性 あ る 記 事 で あ る こ と と 共 に 、 両 国 と も慕容庇 の 攻 撃 に よ っ て手痛い 打 撃を 蒙 っ て お り 、 特 に 宇 文 氏 は 氏 族 の 存 亡 を か け て も石勤 政権 と 連携する 必要が あ り 、 連絡的意味合 い か ら も長期 滞 在 を 余 儀 な く さ れ て い た こ と が 推測 さ れ る の で あ る 。 〔C グ ル ー プ の 朝 貢〕 す で に 前 節 で 述 べ た 通 り で 、 そ の 余 は詳細を欠 き 不 明 で あ る、 がBグ ル ー プ と共通 の 性 格 を もっ可能性 も推 測 で き る 。 し 台、 し、 も は や 粛慎説話 が 重 視 さ れ る 時 代 は 過 ぎ た 。 北朝 を 中 心と す る 周 辺 諸 民族 ・ 諸国家 の 対応関 係が さ ら に 陪 ・ 唐 の 巨大な統 一 国家 に 継承さ れ る と き、 東北 ア ジ ア 史自 体 に も 白 か ら な る 変 化と対 応 が 要 請 さ れ て く る のであ る 。 以上の試論的まとめを付 した 上で、 再びBグループに焦点を絞って以下 の 結 論を導き大方 の ご 批 判を仰 ぎ た い 。 五胡 十 六 国 の 時 代 は さ ら に 引 き続く 南北 朝対立 の 先 駆的時 代 と し て把え

一九

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粛慎の活矢に関する一試論

ら れ 、 遼 ・ 金 ・元 など の 征 服 王 朝 と比 較し て もま だ未 成熟な段 階 ・ 潜 入 王 朝と し て 把 握 さ れ

一位

それら の 最 大 の 要因は胡族 政権 の 族的分裂H遊牧的 遺制と残留漢人 の 政 治的 文化的指導 による遊 牧的遺 制 の 喪 失 の 相 魁 に よ る と い わ れ る 。 従 っ て こ の 時代を胡族風 ・ 漢族風国 家 と 表 現す る ことも可能 で あ ろ う 。 一 方 に お い て こ の 漢 族風をどう胡族 風 に と り こん で い く か と い うことが 、 中核支配 種 族 の 最 大 の 命 題であ っ た に 違 い な い 。 筆者 は か つ て 中国的 礼楽制度が 五胡 諸国 の 中 に ど う と り 入 れ ら れ た か の 一一地 を考察 し た

一二九

が 、 そ れ ら の 作 業を通 し て 周 辺諸国 家支配者 の 自 立的 意識を中 国文 化史上 に応用し よ う と し た態度を 伺うこと が できた。 最近、 坂元義種 氏は南朝特

四O

に宋を中心 とした 倭 国 及 び周 辺諸国家 の 交渉を考察さ れ、 とり わ け 官号授 与を め ぐ る 高低の関係を通じ 、 「高句 麗 ・ 百 済 ・ 倭 ・ 吐 谷海 ・ 宕 昌 の 諸 国 は、 柔然や 武都を 含 め て い ず れも、 潜在的 に は 、 北親を 封じ込 め る 目 的を も っ て 、 南朝 に よ っ て 組 織さ れた 一 大 国家 連合 で あ っ た と み な し て よ か ろ

四一

う 」 と結論され 、 問封体制下 の 国際関係を 明ら か に さ れ た。 Bグループ の 第 八 回朝貢 がそれ に該当 す る か の よ う であ る 。 し か し な が ら 五 胡政権下に お い て は 、 これ程 整 備 さ れた関係をも つ こ とは 不可能であり 、 そ の 関 係 は 時 に 乱 反射 的 で さえあ っ た 。 し か も そ の 紐 帯 に 漢文化的伝統を援用す る こ とが あ っ た とし て も 、 それは い わゆる胡 族風 国家 の 自立性 維持 の 補完物 と し て あ り、 二 重 構造 下 の 一 面を示 すも の で し か な か っ た の で は な か ろ う か 。 それ に も増し て 内 実 は相 つ ぐ 国 家 間 の 闘 争 に よ り 大 半 は 坐 折 し て い っ た の で あ る が 、 こ うした北族 相互 の 関係 は東 夷諸国を 含 め 、 そ の 地 理 的環 境か ら 文献に 表 われ る 以 上に濃密な も の が あ っ て 、

