教材「ろくをさばく」考(2)
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(2) 要. ︵教育科学編︶. 第六十巻. 第一号. 平成二十一年八月. 野. 比呂己. で取り上げなかった他の三淵忠. 佐. 北海道教育大学釧路校国語科教育研究室. 教材﹁ろくをさばく﹂考︵2︶. 北海道教育大学紀 要. 概 本稿は、﹁教材 ﹁ ろ く を さ ば く ﹂ 考 ︵ 1 ︶ ﹂. 彦の交友関係を整理する。加えて、忠彦の人柄や思想などを確認し、忠彦の 人となりを明らかにしていきたい。教材として﹁ろくをさばく﹂を研究する. ﹂に続くものである。﹁教材﹁ろ. 上で、その前碇としようとするものである。. 研究の経緯. 本箱は﹁教材﹁ ろ く を さ ば く ﹂ 考 ︵ 1 ︶. 筆者・三淵忠彦. 教材 ﹁ ろ く を さ ば く ﹂. くをさばく﹂考︵ 1 ︶ ﹂ は 、 次 の よ う に 構 成 さ れ て い る 。. 二. 5. 4. 3. 2. 1. 交友関係. 最高裁判所長官就任の経緯. 三井信託株式会社. 三淵忠彦についての資料. 教科書、及び指導書. ︵1︶ 本間喜一 ︵2︶ 石渡敏一. ︵3︶長谷川如是閑・松永安左工門・佐々木惣一. ︻三淵忠彦・年譜︼. ︵日本評論社 昭和四十人年︵一九七三︶十月︶を入手した。. ﹁教材﹁ろくをさばく﹂考 ︵1︶﹂執筆後、小林俊三の ﹃私の会った明治 の名法曹物語﹄. 小林は、戦前は第二東京弁護士会会長を務めるなど弁護士法曹として、戦後. になって東京高等裁判所長官、最高裁判所判事を歴任し裁判法曹として法曹. 界において活躍した人物である。﹃私の会った明治の名法曹物語﹄ には、法. 曹界において巨歩を印し、発展途上であった日本の司法制度に各方面から大. きな影響を与えた二十五人の法曹が取り上げられている。裁判法曹の一人と. して三淵忠彦が取り上げられており、忠彦についての記述は、実に全四百五. 十一頁中五十八頁にわたっており、最も多くの頁を割いている。小林にとっ. の内容. て忠彦がどれだけかかわりの深い人物だったかということがうかがい知れよ. う。当然のことながら、そこには ﹁教材﹁ろくをさばく﹂考 ︵1︶﹂. を補完できる記述も少なくはない。本来であれば小林の研究を生かし全面的. ︵1︶﹂を補完するものであることは確かではあるが、その内. に書き直しに取り組まなければならいところである。しかし、﹁教材﹁ろく をさばく﹂考. 容自体は大きく変わるものではない。それは別偏に譲ることとし、本箱では. ﹁教材﹁ろくをさばく﹂考︵1︶﹂ の論を受け、分析・考察を進めていく。.
(3) 佐 野 比呂己. ︵4︶. 三宅正太郎. 昭和二十年︵一 九 四 五 ︶. 五月、東京空襲により東京渋谷の忠彦宅が全焼す. る。忠彦にとって 自 宅 以 上 に 大 切 な も の を 失 う 。. を、刑事裁判に応用したので、当時の刑事裁判としては、とにかく一. 種の特色を持ったわけであるが、それ等の私の仕事は、全くこの親し. みのこもつた指導の下に成り立つたものなのである。. 忠彦の愛読書である ﹃資治通鑑﹄を京都で買い求め、わざわざ小田原まで. 届けるという労を惜しまない三宅の行動から、忠彦と三宅の粋がどれほど強. 私の渋谷の宅は、どの部屋も書物も一杯であつた。勿論稀書珍書な どは全くなく、善本良書なども殆どなかつた。実用になる俗書、安本. の中に﹁富谷鉄太郎さんの言葉﹂という文章があり、そこか. く退席せられる位に思つていた。. 別室へ来ていたゞきたいと云うような様子であつた。私は院長が、暫. んに近づき、何事かを耳打ちした。何でも、秘密な用件があるから、. 会議の最中に、書記長の北川総鎗君が室内にはいつて来て、富谷さ. ら忠彦が富谷に対し畏敬の念を抱いていたことがうかがえる。. ﹃世間と人間﹄. あった。忠彦は上司である富谷からも強い影響を受けている。忠彦の随筆集. 富谷鉄太郎が東京控訴院長であったとき、忠彦はその下で上席部長の職に. 富谷鉄太郎. いものであったか、うかがうことができる。. なども忠. 八十冊を探し出し小 ﹃易経﹄. ︵5︶. ばかりであつたが、なにしろ、半世紀近くの間に集つたのだから、一. 冊残らず、焼けてしまつて見ると、流石に寂しい気がして、精読した り、愛読 し た り し た 木 の 面 影 が 目 先 に ち ら つ い た り し た 。. 読書を趣味とする忠彦にとって、全ての書物が焼けたことは大きなショッ クがあったに相違ない。忠彦は、戦火を逃れ小田原に移住したものの、書物 がなく書物に飢え て い た の で あ っ た 。. ﹃資治通鑑﹄. 小田原まで忠彦に書物を届けた人物がいる。三宅正太郎である。三宅はわ ざわざ京都まで行 っ て 忠 彦 が 愛 読 し て い た ﹃詩経﹄. ﹃書経﹄. 田原まで届けたの で あ る 。 さ ら に 、 三 宅 は 彦に送っている。. 忠彦と三宅との交流は、大正の初めころ、東京地方裁判所での上司と部下. ている。三宅は忠彦と散歩する中で、裁判官としての仕事、心得、そして裁. 彦は三宅の指導にあたり、三宅は﹁特に、私を可愛がつてくださつた﹂と語っ. 謂われた。聞いていた一同は、皆驚いた。この言葉は余程私に深く印. ならぬようなことは、私は聞くを欲しない。又聞く必要がない。﹂と. 判所に秘密はない。又あるべき筈がない。列席の判事諸君に聞かせて. ところが事は意外であつた、富谷さんは開き直つて、大きな声で、﹁裁. 判以外のことにつ い て も さ ま ざ ま な 教 え を 受 け た と い う 。. 象せられたと見えて、今でも言葉通り、はつきり覚えている。北川君. の関係に始まる。忠彦が部長をつとめ、三宅は駆け出しの判事であった。忠. 三宅は裁判官の 仕 事 を 忠 彦 か ら 学 ん だ こ と を 感 謝 す る 。. 部屋の審理を見て民事裁判の何であるかを知つたのである。後に、刑. 私は、この部長の下で、民事裁判の手ほどきをうけ、さうしてこの. ころで、そこには秘密の存在も許さない。一切の事柄は、日月の食の. えてもみたこともなかつたので、痛く驚いた。裁判所は公明正大なと. 私は当時、何の考えもない、若い未熟な判事で、こんなことは、考. は、あつけに取られて、目をパテクリしながら、早速退却した。. 事裁判に当るに及んで、私は、この部長の下で学んだ民事裁判のコツ.
(4) 教材「ろくをさばく」考(2). ︵6︶. 0. 如く、その全貌を現わすべきところだと云うことを始めて学び得た。. 仙台の第二高等学校時代からの親友に江橋括阻こ宇野要三馳がいる。特に1. 宇野要三郎君などの選手に伍して、そのボートに同乗して、松島の隅々. 私はボートも漕いだことはない。︵中略︶ 私は度々、江橋括郎君や. 忠彦の随筆集﹃世間と人間﹄ の中に、二高時代の思い出が綴られている。. 如迫前の一民家において部屋も一緒であったという。. 宇野とは京都帝国大学においても学窓をともにしており、大学時代は洛北真. 江橋活郎・宇野要三郎. そして判事たるものゝ態度がいかようにあるべきであるかをも知り得 たような 心 地 が し た 。. この話は、忠彦の長男・乾太郎も﹁何度か聞かされた覚え﹂があるほどで あり、忠彦の裁判官としての基本的な姿勢はこのできごとに大きな影響を受 けている。. 忠彦の最高裁判所長官在任時に起きた誤判事件の際にとった行動はそのこ. まで見て回つた。なつかしい、快い思い出である。少しも漕がず、そ. 原田敬吾. 最高裁長官公邸が定まって小田原から移られて間もなく公邸拝見薯. を紹介している。. 小林は忠彦の原田への敬愛の深さがうかがえる一事実として、次の出来事. 忠彦がなみなみならず敬愛した人物として弁護士・原田敬吾がいも. ︵7︶. 刑事部長となる。その付き合いは忠彦の生涯にわたって続いた。. 二人はともに忠彦と同様に法曹の道に進む。江橋は弁護士、宇野は大審院. ことであろう。しかし少しも迷惑がらず、よく誘つてくれた。. とを如実に物語る。誤判事件とは、長野県の強盗殺人事件で東京高等裁判所. の適用を忘. の上彼方へ此方へと指図するのだから、選手の人々は定めて迷惑した. ﹁刑事訴訟施行規則﹂. に審理のやり直しを命ずる原判決被棄、差し戻し判決のことである。最高裁 判所第二小法廷が 当 然 適 用 さ れ ね ば な ら ぬ. れるとういう誤判をしたわけである。この間題に最高裁判所が対応している 最中、朝日新聞がいち早くこの情報をキャッチし、発表しようとしていたの である。当時東京高等裁判所長官であった小林はこの情報を忠彦に伝えたと きの様子を次のよ う に 記 し て い る 。. 私は三淵長官を長官室に単独訪問し、﹁朝日新聞﹂が誤判事件を知っ た経過を話し、なおできるだけ発表を見合わせるように頼んでおいた、. しかしご用心しかるべしと長官に注意した。この時の三淵長官の答え. ちろん最高裁から特に新聞に発表するつもりはないが、新聞が白から. 訪問した。夕食をご馳走になったような気がする。その時三淵氏はし. がまた明快であった。﹁いや私はあの事件を別にかくす気はない。も. の取材によって発表するなら仕方がない﹂というのだ。正に硝子張り. いたように思う。しかし最高裁確立のためのGHQとの交渉、その他. 食事ぐらいは自分が引受けるから﹂といわれた。これを二度ぐらい聴. 者だけ六、七人でもいいから集まって先生をしのぶ会をやろう。その. みじみと私に﹁小林君、私もこれで落ちついたから原田先生の親近の. ﹁裁判所に秘密はない﹂という言がこの事件に対する忠彦の態度に. の姿であ る 。. 富谷の. 表れているといっ て い い だ ろ う 。. くさぐさの事柄が後から後から起り、そのうち三淵長官は病気になっ.
