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イギリス・ファシスティの登場と挫折 一一一保守主義とファシズムとの関係によせて一一

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(1)

〈 論 1 11 1 998 6 説 〉

イギリス

ファシスティの登場と挫折

l

保 守 主 義 と フ ァ シ ズ ム と の 関 係 に よ せ て │ │ 由 a

辛 4 F え お き 一般にイギリスのファシズム運動を取り扱った研究においては、運動は三つの波に分れて登場したとされている。 すなわち一九六一年刊行の著作においてクロスは 一九二三年五月にリントーン H オ 1 マンによって結成されたイギ リス・フアシステイ切ユ江田﹃司虫色巳を運動の第一波、二八年に樹立され、リ

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ズを指導者とする帝国ファシスト連盟 H B H V O江巳司

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を第二波、三二年一

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ズリによって創立されたイギリス・ファシスト同盟 ( 1 ) ∞ ユ 広 島 口 一 口 目 。 ロ O 同司自の目的釘をその第三波ととらえている。同じくノルテが六八年の研究において、この三つの分類法 ( 2 ) をうけつぎ、さらにヴィッパ

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マンも、八三年公刊の著作でイギリスのファシズム運動を三段階に分ける視野を継承 { 3 } し た 。 本稿においては、イギリス・ファシスティを対象に取り上げるが、 いま見てきたようにクロス ノ ル テ 、 ヴ ィ ッ パ ーマンはいずれもこの組織をファシズム運動、しかもこの国で最初のそれとみなしている。このような見解は、イギ リスのファシズム運動を取り扱う歴史家の聞では自明の理として定着しているようであり、 一 九 八

0

年代の研究でサ

(2)

第11巻1号一一2 ( 4 )

l

ロウは、この運動を﹁イギリスで最初のファシスト組織﹂と主張し、同じくウイツパ

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も﹁自らをファシストと呼 ( 5 ) んだ最初のイギリスの運動﹂ととらえた。 だが自らをファシストと名のる運動や政党は、果たしてそのすべてがファシズムであったのであろうか。党名にイ タリア語を冠した、このイギリス・フアシスティは、類概念としてのファシズム官ロ耳目

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の意味において、イ ギリスで﹁最初の﹂、しかも本当に﹁ファシスト運動﹂と呼ぴうるものであったのか。クロスからウイツパ

l

にいたる 上述の歴史家たちの見解とは対照的に ペインはモ

l

ズリのイギリス・ファシスト同盟のみをファシズム運動ととら ぇ、この同盟に先立って出現し、自らをファシストと呼んださまざまな小規模の集団を、類概念としてのファシズム の中に含めることに異論をとなえた。すなわち彼は、イギリス・フアシスティ、イギリス帝国ファシスト 回 ユ 昨 日 m y H W B 立 月 司 山 田 江 田 仲 印 、 フ ァ シ ス ト 連 盟 叩 拐 の 目 印 門 戸

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己巾、国民フアシスティ

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己 目 。 ロ 包 明 白 由 巳 由 民 、 ケ ン ジ ン ト ン ・ フ ァ シ ス ト 党 相 内 巾 口 出 -D M 1 0 口 明 白 印 己 的 仲 間 ) 凶 吋 片 山 刊 、 ヨークシア・ファシストペ。再出庄司巾明白

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、帝国ファシスト連盟国王

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ピ昌己巾の誤記と思われる)などにつき、﹁これらの小集団の大抵は、 ( 6 ) 類 的 に 向 。 一 日 吋 片 山 口 可 一 フ ァ シ ス ト で は な く 、 極 右 翼

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件当日口問の集団である﹂と主張した。つまりベインの見 解によれば、イギリス・フアシスティはファシズム運動ではないというのである。 なるほどファ

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は、イギリス・フアシスティに関し、この組織は﹁自ら自身を﹁ファシスト﹂とみなし、またその 敵対者たちは、イギリス・フアシスティを﹃ファシスト﹂と考えた。従って、 一 九 二

0

年代初頭におけるファシズム ( 7 ) という像の文脈の中で、彼らを土着のイギリスのファシスト運動と考えることは妥当である﹂とのべている。しかし 一 九 二

0

年代初頭の時期には、現在の時点で理解されているようなファシズム概念が生まれてなかったことを考慮に 入れるならば、イギリス・フアシスティの当事者の自己理解や当時の敵対者の見解にのみ依拠して、この運動をフア

(3)

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!lF-u'-R l よ J いニゃいぺ{.lニム j 目当小。 (r-<) Colin Cross , The Fascists in Britain (London , 1961) , pp.57 ,62~63 ,65. (N) Ernst N olte , Die Krise des liberalen Syst 巴 ms und die faschistischen Bewegungen (Miinch 巴 n , 1968) , S.331-332. (的) Wolfgang Wippermann , Europaisch 巴 r Faschismus im Vergleich 1922~ 1982 (Frankfurt/M. ,l 983) , S .137. (唖) Richard Thurlow , Fascism in Britain: A History 1918~ 1985 (Oxford et al., 1987) , p. 57. (凹) G.C.Webber , The British Isles , in: Detlef Miihlberger (ed.) , The Social Basis of European Fascist Mov 巴 ments (Lon~ don 巴 t a l., 1987) , p.142. (坦) Stanley G.Payne , A History of Fascism 1914~1945 (Madison et al.,.1 995) , p.304 (t--) Barbara L. Farr , The Development and Impact of Right Wing Politics in Great Britain 1903~ 1932 (Chicago , 1976) , p.185. 転出品リ 容州附(もャ恥

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(4)

第11巻l号 一 一4 ぇ、イギリス・フアシスティはやがてイギリス・ファシスト∞ユ広島討窃

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と組織名を変更する(ただし本稿ではイギ リス・フアシスティという当初の名称をそのまま使用する)。しかし他方で、この集団が﹁ファシスト﹂というイタリア語を 選択した背景として、この当時のイギリスにはボリシェヴイズムの脅威をイタリアから取り除き、 かっこの国の混乱 に終止符をうった運動として、 ムッソリ

l

ニないしファシスト党を礼賛する風潮がひろがっていたことを忘れてはな ら な い 。 いま、そのいくつかの例をあげてみるならば、﹃タイムズ﹄紙は、 一九二二年八月一二日にイタリアのファシズム運 動を、次のように高く評価する記事を掲載した││﹁フアシスティは、 さまざまな起源が入りまじった新奇な組織で はある。だが彼らは明らかに反動ではない。そうでなかったならば、彼らは、これほどまでに働く人ぴとの大きな集 団を、社会主義者の影響から取り戻すことに成功しなかったであろう。彼らは情熱的な愛国者であり、また同時に民 衆への呼びかけにおいて、イタリアの自由主義がもっていた、 かつての創造的な理想への復帰を代表している。彼ら の 暴 力 は 、 や や も す れ ば 、 ゆきすぎへ陥ってしまうかもしれない。だがその暴力は、国民の独立的存在を掘りくずし ( 2 ) 理解できるものである﹂と。さらに同紙は、二二年一

