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技術における有機論と機械論 デザイン学と哲学の境界にて

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(1)技術における有機論と機械論. デザイン学と哲学の境界にて. 技術における有機論と機械論 ―. 古 賀 徹. ― 41 ―. 問題のありか. ハバーマスが『モデルネの哲学的言説』で述べたように、十九世紀以降、モデルネと呼ばれる急進的な文化運動のうちで、. ( ). 真理・倫理・美の領域がそれぞれ専門分野として確立される状況が生まれた。ハバーマスによれば、この確立はたんに活動. 分野の分割にとどまらず、理論と実践と美の論理がそれぞれの領域内で自律化し進歩するかたちをとった。何かが進歩する. に歯止めなく及ぶこととなる。理性総体の方法化=技術化現象は、生活する人間たちの統合的な自己理解と実践を困難なら. 理性の自己方法化を反省するはずの哲学的言説そのものが当の方法化に陥ることにより、この現象は学問・科学研究総体. 限する自己方法化へと陥っていく。. ためにはそれを「進歩」として判定する基準=規則が必要である。だがそれに従うとき理性は、その規則枠内へと自らを制. 1.

(2) しめ、分断された専門知を経由することでしか自己と世界に接触できない状況を生み出し、もって専門知(専門家)が人間 の生活世界を分割統治し「植民地化」するようになるとハバーマスは警告した。. モデルネにおける理性の分割と方法化に対抗し、むしろその源流である社交的・コミュニケーション的合理性へと立ち返. り、それにもとづく公共圏の再建をハバーマスは主張した。だが、ハバーマスが主張する討議的理性は、技術を統御する公. 共的決定の原理としては機能しうるとしても、自己方法化に抗する技術の新しい論理を提示するものではない。本論は、自. 己方法化に対抗する技術を実現する理性としてデザインを位置づけ、従来のデザイン学の成果とそれにかかわる哲学的ディ. スクールを媒介しつつ、現代における真善美の統合という理念にいかにしてデザインが応えうるかについて論じる。. そのために本論は、第一に、十九世紀の有機論にその歴史的源流を持つ技術思想を概観し、第二に、機械論的な新実証主. 義に源流を持つ技術思想の流れを見る。両者は交差するのだが、第三にその交差の要因となるデザイン的存在者のアレゴ リー的性質について論じる。. Ⅰ.有機的技術論の系譜. 十七世紀においてデカルトが『方法序説』等において展開した四つの「方法」 (直観、分割、配列、再検査)は、十九世紀. において工場制機械工業におけるラインシステムの原理となった。ラインシステムにおいては、すべての素材は単一の属性. を持つ機械論的客体へと還元される。製作に関わる人間とその能力自体もまた分割され、単一素材と単純能力のペアを線状. に配列することによって精確かつ大量に同一の製品が複製される。くわえてそこでは、製品のプロトタイプを能動的に考案. するデザイナーと、その設計図面に受動的に従属する労働者、ひいてはその設計意図通りに製品を利用する消費者という主. 客の二分化が進行する。工業化において生活世界の人間たちは、能動的な設計者によって意味と運動を一方的に付与される. ― 42 ―.

(3) 機械論的客体となるのである。. こうした物象化状況に対抗したのは十九世紀の有機論である。有機論は、個体にはその運動原因としての本質が潜在的に. 内在すると主張する。だとすれば有機的な技術とは、個体からその潜在的本質を開花させる「パイデイア(教育)」もしくは. 』 ( Education through Art. ( ). リスであり、それを二十世紀において引き継いだのがハーバード・リードであった。 リードの『芸術を通じた教育. (. ). 」ではなく「感 art education. )は、科学技術による生活の機械論化に芸術の有機的論理に 1943. よって対抗する。とはいえその教育とは、専門家としての芸術家を特権的に育成する「美術教育. ( ). 2. 」 と 呼 ば れ る。 リ ー ド が「 感 性 教 育 」 に お い て 目 指 し た の は、 具 体 的 な 造 形 作 業 を「 通 じ て aesthetic education 4. ). そこからはじめて知的能力や観念が派生してくると主張する。. (. たのである。これに対してリードは、それとは逆に、イメージ化する根源的能力こそが元々人間に備わっているのであり、. のではなく、あくまでイデアに接近するための補助手段であり、その手段と目的を取り違えるところに芸術の悪が指弾され. 顕在化する作業を『国家』においてパイデイアと呼んだ。パイデイアにおいて図像化する能力は決して根源的=究極的なも. なわちイデアであった。プラトンは、魂の奥深くに潜在的に備わっているそのイデアを、感性的経験や論理的対話を通じて. フォルムを造形するイメージ化の能力の根底にあるのは、プラトンにおいては、感性的な経験を知的に把握する範型、す. であった。. 」五感を刺激し、自然が人間に付与したフォルム形成の潜在能力を人間の内奥から引き出し、存分に開花させること through. 性教育. 3. 準拠する人々. の集合とみるか」 ( people. の共同生活体と考えるか、それとも、できるかぎり一つの理想に persons. 同、五頁) 、リードは前者が民主主義、後者が全体主義に対応する Read 1958, p. 4.. によってバランスを求める多数の個人 mutual aid. 根 源 的 な も の が な ぜ イ デ ア で は な く イ メ ー ジ な の か、 こ れ は リ ー ド の 社 会 理 解 に 基 づ い て い る。 社 会 を「 相 互 の 援 助. 5. ― 43 ―. 「ポイエーシス(制作) 」のそれとなる。十九世紀のイギリスにおける有機的技術論の先導者はいうまでもなくラスキンとモ. 技術における有機論と機械論.

