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小学校国語科表現教育についての研究 : 児童詩の系統的指導を中心に

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(1)九九八︵平成一〇︶年度  兵庫教育大学大学院学位論文. 小学校国語科表現教育についての研究    −児童詩の系統的指導を中心に一. 教科・領域教育専攻. 言語系︵国語︶コース. M九七四一四F.     谷口 美佐子.

(2) はじめに.  ﹁詩は魔法みたいやなあ﹂とは、私が以前受け持った小学校二年生の子どもが発したことばである。﹁詩は一. 行にいっぱい詰まっていて、 ︸行からいっぱい考えることができるから。﹂まさしく魔法だと言うのである。.  私たちの身のまわりでは、日々刻々と様々な事件や出来事が起きる。その中で、喜んだり、悲しんだり、時. には怒ったりなど、多様な感情が湧き起こる。子どもたちのまわりでも、様々な事件や出来事が起こっている。・.  子どもたちが、﹁無気力﹂﹁無感動﹂﹁無関心﹂になったと言われて久しい。感情を表に出さないとも言われて. いる。実際に、私がこれまで接してきた子どもたちも、自分の思いや考えを表に出さない、どのように表現した. ら良いかわからないということが多かった。そのような子どもたちに、自分の身のまわりを凝視して、発見や感 動を表現することができるようになってほしいと考え続けてきた。.  私の勤務する学校において、詩の鑑賞に全校で取り組んだ折り、数多くの詩に出会った。詩との出会いの中. で、﹁詩は魔法みたいやなあ﹂ということばが生まれたのである。詩に触れることを奨励する一方で、私自身、. 子どもたちに﹁詩を書かせたい﹂と思い、子どもたちも﹁詩を書きたい﹂と言うようになった。そこで、詩の創 作に取り組み始めたが、どうずれば書くことができるのかと思い悩む日の連続であった。.  ﹁詩は心の表出である﹂と言われたり﹁児童詩は.子どもの叫びである﹂﹁子どもの感動の表出である﹂と言われ. たりする。しかし、子どもたちが自分の心の中を表出できるようにするためにはどのようにすれば良いのか、そ の手立てを探求しなければならない。.  また、自分が感じたこと、考えたこと、自分の思いを表現することによって、子どもたちが、自分を取り巻く. 人間関係を豊かにしていこうとする姿勢を持つようにもしたい。個々の思いを知り、理解することによって、自. 分を見つめ直し、自分を取り巻くまわりとともに高め合えるようにするためにも、児童詩を大切にしたいと思う。.

(3)  はじめに. 目. 次. 序 章  児童詩の系統的指導と自己実現. 第一章  児童詩の系統的指導と基本的要因.  第↓節  基本系列とその内的要素 −−−.  第二節  基本系列を取り巻く要因 −−−. 1. 一. 1. 四. 四. −二︸. 児童詩指導と詩的系統性.  第一節  詩的系統性における指導事項と内容. 二六. 第二章.  第二節  詩的系統性における﹁意識﹂ −−−.

(4) 第四節  詩的系統性における﹁表現﹂− −−−. 第三節  詩的系統性における﹁思考﹂と﹁心象﹂. 四四. ⊥二五. −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−五二. 児童詩指導と教育的系統性.  第 節  児童詩指導における﹁自己表出﹂. − − − − − − − − − − − − − − − − − − − −六一. 第三章.  第二節  児童詩指導における﹁想像﹂ −. −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−七〇. 七九.  第三節  児童詩指導における﹁現実認識﹂ と﹁表現意識﹂. 終 章  児童詩の系統的指導のまとめと課題.  おわりに. ︽資料編︾.

(5) ※引用資料中の傍点は、原文のままである。.

(6) 序章. 児童詩の系統的指導と自己実現.  現代においては、目まぐるしいほどに社会情勢が変化する。情報化、国際化が言われ、環境問題、高齢化・少. 子化などの問題が取り上げられている。激しく変化する社会にあって、教育がゆれている、学校がゆれていると. も言われている。これからの二十一世紀に生きる子どもたちに、どのようなカを身につけさせるのかを問われて いるのである。.  中央教育審議会の答申において、﹁生きる力﹂を育むことが重視され、﹁自ら考え、主体的に判断し、行動し、. よりょく問題を解決する資質や能力﹂﹁自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心. など、豊かな人間性﹂が重要な要素として挙げられている..つまりは、自己のカを発揮し、自ら生きる、自己実. 現へ向けて、子どもたちを導くことが教育に求められているのである。一人ひとりが、自ら学び、考え、豊かな. 人間性を備え、自分を発揮しつつ生きていくカを身につけさせなければならない。そのためには、自己を表現す るカをつけることが大切であると考える。.  また、いじめ、不登校、凶悪化する青少年の犯罪など憂慮すべき状況の中、心を閉ざしてしまっている子ど. もがいる。自分の心の中とは裏腹の荒々しいことばを遣ったり、粗暴な行動をとる子どももいる。そのような子. どもたちの心の扉を開き、子どもたちの心の声を聞きたい。心の内なるものを表出し、自分を表現できる子ども. たちにしたい。表現することによって、自分一人ではなく他人を認め、互いに認め合うことができるようにした. い。それが、教育の根底にあるべき子ども理解につながり、自己実現へ向かうものと信じるからである。そのよ. うなことから、自己実現へ向けて自己表現力をつけなければならないと思う。その自己実現への基軸として、児. 童詩を取り上げたい。なぜなら、児童詩においては、心の中を表現し、その一言一言に込めた思いが大きく意味 を持つものとなるからである。. 1.

(7)  児童詩教育は、豊かな感受性や鋭い感覚を培い、創造性を育むものである。児童詩を通して、一人ひとりの. 子どもに、ものの見方、感じ方、考え方を広げ、深めていきたい。直感力、観察力、創造力などを鍛え、子ども. たちを、感性と知性との調和とバランスを持った人間として育んでいきたい。また、表現する中で語感を磨き、. 豊かな語彙とことばに対する鋭敏な感覚を養い、言語生活を確かなものにしていきたいとも願っている。.  だが、子どもたちに﹁心の中をそのまま書きましょう。﹂と言ってもすぐに書けるものではない。﹁思ったこ. とを思ったように﹂と言っても無理である。何らかの手立てがなされなければならない。そこには、子どもたち. の発達に即した系統だった指導が必要となる。感性を磨く場、磨かれた感性を表現する場、真実を叫ぶ場があり、. 活動方法が分からなければならない。心身の発達を遂げていく子どもたちに、暫定的な指導では表現するカを身 につけることはできないからである。.  本研究では、畑島喜久生の児童詩創作指導系統を中心として、他の実践者との比較を交えながら考察し、児 童詩の系統的指導のあり方を探ってきたい。.  畑島喜久生︵一九三〇︿昭和五V∼︶は、東京都内の小学校において、四〇年間、子どもたちに詩を書かせ、. 児童詩教育に心血を注いでおり、現在最も著名な児童詩教育実践家の︸人である。また、児童詩教育専門誌﹁現. 代児童詩﹂︵資料編二一∼四七ページ参照︶を主宰し、数多くの論考を発表、理論構築の推進に努めている。さらに、. 児童詩教育著書のみならず、﹁子ども本位の教育﹂を根底に、教育関係著書も手がけている研究者である。︵資料 編﹁六∼二〇ページ参照︶.  ﹁現代児童詩﹂において、弥山菅一が﹁現代児童詩﹂を﹁新しい世界﹂︵注と述べている。すなわち、畑島喜. 久生の児童詩教育観は、従来の児童詩教育観の一般的な考え方の上に立ちながら、さらに新しい児童詩教育の世. 界を築き上げようとするものと弥吉菅一は捉えているのである。まさしく、これからのあるべき児童詩教育を指 し示すのが畑島喜久生の児童詩教育観であろう。. 2.