(5) 佐 野 比呂己. 大正十一年︵一九二二︶ 夏、忠彦は妻を失う。同年十二月、原田の紹介に. より白鳥静と再婚する。実はこの再婚は原田が縁結びをしたものである。静. てしまった。慶応病院へ伺ったときも面会謝絶ではあったが、私ごと き後輩には気が楽と見え夫人に小林君なら通せといわれ、私が話を早. 信. 響を与えている。. 6. 条. 研究の仲間としてはもちろんのこと、結婚、就職と原田は忠彦に大きな影. しょうといって承諾したというのであも. た。そして原田氏が三淵氏に話してみると案外あっさり行って見ま. 原田氏は原嘉道氏に頼まれ一応三淵氏の意向を聞いてみることにし. れば、原田から直接にこのことを聞いたとしている。. また、忠彦の三井信託入りを裏で橋渡ししたのも原田であった。小林によ. との緑は由来するのである。. 敏の妻の実家であり、原田夫妻が上田夫妻と古くから懇親があったことに静. の実家は函館の呉服問屋の斎藤家の一族の白鳥家であった。斎藤家は上田. が遅れているの. く切り上げようとして腰を浮かせると、なあにまだいい、いいといわ れ引き止 め ら れ た 。 こ の 時 も ﹁ 原 田 さ ん を し の ぶ 会 ﹂. ﹁原田氏のような学者はそうざらにはいない﹂と思っており、原田. は残念だなあといわれたのを記憶していも. 小林は の学殖について忠 彦 と 語 り 合 っ た こ と が あ る と い う 。. 三淵氏も原田氏のように、あれほどの深く広い学識をもっている人 は他に日本にはいないのではないかといわれた。三淵氏は原田先生を 心から尊敬していたようである。おそらくその生涯においてもっとも 尊敬した 人 の 一 人 で は あ る ま い か 。. 忠彦と原田との関係は、バビロン学会から始まる。原田は自らが古代学 ArcFaeO−○撃と名づけた学問に没頭した。ギリシャ、ローマ、エジプト、特. ︵1︶. に中近東、イラン付近の文明を研究し、バビロンに強い興味を示した。原田 はこれをバビロン学Babi−OnO−○撃と称し、英独仏の書物を自由に読破し、. 忠彦が慶応義塾で講義を行なった際、受講した学生にとって忘れられなこ. め研究財源をつくろうとして、ついに慶応義塾の同期で友人の武藤山治を今. 判官の座右の銘として説いている。忠彦の説明によると、裁判官というもの. とばとして. 官反内貨来. またギリシャ、ラテンの文章にも通じていた。原田は古代学研究の学徒を集. でいうスポンサーになるよう説き落とした。原田はこの学会をバビロン学会. は、官権を頼りに笠に着てはいけない、裁判官に反感を持つからといってそ. るからその内容を家族などと相談してはならない、賄賂を受けてはならない、. ﹁官、反、内、貨、来﹂があったという。忠彦はこのことばを裁. と称した。設立当初、武藤から三万円の寄付をもらい、その後も毎月数▲自円. の者に不利な裁判をしてはならない、裁判というものはあくまでも公務であ. 8. の編集費、学会の会合. ほどの援助を受け た 。 寄 付 金 は 、 学 会 誌 ﹃ バ ビ ロ ン ﹄. として使. ひそかに来訪して来る者のために便宜を図ってはならない、という趣旨で. 費、図書の整備と 会 員 に 対 す る 研 究 援 助 ︵ 一 人 当 た り 二 十 円 程 度 ︶ 0. われた。主な研究員には松木重卑小林俊三、酒巻芳乳内藤智奪沼田頼. あったそうである。. ﹃世間と人間﹄の中に﹁官反内貨丸いという文章が所収されており、忠彦. 8. 輔、杉勇、そして三淵忠彦がいる。忠彦はここで西洋家族制度史を研究して いる。.
(6) 教材「ろくをさばく」考(2). は新井白石の 測できるところである。. 権を濫用し、悪用して、為すべからざることを為したり、為さしめた. 官反内貨来の最初の官と云うのは、威勢なりと註してある通り、官. 官反内貨来を小幅に書いてもらつて自分の居室にかゝげたいと思う。. 人の道を歩むよすがとしたのであろう。亡父の所為にならつて、私も. 時々、書斎の床にかけてながめていた。服暦し、反省して、正しい役. ﹃藩翰譜﹄を解説しながら、この五つの漢字の意味をそれぞれ. り、為すべきことを為さなかつたり、為さざらしめたりすることであ. 役人の道を踏み外さぬようにと心掛けたいからである。私も白石のよ. 説明している。. る。官吏が官権を笠に着て多くの非違を敢てすることは、近頃の新聞. うな人に悪口を云われたくない。. 私の亡父は役人であつたが、官反内貨来を書いた小幅を所蔵して、. にも、毎 日 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。. ︵2︶. 二番目の反と云うのは徳怨に報ゆるなりと註してある。自分の世話 になつたり、恩顧を受けたりした人の為に、利益になるように計らつ. 最高裁判所事務総長・本間喜一の人柄を忠彦は次男・章二郎に次のように. ければいけない。本間君は実に此の点で感心する﹄といういみのこと. ヽヽ. 大臣に会つても、小便サンにあつても、いつも同じ態度で人に接しな. ﹃人間は地位の上下によつて人との応待に変化があつてはいけない。. 語っていたという。. 職業・職務の貴賎高下. たり、自分の怨のあり、反感をもつている人に、不利益になるように 計らつた り す る の が こ れ で あ る 。 ︵ 中 略 ︶. 三番目の内と云うのは、女謁なりと註してある、妻妾の口入れや進 言によつ て 、 公 の 事 を 処 理 す る の で あ る 。. 四番目の貨というのは、賄賂のことである。賄賂の行われる政治は 悪政の随 一 で あ る. を、父は良く口にしていた。父自らも、そのつもりでありたいと念じ. ながらも、必ずしも中々そう簡単に行くものではないということを、. 五番目の来と云うのは、自分のところへ、足繁く出入する者に特別 の利益を計つてやることである。懇意な人の為に、特に利益を計り、. 自分に言い聞かせながら、本間サンを例にとつて指導してくれたもの. 人間を職業・職務の貴腰高下によって区別しない本間の態度を高く評価す. と田山、つ。. 特に地位をつくつてやることなども、今の世に屡々行われて、人々の 0 口の端に の ぼ つ て い る 。 良 く な い こ と で あ も. ﹃書経﹄呂刑編の中にあることばであり、我が. る。もともと職業・職務に貴購高下の差は存在しない。もちろん世の中のさ. ﹁官反内貨来 ﹂ は も と も と. 国では、裁判官のみならず、昔から役人の戒めのことばとして広く行きわたっ. まざまな関係から、職業・職務に種々の地位、段階が発生するのはやむをえ. 忠彦がよく引用することばにオリバー=ウエンデル=ホームズの次の一句. めるモノサシとなるものではないのである。. ていたことばである。漢籍に通じ、白石を敬愛する忠彦にとってこのことば. は忠彦の父・安之助の座右の銘でも. ないことである。しかし、これらの地位や段階が職業・職務の貴腰高下を決 ﹁官反内貨来﹂. は忠彦自身の裁判官として、官吏としてのあり方、姿勢の基盤となっている ともいえる。実は 、 こ の. あったのである。忠彦がこのことばと幼い噴から接していたことが容易に推.