回一

おいて受け継がれていたのではないだろうか。 粛慎の桔矢は後超石勤政権 南北朝時 代 に も北朝 に C 下 に お い て 、 当時 の国際関係を め ぐ り、 中国的説話を独自 に 止 揚した と こ ろ で 再 検討さ れ るべきも の と 考える の で あ る 。 注 漢書巻九九・ 王葬 伝一 万始 五年王奔奏上 文に 「大后 乗 統数(略) 越裳氏 重課献白雑 。 菅( 支自 三 蔦里貢生犀 。 東夷 王 度 大 海。 奉園珍」と 四夷 の 来 貢を い い 、 同 巻二 一・ 平帝紀同年 の 条 に 「越 裳氏重課献 白雑 一 。 黒 矯 二 。 詔 使 三 公 以 薦宗廟。 群 臣 奏言。 大司馬 王 奔功寵比周公。 競安漢公 」 とあ る 。 組問 に お け る 司 馬 氏 の 禅譲策動 は す で に 司 馬誌 の 時 に 起 きれ、 以後 三 国 志親志 ・ 晋書 に は 各 種 の 瑞 祥記事 (白鹿 、居一 耳亀 、 青竜 、 白 竜、 黄竜 の 貢 献 、 粛 慎貢献も そ の 一 つ とし て ) が挙 げ ら れ、 現 の 正 始元( 二 四 O )年 には 「春正 月東倭重課納貢 。 主局番危須諸園。 弱水以南鮮卑 名主皆 遣使 来 献。 天 子 掃美宰輔。 又増 帝封邑」 (晋書巻 一 ) と 相 国府 の実力を 示し て い る 。 漢書巻 六 ・ 武帝 紀元光元年賢良へ の 詔 に 「周之成康刑錯不用 。 徳 及烏 献晶弘通。 四海、 海外粛一首 (慎) -北 護@渠捜 ・ 呂 ・ 莞徳服 」と あ る 。 四 史記 巻 四 七 ・ 孔子世家粛慎之矢注 に 「正 義日粛慢圏記云粛慣其 地 在 夫 徐園東北河六 十 日 行 。 其 弓 四尺 強勤考 射 四 百 歩 (略) 」と あ り 、 こ れ に つ い て は 池 内宏著 「満 鮮史研究上世編」( 昭和一 一 六年) 所収「粛慎 考 」 に お い て 翰 苑 の 潅 公 叡 の 注 や太平御覧 など をもと に詳しく論証され 、 親 略 成 立 以 後 の ものとさ れ る 。

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歴史 地 理 -七l 一 ( 一九 一 一 年 一 月) 所収 。 後「 白鳥庫士口 全集 」第 四 巻 に 収 載、 なお日本 史 上 の 粛 慎 に つ い て は カ ラ フ ト を 根拠 と し て 北 海道 に侵攻 し た 民族と し、 ア イ ヌ一語、 ギ リ ヤ lグ一語、 ツ ン グ 1 ス 語 か ら解釈 さ れ た 。

