カロリング期フランク王国における王国集会・教会
会議-ピピン期・シャルルマーニュ期を中心に-著者
津田 拓郎
雑誌名
ヨーロッパ文化史研究
号
11
ページ
131-180
発行年
2010-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/55699
ヨーロッパ文化史研究 第 ll号 (2010年 3月31日)
論
文
良 「 拓 田 津カ ロ リング期 フランク王国における
王国集会・教会会議
―― ピピン期
0シ
ャルルマーニ ュ期 を
中″
じヽ
に
(1)(1)1
研究史 と問題 の所在(1)2
本稿 の 目的 (2)-1 ピピン短躯王 とカールマ ンの もとでの集会(2)2
シャルルマーニ ュの もとでの集会(3)結
論 と展望 (1)-1 研究史 と問題の所在 2001年,T.ロ
イターは,「政治の分野では,国
王 と貴顕達の会合 の時 ――集会であれ軍事遠征であれ一― を除いて時間は止 まっていた」 と述 べ,西
欧中世 における王国集会の国制上の重要性 を強調 した121。 王国集 会 は,国
王 による個々の政策 に対する王国貴顕の同意が獲得 される場でONよ
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論 文 あ り
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こでは立法,遠
征計画,伯
や司教の任命,巡
察使 の任命 と在地 への派遣,王
国分割や国王の選 出・ 戴冠が行 われた。し また,他
の分王 国や近隣部族 との条約・ 同盟の締結,使
節 の受入や和平交渉,忠
誠宣誓 が行われる外交交渉の場 としての役割 も持 っている。貴顕間の紛争の処 理や証書の発給 も行われ,貢
納が受 け入れ られ るの も王国集会 において であった。国王 と在地エ リー トの間の関係構築・ 更新のための重要な機 会 として,王
国の共同体意識 を高揚 させ る役割 を持 っていた ことも指摘 されている。 ロイターは王国集会 こそが,王
国共同体が ヴァーチ ャルな ものか らリアルな ものになる場である と述べてい る(4)。 この ように近年の研究文献 において,王
国集会 の国制上の役割の大 き さは一致 して認 め られてい る といって良い。 しか し他方で,現
在 の初期 中世 の王国集会 に関す る叙述 は,そ
の多 くを19世紀末∼20世
紀初頭 に か けて行われた制度史的・ 法制史的な研究 に大 き く依存 してい る。ヽ そ各
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hout,2003,p.29;J.E.Goldberg,S″″農gιι力γE"Jη
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に よる在地 の状況 に関す る情報収集 の機会 を与 える とい う点 を強調 してい る R.Mckitterick, C加 ガθ,90"zθ,Cambridge一New York一1/1elbourne―ⅣIa―
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そ もそ もカ ロ リング D.Eichler(2007年)
カロリング期フランク王国における王国集会・教会会議
工33 こで は,「王 国集 会」 に加 えて「貴 族 集会」,「 宮廷 集 会」,「軍 隊 集 会」 な どの概念 が用 い られ
,史
料 に現 れ る集会 を類型化 す る試 みが行 われ て きた。)。 様 々 な集会 の類型化 の試 みの中で も,最
も大 きな影響 力 を持 ってい る の は,大
集会 と小 集会 とい う2種
類 の集会 の想定 で あ る。 この2種
類 の 集 会 は,ラ
ンス大 司教 ヒンクマール が882年
に執筆 した 『宮廷 組 織 論』&
″蒻π “ ρα″″′の 叙 述 に 由 来 し て い る 171。 彼 に よ れ ば,集
会 placitumは年 に2度
開催 され,そ
れ らは参 加 者 の規 模 にお い て明 らか に異 なった もので あった。 つ ま り,帝
国全 土 の問題 を決定 す る,聖
俗 問 わずすべ ての貴顕 が参集 す る王 国規模 の集会 と,主
だ った者 た ち と王 の 助 言者consiliar五 の みが集 まる小集 会 の2種
類 が 存 在 した ので あ る(0。 に よる もののみで あ り,その他個別 の論文が散発的 に見 られ るに過 ぎない こ とか らも,古典 的研究 が未 だ に大 きな影響力 を持 ってい るこ とが分 か るだ ろ う。 (0 古典 的研究 とそ こに見 られ る様々な集会 の類型化 の試 み について は,大久 保泰明 「カ ピ トゥラ リアの法的性格 一一 カルル大帝・ ル トウィヒ敬虔帝時代 に関 す る一 試論 ―― 」2,『法 学 協 会 雑 誌』第85号5,p.714;H.Weber,
Dた Rιた力sυιttαzπιπ4gιπ,p.28,pp.95-99;D.Eichler,F″ η力おθ力ι Rθたカー Sυιttα,7Z,7ZιZηgιη,pp.7-11. (7)これ は シャルル禿頭王時代 を通 じて西 フランク王 国 において絶大 な影響カ を持 っていた ヒンクマールが,当時 の西 フラ ンク王 カル ロマ ンに送 った もの で,理想化 された シャルル マーニ ュ時代 の王国のあ り方 を叙述 した もので あ る。 ヒンクマール 自身が述 べて い るように,シャル ル マーニ ュ時代 の宮廷人 で あった コル ビー修道院長 アグルハル トに よる論考 を もとに,ヒ ンクマール が加筆・ 修正 して作成 した ものであ るが,アダルハ ル トに よる論考 は失 われ てお り,どの部分が ヒンクマール によるオ リジナルの叙述 なのか は不明 で あ る。本書 に見 られ る内容が,実際 に シャルル マーニ ュ時代 の状 況 を反映 して いるのか,ヒンクマールが活動 した時代 の西 フランク王 国状況 を反映 して い るのか に関 しては見解が分かれてい る。 この史料 に関 してはT.Gross and R. Schieffer(eds.),〃′πθ77zα,物S Dιθπ′ηι夕α滋″グ.ハイG月l Eθηιιs J%万s gθη2zαηた′ αη凛7π′勿 πSπ2 sθ力θ″協%sの
απ″π ι蒻″ffr,Hannover,1980,pp.9-30. さらに参照,五十嵐修 「『王 国』・『教会』・『帝国』―-9世
紀 フラ ンク王 国 の 『国家』 をめ ぐって 一一」,『東 洋 英 和 女 学 院 大 学 人 文・ 社 会 科学 論 集』23, 2006有ユ, pp.23-25. (的 Dιο〃勿ι夕α滋″′ ,C.29,c.30.c.34では集会 に際 して事前 に条項 に分かれた 文書 capitulaの 形 で争点が与 えられ ることが,c.35では司教や修道院長 によ論 文 ヒンクマールの叙述 は王 国統治 のあ り方 を理想化 して述べた もの とさ れ
,当
時の実態 をその まま反映 しているとは考 えられていないが,少
な くとも2種
類の集会の想定 に関 しては現在で も多 くの研究者 によって受 け入れ られているといって良い。し しか し近年 になって,こ
れ らの類型 を無批判 に想定す るので はな く, この時代の王国集会 をよ り柔軟 な もの として捉 える傾 向が現れてお り, 伝統的な集会理解 は大 きな見直 しを迫 られている。 ロイターは,8世
紀 か ら12世紀 までの時期の王国集会 に関 して,「支配者が出席 して,取
り 巻 きを超 えた範 囲の人々 を集 め る もの,と
い う以上 の定義 は困難 であ る」 との見解 を取 つてい る。エア リーはそれ を受 けてさ らに,「取 り巻 き」の定義 自体 も明確 にはな り得 ない と主張す る(10。 ここで は王国集 会 は,近
代 の議会 の ような客観的 に制度化 された もの として捉 えられて はいない。彼 らの見解 に従 えば,「あ る集会 は正規 の王 国集会 で あ り, 別 のある集会 は単なる取 り巻 きの協議 にす ぎない」な どといった議論 は 意味 をなさない ことになる。 このような動向を踏 まえると,カ
