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中島敦『古譚』試解

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(1)Title. 中島敦『古譚』試解. Author(s). 西原, 千博. Citation. 札幌国語研究, 21: 1-31. Issue Date. 2016. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/8058. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 中島敦『古譚』試解. Ⅰ. 西 原 千 博. 『木乃伊』でパリスカスはなぜ発狂したのか、『山月記』で. 李徴はなぜ虎と化したのか、『文字禍』でナブ・アヘ・エリ. バはなぜ圧死したのか、これらの理由をテクスト内から論理. 四作品について、相互の関連性に注目すること(謂わば補助線. を一纏めとして、 『古譚』と呼ぶこととする。この『古譚』の. 月号に発表されている。 )本稿でも、この単行本に従い四作品. と『文字禍』はそれに先立って雑誌「文学界」の昭和十七年二. 氏の疑問だけではなく、様々な謎について出来るだけ論理的な. 品には多くの謎がある。そこで、それぞれの作品において松村. になる。また、松村氏の指摘している疑問以外にも、この四作. に考えて人が虎になる理由は明らかにされていないということ. ば、 『 山 月 記 』 で 虎 に 化 し た 理 由 は 書 か れ て は い る が、 論 理 的. 松村氏はそれぞれの作品についての疑問を提示し、なおかつ 答えはないとしている。松村氏が論理的としているのは、例え. 的に見出すことは出来ない。. を引き合うこと)により、それぞれの作品の新たな解釈や、 『古. 謎解きをしてみたい。ただし、謎の答えはさらなる謎となり、. (昭和十七年七月筑摩 中島敦の最初の作品集『光と風と夢』 書房刊)に、『古譚』という総題で『狐憑』 『木乃伊』 『山月記』. 譚』としての主題について考察したい。その際、まず四作品の. なかなか正解に到らない場合があることをあらかじめおことわ. 『文字禍』の四作品が収められている。 (このうち『山月記』. ストーリー展開に注目したい。 というのも、 この四作品のストー. りしておきたい。. (1). リー展開には謎解き(謎のコード)という共通するものがある 指摘がある。. 『文字禍』を取り上げたい。『文字禍』は謎が明確に 最初に、 提示されている上に、他の作品への補助線が最も多く引けるか. からである。この四作品の謎については、既に松村良氏による 『狐憑』においてはシャクはなぜ喰われてしまったのか、 . -1-.

(3) を引くためには四作品が、 『古譚』という同一平面上にあるこ. ら で あ る。 (今回は、四作品の並び順は問題としない。補助線. い う 意 味 と を 有 つ こ と が 出 来 る の か、 ど う し て も 解 ら な く. くなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそう. 字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えな. なって来る。老儒ナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの. とだけが必要だからである。 ). 不思議な事実を発見して、驚いた。今まで七十年の間当然と. 『文字禍』は「文字の霊などというものが、一体、あるもの か、どうか」という文ではじまる。まさに冒頭から謎が提示さ. い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。. 定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か?ここまで思. 彼は眼から鱗の落ちた思がした。単なるバラバラの線に、一. Ⅱ. れている。この謎について、 謎解き役、 探偵役をするのがナブ・. 思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。. アヘ・エリバ博士である。ただし、博士の謎解きはかなり滑稽 (2). 在にも注目する必要があるだろう。というのも、そもそもこの. 「茶化してしまっている」とあるように、どこまで真面目に 書かれているのか疑問が無いわけではない。また、語り手の存. 次のように述べている。. 義』を読んだ可能性は十分あると思われる。」としたうえで、. 歳の間に、 古今東西の書物を渉猟してやまない読書家の彼が 『講. は十九歳であり、この年から『文字禍』を執筆した三十一、二. この場面について、勝又志保氏は、ソシュールとの関連性に ついて指摘している。まず、 「『講義』 (『一般言語学講義』─筆. (3). 単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。. ないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして. 魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間では. いる。. な書き方をされている。戸塚安津子氏は次のような指摘をして と言うのも、ナブ・アヘ・エリバ博士の苦心の研究につい て述べている所々、それも肝心なところで、語り手は彼の研. 最初にあげられた疑問は、誰によるものなのか解らないのであ. そのうちに、その文字が分解する。. ナブ・アヘ・エリバ博士は文字の霊の研究のため(即ち、謎 解きのため) 、 「唯一つの文字」と終日睨めっこをして過ごす。. のである。. 単なる記号であって、その成り立ちは偶然に過ぎないという. ないと述べている。ことばとはもちろん神など全く無関係の. 者注)が日本で初めて出版された一九二八年(昭3) 、中島敦. る。作品中の誰かなのか、 それとも、 語り手によるものなのか、. 究を茶化してしまっているのである。. 明確ではない。. ところが、ソシュールは言語記号は恣意的なものであり、 特定の音と特定の意味が結びつかなくてはならない必然性は. 一つの文字を長く見詰みつめている中に、いつしかその文. -2-.

(4) あっていいはずだ。おまけに、今ある通りのものは可能の中. も作者においても漢字がイメージされていたのではないか。こ. 漢字に置き換えて読むことになるのではないか。いや、そもそ. う字」ともある。ともすると、 読者は漢字の方をイメージして、. も身近な表意文字は漢字である。しかも、この後に「獅子とい. いて、読者は理解できるのだろうか。一方で、読者にとって最. ただし、本文には楔形文字の説明はない。一体、楔形文字につ. に表意文字である。確かに「楔形文字」は表意文字ではある。. た、ここで取り上げられているのは、 「音と意味」とあるよう. シュールは文字の線が解体するようなことは述べていない。ま. 「この発見を手始めに、今まで知られなかった文字 そして、 の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。」 のであり、博士は「街. いるのである。. ずであるが、それは無視されて、 「文字の霊」のためとされて. いて述べている。象形文字であれば、何らかの説明が出来るは. と一定の意味とを有たせるものは、何か?」と文字の本質につ. ところが、『文字禍』では、「単なるバラバラの線に、一定の音. 質などには触れず、目の前で起きている現象を問題としている。. は当然そのような知識があったはずなので、ここでは漢字の本. 形文字なので、現在の形になるまでには必然性がある。中島敦. ここでいう「字」とは、いうまでもなく漢字である。漢字を 「一部分一部分」に分解していく。しかし、漢字はそもそも象. での最も醜悪なものではないのか?. の文字が分解するということと同様のことが、この作品に先立. 中を歩き廻って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根. シニフィアン(記号表現)とシニフェ(記号内容)とは恣意 的な関係ということになる。 「当然でも必然でもない」という. つ『北方行』及び『狼疾記』に書かれていることは夙に知られ. 字 は こ れ で 正 し い の か と 考 え 出 す と、 次 第 に そ れ が 怪 し く. ると、――その字を一部分一部分に分解しながら、一体この. 彼が最初にこういう不安を感じ出したのは、まだ中学生の 時分だった。ちょうど、字というものは、ヘンだと思い始め. る。この語り手については後にまた触れることにする。. いるようであり、わざと違うと読めるように語っている節があ. すでに戸塚安津子氏による指摘を引用したように、「茶化して」. れていて、どこまで本気なのか分からない。この点については、. の は ソ シ ュ ー ル の 考 え 方 と 同 じ と い う こ と で あ る。 た だ、 ソ. ている。『狼疾記』 ( 『南島譚』所収)の方を引用する。. 気よく一々尋ねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったよう. なって来て、段々と、その必然性が失われて行くと感じられ. そして、文字は影ではないかと考える。. なところはないかと。 」この当たりの描写はかなり滑稽に書か. 三造の考えは再び「存在の不確かさ」に戻って行く。. るように、彼の周囲のものは気を付けて見れば見るほど、不. (4). 確かな存在に思われてならなかった。それが今ある如くあら. 獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、 獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影. ねばならぬ理由が何処にあるか?もっと遥かに違ったもので. -3-.