」ー

ノ、

鳥居竜 蔵氏 「抱 婁 は 粛 燥 な り 」 (東京人類 学会雑 誌二三 一号 ・ 一 八 九 六) お よ び 、 布施千造氏 「鳥居龍蔵氏 に 答 ふ」 (向 上二 一 回 号 ・ 一 八 九 六) 参照。 七 そ の 後 前注四 に 所 収。 同 三 八九l四 三 七 頁 、 以下池内論文 とい う が 、 同論 文 に お い て は 、 本稿 に か か わ る 貢献記事 関係 の 考 証 の ほ か 、 先ず、 括矢 ・ 石努 の 「 満 州 」 民 族 に お い て 一 般 に 用 い ら れ た 歴史 的状況 を史料 に 基 き紹介 され て、 後世 に お い て も 高麗 或 い は 東 女 真 が 大 量 の 桔 矢を中 国に貢献 し て い る こ と を 論 じ ら れ 、 つ い で 桔 矢が桔 木 - を素材と し 、 桔 木 は 東 北中 国 の 特 産 で な く 華北 に も 植 生 さ れ る も の であ る た め 、 戦国時代 に 使 用 さ れ て 唐代 に 及 び 、 顔師 古 に よ れ ば 「 其木為精子 也」 (前 漢 書 巻 二 七 ・ 注 ) と 称 さ れ た と あ る 。 袈 は 南方諸民 族 に も 使 用 さ れ 、 そ の 地 に 産出 し た製 鉄材料 と し て の 鉱石 に 当 り、 中原 に お い て は 早く か ら廃れ た 石鎮 の こ とで東北 中国 に お い て も特産された こ と を 諸 史 料をあげ て 紹 介 され て い る 。 /\ 「市村博士 古稀記念東洋史論叢」(昭和八年・富山房)所収。 九 日 本 史 上 の 粛 慎 に つ い て の 研 究で は 前 注 五 の 他 、 津田左右 士口 氏 は 「粛 慎考」〈文 学思想研究 ご了 一二( 大正 一 四 年 一 O 月l 一 五 年 六 月 、 後 「 津 国左右士口全集」 第 二 巻 「 日 本古典 の 研 究」下 「際 神天皇 か ら 後 の 記 紀 の 記載」 付録第 二 (昭 和一 一一 八 年 一 一 月 ) に 所 収 ) で 中 国古代 の 粛 慎 は 「東 粛慎の桔矢に関する 一試論 北方に 営 る極遠 の 夷 族で あ っ て 」 、 日本の粛慎は「やはり東北のはてで あり、 遺境 の 蝦 夷と は 地 理 的 に 隔 離 し て い る 極 遠 の 夷族で あり 」、 「 渡島 の 部 落を呼 ぶ に 営 っ て 偲 借擬用」 し た も の と さ れ た 。 最近 で は 山 口 修 氏 が 「 蝦夷 と 粛 慢と 」(ちく ま第十二 号 一 九 七 O 年 四 月 ) で 小 文 な が ら 日 本 の 「 み し は ぜ 」 を 「北海道 の 住 人 で あ ろ う 」 と され て い る 。 。 近著 の 「 文物」 一 九 七 四 年 七 月 号 で 馬 王 堆 三 号基出土 の 弓 矢 を 紹 介 し 、 弓 に つ い て は 木 弓 が 一 ・ 四 五 m と 一 ・ 四 二 m 、 竹弓 が 一 ・ 一 一六 m と 一 ・ 一 三 m。 矢 は 六 八 ・ 五 回 の 物 十二 本、 八 二 ・ 四四 の も の 十 二本 と記 録 ( 四 四 頁 お よ び 図 版 二 ニ ) さ れ て い る 。 こ れ が 漢代江南 の 弓 矢 で あ る と し た 場 合、 一 説 に 東 夷 の 夷 は 大 と弓と い う 字 か ら な り た っ て い る とい わ れ る が 、 粛慎 は と も か く 、 抱婁、 勿吉 な ど の 弓 矢が 、 お そ ら く は 湾 器 用で あ ろ う が 、 矢 に つ い て 尺 八 寸と か尺二 寸 と い わ れ る よ う に 非 常 に 短 か く 、 狩猟用 と し て の 使 途面が伺 え、 こ れ ら の 風 俗 を 通 し て 古 代東北中 国 を 含 め たいわゆる東 夷 の 方 向 に つ い て さ ら に 検 討を重 ね る べきで は な か ろ う か 。 前注七 池内論文 (四 一 一 一 頁 ) に よ り 太康と す る の が 妥 当 で あ る 。 山海経 郭嘆注 (本文後 記参照) で は 太 興 三 年と す る 。 前注七 池内論文 (四 一 四頁) 。 なお引用 文 の 一 部 は 当 用 漢 字 に 改 め た 四 前注池 内論文(四 一 八 頁〉。 一 五 晋書 巻 三 九 ・ 王淡伝参照 。 一 六 晋 書 巻 六 二 ・劉混伝 参 照 。 七 例えば晋書巻 一 O 四 ・ 石勤 載 記 に よ れ ば、 王淡 の 司馬辞 統が花陽 に