ロ リング 期 の王国集会のあ り方に関 して全体的な見直 しを行 う必要があることは 明 らかだ ろう(11ゝ る部会 と,伯や他 の俗人貴顕 に よる部会 が別個 に行 われ ることが それ ぞれ叙 述 されている(ただ し必要 に応 じて聖俗 の参加者 による合 同部会 も行 われ るこ とが あ りえるとも)。 (" この ような2種類 の集会 を想定 して,史料 中で言及 され る集会 を大 集会 と イヽ集会 に分類 す る試 み はザイ ファー トがすで に行 っていたE.Seyfarth,Fγれ ‐ 力おθλι Rιたns・υιttαπηεJπηgθηπηttγ Kα″αι′% Grttι ηππグニzグリ8
グι′%助 ππθη,Leipzig,1910。 近年で もJ.E.Goldberg,32獲ル ヵγE"グた,pp. 226fで,王国集会 と助 言者 との協議 の2種類 の集会 を想 定 して,ルー トヴィ
ヒ独 人 王 の時 代 の集 会 の一 覧 の作 成 が 試 み られ て い る。Ro Mckitterick,
03αル πttπι,pp.227fでもこの ような2種類 の集会 の想定が支持 されてい る。
(10) T.Reuter,`Assembly Politics',p.435; S.Airlie,`′ralking Heads',p.36. (11)こ のように王国集会 をより柔軟 に捉 えた上で研究 を行 っているのは
,現
在カロリング期フランク王国における王国集会・教会会議
135
カ ロ リング期 の王 国集会 を考 えるに当た って,も
う一 つ大 きな論点 が 存 在 す る。世俗 の王 国集 会 と聖職 者 に よる教 会 会 議 の関係 の問題 で あ る。 この問題 に関 して多 くの研究者 は,カ
ロ リング期 には聖俗 の集会 の 境 界 が明確 で はな く,王
国集会 と教会会議 が混 ざ り合 っていた との立場 を取 って い る(12、 その 際 に まず挙 げ られ るの は,史
料 中 の用 語 法 で あ る。近代語 で は「教会 会議」や「公会 議」 と訳 され るsynodus, con‐ ciliumの 語 は,カ
ロ リング期 には必ず しも聖職者 のみが参加す る教会 会議 を意味 す る とは限 らなかった(10。 集会 の参加者 について も聖俗 の 混合状態が指摘 され(10,集 会 で議論 され る内容 も聖俗両方の問題 が含 研究 はル イ敬虔 帝期 のみ を対 象 として い るた め,カロ リング期全体 を通 じて の王 国集会 のあ り方 とその変容過程 が解明 されてい る とは言 い難 い。 ヴェー バ ーは,東フラ ンク王 国の王国集会 の研究 において,軍隊 を伴 う正 規 の王 国 集会 が消滅 してい き,新た に宮廷会議が現れ る との変化 を主張 す るが,この ような見解 は様々な集会 の類型 を前提 とした議論 か ら生 まれ た もので あ り, 必ず しも当時の実態 を反映 した ものであ る とは考 えに くい,Ho Weber,Dグ
ι Rι″θ力sυθ,sα%π″ηgιη,pp.193-199. (1の R.McKitterick,7んι Fγαη力お力C力πκ力αηグルθ Cαη′jttjαη Rグb7η2ZS.お9-895,London,1977,p.11; G.Biihrer― Thierry,Eυ ιクπθs θノクθπυθ′γαα%s ル ηノαππθル Gθ77γηπル.ιω Egノおお ιルBαυ:●γc a″ αυ Sθz″b08Zδ -9宥,Paris,
1997,p.69; ⅣI.de Jong,`Ecθ:esjα and the early medieval polity',S′ ι協′ グ2γz
∫嶋 ιη 」И″′′ι滋ノ厖γ,Wien,2006,pp.127-129;D.Eichler,Fγれ たたεttι Rθグθカー
Sυι7Sα72Z夕 2Zιπηgθη,pp.33-35.
(13)F.L.Ganshof, Ntt ωαππ グル κ″J滋ル万θη P,Weimar,p.45;W.Hart― mann,D′ι:シηθ滅7π ルγκαηι′20gθηθグ′′π Fγαη々ιηπグθ力 ππグ グπJ″′ルη, Paderborn一Munchen―wien― Zurich,1989,pp.4f.この時代 の集会 を意味 す る語 の多様′性・ 不統一′性について はW.Hartmann,`Zu einigen Problemen
der karolingischen Konzilsgeschichte',24η ππα″π夕γzカグs′θ,zαιιθπθJJ′θ2zι夕209,
1977,pp.12f; R.Pokorny,`I〕 in unbekannter Synodalsermo Arns von Salz―
burg',Dιπたεんの4κ力′υ夕 γ
E"熔
θttZηgグιs lク″θ滋′″6θ9,1983,pp.379f; T. Bauer, `Kontinuitat und wandel synodaler Praxis nach der Reich―steilung von Verdun',z4η ηπαttπ22Z力おムθηαιθθπθ′JJθんι22223,1991,p.17; T.
Reuter,`Assembly Politics',pp.433fも 老奏照。
(14) I_I.Weber, I)′ι Rιグθttsυι,sα夕γ
z夕23ι%,agθπ, p.215; W. Hartmann, `Laien auf Synoden der Karolingerzeit',24%π παttπηz 力なわ五αθθθηθ′″θ夕zηz lθ , 1978,
pp.249-269; T.Bauer,`Kontinuitat und wandel',p.22; ⅣI.de Jong,`Char‐
lemagne's church',J.Story(ed.),Cttα γJιπ%″ι
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グπ αηグSθθ彪″,ⅣIan_論 文 まれていた と考 えられている(1つ。 ただ しこれ らの点 を強調する論者の中に も
,基
本的 に教会会議 と世俗 の王国集会 は別個の制度であった と考 え,史
料中で両者 を見分 けること が 困難 なだ けで あ る との立 場 を維 持 す る者 た ち も少 な くな い。H. ヴェーバーは東 フランク王国の王国集会の研究 において,聖
界 の集会 に ほ とん ど関心 を払 ってお らず,教
会会議 と王国集会が別個の ものである と彼が想定 していることが見て取れ る(10。W.ハ
ル トマ ンは,司
教たち が集 まる教会会議 を王国集会か ら区別す ることが困難であると認 めつつ も,世
俗的な性格 をもつ王国集会 とは別個の存在 として教会会議 を定義 す ることを試みている(1つ。 この問題 に関 してT.バ
ウアーは,多
くの教会会議 には俗人 も参加 し てお り,そ
こで協議 され る内容 は広 く聖俗 の領域 を含み得た とい うこと を強調 しつつ も,俗
人 の参加者が同意・ 決議権 を持たない ものを「教会 会議」,聖
俗両方の参加者が同意・ 決議権 をもつ ものを「混合教会会議」 “concilia m破ta",そ
れ以外 の ものを「世俗 的集会」 として,3つ
の類 型 を想定 している(1め。 しか し彼の議論 は,concilia mixtaと 世俗的集会 マールの叙述 も参照。 (1つ 集会 に付 随 して作成 された カ ピ トゥラ リアの中 には,聖俗 両 方 の規 定 が含まオしている。T.Bauer,`Kontinuitat und wandel',p.20;T.Ⅳ I.Buck,4グー
2θηグ励 πηグ Pzθ グ′θα′グθf Zπγ ″Jな′徳 ―夕αSわZιιη D′窃 ιηsグθη υθη κ ″ J滋 滋 万ιη ππグ 物 ′″ 滋 万ιηηα力ιπ r蝋″η (5θ 7-8ヱ4), Frankfurt am Main,1997,p.36.こ れ について は著者 による前掲博士論文 の第1章も参照の こと。 (10 H.Weber,Dグθ Rθグθたυ ∼ 2πJπηgθη,passim。 例 えば852年マイ ンツ集会 に関 して,彼は もっぱ ら俗界 の部分 の集会 の構造 にのみ関心 を払 つてお り, 同時 に行 われた高位 聖職者 の集会 につ いて は,その存在 を言及す るに とどめ てい る,pp.124f.
(17) w.Hartmann,`Zu einigen Problemen',p.6,p.10,pp.13-15; Ideln,`Laien auf SynOden',p.249;Idem,Dル (ジηθ
`ル
η 滅2γ κα御ノ:統gcttθ′′,pp.4f.