(4) ( ). という。リードにとって、一つの理想的な観念を根底とする社会は全体主義的なのである。. ある統一理念を外側から各個人に強制的に注入するのは機械論である。 「ディシプリン」とは、外的機構の都合に従い、外. (. ). 」ものになってしまうとリードは言う。これは産業社会の機械論的全体主義である。 sprit. ). として機能する。. (. 要素たちを、それらが一つの図形. をとるかのように、そのつど結びつけゆく媒介の能力、コミュニケーションの能力 form. これに対してイメージ化の能力、すなわち造形に関わる感性的能力は、孤立した要素や人間たち、そして人間を織りなす. となり、有機性は有機体となり、個別を全体のうちに決定的に従属させてしまうだろう。. その配置を構成するにあたって設計主義的な主体を必要とすることになる。そこにおいて物と人は設計する理性の管理対象. 素に内在する潜在的可能性を最大限に発現させるようにそれら諸要素を配置することを目指すとしたら、この機能主義は、. 自らの魂の奥底に問い尋ねつつ全体として一つの理念へと収斂することになるだろう。デザインの機能主義がそれぞれの要. とはいえ有機的なパイデイアの論理、つまり「善」のイデア、つまり一つの理想を追究する場合でも、各個人はそれぞれ. かれた. 側から個人に観念を注入する教育である。その結果、 「われわれの文明」を構成する存在者たちはバラバラなもの、 「引き裂. 6. ). うちに社会形成の原理を求めた。リードもまたこの伝統に連なる。体制化された美術教育においては、作者の造形能力が作品. (. モリスの「社会主義」は、ボルシェビキの中央集権的な設計原理を否定し、民衆の「手」が相互に支え合う美的な生成の. 否定するアナルケーの原理へと転換するはずである。. メージ化の能力が他者との、もしくは物との「相互の援助」のなかで発揮されるかぎり、アルケーの原理はその第一者性を. 人の設計者ではなく、物たちと多数の「手」との無数の戯れこそがデザインの同時多発的主体となるだろう。このようにイ. 衆」と呼ばれる)がもつ、いわばアプリオリな能力だと主張した。だとすれば、イデアを看取して人々を指導し管理する一. リードは、その先行者であるウィリアム・モリスと同様に、この媒介能力を、すべての人々(モリスにおいてそれは「民. 8. 9. ― 44 ―. 7.

(5) 技術における有機論と機械論. のうちに対象化されるかぎりで作者が依然として第一者(アルケー)である。これに対して、リードのいう感性教育、つま. り造形教育においては、複数の人々の手によって既存の要素を再定義し、それを組み替え、再組織化していく不断の過程が. 第一者としての作者に取って代わる。そうした多様な再組織化の試みが同時多発的に生起し、そこにそのつどの平衡が実現 する社会をリードは民主主義の名で呼んだのである。. しかし主体が同時多発的となるということは、その主体相互の関係がつねに有機的な「相互の援助」であるとはかぎらず、. 強制や搾取も含めて、偶然的・機械的でありうることを意味する。偶然に身をさらすという意味でのこの機械性を― そこ. ( ). における「悲劇」の可能性をすら― 承認することによってはじめて、複数の組織化は、あらかじめ先取りされた全体へと. 予定調和的に包摂されていくことから免れ、そのかぎりで独立と自由を手にするだろう。有機論は機械論を導入し、有機的包. 摂からの飛躍の次元を手にすることによってはじめて、各要素に内在する潜在性の自由な発展という、その本来の目的にな. お忠誠を誓い続けるのだと考えられる。我々はここに、ハバーマスのいう討議的理性とならんで、技術的理性を通じた新た な公共性の概念を展望することができる。. だがここで問題が生じる。というのも、アナーキーな複数のプロセスの総体こそが社会のあるべき姿であるとすれば、そ. こにおける真理とは何か、というのがそれである。ソクラテスやプラトンにおいては、対話における吟味を通じて、統一理. 念たる「善美」への憧れに導かれるかぎり、その道行きは真理へのエロースの名の下にあることを許された。しかし善美へ. の道行きが同時多発的で相互に独立したものであるとしたら、それはいかなる意味で真理の資格を保持しうるというのか。. ルソーの研究者であり、RCAの学長を務めた教育学者のクリストファー・フレイリングは、 「アート・アンド・デザイン. 」という概念を提示する。これは、手による感性教育というリードの理念を引き継ぎ、なお科学技術を含む Art and Design. 技術総体を組み替える広義の造形能力へとそれを拡張しようとするものである。フレイリングは「アート&デザインにおけ る研究」 ( 1992 )という著名な論文において、真理を探求する理性のあり方を三つに分類する。. ― 45 ―. 10.

