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滋賀大学教育学部における新・学校臨床コース開設の目的と構想

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No.55, pp. 143 - 157, 2005 1. はじめに ―「暗い時代」を越えて 歴史の中には、公共性の空間が暗くなり、 世界の永続性が疑わしくなって、その結果、 人々が自らの暮らしにしか関心をむけなく なる時代がある。( アーレント , H. 2002 p.22) 「暗い時代」について、1958 年のレッシン グ賞受賞講演でこう指摘したのは政治思想家の ハンナ・アーレントだった。いつの時代も「暗さ」 を抱えているのであろうが、特にどこに現れる かによって、その時代を特徴づける。現代は、 子どもたちの学び場や居場所である「学校」や 「家庭」に現れているといえよう。アーレント は、青年期を大戦間のドイツに生きざるをえな かったのだから、その厳しさにくらべると、こ の言葉は現代の日本を語るのに適切ではないか もしれない。しかし、「公共性」のひとつであり、 基盤である「学校」が暗い空間になっていると いうのは、さまざまな要因が絡んでいるとはい え、人々が自分の殻に閉じていくのを強め、そ れを次世代へと再生産し、経済のデフレと同じ ように悪循環に入るという点においては、きわ めて重大な危機をはらんでいるといっていい。 アーレントが願ったことは、哀れみや同情で はなく、他者にたいして開かれた「友情」と「対 話」を通して、「共通世界を継承・発展」させ ていくことだった。その意味で「活動と対話の 思想家」のこの願いは、現代の学校の状況にも 適切だといえよう。だが、現代はそう単純では ない。学び場である学校は、仲間意識や共同性 が消えかかり、「対話」というよりも激論か沈 黙かであり、自分勝手さが目立つ。さらに「教 育改革」の名のもとに、振り子のように揺れる 施策が次々と打ち出され、トップダウン式に現 場に広められる。そうした混迷の中で右往左往 させられる実態が学校に生まれている。 こうした状況は、さまざまな日常会話や言説 空間にも現れている。学校が抱える問題は、い じめ、不登校、少年非行、カウンセリング、保 健室のケアリング、ひきこもり、学級崩壊、保 護者対応などなど、課題は多く複雑で、現場の 教師たちは、多忙な中での対応に追われる。日 常生活ではマスコミが、あるトピックに焦点を あてては表面を映すだけの報道がなされ、すぐ に忘れられ、現実の問題はつづいていても、次 を探すように焦点が移っていく。保護者たちの 会話は、実利的で、自分優先の目先のことが主 である。偏った情報で思い込む傾向が強くなっ ている。 谷川俊太郎の二つの詩、「店先」と「言葉の槍」 が思いだされる。「店先」は、こうした現実を まさに揶揄している詩である。その詩の様相は、 今日の一面を描いている。「呑みこむだけじゃ あ無味乾燥だが 噛めば意味にも味がある 言 葉の皮に意味を詰めこみ ソーセージに仕立て

堀 江   伸

Aims and Design of a New Course on Clinical School Pedagogy in

Shiga University

Shin HORIE

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あげ 店先にぶら下げれば おなか空かせた犬 どもが寄ってくる」そうして、意味の臭いに気 を高ぶらせて、「犬どもたちまちいがみ合う」。 咬みつきあい奪い合っているうちに、ソーセー ジも腐ってしまい、「もう犬どもの糞と区別が つかない」という顛末である。協働しながら意 味を凝縮して言葉に込めると同時に、その意味 を活動の過程で解きほぐし自らのものにしてい ければ、言葉は観念の力を持ちうる。しかし、 往々にして、そうではない。それが象徴的に描 かれている。だが、谷川は、別の詩「言葉の槍」で、 別の在り様を描いている。「この青白く冷たい 戦場で ぼくが求めるのは言葉の弾丸ではなく  言葉の槍」であるといい、そのためには、「そ の槍がぼくの魂をつらぬくなら どんな白々し い沈黙にも耐えよう」と。「戦場」、「弾丸」は、 意味を自らのものとしえない不安と、沈黙に耐 えられないために、言葉だけがとびかう事態を 表現しているのだが、心の奥に突き刺さる「言 葉の槍」がありうるとしている。 「戦場」ではない別の世界、アーレントが希 望するような世界を描き創りだしたいものであ る。共同体的な関係を土台にした、協働の活動 と言論によって、言葉の意味を深め、現実を捉 えるだけでなく可能性を生み出していく、そう した関係を教育の場にもつくりだしたい。「対 話」と「共通世界の継承と発展」は、そう簡単 ではないが、歴史的な状況の中の緊要な課題が あるのだと、< 覚悟 > が求められている。「公 共性・公共圏の再生」がいかにして可能なのか。 この大きなテーマは、「学校」という場におい ても共通している。 今年度から滋賀大学教育学部に新しく開いた 「学校臨床コース」は、こうした状況と課題を 背景に、創設しようと考えたコースである。子 どもや学校の現実を捉えなおし、その可能性を 切り開いていく教師の実践力と見識を育てるこ とを目的としたコースである。本論文では、こ のコースを、なぜ、どのように構想したのか、 そしてこのコースの趣旨と目的、カリキュラム の構造などを整理しておきたいと考えた。従来、 専門教官が何人かいるからとか、その学問の系 統が近いからとか、学問の分類で学部の構成は 決まっていた。しかも、その構成や目的は、ほ とんどの場合、文章化されているわけではなく、 慣習としてつづいてきたといっていい。だが、 今回の新コースは、教育方法学と教育社会学を 担当する二人が立ち上げに立候補し、もう一人 の臨床心理学 ( まだ採用も未定だが ) の担当者 と三人で主担当とする予定で、教育学と教育 心理学の < 中間地帯 > に設けたコースである。 全国的に見ても学部レベルでは、新しいコース であるので ( 後で触れるように大学院レベルで は増えているのだが )、構想の原点を捉えなお すことに意義があると考える。なぜ、この三領 域なのか、大学院ではなくて、なぜ教育学部レ ベルなのか、など。新コースだから説明の文書 をつくらされるというのではなく、新しい試み なので、広く理解を求めたいと考えた。しかし、 それよりもまずは、このコースの出発にあたり、 どのように構想したかをまとめて、現段階の足 場を固めるとともに、数年後に見直すときの鏡 にしたいというのが、本論文のねらいである。 2. 「学校」という場 「学校」をどう捉えるかをまず考えておきた い。子どもが学びあう場であり、教師や社会に とっても大きな意味をもつ複合的な場であり、 さまざまなジレンマと問題が生成している場で ある。そして、誰しもがすでに学校のイメージ と経験を持っている、そういう場である。 学校という複合的な場 第一に、子どもたちが「学ぶ」場である。学 校は、力や個性を伸ばして、自信をつけて快活 になっていくことが期待されている場である。 だが、現実は、何のために学ぶのかの目的・ 意義が曖昧で、いつも細かくきられているとい う傾向があり、何かを待たされている場でもあ る。 近年は、「学び」のあり方が変化し、多様化 している。学校は、教師が教えて子どもが学ぶ ところというだけではない。教える内容が基礎 学力だけで尋常小学校四年を終えて丁稚奉公に 出ていた明治末期までとは、現代は大きく異 なっている。育てたい力としても、基礎学力が あり、思考・表現の力や討論の力、さらに生活