(8)  児童詩教育の実践からは、子どもを中心に据え、子どもから出発することを重点に置いた姿勢をうかがい知. ることができる。子ども理解に力を注ぎ、常に子どもの”いま”に必要な教育のあり方を探っているものと思わ れる。.  本稿では、児童詩の系統的指導を、次のように考えていくこととする。.  第一章では、系統的指導の基となる基本系列を明らかにすることにした。小学校の六年間を大きく低学年・ 中学年・高学年と分け、基本系列の考えの基盤とそこに付加される要因を探る。.  第二章では、児童詩も一つの﹁詩﹂であるということを踏まえ、詩的系統性を考える。詩的系統性とはどのよ. うなものか、その概念とともにその内容についても考察する。つまり、系統性を小学校一年から六年までの縦の つながりから見ていこうとする。.  第三章においては、児童詩は、学校教育として行われるという観点に立ち、教育的側面から系統性を考える。. 発達段階に促しながら、どのような順序を追って、いかに児童詩指導が行われるべきかを探求する。つまり、系 統性を横のつながりという視点から考えようとする。. ﹁擾鼻琶の立鼻︵﹁現代児重詩﹂第二次NO.7一九八八く昭和六一一▽年︸○月一旦 七ページ.  以上のような構成から、自己実現をめざした児童詩の系統的指導の一つの道筋を明らかにすることを試みた。. 窪︶序章 弥工暑二. 3.

(9) 第一章 児童詩の系統的指導と基本的要因 第一節 基本系列とその内的要素.  小学校における児童詩指導の系統化を考えるには、基本となるものが必要となる。何をもとに児童詩の系統. 化を考えるかということである。その基になるものを基本系列とする。基本系列の根底に流れるものは、子ども. の発達段階である。なぜなら、日々成長していく子どもたちが、どのような段階にあって、その段階では、どの. ような指導が必要かを捉えなければならないからである。基本系列について、畑島喜久生が述べていることから 考 え て い きたい。.  畑島喜久生は、基本系列を﹁守る←放つ←創る﹂としているつこれは、低学年が﹁守る﹂、中学年が﹁放つ﹂、 高学年が﹁創る﹂ということである。.  この﹁守る←放つ←創る﹂について、その概要を畑島喜久生は、次のように述べている。                      ママ    低学年児を守るとは、いまある子どもの始源的ないのちのみずみずしさ︵感覚︶を守るということである。.   伝統的な白秋的感覚詩への防壁というより、︿創る﹀ことを目指した、飛躍のためのジャンピング・ボード.   としてである。したがって、現実も非現実も、事実も虚構も、空想も想像も、すなわち主客未分化︵自己中.   心的︶な子どもの包み込んでいる心的内容が、その時の教育、教材内容のすべてになる。.    やがて、いくらかの現実の見えはじめる中学年児を︿放つ﹀。放つことを足場に事実が事実のように見え.   はじめている目に、事実を見させる︵写実させる︶。新しい世界をひらかせるためのレディネス作りとして、.   また教育とは、終局その入間を放つことでもある。写実を間においた解放のための解放である。.    ︿創る﹀。小学校生活のしめくくり、総仕上げという単純な区切りの意味においてではない。論理的、抽. 4.

(10)   象的な思考の叶いはじめる高学年児をおとなの世界にちかづける。獲得した瞬間から錆びつこうとする理性.   日概念を具象的な形象世界にひきもどす。﹁表現﹂への接近のまえに、まず未熟な表現活動を通すことで、.   いいあらわしがたい﹁顔﹂つきに気づかせるのだ。創造行為とは、そこでの認識に生きた血を通わせること、   直観、感覚、感性によって行なわれる認識の先取り行為としてである。窪一︶.  ﹁守る﹂とは、低学年の子どもたちが持っている感性、ナイーヴな感性、つまりは、一般化、概念化されてい. ない感覚を﹁守る﹂ということである。低学年の子どもたちは、現象に対して感じたことをそのままに表す。そ. の表したことを概念で判断してはいけない。ここでいう﹁白秋的感覚詩﹂とは、北原白秋が﹁子どもは生まれな. がらに詩人である﹂と言い、子どもの感覚を絶賛したことから始まる詩を意味するものと思われる..﹁伝統的な. 白秋的感覚詩への防壁としてというより﹂としていることから、﹁白秋的感覚詩﹂を否定しているのではなく、. 自然発生的な子どものことばばかりになることを否定しているものと理解できる。畑島喜久生は、感覚よりも﹁創. る﹂ということを目標においているのである。高学年では、概念化が拍車をかけ、物事を型にはめてしまう傾向. にある︵︶学習するということは、概念を形成することでもある。学習が進めば進むほど概念が形成される。以上. から、そのことを見越して、低学年のまだ概念化が進んでいない感覚をそのまま守ろうということである。子ど. もが、自分なりに認識していることによって持つイメージを守ると考えることができる。子どもが捉えたものを. ↓般化して、概念でグループ化するのではなく、その子どもが捉えたそのままを大切にするということである。. 一般的には、犬の鳴き声は、ワンワンとされているが、犬はワンワンと吠えなくてもよいのである。.  中学年における﹁放2とは、低学年で守ってきた感性を﹁解放﹂するという意味である。低学年では、まだ. 現実を見る目が育っていないことから、現実を見ることよりもまず、感覚を大切にする。それが、中学年になる. と、﹁事実が事実のように見えはじめる﹂としている。現実を直視する目が育ってきたからである。だからこそ、. ﹁事実を見させる﹂ことが可能になるのである。解き放つことによって、しっかり事実を見させることができる. 5.

(11) のである。.  高学年での﹁創る﹂とは、まさしく創造である。概念の獲得は進むが、それはすぐに﹁錆びつ﹂いてしまう。. 獲得した概念から、新しいものを創り出すことができない。いつまでもその概念に縛られているからである。そ. こで、得られた概念を具体的な世界にもどして、表現にむすびつけることを指導する。具体的な世界にもどすこ. とによって、概念化される前の姿に気づかせたり、思い起こさせたりする。すなわち、概念化されたものを具体. 的なものにもどすことが、創造へつながるものと捉えられる。高学年において﹁創る﹂が行われるために、低学 年での﹁守る﹂があり、中学年での﹁放つ﹂がある。  基本系列を﹁見る﹂という観点から捉え、さらに考察したい。.  畑島喜久生が、﹁守る←放つ←創る﹂のコースを﹁見る﹂という観点から示した内容をまとめると、次のよう になる。.    守る︵低学年︶巨目をつぶってみえないものを見る︵みえるものを見えなくする︶一知的写実主義    放つ︵中学年︶柵目をみはって事実を見る一視覚︵感性︶的写実主義    創る︵高学年︶巨目をみはってみえないものもみる1想像的創造    珪二︶.  ﹁守る﹂とは、子どものナイーヴな感性を守るということである。そのことが﹁目をつぶってみえないものを. 見る﹂とつながるのは、現実を現実として見ることができない子どもたちに、無理に現実を見せるのではないと. いうことである。まずは、自分を見させようとするものであろう。中学年になると、実際に現実を見ることがで. きるようになる。したがって﹁目をみはって事実を見る﹂となる。高学年では、低学年・中学年で培ってきたも. のを土台にして、見えないものまでも見る、現象の本質までも見ようとすることである。.  これらは、子どもの認知や心理的発達を基に示されているのであるが、それぞれの段階での子どもの特性から、 考えていくことにする。. 6.