(5) 間の中にはいって来た。今は、文字の薄被をかぶった歓びの. ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人. を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔、ピル・. を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影. さらに、文字の害が述べられる。. もある。 (ただし、 前述のように象形文字の場合は関係がある。 ). つということなのではないのか。ソシュールとの関係には疑問. とは恣意的な関係というのは、まさにこの点について疑問を持. どうして疑問を覚えないのだろうか。シニフィアンとシニフェ. (5). 影と智慧の影としか、我々は知らない。. 弱く醜くくなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜く. ることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が. 近頃人々は物憶が悪くなった。これも文字の精の悪戯であ る。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶え. 中島敦にとって文字以前の無文字社会、すなわち未開、原 始の上古の時代、世界こそが、人間がまだ「歓びや智慧」を. 川村湊氏は次のように述べている。 この博士の言葉について、. 我 が も の と し て い た 時 代 だ っ た の だ。 文 字 を 覚 え る こ と に. なった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなっ. のに過ぎない。博士は文字のなかった昔「歓びも智慧もみんな. 字を知っているからこそできるものであり、文字を通してのも. 葉の区別が曖昧な点がある。 )そして、その賛美自体は実は文. も言葉があれば伝承することは出来る。この作品には文字と言. たものにより賛美していることになる。 (無論、文字がなくて. のである。文字のなかった時代について、文字によって書かれ. 身が「書かれなかった事は、なかった事じゃ。 」と言っている. れは文字を通してではないのか。この後に、いみじくも博士自. かった昔」について、博士はどうやって知ったのだろうか。そ. という文字があるということではないのか。言葉と文字とが未. まり、本物の獅子がいて、「しし」という言葉があって、獅子. は言葉と文字との区別が明確にされていないのではないか。つ. するとすれば、それは「ことば」なのではないか。この作品に. それがここには書かれていない。もし、そのようなものを想定. たもの、 文字を覚えることによって便利になったものとは何か。. 文字に対応するものは何か。頭なのか。文字を覚える前にあっ. 対応するものは皮膚であり、 乗物に対応するものは足であるが、. なると元のものが悪くなると言う理屈である。しかし、着物に. 乗物を使うと足が弱くなるというのはよく解る。この例では 着物と乗物と文字が同じものとして書かれている。より便利に. たのである。. よって人間は堕落した。. 直接に人間の中にはいって来た。 」と文字によって考えている. 分化になっているのである。この点に関しては、すでに宮田一. まさにこれは知恵の悲しみととでも言うべき事だろう。ただ し、この博士の言葉には明らかな矛盾がある。この「文字の無. のである。つまり、これ自体も所詮知識に過ぎないのである。. 生氏の指摘がある。. (6). また、「獅子」という文字が獅子という動物を指すことに、. -4-.

(6) 中島は音声言語と文字言語とを混同してしまったような感 じを読者に与えている。 言葉(音声言語)と文字(文字言語)とが明確に区別されて いないのであり、ここで述べられているのが文字の弊害なのか. 幸福そうに見える。これが不審といえば、不審だったが、ナ. ブ・アヘ・エリバは、それも文字の霊の媚薬のごとき奸猾な 魔力のせいと見做した。. 読み取るのは深読みに過ぎるだろうか。 (この部分については、. 自分の好きなことをしている人間は幸福なのである。ここに 自分の好きなことだけをしているものに対しての作者の羨望を. また触れることになるだろう。 ). 言葉の弊害なのかが解りにくいものになっているのである。 「書物狂」の話となる。 この後、. る。しかし、今日の天気は晴か曇か気が付かない。 (中略). ニニブ一世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知ってい. なった古代のことで、 彼の知らぬことはない。 彼はツクルチ・. 皮紙に誌された埃及文字まですらすらと読む。およそ文字に. について色々な説がある。自ら火に投じたことだけは確かだ. えた。先頃のバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期. 博士が呆れた顔をしているのを見て、若い歴史家は説明を加. ある日若い歴史家(或いは宮廷の記録係)のイシュデイ・ ナブが訪ねて来て老博士に言った。歴史とは何ぞや?と。老. この後「歴史」についての話となる。. Ⅲ. ナブ・アヘ・エリバは、ある書物狂の老人を知っている。 その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に博学であ. 何と彼は文字と書物とを愛したであろう!読み、諳んじ、愛. る。彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、紙草や羊. 撫するだけではあきたらず、それを愛するの余りに、彼は、. 一人と共に火に入ったという説もあれば、数百の婢妾を薪の. が、最後の一月ほどの間、絶望の余り、言語に絶した淫蕩の. 火に投じてから自分も火に入ったという説もある。何しろ文. 生 活 を 送 っ た と い う も の も あ れ ば、 毎 日 ひ た す ら 潔 斎 し て. これは、文字の霊の話というよりも、文字通り「書物狂」の 話、書物に対するフェティシズムの例である。一体、作者は何. ギルガメシュ伝説の最古版の粘土板を噛砕かみくだき、水に. 処まで本気でこの例などを挙げているのだろうか。むしろ、注. 字通り煙になったこととて、どれが正しいのか一向見当がつ. 溶とかして飲んでしまったことがある。. 目したいのは、これに続くところである。. れを記録するよう命じたもうであろう。これはほんの一例だ. が、歴史とはこれでいいのであろうか。. かない。近々、大王はそれらの中の一つを選んで、自分にそ. シャマシュ神に祈り続けたというものもある。第一の妃ただ. ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の犠牲 者の第一に数えた。ただ、こうした外観の惨みじめさにもか かわらず、この老人は、実に――全く羨しいほど――いつも. -5-.

(7) れを殺した。大史の弟は引き継いで同じことを記録し、死者. と聞いた南史氏は、 〔「崔杼、其ノ君ヲ弑ス」と記した〕簡策. ので、 〔 崔 杼 は 〕 そ の ま ま に し た。 大 史 兄 弟 が 全 員 殺 さ れ た. が二人ふえたが、その弟〔四番目に〕さらに同じく記録した. 賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て、若い歴 史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った. 「歴史」とは何か。このことは文字と繋がっている。. 事柄をいうのであろうか?それとも、粘土板の文字をいうの. を手にして朝廷に出かけたが、すでに〔その通りに〕記録さ 波文庫). れたと聞いて引き返した。( 『春秋左氏伝中』小倉芳彦訳、岩. であろうか? 「昔、在った事」と「粘土板の文字」のどちらが「歴史」な のか。在ったものか、書かれたものか。これに対しての博士の 獅子狩と、獅子狩の浮彫とを混同しているような所がこの 問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えな. とも考えられる。だからこそ、どのように書くかが重要であり、. 文字に書かれたものこそが歴史であるという認識があったから. を示す挿話として知られている。けれども、そのような誇りは. これは史官(大史)が、正確に記録することを、命がけで守 ろうとする話であり、史官の仕事へのこだわり、仕事への誇り. いので、次のように答えた。歴史とは、昔在った事柄で、か. 答えとは。. つ粘土板に誌されたものである。この二つは同じことではな. 正確に書くことに命をかけるのである。この挿話とここでの博. で書かれたものなのか。歴史家は「それらの中の一つ」を選ぶ. と は 何 を 指 し て い る の か。 「在った事」なのか、それとも文字. ただ、ここでもう一度、最初の歴史家の言葉に戻って確認し ておきたいことがある。それは、「説」という言葉である。「説」. いか。. 士の言葉には、歴史についての同じ思想の背景があるのではな. いか。 「この二つ同じこと」だという。それに対して、歴史家がさ らに問う。 書洩らしは?と歴史家が聞く。 書洩らし?冗談ではない、書かれなかった事は、無かった 事じゃ。芽の出ぬ種子は、 結局初めから無かったのじゃわい。. じるところがあるのではないか。 「襄公二十五年の項目を引用. 「歴史」という言葉は出て このような「歴史」の捉え方は、 こ な い が、 『春秋左氏伝』の中の史官をめぐる有名な挿話と通. 言葉である。出来事があり、言葉となり、文字で書かれる。説. の間に在るもののように捉えられる。言うまでもなく、それは. いものということになる。とすると、あたかも出来事と文字と. よう命じられている。ということは、これはまだ書かれていな. しよう。. とはこの中間なのではないか。既に述べたように、やはり、こ. 歴史とはな、この粘土板のことじゃ。. 大史が「崔杼、其ノ君ヲ弑ス」と記録したので、崔子はこ. -6-.