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の中への応用力、テーマ的追求の精神と学び方、 そして市民としての社会への関心などがあげら れる。最近では、心の教育、食育、命の教育、 睡眠への配慮など、身体や生命の基本が課題と あげられている。あれこれと、数えあげればき りがない。 それに反して、「遊び」や「手仕事」、「飼育 体験」、「芸術表現」が、忘れられようとしてい る。原始時代から子どもが楽しんできた活動で ある。これらは、十九世紀末からの新教育が開 拓してきたものだが、これらの身体を使った活 動が現代学校では軽視されてきている。 この十年だけでも、あまりに多くの教育課題 が提起されてきた中で、教師だけでなく、子ど もたちもオーバーワークになってきている。目 的やその意義が理解できないまま、いくつもの 評価の眼差しに囲われて、萎縮しているようだ。 「学び」とそれを支える「関係」は、いかに理 解することができるのか、どのような違いがど んな質的差をうむのか、現実をみつめて「学び」 本来が持つ意味を問い直しつづけることが求め られている。 第二に、学校は、観点を変えると教師たちに とっての仕事場である。生の事実・出来事が生 成していて、対応に追われながらも、実践しつ づける場であり、振り返ることによって自らを 高めていく場である。 しかし、教師たちの「経験知」が必ずしも交 換できない状況にある。校内研修などの形骸化 が指摘されて久しい。研究課題の指定校制が拡 がり、テーマに対する熱意と協働性がよわまっ ている。師として仰ぎ入門することで若い教師 たちが自らを鍛えた職人的な関係が消え、理解 を豊かにしていくことができにくくなってい る。 どのようにすれば、講話や指導を聞く形では なく、「経験知」を発掘・共有していくことが 可能であろうか。理解されている共通の価値に 立ち戻り、解決が求められる問題を焦点づけ、 対話の技法と作法をいかしつつ、悩みや苦しみ に共感しながら経験と別の方策を議論していく ことによって可能となるだろう。こうした教師 たちの関係を「同僚性」というのだが、この関 係の形成は団塊の世代が数年で退職していく今 日において、特に緊要な課題といっていい。 第三に学校は、さまざまなジレンマや問題が 生じ、その解決が求められている場である。教 育問題もさまざまにある。そして、日常の実践 においてもジレンマが多い。 いじめ、不登校、少年非行、ひきこもり、学 級崩壊、対教師暴力など、学校は、苛立ちや妬 み、怒りなどの負の感情がうごめく場にもなる。 それは、子どもの家庭をはじめとした環境・関 係がもたらすこともあり、学級の雰囲気・関係 が刺激することもある。個別の子どもの問題と、 その背景がもつ意味連関に繊細で敏感になって 理解することによって、あるいは意味のある学 びを実感することや学級の人間関係を構成する ことによっても軽減することができるはずであ る。なぜなら、負の感情は、それを親しい人が 理解してくれているだけでやわらぎ、学びあう 喜びや自尊心という正の感情によって、癒され るからである。 そのためには、居場所、信頼と愛着、他者理 解、相互承認、喜びや自尊心など、意味の凝縮 した概念を再定義していくことが求められてい る。現実をみつめながら、古典を読み直し、学 問領域を越境し見渡し、問い直すことで、概念 と方策を自分のものにしていくことが不可欠で ある。 第四に、学校は、実践を支える組織、体制や 文化がつくられる場である。それは、「学校づ くり」と言い換えてもいい。 校務分掌などの役割分担や各種委員会をどう するかということではない。委員会などの日常 のルーティンとしては、合理的にものごとがす すめはいいのであり、多くの時間をさく必要は ない。むしろ、一役一人ですすめ、相談に乗っ てもらったり必要に応じてプロジェクトを組ん だりすればいいのである。そうしたルーティン ではなく、課題を解決する目標に応じた組織が どのように立てられるか、ということである。 たとえば、「総合的な学習の時間」が取り組ま れるとしよう。その単元を学年ごとに作成して 集約するというケースと、「カリキュラム開発 部」として、総合学習だけでなく、基礎学力や 文化的行事、生活技術、健康などを研究的に収 集・開発する専門部隊 ( タスク・フォース ) を