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粛慎の倍矢に関する一試論

鎮し 、 渡 に 反 し て 石 勅 に 使 者 を 送る と 石 勤 は 直 ち に そ の 使 者 を 斬り、 い で 王波征 討 の た め 幽 州へ 向う 途中、 石勃 の 主 簿 で 静 統 の 弟 按 輸 を 「世 軍謀」 を恐れこれを殺 し 、 さ ら に 王 没 が降 る と 潜 統 は 「以 不忠干没」 に よ り 他 の 漢 人 と共 に 殺 さ れる。 こ れ に 反 し 、 王波 輩 下 の 鮮卑 段 氏 に は 早 く か ら庇 護 を 加 え 、 さ ら に 主波 と 共 に 降 っ た烏桓に つ い て も 裏国 に 遷 す など の 例 があ る 。 J\ 耳目書巻 一 O 三 ・ 劉隠 載記 参照。 九 拓政 氏 の 国家形成 の 過程 に つ い

は 船 木勝 馬氏 「鮮卑 史序説 」 ( 白 山 史学 第 一 O 号 ) 、 同「後漢 後期 の 鮮 卑 に つ い て | 檀石塊 時代 を 中 心 と し て l 」 (東洋 大学紀要第 一 九 集 )、 同 「北説建 園期 に お け る 州 郡牒 の 設 置 に つ い て 」 (東洋 大学文学 部紀要 第 二 四 集 )、 同 「拓 政 部 の 華 北 支配へ の 遭 」 (

ジ ア ・ ア フ リ カ 文 化 研究所研究 年報 一 九 七

O

) な ど の 一 連 の 論 考 の 他 、 田 村実 造氏「代園時代 の タ グ パ ツ 政 権 」 ( 東方 学第 十輯 )、 河 池重 造氏 「北親王朝 の 成 立 と そ の 性格に つい て 」 (東洋史研究 一 二 |五 ) など を 参 照 。 二O 説書巻

O 三 ・ 旬 奴 宇 文 莫塊 伝 に 「恵帝 三 ( 三 二 四) 年乞得 翁屯保 涜 水 」 と あ り 、 資治通鑑 巻九 五 ・ 東 晋 大 寧 三 ( 三 二 五 ) 年 の 条

は 同 事 件 を 記し て 「 (幕容) 魔遣 其子就 (略) (字 文) 乞得蹄拠 涜水」 と あ る 。 溌水をシラ ・ ム レ ン と す る に つ い て は 白鳥庫士口氏 「東 胡 民 族 考 」 (一 一) (史 学雑 誌一 一 一 | 七 ・ 後 に 白 鳥庫士口 全集第四巻 に 所収 ) の『作奨水(鶴 繁 水

)

』 の 項参 照 。 五 胡十 六 国 時 代 の 研 究 と

て は 、 概説 と し て 岡崎 丈 夫 氏 「魂 晋 南北 朝通史」(弘文堂昭和七年・後再刊) を始 め と し て、 内 田吟風氏「旬奴

ず〉

氏研究」WH 五胡 乱及び北魂時代 の 旬 奴 (創 元社昭 和 二 八 年) 、 東 木 政一 氏『旬奴国家「漠t一の国家の性格』(淑徳短期大学学報一O号) 他、 谷 川 道 雄氏 「古 代 世界帝 園 の 崩壊 と 五 胡諸 園家 の 興 立」 ( 惰唐帝国形 成 史 論 ・筑摩 書房 昭和四 六年十月 刊所収) 、 田村 実 造氏 「ボ ヨウ 王園 の 成 立 と 性 格 」 (東洋史研究 一 一 ー 一 一) 等 々 多く の 論 考があ り、 中国 側 の 論 文 もあ る が 今 は 省略す る 。 な お 近 刊 の 川勝義 雄氏 「競正日 南 北 朝 史 」 (中国 の 歴 史第 三 巻 ・ 講談社 昭和四 九年 八 月 ) は 江 南の蛮 諸族 の 活 動 に も 注 目 し て い る が 、 蛮 に つ い て 谷 旦 房男氏 「 三 園時代 の 蟹 に つ い て 孫呉 の 武 陵蜜針 策 を 中 心 と し て | 」 ( 白山史学 第 一 五 ・ 二 ハ 号 ) 他 の 専 論 が あ

