映画から見えるインド (一) (秩序としての混沌
--インド研究ノート 第14回)
著者
湊 一樹
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
214
ページ
47-48
発行年
2013-07
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00003678
●歌も踊りもないインド映画
昨 年 イ ン ド で 一 般 公 開 さ れ た 『デリーを一日で』 (原題は「 Del -hi in a Day 」)は、少々風変わり な映画である。デリーを舞台にし た物語で、登場人物は一人を除い てすべてインド人であるにもかか わらず、華やかな歌と踊りもなけ れば、派手なアクションシーンや 濃密なラブシーンもなく、われわ れが普通思い浮かべるような「イ ン ド 映 画 」 と は ず い ぶ ん 様 子 が 違っている。 そ れ も そ の は ず で、 『 デ リ ー を 一日で』は大衆受けを狙った作品 ではなく、インド国内でもわずか な数の劇場でしか一般上映されな かったインディペンデント系の映 画なのである。さらに、インドで 生まれてから世界各国での海外生 活を経て、現在はパリを拠点に活 動しているという監督の国際色豊 かな来歴も、普通のインド映画と はかなり毛色の違った作品ができ あがった要因の一つと考えられる ( 主 要 紙 に 掲 載 さ れ た こ の 映 画 の レビューについては、参考文献① を参照) 。●
陰鬱でもなく、衝撃的でも
なく
「 本 当 の イ ン ド 」 を こ の 目 で 見 るために、イギリス人の青年ジャ ス パ ー は イ ン ド へ 旅 に や っ て 来 た。デリーの空港に降り立った彼 は、目的地のバラナシに旅立つ前 に、父親の旧友であるムクンドの 家に厄介になり、デリーに一泊す ることになっていた。ムクンドは ビジネスで成功を収めたインドの 富裕層で、彼の一家は大きなお屋 敷に住みながら、使用人や運転手 を何人も使って優雅な生活を送っ ている。 豪邸の一室をあてがわれたジャ スパーは、部屋に荷物を置いて早 速デリー観光に出かける。ところ が、家に戻ってみると、部屋に残 したカバンの中に入っているはず の大金がなくなっていることに気 づく。それを聞きつけたムクンド の妻カルパナは、使用人の誰かが お金を盗んだと確信し、ろくな証 拠もないまま、一家に二〇年間仕 えている使用人のラグが犯人であ ると決め付ける。そして、盗まれ たお金が明日までに戻ってこなけ れば、ラグを警察に突き出すと使 用人たちに言い渡す。 ラグと共に使用人として働く養 女のローヒニーは、彼が警察に連 れて行かれるのを避けるために、 盗まれたのと同じ額のお金を何と か工面しようとする。しかし、あ まりにも金額が大きすぎるため、 お金を用立てすることができず、 時間だけがむなしく過ぎていく。 そして、とうとう次の日の朝を迎 える……。 あらすじだけを読んでいると、 重苦しい感じの暗い映画を想像し てしまうかもしれない。しかし、 実際には、俳優たちの堂に入った 演技も大いに手伝って、全体的に ユーモア溢れる明るい印象の作品 になっている。おそらくインドに 行 っ た こ と の あ る 人 な ら ば、 「 自 分もこういう目に遭ったなあ」と か、 「こういうインド人いるよね」 と思わず笑いが込み上げてくる場 面 を い く つ も 目 に す る こ と だ ろ う。あるインタビューで監督自身 も強調しているように、 「『デリー を一日で』はなによりもまずコメ ディー」なのである。 そ の 一 方 で、 「 何 か を 訴 え か け るためには、陰鬱であったり衝撃 的であったりする必要はない」と いう監督の発言からも明らかなよ う に、 軽 妙 な 語 り 口 と い う オ ブ ラートには明確なメッセージが包 み込まれている(以上の引用につ いては、参考文献②を参照) 。●「持てる者」
と「持たざる者」
『 デ リ ー を 一 日 で 』 と い う 作 品インド研究ノート
湊 一樹
秩序としての
混沌
第14回
映画から見える
インド
(一)
47
アジ研ワールド・トレンド No.214 (2013. 7)は、ユーモアと皮肉を織り交ぜな が ら、 「 持 て る 者 」 と「 持 た ざ る 者」の間に越えがたい壁が厳然と 立ちはだかっているというインド 社会のひとつの側面をはっきりと 浮き彫りにしている。いうまでも なく、大きなお屋敷でなにひとつ 不自由なく暮らす金持ちの一家と 敷地の片隅にある粗末な小屋で寝 起きしながら日々働く使用人たち とのコントラストは、そのような 断絶の象徴として描かれる。この 両者の間には、持たざる者が到底 追いつくことのできない経済的な 格差が横たわっていることは誰の 目にも明らかである。 しかし、持てる者と持たざる者 を隔てているのは、そればかりで はない。互いにまったく異なる世 界に住んでいるという感覚に何の 疑問も持たないことから生まれる 意識の壁が大きく立ちはだかって いる。より具体的には、映画のな かで描かれる持てる者の姿には、 持たざる者を自分と同じ人間とみ なし、その境遇に思いを致すとい う想像力が著しく欠けているので ある。主人公の部屋から大金が消 えたと知ったカルパナが、確かな 証拠が一切ないにもかかわらず、 一家のために忠実に働いてきた使 用人を一方的に犯人と決めつける 場面は、この点をまさに象徴して い る。 「 こ ん な こ と を す る の は 自 分とは違う世界に住んでいる人間 に決まっている」という強い思い 込みでもなければ、果たしてこれ ほ ど 乱 暴 な こ と が で き る だ ろ う か 。 非常に限られた自分自身の経験 に照らしてみても、このような描 写にはかなり説得力があると感じ る。実際、周りの裕福なインド人 を見ていると、使用人に対して驚 くほど高圧的な態度で(それも自 然に)接している姿を目にするこ とがある。さらに、このような状 況は、使用人とその雇い主との関 係に限った話ではない。上は教授 から下は雑用係や清掃員まで様々 な人が働いている大学や研究機関 でも、上の人たちが(同じ研究者 である)私に対して取る態度と下 の人たちに対して取る態度にあま りにも大きな違いがあるため、困 惑させられることがある。