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立ち上げるケースでは、大きく異なって来るで あろう。( 大瀬 2000 p.52 浜之郷小学校の事 例 ) そうした組織づくり、つまり研修の場の構 成と計画、部会などの持ち方など、重要な意味 をもつ組織があるはずで、それら組織の組み合 わせを「体制」とよぶ。そして、それらがどの ような理念・関係・雰囲気・習慣などですすめ られているか、ということを「文化」とよんで きた。教師や子どもがつくる組織、体制や文化 が、逆に子どもや教師の成長を支えるのである。 学校のイメージ 学校のイメージと経験は、どうであろか。だ れもが思い浮かぶ景色としては、教室に並んだ 机と、黒板であり、教壇で子どもに教える教師 の姿だろう。学校の制度は、明治五年の学制発 布から 130 年余りの年月がすぎている。一世 代が三十年としても、四世代は学校に通い続け てきたわけである。黒板があり、チョークで先 生が書きながら、何かを話しているというイ メージは根強い。世代を超えて話し合えるのは、 壁がなくなった学校が増えているとか教科書が 変わったとかといっても、二十坪の教室風景の 変化が少ないからでもある。 だが、学校での経験とその感じ方は、一人一 人さまざまである。いろいろな課題に取り組め て達成感がある子ども、仲間とのふざけあいや 語り合いが愉しい子ども、他者の目を意識せざ るをえないために自分に閉じがちな子ども、矢 継ぎ早の指示・命令が集中をさえぎることに苛 立つ子ども、大切とも思えないことをやらされ ていると感じて自分を失わせられると思う子ど も、家庭での出来事が頭をよぎり不安で何事も 上の空になってしまっている子ども、さまざま な子どもたちがいる。そういう経験がベースと なって、人々は、あるイメージを学校に抱いて いるのである。 それに対して、教師になろうとする学生たち の学校についてのイメージと経験は、ポジティ ブあることが多い。教師や課題、仲間に「合わ せていること」を自ずとしているため、それに いろいろな感じ方があるということを想像した ことがないという学生が多い。 学生たち自身のイメージ ( それでもいろいろ と異なっているが )、年配の方たちのイメージ、 さまざまな困難を抱えてしまった子どもたちの イメージなどを振り返ることが不可欠である。 そのことによって、学校という場が多義的で多 面的な存在だと理解していけるであろう。 しかし、学校が複合的で多義的多面的な存在 だという理解にとどまるのであれば、あるいは 意味のある「場」に変革していくことを志向す ることがなければ、現実はそのままである。仲 間とともに、自分らしさを解放しながら、憧れ るような学校づくり実践の事例を理解し、心に 刻むようにしたい。 3. 「学校臨床コース」開設のいきさつ 滋賀大学教育学部学校教員養課程のコース再 編に関する議論がはじまったのは、2003 年度 からであった。2005 年度からはじまる教育学 部の教育体制をどうするかが問題だった。そ の背景には、三つの事情があった。ひとつは、 1998 年度からの教育改革、すなわち学習指導 要領の改革、地方分権化などにどう対応するか である。二つ目には、教育現場のさまざまな問 題の噴出に教師養成段階の教育はいかにあるべ きかである。三つ目には、2007 年度以降の教 員需要増加と教師の急激な世代交代の時期を迎 えて、何が求められるかであった。第一点目に 対しては、カリキュラム開発系の三コースを考 え、第三点目に対しては、学生定員の改変、専 門職大学院の構想などがあがったが、具体化は もう少し時間をかけてということになった。第 二点目の教育現場の問題解決をどのように支え られるか、が本コースと関わっていたわけであ る。 まずは、コースの方向性が問われた。「マネ ジメント」か「実践」か、という対立軸が生ま れた。しかし、「学校マネジメント」では少し 狭くて、「実践」では「問題の解決を志向する」 ことが表現できないという問題にいきあたっ た。「実践」を英語で「プラックティス」とし ても、「練習」を連想させてしまう。しかし、もっ とも問題だったのは、「実践」では、学問研究 の領域や方法が反映してこないのである。それ に対して「臨床」は、そのすべてをクリアして いるが、臨床心理士、スクールカウンセラーな

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どの専門家が本学部にいないという事態がネッ クとなった。それが始まりのいきさつである。 「臨床」は、学問研究の新しい名称を参照し ただけでも、臨床心理学、臨床教育学、学校臨 床学、発達臨床心理学、臨床社会心理学などが あがるが、さまざまな臨床的研究が生まれてい る。それらは、全国の教育系の大学院改革の中 で、専攻のネーミングとしても利用されている。 つまりは、大学院レベルの教育研究としては、 可能なスタイルだということなのである。確か に、「現場問題」の探究と解決、現場の知恵の 発掘と概念化、事例の収集と共有化などは、確 かに大学院の教育研究に相応しい。それでは、 学部教育としては不可能なのか、意味がないの か。これは、大きな問題である。ここでは大学 院改革の流れや研究界のパラダイムの転換をひ ろく見渡すことで、考えてみたい。この問いは、 新コースが始まってからも、問い続けなければ いけないと考えている。学部四年間の教育研究 は、どこまで可能なのか。どのようにすれば、 意味を豊かにできるのか。 4. 大学院改革と研究方法の転換 「臨床」の先鞭をつけたのは、京都大学大学 院である。1988 年度から「教育学と臨床心理 学の研究教育及び実践的研究の緊密な連携を図 る新しい分野として、わが国で最初の臨床教育 学専攻が独立専攻として設置」されたのである。 皇紀夫と河合隼雄という、教育哲学とユング心 理学の研究者らが中心となっての開設である。 皇紀夫は、教育の日常世界にあふれている物語 を異化し転換することによって、情緒論や共感 関係に回収するのでなく、新しい教育の意味を 発見しようとする。( 皇 1994 ,2000 p.87) 河 合は、学校や子どもたちの問題に、ユング心理 学をもちいて意味を読み解き、臨床心理学の概 念と手法によって現場の問題に対する対処を考 えようとする。( 河合 1995) 全国に先駆け ての試みだったが、その後十年がたって 1998 年度から教育科学専攻と臨床心理学専攻の二専 攻にわかれることになった。確かに、専攻とし ては、研究の方法、就職先である専門家のネッ トワークなど大きく異なっているのだから、ひ とつの専攻というのは無理があったといえよ う。 それに対して、東京大学では、やはり臨床心 理学は大学院の専攻であるが、センターとの連 携に特徴がある。1995 年度から現在の体制に なったのだが、学部段階には、比較教育社会学、 教育心理学、学校教育学など六学科があり、大 学院の各々の専攻にも接続し、大学院だけの専 攻として「臨床心理学専攻」があるという七専 攻の構造をしている。そして、特徴的なのが、 1997 年度に開設された「学校臨床総合教育セ ンター」である。これら比較教育社会学、教育 心理学、学校教育学と臨床心理学の四つの専攻 が連携しながら、「教育と学校とをめぐるリア ルな問題」に「プロジェクト方式」という研究 方法から、「政策提言・カリキュラム提起等実 践的な解決策を必ず提起するという縛りをかけ て」( 同センター年報「ネットワーク」創刊号 1999 年 ) 対処し、学校支援を実際に行う教育 研究を指向することを出発の構想としている。 「リアルな問題に」、「プロジェクト方式で」研 究し、「解決策を提起する」という。大学教師・ 大学院生を中心とした研究員による、生産的な 実践研究である。英語では、

the Center for Clinical Research on School Development = 直訳すれば、「学校改革の臨床的研究のセ ンター」となる。「臨床的研究」の名に相応しい。 その後、国立の教育系大学院や私立大学院で 臨床心理学専攻があいついで開設されてきた。 臨床心理士の養成を目的とする臨床心理学専攻 は、2005 年 7 月現在、104 の大学院・専攻 ( 一 種認定校 ) で開設されるようになっている。 教員養成教育学部の大学院でも、香川大学、 岐阜大学、信州大学、島根大学などの教育学研 究科二十校近くに、臨床心理士養成を目指すこ とのできる学校臨床心理学専攻が設置されてい る。 しかし、大学院に学校臨床心理学専攻がある といっても、教員養成系の学部レベルでは、教 育学と教育心理学がほとんど従来どおりであ り、名前は違っていても二つのコースで構成さ れている。滋賀大学教育学部も、昨年度まで、 教育学の「教育文化コース」と教育心理学の「学 校心理コース」の二つのコースであったのだが、