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月二八日にはフアシズ つつある転覆的勢力への対抗として、 ムがボリシェヴイズムを打倒するにあたり、﹁社会主義者の犯罪的な階級闘争の方法﹂を採用しないようにと忠告を与 えたが その後の記事において ファシストを良いファシストと悪いそれに分類して、 ムッソリ

l

ニを前者の中に入 れ、彼がイタリアを無政府状態から救出し、 かつ党内の過激派を統制できることに期待を寄せた。また﹃タイムズ﹄ ( 3 ) 紙は二二年一一月一八日には、﹁ファシズムの興隆は、代議的体制退化の進行の自然の帰結﹂と論じ、翌二三年六月二 ( 4 ) ファシズムの理論とは﹁カオス﹂をうみだすことになる﹁立憲的政治の否認﹂であると主張

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日の記事においては、 し た 。

(5)

同じような好意的な態度は他紙にも見られ、﹃モーニング・ポスト﹄紙は一九二二年一

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日の記事の中で、ム ツ ソ リ

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マ進軍を﹁社会主義のあばれ者﹂の敗北とみなして、これを歓迎した。これとは対照的に、﹃デイリ ー・テレグラフ﹄紙は二二年一二月三

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日に、その年に世界で生起した重大事件を回顧した時、 ( 6 ) わなかった。つまり同紙にとって、イタリアの議会主義体制の将来は何んら関心の対象ではなかったのである。また ローマ進軍を取り扱 ミルナ

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卿の系統の﹃円卓﹄紙河

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ゅの二二年一二月の記事によれば、地中海諸国においては議会主義的政府 は土着のものではなく、イギリスからの輸入品であるので、ファシストは﹁腐敗を終らすことを欲している﹂とのべ ( 7 ) て、ファシストの願望を正当化した。なるほど﹃スペクテ

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﹄ 紙 ( 一 一 一 一 年 二 月 四 日 ) は 、 フ ァ シ ス ト 体 制 が 専 制 へ と陥らぬようにと警告を発した。だが同紙の主張によれば、イタリアの自由主義体制はイギリス人の眼からすれば、 5一一一イギリス・ファシスティの登場と挫折 あまりにもレヴェルの低い水準へと退化してしまっているので、それの消滅は惜しむにあたらないというのであっ ( 8 } た 。 またこの当時には、イタリア・ファシズムを﹁新しい民主主義の誕生﹂と賛美し、これをイギリスの将来のモデル として推奨する著作も執筆された。すなわち

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-ゴッデンという人物は、 一九二三年に﹃ムッソリ!ニ││新し い民主主義の誕生││﹄宮

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区 一 、 目 。 回 ユ 甘 え

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という書物を刊行し、その中で﹁この新しい 民主主義の精神を把握し、 かつ新しいイギリスの生への跳躍の仕方を見いだすためには、生産的活動、規律ある生活、 国民的調和、この三者から構成された新しい国民であるファシスト・イタリアが藍壕の中で形成されたことを、 は ' コ きりと認識しなければならない。:::イタリアの青年が今日、矯しつつあることを、明日、イギリスの青年が行いう ( 9 ) るのである﹂と主張した。だがこれにもまして注目に値するのは、のちに世界的に高名な歴史学者になる

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-ト レヴエリアンが二三年一

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月に刊行した﹃イタリアにおける現在の状態の歴史的諸原因﹄吋宮呂田吉氏。乱打

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第11巻1号- 6 H Y O H ) H

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同 ﹀ 虫 色 門 的 5 H 同 色 可 と い う 著 作 で あ り 、 その中で彼は次のように記してムッソリ

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ニを高く評価し は た││﹁イタリアがその住居を整頓し、自由主義の友人たちが生えでるに任せた悪と闘うきわめて真剣な企ての歩み の中で、この国がしばらくの問、自由の道から逸れたとしても、 そのことでわれわれはイタリアに苛立ちを感じない ことにしよう。:::ムッソリ

l

ニ氏は偉大な人物であり:::真正の愛国者である。彼がイタリアの自由主義制度の破 壊に勝利したことではなく、この国にもっとも必要とされる秩序と規律を与えた人物として記憶されることになるよ ( 叩 ) うに、彼のために祈ろう﹂と。さらにややのちの時期の二七年における発言ではあるが、この年にムッソリ

l

ニを訪 ( 日 ) 問したチャーチルは、﹁わたしがイタリア人なら、ファシストの黒シャツを着ただろう﹂と、ファシスト体制にきわめ て好意的な態度を見せた。これも驚嘆に値する評価といえるであろう。 同時代人のイタリア・ファシズム観の紹介を終えるにあたって、歴史家エドワ

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ズの次のような総括も想起してお きたい││!﹁一九二

0

年代においては ファシズムは今日 一般に認められているのとは全く異なった意味合いを帯 びていた。それは多くの人ぴとにはボリシェヴイズムを粉砕し、堅固な新しい統治の型を創出することによって、無 力な自由主義的議会主義体制に取って代ろうとする大胆な企てと思われた。ムッソリ

l

ニの突進するイメージは、イ ( ロ ) ギリスのウエストミンスターやフリ

l

ト街その他において、多数の崇拝者をつくりだしたのである﹂と。イギリス・ フアシスティがその組織名にイタリア語を採用したことへの背景には、 以上にのべたようなイタリア・ファシズムに たいする高い評価のひろがりがあったことを忘れてはならない。 ( 1 ) 、 H d c

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一一イギリス・ファシスティの登場と挫折 ( 3 ) ( 4 ) ( 5 ) ( 6 ) ( 7 ) ( 8 ) ( 9 ) ( 印 ) ( 日 )

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匂 -n -f H ) ・H 吋 N . 野田宣雄﹁ヒトラーの時代(上)﹄(講談社・一九七六年)、八六ページ。 句 。 ・ 開 門 回 当 同 門 広 田 司 、 H Y 巾 司 。 吋 巾 - m ロ O 庄 内 巾 同 門 戸 門 目 明 白 血 円 5 5 5 N A F S N h V -E -﹄ CC 門 口 問 ] え の C ロ RB ℃ 。 門 出 q E 2 S 門 戸 ぐ 。 ] ・ 印 ・ 5 叶 0 ・ ℃ ・ 5 ω ・ 第二章 イ ギ リ ス ・ フ ァ シ ス テ ィ 登 場 の 背 景 ( 二 ) ││革命政党の結成と労働不安の出現││ 7 0 運動、すなわち労働不安門与 O ロコ包括浮(産業不安

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印 丹 江 巳

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とも呼ばれる)の実態に、眼を転じてみることにしよ それでは次に、イギリス・ファシスティ登場の社会的背景となる革命的な社会主義政党の結成とミリタントな労働 激しさは は、年平均で四八