(8) た事は、無かった事」ではないのか。ただし、この作品の冒頭. 文字になっていたとは考えられない。とすれば、「書かれなかっ. の作品では言葉と文字との区別が明確にされていない。 『古譚』の他の作品へと補助線を引いてみよう。 ここから、 まずは、 『山月記』である。この「書かれなかった事は、無かっ. 「誰も知らない」ことをどうして語り手は知っているのか。 文字のない時代が舞台となっている。シャクのことが何らかの. た事じゃ」 というのは、 次の場面に繋がっているのではないか。. ネウリ部落のシャクに憑きものがしたといふ評判である。 色々なものが此の男にのり移るのだそうだ。鷹だの狼だの獺. は、. だのの靈が哀れなシャクにのり移って、不思議な言葉を吐か. 他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。 しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作る ところの詩数百篇、固より、まだ世に行われておらぬ。遺稿. せるということである。. と あ っ て、 語 り 手 は あ た か も 同 時 代 の 人 間 の よ う な 設 定 に なっている。その時代の何処かで、 「評判」を聞いていたので. の所在も最早判らなくなっていよう。ところで、その中、今. ある。 ( そ う い う 人 物 と し て 読 者 に は 想 定 さ れ る。 人 物 化 さ れ. も尚記誦せるものが数十ある。これを我が為に伝録して戴き はない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせ. なかったものとなるということである。 『文字禍』の歴史の捉. 詩を文字として残さなければ、それはなかったものとなる。 李徴は袁傪に詩を「伝録」してもらわなければ、自分の存在も. 袁傪は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随って書きとら せた。. の中で述べられていることを、そのまま『狐憑』に当てはめる. は存在しないはずのものということになる。無論、『文字禍』. る。そして、後世の語り手には、 『文字禍』によれば、 「シャク」. この文のすぐ後に「後に希臘人がスキュティア人と呼んだ未開. たいのだ。何も、これに仍って一人前の詩人面をしたいので てまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なり. る。 )つまり、文字ではなく言葉を聞いていたことになる。そ. え方と同様のものが見出せるのである。. に違いはない。ただ、 『文字禍』から『狐憑』に補助線を引く. れであれば、「シャク」 という存在を知ることができる。しかし、. とも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。. さらに、今度は『狐憑』に繋げてみよう。この作品の最後に 注目したい。. の語り手の問題については、『狐憑』の分析の際にまた触れる ことにする。. ことで、 『狐憑』の問題点も明らかにされるのではないか。こ. のは問題があり、あくまでもそれぞれ独立した作品であること. の人種の中でも」と後世の(現代の)語り手の位置になってい. ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい 歌どもを唱い出すよりずっと以前に、斯うして一人の詩人が 喰はれて了ったことを、誰も知らない。. -7-.

(9) これにつづく文章もまた、作品相互の関連性に大きく係わっ ている。 指し示された瓦を見た。 若い歴史家は情なそうな顔をして、 それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌ誌す所の. ちょっと中島敦の寓意にこだわれすぎたかもしれない。し かし、 『狐憑』とはまた、この作家なりの「小説とは何か」、. ひいては「小説の言葉とは何か」の発見を語りこめた寓話で ある。. いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。太古以来のア. のじゃ。反対に、 文字の精の力ある手に触れなかったものは、. の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅の生命を得る. るな。文字の精共が、一度ある事柄を捉とらえて、これを己. ボルシッパなる明智の神ナブウの召使い給う文字の精霊共 の恐しい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らぬとみえ. えて来る。自分でも意外な位、色々な場面が鮮かに且つ微細. 日を逐うて巧みになる。想像による情景描写は益々生彩を加. いいのではないかと思っている。(中略)空想物語の構成は. 分でも解らぬ故、やはり之は一種の憑きものの所爲と考えて. 奇妙な仕草を幾月にも亙って続けて、猶、倦まないのか、自. とは、シャクも気がついている。しかし、何故自分は斯んな. シ ャ ク 自 身 に し て も、 自 分 の 近 頃 し て い る 事 柄 の 意 味 を 知ってはいない。勿論、普通の所謂憑きものと違うらしいこ. 『狐憑』において「シャク」は最初は弟のデックの右手がの り移ってしゃべっていると言われていたが、やがて、憑きもの. ヌ・エンリルの書に書上げられていない星は、なにゆえに存. に、 想像の中に浮び上がって来るのである。彼は驚きながら、. サルゴン王ハルディア征討行の一枚である。話しながら博士. 在せぬか?それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として. やはり之は何か或る憑きものが自分に憑いているのだと思わ. の吐き棄てた柘榴の種子がその表面に汚らしくくっついてい. 載せられなかったからじゃ。 (中略)この文字の精霊の力ほ. ない譯に行かない。但し、斯うして次から次へと故知らず生. なのか空想なのか分からなくなる。. ど恐ろしいものは無い。君やわしらが、文字を使って書きも. み出されて来る言葉共を後々迄も伝えるべき文字という道具. る。. のをしとるなどと思ったら大間違い。わしらこそ彼等文字の. ということも、勿論知る筈がない。. 今、自分の演じている役割が、後世どんな名前で呼ばれるか. があってもいい筈だということに、彼は未だ思い到らない。. 精霊にこき使われる下僕じゃ。 この最後の「文字を使って書きものをしとるなどと~」とい うのは、「歴史」についてではなく、むしろ、小説について述 (7). 作品の最後では「シャク」のことを「詩人」と呼んでいるが、 ここで書かれていることは、野口氏の指摘の通り小説家そのも. べている言葉として捉えられるのではないか。この『文字禍』 についてではないが、 『狐憑』については、野口武彦氏が「小 説発生の一寓話」と指摘している。. -8-.