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今年度からそれに「学校臨床コース」を新設し、 三コースの体制にしたのである。ただ、上越教 育大学が、特色をだしている。学部段階に「学 習臨床コース」と「発達臨床コース」を設けて、 そのまま大学院の専攻に接続している。事例に 即しながら、従来の研究領域の枠を超えて探究 し、現実に有効な理解を形成しようというねら いである。そして、やはり「臨床心理学」専攻 は大学院のみにある。 このように見てくると、「臨床」というスタ イルは、ほとんどの場合で大学院レベルで追求 されている。しかも、「臨床心理士の養成」を 目的としている。そのような中で、教員養成学 部に「学校臨床コース」をおこうとするのは、 なぜか。積極的な意味は何か。 5. 「臨床」はどういう意味か 病理-治療モデルから場-問題解決モデルへ そ も そ も「 臨 床 」 と は、 ど の よ う に 理 解 さ れ て き た の だ ろ う か。 臨 床 医 学 ( clinical medicine ) や臨床心理学 (clinical psychology ) などが、元来の意味であり、個人の身体的、精 神的な病をベッド・サイドで治療にあたるとい うことをさしている。つまり、「床」は、ベッ ドの訳で、「臨」は、患者と対面して心を砕き 治療にあたることを訳したのだといえよう。病 理-治療モデルといわれるのは、こうしたこと が起点としてあるからである。 確かに、病理-治療モデルは、心理学や教育 学、学校の問題に目を向けたときも、「子ども 個人の問題と背景を配慮・推論し、原因を理解 し、処方箋・方策をたてる」というのはわかり やすい。しかしながら、学校の問題は、「個人」 のように現れていて、「学級」や「教師 = 生徒 関係」、あるいは教師の職場の問題であったり するわけで、複合的なのである。そのような複 合的問題にアプローチする方法として、フィー ルドワークやエスノグラフィーなどによって、 「場 = フィールド」の意味を解明し、示唆・支 援・方策の提起をする研究が生まれてきた。( 志 水 1999 ) あるいは、「見る」「よく見る」「考 える」、「意味を問い直してつながりを見つける」 というマイクロ・エスノグラフィーを提唱する 箕浦 (1999) らがいる。また、保健室での子ど もたちとの会話過程に見られる特質を明らかに するエスノメソドロジーの研究も、臨床的な知 見と実践的な方策をつくろうとする試みと言え る。(秋葉 2004) これらは、どちらかというと、 個人ではなく、場に焦点をあてている。 いってみれば、「臨床」が、病理-治療モデ ルから、場-問題解決モデルとよべる意味に拡 張してきたといえよう。「床」が、もはやベッ ドではなく、フィールドなのであり、個人の背 景も複合的であるが、フィールドも複合的なの である。東大の「学校臨床総合教育センター」 のプロジェクト方式は、まさにこのタイプとい えよう。 ただ、問題は、多くのフィールドが多様であ ると、それらを明らかにすれば、事足りるので あろうか。混迷している現実を見ないで理念だ けを論じていても、確かに希望にはならない。 しかし逆に、さまざまな現実を見るだけでも、 希望とはならない。やはり、「問題解決」の方 策とその意義が浮かんでこなければ、現実とい う煙の中に視界を失うようなものであろう。そ のためには、広くて深い学問的見識が問われる。 だから、大学院レベルで、ということになる。 しかし、その道筋だけであろうか。 「事例-批評・創造モデル」へ 他方で、「場 = フィールド」を「事例」とし て考え直してみよう。事例には、いろいろな特 質が見えることであろう。現実の前で混沌とし ている事例、ある一面を切り開いている事例、 組織・体制・文化を創り変えている事例などで ある。事例を比較検討することによって、ある いは意味のある事例の特質を捉えなおしていく ことで、その事実に潜むもっとも凝縮された核 となる意味を開いていくことができるのではな いか。開いた意味を再概念化する。これを「事 例-批評・創造モデル」とよびたい。これは、 どうであろうか。学部学生でも可能なのではな いだろうか。授業を中心とした実践研究として、 事例研究 = カンファレンスを提起したのは、稲 垣忠彦である。( 稲垣 1986) そして、その実践 家の歩んできた道をたどることによって、また 「ライフヒストリー研究」となることも示した。