(7) 佐 野 比呂己. がある。. 職業に従事する人の、その従事の仕方が偉大であれば、どんな職業 でも偉大 に な る 。. 忠彦が問題とするのは、職業・職務の地位や段階ではなく、ホームズのこ とばにもあるよう に 、 そ の 職 業 ・ 職 務 の 従 事 の 仕 方 で あ る の だ 。. 本当の意味で職業を偉大にし、職務を高貴にさせるものは、その職業・職. れわれは、ひたむきに、自分の従事する職業、職務は、全身、全力を. 傾けて、追究し、判事ホームズの云つたように、これを、偉大なもの. たらしめよう。高貴なものたらしめよう。光り輝くものたらしめよ. 、つ○. 職業・職務を偉大なもの、高貴なもの、光り輝くものにさせるか否かは、. 自分の従事する職業・職務に対し、どれだけひたむきであるか、どれだけ全. 身、全力を傾け追究していくかによって決まるというのである。. というものは、ことばでははっきりと言いあらわせるものではない。その真. 忠彦は、芸人や名人の芸道の本を読むのが好きであった。その修行や苦心. その従事する仕方の如何によって、その職業・職務は偉大にもなるし低劣に. 髄は冷暖自知のものであり、自ら経験した者でなければとうてい理解できる. 務に従事する仕方が偉大であるか、高貴であるか否かによるというのである。. もなる。また、高 貴 に も な る し 、 下 購 に も な る と い う の で あ る 。. 夫を重ね、働きに働いて、甘藷の増産に成功した農夫の職業は、操持. 精神労働が肉体労働よりも偉大であると云う理由はない。工夫に工. というのである。そして、彼らの芸に対して敬意を感じずにはいられなくな. わからぬまでも、その精神の一部分が彷彿としてわかるような気がしてくる. 行、苦心、工夫の様子を文章を通して接することによって、その真髄までは. ものではないのである。しかし、忠彦は、その道を極めた人たちの鍛錬、修. のない、出鱈目な学者先生の職業よりも、何程偉大であるか知れぬ。. るのである。. ︵ママ︶. らぬようにと、油紙を敷いて其上に坐る。猛練習の後で、その油紙を. 三味線弾きが夏の頃、芸に精進する時は、汗がふとんや畳にとう. 上役の職務が下役の職務よりも高貴であると云う理由はない。熱意を 以て、教育の事に従事し、生徒を薫化した教員の職務は、徒らに町会 議員に叩頭したり、父兄会に寄附金をねだつたりばかりしている学校 長の職務 よ り も 、 何 程 高 貴 で あ る か 知 れ ぬ 。. 緑に持って行ってかたむけると、溜った汗がザァ︿と流れ落ちると. いうことだ。我々はこの事実から、その練習が如何に激しく、又一心. 不乱なものであるかと云う事と、その熱情的な精進の精神とを感じ得. 義太夫語りでも、三味線弾きでも、建具屋でも、大Tでも、鍛冶屋 でも、左官でも、一技一能に達し、名人上手と謂われた人の職業は、. る。只鍛錬をする丈ではなく、更に更に苦心と工夫を重ね、骨を刻み. 術つかいにしろ、名人、達人となるには、背これほどの苦心と、鍛錬. 凡庸な大臣大将や、無能な総裁、社長の職業に比して、遥かに偉大で. 自分の職業は大切であり、自分の職務は大事である。世間的に定め. が必要なのだ。そしてそのうちに、自らの芸の真髄に触れるのだ。そ. 肉を削る思いで、精進するのである。刀鍛冶にしろ、大工にしろ、剣. られた地位とか、段階とかは、職業、職務の貴腰高下には、何の縁も. れは命がけの修業であも. あり、高貴 で あ る と い わ ね ば な る ま い 。. ない他のことである。自分自身では、どうにもならぬ関係である。わ.
(8) 教材「ろくをさばく」考(2). ﹁ひたむきに、自分の従事する職業、職務は、全身、全力を傾けて、追究﹂. する彼らの姿は、忠彦の目には、偉大なもの、高貴なもの、光り輝くものに うつったことであ ろ う 。. てつまずいたりころんだりして思わぬ失敗をすることが多い。. 心を平静に保ち、ゆっくり万事にあたる人には、失敗はないものである。. 逆に、急ぎに急ぎ、あわてふためく人に限って、失敗は多いものである。単. に失敗するか否かだけではない。急ぎに急いで事にあたる人の方が、ゆっく. り事にあたる人よりも、はるかに仕事が遅くなることがあるのは、我々も十. ﹁これ は 急 ぎ の 御 用 だ か ら 、 寛 く り や つ て く れ ﹂. ︵3︶. 分承知していることである。. ﹁川路弥吉の名言﹂をはじめ、川路の逸話が. 4. 天下の公道、公義. 事の行われる秘訣になるのである。. ︵4︶. 理に循い人欲を去る工夫をする﹂ところであると忠彦は考える。. 4. ﹃近思録﹄は忠彦の座右の書である。程明道︵程廣︶ の考えの根本は﹁天. 4. りと丁寧に万事に取り組む必要があるのである。結局、このことが迅速に仕. はいっそう光り輝く名言である。先行きが見えないからこそ、平静にゆっく. ﹁これは急ぎの御用だから、寛くりやつてくれ﹂は、戦後という混乱期に. そして的確に、正確に、仕事を取扱って行きたいと考えも. 事したいものだ。急ぐことなくあわてることなく、平静に、寛くり. 千万のことだと思う。われ︿もこの言葉に従って、日常の仕事に従. 川路弥吉の言葉が、名言として、当時世間の評判になつたのは、尤. 忠彦の随筆集﹃世間と人間﹄の中に﹁川路弥吉の名一三ロという文章が所収. には. 8 されている。川路弥吉というのは、幕末の人物として知られる川路聖漠のこ とである。﹃世間 と 人 間 ﹄ いくつか紹介され て い る 。. ﹁これは急ぎの御用だから、寛くりやつ. 川路が仙石騒動の取り調べによって頭角を現したことはよく知られている が、その取り調べ の 際 、 部 下 に 対 し. てくれ﹂と注意したという。忠彦はこのことばを名言であるとして、次のよ うに述べている。. 急ぎの御用を、急がせると、係りの人は、急ぐが為にあわてふため いて、屡々やり直しをくりかえして、却て仕事は遅延することがある。. 静かに心を落着けて、寛くり取りかゝると、やり直しをくりかえすこ とはなく、仕事は却てはかどるものである。そこの呼吸をのみ込んで、. 急ぐのだから寛くりやれと命じた弥吉の心掛は敬服に催する。人物の 片鱗が、 こ ゝ に 現 わ れ た の で あ る 。. ひたすら急ぎに急いで、途中でどんな危険があるのか、どんな困難があるの. あろう。物事に対し急いで取り組むときには、前後の見さかいもなくなり、. まわりをして瀬田の唐橋を渡らないで、近道の渡船に乗る人が多かったので. れた古人の知恵であり、だれもが知る金言である。急ぎの用事のときは、遠. たり、行動したりするように不断の工夫をしなければならぬ。これが. 通の人情である。それではならぬので、常に公義、公道に従って考え. 物を考えたがるものである。自分の利害を中心として行動するのが普. し、これはなか︿むつかしいことである。人々は兎角自分本位に事. 人欲を去るというのは、私意、私欲を去るという意味であろう。しか. 天理に循いというのは、天下の公道、公義に従うと云う意味であり、. か、不注意となってしまいがちである。前後左右見境なく突進し、往々にし. ﹁急がばまわれ瀬田の唐橋﹂ということわざがある。古くから言い伝えら. 0.
(9) 佐 野 比呂己. 程朱の学 の 本 義 で あ る と 思 、 ㌔. 議論であっても、行動であっても、その多くが私意に満ち、自己都合によっ て、それらが為されることが多いのが実際である。また、自分たちの地位を 擁護したり、自分たちの利害を顧慮したりするために、自己本位の正当性が. あるまい。われ︿はよく︿この事を考えて、公義、公道に従つて. 4. 行動し、判断し、考慮するようにならなくてはならぬ。これが日本再. 建の第一の心掛であると、私は信ずる。. 特に、戦後という日本の大きな転換期において、私利私欲から出る理屈は、. 国を再建するには、国民が程明道の精神の根本である﹁天理に循い人欲を去. 正当な改革を阻害し、我が国を誤った方向へ導くことになりかねない。我が. 改革に反対するには、それぞれに理由がある。公正な立場から考えられた. る工夫﹂をし、公義、公道に生きる実践が求められていると忠彦は主張して. 主張されることが少なくない。. 理由であり、妥当であるならば、全く問題はない。それは、改悪を防ぐ一つ. 見賢愚斉. いる。. ︵5︶. の手段となり得る。しかし、それが表向きの理由に過ぎず、実際は自己の利 害を顧慮し、自己の地位を擁護するための反対であるとしたなら、よき方向 に進もうとする改革はとうてい達成できない。. 忠彦の好きなことばに﹁見賢思斉﹂がある。. く、賢を見ては斉しからんを思い、不賢を見ては内に自ら省みる。︶﹂という. ﹁子日、見賢思斉焉。見不賢而内自省也。︵子日. ことになる。自分の利害を打算したり、自分の地位を擁護するのを眼. 孔子のことばであり、﹁才能のある人を見ては、自分も、そのようにありた. それは、﹃論語﹄ 里仁編の. 目としたりするのは、私心を挟むことになるのである。事物の判断は. いと思い、才能のない人を見ては、自分も、あのようにあるのではないかと. およそ事物を判断するのに、私心を挟むと、その判断は公正を欠く. いつでも、公正な公平な見地に立つて、為されねばならぬ。しかし、. 反省する。﹂という意味がある。. 北斉に焚遜という人がいた。焚遜は河東の人で、若いうちから学問が好き もうせん. であった。その兄の仲は、髭をつくる職人であったが、遜を大事にしてく. 4. 私心を去り、公道、公義に従って行動すると云うことは、実はむずか しいことなのである。兎角私心に心を捕われ、自分本位に判断したが るのが、 世 間 普 通 の 人 情 で あ る 。 ︵ 中 略 ︶. 行われるのでなければ、日本の再建はむずかしい。改革を阻止する一. お前は小さな行を謹もうと思うのか。お前にはお前の為すべき、もっと大き. かぬ﹂と自らを責めて兄と一緒に働こうと思った。その母が言った。﹁遜や、. ﹁人の弟となって、安逸を楽しむのは、心に悦じないわけには行. 切の障害は、これを除去しなければならぬ。その為めには、あらゆる. な仕事があるのではないか。﹂遜は母のことばに感じて、心を典籍に専らにし、. れた。遜は. 方面の人々の考慮なり、判断なり、行動なりが、常に私心を去り、人. ﹁見賢思斉﹂の四字を壁に書いて、一心不乱に勉強して、遂に名を為すに至っ. 今の時代は日本にとつて重大なときである。あらゆる方面に改革が. 欲を去り、天理に従い、公義、公道に従うようにしなければならぬ。. た。. 人を見ては自分もあのようになるのではないかと反省すること、他人を鏡と. 才能徳芸のある人を見ては自分もそのようにありたいと思い、それがない. どんなにむずかしくとも、是が非でも、こうならなくてはならぬ。旧 態依然として、私心を挟み、私欲にのみこれ従って一切の改革を阻止 するような、時代の傾向になつて来るとしたら、日本は滅亡する外は.