。 漢書巻九 九 ・ 王奔伝始建国 四 ご 二) 年 の 条参照。 一 一 一 一 一ニ 園志巻 八 ・ 公孫度伝 に は 「東伐高句 麗西撃烏丸 威行 海外 」とあ り、 一ニ 国志組問志 巻 八 ・ 公孫淵伝 に 「淵途自立信用燕王 。 置百官有司 。 遣使 者持節 俵鮮卑単 子璽封 拝 遺民誘呼鮮卑、 侵擾北方」 な ど の例があ る 。 二四 国志説志巻二 八 ・ 母丘倹 伝。 二 五 晋幸一百巻二四 ・ 地 理 志 平 州 に 「親置東 夷校尉 居褒 平」 と あ る 。 一 一六 晋書 同右平州 遼東国裏 平注 に 「東夷 校尉所居」 と あ る 。 二 七 池内 宏 氏 「 音 代 の 遼 東」 (満鮮 史 研 究 上 世編 所収 ) 参 照 、 そ の他 箭 内豆氏 「 コ 一園 時代 の 満 州」 同 「 菅代 の 満 州」 (いずれも満州歴史 地 理 第 一 巻 ・ 大正 二 年 九 月 所 収 ) を 併 せ 参 照。 二 八 鴻 家 昇 氏 「 慕容 氏建 園始 末 」

(

局貢半 月 刊 三 | 一 一 ) の 他 に注二一 田村氏論 文 お よ び 谷 川 氏論文「 慕容園家 に お け る君擢と部 族 制 」 (第 一 編第 2 章 ) など 参照。 二九 拙稿 「慕 容 部 の 漢人政策につい ての 一考察|前燕閣成 立 以前を中心

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一 一 一

一 四 0 四 四 補 1 としてi」 (白 山史学 第 九 号 昭 和 三八年) 参照。 。 大 沢陽 典氏 「字 文 族 姓

」 (立 命 館 文 学 第 二六 五号 ) 参照。 晋書 巻 一 O 八 ・ 慕容魔載記 に 「於是東夷校尉封 抽等疏上 侃府」 と あ り、 封 抽 は 魔 の 股 肱 と な っ た も の で あ る 。 注 七 池内論文 (四 一 一 一 一良 ) 所引翰苑注陸翻鄭中記参照。 四 注 七 池内論文 (四 三 二 頁 ) 参 照 。 一五 北 斉 書巻四 ・ 文 宣帝 紀。

ヱハ

注 七 ・ 池内論文 (四 三 三 頁 ) 参照。 七 開内・ 〉-g , 言『。『ぬ己 一 呂 田件。弓 。同 nED巾印。 ωon向。q-FE0・ 5ぉ・ 参 照、 /\ 前注一 二 川 勝 氏著書 四 二 頁 他 な ど 。 九 拙稿 「 礼楽 よ り み た る 古 代 日 本 と 中 園 と の 交 渉 | 開皇 七 部 伎 の 定置 と倭園伎 と を め ぐ っ て ! 」 (ア ジ ア ・ ア フ リ カ 文化 研 究 所 研 究 年 報 一 九 六六年) 。 坂 本 義種氏 「 五 世 紀 の 日 本 と 朝 鮮| 中園南朝と河南王 ・ 河 西 王 、 宕 昌 玉 、 武都王l 」 (京都府 立 大 学 学術報告 ・ 人 文第 一 一 一 号 、 昭 和 田 四 年 十 一 月 )、 同 「倭 の 五 王 ー そ の 遺 使と 授爵 を め ぐ っ て

|

」 ( 朝 鮮 史 研究 第 七集) 他 な ど 。 前注四O 「 五 世 紀 の 日 本 と 朝 鮮」 参照。 前注 一一一 九参照。 池内宏氏 「勿士口考」 (「瀬鮮史 研究 」上世編 に 収 載) に よ れば、 勿吉 族 の 起源 は 「故 の 夫 徐族 の 一 部 で あ っ て 、 そ れ が 夫 絵 の 領 域 の 港 境 か ら 粛慎 の 結矢に関する 一試 論 頭 を 拾 げ た の で は あ る ま い か 」 と さ れる、が 、 こ の 勿士口が 粛慎 H 拒 婁 と い か な る 関 係 に あ る か は 明瞭 で は な い 。 た だ こ の 勿 士 口も 桔 矢

石 吾 を 有 し 、 池内 宏 氏 は 初 め て 北 貌 に 通 貢し た 延興 五 (四 七 五 ) 年 か ら 、 最後 の 北 斉 武 平 三 (五 七 二

)