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( 稲垣 1988)  事例研究、ライフヒストリー研 究は、研究方法として継承・発展させたい。さ らに、その過程で、焦点化したい研究テーマを 発見することもあるだろうから、演習としても 有効であろう。 「学校臨床」をどう考えるか このコースにもっとも近い考え方を提唱して いるのが、志水と近藤の「学校臨床学」である。 フィールドワークやエスノグラフィーを主な研 究方法として教育社会学を「学校臨床教育社会 学」に切り開いてきた志水は、次のように言う。 学校を舞台として生じる様々な問題状況 に対して、臨床心理学・学校社会学・教育 学などの方法や視角を総動員して、事態の 解決や改善に向けての対応策やアイデアを 導き出そうとする学際的・実践的な学問が 学校臨床学である。ここで、「臨床」とは、 「現場にできるだけ近いところで、当事者 との人間的かかわりのなかから、新しい知 を立ち上げていこう」とする研究スタンス を意味すると考えていただきたい。( 志水 2005 p.46) 教育相談を自分のフィールドとしながら、エ リクソンの理論に主な足場をおきつつ、学校の 現実により近い「臨床心理学」を追求し、「学 校臨床学」を早くから提唱してきた近藤邦夫は、 次のように述べる。 「一人ひとりの子どもや教師を丁寧に見つ める臨床心理学、より広い社会的文脈の中 で見つめる教育社会学、それら全体を「教 育」という営みと関係させて考える教育学 という三つの分野から形成されるトライア ングルの、ちょうど中心点に位置する新し い学際的分野」 ( 近藤 1996 p.16 ) 二人とも、三つの学問を例示している。臨床 心理学、教育社会学、教育学という「三つの視座」 があることに、どんな意味があるのだろか。近 藤が、それぞれの学問の性格をやさしく表現し ているように、「丁寧に見つめる」、「広い社会 的文脈」、「教育という営みと関係させて」の三 種類の見方で現実と可能性を捉えることができ るからであろう。いいかえれば、「繊細性」と「複 合性」と「実践性」とが求められているといえ よう。 そして、ちなみに「臨」という漢字の字源は、 甲骨文研究の第一人者の白川静によれば「三つ の祈りの器の力を借りながら、しっかりと見つ めようとする姿」だという。原始・古代におい ては、三つというのは「多い」ということでは あるが、三つの力をはじめとして「多くの力」 を借りて臨むわけである。 学部の「学校臨床コース」としては、「学校 臨床学」の成果を学びながら、学部学生が探究 できるテーマと方法で臨床的研究をすすめ、卒 論に向かっていくというのが今のところ考えて いる四年間の像である。それは、あたかも「教 育学」を学びながら、その研究の一端を卒論で 追究してきた、今までと変わっていない。ただ、 方法がアクティブで、事例的になるということ である。 ところで「学校」の「臨床」であることが要 請する基本的特質は、何であろうか。 まず第一に個人と場の特定性である。ベッド・ サイドであれば、当然であるが、「場」「事例」 としても、それが持つ特定の関係であり状況な のである。 そして、第二に複合性があげられる。事例は、 たえず複合的な文脈をもっている。複眼的視座 が必要とされる。状況の中の意味連関と目的を 読みつつ、意味連関の結節点に働きかけていく ために、複眼的視座が不可欠だろう。 第三に、そのためにも協働性が求められる。 ともに理解し、ともに考え、ともに対応するこ とが必然である。 第四に、問題解決と価値志向性である。問題 の解決、あるいは課題化を自覚したい。そのた めには、第一義的な価値は何かが問われないと、 ほとんどの場合、混乱してしまう。つまり、価 値志向性である。前提となる価値、優先したい 価値は何か、を捉えなおすこと、それを討議で きることなどが求められる。 第五に、自己回帰性である。自分を問わない 省察や価値は、力を持たない。今までの研究は、

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自分を外において、それで客観性を保持してき たが、その場を共有しているものたちによる自 己回帰による価値の問い直しが求められている と考える。自分の経験を通して理解していくこ とが自然なのではないだろうか。   6. 学校臨床コースの構想 コースの目的と教育目標 本コースは、子どもや学校・社会の現実を見 据えるとともに、学校の現実を切り開いていく 可能性をさぐり、教育実践の方向と方策を創り だしいくことによって教師としての実践力と見 識を育むことを目的としたいと考えている。「見 据え」「切り開いていく」ために、教育方法学・ 臨床心理学・教育社会学の理論と方法を総動員 して探究と創造にあたりたい。( 資料 1 参照。 学生用パンフに載せた文書である。) 第一に追求したいのは、「実践の現実とその 可能性」である。子どもの学びと育ちを真ん中 にすえた柔軟で創造的な授業づくり・学級づく り・学校づくりの実践によってこそ、状況の中 のさまざまな問題に対応することを越えて、子 どもの生活世界と育ちに希望を見出せると信じ ているからである。だから、まず「実践の現実 とその可能性」について、さまざまな領域の理 解を深め問い直すとともに、「実践の事例」を とおして探究していくことを中核にすえたい。 第二に追求したいのは、「変動の中の方向性」 である。現実は、激しい社会変動の中で、子ど もの生活世界と育ち、その場である学校が大き く変化している。だからこそ、その変化する事 態に目を奪われるのではなく、歴史的な大きな 状況から子どもと学校の現実を捉えなおすこと が不可欠である。過去と未来の間にある現在と 自分をどういう方向に育てていくかという課題 である。さらに、「方向性」をえるためには、 歴史の文脈だけでなく、広く取り巻く社会的文 脈から現実がどのような意味連関をもっている のか、いかに変わりうるかを検討していくのが 求められよう。 第三に追求したいのは、「いくつかの展開の 核」である。ある方向に現実が切り開かれ展開 していくとして、果たしてそれはどのような核 によってであろうか。その「いくつかの展開の 核」をつかみたい。「トピカ」とは、場所 ( トポス ) を発見する力として古代ギリシャから近世まで 考えられてきたという。有意味な何かを創りだ していける「核」を発見し意味づけることを求 めていきたい。そして、それらの「いくつかの 核」をどのように布置しようとするのか、その 意味は何か、四年間を越えて問い続ける課題で ある。 以上の目的を目指して、本コースの教育目標 は、次の三つを考えている。 ① 安心と信頼をベースにした快活な学び と育ちを創り出す教師をめざす。 ② 子どもの問題やジレンマを乗り越えて 現実を切り開く可能性と方向性につい ての見識と、その実践を支える「身体 と言葉」を追求する。 ③ 子どもや教師、そして親・地域社会 が、学び育ちあう新たな学校像を探究 する。 コースのスタッフについて 学校臨床コースは、三領域の専門教師と、 十五人の協力教師によって支えられる形になっ ている。「三領域の専任教師」は、図1のよう なイメージで、それぞれの立場から学校臨床 コースの教育と研究に向かうことになる。協力 教師は、それぞれ教育学や教育心理学、あるい は、教育実践研究を専門されている。図1でい えば、三つの領域が中心にありながら、さらに その外側に、描かれてはいないが、教育学・教 育心理学の円が重なって、広い視野から考究し ていくのを支える役割を期待している。たとえ ば、ある学生は、教育方法学を中心に学びなが ら、臨床心理学・臨床教育社会学をも活用しな がら、選択したトピックを探究し理解を深める 経験をしていくということになる。そのように、 三つの専門領域をすべてというのではなく、中 心となる領域と方法をもちながら、卒業論文研 究に向かっていけるようにしたい。 カリキュラムの構造と育てたい力 本コース設立の趣旨を活かすために、カリ キュラムを構成する五つの原則をたて、授業科 目を四つの領域 ( スコープ ) にわける構造をデ