カロリング期フランク王国における王国集会・教会会議
137
が どのように区別 され るのかを明示 していない点,同
意・ 決議権 のよう な初期中世 に存在 した とは考 えに くい概念 を指標 としている点 な どで納 得 の い くもの とは思 われ な い。確 か に concilia mixtaの 想 定 はバ ウ アー以前か ら多 くの研究者 によって行われてきた。 しか しそれが同時代 の史料中に現れ る概念ではない ことや,論
者 ごとにその理解が大 き く異 なってい る ことを考 えるな ら,む
しろ concilia mixtaの 想定 がカロ リ ング期 の王国集会 と教会会議の間の関係 の理解 を大 き く妨 げているよう に思われ る。バ ウアーが,典
型的にconcilia m破taが現れ る時期 は843 年 ヴェルダン条約以降であると考 えているのに対 し,ハ
ル トマ ンが800年以降 に concilia mixtaが 消滅す る と主張 していることを見 て も,con‐
cilia mixta概 念 の理解が研究者間で大 き く異 なっていることが分 か る だ ろう(1"。 そ もそ もこの ような論者 の多 くは,concilia mixtaを 「教会 会議 に俗人 も参加 して協議 を行 っているもの」 として理解 しているよう であるが
,そ
れの ような集会 と「聖職者 も参加す る世俗 の王国集会」の 間の区別 は しば しば恣意 的 にな され てい る。 この よ うな状況 を鑑 み る と,concilia mixtaのような概念 を想定す ることの必要性 自体がそ もそ も問題 とされ るべ きであろう。 この ように,カ
ロ リング期 の教会会議のあ り方や聖俗 の集会の関係性 を巡 っては,研
究者間で大 きな見解 の相違が見 られ るが,こ
こで も集会 を柔軟 な制度 として捉 えることが理解 の手掛 か りにな る もの と思われ る。教会会議や王国集会,concilia m破taと いった類型 を所与の もの と して前提せずに分析 を行 うことが,カ
ロ リング期の集会 を理解す るため(19) W.Hartmann, `Laien auf Synoden', p.260; T.Bauer, `Kontinuitat und Wandel',passim.カ ロ リング期 の「教会会議」 を定義す る試みや
,様
々 な研 究者 によるconcilia mixtaの想定 についてはT.Bauer,`Kontinuitat und Wandel',pp.19f; D.Eichler,」 Fttη力おθttι 」Rθ′θttsυιttα22ZηZJππgθπ,pp.30f.論 文 に欠かせないのである。すで に
M.デ
0ヨ ンクやD.ア
イ ヒラーが この ような立場 を表明 しているものの,彼
らの研究 はカロリング期全体の集 会 を網羅的 に検討 した もので はないため,809世
紀 を通 じての聖俗 の 集会の構造の変容過程が具体的 に解明 されてい る とは言いがたい。の。(1)2
本稿の 目的 これ まで概観 して きた研究史の状況 を踏 まえた上で,本
稿 で は,ピ
ピ ン短躯王 とシャルルマーニュの在位期 を主た る対 象 とし,先
行研 究が 様々な語で呼び表 して きた国王 主催 の集会 の構造 と変容過程 を解明す る。 ここでは先行研究が想定 していた様々な集会 の類型 を所与の もの と して前提せず,史
料 に現れ る事例 を可能 な限 り網羅 した上で,そ
れ らが どの ような構造 を持 っているのか,史
料執筆者 によって どのように叙述 されているのかに注 目が払われ る。 用い られ る史料 は,年
代記や王・ 皇帝の伝記 な どの叙述史料 と,カ
ピ トゥラ リアや教会会議決議な どの聖俗 の集会 に付随 して作成 された と思 われ る文書であ り,そ
れ らの史料中で言及 され る王国 レヴェルの聖俗 の 集会 の事例 を網羅的 に分析 す る(21)。 加 えて,証
書 や聖人伝等 の史料 に おける集会への言及 も可能な限 り参照する(22ゝ(20) NII.de Jong,`Ecε ιθs′α and the early medieval polity',pp.127-9; D.Eich‐
ler,Fγ楓 力たθttι Rθグθttsυθ冬″ πJπηgθ2,pp.3335.ハ マーは初期 中世 の集会
が驚 くほ どに研 究者 の関心 を集 めて い ない と指 摘 して い る
,H.Hummer,
`Politics and POwer',C.Lansing and E.D.English(eds.),4 Cθ 夕″ απあπ わ ′力θ M8グルυα′リタしググ,London,2009,p.55,n.55. (21)_っの大 司教 区の聖職者 のみが集 まってい る こ とが明 らか な教会会議 や , 極 めて限定的 な地理 的範 囲か ら聖俗貴顕が集 まっている裁判集会 の ような も のは本稿 の対象外 となる。ただ し,「王 国 レヴェル」か どうか に関 して同時代 に客観的 な区別 が存在 したのか どうか 自体 が問題 とされ るた めに
,対
象 とさ れ る集会の選択 はある程度恣意的 にな らざるを得 ない ことを断ってお く。 (22)J.F.Bёhmer and E.Muhlbacher(eds.),Reges″ f″ιttJ tt κα“ ιグπgaγ r
R懲規
カロ リング期 フランク王国における王国集会・ 教会会議 分析の際 に特 に注意が払われるのは
,史
料 中で どのような語 によって 集会が言及 されているのか,参
加者 について どのように叙述 しているか で ある。つ。 しか し,こ
こで は単 に用語法 に従 って集会 の類型化 を試 み るわ けではない。4、 まず各々の史料 ご との用語法 の傾 向 を分析 した上 で,複
数の史料 で同一 の集会が言及 され る事例 に特 に注 目す ることで, それぞれの時期の集会の実態 に迫 ることが試み られ る。年代記 に現れ る 集会像 は,多
くの場合個々の年代記作者の主観的な集会理解 を反映 して いると思われるため,複
数 の年代記やカピ トゥラ リアな どにおける言及 をつ きあわせて分析す る必要があるのである。本稿 の目的は,先
行研究 が想定 していた集会 の類型化の妥当性 を検証 し,聖
俗 の集会の間の関係 性 とその変容過程 を明 らかにすることである。特 に聖職者 のみが集 まる 「教会会議」 に対す る同時代 の認識 の考察か ら,カ
ロ リング期 フランク 王国国制の理解 に向けて新たな手掛か りを得 ることである。 で きる(オンライン版 http://www.regesta imperii.de/を 使用 した)。 ただ し, 年代記 や カ ピ トゥラ リア・ 決議文書 な どで言及 され てお らず,書簡 や聖人伝 な どにおいて間接的 に存在が確認・ 推測で きるに過 ぎない王 国集会・ 教会会 議 は分析 の対 象か ら除外 した。 もっ とも書簡 な どに現 れ る集会 に関 す る叙述 は,しば しば年代記か らは得 られない生 き生 きとした内容 を含 んでい るため, 今後 の検討課題 となるであ ろう。 (2鋤 聖俗 の集会 で はしば しば証書が出 された と考 え られ るが,証
書 の多 くは証 人 リス トを欠 いてい るた め,参
加者 についての情報 は年代記 や決議文 書 の情 報 に依存 す ることになる,この点 に関 しては T.Reuter,`Assembly Politics', p.434. (20 以下,史料 の引用 の際 に,集会一般 を指す ラテ ン語 と理解 され るplacitum, conventus等に対 して は等 し く「集会」の訳語 をあて る事 とす るが,史料執 筆者 が その他 の もの と異 な る「聖職者 のみの集会」 として叙述 して い る こ と が明 らかな場合 に限 って「教会会議」の語 を用 い る こととす る。ただ し,と りわ けピ ピン期∼ シャルルマーニ ュ期 に関 して は,それ ぞれ の史料執筆者 の 用語法 は不安定 で あ り,訳
語 の選択 は しば しば筆者 の恣意 的 な判 断 に基 づ く 暫定 的 な もの にな らざるを得 ない事 を断わ ってお く。引用 の際 には ラテ ン語 原文 も併記 す るので,合
わせ て確認 していただ きたい。 この点 につ いて は上 述 の本稿註 13も 参照。140 論 文
(2)1
ピピン短躯王 とカールマンの もとでの集会 ピピン短躯王 の時代 には全部 で17の集会 が知 られてい る (表1を 参 照,内
二つはカールマ ンが主催)。 以下,叙
述史料 に現れ る集会,カ
ピ トゥラ リアや決議文書 に現れ る集会(2o,両 方で現 れ る集会 の順 で それ ぞれ検討 してい く。 この時期,叙
述史料 中では10の集会が言及 されてお り。0,基
本 的 に 年 に一度,場
所 を変 えつつ集会が開催 された ことが記録 されている。叙 述史料 には参加者 についての詳細 は書かれてお らず,し
ばしば「 フラン ク人」“Franci"の集会 と述べ られてい るのみである(757年 コンピエー ニ ュ,761年
デューレン,763年
ヌーベル,764年
キエル ジー,766年
オ ル レア ン,767年
ブール ジュ)。 大 メ ッス年代記(2つ において これ らの集 会の多 くはplacitumない しconventusと 呼 ばれている。 この時期の集 (25)ヵ ピ トゥラ リア と教会会議決議 に関 して はそれ ぞれCap" Conc.と してMGHの
巻数 と番号 を付 した。 カ ピ トゥラ リアにはMGHで
用 い られ て い る 名称 も記載 したが,これ らは必 ず しも同時代 の写本 に現 れ る もので はな く, しば しば編者 のボ レテ ィウスの手 に よ り恣意的 に付 け られた もので あ る。 ま た,他
の史料で言及 されてい る もの と同一 の集会 について述べてい る事 が明 らかであ るが,その際 にplacitum,conventus,synodus等 の語が用 い られて いない もの も表 に記載 した。 (20 この部分の分析 にはフランク王 国年代記 とその改訂版,大メ ッス年代記 を 用 いる。F.Kurze(ed.),42η α′ιs 2隻″グFγαηθttπ,ノИGI SS π‰G″2.δ, Hannover,1889(以¬F4RF);B.von simson(ed.),4η
ηαたなπθ況フηsおク万θ%aS,プИG月l SS″
.&劉
.Iθ,Hannover,1905(以下 4ルπ))。(27)_般に この史料 は802年頃 に初期 の小年代記群 を もとに編 纂 され,その後 も独 自の記述 を含 みつつ831年まで継続 された ものである と考 え られ てい る が,未だ にその成 立事情 な どに関 して は意見 が分 か れ て い る。794801年, 806829年の記載 に関 して は,王国年代記 とほぼ一致 した内容 を含 んで いる。 参照, W.Levison and H.Lё we(eds.),Dι%おε力滋πあ Ox力Jθ力おσπι′厖π ′π
〃″ι′ιια′″雀 yo2ι′ι ttηグ Kα%θ″22gθγ〃, Weilnar, 1953, pp.260-264; R.