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件のストライキが発生したのにたいし、 一 三 年 に 一 四 五 九 件 、 その件数は、以後、飛躍的に増大し、 ( 1 ) 一四年には九七二件を数えるにいたっている。イギリスにおけるミリタン 一 二 年 に 八 三 四 件 、 この労働不安とは、まず第一次世界大戦に先立つ数年間に出現したものであったが、 その期間における労働運動の ストライキ件数の増大からうかがうことができる。すなわち一九

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七年から一九一

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年にかけての時期に 一 一 年 に 八 七 二 件 、

(8)

第11巻1号一- 8 トな労働運動は、第一次世界大戦の勃発とともに 一時期、鎮静化を迎えるが、仮りに一四年に大戦が開始されなか ったならば、この年のストライキ件数はもっと大幅に増加したものと思われる。またストライキによる喪失労働日数

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七年に一二五万、

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八 年 に 一

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九年に二六九万であったのにたいし、 ( 2 ) 九

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を数えるにいたっている。従って、ストライキへの参加人数も当然のことながら増大し、

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五年に六万七六 も 上 昇 し 、 一一年には一八一六万 三 五 人 、

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八年には二二万三九六九人であったものが、 ( 3 ) い た っ た 。 一二年には一二三万三一三ハ人へと飛躍的に上昇を見せるに いま大戦前の労働不安に関し、 その具体的様相に詳しく言及する余裕はないが、重要なものとしては、 九 年 六月に始まる海員のストライキとこれの支援に立ち上がったロンドンのドック労働者のストライキ、同年八月におけ る鉄道労働者の全国的規模にわたるストライキ 一一年の南ヴェールズの炭坑労働者のストライキ 一二年における 全国レヴェルでの炭坑労働者のストライキをあげることができる。とりわけ一一年の海員・ドック労働者の合同スト ライキは、首都ロンドンへの食料・燃料供給に深刻な影響を与えるものであり、船荷をおろすためにロンドン港への ( 4 ) 軍隊の派遣が準備されるまでとなった。またこれとは別に、リヴァブ

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ル港においても長期間のストライキが決行さ ( 5 ) れ、港湾からの食料品の運搬には軍隊の護衛が必要とされるほどであった。 一 九 一

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年 か ら 一 ( 6 ) 四年にかけてのストライキの波には革命的サンディカリズムの心性が支配していたと主張しているが、この潮流の影 第一次世界大戦前のイギリスにおける革命的サンディカリズムの動向を研究したホ

l

ル ト ン は 、 ロンドンから警官隊が派遣され、軍隊も出動するにいたるほどの激 響がある程度、顕著であった南ウェ

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ル ズ に は 、 ( 7 ) しい事態が見られた。ドック労働者の指導者ティレットが一二年に執筆の年次報告の中で、次のように﹁階級戦争﹂ 。︼山田由者向円の実践を呼びかけたことは、この当時における労働者の戦闘的気分の高揚を物語ものといえるであ

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ろう││I﹁階級戦争は戦争の中でもっとも残恋で、もっとも無慈悲なものである。将来のストライキに際し教訓とな るのは ストライキ実行者が武器の使用にたいしては武器で、射撃にたいしては射撃で、暴力にたいしては暴力で身 を守らねばならないということである。:::いま一つの教訓は、議会とは偽善であり、富める者の国会であり:::働 く人びとにとっての専制君主ということである。:::虎が虎であるのと同様に、資本主義は資本主義である。両者は ( 8 ) 弱者にたいし野蛮であり、冷酷である﹂と。 ところでイギリスの労働組合の運動は、第一次世界大戦の勃発後はしばらくの問、平穏な時期を迎、える。これにた いし社会主義政党のレヴェルにおいては、大戦中に新しい動きが見られた。すなわち一九一一年九月に社会民主連盟

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山 門 片 山 可 ( B S P ) が樹立され たが、この党は一七年三月にはロシアでおこった革命の勃発を歓迎する。社会党は独立労働党 ( I L P ) と一緒に統一 社会主義者評議会巴巳

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口を結成し、同年六月にリ

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ズで開催されたこの評議会の大会においては、 ( 9 ) ロシアをモデルとした労働者・兵士評議会を結成する提案が歓呼賛同の叫ぴの中で採択された。この当時、イギリス 社会党内における革命への強烈な期待は、リーズの大会で選出された臨時執行部の一員ケルチ ( B S P ) が 大 会 の 直 後 、 ( 日 ) イギリス社会党の機関紙に﹁社会革命の時がわれわれに近づいている﹂と執筆したことからもうかがうことができる。 一九一七年一一月のボリシェヴィキ革命は、イギリス社会党に一層、大きな刺激を与えた。すなわちこの党は、 ボ リシェヴィキ革命にたいする連告を表明し、イギリスを先頭とした資本主義列強による革命への干渉に反対する行動 一八年一月に、この党は次のような声明を発表している││﹁革命が圧殺されたならば、 を 呼 び か け た 。 それととも にすべての国における民主主義への希望も圧殺される。すべての国の労働者は、 ロシアを救出し、また自分自身をも

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第11巻l号 一 一10 ( 日 ) 救出するために行動しなければならない﹂と。このようにイギリス社会党は、 ボリシェヴィキ救援を呼びかけるとと も レーニンの著作の翻訳やロシア革命に関する小冊子を刊行した。だがこの種の活動は、警察のきびしい取り締 りを受ける結果となり 一八年一月には﹃ロシアの呼びかけ﹂と題する数千部の小冊子が没収され、また一

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ニンの﹃ロシア革命の教訓﹄と題する著述が同じく没収された。このようにボリシェヴィキへの連帯の立場を表 明するイギリス社会党は 一九年になると コミンテルンへの加入を決定している。 またこの党は一九一九年を通じて ロシアにたいする連合国の干渉に抗議する集会の開催に尽力した。この年の六 月に、党はのちにふれる社会主義労働党∞

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口以)をはじめ、その他の社会主義団体と共同して、 ロシアおよぴハンガリーのソヴェト政権への干渉に反対するための二四時間ストライキの実施を呼びかけた。これに は数千人の南ウェ

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ルズの炭坑労働者が呼応したといわれている。また同じ六月に、イギリス社会党は労働者社会主 義 連 盟 君 。 円 } 内 常 的 ぷ

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昨 日 CD と共同で、ロシアへの干渉から予を引かせることをめざす全国的な委員会を結 ( 日 ) 成している。さらに二

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年春に、ポーランドがかつての領土の回復をめざしてソヴェト・ロシアへの進攻を開始し、 イギリスの軍需品がポーランド支援のために輸出されるようになると、五月一