(10) 教材「ろくをさばく」考(2). 天下の大道. は心情次 第 で 、 ど ん な に も 成 長 し う る も の で あ る 。. 4. う。世上の多くの事象を、鏡として、自分自身の成長に努めよう。人. を整えると共に、心の塵を払いのけよう。そして心を清浄ならしめよ. 容の奥にひそむ、人格の修養に気をつけよう。口々鏡を見て、姿、容. われわれは、姿、容を整えることに注意しよう。それと共に、姿、. ることが 多 い だ ろ う 。. 整えることとは、何の関わりもない、他の事である。むしろ、逆にな. 口紅、頬紅をつけ、白い粉、黄色の粉を塗りつけるなどは、姿、容を. て、人に接するのに大事な事柄である。美服をまとい、流行を追い、. 姿、容を整えるのは、人々のたしなみであり、躾である。世間に出. 瓶にも、 容 は う つ る 。. 条次第で、その人の鏡になる。川の水にも、姿はうつるし、井戸の釣. たりする資料となる事象は、世間には無数にある。どんな事でも、信. 良きにつけ、悪しきにつけ、自分の鏡として、発奮したり、反省し. して、自分の発 奮 、 反 省 の 資 と す る こ と は 忠 彦 の 信 条 で も あ っ た 。. ︵6︶. 小泉信三は、忠彦の最高裁判所長官退任前に在任中の労苦を謝し、その病 床を訪ねている。その際、忠彦は、小泉に対し在任の二年半を回顧し、次の ように語ったとい う 。. 小泉さん、私は就任の始めに事務総長の本間君に向つて言ひました。. 吾々は天下の大道を行かう。よしや抜け道や裏通があつて、それを通 った方が便利だといふことが分ってゐる場合があつても、それはよさ う。河に橋がなければ橋を架け、或は船を用意して、さうして渡らう よ、といひました。退任の日が近づいたので、先日、本間君を呼んで、. ねえ、本間君、君は覚えてゐるかい、就任の始めに私がこれこれ言つ. それだけはやつてきました。. たことを、ときいたら、本間君はよく覚えてゐるといいました。私は 4. もし抜け道や裏通りがあって、その方が便利だと知っていても、それは通. 行しない。それがたとえ便利であっても、短期的なものであっては日本再建. は実現しない。たとえ面倒であっても、長期的視点から物事の根本を見極め. ていかなくては日本再建の基盤は築かれないのである。忠彦はそんな覚悟で. 上司と下僚. 職務にあたり、それを実行してきたのである。. ︵7︶. 三宅正太郎は、よく忠彦と散歩に出かけ、コーヒーをごちそうになってい. たという。忠彦がコーヒー代を支払うことが習慣のようになってしまい、三. 宅はとても恐縮する。当時、忠彦は民事の部長になってまもないころであり、 高官というわけでもない。. 三宅は、自分の父親にそのことを相談する。父はもらい物である西洋の煙 草をお礼に贈ることを助言する。. そこで或る日、私は、その函を持って部長の宅を訪ねたが、学生の. 気分が失せない私はそんなことをするのがひどくきまりがわるく、常. なら、座敷にとほされてから話をするのに、玄関のところで、﹁父が. これを差上げてくれと申しますので﹂と、不手際の口上をいつて煙草. の函を差出したところ、部長はいつになく厳粛な、会津武士を想はせ. る態度になつて ﹁さういふものを戴くことはないから持って帰つて下. さい﹂ときつばりいはれ、いつものやうに﹁あがり給へ﹂ともいはれ. ず、玄関にきちんと坐ったまゝで居られるので、いまでも尚ほ忘れ得 ない体験であも.
(11) 佐 野 比呂己. この経験から三宅は上司と下僚のあり方を学ぶ。以降、三宅は上司に対し て、贈り物をしないことにしたという。やがて三宅も上司、長官と呼ばれる ようになる。そういう立場に立ったとき、忠彦の態度の意味を再認識するの である。. 上司が下僚に応分の馳走をしても、下僚は気にするに及ばない。そ れがためわざ︿下僚が上司に返礼をすることが却って上司としては むしろ心苦しいことなのである。この代りその下僚が上司になつたと き、それだけのことを自分の下僚に対してすればよいのだ。つまり上 から受けた恩を、下に向つて返すのである。かうしてつぎつぎに上か ら下へと濃やかな情味のリレーされることは美しいことだと思ふ。或. 明治人には、儒教の教養を根にもつて、現代的英知を研ぎ上げたと. いつたような型の人物が多かつた。三淵忠彦君の人柄はその明治型で、. しかも今はその明治型の人物が残り少くなつていて、君はその最後の. 人といつてもいいかも知れない。君は現代的の機能にすぐれた有能人. だつたが、君の場合は、そこに儒教に育てられた君自身の基本的性格. が大きくモノをいつていたように思はれる。. 長谷川は、忠彦を最後の明治型の紳士と位置づけ、儒教の教養という基盤. のもと、豊かな西洋的教養も柔軟に受容する人物として高く評価する。. 長男・乾太郎は、忠彦について、その日の鋭さ、直情径行ぶりを次のよう に述べている。. 父は身長は五尺五寸、体重は一九貰位あり、堂々たる恰幅をしてい. る先輩は下僚が上司に対して心を込めた贈物をするのは日本の古来の しきたりで、それを拒むべきではないといはれたが、それはさうであ. ました。戦争ですつかり痩せてしまい、残ったのは目の鋭さだけでし. これは持って生まれた性格で終生変りませんでした。. に、ずけずけ云い、人を批判するにあたつては、実に辛殊でしたが、. た。あれだけ鋭い目をした人を私は知りません。思うことは、無遠慮. るとしても、もし長官がさやうな態度を示されると、必ず下僚の中に 心ならず贈物をする風を馴致する。由来なく上司が意外に不評判を買 ふことのあるのは、下僚からの贈物に胚胎する場合が多い。その人に 決して貧る心がないに拘らず、結果に於て、その人の含埜な件格を持 ったと全く同一な不快な空気を下僚の間に作るからである。板倉伊賀. 鋭い目で、納得しないことはそのもの正面から退け、自ら進んで質してい. いる。. ない。親しい人にはたわいなく囚になつてしまうが、なかなか容易に. 性格のはげしい人、好悪の感情のはげしい人であつたことは争われ. 一方で、大審院、最高裁判所でともに働いた藤田八郎は次のように述べて. かせなかった﹂としている。. 守勝重は奉行職は賄賂を受けざること第一の伝授なりといつたさうだ. 柄. く忠彦の姿に小林は﹁この点はむしろ一種の爽快味があって相手に敵意を抱. 人. が、多くの下僚を率ゐる上司としては、下僚から贈物を受けないこと 0 が第一の伝授だといふべきである。. 7. 忠彦の親友であった長谷川如是閑は忠彦の人柄について次のように述べて いる。. は近付き難い人であつた。. 10.