(10) う。なぜ「誰も知らない」ことを知っているのか。それは語り. ような視点に立って、もう一度『狐憑』の最後の文を見てみよ. から『文字禍』に補助線を引いたことになる。 )そして、その. もまた「小説」 のことだと言えるのではないか。 (これは 『狐憑』. が小説のことを書いていると言うが、 この『文字禍』の「歴史」. 小説家と呼び詩人と呼ぶということである。つまり、 『狐憑』. を通して現れてくる。そのようにして作品を生むもの、それを. る。小説は自分で作り出すのではなく、文字が、言葉が小説家. はないか。文字が無いのであれば、言葉の下僕ということにな. び上がって来る」というのは、 「文字の下僕」というと同じで. 霊」もいない。しかし、何かが憑いたとか、 「想像の中に浮か. ののことであろう。ここでは「文字」はない。だから「文字の. た時の様々な記憶が。 (中略)生々しい感覚の記憶の群が忘. 今や、闇を劈く電光の一閃の中に、 遠い過去の世の記憶が、 一どきに蘇って来た。彼の魂が曾て、此の木乃伊に宿ってい. たな解釈ができるのではないか。. 「歴史」の定義を元にして考えてみると、次の一節について新. べることとする。 )この輪廻転生について、 『文字禍』における. 転生と言い切れない点もあるのだが、その点については後に述. だろうか。『木乃伊』の主題は輪廻転生である。(厳密には輪廻. 『木 ところで、では『木乃伊』との関連はないのだろうか。 乃伊』にこの歴史の捉え方を、補助線として引いてみたらどう. 界においてそのように言えるのである。. も存在させることになる。それは『狐憑』という作品の物語世. (中略). 却の淵から一時に蘇ってへ殺到して来た。. 何故か。言うまでもないことである。それは書かれているから. 手だけではなく、実は我々(読者)も知っているのだ。それは である。書かれていないものは存在していない。文字になって. 不思議なことに、名前は、何一つ、人の名も所の名も物の 名も、全然憶出せない。名の無い形と色と匂と動作とが、距. なぜ、 「名前は、何一つ」思い出せないのか。この点につい て「歴史」の定義を元に考えたい。いささか唐突だが、「歴史」. 離や時間の観念の奇妙に倒錯した異常な静けさの中で、彼の. がなぜ意味を持つのか。それは、人が死ぬからである。死ぬか. い る か ら、 「シャク」は存在しているのである。語り手におい. れている。小説とはすなわち「文字化」なのだということであ. ら こ そ 書 き 残 さ な け れ ば、 何 も 残 ら な い。 (歴史とは後世のも. ては「シャク」は作者によって書かれた時に存在し、読者は書. る。(定義と言うよりも悪い洒落と言うべきかもしれないが。 ). ののためのものである。 )では、死ななければどうなのか。書. 前に忽ち現れ、忽ち消えて行く。. 文字になっていないものは存在していない、逆に言えば、書か. かれたものを読むことで「シャク」を存在していると思うので. れたもの、文字になったものは存在している。ただし、必ずし. き残す必要はないのではないか。自分が輪廻転生していくので. ある。すなわち、ここにはあまりにも単純な小説の定義が示さ. も文字だけが存在を認めているわけではない。言葉にすること. -9-.

(11) れ以外の解釈もある。輪廻転生していくのだから、一つ一つの. いわゆる一般的な意味の「歴史」ではない。また、ここにはこ. 史」と言っているのは、パリスカスに係わるものだけであり、. のである。文字はいらないということになる。無論、 ここで 「歴. いか。「パリスカス」は、 「昔在ったこと」そのものを見ている. のことである。歴史そのものの自分に文字はいらないのではな. あれば、謂わば自分自身が歴史そのものとなる。名前とは文字. や、人間生活のすべての根柢が疑わしいものに見える。. 分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。もは. ではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な. いるのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかり. う。どうして、こんな恰好をしたものが、人間として通って. みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしま. ならぬか、判らなくなる。人間の身体を見ても、その通り。. 合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければ. 彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集. 今まで自明と思っていたことが、すべて疑わしいものになる。 「存在の不確かさ」(『狼疾記』 )とも言えるだろう。ただし、. 人生は一時のこと、仮の人生に過ぎず、その時に出会った人も. この「分析病」には疑義がある。一軒の家が分解していく時、. また仮の存在に過ぎない。名前もまた仮のものに過ぎず、残ら 存在しない孤独な世界とも言えるだろう。 (この点については. ないという解釈も出来よう。しかし、これは同時に、自分しか 『木乃伊』の分析でまた触れることとする。 ). それは 「木材と石と煉瓦と漆喰」という素材に分解されている。. ところが人間の方は 「奇怪な形をした部分部分」といっている。. たはずの字が、 忽然と分解して、 単なる直線どもの集りになっ. のことである。その時、今まで一定の意味と音とを有ってい. かめるために、一つの字を幾日もじっと睨み暮らした時以来. 実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士 の上に齎していたのである。それは彼が文字の霊の存在を確. もう一度『文字禍』に戻ろう。この後、博士は「分析病」に なる。. 書かれない(「前に言った通り」とあるので述べられたとすべ. うとしているのではないか。人間の身体は、だから具体的には. り、意味があるので、それを漆喰などの意味のないものにしよ. ている単位がずれている。これは窓や戸はそれ自体に機能があ. 分解するなら、それは皮膚とか髪とかではないのか。分解され. 戸、柱などではないのだろうか。逆に家に合わせて人間の方が. が、 人間ではないように」 ともあった。こちらは素材ではなく、. Ⅳ. てしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同. また、先には「魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等. じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るよ. きか) 。 手 や 足 や 頭 に は き ち ん と 機 能 が あ る。 文 字 を 構 成 し て. 部位ごとになっている。これを家に当てはめるのなら、 壁、 窓、. うになった。彼が一軒の家をじっと見ている中に、 その家は、. - 10 -.

(12) いる線には意味がない。しかし、家や人間を構成するものには 意味がある。家の場合、それを素材にすることで無理矢理意味 のないものにしているのである。しかも、ばらばらなものが魂 や霊によって統合されているとも述べられていたのであり、そ れであれば、 家には家の霊がいて統べられているのではないか。 だから、逆に分解しているのは、霊がいないことにもなる。こ. し、本当に文字の霊はいたのか。この点について、宮田 し(か 8) 一生氏は次のような指摘をしている。. 読者は、『文字禍』で、言葉に憑かれた一人の男の姿を見 いだすことはあっても、決して「文字の霊」を見出すことは できないであろう。. (9). 語り手は文字の霊の存在について、説明なしで語っているに 過ぎないのである。博士の方は文字の霊の存在を証明できたと. 言えるのだろうか。このことについて、奥野政元氏は次のよう. れも矛盾している。 さらに言えば、この家を分解してみる見方とは、大工や建築 家の見方なのである。人間に関して言えば医者の視点に近いの. 彼が文字の霊を発見するのは彼の分析癖によってであるこ とが明らかであろう。しかもそれは、分析によって明らかに. な指摘をしている。. である。博士の「分析病」は特別のようであって実は必要なも. されたのではなく、むしろ分析によっては明らかにし得ない. ものの存在が明らかにされたというべきである。. しかし、まだこれだけではなかった。数日後ニネヴェ・ア ルベラの地方を襲った大地震の時、博士は、たまたま自家の. いのである。つまり、何か解らないが、文字の霊がいるはずで. は「明らかにし得ないものの存在が明らかにされた」に過ぎな. である。奥野氏が指摘するように、文字の霊そのものについて. このような読み手は、度重なる博士の不届きによって、こ の小説における《文字の霊》の不在を確認してゆくことにな. - 11 -. のでもある。 この後、博士は文字の霊の害を大王に報告し、そのために謹 慎を命じられることになる。そして、そんな博士を文字の霊は. 書庫の中にいた。彼の家は古かったので、壁が崩れ書架が倒. あるということになる。さらに言えば、ここで述べられている. 「一つの霊がこれを統 博士は文字が線となって分解した時、 べるのでなくては」と考えて、謂わば、霊の存在を想定したの. れた。夥しい書籍が――数百枚の重い粘土板が、文字共の凄. 害というものが、文字の霊によるものなのか、文字そのものに. 許さなかった。. まじい呪の声と共にこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙. このような点についても、戸塚安津子氏の指摘がある。. ( (. よるものなのか(いや、そもそも分けられるのか)が解らない。. にも圧死した。 「文字の霊が、この讒謗者をただで置く訳が無」く、博士は 「圧死した」のである。博士は「文字の霊」に殺されたことに なる。作品の最初に「文字の霊などと~」とあったが、最後で は文字の霊は実在していることになる。. (1.