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日、ロンドンの港湾労働者はジョリ・ (日比) ジョージ号へのポーランド向け軍需物資の積荷作業を行うことを拒否した。このことも、この当時、 一般の労働者の 聞に躍っていた親ソ的感情を物語るものであったといえるであろう。 またいま一つの急進的な社会主義政党である社会主義労働党の動向にも、注目しておきたい。この党はハインドマ ン(社会民主連盟)の政策を妥協的とみなして不満をいただき、かつアメリカ社会主義労働党

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の指導者デ・レオンの主張に影響を受けたスコットランドの社会主義連盟の四支部によって、 ( 日 ) 月に創立された。 一 九

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この党は産業別労働組合樹立の原則を揚げて、主としてスコットランドのクライド河沿岸地域の機械工業労働者の 聞で戦闘的な活動をつづけ、﹁イギリス産業別労働者﹂

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え の 括 主 回 ユ 片 山 吉 と い う 組 織 を 結 成 し て 、 自陣営への労働者の獲得に尽力した。﹁イギリス産業別労働者﹂は一九一一年までに一万人の労働者を組織できたが、 同年はじめクライド沿岸のシンガー・ミシン工業のストライキの指導に失敗してからは衰退に向かった。しかし産業 さらに党の何人かのメンバーは、第一 ( 日 ) 次世界大戦中にはクライド河岸地域の工場の職場委員岱

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邑へ選出されるにいたっているのである。大戦中 別労働組合の結成という方針は、 その後も社会主義労働党によって堅持され、 には党は反戦のスローガンを掲げてクライド河岸地域で活躍し、 一九一七年の一一月にポリシェヴィキ革命がおこる と、その成功を歓迎した。しかも翌年二一月のイギリスの議会選挙において、社会主義労働党はポリシェヴィキ革命 ( 口 ) とソヴェト体制の支持を呼びかける宣伝活動を行う。ただし一九年一月に、この党が第一一回党大会を開催した時、 イギリス・ファシスティの登場と挫折 党員数は一五

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人ほどであるにすぎなかった。 なおクライド河岸地域における社会主義労働党の活動と並んで付言しておきたいのは、この地域の労働者運動の急 進的性格である。すなわち一九一五年二月には、クライド河岸の八

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人から一万人にのぼる機械工業労働者が ( 認 ) 二週間にわたるストライキを敢行したが、この地域の工場に就業する多数の職場委員は、﹁クライド労働者委員会﹂

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指 導 者 は の ち の イ ギ リ ス 共 産 党 の 指 導 者 ギ ャ ラ ハ l ) を結成して、機械工業の経営を麻庫させ る活動を繰りひろげた。また彼らの活動は、職場問題にのみ限定されてはいなかった。すなわち一九一五年間を通じ て、この委員会は家賃の値上がりに抗議する労働者の妻たちの運動に協力し、この年の一一月に家賃不払いの理由で 多数の労働者が裁判所へ召喚された時、 それに抗議する妻たちの行進には、 工場からの労働者の隊列も参加した。そ して裁判所の外側で開催された大衆集会においては、政府が家賃を戦前の水準にまで引き下げる措置を講じないなら

(12)

第11巻1号一一12 ば、クライド河沿岸の工場でストライキを敢行する旨の決議を採択した。これが家賃制限法見

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ロ ﹀ ♀ ( 一 ( 刊 日 ) 九一五年)制定の背後にある事態であった。 労働者の聞における﹁クライド労働者委員会﹂の威信は高く、 かつ影響力も大きかったので、 一九一五年一二月に ロイド・ジョージ(当時、蔵相)とア

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ス ン ( 労 働 組 合 会 議 ︹ TUC ︺書記長、当時、文相)がクライド河岸 地域を訪問し、政府への協力を要請した。しかし一行は労働者の露骨な敵意に迎えられただけであった。 また他方では、この﹁クライド労働者委員会﹂の指導者にたいしては、きぴしい取り締まりの措置が講じられた。 すなわちム

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は、この委員会の機関紙﹃労働者﹄吋}席者

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の第四号に﹁労働者は武装すべきであ るか﹂という論説を執筆した廉で一六年二月に逮捕され、 またマクストンとジミ

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・マクドナルドも同じく動乱を教 唆したとの理由で逮捕された。さらに一六年三月のストライキを理由に、 ( 加 ) れた。その結果、この地域には、しばらくの問、平穏な時期が支配する。 一

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人の職場委員がグラスゴウから追及さ だが第一次世界大戦後には、この地域は再び緊迫した情勢を迎える。すなわち一九一九年一月二四日に﹁クライド 労働者委員会﹂は、﹁グラスゴウ労働評議会﹂色包括。者叶

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(UCE 色と合同で、予想される失業の増大を阻止するた めに週四

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時間への労働時間の短縮を要求し、造船業・機械工業・金属業の労働者たちにゼネラル・ストライキの決 行を呼びかけた。この訴えに応じて 一月二八日までに一

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万人の労働者がストライキに突入し、前述の二つの委員 会によって結成された合同ストライキ委員会は情報紙を発行したが、 その部数は一日だけで二万部にも達した。さら グラスゴウにおいて五万人の参加する抗議行進が行われ、市庁舎が一時、占拠されてその屋上に ( 幻 ) は赤旗が掲げられるという事件がおこった。このストライキは六日間、継続しただけで失敗におわったが、イギリス に一月三一日には、 の世論には社会主義にたいする、大きな恐怖感を呼ぴおこすのには十分であった。

(13)

さらに一九二

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年 七 月 に は 、 ソヴェト体制、プロレタリア独裁、 コミンテルンへの賛成を統一のための三条件とし て、イギリス社会党を主たる構成要素とし、彼らと共産主義統一集団

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印 仲 間 V 山 門 片 山 、 え の 自 主 ∞ ユ 宮 山 口 が 結 成 さ れ た 。 こ の 党 の 出 現 は 、 ロシアを襲ったボリシェヴィキ革命の波がイギリスにも及ぶのではあるまいかという不安感を一層、大きくかきたて ( 幻 ) た。イギリス共産党ののちの党勢不振は、この時点では、誰も予測できなかった。 第一次世界大戦後のイギリスには、 さらにあらたな不安材料が登場してくる。それは労働組合の急進的な運動にあ らわされる労働不安の再燃であった。ペリングは﹁戦後初期の時期を特徴づけるものは、大きな産業不安と労働組合 ( お ) の戦闘性とにはかならなかった﹂と指摘し、またデマレは﹁政府にとって、もっとも危機的な年は、一九一九年であ ( M ) った﹂とのべ、さらに﹁大抵の政府官僚と使用者に脅威を与えたのは、イギリス社会党、社会主義労働党、形成途上 ( お ) にあった共産党ではなく、労働組合とその組織であった﹂とまで主張して、あらたな局面のふくむ深刻な事態に留意 し て い る 。 大戦後における労働組合の動向について、 まず注目に値するのは、 組合員数の増大である。 デマレは第一次世界大 戦中にイギリスでおこった大きな変化として、労働組合の規模の拡大をあげており、彼の掲げる数字によると、組合 ( お ) 員数は一九一三年の四一八万九