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ザインした。カリキュラムのバックボーンであ り、四年間の学びの全体をつらぬいてほしい願 いである。  五つの原則 ア.授業づくり、学級づくりや学校づくり をすすめる実践力と見識を追求する。 イ.話す聞く力、読み書く力、協働する力、 デザインする力などの基礎力を育む。 ウ.四つの領域、「子どもの現実と理解・ 支援」、「教室・学びの現実と可能性」、 「教師の現実と成長」、「学校の現実と 学校づくり実践」を設定し、現実を直 視しつつ、それを越える方策を相互連 関的に考究できるようにする。 エ.事例を検討するとともに、学校現場を 探究のフィールドとし、現場の先生方 と協力関係を築く。 オ.多面的重層的な意味連関を考察し表現 していくツールと環境を整え、それを 活用する。 学校臨床コースのカリキュラムの流れ(シー クエンス)は、「基幹講義」を中心に、さまざ まな現場にでかけて事実や人に出会う「実習」 と、研究を展開する「演習・研究」から構成さ れている。講義と実習と演習の相互関連によっ て、大学四年間の学びが、スパイラルに織りな 図 1 学校臨床コースの構造とスタッフ

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していくように考えた。一回生から四回生まで の学習経験が、図 2 のようになっていくこと を期待している。 また、学校臨床コースでは、子どもと学校の 現実と可能性を追究すべく、図 3 のように四 つの領域(スコープ)をたて、実践力と見識を 育成するためにカリキュラムの構造化をはかっ た。 育てたい基礎力 本コースでは、話す聞く力、読み書く力、協 働する力、デザインする力の四つの力を「育て たい基礎力」とした。それらが、教育実践と研 究の基礎となると考えたのである。四年間にわ たって自己教育していくよう求めるとともに勇 気づけたいと思っている。一つ目の「話す聞く 力」についてだけ触れておこう。 実践においても、フィールドワークやインタ ビューにおいても、他者と対面し関わるために は、しなやかで響きあう「身体と言葉」が大切 である。この領域で道を開いてきたのは、竹内 敏晴 (1980, 1999) である。彼は、身体、言葉 ではなく、「からだとことば」とよぶように肉 体に根ざしていることを表すために、表記をひ らがなにしている。声が出せない時期を乗り越 えてきた体験にもとづきながら、他者に働きか け、からだとこころに「触れる」ことがいかに 難しいか、どうすればいいのかを身体現象学を 援用しつつ論じ、「朗読・演劇ワークショップ」 を提唱し実践してきた。たとえば、「話しかけ」 である。ほとんどの場合、ワークショップでは、 さんざんに問題が指摘される。声が届かない、 あらぬ方向に散っている、胸の辺りにこもって いる、「警察官の尋問みたいだ」など、声にア クションが伴わない点や非常に硬くてぶつかる ような感じになっている点を批判する。挨拶、 愛想、踏み込んだ声かけ、口調・トーンなど、 それを感じられるかどうかの世界である。それ に、気づくこと、振り返ることが、まずは大事 であろう。 このような身体をめぐる竹内のワークショッ プの提案を継承・発展させていきたいと考え ている。たとえば、「語り合いのワークショッ プ」である。あるトピックの複合的な文脈の中 に入り込み、理解をすり合わせて新しい発見を していく、そのような技法と作法である。それ は、授業場面、インタビューの場面、検討会の 場面などいろいろな活動と言論の場に有益であ ろう。 7. 研究方法と卒業論文 学生は、カウンセリングやコンサルテーショ ンはできない。そういう専門家ではない。教師 とのパートナーとなり参加観察はできても、コ ラボレーションして何かを創りだしていくのは 難しい。現場に入って方策を提案・展開してい く「アクション・リサーチ」は、ほとんど不可 能である。ましてや、貴重な意見や方策、ある いは方向性を提案する指導者には、もちろんな れない。 では、学生には何が期待できるであろうか。 研究方法としては、文献研究、質問紙法・イン タビュー法、事例研究、ライフ・ヒストリー研究、 フィールドワークやエスノグラフィー、会話・ 物語分析などが考えられるが、ここではフィー ルドワークと事例研究を中心に紹介したい。 フィールドワークと事例研究 学生は、参与観察やフィールドワークはでき る。子どものパートナーとなり、寄り添いなが ら手助けし、その子の考えや背景の事実を聞き 取ることはできる。今までの経験からしても、 フィールドワークやインタビューは生き生きと 取り組んでいる。もっとも大きな利点は、子ど もの観点からの批評者、素朴なインタビュアー になれるという点ではないだろうか。とくに、 子どもに近い感覚は、子どもの観点・立場に立 てるだけでなく、耳をすますことによって子 どもから本音を聞き取ることができるようであ る。 「現実」ということも、どの位置に立つか、 どれくらい感度をあげるかで異なってくる。子 どもの近く居て、子どもも安心して活動できる というのは貴重である。一人の子どもの観点か ら現実をまず理解する。それを別の観点からも 吟味していく。その過程で、こだわりたいトピッ クが生成してくるはずである。それは、従来の 卒論で取り組まれてきたテーマ設定の仕方とは