(6) 」である。そこには従来の美術史やデザイン史、美学やデザイン学、その経済的、 Research into Art and Design. 一つは、芸術とデザインの内部へと分け入ってゆき、その構造を明らかにする探求、つまり「芸術とデザインの内部へ向 かう研究. と定義し、それによる博士号を「調査による学位認定 Research. 」と呼んでいる。 degree by study. 社会的、政治的、倫理文化的な研究が含まれるとされる。フレイリングは従来の人文科学に相当するこれらの研究を、大文 字Rをとる研究. 」がある。これは、いかにしてその目的物が制作できるか、そ research for Art and Design. これに対して、芸術やデザインが最終的な成果物を完成させるために必要となる技術的手段を開発する探求、すなわち 「芸術とデザインのための研究. を探求するものである。従来の工学研究に相当するこれらの研究をフ technologies for Design. degree by develop-. のための技術や技能、つまり. と呼び、これによる博士号を「装置開発による学位認定 research. ). ― 46 ―. レイリングは小文字rをとる研究 」と呼んでいる。 ment. Research through Art and. 」の理念を直接に引き継ぐも Education through Art. そして最後に、この二つの研究をいわば総合するものとして、 「芸術とデザインを通じた研究 」があるという。これはかのリードの論文「芸術を通じた教育 Design. のであり、成果物を具体的に造形する過程において、そこではじめて得られる様々な知見や経験、および定式化されにくい. 身体知・暗黙知の次元を意味する。試行錯誤における素材や色彩の吟味、実際の制作にもとづく方法の工夫、制作結果の意. (. 味についての考察、制作の方法論の探求などが含まれると主張される。フレイリングはこれによる博士号を「プロジェクト 」と呼ぶ。 degree by project. せること、これがこの第三の次元の意図するところである。とはいえその知は、偶然的で一回的な、そのかぎり有機的な組. 作されるとき、かならずそこには何らかの知が使用され成立しているはずである。有機的組織化を通じてそこに知を存立さ. 芸術のそのつどの実践を通じて有機的に統合することを目指すものである。その有機的な再組織化の過程において何かが制. ポイエーシスを通じた認識とでもいうべきこの最後の研究は、ひとたび機械論によって分断されてしまった現実を身体や. による学位認定. 11.

(7) 織化から距離を保ったモノ(例えば椅子)の制作を「つうじて」探求される。そのかぎりでそのモノは機械的であり、その. 機械的な探求であるといえる。. 制作の試行錯誤を通じて知が探求されるというのであれば、その試行錯誤は実験であり、制作される椅子はいわば実験装置 である。だとすればその探求は、有機的. これらの探求は、自らを真理として主張するいかなる認識論的権利を持ちうるのだろうか。たとえば自然科学や社会科学. の一部は仮説に対する経験的実証を通じて普遍的に妥当する法則を帰納的に提示しゆく知的営為だとさしあたりは規定でき. る。また人文学は解釈学的循環をつうじて現実やテクストに対してより統合的で包括的な意味連関を発見しゆく知的営為だ. と、これまたさしあたり規定可能である。それでは、制作を通じた認識にはいかなる認識論的権利が確保されるのか。. )である。グラントの論述を要約すれば、彼の言う「虚構としてのデザイン 2010. design. この問いに踏み込んだ回答を試みるのが、サイモン・グラントの論文「デザインフィクション― 複雑な世界におけるデ ザイン研究のための方法の道具箱」 (. し(観念的ではなく唯物的) 、( )様々な文脈. をその背後に抱え込み(単一的ではなく複合的)、( )変動す perspectives. 2. 4. ( ). ( )実験そのものを次々と生産する体系(解決的ではなく試行的) るプロセスそれ自体を実現し(実体的ではなく過程的) 、. 3. 5. (. ). 」と呼ぶ。フレイリングのいう「通じて research as design. 」 asの方は、それ自体目的として、デ. ザインの実践総体を、実験装置の不断の構成過程、すなわち実験としての真理の追求過程と捉える。ここでグラントが言う. 」という前置詞が、一つの過渡的・手段的性格を響かせるのに対し、 「として through. グラントはこうした探求のあり方を「デザインとしての研究. 12. のである。. 験」としての条件に規定される限りで、デザイン研究の真理は最終的なものではあり得ず、つねに「虚構. 13. 」に留まる fiction. ― 47 ―. −. 」は、( )事実ではなくあるべき可能性に導かれ(現実的でなく価値的)、( )物質化を通じて臆見を不断に打破 as fiction 1. であり、( )自己のあり方を変革する(肯定的ではなく反省的)といった認識論的条件のうちにある。 6. 「実験」とは、自然科学的・工学的なものにとどまらず、公共的議論に吟味されるという社会的意味を含んでいる。この「実. 技術における有機論と機械論.