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人から一九年の八

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人へとほぽ二倍近くも増加した。また別の数 ( 幻 ) 二

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人であった。さらにこれ以上 {子によれば、組合員数は一三年には四二二万五

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人 、 に特筆に値するのが、直接行動(ストライキ)にあらわされる労働運動の戦闘性の高まりであり、争議による喪失労働 日数は、大戦前の一一年と一一一年にそれぞれ一

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八九万であったが、大戦後の一九年に三四九七万、

(14)

第11巻1号一一14 ( お ) 年には八五八七万へと増大するにいたっている。 すでにのべたように 一 九 一 九 年 一 月 、 グラスゴウの大規模なストライキに随伴しておこった市庁舎の占拠は、軍 隊によりただちに鎮圧されたが、この事件のあとには鉄道勤務のホワイト・カラ

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、電気産業に就業する機械業労働 ( 却 ) 者やロンドンの地下鉄労働者のストライキなどの新しい争議がつづいた。ただしこの当時、政府や経営者がもっとも 恐れたのは、﹁イギリス炭坑労働者連盟

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-一九一四年四月に三者間に提携 ( 初 ) の折衝開始││の動向であり、この三大労働組合による統一ストライキ実施の可能性であった。 m , σ 己 巾 E t c D ( Z 吋 者 句 、 このコ一者同盟加入の労働組合の中でもっとも戦闘的であったのは、﹁イギリス炭坑労働者連盟﹂であり、そのことは、 一九年から二四年の間における年平均の喪失労働日数が三二

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万(ちなみにこ 1 一 四 年 間 は 一 七 七 O 万 ) で あ り 、 そ の ( 出 ) うち七

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までが炭坑業のそれであったことからもうかがうことができる。この連盟は、第一次世界大戦以前から炭 坑の国有化を要求していたが 一九年二月一二 i 一三日にかけての大会で、 一 二

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の賃金の増額、六時間労働日の実 施、炭坑の固有化を求め、政府││この当時、炭坑業への国家統制を行っていたーーーが、これらの主張を認めない場 合には、全国ストライキの突入をめぐる賛否の投票を行うことを決定した。当時のロイド・ジョージ内閣は、妥協案 を提示してストライキの防止に努めたが、二月一五日には投票が行われ、賛成六一万票、 ( 泣 ) 突入が決定された。 反 対 一

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万票でストライキ ﹂れにたいし政府はストライキの回避を画策し 一九一九年三月一日に労働者・炭坑所有者・公益代表の三者から 構成されるサンキ

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委員会を発足させ、固有化・賃金問題を審議せしめることにした。同年の六月に、この委員会は

(15)

内部の意見対立をそのまま反映したような報告書を提出したが、 それは労働者代表の完全国有化案から所有者側の私 有案までを含んでいた。そこでロイド・ジョージ内閣は、このような意見対立を口実に、 八月一八日に固有化案を拒 否してしまう。この動きに憤った﹁炭坑労働者連盟﹂は、﹁労働組合会議﹂ ( T U C ) に支援を要請するが、後者はすでに 一九年の三月に石炭産業の即時国有化を要求していた。さらに﹁労働組合会議﹂は、同年一二月には﹁炭坑を国民へ﹂ というスローガンを揚げて、宣伝活動に取り込むことを決定したが、 翌年の三月に臨時大会を開催して、固有化実現 のためのゼネラル・ストライキ決行の賛否を問うにいたった。しかしこの大会では、﹁全国鉄道従業員同盟﹂などの反 ( お ) 対によりゼネラル・ストライキの案は否決され、代って議会活動による固有化実現の方針が採択された。この時点で は、三者同盟はその効力を発揮できなかったのである。 だがそうはいうものの、三者同盟を構成する労働組合の動きには、やはり憂慮に値するものがあった。すなわち﹁全 国鉄道従業員同盟﹂が商務相サ

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クランド・ゲッディスの賃金切り下げ方針に抗議して、 一九一九年九月二六 日から全国的規模にわたるストライキに突入すると、政府の産業不安委員会(一九年二月創設、のちストライキ委員会と名 称を変更)をまかされたサ!・エリク・ゲッディスは、生活必需品の供給のための道路輸送の子筈を整え、また列車運 ( 悩 ) 行やトラック運転のボランティアを募集した。このことは、鉄道労働者のストライキがいかに政府にとって脅威の的 であったのかを物語っている。なるほどこのストライキは、 七日間つづいただけで終了したが、 ただしストライキの 終結にあたっては﹁全国運輸労働者連盟﹂やそのほかの労働組合から構成された交渉委員会の調停に負うところが大 きかった。すなわちこの委員会は、連帯ストライキをも辞させないという強硬な態度をとりつつ、 ( お ) 年度にも継続することを約束した協定の土台を築きあげるのに成功したのである。 現行の賃金率を翌 翌一九二

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年 は 、 五月におけるジヨリ・ジョージ号へのポーランド向け軍備品の積荷拒否という事件により注目さ

(16)

第11巻1号一一16 れるが、﹁炭坑労働者連盟﹂は政府に賃金の増額を要求して対立し、同年一

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月一六日からストライキに突入した。こ のストライキには﹁全国鉄道従業員同盟﹂と﹁全国運輸労働者連盟﹂も同調の構えを見せたので、危機を感じた政府 は一方ではただちに議会に非常事態法を可決せしめて(一 O 月二九日)、生活必需品の供給を確保するのに必要な権限 を子に入れ、他方では﹁炭坑労働者連盟﹂に六か月の期限つきで賃金の引き上げを提案した。その結果、このストラ ペリングの評価によれば﹁ストライキの比較的早期の終結は﹃三者同 イキは一一月三日に終了することになったが、 ( お ) 盟﹄の勢力を有効に示したもの﹂であった。またデマレは、このストライキは﹁非常事態法を通過させる口実を政府 ( 幻 ) に与えるのに十分であった﹂と指摘しているが。それほどまでに三者同盟の実力行使にたいする脅威は、大きかった の で あ る 。 他方で一九二

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年にはじまる経済不況は、石炭業における労使関係をより一一層、険悪なものたらしめた。二一年三 月三二日に政府が戦時中からつづいた石炭業への国家統制を解除すると、炭坑所有者は大幅な賃金の引き下げを要求 して﹁イギリス炭坑労働者連盟﹂と対立し、後者が賃下げを拒否すると、炭坑労働者をロック・アウトする措置に訴 えた。この事態にたいし、﹁全国鉄道従業員同盟﹂と﹁全国運輸労働者連盟﹂は、四月二ハ日を期して連帯ストライキ に突入することを決定し、三者同盟は再び威力を発揮するかにみえた。この脅威を予想して、 政府機関である供給・ 運輸委員会