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大きく異なってくる。リアルで、その場の変革 を志向するものになるであろうし、学生自身の 今までの被教育体験が省察されることとなるか もしれない。 しかし、それは、同時に、観点を変えれば、 見え方感じ方がさまざまに違ってくるという意 味では、「現実は藪の中」ということになる。 そのように解釈しただけということになる。し かし、「子どもに近い感覚」「耳をすます」「物 語を編みだしていく」「展開の核を発見する」 など、状況と事実がもつ意味連関を解釈するこ とによって、現実とは別のあり方を紡ぎだす可 能性が生まれるはすである。学生だからこそで きる「編みなおし」を期待したい。 フィールドワークは、一定期間にわたって参 与観察をつづけ、その場の意味をさぐる方法で ある。そして、それ自体がエスノグラフィー ( 民 族誌 ) 研究になり、事例研究にもなる。フィー ルドワークによる、教室のエスノグラフィー、 遊び世界のエスノグラフィー、仲間関係のエス ノグラフィー、学校のエスノグラフィーなど ( 志水 1999 2003 )、さまざまな研究成果が生 まれている。特に、志水 (2003) が、取り組ん だ大阪府の布忍小学校の事例研究は、エスノグ ラファーとしての二十年をこす経験がなせるわ ざであり、週一回半年間のフィールドワークで の貴重な成果である。総合学習としての「タウ ンワーク」での学び、低学年の子達の「遊びと 学び」、学力形成の実情と体制、同僚関係など、 リアルに、そして立体的に叙述されている。「学 校づくりの事例研究」は、こうした先行研究に 学んでいきたい。そうした事例の中から、テー マが生まれたり、今までの学校づくりの歴史的 事例を発掘したり、海外の事例から考えるとい うことに展開することを願っている。 「語りの分析」について 教師による実践記録も意味深い知恵を発掘で きる鉱脈である。金森俊朗 (2004) は、子ども たちに「ガキはガキらしくガキの時代を送れ」 と口癖にしているという。子ども時代の「原風 景」を心に刻ませたいと、遊びや遠足、人と出 会うテーマ的な追求の学びなどを実践してい る。この「原風景」とはなんだろうか。彼は、 人と出会い、「心に他者を住まわせる」ともいう。 どんな意味があるのだろうか。 「原風景」という用語は、文学や建築学のも のであった。しかし、深く印象付けられた経験 とイメージとして理解されるようになり、学問 の壁を越境している概念である。子どもたちは、 どのような経験をどう受け止めているのか。成 長とともに、子どもたちの理解は変化するのだ ろうか。こうしたタイプのテーマについての研 究方法として「語りの分析」がある。藤江らは、 「学校の原風景」の自由記述により、学校生活 の中での印象深い出来事とその意味の「語り」 を引き出し、そのナラティブ・アナリシス、つ まり「語りの分析」によって、主観的な意味世 界にわけ入っている。( 藤江 2003)  それは、古典から発掘することも、児童文学 作品や忘れ去られている実践記録からも可能で ある。たとえば、ペスタロッチの『シュタンツ だより』があげられるが、この記録は、物語形 式というよりも、手紙形式の文体である。従来 の教育哲学とは、違った角度から解釈していく ことができるだろう。古典がもつ「生命力の強 い概念」は、流行の概念や理論よりも長く有益 であるといわれている。( やまだ 2005 ) 冷凍 品を解凍するかのように、濃縮され閉じこめら れた意味を、時空を越えて解凍することで再生 でき、ともに味わえる。 再定義・再概念化について 学問の領域を越境していくのは、なぜか、ど のようにしてか。学際的研究が流行だから、越 境していく、のではない。現実を見つめなおし リアリティをもって、可能性への希望を創ろう とすれば、さまざまな学問研究の知的道具であ る概念や理論や研究方法は、総動員せざるをえ ないからである。 たとえば、「意欲」についてである。心理学 では「動機づけ」がいわれ、教育学では「興 味」が語られ、学習性無力感が論じられる。そ して「動機づけ」だけでも、外発・内発的、達 成的、社会的、自己原因性感覚など、雨後の竹 の子のように、蜂の巣をつついた後のように、 概念はある。「学力」「評価」「居場所」などに ついてもいえる。具体的な現実を見て検討しよ

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うとするとき、それを見る枠組み・フレームが 必要である。しかし、そのフレームは、特定の 理論に基づいてのものではなく、折衷的で総 合的に ( eclectic )、建設的批判 ( constructive critique ) によって、リフレームされたもので あって、初めて理解していくのに有効である。 再定義 =redefinition、あるいは再概念化 = re-conceptualization が求められるのである。だ から、学問の領域を越境して、たえず捉えなお すこと「越境する精神」が必要なのである。 卒業論文について 学校臨床コースは、カリキュラムを四つの領 域…「子どもの現実と理解・支援」、「教室の現 実と学び」、「教師の現実と成長」、「学校の現実 と学校づくりの実践」から考えている。それぞ れの領域で考えられるテーマを挙げておきたい 卒業論文の研究テーマの一例 ①子どもの現実と理解・支援、そして状況を切  り開く意味を追究する。 思春期前期少女たちの集団関係とその意味 低学年の子どもたちの遊び世界と「ことば」 いじめと学級生活の現象学的考察 学童保育における遊びのエスノグラフィー インターネットの教育的可能性と危険性 対人不安による不登校児の世界 非行高校生のライフヒストリーと人間関係 ②教室の現実と学び、そしてその創造性の研究  をすすめる。 授業中の対話から見る「教師 = 生徒関係」 「いのちの授業」実践の構造と意味 道徳授業のコミュニケーションの傾向と問題 性 「生きる力」を育む授業実践に関するケースス タディ 造形活動と子どもの想像力の考察 飼育体験が持つ「拡張する学び」の考察…… エンゲストロームの活動理論をベースに 教室のコミュニケーションと関係性……コ ミュニケーション論を手がかりに 教室における「笑い」の教育的意味 ③教師の現実と成長、そしてこれからを考える。 教師とカウンセラーの「連携」に関する研究 教室における教師の判断・・・・授業後の語りに 注目して 教室における教師の「からだとことば」 ケアに軸をおく教師のライフヒストリー 教師は「総合的学習の時間」にどう向き合っ たか レッジョ・エミリア幼児教育実践における「記 録」の意味 ④学校の現実と学校づくり実践、そしてその未  来のあり方を構想する。 学校建築の特性と子どもの行為・・・・・一つの小 学校での観察から 教師たちの同僚性が創る学校の事例 学校づくり実践と継承の事例研究……あるパ イロットスクールのケース 米国におけるチャータースクールの事例研究 ……その可能性と陥穽 子育て支援センターと学校の役割 ニューカマー児童と学社融合の学校システム C.フレネの教育思想と実践の構造 おわりに 新しく滋賀大学教育学部に開設することと なった「学校臨床コース」に関する目的と、開 設までのいきさつ、そしてコース教育の構想を 述べてきた。大学院レベルで開かれている「臨 床系専攻」とは違って、教員養成系の大学学部 で開いていこうとする趣旨は、十分とは言えな いが、論じられた。このコースが、どのような 意味をもってくるかは、これからの学生たちと の共同作業である。五年後に、もう一度、振り 返りたいと思う。