Collins,`The Reviser Revisited: Another Look at the Alternative Version
of the Aηηα′ιs R響グFzηθθttπ:A.C.Murray(ed.),4ルgγ Rθ %ι t f磁″
,
Tronto,1998,pp.195f.大 メ ッス年代 記 の用語 法 につ いて は シャル ル マー ニ ュ期 に関す る議論 において再 び取 り上 げる。
カロリング期フランク王国における王国集会・教会会議
工41 会 の うち大 メ ッス年代 記 にお いてsynOdusの語 が用 い られ るの は,「 教 会 の再建
,貧
者 や寡婦,孤
児 の問題 の改善,正
義 の実践 のた め」 開催 さ れ た とあ る748年デ ュー レ ン集会(placitum suumと も)と。①,「三位一 体 と聖 画像 問題 が論 じ られ た」 とあ る767年ジ ャンテ ィイ集 会(29)の み で あ り,宗
教 的要素 の強 い集 会 をsynOdusと 呼 ぶ傾 向 が 見 られ る。 そ れ に対 しフ ラ ン ク王 国 年 代 記 で は,宗
教 的 要 素 の有 無 にか か わ らず, synodusな い しplacitumの語 が用 い られ て い る との印象 を受 ける●0。 叙述史料 に現 れ ない ものの,カ
ピ トゥラ リアや決議文書 か らその存在 を確認 で きる集会 は全部 で6つあ り,し
ば しば参加者 につ いて もあ る程 度 の情報 が与 え られ てい る。 これ ら6つの集会 に付 随 して作成 された文 書 には宗教 的要素が強 く表 れ てお り,し
ば しば先行研 究 において これ ら の集会 は「教会会議」 と呼 ばれていた。事 実755年ヴ ェール集会 は,ピ
ピ ンがガ リアの司教達 を集 めた もの とされ てお り,762年
アテ ィニー集 会 に関 して も俗人 の参加 は知 られ て いな い。1ヽ 他 方 で,742/3年
の開催 (28) “.¨ prO ecclesiarum restauratione et causis pauperum viduarumque et
orphanorurn corrigendis iustic五 sque faciendis".ノ4ノ14P,p.40.
(29)メッス 年 代 記 で は ジ ャ ン テ ィイ で は な くサ ム ジ ィで の 開 催 と し て い る
“I)ippinus habuit sinodum in Salrnuntiaco,altercantibus inter se Romanis
et Grecis de sancta trinitate et sanctorurll imaginibus."ノ4ノЪ4P,p.54. (3の 王 国年代記 は ① 741-788年の部分 (既存 の小 年代記群 を も とに790年以 降 に編 纂),② 789793年の 部 分(① と③ の接 合 時 に作 成 され た 部 分),③ 794801年の部分(元々 は ① とは無関係 に作成 された部分 で後 に結合 された) か らなっている。王国年代記 はルイ敬虔帝期 に改訂が行われ,741829年まで をカ ヴァーす る一 つの年代記 として再構成 された。802年以降の部分の成立事 情 につ いて は現在 で も見解 が分 かれて い るが,その叙述 スタイル はむ しろ改 訂版 の もの に近 い と考 えられてお り,本稿 で も王 国年代 記 の802829年の部 分 は「王 国年代 記改訂版」 として扱 うこととす る。 この問題 について は,R.
Collins,`The Reviser Revisited'が 詳細 に扱 ってい る。王国年代記 お よびその 改訂版 の用語法 について は,メッス年代記 と同 じ くシャルル マーニュ期 の議 論 において取 り上 げる。
(31)ヴ ェ_ル集会 の決議文書 の序文 において「 フランク人 た ちの王 ピピンがガ リアのほぼ全 ての司教 をヴェールの公 の宮廷 での集会 に集 め させ た」“Fran―
■42 論 文
表1:ピピン短躯王 とカールマ ンの もとでの集会
785年までの部分ではロル シュ年代記 はモーゼル年代記 とほぼ一致 している
ad concilium Vemus palatio publico"と 主杢´ミらオ■てい る, A.Boretius(ed.),
MGH,C″
′滋″ ημ2 FZπωttπ r,Hannover,1883(=″ GH C″.r),n。. 14,p.33.762年アテ ィニー集会 に関 しては,カ ピ トゥラ リアの ような条項 に 分 かれた決議文書 は残 されてお らず,聖
職者 の署名 を含 む兄弟 団文 書 の みが 残 されて い る とい う状況 ゆえに,実
際 の集会 が どの ような参加 者 を持 って い たのかが明確 に分かつているわ けではない,A.Werminghoff(ed。), ルrGH
Cθπε′′滋 刀:Cοη″J″αθυ′καηι′η′1,Hannover,1906(=MG月l Cθπθ.rf-1), no.13,pp.12f. 年 月 開催地 集会 を指す語 参加者 についての情報 74224 不明 主催 。参加君主 カールマン(ピピンの兄弟)Conc.2 Nr.l concilium et synodus 聖俗の参加者
744 3 エスティンヌ 主催 。参加君主 カールマン(ピピンの兄弟)
Conc.2 Nr 2 synodalis conventus,synodus 聖俗の参加者
744 3 ソワソン 主催 。参加君主 ピピン短躯
Conc.2 Nr.4 synodus vel concilium 聖俗の参加者
748 デューレン 主催 。参加君主 ピピン短躯
大 メッス年代記 placiturn suurn,synodus なし
7515 不明 主催 。参加君主 ピピン短躯
Cap.Nr.13 Rpplru regls capltulare synodus な し
754 3 Brennacus 主催 。参加君主 ピピン短躯 王国年代記 placiturn 大メッス年代記 placitum なし 貴顕・ 家臣 。∼人などとのみ 755 ヴェール 主催 。参加君主 ピピン短躯
Cap.Nr 14 Concilurn vernense synodus,concilium 聖職者のみの集会
757 コンピエーニュ 主催 。参加君主 ピピン短躯
王国年代記 placituln suurn 貴顕 。家臣 。∼人などとのみ
王国年代記(改訂版) populi sui generalis conventus 貴顕 。家臣・ ∼人などとのみ
大メッス年代記 placitum suum 貴顕 。家臣 。∼人などとのみ
Cap.Nr.15 Decreturn Compendiense なし
Conc.2 Nr.1l synodus 聖俗の参加者 761 デューンン 主催・ 参加君主 ピピン短躯 王国年代記 synOdus suus なし 王国年代記(改訂版) generalis conventus なし 大メッス年代記 conventus Francorurn 貴顕・ 家臣 。∼人などとのみ 762 アティニー 主催 。参加君主 ピピン短躯
Conc.2 Nr.13 synodalis conventus 聖職者のみの集会
763 ヌーベル 主催 0参 加君主 ピピン短躯
王国年代記 placitum suum なし
王国年代記(改訂版) conventus なし
カロリング期 フランク王国における王国集会・教会会議 地不明の集会 は「聖職者たち と貴顕たちの同意 とともに」カールマ ンが 開催 してお り
,聖
俗両方の参加者がいた ことが推測 出来 る。2ゝ 744年ソ ワソン集会の決議文書 には,司
教,司
祭,修
道士,フ
ランク人の貴顕の (3の_般
に「ゲルマニア教会会議」 と呼 ばれている集会である。序文並 びに第 1条 において“concilio servOrum Dei et optimatum meorum",`per consilium sacerdotum et optimatum meorum"集 会 を開催 した との文言が見 られ る。た だ しconcilium et synodumに集 め られた とされてい るのは司教 とその配下の 司祭 た ちのみで あ り
,実
際 の集会 の協議 の参カロ者 に俗人が含 まれていたのか どうかは明確 に述べ られていない。■イGttl Cθηθ.〃―I,no.1,pp.2f. 表1:つづ き 年 月 開催地 集会 を指す語 参加者 についての情報 764 ヴォルムス 主催 。参加君主 ピピン短躯 王国年代記 placituln suuln なし王国年代記(改訂版) generalis populi suis 貴顕 。家臣・∼人などとのみ conventus
大メッス年代記 conventus Francorum 貴顕・家臣・ ∼人などとのみ
764 キエルジー 主催・ 参加君主 ピピン短躯
モーゼル年代記 conventus magnus culn Fran‐ 貴顕 。家臣 。∼人などとのみ ロルシュ年代記 conventus magnus cum Fran‐ 貴顕・家臣 。∼人な どとのみ
765 アティニー 主催 。参加君主 ピピン短躯
王国年代記 placitum suum なし
王国年代記(改訂版) generalis populi sui cowentus 貴顕 。家臣・∼人などとのみ