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(17)

坑労働者連盟﹂がこの提案を拒否すると、﹁全国鉄道従業員同盟﹂と﹁全国運輸労働者連盟﹂は、連帯ストライキに突 入することを取り消した。これが﹁暗い金曜日﹂

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ミと呼ばれる事件である。なるほど﹁炭坑労働者連盟﹂ は、この日以後、孤立した闘争を継続したが、六月下旬には力がつき、大幅な賃金切り下げを受けいれることとなっ ( 鈎 ) た。このような経過の中で三者同盟は解体を迎え、その威力を発揮できなかったが、ただし政府は非常事態を四月八 ( 却 ) 日に布告し、三者同盟によるストライキ拡大を予想して、軍隊の動員という対抗措置を準備していた。この措置は、 三者同盟の動向が依然として政府の危機意識の的であったことを物語っている。 ﹁暗い金曜日﹂と三者同盟の解体に経済不況が重なったため、労働不安はしばらくの問、鎮静化する傾向にあった。 だ が そ う は い っ て も 、 一九二四年一月には一一万人が参加する港湾労働者のストライキがおこり、このストライキは 突入の三日後には解決したが、当時のマクドナルド内閣は生活必需品の輸送のために、軍隊を動員する手筈を整えた。 さらにその数週間後には ロンドンの市電労働者がストライキに突入し、また地下鉄労働者もストライキを決行する ( H U ) マクドナルド内閣は、非常事態を布告することを考慮したほどであった。 恐れがあった。その結果、 一九二五年になると、﹁イギリス炭坑労働者連盟﹂は炭坑所有者側からのあらたな攻勢にさらされることになる。す なわち同年六月末に﹁イギリス炭坑所有者連盟﹂冨庄ロ

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がイギリス産石炭の輸出増進 のため、賃金の切り下げと労働時間の延長(七時間制から八時間制へ)を提案すると、﹁炭坑労働者連盟﹂は七月二日にこ れ を 拒 否 し 、 一

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日に上部機関である﹁労働組合会議総評議会﹂に支援を申し入れた。総評議会は、この要請を受け いれ、二五日には鉄道・運輸・海員の諸組合の全固執行部を集めて会議を開催し、炭坑所有者によるロック・アウト が実施された場合には 一切の石炭輸送を阻止するという方針を決定した。しかしこれより先、従来の﹁全国運輸労 働者連盟﹂に代った﹁運輸・一般労働者同盟﹂叶

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第11巻1号 一 一18 その代議員大会で、炭坑労働者支援のためのストライキを実施する権限を、執行部に与えるという決議を行い、また ﹁全国鉄道従業員同盟﹂も炭坑労働者を支援することを示唆した。さらに七月三

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日には、﹁労働組合会議﹂加盟の労 働組合執行部の特別大会が開催され、 その席上ではロック・アウトの際における石炭輸送血止についての﹁労働組合 会議総評議会﹂の先述の決定が承認され、この総評議会にストライキ指令を発する権限が与えられた。そしてその日 の夕刻に、労働組合会議本部は七月三一日深夜以後、すべての石炭輸送の血止を要請する文書を加盟組合に送付した が、鉄道従業員組合や﹁運輸・一般労働者同盟﹂の指導部は、この文書に署名した。これは三者同盟の復活といえな い で あ ろ う か 。 このような事態に政府は驚き、仲裁にのりだす。すなわち七月コ二日の金曜日に、当時のボールドウィン首相は公 式声明を発表し、炭坑所有者にたいし賃金切り下げと労働時間延長を撤回させる代りに、政府による九か月間の一時 的補助金の支給を申しいれ、その聞に石炭業の状態を王立委員会によって調査せしめることを約束した。労使双方は この提案を受けいれ、事態は収拾されたが、この労働組合側の勝利の日にたいし﹃デイリー-へラルド﹄紙は﹁赤い (HH} 金 曜 日 ﹂

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仏者という呼名を与えた。三者同盟を構成していた三大労働組合の威力は、やはり効果的であったとい わなければならない。 以上、第一次世界大戦の終了後における労働運動をやや詳細に取り扱ってきたが、イギリス・フアシスティが出現 ( 必 ) した背景には、革命政党の登場や労働不安という事態のひろがりがあったのである。

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ャ術=--t<~-R寧斜E;~組ぽ j --Sミ州 1 fr 話(国特括性緯ギ・ 1 -1ミ 1(-¥-) 叶)' -¥-) 1 O( -;;_ 0 I. M. Macfarlane , The British Communist Party: Its Origin and Development until 1929 (Lon don , 1966) , p.2 1. (;::;) Macfarlane , op.ci t., p.2 1. .;!~__)=---'t< E;+<併や捌司杓..;.;!題 OÞI~ -R寧択E;",入てー'いお」ミ必t<,, -il ト入, I ト寸与 j ャ. I'"そ¥ .':L..-J-.-会 :L' ;'入町-t'~トム.;!斗 0:!;!~ 里総司目 5EL と菰(E;漏 i~ 同州将 j現l1o!l<'r"l1二.;! ,,:./ 1 ~ 1 ♀社 10 m::医製 Q 醤堂者互に糧E; qH! 縄平 J 士 f 余毒副知・制(判佑総司目立週トよ命令-(Ò~1ll 1~ E;~出蒜如J:lI5'rt-Q~記議l1-!o1怖心 γ 柑 J~~0' ササ -6+J W京側E;~-R重室井甲要護 1よ~~~t-Q君事濯今年 J.wや.wE; ~.wお二人 J仏子-(Ò~号越お先!権与ミ蛍判__)'

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三 Zt 区, ~1 足。 +11~ 綿綿 1祐 1鰹司円台き ~t 霊ど心岳会'r" (ibid) 。 (口) Ibid (ロ) Ibid. , p.22. (ロ) Ibid. , p.23. (,::;) O( =--入、, i~~ 信仰'く 11γ-,λ 。 (巴) Macfarlane , op.ci t., p.24. (;::) Ibid. , p. 27. (口) Ibid. , pp. 28-29 (~) '(::--入、『ヤ社=--t<余寧題。照議丑 ~r 1 伊 -¥-)-1 伊ロミ O( _~λ 。

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(21)

結論に到達した││﹁一九一四年における三者同盟への着手は、いかなる点においても差し迫った﹃ゼネラル・ストライキ﹄ を予期しての手筈を整えもしなかったし、またそのような努力をひきうけようともしなかった﹂と(の'﹀・句

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。なおイギリスにおいては、一九一 01 一四年にフランスとアメリカの影響を受けた革命 的サンディカリズムの潮流が次第に濠透して労働運動の戦闘性を高めるにいたり、革命的サンディカリズムの立場にたつ活動 家は、三者同盟をゼネラル・ストライキを子段とする労働者階級の革命的結集の促進の組織とみなしたが(国三 SF 告 Q T ω ・