(12) 教材「ろくをさばく」考(2). 小林のように忠彦と親しく信頼を置ける人物であれば新鮮味を感じるかも しれないが、辛酸を嘗めさせられた人も少なからずいたことであろう。 また、忠彦は裁判官出身の人には珍しく話術に長け座談の雄でもあった。. ることによって. 読書によって得た多方面の知識もあり、﹁物おじしない性格から交友を好み、. 誰とでも、専門外の分野にまで及んで、かつ説きかつ談じ﹂ 忠彦の教養の血肉 と な っ て い っ た の で あ る 。. 一方、家庭での忠彦はどうであったのだろうか。乾太郎は忠彦を﹁せつか ちで、ワンマン﹂だったとして、次のようなエピソードを述べている。. 加えて、勝負事を好まないとして次のように述べている。. 私は無器用な男だ。それも並外れの無器用である。碁や将棋も知ら. なければ、玉突トランプなども出来ぬ。ボートも漕げねば、テニスも. 出来ず、君ケ代一つ歌ふことさへ出来ぬ。自分でもあきれる位だ。︵中 略︶. 私に何の取り柄があるか。私は知らない。私は今法律家、裁判官と. して衣食してゐる。併かし私は決して自分が法律家に適してゐるとは. 思はない。むしろ法律位嫌いなものはないと思つてゐる。一体私は天. テニスでも、玉突でも、トランプでも、碁でも、勝ったり、負けたり. 性、勝負事が嫌いだ。角力でも、ボートでも、撃剣でも、柔道でも、. みませんでした。なりふりをかまわず、身の廻りのことすら、自分一. する事を、自分でやつたり、人のやるのを見たりすることが大嫌いな. 父は机の上は、いつも散らかしつぱなしで、家人が片附けるのも好. 人では何もできないという方でした。家族連れで散歩に出ても、父は、. だと思はれよう。只公正を愛する心のみが、十数年間に亘つて、私を. かる。. 注. 一一六頁. ﹃北海道教育大学紀要︵教育科学編︶﹄第五十九巻第一号. 九月. 1. こばやししゅんぞう 小林俊三一人八八一九八二 明治二十一昭和五十七. 明治l一十一年︵一人八八︶ 六月三日東京・麻布区新堀町に生まれる。東洋協会大学. 九三二︶. ︵一九一六︶ 退社し弁護士を開業し弁理士を兼ねる。昭和七年 ︵一. 法政大学講師、昭和十四年 ︵一九三九︶ 中央大学教授、元第二東京弁護士会. 社に入り明治五年. 教授小林郁の弟。大正三年 ︵一九一四︶ 東京帝国大学独法科卒業。卒業後三菱合資会. 2. 平成二十年︵二〇〇八︶. 謙遜の言葉が並ぶ中で、公正を愛する心だけは自負を持っていたことがわ. 裁判所へ繋いで置いてくれたのだ。. のだ。裁判は人々の争をさばくことだ。どうして自分が裁判官に適当. 一人で自分のペースでスタスタ行ってしまうので、われわれの方で、 父のペースにあわさなければならなかつたものです。 多少の謙遜もあると思われるが、忠彦も無器用、無精、租野、鈍重、せっ かち、そそっかし い と 自 分 自 身 を 見 て い た 。. 私は無精な男だ。書類の整理などさへ出来ぬ。机の上の乱雑さなど には自分ながら愛想がつきる。身の廻りのことなども、何一つ自身で は解らな い 。 万 事 が 妻 ま か せ で あ つ た 。 私の父は会津では聞えた書の上手であり、和歌にも堪能であつた。. 重厚な君子人で、立派な人であつた。けれども私は父のやうな立派な 人でないこと丈は、確実である。極めて粗野な男である。父に似たと ころは鈍重な丈である。そのくせ、せつかちで、そゝつかしい。鈍重 なところと、せつかちで、そゝつかしいところは、一寸矛盾してゐる 8. やうであるが、私はその何れをも兼ね具へてゐも. 11.
(13) 佐 野 比呂己. 会長となる。昭 利 十 六 年 ︵ 一 九 三 六 ︶ ︵一九四七︶. 十二月東京高等裁. ゾルゲ事件で尾崎秀実の官選弁護人。戦後は東. 十月. 最高裁判所判事となり、チャタレイ裁判. ︵一九五一︶. 判所長官、昭和 二 十 六 年 日本法律家協会会長。日本調停協会連. 京裁判で松岡洋 右 の 弁 護 人 を つ と め た 。 昭 和 二 十 二 年. などにかかわっ た 。 昭 和 三 十 三 年 ︵ 一 九 五 八 ︶. もつとめた。昭 和 五 十 七 年 ︵ 一 九 八 二 ︶. 帝国秘密探偵社. ︵一九五七︶. 三二五頁、小林俊三. ﹃私の会っ. 昭和一人. ﹃私の会った明治の名法曹. 平成十三年. ︵﹃三宅正太郎全. 昭和二十. ︵二〇〇一︶. 奥書、上田正昭・西澤潤一・. 講談社. 八三頁︶. 五月五日. 十. 帝国秘密探偵. 帝国秘密探偵社. 昭和二年︵一九二七︶. 六月三日死去。九十四歳。著作に. 合会理事長、法の支配法曹協会顧問、臨時大学間題審議会会長、三菱銀行監査役など. 昭和三 十 二 年. 三九四頁、廣瀬弘監修﹃大衆人事録﹄第十九版. コ九 頁 、 谷 サ カ ヨ 編 ﹃ 大 衆 人 事 録 ﹄ 第 一 四 版. ︵猪野三郎 編 ﹃ 大 衆 人 事 録 ﹄ 昭 和 三 年 版. た明治の名法曹 物 語 ﹄ 。. 十月 社. 年︵一九四 三 ︶. 一七一頁︶. 三月. 十一月. 四月︵﹃世間と人間﹄朝日新聞社. ﹃口本人名大辞典﹄. 昭和四十八年︵一九七三︶十月. 平山郁夫・ 三 浦 朱 門 監 修. 物語﹄日本 評 論 社. 一月︶. ︵▲九五〇 ︶. 昭和二十五年︵一九五〇︶. 昭和十七年︵一九四二︶. ﹁読書雑談﹂ 昭 和 二 十 三 年 ︵ 一 九 四 八 ︶ 五年. 好学社. 三宅正太郎﹃ 裁 判 の 書 ﹄ 牧 野 書 店. 八四頁. 安政三昭和十一. ∼昭和十一年︵一九二六︶. 富谷牡太郎一人五六一九三六. ︵一人五六年十一月二日︶. 大正十年六月十三日︶、横田凶臣の後任の大審院長. ︵大正十年六月十三日∼大正十年十. 五月. である︶。大正十年六月∼大正十三年十一月明治大学総長。大正十一年二月∼. 昭和十一年五月貴族院議員。. 月五日︶. ︵一九一三︶. 東洋新報社 大正七年︵一. ︵成瀬麟・土屋周太郎編 ¶大日本人物誌﹄ 八紘社 大正二年. と之部一一頁、五十嵐栄吉編﹃大正人名辞典﹄第四版. 昭和五年︵一九二五︶. 日本現今人名辞典発行所 明治三十三年︵一九〇〇︶ とノ二七頁、野依. 大正元年︵一九一二︶ ト二七頁、日本現今人名辞典発行所﹃日本現今人名. 九一八︶十二月一三七九頁、︵占林亀治郎編﹃現代人名辞典﹄第二版 中央通信 社. 辞典﹄. ︵ト︶ 之部二〇頁、﹃日本人名大辞典﹄講談社︶. 秀市編﹃明治大正史﹄第拾四巻︵人物篇︶ 実業之世界社 十二月. また、五十嵐栄吉編﹃大正人名辞典﹄第四版には次のように記されている。. 司直の府にありて学問識見共に高く而も理義の前に一義も摸むことなく、剛. 直明快の判官として世の推服する所の君は玲瀧玉の如くにして繊勉を留めず、. 特に商法の蕗奥を極め、帰来益声誉あり、或は私立学校に教鞭を執り或は. 事物の真相に徹底して、立所に正邪曲直を談じ去る所、天下第二品ならん欺。︵中 略︶. 著書に因りて其識見を世に公にす、. 十一月︵注3一﹁. ︵五十嵐栄吉編﹃大正人名辞典﹄第四版 東洋新報社 大正七年︵一九一八ソ 十二月一三七九頁︶. 三淵忠彦﹁富谷鉄太郎さんの二一口葉﹂昭和二十四年︵一九四九︶ 七一〇八頁︶. 三淵乾太郎﹁最高裁判所三十年に想う/父・三淵忠彦の思い出﹂ ¶法学セミナー増刊. 日本評論社 昭和四十人年︵一九七三︶. 明治十昭和三十人一人七七一九六三. ﹃私の会った明治の名法曹物語﹄ 三一二頁. 小林俊三. 総合特集シリーズ﹄ 昭和五十二年︵一九七七︶ 十二月一六六頁. 十月. 事試補となる。明治二十三年七月判事補・東京姶審裁判所詰、明治二十三年八月芝区. 弁護士. えばしかつろう 江橋活郎. 宇野要三郎一人七人一九六九 明治十一昭和四十四. 正しくないことはきらいで、普通の子どもとは少しちがっていた。. の中にはしっかりとしたものを持っていた。子どもの時からものの見方が鋭く、. 要三郎はおだやかでまじめな上、人情に厚く、うわべはやさしく見えるが、心. うのようさぶろう. 帝国秘密探. 長野県厚の長男明治十年六月生る同四十二年東大独法科卒業後に松本電気鉄道鉄道. 電気諾券伊那電気鉄道監査役たり ︵谷サカヨ編﹃大衆人事録﹄第一四版. ︵大正元年十二月二十三日∼. 一六五頁︶. 明治二十九年東京高等商業学校講師を兼ねる。明治三十二年三月法学博士、明治三十. ︵長谷川喬の後任の東京控訴院長. 昭和一人年︵一九四三︶. 偵社. 十年十月五日定 年 退 職. 京控訴院長、大正十年六月十三日大審院長、各法律学校、慶応義塾大学部講師。大正. 出張、オランダにて開催の手形法制続一万国会議に出席。大正元年十二月二十三日東. 国大学法科大学講師、法律取調委員等を歴任。明治四十五年七月∼大正元年十月欧州. 三年十二月大審院判事、明治三十六年十二月大審院部長。高等捕獲審検所評定官、帝. 判事、明治二十六年法科大学講師を嘱託される。明治二十七年四月東京控訴院部長、. 治安裁判所判事、明治二十三年十月名古屋控訴院判事、明治二十四年一月東京控訴院. 明治十九年二月∼二十三年二月法学修業並裁判事務研究のため欧州に派遣、帰朝後判. 年七月司法省法学校卒・法律学士、明治十七年七月司法省御用掛、文部省御用掛を兼ね、. 司法官。旧宇都宮藩士族富谷豊義の長男。明治九年司法省法律学校に入る。明治十七. 安政三年十月 五 日. とみやしょう た ろ う. 注4. 集﹄第一巻. 4. 6 5. 12.