大メッス年代記 conventus なし 766 オルレアン 主催 。参加君主 ピピン短躯 王国年代記 placiturn suurn なし 王国年代記(改訂版) conventus なし 大メッス年代記 conventus Francorurn 貴顕・ 家臣・∼人などとのみ ジャンティイ Annales luvavenses Vita Austremon五 王国年代記 王国年代記(改訂版) 大 メッス年代記 主催 。参加君主 ピピン短躯 synodus magnus synodus magnus conventus,synodus synodus なし 聖俗の参加者 なし なし なし プールジュ 主催 。参加君主 ピピン短躯 王国年代記 in campo synodus 王国年代記(改訂版) conventus in campo 貴顕・ 家臣・∼人などとのみ 貴顕・ 家臣・∼人などとのみ
論 文 同意が与 えられた ことが記載 されてお り
,744年
エスティエ ンヌ集会 に は全ての伯,総
督,司
教,司
祭,助
祭,下
位 の聖職者,修
道院長9修
道 士が集 まった とい うことが明記 されている。 この ように,カ
ピ トゥラ リ ア・ 決議文書か らのみ知 られている集会 には,聖
職者のみの参加が記述 されているもの と,聖
俗貴顕両方が集 まっていることが明示 されている ものの2種
類が見 られ るが,集
会 を表す用語法 においてはそれ らは特 に 区別 されてお らず,す
べてが concilium,synodus,synodalis conventus な どと呼 ばれていている。 叙述史料で言及 され且つカ ピ トゥラ リア・ 決議文書 も残 してい る集会 は,こ
の時期 に関 しては757年コンピエーニ ュ集会 のみである。 この集 会 は王 国年 代 記 とメ ッス年 代 記 で フ ラ ン ク人 が 参 加 した placitumsuumと
呼 ばれてお り,特
に他の集会 と異 なる物 として描 かれてはいな い。 この集会の決議文書 には参加者 についての情報が欠 けてお り,そ
の 成立事情 の詳細 も不明であるが,ほ
ぼ全ての条項が結婚 に関す る問題 を 扱 うものであ り,宗
教的要素が強 く表れた もの となっている。 さらにこ の集会か らは,司
教,修
道院長,聖
職者たちの署名 を持 つ証書 も残 され ている。 ここでは俗人 も証書の内容 に同意 を与 えた ことが述べ られてお り,集
会 の場 に聖職者 も俗人 もいた ことが明 らか になる。3、 ここか ら は,叙
述史料中で「 フランク人の集会」 と呼 ばれているものに も聖俗両 方の参加者が集 まっていた ことが推測出来 るだろう。 さて,同
時代人の聖俗 の集会のあ り方に関す る認識 について考 える際 に興味深い事例 は,767年
ジャンテ ィイ集会 である。 この集会 に関 して は王国年代記や大 メッス年代記 において,聖
画像問題や三位一体 につい 0助 ″Gtt Cοπθ.J」-1,no.11,pp.59-63.こ の集会 はここではsynodusと呼 ば れてい る。カロリング期フランク王国における王国集会・教会会議
145
ての問題 が協議 された と述 べ られていて,宗
教 的問題 が議題 とな った こ とが覗 え る もの の,参
加 者 につ い て の情 報 は見 られ な い。0。 集 会 を指 す 用語 法 に関 して も,王
国 年 代 記 はmagnusと
い う形 容 詞 を付 して は い る もの の他 の集 会 と区別 す る こ とな くsynOdusと して い る。 しか し ここで注 目に値 す るの は,大
メ ッス年代 記 と並 んで,王
国年代 記改訂版 も同 じ くsynodusの語 を この集 会 に用 い て い る こ とで あ る。王 国年代記 の 改 訂 者 は基 本 的 にsynodusや placitumの語 を す べ て “generalis
populi sui conventus"と書 き換 えてお り
,ピ
ピ ン期 に関 して は この集会 に関 してのみsynodusの語 が用 い られ て い るの で あ る。つ。改訂 者 は, この集会 の宗 教 的要 素 の強 さゆ えに
,他
の集 会 と区別 してsynodusと 呼 ぶ こ とを選 んだ もの と思 われ る。 ルイ敬虔 帝時代 に改訂 を行 った改訂 者 に とって,こ
の集会 はその他 の毎年記録 され てい る集会 とは区別 され るべ き もので あった。 しか し興 味深 い こ とに,こ
の集会 には聖俗 両 方 の 参 加者 が いた こ とを示 す史料 も残 され て お り00,参
加 者 に聖俗 貴 顕 両 (30「 この時 ピピン国王陛下 は上述 のヴィラ(ジャンテ ィイ)にお いて聖三位一体 と聖 画 像 に つ い て の大 集 会 を,ローマ 人 とギ リシャ人 の 間 で 開催 した」 “Tunc habuit domnus Pippinus rex in supradicta villa synodun■magnum
inter Romanos et Grecos de sancta′ rrinitate vel de sanctorum ilnaginibus."
ARF,p.24.大
メ ッス年代記 における言及 については本稿註29。(3つ 「東方 と西方の教会 の間で,つま リローマ人 たち とギ リシャ人 たちの間で聖
三位 一体 と聖 画像 に関 す る問題 が生 じた ので,ピ ピ ン王 はジャンテ ィイ の ヴィラにお いて集会 を召 集 し,この 問題 につ い て の教 会 会 議 を開催 した」 “Orta quaestione de sancta Trinitate et de sanctorunl imaginibu§ inter orientalern et occidentaleln ecclesianl, id est Rorllanos et Grecos, rex Pippinus conventu in Gentiliaco villa congregato synodum de ipsa ques‐ tione habuit."4RF,p.25.ただ しここで はcOnventusの語 も用い られてお
り,conventusの内部 でsynOdusが行 われた とも読 め る書 き方 になってい る。 また例年 の集会 に関 してsynodusの語 を用 い る ことが比較 的少 ない大 メ ッス 年代 記 で もこの集会 はsynOdusと呼 ばれ てい る。上 述 の ご と くこの部分 は, 既存 の小 年代記群 を もとに9世紀初 めに編纂 された と考 え られ て い るが
,編
纂時 に元 となった資料 の用語法 の改訂 が行 われたのか どうか について は不明 である。 (30 万滋 ∠πsttπθグJに おいて「 もっ とも輝 か しい司教 たち と多 くの伯 たち」論 文 方 が含 まれ る とい う点 において は
,ジ
ャ ンテ ィイ集会 もその他 の集会 と 異 な って はいなか った とい う こ とが推 演I出来 る。 それ ゆ えに王 国年代 記 の 元々 の 記 述 者 は,こ
の 集 会 も他 の 集 会 も特 に 区 別 す る こ とな く synodusと呼 んで い るので あ るので あ ろ う。 こ こか らは,こ
の集会 をそ れ以外 の例 年記録 されてい る集会 と区別 す るか どうか は完全 に叙述史料 の著者(編者 )ご との主観 に負 って い る とい う こ とが分 か る。 こ こで本節 の分析 か ら明 らか にな った点 を ま とめてお く。 この時期 の 叙述 史料 に現 れ る集会 には基本 的 に聖俗貴 顕 が集 まっていた こ とが推測 出来 るが,叙
述 史料 で は集会 の参加者 が伯,司
教,修
道 院長 な どの聖俗 官職保 有者 らか ら成 って い る こ とは明確 に述 べ られ て いない。 それ に反 して カ ピ トゥラ リア・ 決議文書 中で はその ような参加者 の構 成 が しば し ば明示 され てい る。 この時期 に関 して は,叙
述史料 で言及 され る集会 と 決 議 が残 され てい る集会 の重複 が コ ンピエーニ ュ集会 の みで あ るた め, 一 見 す る と2種
類 の集会 が存在 した か の よ うに思 われ る。 しか し この状 況 は,年
代 記 が集会 の存 在 を毎 年記録 し始 め る時期 が比較 的遅 い こ とか ら説 明可能 で あ る。 カ ピ トゥラ リア・ 決議文書 において聖俗 の参加者 を 持 つ集会 がsynOdusな ど と呼 ばれ て い る こ とは,王
国年代 記 の用語 法 を思 わせ る もので あ り,2種
類 の集会 が存在 した と考 える根拠 はない も の と思 わ れ る。 この時 期 の史 料 に お い て集 会 はsynOdus, conventus, placitum,conciliumな ど様 々 な語 で呼 ばれ うるが,少
な くと も王 国年 代 記 にお い て はsynodusは と りわ け宗 教 的 要素 を強 く打 ち出 して い る 集会 にのみ用 い られ てい るわ けで はない。従 って この時期 には,少
な く“praesules clarissimi et comites innumeri"が 集 まった とい うことが伝 え られ てい る,J.D.Mansi(ed.),3πηttπ Cθηθ′″ο%協 Arθυα五夕″J′SS」zα Cθι‐