(8) だが主張はそれに留まらない。 「デザインとしての研究」の「として」とは、デザイン特有の研究のあり方を示し、それを. 他から区別するものではなく、むしろ自然科学を含める研究一般が、そもそもはじめからデザインにほかならないのだとグ. ラントは主張する。自然科学が実験装置(のデザイン)をつうじて真理を明らかにする以上、自然科学はデザインの認識論. 的条件に拘束されるだろう。科学研究はおしなべて、価値的・唯物的・複合的・過程的・試行的・自己変革的という、「虚 構」としての認識論的条件を課されていることになるはずだ。. バ. イ. ス. こ の 認 識 論 に 対 応 す る 存 在 論 を 考 え て み る な ら ば、 世 界 の 構 成 単 位 は 単 純 な 存 在 要 素 で は な く、 す べ て 問 題 含 み の デ. 」であるからである。またそれが実験的で the multiple. 実験的装置にほかならないことになる。それが装置であるのは、それが様々な知見や技術によって構成された複合体であり、 そのかぎりでその背後に様々なコンテクストを抱え込んだ「多様体. ). ― 48 ―. あるのは、肯定的な存在ではなく、つねにそれ自身が問いかけられ、吟味される過程的・試行的・反省的なものだからであ る。. その装置が出力するのは真理であり、その真理はそれ自身の実践的価値をうちに孕んでいるが、しかしその真理価値は現. 実によって不断に打ち破られるのであり、つねに複合的で過程的であるかぎり虚構的なのである。これらの認識論的条件こ. そ、有機的全体性に対抗して、機械群がそれぞれ自由でありうる存在論的条件を構成する。というのも世界内の存在者は、. a discipli-. それらがすべて機械装置であるかぎり、全体から相対的に独立し、いまだ見通せぬ偶然的な接続につねに開かれているから である。. その接続過程を担うのが彼によれば「デザイナー」である。グラントは言う。 「デザイナーとは一つの専門職種. (. 、あるかもしれない未来を創造し現実化しうるような人々がそうなのだ。そうしたデザイナーは必 through. のようなものではない。デザインを実践するためにみずから思考し、活動し、新たな知識を産出し、そうす nary category ることを通じて. 然的にデザイン研究に従事していることになる。」. 14.

(9) 技術における有機論と機械論. この文章において注目すべきは、 「必然的に. 」の一言である。つまり、デザインプロセスを開始しそれを統御する第 must. 一者として専門職のデザイナーが存在するのではなく、まさにかの実験的なプロセスを必死に生きることによって、その過. 程のかぎりで、それ自体一つの実験装置としての過渡的で自己変容的な主体が微分的かつ間断なく生成してくるのである。. このプロセスの中で装置が次々に考案され、その装置の構成(配置)のうちに一定の状況知が物質化される。とすれば、当. のプロセスのうちで時々刻々と生成するデザイナーの心身のコンポジションのうちにも、一定の知がそのつど具現化してい. ることになる。 「デザインとしての研究」はそれに関わる身体装置のうちにそのつど知を形成し、そのつど新たな主体を生成. ). 」なのである。 designerly way of knowing. (. させる。研究とその主体の両者の関係が「必然的」であるのはこのためであり、そうした関係の展開こそが、 「デザイナーと. は結びつける. (. ). 」というスローガンとともに、アイソタイプと呼ばれる図像言語を考案した。 Worte trennen, Bilder verbinden. 17. ― 49 ―. して知りゆくあり方. Ⅱ.新実証主義の系譜. の一つの源流がロマン主義の系譜を引き継ぐ有機論のうちにあるとすれば、もう一つの源 modern design. ). あり、そのかぎりで反知性主義的なものであった。. (. 運動が、一九世紀末から二〇世紀にかけて欧米で提起された。これらは科学版プロテスタンティズムとでもいうべきもので. 門知に従属する。こうした言語の再魔術化現象に対抗して、すべての人々に理解可能な統一的普遍言語を再興しようとする. 伴って専門分化した挙げ句、人間相互の意思疎通を不可能にするバベル的状況へと至り、かえって人々はその理解不能な専. 流は新実証主義的な機械論の系譜にある。誰にでも理解可能で明晰判明であるべきデカルト的言語は、技術や学の高度化に. 現代デザイン. 15. 新ウィーン学派の綱領的文書『科学的世界把握』の著者に名を連ねたオットー・ノイラートは、 「言葉は分け隔てる、図像. 16.