(13) 手から読み手へと投げかけられた問題なのである。. ての、この作品を通じての問題となる。冒頭の一文は、語り. アヘ・エリバにとっての問題であった以上に、読み手にとっ. のが、一体、あるものか、どうか》とは、物語の主人公ナブ・. 信することになる。 (中略)つまり《文字の霊などといふも. の霊》の存在を確信すればするほど、読み手はその不在を確. ある。(中略)しかしエリバ博士とは反対に、博士が《文字. 固確信していくのであり、その過程は文中の表現に明らかで. る。勿論博士は研究が進むにつれて《文字の霊》の存在を断. や、文字の害がどのようなものかである。少なくとも、読者に. するかどうかではなく、文字の霊の害はどのようなものか、い. ばれたに過ぎない。しかも、書かれているのは文字の霊が存在. いて、この問を立てたことになる。博士は語り手の掌の中で弄. である。とすれば、語り手は最初から文字の霊の存在を知って. のである。それが文字の霊のためと知っているのは語り手だけ. しかも、博士自身は文字の霊によって殺されたことは知らない. 取れるのであり、 必ずしも、文字の霊によるものとはいえない。. はなっている。けれども、博士の死は地震によるものだと読み. は文字の霊の害なのか、文字の害なのか区別がつかない。いや、. 特定することはできない。作品の外から、作品の中に投げ込ま. ことにもなる。確かに、この疑問は作品中の誰かによるものと. しかないという事だが、冒頭の一文が語り手によるものという. としている。博士が答えられないのなら、読み手が答えを探す. を持つことである。自明性が喪失するのも当然と言わざるを得. である博士が文字に疑問を持つことは、正に自分の存在に疑問. が存在する理由なのだということである。とすれば、作中人物. ある。あまりに単純なことだが、文字にすること、それが作品. むしろ、この作品で注目するのは「歴史」についての記述で あり、それがそのまま小説についても当てはまるということで. そもそも文字の害で良いのだ。なぜなら 『文字禍』なのだから。. れた謎という事になる。この語り手について、 戸塚氏はさらに、. ないし、博士が文字の霊の存在を確信するのも宜なるかなであ. 戸塚氏は明快に読み手は「不在を確信することになる。 」と 述べている。博士は確信はしているが、証明はしていない。ま. 次のように述べている。. の存在を否定したようなものである。その結果、作品から姿を. た、「冒頭の一文は、 語り手から読み手へと投げかけられた問題」. 「文字禍」における語り手の存在は、ナブ・アヘ・エリバ の悲劇を滑稽な昔話に変えてしまったのである。. 品で書かれているのは文字禍であり文字化である。. 消すことになったとも考えられるのである。すなわち、この作. る。しかし、一方で博士は文字の害を言い過ぎた。自分で自分. この作品は、最初に「文字の霊などというものが、一体、あ るものか、どうか」という問から始まっていた。博士はその謎 を解く探偵役であった。しかし、探偵はこの謎を解ききれずに 死ぬ。いや、博士の死こそが文字の霊の存在を証明したことに. - 12 -.

(14) Ⅴ. グリ族の一隊が、馬上に偃月刀を振りかざして疾風の如くに. 此の部落を襲うて来た。(中略)後には、血に染んだ湖畔の. 土の上に、頭と右手との無い屍体ばかりが幾つか殘されてい. て打捨てられていた。顏が無いので、服装と持物とによって. (中略)シャクの弟のデックの屍体もそうした辱しめを受け. た。頭と右手だけは、侵略者が斬取って持って帰って了った。. ネウリ部落のシャクに憑きものがしたという評判である。 色々なものが此の男にのり移るのだそうだ。鷹だの狼だの獺. 次に『狐憑』を取り上げよう。. だのの霊が哀れなシャクにのり移って、不思議な言葉を吐か. 見分ける外はないのだが、革帶の目印と鉞の飾とによって紛. 「のり移るのだ 先にも触れたが、この冒頭は「評判である」 そうだ」とあって、あたかも語り手は同時代の近くの場所にい. そう言っていた者がある。. の死を悼んでいるのとは何処か違うように見えた、と、後に. たまま其の慘めな姿を眺めていた。其の樣子が、どうも、弟. れもない弟の屍体をたずね出した時、シャクは暫く茫っとし. せるということである。. る人物として想定される。噂であれ「シャク」のことを知って. る。この後、デックの魂がシャクに憑く。. 「去年の春」と同時代であることが示され、「後にそう言っ ていた者がある。」と語り手自身が聞いた話として語られてい. いる人物ということになる。この噂、評判がこの作品の謎の始 まりである。シャクに何が起こったのか。そのことがこれから 語られていく事になる。. 「後に」とあるように、この語り手は現代から語っているの である。更にこの後には「ネウリ部落のシャクは、斯うした湖. 後 に 希 臘 人 が ス キ ュ テ ィ ア 人 と 呼 ん だ 未 開 の 人 種 の 中 で も、この種族は特に一風変わっている。. た。 (中略)シャクが弟の屍体の傍に茫然と立っていた時、. クの右手がしゃべっているのに違いないという結論に達し. る。一同が考えた末、それは、蛮人に斬取られた彼の弟デッ. の人々には判らなかった。言葉つきから判断すれば、それは. ところが、このすぐ後には、現代にいると思われる語り手が 登場する。. 上民の最も平凡な一人であった。 」とある。 「斯うした」とある. 秘かにデックの魂が兄の中に忍び入ったのだと人々は考えた。. その後間もなくシャクは妙な譫言をいうようになった。何 が此の男にのり移って奇怪な言葉を吐かせるのか、初め近処. ようにこれは現代の語り手の言葉である。ただ、この後また同. デックの魂がシャクに忍び込みデックの思いを語る。 ただし、 これは「一同が考えた」ものであり、人々の考えである。とこ. 生きながら皮を剥がれた野獣の霊ででもあるように思われ. 時代の語り手となっている。 シャクが変になり始めたのは、去年の春、弟のデックが死 んで以来のことである。その時は、北方から剽悍な遊牧民ウ. - 13 -.

(15) た。今度は凡そシャクと関係のない動物や人間共の言葉だっ. 平靜に復ったシャクが再び譫言を吐き始めた時、人々は驚い. さて、それ迄は、彼の最も親しい肉親、及び其の右手のこ ととて、彼にのり移るのも不思議はなかつたが、其の後一時. ろが、段々様子が違ってくる。. えた。. 己の想像を以て自分以外のものに乗り移ることの面白さを教. 言える。しかし、之が元来空想的な傾向を有つシャクに、自. い、妙なことを口走って了ったのだ。之は彼の作為でないと. いいのではないかと思っている。初めは確かに、弟の死を悲. しみ、其の首や手の行方を憤ろしく思い描いている中に、つ. たからである。. 聴衆は次第にふえて行ったが、或時彼等の一人が斯んなこと. 多くの聞き手を期待するようになったことである。シャクの. 人々は珍しがってシャクの譫言を聞きに来た。をかしいの は、シャクの方でも(或いは、シャクに宿る霊共の方でも). 乗 り 移 っ て い た わ け で は な い こ と に な る。 た だ 無 意 識 に し ゃ. 走って」とあることである。この通りであれば、デックの霊が. 一つ確認しておきたいのは、 「初めは確かに、~妙なことを口. では、 シャク自身も他の憑きものとは違うことを意識している。. と解説を始めるのである。語り手の位置が変わっている。ここ. それまで、誰かから話を聞くという位置にいた語り手が、こ こではシャクの内面を語り出す。さらに、「作為でないと言える」. を言った。シャクの言葉は、憑きものがしゃべっているので. べっていたということになる。「作為」ではない。そこから、. (中略). はないぞ、あれはシャクが考えてしゃべっているのではない. とは、シャクも気がついている。しかし、何故自分は斯んな. シ ャ ク 自 身 に し て も、 自 分 の 近 頃 し て い る 事 柄 の 意 味 を 知ってはいない。勿論、普通の所謂憑きものと違うらしいこ. はシャク自身も感じていた。. しゃべっているのではないかという疑いも出てきた。このこと. が 語 っ て い る と し て い た が、 霊 で は な く シ ャ ク 自 身 が 考 え て. 「 (或い シャクは魚や動物たちの生活や気持ちをしゃべった。 は、 シ ャ ク に 宿 る 霊 共 の 方 で も ) 」と、ここではあくまでも霊. ちらからどちらに移っているのか解りにくい。さらに、ここに. われており、さらに「憑きもの」という言葉もあって、一体ど. いるだけである。 「乗り移る」という言葉がいささか曖昧に使. とでも呼ぶべきものかもしれない。けれども、厳密に言えば、. ているということではないのだろう。それは、謂わば文学の霊. るからということになる。 この憑いているというのは、 乗り移っ. しかも、そのようなことをさせるのは、何かが自分に憑いてい. 今度は想像力を使って自分以外のものに乗り移ることになる。. か。. 奇妙な仕草を幾月にも亙って続けて、猶、倦まないのか、自. 聴衆が加わってくる。. シャクは何かに乗り移っているわけではないだろう。想像して. 分でも解らぬ故、やはり之は一種の憑きものの所為と考えて. - 14 -.