ιιθ′″θX″ ,Florenz,1766,p.672.た だ し誤 って他 の集会 の もの とされてい る, W.Hartmann,`Laien auf Synoden',p.258。
カロリング期フランク王国における王国集会・教会会議
147
とも年代記中では「教会会議」 と「王国集会」 という聖俗2種
類 の集会 は基本的に区別 されていない といって良い。 ただ し聖職者のみが集 まった と思われ る集会の決議文書 も2例
のみ存 在 してお り,こ
れ らはその他の例年開催 されている集会 とは別種 の もの と考 えられていた可能性 もある。特 に762年のアティニー集会 は,王
国 年代記がほぼ毎年集会 を記録 し始 めた時期 に当た るに も関わ らず,一
切 の年代記で言及 されていない という点が際だっている。詳細な事情 は不 明であるが,こ
の集会 は年代記で記録すべ き年次の集会 とは別の もの と 考 えられていた可能性 も否定で きない。(2)2
シャルルマーニュの もとでの集会 シャルルマーニュ期 に もほぼ毎年集会が開催 された ことが,年
代記や カピ トゥラ リア・ 決議文書か ら明 らか になってい る(表2)。 ここではそ れぞれの叙述史料 ごとの傾向を検討 した上で,複
数の史料で言及 され る 集会 を分析 し,こ
の時代の集会 のあ り方 とその認識の され方について明 らかにす る。 ○王国年代記 既存の記録 をもとに編纂 された とされている788年までの部分 に関 し ては,ピ
ピン期 の集会 の分析か ら得 られたイメージが継続 して現れてい る。 ほぼ毎年synOdusな い しplacitumが開催 された ことが伝 えられて お り,参
加者 について も「 フランク人」な どとのみ述べ られていて,聖
職者が出席 していたのか どうか についての情報 は見 られ ない。つ。唯一 (3つ 777年パーダーボルンにはフランク人,ザ
クセン人,ヒ スパニア各地から来 たサ ラセ ン人が,788年イ ンゲルハ イムにはフランク人,バ
イエル ン人,ラ ン ゴノシレド人,ザ
クセ ン人が参加 した と述べ られている。4RF,p.48,p.80.148
論 文 表2:シャルルマーニ ュの もとでの集会 年 月 開催地 集会 を指す語 参加者 についての情報 768 不明 カール大帝伝 大メッス年代記 主催 。参加君主 シャルルマーニ ュ, generalis conventus placitum カールマ ン(シャルルマーニ ュの兄弟) 貴 顕 。家 臣 。∼ 人 な ど との み 貴 顕・ 家 臣・ ∼ 人 な ど との み 769 モンコントゥール 主催 。参加君主 シャルルマーニュ, 王国年代記 王国年代記(改訂版) 大メッス年代記 カールマン(シャルルマーニュの兄弟) なし なし なし colloquium colloquium 770 ヴォルムス 主催 。参加君主 シャルルマーニュ 王国年代記 SynOdus なし王国年代記(改訂版) populi Sui conventus generalis貴顕・ 家臣・∼人などとのみ
大メッス年代記 SynOdus なし なし なし ヴァランシエンヌ 主催・参加君主 シャルルマー 王国年代記 synOdus 王国年代記(改訂版) generalis conventus 王国年代記(改訂版) 大 メッス年代記 generalis conventus synodus なし なし なし ヴォルムス 主催 。参加君主 シャルルマー 王国年代記 SynOdus 772 貴顕・ 家臣・∼人 などとのみ 貴顕 。家臣 。∼人などとのみ ヴェーザー河畔 主催・ 参加君主 シャルルマーニュ
E国 年代記 placiturn curn Saxonibus 大メッス年代記 placitum curn Saxonibus
773 ジュネーヴ 主催・ 参加君主 シャルルマーニュ モワサク年代記 SynOdus,conventus 貴顕・ 家臣・∼人などとのみ 王国年代記 SynOdus 貴顕・家臣・∼人などとのみ 大 メッス年代記 SynOdus,conventus なし 775 デューンン 主催・ 参加君主 シャルルマー 王国年代記 SynOdus 王国年代記(改訂版) generalis conventus なし なし ヴォルムス 王国年代記 王国年代記(改訂版) 主催 。参加君主 シャルルマーニュ synodus,placiturn publicurn なし conventus なし 777 パーダーボルン Annales luvavenses モーゼル年代記 モワサク年代記 ロルシュ年代記 王国年代記 貴顕 。家臣・∼人 などとのみ 貴顕 。家臣・ ∼人などとのみ 貴顕 。家臣・ ∼人などとのみ 貴顕 。家臣 。∼人などとのみ 貴顕 。家臣 。∼人 などとのみ 主催 。参加君主 シャルルマーニュ conventus lnagnus
conventus Francorum, id est
Magiscampurn
conventus maximus Francor‐ urn,id est Mag五 campus
conventus Francorlm, id est
Magiscampus
カロ リング期 フランク王国における王国集会・ 教会会議
149
表2:つづ き
年 月 開催地 集会 を指す語 参加者 についての情報
王国年代記(改訂版) generalis populi sui conventus 貴顕・ 家臣・ ∼人などとのみ 証書 synOdalis conciliurn 聖職者 に言及(詳細不明) 大メッス年代記 cOnventus Francorum, 貴顕 。家臣・∼人などとのみ placitunl,synodus 779 デューレン 主催 。参加君主 シャルルマーニュ 王国年代記 synOdus なし 王国年代記(改訂版) generalis conventus な し 大メッス年代記 conventus Francorurn, 貴顕 。家臣・ ∼人などとのみ placiturn 779 3 ヘ リスタル 主催 。参加君主 シャルルマーニュ
Cap.Nr20 Caltulare Hanstalense synodale concilium 聖俗の参加者
780 リッペ河畔 主催 。参加君主 シャルルマーニュ 王国年代記 synOdus な し 780? 不明 主催 。参加君主 シャルルマーニュ Conc.2 Nr.18 聖職者のみの集会 主催・ 参加君主 シャルルマーニュ magnus Francorum conventus,Magiscampus
colloquium, magnus Francorum
conventus,id est Magiicampus
貴顕 。家臣 。∼人などとのみ 貴顕・ 家臣・∼人などとのみ 貴顕・家臣・∼人などとのみ ヴォルムス モーゼル年代記 モワサク年代記 王国年代記 781P マン トヴァ 主催 。参加君主 シャルルマーニュ Cap Nr90 Capitulare Mantuanuln placitum generale なし
ヴェーザー河畔 モーゼル年代記 モワサク年代記 ロルシュ年代記 王国年代記 王国年代記(改訂版) 大メッス年代記 主催・ 参加君主 シャルルマーニュ
conventus magnus exercitus 貴顕 。家臣
conventus magnus exercitus 貴顕・ 家臣
conventus magnus exercitus 貴顕 。家臣
synodus,placitun■ 貴顕・ 家臣
generalis conventus 貴顕 。家臣 generalis conventus Francor― 貴顕・家臣 貴顕・ 家臣 ∼ 人 な ど との み ∼ 人 な ど との み ∼ 人 な ど との み ∼ 人 な ど との み ∼ 人 な ど との み ∼ 人 な ど との み ∼人 な ど との み 0,Nr26 Qpltta」O de pa面bus助ⅨOdae
782-787 不明 主催・ 参加君主 ピピン(シャルルマーニュの子)
Cap.Nr.91R口‖IねHae reJS Ca口mlare 聖俗の参加者
パーダーボルン 主催 。参加君主 モーゼル年代記 placituln モワサク年代記 placiturn シ ャル ル マ ー ニ ュ 貴顕 。家臣・ ∼人などとのみ 貴顕 。家臣・ ∼人な どとのみ
論 文
表2:つづ き
年 月 開 催 地 集会 を指す語 参加者についての情報
ロルシュ年代記 placituln 貴顕・ 家臣・∼人などとのみ
王国年代記 SynOdus publicus なし
王国年代記(改訂版) publicus populi sui conventus 貴顕 。家臣・ ∼人などとのみ
大メッス年代記 cOnventus Francorurn 貴顕・ 家臣・ ∼人などとのみ 786 ヴォルムス 主催 。参加君主 シャルルマーニュ モワサク年代記 SynOdus episcoporum ac 聖俗の参加者(分離) conventus magnincus ロルシュ年代記 SynOdus episcoporum et 聖俗の参加者(分離) conventus magnincus 王国年代記 SynOdus なし 787 ヴォルムス 主催 。参加君主 シャルルマーニュ 王国年代記 SynOdus 聖俗の参加者
王国年代記(改訂版) generalis popuH suis 貴顕 。家臣・∼人などとのみ