(12)  まず、低学年の子どもたちの特性について、畑島喜久生は、次のように述べている。.    かれら︵低学年児一引用者︶にはまだ事実が事実のようには見えていない、いわゆる主︵客︶観性の問題   がある。いわば﹁自己中心的﹂といわれる心理の特性。.   ︵中賂⋮引用者︶かりにいって一事実が事実のまま見えるとしても、いざ低学年児がそれを表現︵口頭・文.   字︶するとなれば、実際かれらが事実を自己の表現能力にあわせて、主観的な世界としてつくりかえてしま.   うのは、周知のとおり、その︿子どもというのは、決して小さな大人なのではない、子どもの知能は決して.   小さな大人の知能なのではない﹀︵ピアジェによることば一引用者︶とされる発達の観念を一応の尺度にし   ながら究極の一元的な言語本質への糾合をめざしていこうということである。.    無理強いに事実を見せるのではなく、現に見えている世界の特徴的傾向を﹁詩﹂へのジャンピング・ボー.   ドとして、﹁想像の先取り﹂をさせる。すなわちそのことがまた、同時に成熟の先取りにつながるレデイネ   ス作業としても有効性を発揮していくことになる。  窪三︶.  低学年の子どもたちは、自分が見たものを﹁主観的な世界につくりかえてしまう﹂としている。このことは、. 低学年の子どもたちが﹁自己中心的﹂であるために、見た事実を表現する時、自分の身体を通し、自分を中心と. したものに置き換えてしまうからである。自分の表現能力に合わせる、言うなれば、そのようにしか表現できな. いということである。これは、表現能力の未熟さからくるものとも考えられるが、自分の立場や観点を中心化し、. 相手や他の立場の観点に立つことが難しいということから起こるものと思われる。そこで、畑島喜久生は、﹁無. 理強いに事実を見せるのではなく、現に見えている世界の特徴的傾向を﹃詩﹄﹂へっなげていくものとして、﹁﹃想. 像の先取り﹄をさせる﹂としている。無理に事実を見せることはできない。なぜなら、それは大人の概念を押し. つけることになるからである。だからこそ、﹁無理強いに事実を見せるのではない﹂としているのだと思われる。.  ﹁現に見えている世界の特徴的傾向を﹃詩﹄へのジャンピング・ボードとして﹃想像の先取り﹄をさせる﹂と. 7.

(13) いうことから、子どもの目の前に広がる世界を、想像力を働かせることによって、詩に近づけていこうとするも の で あ る と捉えられる。.  心理学者の波多野完治は﹁児童前期、および中期には、幼児期の自己中心性が、まだ、そうとうのこっている。﹂. 窪四とし、﹁特に、いちじるしいのは、自己中心性のひとつとしての自己意識の欠如である。﹂珪五︶と述べてい. る。また、﹁自己中心性は、自己を中心とするのだから、自己意識が、じゅうぶんありそうに思えるかも知れな. いが、事実、ほんとうに自己に没頭してしまうと、自己というものを考えなくなるのである。﹂窪六︶とも言う。. このような、自己中心性の残る低学年の子どもたちは、自己を考えることが難しい。つまり、自分をみつめるこ. とが困難である。そこで、畑島喜久生の言う﹁目をつぶってみえないものを見る﹂ということになるが、これは、. 自分を見つめるということだと言い換えることができる。低学年の子どもたちに自分に気づかせ、自分自身を見. つめることができるような力をつけていこうとするのである。葉分自身を見つめるのであるから、他のものは見. なくてもよい。だからこそ、﹁目をつぶって﹂ということになり、﹁みえるものを見えなくする﹂ということにな. る。さらに、﹁知的写実主義﹂とは、自分自身を知るための知覚のことであり、﹁みえないものを見る﹂ために働 かさなければならない﹁想像力﹂を意味するものだと考える。.  江口季好は、﹁低学年の子どもは﹂﹁直感的・感覚的・感情的・情緒的・情動的な言語活動をする発達段階にあ. って﹂﹁概念的にものごとを見るのではなく、具体的・形象的にとらえ表現する﹂落々︶としている。低学年の子. どもは、概念化が進んでいないことから、﹁感覚的﹂となる。その感覚を守り、詩へとつなげていくことが低学 年における児童詩の指導に必要なことである。.  次に、中学年の子どもたちの特性から、﹁目をみはって事実を見る﹂ことについて考えていく。.  ﹁目をみはって事実を見る﹂ということばの意味は、畑島喜久生の次のような論述から見出すことができる。.    ﹁知的写実主義﹂とは、端的にいってく子どもは対象を、見るとおりにえがくのではなくて、知っている. 8.

(14)   とおりにえがく﹀、すなわち、対象表出の精神形成一造型化の直感能力とでもよぶべきもの。いっぽう﹁視.   覚的写実主義﹂は、︿すでに発展した選択能力や識別能力や象徴能力を前提として﹁知的写実主義﹂にひき.   つづいてあらわれるi︿視線にたいして遠近法則をあてはめることができるような仕方で、事物を再現する.   ことから成る﹀おとなをもふくめた通例一般のとる対象表現法︵形式︶であって、もちろん精神発達からす   るなら﹁知的写実主義﹂より高次の精神活動だとしてかんがえられる。︵二八︶.  ︸般に心理学の世界では、低学年の子どもは自己中心的であるが、中学年になると、物事を客観的に見ること. ができるようになると言われている。この、物事を客観的に見ることができるようになる三・四年生を﹁視覚︵感. 性︶的写実主義﹂段階であるとしている。低学年の段階は﹁知的写実主義﹂であり、見たものを見たとおりに描. くのではなく、見たものを自分が知っているとおりに描くのである。つまり、見たものを自分の主観で描くとい. うことである。﹁視覚︵感性︶的写実主義﹂は、物事を見たとおりに描くことができる。客観的に見ることがで きる。すなわち、﹁事物を再現する﹂ことができるのである。.  客観的に見る、﹁事物を再現する﹂ということは、﹁おとなをもふくめた通例一般のとる対象表現法﹂であると. していることから、それは、概念化に通じるものと考えられる。三年生になると、一・二年生の時に比べて、一. 般化、概念化が急速に進む。これは、発達心理学において、﹁系統的な学習活動をもとにして、三年生になると、. 小学生の思考の性格が変わる﹂窪九︶とされ、﹁概念の個々の標識間の類一種の関係、すなわち、分類︵たとえば、 ﹁机は名詞です﹂︶を習得する。﹂︵注︸9とされていることから考えられる。.  また、三年生では、心理学において﹁九歳のカベ﹂毬二︶が存在すると言われる。三年生になると、分数や. 小数の学習が始まるが、これらに代表されるように、この時期の学習では、主に論理的な思考が必要とされるこ. とから、低学年とは異なった思考が活発になると考えることができる。﹁九歳のカベ﹂をうまく超えることがで. きれば、論理的な思考方法を獲得できるということになる。この ﹁九歳のカベ﹂が、概念形成に関与し、こと. 9.