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、フィリップスの指摘によれば、三者同盟の指導者 たちの意図は、同盟を通じて三つの労働組合の代表が同じ時期に経営者と交渉の席につくという有利な立場を獲得し、この立 場を活用してそれぞれの労働組合の組合員数を拡大し、さらに統一的ストライキ決行の時々裡の威嚇、ないし明示的な脅威の 演出を通じて経営者や政府から有利な譲歩を引きだすことにあったというのである

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品 ・ (お)ベリング﹃イギリス労働組合運動史﹄、 (お)同、一九四ページ。 ( 幻 ) 口 町 田 自 民 白 山 田

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串 ・ ( 叩 品 ) 3 5 (お)ペリング、前掲訳書、 21一一イギリス・ファシスティの登場と挫折 一 九 四 j 一 九 五 ペ ー ジ 。 一 九 二 ペ ー ジ 。

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第11巻1号一一22

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コl ル、前掲訳書、二二九ページ。 ( H U ) ペリング、前掲訳書、二 OOi 二 O 一 ペ ー ジ 。 ( 必 ) 富 岡 次 郎 ﹃ ゼ ネ ス ト の 研 究 ﹄ ( 一 一 二 書 房 ・ 一 九 七 八 年 ) 、 (必)同、一八ページ。 ( H H ) 同、一八 i 一九ページ。ペリング、前掲訳書、二 O 一 二 i 二 O 四 ペ ー ジ 。 (日制)なおこの章をおえるにあたって論じておきたいのは、イギリスにおける革命的サンディカリズムの運動が、どれほど労働不 安をもりあげるのに寄与したのか、という問題である。この問題を研究したホ l ルトンは、イギリス・サンディカリズムの歴 史を二つの段階に、すなわち第一段階を一九 001 一 九 一 O 年、第二段階を一九一 O 年以降と区分している。彼は、この第二 段階においては一九一 01 一四年間を重要な時期とみなし、この期間に革命的サンディカリズムが小規模な宣伝団体から脱却 して、当時の労働運動の戦闘的性格を規定する潮流となったととらえている。しかもホ l ルトンは、この第二段階を第一次世 界大戦後にまで延長し、一九二六年のゼネラル・ストライキで第二段階が終了したと主張している(国

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∞ la3 。なるほど革命的サンディカリズムをイギリスの労働運動史上における単なる傍流ではなく、この国の労働運動に 大きな影響を与えた潮流として、いわば革命的サンデイカリズムの﹁名誉回復﹂を行ったのは、ホ i ルトンの功績である。し かし第一次世界大戦後の労働不安を、革命的サンデイカリズムがもりあげたとみなすことはできない。ここで留意しておきた いのは、比較史的視野からフランス、イギリス、ドイツのサンデイカリズムの歴史の研究動向を整理したシェットラ l の 指 摘 である。すなわち彼の主張によれば、イギリスにおけるサンディカリズムの諸組織は一九一四年には消滅するにいたっている が、労働組合の日常生活の中に﹁サンディカリスト・ム l ド﹂が長く根をおろしたというのである百四宮司 ω α 邑 巾 ア ω

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品印坦)。なおフランスにおいて、革命的サンディカリズムが全盛期を迎えるのは一九 O 六年から一九一 O 年にかけてであり(渡辺和行・南充彦・森本哲郎﹃現代フランス政治史﹄︹ナカニシヤ出版・一九九七年︺、五九ページ)、アメ リカにおける革命的サンデイカリズムのにない手である﹁世界産業別労働者組合﹂

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え任問看 252 者 巧 ‘ 一 九 O 五年創立)がその活動の絶項期を迎えるのは、一九 O 九年から一九一四年にかけてである(松井七郎﹃米国労働運動史﹄ 四 一 六 ペ ー ジ 。

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︹ 関 書 院 ・ 一 九 四 七 年 ︺ 、 二 O 六 ペ ー ジ 。 関 西 ア メ リ カ 史 研 究 会 編 ﹃ ア メ リ カ の 歴 史 ( 下 ) │ │ 統 合 を 求 め て │ │ ﹄ ︹ 柳 原 書 底 ・ 一 九 七 二 年 ︺ 、 七 O 、 八 O 、八て八二ページ)。ホ l ル ト ン は 、 何 故 、 一 八 九 0 年 代 か ら 一 九 三 0 年 代 に か け て 革 命 的 サ ン デ イ カ リ ズ ム の 運 動 が フ ラ ン ス 、 イ タ リ ア 、 ス ペ イ ン 、 ア メ リ カ 、 イ ギ リ ス の 工 業 的 、 資 本 主 義 的 社 会 に 同 時 に 出 現 し た の か と いう聞いを提出し、サンデイカリスト的行動をうみだす共通の要因を探究する必要をとなえているが(同

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、 こ れ は 適 切 な 問 題 提 起 と い え る で あ ろ う 。 第三章 イ ギ リ ス ・ フ ァ シ ス テ ィ の 組 織 と 行 動 すでにのべたように第一次世界大戦の終結の直後には、革命的な社会主義政党、なかでも共産党の登場という脅威 が出現するが、これに労働不安と呼ばれる一連の労働争議、 とりわけ三者同盟を主体とするゼネラル・ストライキの 脅威がつけ加わった。そしてこのような危機の切迫感とイタリア・ファシズムの先例とが互いに刺激しあって、多数 の急進右翼の組織化への誘因となる。イギリス・ファシスティも、 そのような急進右翼の一つであり、 サ

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ロ ウ の 主 張によれば、イギリス・ファシスティの創立者リント l ン日オ l マンの憂慮の的であったのは、産業不安の拡大であり、 ( 1 } かつ共産主義への脅威であったというのである。また 社会主義的労働党により提起される私有財産への挑戦であり、 フ ァ

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の見解によれば 一 九 二

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年代はじめには三者同盟によるゼネラル・ストライキへの恐れが大きくたち現われ、 これが軍隊スタイルを採用し、超議会的な直接行動に関心をもっ右翼諸組織の登場を鼓舞することになり、 そのよう な組織の中で、もっとも注目に値するのがイギリス・ファシスティなのであった。 フ ァ

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は一九二四年五月における、 ( 2 ) フアシスティの規約には共産主義の拡大阻止が目標として揚げられていたと指摘している。 この二人の歴史家が主張するように、共産主義勢力の拡大や労働不安の高まりへの対抗がイギリス・フアシスティ