conventus 大 メッス年代記 COnventus Francorurn 貴顕 。家臣・ ∼人などとのみ インゲルハイム モーゼル年代記 モワサク年代記 ロルシュ年代記 王国年代記 王国年代記(改訂版) 大メッス年代記 参加君主 シャルルマーニュ placiturn suuln なし conventus Francorum ceterar‐ 貴顕 urnque nationum
conventus Francoruln ceterar‐ 貴顕
umque nationum(conventus
seu s)modus) synodus
generalis populi sui conventus
generalis conventus Francor-um, synodus 家 臣 。∼ 人 な ど との み 家 臣・ ∼ 人 な ど との み 家 臣・ ∼ 人 な ど との み 家 臣・ ∼ 人 な ど との み 家 臣・ ∼ 人 な ど との み 主 催 貴顕 貴顕 貴顕 790 ヴォルムス 主催 。参加君主 シャルルマーニュ モーゼル年代記 placiturn,conventus 貴顕・ 家臣 。∼人などとのみ モワサク年代記 COnventus なし ロルシュ年代記 COnventus なし 大メッス年代記 COnventus Francoruln 貴顕 。家臣・∼人な どとのみ 792 レーゲンスプルク 主催 。参加君主 シャルルマーニュ Annales luvavenses synodus magnus なし
ザ ンク トエメラム年代記 synOdus なし
モーゼル年代記 貴顕 。家臣・∼人などとのみ
モワサク年代記 COnventus Francorurn et alior‐ 貴顕・ 家臣 0∼ 人 などとのみ
uln ndeliurn suorurn
ロルシュ年代記 COnventus Francorurn et alior‐ 貴顕・ 家臣 。∼人 などとのみ uln ndelium suorum
王国年代記(改訂版) episCOporurn conciliuln 聖職者のみの集会
793 年初 レーゲンスプルク 主催 。参加君主 シャルルマーニュ
カロリング期 フランク王国における王国集会・ 教会会議
エメ 表2:つづ き
年 月 開催地 集会 を指す語 参加者 についての情報
ロルシュ年代記 conventus 聖俗の参加者
794 フランクフル ト 主催 。参加君主 シャルルマーニュ
Annales luvavenses rnagna synodus なし
クサンテン年代記 synOdus magna curn omdbus 聖職者のみの集会
episcopis Ganiae et ltaliae
ザンク トエメラム年代記 synOdus なし
モーゼル年代記 synOdus なし
モワサク年代記 universalis synodus 聖俗の参加者 ロルシュ年代記 universalis synodus 聖俗の参加者
王国年代記 synOdus magna 聖職者のみの集会
王国年代記(改訂版) generalis populi sui conventus, 聖俗の参加者(分離) concilium episcOporum ex
omnibus regni sui provinciis, synodus
大メッス年代記 synOdus magna 聖職者のみの集会
Conc.2 Nr.19 synodale conciliurn 聖職者のみの集会
コス トハイム 王国年代記 王国年代記(改訂版) 大メッス年代記 主 催 。参 加 君 主 シ ャル ル マ ー ニ ュ placitum suum conventus generalis placituln suum なし なし なし 797 10 アーヘ ン 主催 。参加君主 シャルルマーニュ サンタマン年代記 concilium 聖職者のみの集会
Cap.Nr 27 Capittare saxoniCurn 聖俗の参加者
799 リッペ河畔 主催 。参加君主 シャルルマーニュ 王国年代記(改訂版) generalis conventus なし 800 トゥー ル ー ズ 主 催 。参 加 君 主 シ ャル ル マ ー ニ ュ モ ワサ ク年 代 記 magnum concilium et 貴 顕 。家 臣 。∼ 人 な ど との み conventus populi 800 8 マインツ 主催 。参加君主 シャルルマーニュ モワサク年代記 synOdus,conventus episcopor‐ 聖俗の参加者(分離) urn vel abbaturn
ロル シュ年代記 貴顕 。家臣・∼人などとのみ
12 ローマ モワサク年代記
ロルシュ年代記
主催 。参加君主 シャルルマーニュ
conventus maximus epis―
coporun■ seu abbatunl cum
presbyteris et diacOnibus et comitibus, seu reliquo pOpulo
christiano
conventus maxilnus epis‐ cOpOrunl seu abbatuln curn presbyteris, diaconibus et comitibus seu reHquo chris‐ tiano populo
800
聖俗の参加者
1,2
論 文'
表2:つづ き 年 月 開 催 地 集会 を指す語 参加者についての情報 801 秋 アーヘ ン 主催 。参加君主 シャルルマーニュ 大メッス年代記 cOnventus Francorum 貴顕 。家臣・∼人などとのみ 801-810不明主催 。参加君主 ピピン(シャルルマーニュの子)
Cap Nr102 Rpメ面capituLtt i腱‖culn placiturn suurn 貴顕 。家臣・∼人などとのみ
802 10P アーヘ ン 主催 。参加君主 シャルルマーニュ
Annales luvavenses prima synodus examinationis 聖職者のみの集会
サンタマ ン年代記 COncilium 聖俗の参加者 モワサク年代記 universalis synodus 聖俗の参加者(分離) ロルシュ年代記 universalis synodus, 聖俗の参加者(分離) conventus 主催 マインツ モワサク年代記 ロルシュ年代記 証書 大メッス年代記 。参加 君 主 シ ャル ル マ ー ニ ュ conventus conventus conventus regalis conventus,placituln な し なし なし 貴顕 。家臣・ ∼人などとのみ 803 レーゲンスプルク 主催・ 参加君主 シャルルマーニュ 大メッス年代記 COnventus な し 804 リッペ河畔 主催 。参加君主 シャルルマーニュ
大メッス年代記 generalis conventus Francor― 貴顕 。家臣 。∼人などとのみ
806 ネイメヘン モワサク年代記
主催 。参加君主 シャルルマーニュ
Cap.N■ 46 Caメma面ulnlm Ningae dam
conventus
magnus
rr L/rL
806 2 ティヨンヴィル 主催 。参加君主 シャルルマーニュ
王国年代記(改訂版) COnventus 貴顕 。家臣 。∼人などとのみ
Cap.Nr.45 divisio regnoruln なし
807 イングルハイム 主催 。参加君主 シャルルマーニュ
モワサク年代記 COnventus suus 聖俗の参加者
809 不明 主催 。参加君主 シャルルマーニュ
王国年代記(改訂版) COnventus comitum imper― 俗人のみの集会 atoris atque suorunl, cono‐
qululn
809 11 アーヘン 主催 。参加君主 シャルルマーニュ
Annales luvavenses cOncilium なし
クサンテン年代記 COncilium episcoporum 聖職者のみの集会
magnuln
カロ リング期 フランク王国における王国集会・ 教会会議 表2:つづ き
年 月 開催地 集会 を指す語 参加者 についての情報
811 アーヘン 主催 。参加君主 シャルルマーニュ 王国年代記(改訂版) placitum generale なし
Cap.Nr.71 Capitula tractan― 聖俗の参加者(分離)
da curn conlitibus episcopis et
abbatibus
Cap.Nr.72 Capitula de causis 聖職者のみの集会
cum episcopis et abbatibus
tractandis
Cap.Nr 73 Capitula de rebus なし excercitalibus in placito tractanda 812 アーヘ ン 主催 。参加君主 シャルルマー クサンテン年代記 colloquiurn 王国年代記 (改訂版) generalis conventus なし なし 813 アーヘン 主催 。参加君主 シャルルマーニュ モワサク年代記 cOnciliuln magnuln 聖俗の参加者 王国年代記(改訂版) generalis conventus なし 813 複数箇所 主催 。参加君主 シャルルマーニュ モワサク年代記 synodus なし 王国年代記(改訂版) cOndliurn 聖職者のみの集会 小 ロルシュ年代記フルダ写本 synOdus 聖職者に言及(詳細不明)
Conc.2 Nr.34 cOnventus, cOetus, conciliunl, 聖俗の参カロ者 (分離)