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参考文献 アーレント ,H 2002 暗い時代の人間性について 情況出 版 青柳由利 2002 子どもの自己表現を引き出す授業 近 藤邦夫他編 学校臨床学への招待 嵯峨野書院 秋田喜代美他 2003 授業における話し合い場面の記憶  東京大学大学院教育研究科紀要 第 40 巻 秋田喜代美他編 2005 教育研究のメソドロジー 東京 大学出版会 秋葉昌樹 2004 教育の臨床エスノメソドロジー研究- 保健室の構造・機能・意味 東洋館出版社 稲垣忠彦 1986 授業を変えるために-カンファレンス のすすめ 国土社  稲垣忠彦 1988 授業を変える-実践者に学んだこと 小 学館  今泉博 1998 崩壊クラスの再建 学陽書房  浦光博 1992 支えあう人と人 サイエンス社 大瀬敏昭・佐藤学他 2000 学校を創る 小学館 金森俊朗 2004 いのちの教科書 角川書店 金子真理子 1999 評価ってなんだろう 志水宏吉編  1999 のぞいてみよう今の小学校 有信堂 河合隼雄 1995 臨床教育学入門 岩波書店 木村敏 2001 木村敏著作集 七 臨床哲学論文集 弘 文堂  クラーエ ,B 2004 攻撃の心理学 北大路書房 クラフキー ,W. 2004 ペスタロッチーのシュタンツだよ り―クラフキーの解釈付き 東信堂 コワルスキ ,R.M 他編 2001 臨床社会心理学の進歩 北 大路書房 近藤邦夫 1994 教師と子どもとの関係づくり-学校の 臨床心理学 東京大学出版会 近藤邦夫 1996 学校臨床学 AERA MOOK 教育学がわか る 朝日新聞社 佐伯胖 1995 学ぶということの意味 岩波書店 坂本真士・佐藤健二編 2004 はじめての臨床社会心理 学-自己と対人関係から読み解く臨床心理学 有斐 閤 桜井茂男 1997 学習意欲の心理学 誠信書房   佐藤学 1995 教室という場所 国土社 佐藤学 2003 教師たちの挑戦 小学館 佐藤学 2003 リテラシーの概念と再定義 教育学研 究 第 70 巻 第 3 号 志水宏吉 1996 臨床的学校社会学の可能性 教育社会 学研究 59 集 志水宏吉編 1998 教育のエスノグラフィー 嵯峨野書 院 志水宏吉編 1999 のぞいてみよう今の小学校-変貌す る教室のエスノグラフィー 有信堂 志水宏吉 2003 公立小学校の挑戦-力のある学校とは  岩波書店 志水宏吉 2005 学校文化を書く-フィールド・プレー ヤーとして 秋田喜代美他編 2005 教育研究のメ ソドロジー 東京大学出版会 清水睦美 2000 教師のストラテジーと実践 永井聖二 他編 < 教師 > という仕事 = ワーク 学文社 シュッツ ,A 1982 社会的世界の意味構成 木鐸社 ショーン ,D 2001 専門家の知恵-反省的実践家は行為 しながら考える ゆみる出版 竹内敏晴 1980 ことばが劈かれるとき 思想の科学社 竹内 敏晴 1999 教師のためのからだとことば考 筑摩 書房 田中共子他編 2003 臨床社会心理学 ナカニシヤ出版 丹野義彦・坂本真士 2001 自分のこころからよむ臨床 心理学入門 東京大学出版会 中村雄二郎 1992 臨床の知とは何か 岩波書店 半澤俊和 2002 「教師役割」についての一考察 近藤 邦夫他編 学校臨床学への招待 嵯峨野書院 野口裕二他編 2001 臨床社会学の実践 有斐閤 藤江康彦他 2003 学校の原風景としての語りの構成 東 京大学大学院教育学研究科紀要 42,319-335 藤田英典 1991 子ども・学校・社会-「豊かさ」のア イロニーのなかで 東京大学出版会 藤田英典 1998 現象学的エスノグラフィー 志水宏吉 編 1998 教育のエスノグラフィー 嵯峨野書院 皇紀夫 1994 臨床教育学の展開 - 臨床教育学の方法論的 課題 京都大学教育学部紀要 第 40 巻 皇紀夫 2000 「臨床教育学」の動向と課題 教育學研 究 67(1),86-87, 日本教育学会 マズロー ,A.H 1987 改訂新版・人間性の心理学―モチ ベーションとパーソナリティ 産業能率大学出版 部 箕浦康子 1999 フィールドワークの技法と実際 ミネ ルヴァ書房 メリアム ,S.B. 2004 質的調査法入門-教育における調 査法とケース・スタディ ミネルヴァ書房 やまだようこ 2005 フィールドの精神でフロンティア をひらく 秋田喜代美他編 2005 教育研究のメソ ドロジー 東京大学出版会 吉川悟編 1999 システム論からみた学校臨床 金剛出 版

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現代の子どもの育ちや生活環境が大きく変化し、学校の改革が緊急な課題となっています。 学校は、その意味と役割が問い直されています。しかし、学校は、単に教室の集合体ではあ りません。一人ひとりの学びと個性を育み、共同の学びをつくる場であり、同僚性による教 師の成長を支えあう場であるとともに、アカウンタビリティが問われている場です。地域に 根ざし支え合う公共圏として再生されることが強く求められているところでもあります。こ うした新しい学校像・教師像を描くことが、現代的課題のひとつとなっているのです。 他方で学校は、様々な教育実践が営まれ問題解決が探究されているフィールドです。研究 者たちによって臨床的研究がすすめられてきている場であり、教師たちによって研究実践が 追究されている現場もあります。教室での子どもたちと教師による学びの実践を研究実践し ているだけではなく、いじめや不登校・学級崩壊などの病理の克服、教師たちによる実践を めぐる省察とその成長、学校という教育システムの質的な再構造化など、たえず実践と省察 がおこなわれているのです。学校・教室は文化的社会的倫理的な実践が多面的重層的におこ なわれている「現場」であり、探求の場なのです。こうした学校の諸実践に脱領域的、越境 的なスタンスで向き合い、その現状と可能性を探求し、かつそこでの問題の解決に臨床的に 取り組むことが、広く求められるようになってきているのです。 こうした中で学校の教師たちにも、新しい実践力が求められています。現代の学校が直面 している課題に応えるためには、新たなスタイルの学びや教師 = 子ども関係をつくりだし、 子どものニーズに対応できるとともに、学級づくり・学校づくりに向かう実践力と、そのベー スとなる見識が求められています。学校や教室の出来事に対する洞察力、広い視野から意味 を捉えていく省察の態度、学校のあり方を吟味し学校の諸領域を構想・再構築していくビジョ ン、異なった個性・価値観の他者と意味をつむぎあい協働していく力など豊かな実践力と見 識が不可欠といえます。 本コースは、「学校臨床教育入門」「スクールカウンセリング概説」「学びのフィールドワー ク」「学校人間関係論」「教室の心理学」「臨床的授業研究」「学校づくりの事例研究」「臨床 的教職研究」などを中心とした科目によって、新たな学校と教育を研究し、デザインする創 造的実践家である教師の育成をめざしたいと考えています。

資料 1. 学校臨床コースの趣旨とねらい

図 2  学校臨床コースの主な科目のシークエンス

参照

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