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第11巻 l号一一24 の主要な関心事であり、彼らは労働組合を共産主義者の手中にある道具とみなしてこれへの対抗を呼びかけ、またス ( 3 ) かつ三者同盟のような労働組合間の横の連携を非合法とする法律の制定を叫んだ。さらにフ トライキを違法と定め、 アシスティは、左翼勢力によるゼネラル・ストライキが決行された際には、生活必需品の確保 e 供給に責任をもっ政 ( 4 ) 府機関に公的奉仕を行う意向を表明した。 すぐあとでのべるように、イギリス・ファシスティは軍隊スタイルの組織を構築し、また活動に際しては実力行使 に訴えることも障踏しなかった。しかしその戦闘性は、現存の政治体制の打倒ではなく、維持のほうへ向けられてい た。そのことは、彼らが保守党議員の演説集会においてその世話役としての役割をひきうけ、また選挙の際には保守 ( 5 ) 党へ投票するよう呼びかけたことからも明らかである。彼らが﹁国王と祖国のために﹂という文字の記されたバッジ ( 6 ) を身につけていたことも、この組織の現状擁護の立場を示している。 フアシスティ独自の集会はほとんど開催されず、ただ一度、 ( 7 ) 規模の催しを行っただけにすぎなかった。このほか彼らは共産主義者との小規模な街頭衝突を繰り返し、イタリアの そ の 反 面 、 ロンドンのトラフアルガ

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広場でかなりの マッテオッティ殺害事件を例に引いた炭坑労働者の指導者への脅迫状の送付、もと共産党政治局員ポリットの誘拐の 企て(一九二五年三月六共産主義者の武器集積所の所在や彼らの蜂起の際のロシアの介入などに関する警察への根拠の { 8 } ない通報、共産主義者の日曜学校に対抗する子供クラブの設置などを行った。これらのことから明らかになるのは、 この組織における大衆志向性の欠如である。イギリス・ファシズム研究の歴史家ウイツパ

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が、この組織を﹁戦闘的 ( 9 ) な労働組合運動への過剰な反応以上の何物でもない﹂と主張したが、これは適切な指摘といえるであろう。 そ れ で は 次 に 、 どのような人ぴとが、この組織に参加したのであろうか。まず指導者層の構成を見た場合、目立つ た特徴としてあげられるのは、退役の高級士官(とりわけ将官)や貴族層が多数を占めていたことである。この組織の

(25)

創立者リント

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マ ン は 、 い わ ば 自 明 の ﹁ 党 首 ﹂ 戸 内 出 己

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としての地位を保持したが、彼女はジエントリーの家 ( M M ) 系の出自であり、祖父は元帥の位階にあった人物であった。組織の項点には大評議会とこれに責任を貰う中央本部委 員会が設置されたが、前者は当初、八人のメンバーから構成され、のち五

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人へと拡大された。そしてリント!ン川オ ーマンが終身の大評議会員であることを例外として、 メンバーの三分の一は毎年、改選されることになっていた。こ の大評議会の議長には、最初ガ

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卿が就任したが、彼は一九二五年九月一五日に退役の准将ブレイクニ

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と 交 ( H ) 代した。いま中央本部委員会の顔ぶれを見てみるならば、 リント

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マンとその母親のほかに、 グラスゴウ伯 爵 、 サ 1 ・ ウ イ ン タ ー 準 将 、 ハ ミ ル ト ン 卿 、 サ

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ン大佐などの退役高級士官や貴族が名をつらねていた。なお ( ロ ) ア

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ムストロング海軍少将が就任した。 大評議会の副議長には、 この中央本部委員会の下部には、軍隊をモデルに七つの部門が設置され、第一部門は﹁歩兵﹂と呼ばれ、まず七人 25一一イギリス・ファシスティの登場と挫折 ほどのメンバーが所属する班が構成され、これを基礎に組織はさらに分隊、中隊、師団へと上向的に編成されていた。 この﹁歩兵﹂の任務は、革命勢力への対抗と定められた。第二部門は﹁騎兵﹂ないし﹁輸送﹂と呼ばれ、自転車、自 動車、馬車の所有者から編成され いわゆる﹁革命﹂の際には交通・通信の維持にあたり、 さらに﹁宣伝・出版﹂部 門は集会の開催と機関紙﹃イギリスのライオン﹄吋宮切ユ広島ピ oロの刊行に責任をもち、﹁情報﹂部門は共産主義者の ( 日 ) 活動などの調査にあたった。またメンバーは﹁現役﹂の﹁疾走隊﹂と﹁予備役﹂の二つに分けられ、前者はどのよう な任務をも遂行する覚悟のある未婚の男子から構成され、後者は年長の男性から編成され、要所に駐留してその地域 を防衛することを任務としていた。前者の﹁現役﹂のメンバーは、月に六シリング、後者は一シリングの会費納入を ( M ) ( 日 ) 義務づけられていた。﹁現役﹂のメンバー数は、一九二五 1 二六年当時で数千人であったと推察される。 次にイギリス・フアシスティの地方組織を見てみると、 その指導者にはやはり退役の高級士官などが名をつらねて

(26)

第11巻1号一一一26 サ

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海 軍 大 佐 、 カルザ

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ス 準 将 、 、 ‘ ↑ 、 ﹄ O E U -・ ザ , いま若干の例を示してみるならば、それらの地方指導者の中には、 サ

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グン準将、ティンデ

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準 将 、 セヴコールド準将、聖職者ケンプソ

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ンの名前 が見いだされる。また組織のメンバーないし支持者とみなしうる者として、 サ

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・チャドウイツク、テンプル伯爵、 ダ ウ ン 子 爵 、 クリフォード卿、ラングフォード卿、 サ

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リスなどの名があげられる。さらに海軍の将官として ハイド大将、陸軍の将官としてアップルビ!大将、 ( M ) ソアディ準将が名をつらねていた。 フリマントル大将、 ス ペ ン ス 大 将 、 ノ

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ル ズ 少 将 、 マ ル ケ イ 少 将 、 なるほどイギリス・ファシスティの運動は、イタリア・ファシスト風の敬礼をかわし、 一九二七年までにパレード の際には青シャツを制服として着用し、さらに三

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年代に入るとベレ

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帽と濃紺色のズボンないしスカートを着用し ( 口 ) て、行動主義団体としてのスタイルを整えた。だが運動の主目標は、左翼勢力が決行するゼネラル・ストライキに対 抗して生活必需品の輸送・供給に従事する要員の確保・提供に向けられており、 しかも組織の指導層は退役の将官、 貴族で占められていた。 従って、イギリス・ファシスティに見られる特徴というのは、真正のファシズム運動の場合とはいちじるしく異な る形での大衆運動への組織化志向の欠知といえる。この組織につき、 ベネウィックは﹁イギリス・ファシスティは、 大衆の支持をひきつけようとは試みなかった。それは多数の反共産主義組織と張り合う、主として中産階級の運動に ( M ) なった﹂と指摘している。この運動を指導した元将官や貴族には、 ファシズム運動に特徴として見られる階級横断的、 人 民 主 義 的 、 現状否定的な大衆運動を育成する意向も、また能力もそもそものはじめから欠如していたといえないで あ ろ う か 。

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