(10) アイソタイプのもっとも根底にあるのは、世界の側の最小単位である事態と、言語の側の最小単位である要素記号とを一対. 一に対応させようとするデカルト的な明晰判明化の衝動である。その対応関係がひとたび成立すれば、事態と記号は認識論. 的に等価となり、両者は無差別となる。そのときひとは、あたかも物それ自体を操作するかのように言語を紡ぎ思考を織り. (. ). なすことができる。この物言語=図像言語は、リテラルな教育格差を超えて、タンジブル(触知的)なしかたで高度な数理・ 論理演算(推論)をすべての人々に可能とするだろう。. 最小要素である個別の図像の美は、それに対応する現実の最小要素をデカルト的な意味で直観的に、つまりは感性=論理. 的に指示しうること、また図像たちから構成される画面の美は、それら諸要素の論理関係が一目瞭然に直観化され、隅々ま. で見通しが利き、すべての曖昧さを排除してすっきりと心地よいこと、さらにはその〈論理構造=感性的図像〉が感性と思. ). 」と呼ばれる。つまりアイソタイプ visual communication. 考を刺激し、次なる思考と行動を誘発し、他の諸要素や他者たちとの交流を促進し、よりよき世界を実現するといった理想 (. によって定義される。こうした図像表現の理想は一般に「視覚伝達. 性が一つの画像の中で完全に重なり合い一致することで、真善美の統一を実現しているのである。. そこで求められているのは、一切の影や魔術を許さない合理主義デザインであり、現実の事態に即して論理的に思考する. 実証主義的なデザイン思考である。しかしながら周知の通り、新実証主義の思想家たちは、それに先立つヴィトゲンシュタ. インがそうであったように、事態と概念、事実と命題の一対一の対応関係が保証できないことにすでに気づいていた。ノイ. ラートもまた、個別の要素事実に単純に基礎づけられた言語(記号)という思想に疑いを抱いていた。一つの事態には多く. の記号が対応しうるし、また逆もそうである。もしそうであるならば、図像言語はその根底において揺らぐであろうし、よ. り透明な世界を目指す視覚伝達の理想も水泡に帰すことになる。科学的実証主義という枠組みを課されたデザインは、まさ にその基礎部分において、この問題に繰り返し死ぬほど苦しめられることになる。. ― 50 ―. 18. においては、イメージを受け取る能力である感性、概念を適用する能力である知性、要素を論理的に接続する能力である理. 19.