(15) ばの発達にも関係するのである。.  岡本夏木は、﹁九歳の峠﹂︵注三︶とし、﹁二次的ことばへの強制が本格化してくるのはまさに小学校の中学年頃. であり、﹃峠﹄とは、二次的ことばの世界へ参入を求められる子どもたちを待ちうけている苦難にほかならない﹂. 窪︸三︶と述べている。二次的ことばの特徴の一つに、岡本夏木は、﹁話のテーマの抽象化とともに、聞き手の抽. 象化という二重の抽象化が要求される﹂毬︸四ことをあげている。ことばにおいても抽象化がなされるのである。.  中学年では、概念の形成が進む。と言うより、概念の形成がなされなければならない。畑島喜久生は、概念の 形成を踏まえたうえで、事実を見ることを推進しようというのである。  この、事実を見ることについて、畑島喜久生は、次のように述べている。.    客観的に見えはじめた事実︵現実︶を、人生の過程一教育の過程において見させぬ手はない。馴︵馴到︶.   れさせるのではない・狸︵習熟︶れさせるのだ・怠惰な脅然性としてではなく・積極的な志向をうちにひそ.   めた過程としての自然性の摂取である。事実を事実のように見させることで、自己のおかれている現実との   違和感を究極には体感させる。自分のうちに現実をひきこむ。 窪一五︶.  子どもたちには、事実、現実が見えはじめる。事実や現実が見えはじめるということは、客観的に見ることが. できはじめるということである。事実を事実として受け止めることができるようになりつつある子どもたちに、. 事実をしっかり見させようとするのである。事実を見させると、﹁自己との違和感を﹂﹁体感させる﹂ことができ. るとしていることから、主客混同ではなく、客観的に見ることで自分とは異なるということを理解させることが. できるのである。﹁客観的に見えはじめた事実﹂であるが、児童詩を通して、より事実を見させ、事実を書かせ ようとするのである.、.  ここで、他の実践者を見ると、野口茂夫は、中学年の発達段階について、次のように述べている。.    中学年に進むにしたがって、正確なものの見方、するどい観察が要求されて、いわゆる観察の指導に重点. 10.

(16)   がおかれるようになる。中学年はこのような知的なものの見方・感じ方に対応でき、またのびる時期であり、   じφうぶんのばしてやらなければならない段階である。.    詩の指導についても全く同じで、この時期にこそ正確なものの見方、するどい観察・発見の指導が必要で   ある。  ︵注=ハ︶.  認知の発達をみても、数量の保存は九歳でほとんどできるようになるとされている。このことからも﹁正確な. ものの見方﹂ができるようになると考えられる。と言うより、﹁正確なものの見方﹂ができるようにならなけれ. ばならないと言える。だからこそ、﹁知的なものの見方・感じ方﹂を﹁じゅうぶんにのばしてやらなければなら. ない﹂のである。事実をしっかり捉えさせる力をつける必要がある。﹁詩の指導についても全く同じで﹂として. いることから、事実を見させることにつなげて詩を書かせるものと考えられる。また、詩を書かせることで事実 を見させるということにもなる。.  最後に、高学年児童の特性から﹁目をみはってみえないものもみる﹂を考えていくこととする。  畑島喜久生は、高学年の発達段階について、次のように述べている。.    子どもたちが﹁概念﹂なる概念をも不正確ながら理解できるようになっている。すでにそこでは、あの概.   念すらもが目的とする﹁詩﹂のために活用されていく。詩とは?想像とは?比喩とは?表現とは?とい.   うおとなの詩がそのままの論理的、抽象的思考として身につく︵これまで低・中学年をとおしての詩指導︹詩.   に近づく︺の経過が前提にある・︶。具体的な事実を事実のままとしてだけでなく、いま届きえている抽象能.   力を﹁再具象﹂の方向にひきもどしうる能カー可能性をも手に入ればじめている。要はそこでの概念化傾向.   のみちゆきをただ単調にたどっていくか、その概念化傾向をこそ、作詩の根拠として血肉化した思想の方に   転化させていくか。  涯一七︶.  高学年になるにつれて、子どもの書く詩がおもしろくなくなっていくとよく言われる。 ︸般的な、観念的なご. 11.

(17) とばを並べてしまうからである。高学年になれば概念化が一層進む。﹁﹃概念﹄なる概念をも理解できるようにな. っている﹂ということは、子どもたちが使用していることばが、大まかな意味内容として一般的に使われている. ことばであり、大人と共有できるということを、正確とまではいかないまでも、理解するようになってきている. のだと捉えられる。概念化、抽象化傾向が見られ、おもしろくなくなっていくのは、精神的に大人に近づこうと. する意図があるものと考えられる。つまりは、大人のように気取って見せようということでもある。.  高学年で概念化が進むのは、﹁論理的思考﹂﹁抽象的思考﹂が身につくためである。高学年の発達段階について は、認知発達の面から、滝沢武久が次のように述べている。.    青年期︵一般に、一一、一二歳以上︶にはいると、具体的なものを必ずしも仲介としないでも、単なる可.   能性の上に立って、論理的にものごとを考えることができるようになる。すなわち、形式的操作の思考構造.   が成立する。これは認知発達の上で最も安定した思考がはたらく段階であり、青年は今や、おとなと同じ仕   方で考えることができるようになったのである。.    といっても、青年の思考がおとなの思考とまったく同様なものであるというわけではない。思考のはたら.   きは、この青年期以降もたえず経験を通して改善されているし、その形式的操作を適用する内容領域は次々.   と拡がっていく。しかし青年は、少なくともおとなと同じ仕方で思考を進めていくことのできる可能性がで   きたことは、確かである。  窪一△.  一一、︸二歳になると﹁論理的にものごとを考えることができるようになる﹂としている。また、﹁おとなと. 同じ仕方で思考を進めていく可能性がでてきた﹂と述べている。具体的なものを示したり、使ったりしなくても、. 自分の頭の中で、筋道だてて考えることができるようになるのである。おとなと全く同じとはいかないまでも、. おとなの思考の仕方に近くなってくるのである。実際に高学年の子どもに接した際、対等に話ができるのは、こ れらのことが起因しているものと思われる。. 12.

(18)  畑島喜久生は、高学年での抽象的思考を、﹁再具象﹂の方向へもっていくべきであるとしている。高学年の子. どもたちが概念的になる。しかし、ただ概念的になるのにまかせるのではない。それを再び具体的なものにし、. 詩を作る方向に導いていこうとするのである。つまり、抽象的、論理的思考に基づいて事実を見、事実を具体化. することによって、事実の基となるもの、裏にあるものを見つめさせるということであろう。そこには、想像力. が働く。想像力を働かせて、事実の奥にあるものを頭に描いて、詩にするのである。したがって、それは、﹁想 像的創造﹂の段階となる。.  以上のように、子どもの認知的、心理的発達段階を基に考えると、低学年は自己中心性が残っているため、事. 実を事実として見ることが難しい。中学年になると、事実を事実として見ることができるようになってくる。高. 学年では、論理的思考に基づいて、事実の奥まで見ることができると言える。そこから、畑島喜久生は基本系列. を﹁守る←放つ←創る﹂とし、それらを﹁見る﹂という観点から﹁知的写実主義﹂段階、﹁視覚的写実主義﹂段 階、﹁想像的創造﹂段階と捉えているのである。.  しかし、子どもの発達段階のみを考慮することで、児童詩の指導ができるとは考えにくい。そこには、付加 される要因が存在するであろう。. ︵注︶第一血早 第一牌即. 一 畑島喜久生﹃これからの児立異弥藝旦︵みずつみ書房︸九七七︿昭和五二﹀年八月︶二︼∼二二ページ. 二 同右      一 五 〇 ペ ー ジ. 同   右. 波多野完治﹃子どもの心理﹄︵講談社 一九七六︿昭和五一﹀年九月一〇且七四ぺLジ. 三 同右  一五四∼一五五ページ 四. 五. 13.