(14) 教材「ろくをさばく」考(2). 一八八五. ︵明治十八︶. 年、六郷尋常小学校. ︵現六郷小学校︶. を一九〇四. に入学し、その後 ︵現. ︵明治三十七︶. を出て仙台の第二高等学校. ︵現京都大学︶. ︵現弘前高等学校︶. に進み、更に京都帝国大学. 黒石高等小 学 校 、 弘 前 中 学 校 東北大学︶ 年に卒業した。その後はすぐ司法界に入って裁判官の道を進み、ついに大審院︵明. 現最高裁判 所 。 ︶. 刑事部長に就任した。退いてからは、国家公安審査委員会委員長. 治憲法下で、通常の裁判所中最上級審の裁判所。長は判事の中から天皇が決める。. この間に、わが国最初の陪審裁判準備のため、欧米各国に渡って制度の調査に. となった。. あたり、制 度 を 取 り 入 れ て か ら は そ の 最 高 の 権 威 者 と な っ た 。. ︵一人九二︶、児島ら七大審院判事に証拠なしとして免訴を言い渡した人. 判に付された、いわゆる司法官弄花事件の懲戒裁判所の裁判長として裁判に携わり、 明治二十五年. として、明治司法上その名を知られている。種徳は、敬吾を頭に、信三、恭助の三人. 学問への志を立てて. の息子と二人の娘をもうけた。長女は、彼の大審院長・和仁貞吉に嫁ぐことになる。. 敬吾は、早くから俊才として聞こえ、明治十四年 ︵一人八一︶. 上京、慶応義塾に入学した。在学中は共学を学び、明治十六年 ︵一八八三︶一月、三. ︵一八八六︶ アメリカ留学に旅立ち、初めニューヨーク. 田演説会の発会に先立ち、慶応義塾より試文褒章を授与される。明治十人年︵一八八五︶ 本科を卒業した。明治十九年. 法学士. ﹁バッチエロル、オブ、ロー﹂ の学位を取得した。卒業論文として日. 州ボーキプレーで英文学を学んだ。その後、コーネル大学に入学、明治二十二年 ︵一 八八九︶. き開業。その後、明治二十六年 ︵一人九三︶. 弁護士法の施行と同時に弁護士となり、. 米条約論に取り組み名誉賞を受けた。帰国後、明治二十三年 ︵一八九〇︶ 代言人の資. また、四十数年開法廷の仕事を担当して、扱った事件の中には難事中の難事も. が建設されてすぐその理事として選. 数多く含まれている。要三郎は判事として、いつでも清い心で欲のない公正な取. ︵現青森県学生寮、小平市︶. 格を取得し、明治二十四年︵一人九一︶ には京橋区左衛門町に原田代言人事務所をお. また、修 養 社. 扱いの仕方を貫き通し、わが国裁判史上輝かしい一頁を飾っている。︵中略︶. 関係だけでも仕事がたくさんあり莫大な収入を待たという。明治四十四年︵一九一一︶. 東京弁護士会に所属した。弁護士としての敬吾は民事を得意とし、特に国際的な特許. 前後には、明治石油株式会社監査役も務めている。また、弁護士業の傍ら、明治二十. ばれ、やがて理事長となって郷土の子弟の教育にあたるため、率先して物心両面. 要三郎は、スポーツにおいてもやり出せばどこまでもやりとげる人だった。中. の協力と指 導 を 行 っ た の で 、 今 な お 慕 っ て い る 者 が 多 い 。. ︵一人九一︶ までは慶応義塾の普通部で、そして. には同年五月開設の慶応義塾商業学校で教鞭をとった。明. 三年. バビ. 慶応義塾福澤研究センター 昭和六卜三年︵一九八八︶. ︵一九〇〇︶ はノ二三頁、森征一﹁弁護士原田敬吾とバビロン学会の設立﹂. 18671934︵慶応3昭和9︶. 二八〇頁. 三月一六一一七九頁︶. ﹃近代日本研究﹄第四号. 十三年. ︵日本現今人名辞典発行所﹃日本現今人名辞典﹄ 日本現今人名辞典発行所 明治三. ロン学会を設立した。. ︵一人九一︶. 明治二十四年. ︵一人九〇︶ から明治二十四年. 学時代には柔道・剣道に野球を好み選手として活躍し、高等学校時代はボートの. 年九月に、黒石市大字上十川字留岡に、. 選手、大学時代にはテニス・乗馬をたしなんだ。裁判官時代は専ら弓道に励み、. ︵明治十一︶. 治の終わりころから、古代オリエント研究に傾倒し始め、大正六年︵一九一七︶. 宇野要三 郎 は 、 一 人 七 人. 弓道界初の 最 高 位 十 段 を 贈 ら れ 、 全 日 本 弓 道 連 盟 会 長 と な っ た 。. 父宇野晴左衛門と母りちの二男として誕生した。長女みよ、二女ふよ、長男勇作、. 父晴左衛門は大地主で、県下でも有数の多額納税者であり、一九一四︵大正三︶. 三男要五郎 の 五 人 兄 弟 で あ る 。. 年から一九. 二七八頁. ︵明治二十三︶. 注9. 年に貴族院 議 員 に 当 選 し た 政 治 家 で も あ る 。 一 人 九 〇. 二八三頁. ︵大地主︶. 注9. 年までは、貴族院議員に立候補するための有資格者. 二三. ︵大 正 十 二 ︶. は県下で十五名だったが、加藤宇兵衛と鳴海久兵衛と共にその中に入っていた。. 二八二頁. 武藤山治. 二八二頁 二七頁︶. 三月一人三一人五頁︶ ︵注3. て本社支配人、専務取締役を経て1921年社長に就任。この間、︵大鐘紡︶を築き上げると. のち武藤家の養子。慶応義塾を卒業後、渡米する。帰国後、ジャパン・ガゼット新聞社 なかみがわ に勤務し、中上川彦次郎の斡旋で1893年三井銀行に入り、翌年鐘淵紡績︵現、鐘紡︶に移っ. 明治・大正・昭和期の実業家、政治家。愛知出身。岐阜の豪農佐久間国三郎の長男、. むとうさんじ. 注9. 1817161514. 注9 三月. 平成三年︵一九九一︶. ︵白戸順一郎﹁大審院刑事部長となった宇野要三郎﹂黒石人物伝編集委員会編﹃黒 石人物伝﹄ 黒 石 市 教 育 委 員 会. ︵一九四九︶. 慶応三年︵一人六七︶昭和十一年︵一九三六︶. 昭和二十四年. 原田敬吾. 三淵忠彦﹁勝負 事 ﹂. はらだけいご. 父種徳、母ヨシの長男として、秋田県秋田市に生まれた。父種徳は旧佐竹藩士で、 大審院判事として活躍した人である。種徳は、大津事件が落着してから、大審院長児 島惟謙ら七大審院判事が、待合等で花札賭博をしたとして、判事懲戒法により懲戒裁. 13. 1312.