(16) の虜になった。そうして一切を忘れながら、その流れの方向. 溺らせながら、澎湃として彼を襲って来る。彼は遂に全くそ. ない。かえって目まぐるしい飛躍のうちに、あらゆるものを. 次第に聴衆が増し、彼等の表情が、自分の物語の一弛一張 につれて、或いは安堵の・或いは恐怖の・僞ならぬ色を浮べ. に、嵐のような勢いで筆を駆った。. この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でも なければ、 愛憎でもない。まして毀誉に煩わされる心などは、. るのを見るにつけ、此の面白さは抑え切れぬものとなった。. とうに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思. 空想物語の構成は日を逐うて巧みになる。想像による情景描 が鮮かに且つ微細に、想像の中に浮び上って来るのである。. 議な悦である。あるいは恍惚たる悲壮の感激である。この感. 写は益々生彩を加えて来る。自分でも意外な位、色々な場面 彼は驚きながら、やはり之は何か或る憑きものが自分に憑い. 激を知らないものに、どうして戯作三昧の心境が味到されよ. シャクもまた「自分でも意外な位、色々な場面が鮮かに且つ 微細に、想像の中に浮び上って来るのである。 」のであり、ま. ているのだと思わない訳に行かない。但し、斯うして次から. さに戯作三昧の境地にいると言えるのである。さらに、シャク. 次へと故知らず生み出されて来る言葉共を後々迄も伝えるべ. ここには、小説が文字として書かれる以前、物語が語られる 時代が語られている。作者と聴衆とが相互に関係し合って、物. は「何かある憑きもの」が憑いたと思っているが、それは『文. う。どうして戯作者の厳かな魂が理解されよう。ここにこそ. 語を紡ぎ出していく。文字がないからこそ可能なことである。. 字禍』でいう「文字の精霊」ということになるだろう。その文. 「人生」は、あらゆるその残滓を洗って、まるで新しい鉱石. (文字が書かれるようになって生まれたのは読者だ。 )このよ. 字の精霊、むしろあるとしたら文学の霊がシャクに憑いていて、. き文字といふ道具があってもいい筈だということに、彼は未. うに言葉が生み出されていくのは、芥川龍之介の『戯作三昧』. 我知らず言葉が生み出されてくるのである。それは、見方を変. のように、美しく作者の前に、輝いているではないか。……. (「大阪毎日新聞」大正六年十月二十日~十一月四日)の中で、. だ思い到らない。今、自分の演じている役割が、後世どんな. 馬琴が到達する戯作三昧の境地と同じではないか。. るのではないか。芥川の『戯作三昧』には、文字と書かれてい. 名前で呼ばれるかということも、勿論知る筈がない。. 頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々と してどこからか溢れて来る。 (中略). 書き続ける。やはりこれも「文字の精霊共の下僕になっている」. として捉えられる。しかし、それは最も幸福な時でもある。あ. ないが、流れてくるものは言葉であろう。その言葉をひたすら. えると「文字の精霊共の下僕になっている」としても捉えられ. 「根かぎり書きつづけろ。今己おれが書いていることは、今 でなければ書けないことかも知れないぞ。 」 しかし光の靄もやに似た流れは、少しもその速力をゆるめ. - 15 -.

(17) れたものは「不可思議な悦」に通じるものである。. 程──いつも幸福そうに見えた」ように。この文字の霊に憑か. たかも、『文字禍』の書物狂の老人が「実に──全く羨ましい. 超えた力によって生まれるということになる。. そ生まれるものだということか。ここでは、作為もまた個人を. う。あるいは、小説というものは個人というものが確立してこ. んな奴が飛出したことは、何か自然に悖る不吉なことだと。. しかし、シャクが人気を得ることは、必ずしも良いこととば かりは言えない。. 此の長老が偶々、家の印として豹の爪を有つ・最も有力な家. また、ここでは「後世」とあって、語り手は後世の語り手、 現代の語り手の位置に移っている。 シャクの物語がどうやら彼の作為らしいと思われ出してか らも、聴衆は決して減らなかった。却って彼に向って次々に. 柄 の 者 だ っ た の で、 こ の 老 人 の 説 は 全 長 老 の 支 持 す る 所 と. 若い者達がシャクの話に聞き惚れて仕事を怠るのを見て、 部落の長老連が苦い顏をした。 (中略)いづれにしても、こ. 新しい話を作ることを求めた。それがシャクの作り話だとし. なった。彼等は祕かにシャクの排斥を企んだ。. この後、シャクの物語は人気を博していく。. ても、生来凡庸なあのシャクに、あんな素晴らしい話を作ら. シャクは「後世」には詩人とか小説家と呼ばれる役割を担っ ているのだが、そもそもそのこと自体がこの時代、この社会か. せるものは確かに憑きものに違いないと、彼等も亦作者自身. ら逸脱している。ネウリ部族は「未開の人種」で「湖上に家を. えたものを語るだけであったものが、創作になっていたと読め. 「新しい話を作る」というのは、それまで、想像力によって見. ともいうのである。それであれば、 そもそも作為と言えるのか。. それはシャク個人の意識的なものではなく、憑きもののせいだ. ものは確かに憑きものに違いない」と作為であったとしても、. している。しかも、その後に「あんな素晴らしい話を作らせる. この引用の最初の文で「決して減らなかった」とあるのは、 作為であったら減るはずであるという前提があったことをも示. 示している。ここにも「最も有力な家柄」と社会性が示されて. 建てていること、そもそも部落を作っていることは社会性をも. ものの生活をしているように見えるネウリ部落であるが、家を. なのだろう。そのような存在は排斥される。ただし、自然その. 存在なのであり、文字のない社会に現れるのは不吉ということ. になる。詩人、小説家とは、文字化した社会にこそ現れるべき. きているのである。その中で詩人は自然に悖る存在ということ. ので、何かを栽培したりしているわけではない。自然と共に生. と同様の考え方をした。憑きもののしていない彼等には、実 際に見もしない事柄に就いて、あんなに詳しく述べることな. るのである。けれども、 まだ、 小説というものがない時代では、. いる。そして、この社会性がこの後のシャクの運命に係わって. 建てて」住んでいる。生活は狩猟や木の実を食べるといったも. ど、思いも寄らぬからである。. 作者の作為ということすら確立していないということなのだろ. - 16 -.