(19) 六. 七. 同   右. 江口季好星異読藝目の定式化についての試論﹂︵﹁作文と教璽No,287百ム昂]版一九七四く昭和四九V年一〇豊沼互、一〇ぺ⋮ジ. 八 畑量暑久生﹃子どもの詩の書かせかた小学四・五・六年﹄︵鳩の森蟄房﹁九七貴く昭和五〇v年九8 一四ページ. 岡本夏木﹃ことばと発淫﹄缶董居一九八五︿昭和六〇﹀年⋮月二一日︶一四八ページ. 子安増生﹃生涯発達心理学のすすめ﹄︵有斐閣一九九六︿平成八﹀年二月一〇目︶=一六ページ. 同右 =八ページ. 九 ペトロフスキー編著柴田義松訳﹃発達−藝目心理学﹄︵新読書程一九七七︿昭和五二﹀年=月二〇旦 [一七ページ ﹁○. = 一二. 一六. ﹁五.  四. 畑島喜久生﹃これからの児立異封藝旦︵みずうみ書房 ﹁九七七︿昭和五二﹀年八月︶、﹁六二ぺ;ジ. 野[[茂夫﹃新しい児皿異墾︵新評論一九七〇︿昭和四五﹀年こ月二〇且 一七〇∼︸七︸ページ. 畑R璽皆久生﹃これからの児婁聾藝旦︵みずうみ書房 一九七七︿昭和五二﹀年八旦 一五八∼﹁五九ページ. 同右  五九ページ. 同右 一四九∼一五〇ページ. ﹁七. 滝沢武久﹃子どもの思考と認知発達㎞天日本図書一九八五く昭和六9年︸二月二〇日第一刷一九九五︿平成七﹀年八月三〇日第四刷︶ 六六ぺi“ソ. ご二. 一八. 第二節 基本系列を取り巻く要因.  基本系列の中心となるものは、子どもの心理学的背景、および、児童の発達への考慮である。だが、児童詩の. 系統的指導を考えるにあたっては、心理的発達だけでは成り立たない。 畑島喜久生は、基本系列を中心にして、 児童詩教育について、次のように述べている.、. 14.

(20)   芸術、教育の両原理をも分離されたものとしてではなく、児童が、﹁見る﹂すなわちそのままの児童詩の.  本質・方法的原理をとおして、伝統の継承、また創造をも芸術的な反動性としてはたしていく。またそのこ. 目をつぶってみえないものを見る︵知的写実主義︶. 芸術の原理・方法 変. 目をみはって事実を見る︵視覚︹感性︺的写実主義︶. ●. 目をみはってみえないものもみる︵想像的創造︶. 統 伝. の. 継. 承.  とが、社会状況との対応のなかで自己・社会変革につながっていくことはいうまでもない。  珪一︶. 自. 己. 会 社. 革. ここで述べられていることを次のようにまとめることができる。. 造 創 の. 統 伝. 教育の原理・方法.  基本系列には、﹁芸術の原理・方法﹂と﹁教育の原理・方法﹂が加わる。﹁芸術の原理﹂とは、児童詩は、詩で. あるから、詩のもつ芸術性と考えることができる。詩は、芸術的言語だと言われるが、児童詩においても、子ど. もの芸術的言語が見出されなくてはならないということである。ここからは、芸術的側面から、詩の言語を見て. いこうとする意図がうかがえる。そして、詩としてのことばを重視しようとするものであると思う。また、 ﹁教. 育の原理﹂について、児童詩教育は学校教育の中で行われるものであるということから、教育的原理・方法が必 要となるということである。.  畑島喜久生の児童詩に対する考えは、児童詩教育専門誌﹁現代児童詩﹂を創刊するにあたっての基調の中の次 の二項目に見出すことができる。.   二、人間形成のための児童詩を、わたくしたちは、“詩”のもつ本質・機能性をもとにして捉えていきます。. 15.

(21)   三、学校児童詩の内包する両面性、すなわち“指導の原理”“芸術の原理”を、わたくしたちは、一体的、同     時的に捉え、その有機的な統合化をはかっていきます。  画論︶.  ここでは、﹁人間形成﹂のために児童詩を書かせるとしている。つまり、児童詩の目的は、﹁人間形成﹂にある. ということである。先にあげた﹁自己・社会変革﹂につながるものである。また、児童詩の内容を詩としての﹁本. 質・機能性をもとにして捉えていく﹂と述べている。児童詩は詩であるということを強調しているものと思われ. る。さらに、詩を教育の中に位置づけ、指導性と芸術性とのバランスの間で、子どもたちの言語能力を伸長して いこうとするものとも捉えられる。.  ﹁芸術の原理・方法﹂﹁教育の原理・方法﹂の他に基本系列を取り巻く要因を見ると、﹁社会状況との対応﹂が. 挙げられる。基本系列を﹁見る﹂という観点から捉えていることから、児童詩においては、﹁見る﹂こと、つま. り、認識することがなくてはならない。自分やまわり、﹁社会状況﹂を﹁見る﹂、現実認識するということが、基. 本系列と相互関係にあると言える。そこから、﹁杜会状況との対応のなかでの自己・社会変革につながっていく﹂ こ と と な るであろう。.  ﹁伝統の継承﹂を受けて、社会状況があり、現実の認識がある。そして、﹁伝統の創造﹂は、﹁自己・社会変革﹂. によって行われる。これらは、人間の活動全般に考えられることであり、教育そのものと言うことができる。加 えて、﹁芸術の原理﹂は、﹁伝統の継承﹂﹁伝統の創造﹂に働くものである。.  他の実践者の児童詩に対する考えを見ると、江口季好は、児童詩教育の系統化について、次のように述べてい る。.    教育と言うものはすべて計画的・意図的・系統的なものです。児童詩といえども教育であるかぎり、各学.   年にわたっての到達目標をもった指導が展開されねばなりません。それは子どもたちの内容と形式にわたる.   詩的認識の発達に即したもので、また、それぞれの子どもがいまどんなことをどのような表現で詩を書く力. 16.

(22)   をもっているのか、その段階をつかみ、それを順次に高めていく実践を展開することのできる指導系統によ   らなくてはなりません。  涯三︶.  児童詩は教育である。したがって、系統的・段階的に指導されなければならないと言うのである。場当たり的. な指導では教育として成り立たない。その系統的な指導の内容を、江口季好は﹁子どもたちの内容と形式にわた. る詩的認識の発達に即したもの﹂としている。子どもたちがどのように詩を理解し、どのような詩を書くことが. その時々の子どもたちにとってより良きものであるのかを考慮しなければならないということである。子どもた. ちの﹁詩的認識﹂が、どのように発達していくかを知った上で、指導されなければならないのである。さらに、. ﹁詩的認識の発達﹂だけではなく、いま目の前にいる個々の子どもを把握することが大切であると考えられる.︶. 子どもたちの現在の段階を熟知し、﹁高めてい﹂くための﹁指導系統﹂でなくてはならないのである。 ここから、. 江口季好は、児童詩が教育であるということを強調し、教育であるからこそ系統的な指導が必要であるとの考え にたつものと捉えられる。.  また、江口季好は、﹁文学や詩の側が子どもによせる期待と、教育の側が子どもによせる期待はお互いに握手. し、協力しあうことが望ましい﹂窪四︶とし、﹁児童詩教育は本質的な意味では国語教育のなかでの芸術教育で. す。﹂窪五︶と述べている。ここから、江口季好は、児童詩教育には、芸術性と教育性を求め、しかも、その芸術. 性は教育性として考えなければならないとしているものと捉えられる。詩である以上、芸術であり、芸術とする. 側面を考慮すべきであるということと、児童詩は教育であるということを意味しているものとうかがい知ること ができる。つまり、児童詩醤教育であり、その教育の中に芸術性があると考えられる。.  また、国分一太郎は、詩を書かせることは﹁生活の感動を直接にとりあつかう教育方法の一分野﹂窪六︶であ                                            ママ るとし、﹁いくら子どもの詩だといっても、詩というからには、芸術だ。だから、詩をつくらせ、味わせること. は、芸術教育のひとつである。﹂︵望蜀︶と述べている。子どもたちに詩を書かせることは、﹁教育方法の︸分野﹂. 17.