年 に い た る ま で 北 朝 へ の朝貢は 二 五 回 を 数 え、 そ のう ち桔矢 或 い は 桔 矢 ・ 石 砦 を 献 じ た例が 六回 あ る と 指 摘 さ れ 、 「 吉 林 の 東 方、 張康歳 嶺 の 山脈 を 隔 て た 瑚 爾 曙河 の 流 域 は 古 来担婁 の 住 地 で あ る 。 ( 略 ) さ う し て 惰 唐 時代 の 粟末聴鴇 の 住 地 に 比 定 せ ら れ る 士 口林 附 近 は 、 北 麓 の 延輿 五 年 ( 西 紀 四 七 五 ) を 朔 る こ と 遠 か ら ざ る 頃 、 勿 吉 の 掘 起 し た 地 で あ る が 、 前 表 に 示 す如く ( 略 ) 勿 士口、が ( 略

)

桔 矢 ・ 石 署 を 貰 し 、 其 の 後 も屡 々 同 じ 貢 物を献じ て ゐ る の は 、 (略) こ れ は 太 和 十 八 (西 紀 四 九 四 ) 年北方阿勃楚培地 方 の 夫 徐 の 王 家 を 駆 逐 す る 数 年 前 、 既に 東 方 の 濡慣 ( 描 婁) を 服属 せ し め た こ と を 物語 る も の で あ ら う 」 (満 鮮 史 研 究 上 世 編 五 一 五 頁 ) と さ れ る

と こ ろ で 、 こ の 勿 吉 は 東 魂 の 武 定 五 (五 四 七 ) 年 ま で 朝 貢あ っ た も の が 北 斉 に な っ て 全 く と だ え 、 た だ 武 平 一

一 ( 五 七 二

)

年 に 至 っ て 一 回 を 記 し そ れ 以 後 の 記 録 を 絶 っ て い る 。 一 方 こ の 勿 吉 と 同 民 族 異 部 落 (津 田 左右 士口氏 「勿士口考」 満 鮮 史研究地 理 歴 史 研 究報告第 一 冊 後 に 全 集 第 四 巻 所 収) の 韓間判 が 北 斉 河 清 二 ( 五六三 ) 年 か ら 朝貢を開始 し 、 以後勿 士日 は 鞍 輯 と し て 知 ら れ る 。 こ の 間 際 を 縫 う よ う に し て 北 斉 へ の 粛 慎 朝貢が 記録 さ れ た 訳 で あ り、 池内 宏 氏 は 津 田 左 右 吉氏 説 を と り 入 れ 「粛 慢 の 来 献 は 、 それ に 依 っ て 此 の 部 族が 北魂時代以 来 の 勿 吉 の 寵 幹を 脱 し た 為 め で あ ら う と 思 は れ る か ら で あ る 」 (満 鮮 史 研 究 上 世 編 五 一 八 頁) と さ れ た が 、 鳥 山 喜 一 氏 は 勿 吉 の 武 平 三 年 朝貢記 事を含 め 、 「津 田 博 土 は こ れ を古き勿土口部落が 旧慣を保持 せ ん が た め の

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粛慎 の 楕矢に 関する 一試 論 朝貢と 説 明 さ れ た が 、 余 は む し ろ こ れ を 史 官 の 尚古主義 の さ か し ら と 考 える の が 妥 当 で は な い か と 推測する。 こ れ は 同 じ く 北 斉 の 天 保 五 年 (西 紀 五 五 四年 ) に 粛 慎 が 記 録 さ れ て い る の と 同 様 の 心 理 と 見 る の で あ る」 (鳥 山喜 一 氏 「溺海 史 上 の 諸 問 題」第 一 章八頁) と さ れ た 。 桔矢が 抱婁 の 地 に 限 定 さ れ る 特 産品 で あ れば と も 角、 桔 は 華 北 を 含 む 北 ア ジ ア に 広 二 四 〈植生 し (池 内宏氏 「粛慢考 」 ) 、 し か も 勿吉 に お い て も 本論二節 に 紹 介 し た 如く 一 尺 二 寸 程度 の 箭 と 石 銑 を使用 し て い た の で あ る か ら 、 津 田 H 池内説必 ず し も 必 要 な く、 東北 ア ジ ア に お け る 桔 矢 ・ 石 署 使用 の 範 囲 を 確認 で き れ ば よ い の で は な い だ ろ う か 。

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