(15) 佐 野 比呂己. となり、穂積重遠博士の勧めにより博士論文として提出し、文学博士の称号を取得、. 日本の紋章を研究。﹃日本紋章学﹄ ︵明治書院 大正十五年 ︵一九二六︶︶ は浩瀞な著書. 学士院恩賜賞を受賞する。考古学会の創立に参加した。昭和九年︵一九三四︶ 十一月. ともに紡績界の指導者となり、1919年第1回国際労働会議資本家代表となった。その後 23年実業同志会を創立し政界の浄化と経済自由主義を唱え、以後衆議院議員当選3回、. 昭和三十二年︵一九五七︶. すぎいさむ. がある。. ﹃古代オリエント﹄ ﹃裸形文字入門﹄、遺著に ﹃中洋の歴. 平成十三年︵二〇〇一︶ 七月︶. 森征一﹁弁護士原田敬吾とバビロン学会の設立﹂ ﹃近代日本研究﹄第四号 慶応義塾. 典﹄吉川弘文館. ︵屋形禎亮﹁杉勇﹂ ︵臼井勝美エロ同村直助・鳥海靖・由井正臣編 ﹃日本近現代人名辞. 史と文化﹄. 目の浩妙寺に葬られる。主著. 十一月二十五日、東京都武蔵野市桜堤の自宅で没。八十五歳。東京都文京区向丘二丁. 貢献し、二十九年には日本オリエント学会の設立に参画した。平成元年 ︵一九八九︶. も専攻、日本における古代オリエント研究の開拓者の一人として、研究・啓蒙活動に. 学部の専任教授、跡見学園女子大学教授を歴任する。アッシリア学に加えエジプト学. 部教授となる。四十三年停年退官、以後、二十二年以来兼任教授であった明治大学文. 学を専攻した。十二年東京高等師範学校教授、二十四年東京教育大学発足に伴い文学. 昭和二年︵一九二七︶ 東京帝国大学文学部西洋史学科卒業、人学院に入りアッシリア. 九〇四︶八月一日、大阪市西区本田参当町屋敷に父四郎・母ふみの長男として生まれる。. 杉勇一九〇四八九 昭和時代のオリエント史家。明治三十七年︵一. 30年鐘紡退社、32年政界引退を表明し、この年、時事新報社社長に就任、帝人事件を. 帝国秘密探偵社. ︵清水書. 平成十年︵一九. 辞典﹄講談社︶. 二十七日死去。六十人歳。著作に﹃日本考古図譜﹄ ︵共著︶などがある。︵﹃日本人名大. 中央大学教授. 昭和六十三年︵一九八八︶︶. 摘発したが、事件の拡大する最中鎌倉で暗殺された。︽武藤山治全集︾︵全9巻︶がある。. 松本重彦. ︵金原左門﹁ 武 藤 山 治 ﹂ ﹃ 世 界 大 百 科 事 典 ﹄ 平 凡 社 まつもとしげ ひ こ 明治二十年一二月一二目生東京都出身同四五年東大史学科卒大正九年慶大文学部講. 七七七頁︶. 文学博士. 明治十九昭和二十九一八八六一九五凶. 近代日本研究会. がある。︵梶田明宏﹁酒巻芳男と大正. 昭和九年︵一九三四︶︶、﹃在. ﹃行政警察法論﹄. 明治二十三昭和四十二一人九〇一九六七. ︵一九五四︶︶. ︵岩波書店. 宮内書記官。 古 代 、 特 に 歴 史 以 前 の 文 化 史 を 研 究 。 著 書 に. さかまきよし お. 内藤智秀. ﹃年報・近代日本研究﹄第二十号. ︵昭和二十九年. 大正七年︵一 九 一 八 ︶ ︶ 、 ﹃ 皇 室 制 度 講 話 ﹄. 一二三頁 ︶. 聖心女大教授. 昭和六十三年︵一九八八︶ 三月一六人一七五頁︶. 上田敏 胴1916︵明治7大正5︶. 英・仏文学者、詩人、評論家。初期には柳村と号した。旧幕臣の子で東京築地の生れ。. うえだびん. 福澤研究センター. 4 2. 5 2. 一高を経て東大英文科卒。東京高等師範学校教授、東大講師、京大教授を歴任。一高. に参画、第1期の編集委員となり、同誌上にヨーロッパ各国の文芸思潮の紹介を連載し、. ﹁亜細亜土耳古に於ける列強の勢力. 在学中、島崎藤村らの︽文学界︾同人となり、東大入学とともに︽帝国文学︾の創刊. ﹁巴耳幹の変遷﹂. を兼任。後に外 務 省 嘱 託 を 兼 ね る. ﹁口土交渉史﹂等の著書があり、中近東問題やトルコ語の権威で. 評伝︽耶蘇︾︵1899︶以下、訳文集︽みをつくし︾、評論集︽最近海外文学︾︽文芸論集︾︽詩. ﹁口土 大 辞 典 ﹂. 注9. 二九四頁. ︵1920︶などがある。︵河村政敵﹁上田敏﹂ 注18︶. 説︽うづまき︾︵1910︶、︽海潮音︾以後のいっそう柔軟な訳詩を収めた翻訳詩集︽牧羊神︾. 詩歌埴に決定的な影響を与えた。ほかに、審美的な人生観・芸術観を語った自伝的な小. ルらの作品を意欲的に翻訳紹介し、1905年、不朽の名訳詩集︽海潮音︾を刊行、以後の. ンス象徴主義の移植を図り、雑誌︽明星︾を中心に、P・ベルレーヌ、C・ボードレー. 族史﹂. ︵一九四三︶ 昭和三十二年︵一. 昭和一人年. 慶応三昭和九一人六七一九三四 四月七日生まれ。相模出身。神奈川師範卒。旧姓は山本。岡. 沼田頼輔. 帝国秘密探偵社. 帝国秘密探偵社. 聖ダンテ︾︵以上1901︶などを相ついで刊行、文壇に新知識をもたらした。この後、フラ. 五七 七 頁 ︶. ︵一人六七︶. 山師範などでおしえたのち、明治四十四年︵一九一一︶山内家の家史編纂主任となる。. 慶応三年. ぬまたらいす け. 九五七︶. 一四二頁、廣 瀬 弘 監 修 ﹃ 大 衆 人 事 録 ﹄ 第 十 九 版. ︵谷サカヨ編 ﹃ 大 衆 人 事 録 ﹄ 第 一 四 版. ある。昭和八年 、 文 学 博 士 の 学 位 を 取 得 し た 。. 関係﹂﹁回教徒問題﹂﹁日土土日大辞典﹂﹁西洋史詳説﹂﹁東西文化の融合﹂﹁西アジア民. 等通訳官を歴任した。この間、明大、駒大、法大、国学院大、東京文理大各講師教授. パキスタン、アラビアに出張。トルコ大使館在勤本省文書科図書部主任、各大使館一. 慶大教授、山形高校教授、東京女高師教授等を歴任。大正十年外務省に入り、インド、. 山形県秀善長男明治十九年七月十三日生。明治四十五年東大西洋史科卒業。東大司書、. 日本パキスタ ン 文 化 協 会 副 会 長. ないとうちし ゅ う. 九人︶. 昭和期の宮内省 ﹂. りし日の華族制 度 ﹄. 店. 酒巻芳男. ︵廣瀬弘監修 ﹃ 大 衆 人 事 録 ﹄ 第 十 九 版. 同二四年現職に就く其の間在外研究員としてドイツフランスエジプトシリアに留学す. 師を勤め同一一年大阪外語教授京大文学部講師昭和四年京城人学文学部教授となり、. 19 20. 21 22. 14.
(16) 教材「ろくをさばく」考(2). ド大学のロー・スクール卒業。同大学教授︵閲︶を短期間務めた後、マサチューセッ. 二九一 頁. いては司法部は立法部の判断を尊重すべきであるとし、多数意見が自然法的な立場か. ︵1902望。合衆国最高裁判所裁判官としては、経済問題・社会問題に関する立法につ. 注9. 藩翰譜. ツ州最高裁判所裁判官︵188299︶、同首席裁判官︵18991902︶、合衆国最高裁判所裁判官. はんかんふ 二十冊。新井白石著。元禄十四年正. 三淵忠彦﹁官反内貨来﹂昭和二十三年︵一九四人︶十一月︵注3一五三一五五頁︶. ︵正 編 十 巻 、 付 録 二 巻 、 凡 例 目 録 一 巻 ︶. ロー︶. ら経済立法・社会立法の多くをデュー・プロセス条項 ︵デュー・プロセス・オブ・. 十三巻 月に主君徳川綱豊の命をうけて編纂に着手し、七月十一口に起筆、卜月に脱漏、書名. 違反として違憲としたことに反対する意見を数多く発表して、︵偉大な少数意見. を綱豊が命名したのち、翌年二月に清書本を進口王した。多くの写本で伝えられた。︻書. がそれを防止する権限をもつといえるような性質の︶ 害悪を生ぜしめる ︵明白かつ現. 者↓heGreatDissenter︶とよばれた。他方、言論・出版の自由については、︵立法部. 法学の面では、19世紀後半におけるアメリカの法律家のものの考え方の背後にあっ. 場を打ち出した。. 在の危険c−earandpresentdanger︶ のあるときにのみ、その規制が許されるという立. に同じく、国の柱の意︶とされたことにもとづき、判例の中で﹁関が原の戦終て後天. まで、すなわち関ケ原の戦から四代将軍家綱の治世の終りまで. から. 名︼書名は、中国封建制度において諸侯が王室を守る藩翰︵藩は、かきね、翰は、幹. 命一たび改りて﹂と述べていることともに、徳川将軍家を中国の王室になぞらえる立. ︵一 六 八 〇 ︶. 場から、諸大名をその藩翰とみなしたものである。︻内容︼慶長五年︵一六〇〇︶ 延宝八年. た自然法思想と歴史法学と分析法学の3者の奇妙な結合を攻撃し、法はある目的を実. 現するための手段として評価すべきこと、法が何であるかを認識しようとする際には、. ︵越前家、御三家など︶、松平姓の諸家、外戚の諸家、譜代大名、外様大名. 徳川家分家. 道徳的なアプローチを捨て、裁判所がその間題にどういう結論を与えるかの予測に徹. の期間に、将軍に臣属した諸大名の家ごとの系譜と歴代の伝記とを集成したもので、. の順に配列し、なお中途で廃絶した諸家を付録に収め、全部で三▲二七家に及ぶ。