(23) であるとしている。児童詩があくまでも教育の一環であるということである。そして、児童詩教育は﹁芸術教育. のひとつである﹂と述べている。つまり、教育の中に児童詩があり、児童詩が芸術教育の一端をなしているとい うことである。.  寒川道夫は、児童詩の芸術性について、次のように述べている。.    詩はいうまでもなく芸術である。国語をその表現教材としている事において文学である。だから、詩を子.   供に書かせる事は、国語を使って、その芸術的な意欲を、または、その意欲を芸術的に表現する、文学的営   みであり、文学教育である。   三八︶.  寒川道夫も、児童詩を芸術であるとしている。児童詩は、詩である。詩は芸術である。したがって、児童詩は. 芸術なのである。児童詩における芸術性は、文学教育に依拠するものと思われる。﹃国語を使って、その芸術的. な意欲を、または、その意欲を芸術的に表現する﹂としている。それは、﹁国語を使って﹂芸術に迫ろうとする ものであり、国語に芸術性を見出そうとするものである。.  畑島喜久生は、児童詩の系統的指導における基本系列を取り巻く要因の大きなものとして、教育的側面と芸術. 的側面を取り上げている。他の実践者は、児童詩は教育であり、芸術教育でもあるとしている。.  以上のことから考えると、児童詩は、少なくとも教育性と芸術性を絡ませながら、系統的な指導がなされなけ ればならない。.  だが、児童詩の究極的に目指されるものは、学校教育として考えていくということになる。なぜなら、学校教. 育の中で行われるものだからである。そこで、学校教育としての児童詩について考えてみたい。.  畑島喜久生は、児童詩の目指すところについて、﹁それをとりまく構成体︵じつはそれ自体が構成体そのまま. なのだが︶が、それぞれ独自のばらばらなものとしてではなく、学校教育︵児童詩︶の目的にむかって有機的に                がつしょドフ. 作用、関係しあうものとして連合合従されている﹂窪九︶と述べている。また、これらのことを畑島喜久生は、. 18.

(24) 的. 目. の一. 育詩 教童 校児 学︵.  \.   \.       \.  芸術・コトバ・詩︵学︶.     \.   〆.  〆. 低ノ. 犀嘔尋一−.  へ.  、.  ﹁、 ﹁ ∼  一     引    一 しし マこ  ロ  ロ ロロしコロユロコ. ァ高κ郵.    ロロ     コ.     ! 〆  ︵関連諸心埋学︶.  児童発達 ’ ’ ’. 淫﹁○︶. 教育学︵教科教育法︶. ・その他の関連諸科学. 現. 知. 心. 盤言蓼︵心翠︶. ’. てを背景として取り入れながら進めていこうとするのである... 上のような図で表している。.  前述の﹁それをとりまく構成体﹂の﹁それ﹂と. は、この図では、螺旋形で表されているもので基. 本系列の﹁見る目﹂を示すものである。というの. も系統的な指導を考える場合には、 一つ一つの段. 階を上っていくより、螺旋状に進んでいくと推察. されるからである。 一つの段階をクリアできたか. ら、次の段階へ進むと言うより、それまでのすべ. 子どもの発達は、連続性を持つものであり、重層. 的に重なり合う。個々の子どもの状態に合わせて、流動性を持た を  考  え  て  の  こ  と  で  あ  る  。 だが、螺旋状  せ  た  指  導 .  ら  な  い  の  で  は  な  い  か  と  に発展していくのであれば、円錐のように頂点があるようにはな 思  わ  れ  る  。 この円錐とい.  育  で  行  わ  れ  、  子どもたちが学校を卒業する頃に うところに、学校教育としての姿を見出すことができる。学校教.  ら  、  系統性や段階性を考慮しない指導や中途半 は、学校教育の目的が、達成されていなければならない。ここか 端な指導は許されないという考えをうかがい知ることができる。.  ﹁それぞれが独自のばらばらなものとしてではなく﹂とあることから、基本系列の螺旋を取り囲むように組み. 込まれるべき要因が示されている。一学校教育の目的に向かって、現実的基盤から出発し、基本系列を芸術的側面. や教育的側面が取り巻き、関連しあっているのである。また、芸術的側面にある﹁コトバ・詩﹂というのは、詩. である以上、芸術であるということを基に、﹁コトバ﹂の芸術、詩の﹁コトバ﹂を芸術として捉えようとするも. のと思われる。﹁言語学︵心理学ごは、言語の本質や価値と言われるような、言語そのものの持つ特性を指して. いるものと考えられる。また、子どもの心理的・認知的発達に即するというのは、,基本系列のところでも触れた. 19.

(25) が、﹁児童の発達﹂が大きく関連し、さらに、教科教育の中の国語が取り巻くことになる。現実が基盤となるの. であるから、諸科学が関連するというのも頷ける。科学の目を通した現実認識も要求されるであろう...  ﹁学校教育の目的に向かって﹂としていることから、教科教育の中の国語科に属することは間違いないが、︸ 方で教育全般にも関わると考えられるα目指すところは、全人教育ということにもなる。.  児童詩の系統的指導には、子どもの発達を基底としながらの基本系列があり、その基本系列を取り巻く要因と. 山里. 黷リ一“ソ. して、大きなものに教育と芸術を挙げることができる。そこで、以下において、この教育と芸術について詳しく 考察していかなければならない。. Q仕︶ 第︸血早 第二欣即. 一 畑島喜久生﹃これからの児立異封藝皇︵みずつみ書房一九七七︿昭和五二﹀年八日⇔.一五一ページ. ニ 聾異討﹂第一次Nq7現代児婁前研究会一九六七︿昭和四二﹀年四月一日裏表紙 三 江口季好q児童詩の探求﹄ ︵民衆社﹁九七七︿昭和五二﹀年二月一日︶ 一五三ページ. 四 江口季好﹃児童詩の授業  董日一九六四︿昭和三九﹀年早出︶ 三六ページ. 五 江[[季好稗児童面目入門睡 ︵百合出版一九六八︿昭和四三﹀年八月一〇日第一刷一九九〇︿平成二﹀年二月二二目第一四刷︶ 六 国分一太郎﹃日本の児鵡異謹︵百合出版 一九六〇︿昭和三五﹀年=月三日︶ 一六〇ページ. 七同右 一六五ぺ﹂シ 八 寒川︸虐天翼異㌶藝具塵  9のゆみ出版一九七九八昭和五四﹀三二月一〇日︶ =二ページ. 九 畑島喜久生﹃これからの児立異藝昌︵みずうみ書房一九七七︿昭和五二﹀年八月︶ ︸五二ぺLジ. 一〇同   右. 20.