(11) 技術における有機論と機械論. 有限回の経験的検証によっては全称命題としての普遍法則を正当化できないことを指摘したのはヒュームである。科学法. 則は経験によって検証される以外にその妥当性を主張できないのに、まさにその経験は法則を正当化できない。ヒュームの. 呪いと呼ばれるこの実証問題に対して、カール・ポパーは、一回の反証的経験によって命題の全称的主張を否定できる形式. 論理学の性質に依拠して、科学における反証主義という独特の主張を展開した。とはいえポパーの反証主義といえども、ま. wicked non-. さに個別の経験において反証の判断が可能であると主張する限りで、実証主義的真理概念に依然として依拠している。. その証拠に彼はいう。 「旧来の哲学の問題を擬似問題として最終的に暴露し、哲学に巣くう邪悪な無意味さ. ). 」で meaningful. を、有意味で実証的で経験的な科学の良識ある感覚と対決させる、まったくもって新しい哲学的運動が繰り返し提起 sense (. 」なものであ nonsense. されている」 。科学の命題が、対象との実証的関係によって経験的に反証可能であり、したがって「有意味. 」なのである。 wicked. あるのに対し、旧来の哲学の言語(とりわけヘーゲル)は、反証可能性の基準を満たさない「無意味 り、したがって「邪悪. 「邪悪さ」をめぐるこの問題を技術の領域において定式化したのが、ウルム造形大学においてデザイン方法論の教授を務. め、カリフォルニア大学バークレイ校でデザイン科学の教授を歴任したホルスト・リッテルである。通常の技術的手続きは、. 問題を一定の枠組みの中に囲い込むかたちで有効に定義し、その解決のために目的手段連関を構成するだろう。リッテルに. よれば、こうした論理性と因果性が重なり合うモデル(A→Bという線状モデル)は、たとえばチェスの詰み手問題のよう. 」と呼ぶ。彼のいう「飼い慣らされた問題」は、 tame problems. 」というかたちで一義に判定できることを前提としている。こうした前提が true or false. に、問題を記述する言語がその対象となる客観的事態に正確に対応しているかどうか、すでに確立された明示的規則に従っ て推論しているかどうかが、 「真偽. 成り立つかぎり、それをリッテルは「飼い慣らされた問題. まさに、論理経験主義のいう検証可能性、もしくはポパーのいう反証可能性を満たす条件と一致する。. これに対して、ほとんどの社会問題は飼い慣らしの枠組みに囲い込むことができないとリッテルは言う。その解決のため. ― 51 ―. 20.

(12) に線状の因果関係に基づくフレームワークを設定するやいなや、そこに包摂されない外部要素が決定的に重要な役割を果た. してしまい、有効な制御が不可能になる。それぞれの要因は多数のフィードバック・ループによって重層的に規定され、そ. ). wicked prob-. れゆえ目標に対する手段の有効性を時々刻々と変容させる。問題解決のための手続きはそれゆえ普遍化不能で特異的・非線. (. 形的であり、したがって反証可能性という科学の条件を欠いている。そうした種類の問題を彼は「厄介な問題 」と定義する。 lems. リッテルによれば街の治安とは厄介な問題の典型である。たとえば警官を増員することで犯罪の認知件数が減少したとし. ても、その問題の認知類型とその手段が正しいとは容易に言えない。というのも、その減少は別の要因(たとえば景気の向. 上や福祉・教育プログラムの改善)によったかもしれず、また犯罪の認知件数が減少したとしても犯罪が地下化して治安の. 実態は悪化しているかもしれないからである。つまり「厄介な問題」においては、問題の認知と解決を規定する枠組みの外. 部にその枠組みそのものの意味を問題化するコンテクスト化の可能性がつねに生じることになり、したがって問題の認識や 手段の真理性、反証可能性がつねに宙づりになってしまうのである。. リッテルは、厄介な問題においては、問題それ自体が、その解決と区別できないかたちで定義されるという。これに適合. する例を独自に考えてみれば、人はみな狼だというホッブズ的・自由主義的犯罪観にもとづく問題設定は、警官の増員や監. 視カメラの設置といった解決策をすでに先取りしているだろう。また犯罪は貧困のせいだというベンサム的・社会的犯罪観. にもとづく枠組み設定は、経済や福祉政策の強化という解決策を先取りしているだろう。だとすれば、厄介な問題における. 」ではなく、そのセンスや筋が「良いか悪いか true or false. ). 」で判断するほかないとリッテルはいう。 good or bad. (. 問題の認知やその解決手段はそれをデザインする人のいわば世界観に依存しており、したがってそれは「正しいか間違って いるか. 問題になるとしたら、その問題が「厄介な問題」であることをあえて否認し、その問題をリニアーな因果性によって解決で. この良し悪しの判断は、さしあたり道徳的な意味でのそれを指すものではない、とリッテルは言う。ただそれが道徳的な. 22. ― 52 ―. 21.