(18) くる。 シャクの物語は、周囲の人間社会に材料を採ることが次第 に多くなった。何時迄も鷹や牡牛の話では聴衆が満足しなく なって来たからである。シャクは、 美しく若い男女の物語や、 吝嗇で嫉妬深い老婆の話や、他人には威張っていても老妻に. る。自然のままに生きているような「ネウリ部落」でも、一人. の人間を喰わすだけの食糧の余剰があったということである。. 「歌を忘れたカナリア」 しかし、シャクは詩を忘れてしまう。 となる。. シャクも野に出たが、何か眼の光も鈍く、呆けたように見 える。人々は、彼が最早物語をしなくなったのに気が付いた。. シャクの話は人間に係わることになり当然そのことが人間同 士の関係に係わることになる。その結果シャクを排斥しようと. が落ちたと。多くの物語をシャクに語らせた憑きものが、最. かり生彩を失って了った。人々は言った。シャクの憑きもの. できない。いや、 それさえ満足には話せない。言葉つきもすっ. だけは頭の上がらぬ酋長の話をするようになった。. する力は強まる。シャクは聴衆には耳を貸すが社会については. 早、明らかに落ちたのである。. 強いて話を求めても、以前したことのある話の蒸し返ししか. 全く無視している。長老たちは「シャクが常に部落民としての. 憑きものは落ちたが、以前の勤勉の習慣は戻って來なかっ た。働きもせず、さりとて、物語をするでもなく、シャクは. 成程そうだと思った。実際、 シャクは何もしなかっ 人々は、 たから。冬籠りに必要な品々を頒け合う時になって、人々は. 此処で、シャクが再び元の勤勉な生活者に復帰すれば、事 態は平穏のうちに解決したであろう。では、シャクは何故に. シャクは物(語(を忘れた。しかも、勤勉さは元には戻らなかっ た。越智良二氏も、. 毎日ぼんやり湖を眺めて暮らした。. 特に、はっきりと、それを感じた。最も熱心なシャクの聞き. 元の生活者に復帰することが出来なかったのであろうか。. 働かなくとも、話のおもしろさで食物を得ることができる。 シャクはこの時点で職業としての詩人になったと言えるだろ. なぜ何も書かれていないのか、ということである。無論、越智. 忘れた理由も勤勉の習慣が戻ってこなかった理由についても、. - 17 -. 義務を怠っていることに、 みんなの注意を向けようとした。 シャ クは釣をしない。シャクは馬の世話をしない。 (中略) 誰か、 シャ クが村の仕事をするのを見た者があるか?」とシャクが仕事を. 手までが。それでも、人々はシャクの話の面白さに惹かれて. しないことに注意を向けようとする。. いたので、働かないシャクにも不承無承冬の食物を頒け与え. う。詩で食べていけるということである。また、詩人とは芸術. 氏は書かれていないからこそ、その理由を考えたというわけだ. た。. 家とは社会の余剰で生きているものであることも示されてい. と述べており、その理由についても考察をしている。しかし、 問題は、なぜ、物語を忘れたのかということではなく、物語を. (1.

(19) きりと書かれていないために、いや、いないからこそ、ここに. く物語を忘れてしまうということなのである。 また、 理由がはっ. が、答えがないことこそが重要だと考える。つまり、理由も無. もっと大きな理由は、シャクが作り話をしたことにあった のである。いいかえれば、シャクが語ったのがほかならぬ小. いる。. 落のひんしゅくを買」ったことをあげた上で次のように述べて. 文字の、あるいは文学の禍を見ることが出来るのではないか。. 説の言葉だったからである。. 殺された最大の原因はシャクが 〈小説家〉になったからである、. 「無為徒食」より「小説の(言(葉を」語ったことに注目してい る。これに対して、宮田一生氏は、 「野口氏によればシャクが. 一度文学に染まった者は、もう二度と元の生活には戻れないと 物語を語ることは、ある日突然何かに憑かれたように始まり、. に 供 せ ら れ る の で あ る。 シ ャ ク の 最 も 熱 心 な 聴 手 だ っ た 縮. とって、病気で斃れた者の外、凡ての新しい屍体は当然食用. つ ふ つ 煮 え て い た。 食 物 の 余 り 豊 で な い 此 の 地 方 の 住 民 に. そして、そのために喰われることになる。 次の日の夕方、 湖畔の焚火を囲んで盛んな饗宴が開かれた。 大鍋の中では、羊や馬の肉に交って、哀れなシャクの肉もふ. 戻れない。ということを読み取ればそれで良いのではないか。. 糾弾されたのである。. い。少なくとも建て前としては、物語る〈行為〉そのものが. 略)原因としてシャクの話の〈内容〉が糾弾されるのではな. の一員として、 「排斥」されることは〈死〉を意味する。(中. たのである。 「排斥」と「処分」とは違うが、村落共同社会. 「シャクの排斥」は「若い者達がシャクの話に聞き惚れて 仕事を怠る」現状を危惧した「長老連」によって「企」まれ. ということになる。しかし、文脈に忠実な読みをするならば、. いうことである。しかも、それは突然起こることなのである。 それが落ちてしまったら失われてしまう。しかも、もう元には. れっ毛の青年が、焚火に顏を火照らせながらシャクの肩の肉. 脈に沿えばその点が重要となるだろう。さらに、宮田氏はその. 「話の〈内容〉」すなわち「小説の言葉」では と述べている。 なく、 「物語る〈行為〉 」そのものが問題だとするのである。確. この見解には少し無理がある。 」とした上で、. を頬張った。例の長老が、憎い仇の大腿骨を右手に、骨に付 いた肉を旨そうにしゃぶった。しゃぶり終ってから骨を遠く. うえで野口氏のいう「その無為徒食が全村落のひんしゅく」を. 買ったことが加わったことを理由としている。しかし、その前. かに、シャクの排斥の動きはかなり前からあったのであり、文. ではないために、 詩人は食べられてしまう。 「食物が余り豊」 いや、詩人であれば食料をもらえた、シャクは詩人でなくなっ. へ抛ると、水音がし、骨は湖に沈んで行った。. たから食べられたというべきであろう。. にシャクがすでに物語をしなくなったことにこそ注目すべきだ. - 18 -. (1. これまで、このシャクが食(べ(られた理由について様々論及さ れてきた。例えば、野口武彦氏は、まず「その無為徒食が全村 (1.