(26) 第二章 児童詩指導と詩的系統性 第一節 詩的系統性における指導事項と内容.  児童詩は、詩である。そして、詩は芸術である。そこで、芸術性から見て、児童詩をどう捉え、どのように指 導していかなければならないのかを考察したい。.  畑島喜久生は、児童詩をどのように捉えるかについて、次のように述べている。.    ﹁詩﹂を﹁コトバ﹂それ自体として認識するとき、児童詩が、教育の現代化の視座で把握されるよりない、.   というより、厳密に詩のコトバを厳密な人間封無限の可能性としての児童の発達と結びつけて考えざるをえ   ないのは、もはや現代人の辿りついた思考の方式でさえある。.    いつ、どこで、何を、どのようにして書かせていくか。どうやって子どもに詩を学ばせ、また子どもがま.   なびうるかの見定め方が、学習成立の主要法則としてのレディネス︵精神的・身体的な、学習に対する準備︶   の考察に結びつかないわけがない。  窪一︶.  ﹁﹃詩﹄を﹃コトバ﹄それ自体として認識する﹂ということは、児童詩を子どものことばそのものであると考. えるということである。おとなの詩のような技巧的なものではなく、子どもの、子ども自身の内面からほとばし. ることばだと考えられる。その﹁コトバ﹂を﹁児童の発達と結びつけて考えざるをえない﹂としている。ことば. は、子どもとともに発達していく。と言うよりも、子どもの中で、子どもによって発達していくと言える。した. がって、詩を子どもの﹁コトバ﹂そのものとするならば、子どもの発達と結びつくのは当然のことである。.  ﹁いつ、どこで、何をどのように書かせていくか、どうやって子どもに詩を学ばせ﹂ていくかは、﹁学習成立. の﹂﹁レディネスの考察に結びつく﹂と述べている。このことから、子どもたちがどのような時に、どのような. 21.

(27) 段階にいる時に、どのような詩を書かせるのか、どのように詩を学ばせるのかを考えなければ、指導を意味する ものではない。つまり、系統立った指導が必要である。.  また、野口茂夫が、児童詩をどのように捉えるかついて、次のように述べていることから見出すことができる。.    それは何よりもまず子どもたちに、ゆたかにたくましい詩精神をつちかうことであり、生きた日本語の駆.   使と表現創造のカを身につけさせたいためであり、そしてこのすべての教師がしなければならない文学教育.   をすすめることによって、子どもたちの人間性をやしない、知性と感性をみがいて認識を高め、その行動力.   をもたしかなかしこいものに育ててやり、その子どもたちの全面発達をこそ念願とするものであることは、   すでにわたしたちの常識といってもいいだろう。.    だがしかしわたしたちは、その詩精神のつちかいといい、日本語の駆使と創造といい、文学教育といって.   も、その出発、ないしはその基盤とするところは、あくまでも子どもたちの生活現実におかなければならな   い。  毬二︶.  子どもたちには、﹁何よりもまず﹂﹁ゆたかにたくましい詩精神をつちかう﹂ことが必要であるとしている。こ. れは、児童詩は詩であり、子どもたちに詩の心、詩を通してのものの見方や、感じ方を身につけることが重要視. されているものと考えられる。詩的な、詩としての意識、認識を持つことが必要であるということである。.  ﹁生きた日本語の駆使﹂ということから、ことばを子どもたちに自分のものとして摂取させ、使わせるという. ことだと捉えられる。まさしく﹁生きた﹂ことばの教育である。その生きたことばを摂取するとともに、ことば. を使う、すなわち表現しなければならない。そして、表現するには、創造がなければならない。ことばを自分の. ものとするためには、使い古されたことばではあっても、そこには、自分がなければならない。人の借り物であ. ってはいけないのである。さらに、自分としての新しいことばが必要である。だからといって、現代の若い年代. の人たちが使っているようなことばを作り出すことを奨励しているのではない。自分しか表現できないというこ. 22.

(28) と、自分独自の表現を詩を通して行うということである。美術や音楽では、自分なりの創造が要求される。詩も 同じなのである。そこから芸術性ということが言われる。.  ここでは、﹁子どもたちの人問性をやしない、知性と感性をみがいて認識を高め﹂るとしている。これは、生. きたことばの教育であるからこそできるのである。人間として生まれてきた以上、人間らしく生きることは誰し. もが願うことであろう。人間らしく生きるとは、簡単なことのようで難しい。その人間らしくを探るという意味. においても、﹁知性と感性をやしない﹂﹁認識を高め﹂ることが必要なのである。詩を通してそれらが行われる、. いや、行われなければならないと言える。しかし、第一に考えられなければならないのは、子どもの﹁生活現実﹂. である。子どもの生活を基盤にしないで何も語ることはできないであろう。なぜなら、子どもたちには、生きる 力をつけなければならないからである。.  子どもたちに生きたことばを身につけさせる必要があることは、先にも述べたが、国分一太郎は、生きたこと ばについて、次のように述べている。.    ところで、子どもの詩はどうだろう。それこそ生き生きとしたコトバ、生活に密着してはなれないコトバ   のいいあらわしかたを要求するものだ。.    そして、そのなかでも、とくに、感性的なコトバの表現感動をよりちょくさいにつたえるコトバの表現能   力を、生活にそくして指導するものだ。  径三︶.  子どもの詩は、﹁生き生きとしたコトバ、生活に密着してはなれないコトバのいいあらわしかたを要求する﹂. としている。ことばに重点を置いていることがうかがわれる。詩の指導であるからには、ことばにこだわらなけ. ればならない。生きたことばであり、﹁生活に密着してはなれない﹂ということから、子どもの生活現実を基盤 にするものと考えられる。.  そして、﹁とくに感性的なコトバの表現感動をよりちょくさいにつたえる﹂ということから、感性を培うこと. 23.

(29) によることばで、感動を直接的に伝えることができるようにしなければならないと考えられる。感動を真正面か ら捉えて、伝えるということを詩で指導するのである。.  この詩の表現におけることば︵コトバ︶の意味と意義について、寒川道夫は、次のように述べている。.    その場に問に合わせる実用的な常識的なコトバは、別に育てたらいい。詩で育てることは、人間の胸底に.   うずまくいのちにコトバを与えることである。コトバを与えることによって、それをひとつの力に凝集する   ことである。それは意識に昇華するといってもいい。︵中略一引用者︶.    しかしその本然性は人間確立である。ひとのものではない自分の、その場、そのときに生きる姿と力を正.   しく確かに形づくっていくことである。それはコトバを手がかりとしておこなう。だから詩が書かれるのは、   コトバを選びみがくことになり、自分を創造していくことになる。   往四︶.  常に使うような、その場に応じたことばは、なにも詩で学ばなくてもよく、他に学ぶべきところがあるとして. いる。ここからは、詩でしかないことばを詩を通して学ぶということが考えられる。﹁人間の胸底にうずまくい. のち﹂とは、個々人が持つ心であり、そのこころの奥底で感じたこと、感動したことであろう。それに﹁コトバ. を与える﹂ことが詩だと言うのである。詩におけることばとは、生命の息吹ということだと捉えられる。.  だが、詩において、もっとも重要なことは、﹁人間確立﹂だとしている。詩を通して、生きているいま、生き. ている自分を確かなものとしていくことである。中途半端なものではない自分を造り出すための手段として、こ とばを用いるのである。.  詩の指導においては、知性と感性が培われなければならないことは、野口茂夫も述べていたが、治国季好は、. ﹁知性と感性の統一した詩心﹂を﹁真の芸術教育である﹂言承︶とし、詩における芸術教育について、次のよう に述べている。.    子どもの全面的な発達に寄与する基礎的芸術教育は、子どもの認識諸能力を︵感覚力・知覚力・観察力・. 24.