(13) (. ). きるとあえて主張する場合である。多くの公共事業や社会政策のように、ひとたび問題の枠組みが設定されその目標が示さ. れると、状況が変化して当初の効果が見込めなくなったとしても、その事業が別の回路で自己正当化を調達し、その解決枠. 組みの維持が自己目的化していくといった事態がよく見受けられる。こうした事態の進行はポパーのいう、反証可能性を喪. 失した歴史主義、すなわちイデオロギーの次元に位置する。そうなればその枠組みをまさに道徳的な意味で「邪悪」と呼ぶ ことに躊躇はいらない。. だとすれば、実証主義の枠組みのうちでデザインを遂行し、反省を遮断することは倫理的な意味で「邪悪」となる危険を免. れない。その邪悪さを回避するためには、実証主義が依拠する線状の論理モデルから、プラグマティックな効果の価値判断へ. と移行せざるを得ないはずである。こうして「真偽」の判断は〈筋の良し悪し〉という価値判断へと移行することになる。. とはいえここでいう〈筋の良し悪し〉とは、すでに確立された特定の価値基準や理念を前提としそれをどの程度満たすか. という、いわゆる完全性の基準にしたがって判定されるようなものではない。なぜならそうしたいわゆる客観的な判断にお. いても、当の客観的基準や指標の設定それ自体の筋の良し悪しがつねに問題化するのだからである。だがそうはいっても、. ればそれは、関係する全員の同意をあえて要求するという責任を負って、しかも同時に、一切の権威や枠組みから独立して 主張する判断、つまりは公共的(共通妥当的)判断でなければならない。. すなわちそれはカントの言う趣味判断の性質を帯びることになる。つまりデザインにおける認知・設計・操作にかかわる. すべての真理性の判断は、その認識と実践において美的な性質を帯びるのである。これはデザインされた対象がそれ自体と. な性質を帯びるこ ästhetisch. して通常の意味で美しくなければならないという意味ではなく、まさにデザインがそれ自身の対象へと向かう志向的な関係 性、つまり実証主義的で知性的な対応関係そのものが、その到達目標に対してまるごと感性的 とを意味する。. ― 53 ―. 23. 「好きか嫌いか」といった、自分さえよければそれで満足というような主観的で孤立した判断でもそれはありえない。だとす 技術における有機論と機械論.

(14) 一八世紀のカントにおいては、認識と実践の局面における判断力(構想力)は、感性的な所与が概念把握され理論化(理. 論的認識=科学)されるにせよ、普遍的理念が概念を通じて感性的領域のうちへと現実化(実践的行為=技術)されるにせ. よ、実証主義の枠内において現象と意味を媒介するいわば図式化の能力(構想力)として機能するに留まり、判断それ自体. が状況のうちでコンテクスト化する次元は排除されていた。認識と実践においては、感性(現象)と知性(概念)と理性(推. 論)という人間にとってアプリオリな三つの能力のあいだに根本的な齟齬がなく、それら能力が協働して一つの世界を、理. 論的には「構成的」に、実践的には「規定的」に、一歩一歩と作り上げていく役割を果たしうると信じられていたといえる。. だからこそ、認識と実践の領域は、自然美の観賞や芸術作品の制作といった狭義の美的領域からきれいに区別されえたし、 後者は前者とことなる統制的で反省的な判断力の独自の領域を形成しえたのである。. ). 別者たちの頭上に輝く「統制的」なものであり続けるがゆえである。. 」 )に対してつねに過小であり、「未決定状態 well-being. は、全体的理念が、個別の問題の認識と解決にとって、それ自身への接近すら保証しないにもかかわらず、なお苦闘する個. うじて」実現される真理と倫理もまた、感性に特有の未決定状態に留まるだろう。デザインがこの意味で「美的」となるの. れ自体不断にコンテクスト化され、その評価がいわば感性的なしかたで遂行される。そのときには、その図式化能力を「つ. ない。感性(イメージ)と知性(概念)の蝶番となる主体の判断力、その図式化能力(形象化の能力)が、状況のうちでそ. 25. ― 54 ―. これに対して高度に複雑化した現代の技術的世界においては、人間の線状の認識能力と、それに基づく実践能力、すなわ. (. ち設計能力は、全体的理念(たとえば「よりよき人間や世界の状態. 悲劇的性質を完全には免れえない。それゆえ人間のデザイン能力は全体的目標に対して「構成的」でも「規定的」でもありえ. ( ). 」に留まる。それらはそれぞれ善を目指しながらも、その動力によってかえって全体的破滅へと陥りかねない indeterminacy. 24.