synodus 813 9 ア ー ヘ ン 主 催 。参 加 君 主 シ ャル ル マ ー ニ ュ モ ワサ ク年代 記 placitum,conventus magnus 聖 俗 の参 加 者 populi 王 国 年 代 記 (改訂 版) cOnventus な し 」ヽロル シ ュ フル ダ写 本 placitum magnum な し の例外 は787年ヴォル ムスの
synodusで
あ り,そ
ニュが聖職者 と貴顕 に対 して遠征の成果を報告 した る。8、 794年 以降 と788年までの部分の接合時 にま こで は シ ャル ル マ ー こ とが伝 え られ て い とめ て作 成 され た と0彼
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論 文 されている788-793年の部分 は,年
代記の叙述 自体 が極 めて簡潔 になっ てお り,一
切の集会 を伝 えていない。794-801年についての記述 は同時 代 に記録 された とされ てい るが,788年
までの記述 か ら大 き く様 式が 変 ってお り,毎
年の集会 を記録す ることをやめている。 この時期 に関 し て伝 え られてい るの は794年の フラ ンクフル トsynodusと 795年の コ ス トハ イムplaciturnの みで あ る。なお,776年
ヴォルムス集会 と782 年 ヴェーザー河畔集会がsynOdusと placitum両方の語で指 し示 されて いることか ら,王
国年代記 においてはこの2つの語 は相互 に交換可能 な もの として理解 されていると考 えて良いだろう。 ○モーゼル年代言33" モーゼル年代記ではピピン期 について1つ,シ
ャルルマーニ ュ期 につ いて8つの集会が伝 えられてい る。集会 を指す用語 として,conventus
(magnus)Francorumが 3度 ,placitumが 3度 ,synOdusが 1度
現 れてい る。790年ヴォルムス集会 が placitumと corlventusの両 方 の語 で 呼 ばれていることか ら
,synodusの
みが異なる種類の集会 として考 えら れていることが推測 出来 る。conventus Francorumや conventus cum
Francisと いったスタイルは782年を最後 に現れな くなる ものの,こ
れ は786年以降 とそれ以前の執筆者が異なっていることに由来す ると考 え られ,集
会の構造の変化 を反映 している とは思われない。参加者 の情報 (39 モーゼル年代記Annales Mosellaniは 703年か ら798年まで の出来事 を記 録 す る比較的簡潔 な年代記 であ り,785年までの内容 はロルシュ年代記 とほぼ 一致 している。786/787年の記述 は欠 けていて,788年以降 の記述 は現在残存 してい る写本 において は出来事 が1年ずれ て記録 されて い る。 なお本 稿 の表 で は,788年以降のずれ は修正 してい る。786-798年の部分 はほぼ確実 に同時 代 的 に叙述 された と考 え られてい る。J.M.Lappenberg(ed.), ″GH, SS
XW,Hannover,1859,pp.491-499。 この史料 に関 してはW.Levison and H.カロリング期フランク王国における王国集会・教会会議
エララ は「彼 の軍」 (782年 ヴェーザー河 畔)や「 フ ラ ンク人 とザ クセ ン人」 (785年 パーダーボ ル ン),「フ ラ ン ク人」 (764年 キ エ ル ジー
,777年
パ ーダーボル ン,781年
ヴォルムス,790年
ヴォルムス)とのみ伝 えられ てお り,聖
職者 の参加や司教・ 伯 な どの官職保有者の参加 についての情 報が見 られない とい う点では,王
国年代記 と類似 している。以下で述べ るように794年フランクフル ト集会 においては,聖
俗 の参加者が別々 に 協 議 した ことが他 の史料 か ら分かってい る ものの,モ
ーゼル年代記 は synodusの語で他の集会 と区別 しつつ も参加者 についての情報 を一切伝 えていない。 ○ ロルシュ年代言340 ロル シュ年代記ではピピン期 については1つ,シ
ャルルマーニ ュ期 に つ いて は13の集会 が伝 え られ てい る。793年まで の時期 に関 して は, 集会の参力日者の情報 は「 フランク人」な どとのみ伝 えられてお り,唯
一 786年ヴォルムス集会のみが聖俗 の参加者 による並行協議 を推測 させ る 書 き方 になっている。793年のレーゲ ンスブル クcOnventusの叙述 にお いて初 めて,「司教,修
道院長,伯 ,他
の家臣」が参加 した と記 されて いて,聖
俗 の官職保有者 の出席が強調 されてい るC41ゝ さらに,同
時代 (4の ロル シュ年代記Annales Laureshamensesは 785年 まで はモーゼル年代記 とほぼ一致す る内容であるが,786803年まで同時代的に継続 されていて,王 国年代記 に見 られ ない独 自の叙述 を多 く含 んでいる点で貴重 な史料 とされ て い る。本稿ではペル ツの版 を使用 した,G.H.Pertz(ed.),■イGH∬
」,Han― nover,1826,pp.2239。 この史料 に関 してはW.Levison and H.Lёwe(eds.),DθπおθカルηグsG“θ力た力おαπιJルπ〃,pp.187f.
(41)「その冬再 び国王 はレーゲ ンスブル クで集会 を開催 した。そ して彼 と共 にそ
こに出席 していた彼 の家 臣た ち,司教,修道院長,伯た ち とともに…」“Ips。
hieme iterurn fecit rex cOnventunl apud Reganesburug; et cun■ cognovisset fldeles suos,episcopos, abbates et colnites,qui cun■ ipso ibi aderant,¨。 '',
論 文 の叙述 とされ る794年以 降の部分 で は年代記 のスタイルが変化 してお り
,基
本的に毎年の集会 を伝 えることをやめているものの,集
会 を伝 え る場合 には司教,修
道院長,司
祭,伯
な どと官職保有者の出席 を強調す る形 で参加 者 を叙述 してい る点 が注 目に値 す る “幼。 さ らに802年の アーヘ ン集会 に関 しては,聖
俗 の参加者が別々 に協議 を行 った ことが詳 細 に描 かれ てい る “の。集会 を指す用語 としては,基
本 的 に conventus が用い られてお り,synOdusの
語 は,宗
教的要素が強い794年フランク フル ト集会 と,786年
ヴォルムス集会0802年
アーヘ ン集会 の聖職者 に よる部会部分のみを指 して用い られている。ただ し802年アーヘ ン集会 で は聖 職 者 に よ る部 会 が conventusと も呼 ば れ て い る こ とか ら, synodusは宗教的要素 の強い集会 を指 し,conventusは
集会一般 を指す ニ ュー トラルな概念 として用い られているとも考 えられる。 ク年代記 に も共通 して見 られ る GoH.Pertz(ed.),ノ)イGI SSr,p.300. (42)794年 フランクフル ト集会 には,「彼 の王 国の全 ての大 司教 を,司教,修道 院長,さ らには多 くの司祭 と助祭並 びにその他 の熱心 な人々 とともに」集 め た1と2らり “omnes archiepiscopos in regno suo cum episcopis et abbatibusseu etiarn qualn plurilni presbyteri et diaconi cunl reliquo devoto populo",
800年ローマ集会 は「司教,修道院長並 びに司祭,助祭,伯,その他のキ リス ト教徒 たちの大集会」“conventus ma対 mus episcoporum seu abbatum cum
presbyteris,diaconibus et corllitibus seu reliquo christiano populo" とさオし
てい る, G.H.Pertz(ed。),ルκ】I SSf,p.36,p.38.
(4の 「10月 に皇帝 は上述 の場所 で普遍 的 な教会会議 を召集 し,そ こで司教,司
祭,助祭 た ち に …・」“Et mense Octimbrio congregavit universalem synodum in iam nonlinato loco,et ibi fecit episcopos cum presbyteris seu
diaconibus.¨",「 …同 じように彼 は,出席 していた全 ての修道院長 と修道士 を その教会会議 に集 め…」“… Similiter in ipso synodo congregavit universos
abbates et monachos qui ibi aderant.¨ ",「そ して皇帝 自身が この教会会議 の 間 に,大公,伯,そ してその他 のキ リス ト教徒 たちを法 に明 るい者 た ち とと もに集 め…・」“Sed et ipse imperator,interim quod ipsum synodum factum
est,congregavit duces,coIIliteS et reliquo christiano populo cum legislator‐
ibus.¨",G.H.Pertz(ed.),ル「GH Sf,p.39。 この内容 はモワサ ク年代記 に も