(30)   記憶力・想起力・表象力・思考力・想像力など︶高めるものでなくてはならない。そういう認識諸活動をの.   ばす児童詩教育でなくてはならない。そして、ものの見方感じ方考え方を正しく豊かにしていかなくてはな   らない。  窪六︶.  教育は、子どもたちの発達、全般的な発達において貢献しなければならないことは、誰もが認めるところであ. る。教育の中でも﹁基礎的芸術教育﹂は、﹁子どもの認識諸能力を高めるものでなければならない﹂。基礎的な芸. 術教育によって、子どもが、見たり、感じたり、考えたり、想像したりなどするカを養うのである。それらの力 をつけるために児童詩が存在しなければならないのである。.  さらに、児童詩では子どもの﹁ものの見方感じ方考え方を正しく豊かなものにしていかなくてはならない﹂。. 対象を正しく見る、確かに認識する、豊かに感じるカを児童詩を通して構築しなければならないのである。また、. 認識し、感じたものを、思い巡らしたり、考えたりする力をもつけ、豊かにしていかなければならない。.  以上のことから、現実を意識、認識して、思考し、表現するという過程において、すべてことばが使われ、そ. のことばが、詩であるということが考えられる。この意識i思考一表現という一連の経過が詩となり、詩を創作. するために必要なことである。芸術性から詩を捉えると、意識・認識し、現象を捉え、心象を表現するカが問題 になる。.  子どもたちに、生活現実を基盤として、物事を認識させることは大切である。物事を認識し、思考し、表現す ることは、また人間としての生活に必要なことでもある。.  詩とは、ものを見、それを表現するものである。だからこそ、﹁見る﹂という観点から児童詩の系統的指導の. 基本系列が考えられるのである。また、ものを見るときには、ものが何に見えるか、何をあらわしているのかを. 見ることが大切である。それは、ただ単に見る場合だけに限らず、聞く、知る、つまりは知覚するという時にも. 同じである。表現されるときには、 一つのことばであっても、その語に込められた﹁暗黙の仮定﹂が、正しい理. 25.

(31) 解へと結びついていくのではないだろうか.、そのように考えると、詩においては、 一つ一つのことばを大切にす. るのであるから、その語に込められた﹁暗黙の仮定﹂にも大きな意味がある。ここから、詩における行間の意味 が考えられ、さらに詩で表現することの意味を考えることができる。.  そこで、詩を書く道筋、つまり、詩における意識一思考一表現をどのように指導していくのかを明らかにする. ために、小学校一年生から六年生の縦のつながりを見ていきたいと思う。詩的な側面から、系統性を考えるとい うことである... 窪︶第二章第﹁節 一 畑島喜久生﹃これからの児童詩教去旦︵みぶ乏りみ書房 一九七七命旧和五二﹀年八月︶ 一七九ページ ニ 野[[茂夫﹃児童詩藝目の原慮 ︵新評論一九七二︿昭和四七﹀年六月︻五日︶ 七↓ページ. 三 国分一太郎﹃日本の児立異董︵百A吊版 [九六〇︿昭和三五﹀年=月三日目 一六九∼一七〇ページ 四 寒担璽大﹃児土壽藝塁型︵めゆみ出版 ﹁九七九命噸和五四﹀年二月一〇日︶ ご六ページ 五 江口季好﹃児童詩の授業﹄︵明治図書 一九六四︿昭和三九﹀年九月︶ 二七ページ. 六同  右. 第二節 詩的系統性における﹁意識﹂. 詩を書こうとすれば、現象や対象を意識しなければならない。同時に詩を書くことを意識しなければならない。. 26.

(32)  詩における﹁意識﹂について、畑島喜久生の次のように述べていることから見出すこととする。.    自分だけのことばとしてではなく、社会的にも客観化された﹁自分のことば﹂をもつ。ilつまるところ.   自分自身の意識構造の高まりをめざすとともに、またそのことがおのずからいっぽう言語水準をたかめてい   くことにもなるという言語みずからの上昇性の最終的な獲得.、 往こ.  これは、幼児がことばを獲得していくことに関わっているのだが、﹁意識﹂とは、言語と深く関係する。﹁自分. だけのことばとしてではなく﹂﹁自分のことばをもつ﹂としている。自分だけに通じる言語ではなく、社会に通. じる言語でありながら、自分らしさをもった言語ということであろう。自分らしさをもっことば、つまり決して. 人の借り物ではないことばが﹁自分自身の意識構造の高まり﹂であると考えることができる。つまりは、自分自 身の意識を高めることが、自分の﹁言語水準﹂を高めるということになる。.  幼児は、ことばというものをそう意識はしていない。いうなれば自然流露的なことばである。幼児のカタコト. とは、まさしくそうであろう。しかし、子どもたちに詩として指導していくからには、意識的に詩を書くという. ことが考えられなければならない。言語水準を高め、﹁自分のことば﹂をもっことができれば、詩を書くことが. できることになる。というより、子どもに詩を書かせることによって、意識をもって、言語水準を高め、﹁自分 のことば﹂をもつようにしょうとするものである。.  以上のことから、詩の指導においては、自然発生的なものから意識化へという道筋が考えられる。この観点か. ら、具体的な指導方法・内容として、畑島喜久生の児童詩の系統的指導を見ていくこととしたい.、.  畑島喜久生は、その著書﹃子どもの詩の書かせかた﹄σ圧二︶において、児童詩の系統的指導を示している。そ. の中では、﹁発想のための呼びかけ﹂として、単元名とも言われるようなものをまず、挙げている。次に実際に. 指導した経過、指導計画が述べられ、子どもたちの作品、﹁指導のポイントと背景﹂、参考作品と続く。この﹁児 童詩創作指導系統﹂を﹁意識﹂という観点から、学年を追って見ていくこととする。. 27.

(33)  一年生において、一〇月に﹁ずうっとずうっと心のおくにしまってある﹃ヒミツ﹄、紙にかいてそうっと先生. におしえてくれないかな﹂窪三︶という﹁発想のための呼びかけ﹂がある。その﹁指導のポイントと背景﹂の中 で、畑島喜久生が次のように述べているところがら、﹁意識﹂について見出したい。.    通常では、他人の目からはいかにも特殊な見えようをしている種の異常体験でも、無自覚、無感覚な精神.   活動からはなにもすくいあげられていかない。﹁一期一会﹂の感動すらとりにがしかねないのだ。特殊なこ.   とで特殊のなかに馴れ合ってしまう。感受性の鈍化、精神の硬化現象である。詩とは︿純粋な時間﹀をてば.   やくすくいとり、それを手もとにとめおいて永久保存に耐えうるものに仕立てていくことだといわれている...   i秘密をどう表現するかというより、ここではどう秘密に気づかせるかである。  涯四︶.  他の人から見れば、﹁特殊﹂であり、﹁異常﹂と思えるような体験であっても、その体験をしている本人が、気. づいていなければ、意識しなければ、何でもないことになる。とるにたらないことになる。また、逆にあまりお. 目にかかることのない、めったに遭遇しない体験や感動も、逃してしまうことになる。﹁特殊﹂なことであって. も、意識しなければ、﹁特殊﹂なことではなくなってしまう。そこには、﹁感受性の鈍化﹂﹁精神の硬化﹂がある. と言うのである。つまり、感覚が鈍り、感動を感動として受け止められない。いや、感動しないと言った方が良. いであろう。詩においては、﹁感受性の鈍化﹂﹁精神の硬化﹂があってはならない。物事に鋭く気づき、反応する. ことが必要であり、豊かな感性を育てなければならない。だが、決して、﹁特殊﹂なことばかりを書くのが詩で. はない。現実の生活においては、そう﹁特殊﹂なことばかり起こるものではない。他の人から見れば、何でもな. いことだが、自分にとってみれば、そこに感動があったものを詩にするということである。そこで、これまでし まっていた秘密を書かせるのである。.  ﹁ずうっとずうっと心のおくにしまってある﹃ヒミツ﹄、紙にかいてそうっと先生におしえてくれないかな﹂と. いう﹁発想のための呼びかけ﹂による指導で生まれた中に、﹁ひみつのはたけみち﹂という題名の作品がある。. 28.

参照

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