(20) (. (. ろう。この点について、松村良氏は次のように述べている。 結局シャクが喰われてしまったのは、長老達の奸計による ものではなく、ただ〈声〉を失ったためである。と言うより 〈声〉は本来発せられると同時に消えてしまうものである以 上、〈声〉を本質とするシャクの存在が肉体もろとも消失し. る。噂の顛末はここで終わる。しかし、作品はここでは終わら ない。 0. 0. ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい 歌どもを唱い出すよりずっと以前に、斯うして一人の詩人が. 喰われて了ったことを、誰も知らない。. 論、長老達が黙っていないだろうが、 若者達との間の争いとなっ. れ消えるしかないとしても、まだ生き続けられただろうか。無. のかという勝手な想像も生まれる。 〈声〉としての存在はいず. られる。だから、逆に、物語を語り続けたならば、どうだった. のであり、元に戻れなかったことも重要なファクターだと考え. ば、事態は平穏のうちに解決したであろう。 」と指摘している. 重要ではないか。越智氏も「再び元の勤勉な生活者に復帰すれ. に〈声〉を失っただけではなく、元に戻れなかったことの方が. する理由と言うことになる。とても興味深い指摘であるが、単. クは文字を持たず、声だけの存在であり、そのことが「消失」. ことである。いや、詩人というのは文字に繋がるもので、シャ. 」を 「長老達の奸計」は「小説の言葉」や「物語る〈行為〉 指し、「〈声〉を失った」というのは、詩人でなくなったという. 誰かが知らなければ後世の人間が知ることは出来ないことには. た作品であって、無条件にここに持ち込むわけにはいかないが、. おさらである。無論、二つの作品はあくまでもそれぞれ独立し. かれなかった事は、無かった事じゃ。 」(『文字禍』)となればな. らない」ようなことを知るわけはないのである。まして、「書. 現代の語り手はシャクのことを知ることは出来ない。「誰も知. 同時代の語り手は「詩人」であることを知る由もない。一方、. とができる。ただし、これも言うまでも無いことだなのだが、. 語り手であれば、少なくとも「喰われて了った」ことを知るこ. 故知っているのか。言うまでも無いことだが、当初の同時代の. 最後がこの文章ということになる。「誰も知らない」ことを何. 途中から全知の現代の語り手の解説となっていた。その解説の. ばらくは同時代の語り手によって語られることになる。それが. 後に「後に」とあって現代にいる語り手が登場する。その後し. てしまうのも、やむを得なかったのである。. てしまうのだろうか。一人ぐらいなら食わせていけるほどの余. 変わらない。とすれば、この同時代と現代という語り手の二重. この作品の語り手は、最初は「という評判である」と同時代 の人物として設定されていたと考えられる。しかし、そのすぐ. 剰はこの村にはありそうだから、あるいは助かる可能性もある. 性が最後の文章を書かせたことになる。シャクが食われたこと. (. のではないか。これは余談に過ぎたが、このようなことを踏ま. (. えると、やはり問題は物語をしなくなったこと、そしてその上. を知っている者と詩人であることを知っている者、それが二重. - 19 -. (1. で元に戻らなかったことが喰われて了った理由とすべきであ. (1.

(21) になった語り手ということになる。 いか。. いう言葉に、作者の憤りを感じるとすれば、そこに作者自身が. にシャクが戯作三昧の世界に入ったことに注目し、あのように. 考えれば良いことだが、本稿では、これまで指摘してきたよう. どうしても思出せない」ようなのである。なぜ「夢想的」なの. 及の地に入った頃から異常になり「何か思出そうとしながら、. 次に『木乃伊』についても簡単に触れておく。この作品の主 人公である「パリスカス」は「何処か夢想的な所」があり、埃. Ⅵ. 投影されているから、作者の不安が投影されているからではな. さらに、ここでは「詩人」と呼んでいるが、シャクは詩人な のか。というよりも、この最後の文章はそのように規定したと いうことである。読者がそれに納得するかどうかは別として、 規定された以上、ここから遡って、シャクのどのような点が詩. 物語を作ることそれをこそ詩人というのではないかと考えるの. か、何を思い出そうとしているのか、これがこの作品の最初に. 人なのかということが問われることになる。それは読者個々に. である。. えが語られることになる。. さらには、 そうなった時には社会から抹殺されるのである。 (無. ということでもある。しかも、 その時にはもう元には戻れない。. だからこそ、いつ憑き物が落ち小説が書けなくなるか解らない. 字の霊なり、文学の霊なりに依存しているということである。. 自分ではどうしようもないということである。あくまでも、文. は詩はある日突然降ってくる。そして、何かに憑かれるとは、. んだ。こんな事だったのか。彼は思わず声に出して言った。. 出せなかったことが、今は実に、はっきり判るのである。な. うとする昨夜の夢のように、解りそうでいて、どうしても思. 彼は大変やすらかな気持になった。気がつくと、挨及入国 以来、気になって仕方のなかったこと 朝になって思出そ. る。. 最初のヒントは埃及の言葉が解ることである。次に歴史や文 字を知っていることである。そして、木乃伊に出会い謎が解け. 設定された謎であり、この後幾つかのヒントを経てこの謎の答. このような点を踏まえてもう一度作品全体に目を向けるなら ば、この作品には小説家になることへの不安こそが読み取れる. 論、現代では喰われて了う事はないが、比喩的には社会に喰わ. 「俺は、もと、此の木乃伊だったんだよ。たしかに。 」. のではないだろうか。何かに憑かれたように、物語は、あるい. れて了う事はあり得るだろう。 )すなわち、今、勤勉な生活を. 「パリスカス」が思い出そうとしていたのはこのことであっ た。また、彼が「夢想的」なのは、本当の自分を知らなかった. - -. まりにも容易だが) 、小説家を目指す事への不安が描かれてい. ためとしても捉えられる。. しているものが(教師をしている中島敦自身を想定するのはあ ると考えられるのである。 「一人の詩人が喰われて了った」と. - 20 -.

(22) 生々しい感覚の記憶の群が忘却の淵から一時に蘇って、殺到. 暗 い 神 殿 の 奥 に 脆 い た 時 の 冷 や か な 石 の 感 触 や、 そ う し た. 通を行交う白衣の人々の姿や、沐浴のあとの香油の旬や、薄. 蔭の微風のそよぎや、氾濫のあとの泥のにおいや、繁華な大. た時の様々な記憶が。砂地の灼げつくような陽の直射や、木. 闇を劈く電光の一閃の中に、 遠い過去の世の記憶が、 今や、 一どきに蘇って来た。彼の魂が曾て、此の木乃伊に宿ってい. で、前世の己は、忽然と、前々世の己の生活を思出す……. 今と同じような薄暗さ、うすら冷たさ、挨っぽいにおいの中. 乃伊が前々世の己の身体であることを確認せねばならない。. 前世の自分が、或る薄暗い小室の中で、一つの木乃伊と向 い合って立っている。おののきつつ、前世の自分は、其の木. 其の時、闇の底から、彼の魂の眼は、一つの奇怪な前世の 己の姿を見付け出した。. 世の記憶の中に、恐らくは、前々々世の己の同じ姿を見るの. 彼はぞっとした。一体どうしたことだ。この恐ろしい一致 は。怯れずに尚仔細に観るならば、前世に喚起した、 その前々. 「パリスカス」はこの木乃伊の生まれ変わりであり、かつて の記憶が蘇ってきた。 「パリスカス」は転生していたというこ. ではなかろうか。合せ鏡のように、無限に内に畳まれて行く. - -. 目くるめくばかり無限に. は違う。越智良二氏は、この場面を引用した後に、次のように. になるということである。ただし、これは一般的な輪廻転生と ( (. - 21 -. して来た。. とになる。しかし、名前は思い出せない。. 続いているのではないか?. まるで、字幕のない無声映画のような世界が展開していく。 転生していく者にとって、その時々の名前は意味がないという. 述べている。. 前世の彼も現世と同じように前世の木乃伊に出会っている。 そして、それは無限に続いていたのである。常に、彼は前世の. 不気味な記憶の連続が、無限に. 不思議なことに、名前は、何一つ、人の名も所の名も物の 名も、全然憶出せない。名の無い形と色と匂と動作とが、距 離や時間の観念の奇妙に倒錯した異常な静けさの中で、彼の. ことなのか。 『文字禍』との関係でいえば、名前とは文字のこ. 前に忽ち現れ、忽ち消えて行く。. とであり、それは過去の歴史となる。自らが転生していくのな. 木乃伊に出会うことになる。ということは、常に自らは木乃伊. ら、自らが歴史そのものということになり、文字はいらないこ. これは、一見、輪廻転生の思想を思わせる。が、それは、 過去から現在へ、そして未来へと蘇生してゆくことによって、. ある。パリスカスの思弁は、そうした未来へ繋がる「救い」. 現世の有限を超え無限の生命へ連なろうとする救いの思想で. この後、前世の彼の死の場面があり、パリスカスは「幾百年 間」して生まれ変わったのである。そして、前世の自分の姿を. の無い点で、矢張り、それとは異質である。これは、寧ろ、. とにはなる。. 見る。. (1.

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