白石. れであるプラグマティズム法学とリアリズム法学は、それぞれホームズの思想の一面. すべきであることを提唱した。20世紀に入ってからのアメリカ法学の二つの顕著な流. 5 3 6 3. 7 3. 8 3. 三淵忠彦﹁偉大な職業、高貴な職務﹂昭和二十四年︵一九四九︶八月︵注3. 九三頁︶. 九〇頁︶. 十月. ︵注3 一九九二〇〇頁︶. 幕末の勘定奉行で、能吏として知られた。通称は左衛門尉、号は敬斎。豊後の人。. かわじとしあきら 川路聖講 1801㈹︵享和1明治1︶. 〇頁︶. 三淵忠彦﹁川路弥書の名言﹂昭和二十三年︵一九四八︶ 四月︵注3一一七一二. 四七︶. 三淵忠彦﹁断片一久米、西塚両夫人弁護士執筆訪問記節録﹂昭和二十二年︵一九. 三淵忠彦﹁偉大な職業、高貴な職務﹂昭和二十四年︵一九四九︶八月︵注3. ︵田中英夫﹁ホームズ[子]﹂ 注18︶. を継承している。主著に︽コモン・ロー︾︵1881︶がある。. はこのため百数十部一千余巻の書籍を参考としたほか、古文書・古記録や古老の物語. ︵写本で伝えられ、新. 4 3. なども材料としたと記しているが、短時日に完成されたものであるだけに、事実の面 での誤謬があることは免れず、白石自身のちに補訂を加えたことが享保元年︵一七一六︶ に白石の依頼により室鳩巣の書いた序文によって知られる。しかし、その反面、簡潔 で力強い文章により、戦場や危急の際における武士たちの言動を叙述し、その人間性 を躍動的に描写している点で、白石の著述の中でも文学性の優れたものとして高く評 価されており、歴史家としての白石の力量がよく発揮されている。︻付記︼江戸幕府で. ﹃藩翰譜続編﹄として完成した. 近藤書左衛閉らが. は、続編として延宝八年以降、十代将軍家治の治世の終りである天明六年︵一七人六︶. に. までの期間につ い て 編 纂 す る こ と を 計 画 し 、 寛 政 元 年 ︵ 一 七 人 九 ︶ 着手、文化▲二 年 ︵ 一 人 〇 六 ︶. ︵尾藤正英﹁藩翰譜﹂日本古典文学大辞典編集委員会編﹃日本古典文学大辞典﹄岩. 父は豊後国日出の代官所の属吏だったが、聖諌は小普請組川路光房の養子となって川 四月︶. 路家を継ぎ、勘定所の筆算吟味に合格して勘定方勤務となる。役人の階段を一つずつ. 昭和五 十 九 年 ︵ 一 九 八 四 ︶. 定奉行に昇進する。ペリー来航以前にたたきあげでここまで上ったのは珍しい例だっ. 次いで佐渡奉行、小普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行などを経て、52年 ︵嘉永5︶ 勘. 上るうち1835年︵天保6︶ の仙石騒動断罪で手腕を発揮し、勘定吟味役に抜擢された。. 波書店. 昭和三十六年︵一. ︵注3一五五頁︶ 法曹会. 十一月. 三淵忠彦﹁官反内貨来﹂昭和二十三年︵一九四人︶十一月︵注3一五四一五五頁︶ 三淵忠彦﹁官 反 内 貨 来 ﹂ 昭 和 二 十 三 年 ︵ 一 九 四 人 ︶. 七二頁. た。53年プチャーチンが長崎に来ると露使応接掛を命じられて西下、続いて翌年には. 七月. 萱野章次郎﹁ 父 の 教 え 其 他 に つ い て ﹂ ﹃ 法 曹 ﹄ 第 一 二 九 号. 下田で日露和親条約を結んだ。老中阿部正弘、堀田正睦につらなる開明派幕吏の一人. 0−iくerWendeニHO−mes. ホームズ[子]. 18411935. アメリカの法律家。マサチューセッツ州生れ。同名の医学者、詩人の子。ハーバー. 九六一︶. 3. 井白石全集2に 翻 刻 所 収 ︶ 。 ︻ 翻 刻 ︼ 新 井 白 石 全 集 1 。. 0 3. 2 3. 3. 3. 15. 1. 29 28 27.
(17) 佐 野 比呂己. とみなされて安政の大獄で左遷、退隠を余儀なくされ、文久年間に短期間外国奉行を. 外散騎侍郎。︹北斉書、四十五︺・︹北史、八十三︺。︵諸橋轍次﹃大漢和辞典﹄大修館. 三淵忠彦﹁鏡﹂昭和二十五年︵一九五〇︶一月︵注3 八〇八一頁︶. 書店︶. 注4. 注4. 八四頁. 八四頁. ﹃朝日評論﹄第立巻第五号 昭和﹁十五. 長谷川如是閑﹁追憶﹂ ﹃法曹﹄第一二九号 法曹会 昭和三十六年︵一九六一︶七月. ︵一九五〇︶ 五月 三〇頁. 51. 50. 注9. 五頁. 第一二九号. 注52. ﹃法曹﹄第一二九号 法曹会 昭和三十六年︵一九. 法曹会 昭和三十六年︵一九六一︶. 二三頁. 七月 二三頁︶. 尚、引用に際し、旧字については、適宜新字に改めた。. 59 ※. 五頁︶. 三淵乾太郎﹁﹃父、三淵忠彦を語る ︵3・完︶﹄﹂ ︵﹃判例時報﹄ 判例時報社 三四一号. 藤田八郎﹁三淵さんのこと片々﹂. 二九〇頁 54. 53. 昭和三十人年︵一九六三︶ 八月十一日. 52. ︵﹃長谷川如是閑集﹄第一巻 岩波書店一八八頁︶. 49. 小泉信三﹁三淵さんの随筆﹁世間と人間﹂﹂. 47. ︵注3一一九一二. ていめいどう. 年. いてピストルで自殺する。文筆をよくし、露使と応潰した︽長崎日記︾︽下田日記︾を. 務めたがすぐ辞職隠居、中風で半身不随となった。戊辰3月、江戸開城のうわさを聞. しゆき. ︵宋代に起こった新. 四月. 四月︵注3一一人頁︶. 亜. 〇頁︶. きんしろく. 近息録. 三淵忠彦﹁川 路 弥 書 の 名 言 ﹂ 昭 和 二 十 三 年 ︵ 一 九 四 八 ︶. 三淵忠彦﹁川 路 弥 吉 の 名 言 ﹂ 昭 和 二 十 三 年 ︵ 一 九 四 人 ︶. 往18︶. はじめ、多くの遺著があり、︽川路聖諌文書︾8巻に収める。︵松浦玲﹁川路聖諌一. 9 3 0 4. 4. 中国、南宋の 来 貢 が 友 人 の 呂 祖 謙 と 共 に 編 纂 し た 、 北 宋 の 道 学 あつ. ︵程薪︶、. の著作や語録のなかから、道学を修めるうえで重要. ︵周敦願︶、程明道. しゅうれんけい. 儒教︶者の選集。題名は︽論語︾子張篇、︵博く学んで篤く志し、切に問いて近く思う︶. ︵張戟︶. ちょうおうきょ. ︵程願 ︶ 、 張 横 渠. ていいせん. にもとづく。内 容 は 、 北 宋 の 4 人 の 道 学 者 、 周 渡 渓. 五頁. 五〇頁 注52. 七月. 注52. 六一︶ 55. 注18︶. 56. 103285. 五頁. 程最. ていこう. 注52. ︵春風和気︶と評された。こ. の思想は、ま. 一二四頁︶. ︵釧路校准教授︶. 三淵忠彦﹁私の見た私と云ふ男﹂大正卜一年︵一九二二︶十一月七日夜記 ︵﹃法曹﹄. 57. ︵伊川︶ であるのに対して程薪は. とともに二程子と並称されるが、その人柄、学風は弟とは. 1歳年下の弟程 膜 ︵秋霜烈日︶. ていい. 対照的で、程煩 が. ︵万物一体の仁︶. の評語は人格と学風の双方にかかわるが、程煩が事物の分析と論理化に鋭いさえをみ. の具現にほかならない。そこでいう︵仁︶とは、天地万物を. せたのに対し、 程 薪 は 融 合 的 、 直 覚 的 で あ っ た 。 そ の ︵春風和気︶. ︵不仁︶と医学書が表現するのは、みごとな仁の定義だと程顛は言う。彼. 一体とみなし、すべての存在をわが身の一部と考えることであり、その意味で、手足. さしくこの. のしびれを. にとっては、自己を貫き、人を貫き、天地▲カ物を貫く生命の脈動が仁なのであり、そ れはまた、万物の根底に牛への意志をみようとするその生々の思想とも通じている。. 五月︵注3. 注18︶. 三淵忠彦﹁春 陽 の 温 、 時 雨 の 潤 ﹂ 昭 和 二 十 三 年 ︵ 一 九 四 人 ︶. 一二九. 一二四頁︶. ︵注3. 五月︵注3 六月. 北斉、猪氏の人。字は孝謙。心を典籍に専らにし、恒に壁に見賢. ︵一九四八︶. 三淵忠彦﹁春 陽 の 温 、 時 雨 の 潤 ﹂ 昭 和 二 十 三 年 ︵ 一 九 四 人 ︶. 著述はすべて︽ 二 程 全 書 ︾ に 収 め ら れ て い る 。 ︵ 三 浦 国 雄 ﹁ 程 薪 ﹂ 4. ハンソ ン. 三淵忠彦﹁改 革 を 阻 止 す る も の ﹂ 昭 和 二 十 二 年 一三一頁︶. 欒遜. 粥. 中国、北宋時代の哲学者。字は伯淳、旨は明道。ために程明道の称でも知られる。. ならず日本・朝 鮮 で 広 く 読 ま れ た 。 ︵ 三 浦 国 雄 ﹁ 近 思 録 ﹂. な語を抜粋し、項目別に再構成したもので、道学への格好の入門書として、中国のみ. 程伊川. 1. 5. 6. 思斉の四字を善して自ら勉む。天保中、召されて秘府に人り、書籍を刊定す。官は員. 4. 4. 4 4. 3. 42. 16.
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