(15) 技術における有機論と機械論. Ⅲ.有機と無機のあいだの存在者. 技術の有機化は、ラスキンやモリスといったポストロマン主義を源流とし、個体の内的本質を引き出し顕わにするポイ. エーシスの原理によって、機械的に断片化した破片を図形的・配置的に再統合し、それにより技術と人間の全体性を再建し. ようと欲した。だがその全体化の方向性は、第一者としての設計者の意図への機能的従属、つまり全体主義的有機化という. 危険を孕んでいた。それを回避するためデザインは、 「デザインとしての研究」、つまり、機械装置(破片)たちの同時多発. 的で相互扶助的な技術行為を志向した。そこでは、個々の機械的断片それ自身を構成する諸要素のいわば偶然的で虚構的な 配置の次元において真善美の統一が追求される。. これに対して技術の機械化は、ノイラートをはじめとした新実証主義を源流として、魔術化した全体性という「邪悪」な. 現実をもう一度デカルト的直観主義の原理によって明晰化しようとした。だがその方向性は、明晰化のただなかにおいて個. 別のフレーム枠組みの不全化という「厄介」な問題を生じさせた。それを回避するためデザインは脱フレーム化それ自体を 原理とする美的判断力の有機的構成に依拠することになる。. このように考察してくると、技術の有機論と機械論は、完全に相互補完的な論理構成をとっていることがわかる。そこに. おいては、いずれにせよ、不透明で魔術化した社会的・人間的現実に対して、技術は一方では有機論から出発し機械的な断. 片化へ、他方では機械論から出発して有機的構成へと向かうのである。この両者が交差するところに、デザイン世界のうち にある存在者の性質と、それにかかわるデザイン的理性の本質が存在すると考えられる。. にある。この言葉は、アゴラのような人々の集まりの場において何かを公的に言明すると ἀλληγορέω. デザインの技術空間に存在する存在者の基本的性質はアレゴリーと呼ばれるものであると考える。アレゴリーの語源は、 古代ギリシャ語の動詞. ― 55 ―.

(16) いう意味の動詞. に、 「別の」という意味の形容詞 ἀγορεύω. (. ). を付与することにより派生したものであり、発話者の意図と ἅλλoς. は異なる副次的意味を公衆のうちに発揮してしまう言葉や行為のありかたを指している。その意味でアレゴリーは、いうな. (. ). 」と呼ぶとすれば、アレゴリーはその文脈依存的性質、解釈学的変動のゆえに決して象徴の地位に Symbol. 0. 0. 0. テクスト的本質とコンテクスト的変動が組み合うかたちで、アレゴリーはそのつどの意味作用を発揮している。言葉を換. のを我々は認めざるを得ないのである。. すでに前もってそこにあることになり、そのかぎり、コンテクストに還元できない個体固有の先天的本質とでもいうべきも. もって先行して存在する必要がある。だとすれば、その過程をどこまで遡っても、解釈のたびごとにそれに先行する性質が. だからである。ある観点から解釈するには、その観点とは別に、解釈されるべき実質がすでに個物の内部に一定の規定性を. 対応関係によって一方的に規定されたり注入されたりするのではなく、コンテクスト(観点)の変動に応じて解釈されるの. 0 0. しかし他方でアレゴリーは完全な機械的存在者であるともいえない。というのも、アレゴリー的個体の意味は、外部との. アレゴリーはその意味を外部から規定されるかぎりで機械論的性質を保持する。. の個体に潜在している本質の内的発現ではなく、個体が位置するコンテクストの変動に応じて外的に変化するからである。. アレゴリーはまずもって完全な有機的存在者とは言いがたい。というのも、アレゴリー的個体が発揮する意味作用は、そ. 象徴的理念を統制的に必要とするのである。. 到達できず、そのかぎりで象徴化に失敗し続けることを運命づけられている。しかしそうであるがゆえに、かえってそこに. にならって「象徴. 意味を変容させていく。行為や言語、すなわち記号がその本来の意味と完全に合致し、区別不能になった状態をシェリング. 決定状態」に留め置かれてもいる。したがってアレゴリーはその状況の時間的変移、すなわち外的要因の変動によってその. れば過剰な潜在的意味をその身に帯びているが、しかし他方で、その意味を一義に確定するにはつねに不足した、かの「未. 26. えれば、アレゴリーは、別のアレゴリーの連関と連絡し、図形=配置を形成することではじめて、その先行的本質をその全. ― 56 ―. 27.

(17) 技術における有機論と機械論. 体的配置のなかでまるで生命のように開花させる。アレゴリーは外部から機械論的に規定を受けるが、その外部規定の変動 に応じて、内的本質をそのつど展開・機能させる。. アレゴリーを意味規定する場合、事態と概念(モノと精神)の一致としての実証主義的真理概念は、いうなれば複数のコ. ンテクストによる複数の解釈可能性に開かれる。事態と概念、事実と命題の実証関係(反証関係)は、その対応自身を判断. しうる無限のストーリー領域をその背後に抱え込んでいるのであり、したがって、事態と概念の一致としての個体はすでに. して複合的であり、したがってそれらにより合成された機械装置であり、その装置は荘子の言葉を借りれば渾沌的多様体で あるということができる。. その多様体において、要素と概念(意味)の対応関係に注目するならば、要素はそれに対応する意味の確定に対してつね. に開かれており、したがって意味は要素を規定するのに「いつもまだ足りない」という未決定状態、つまり過少の地位に留. まる。ある多様体に対してそれ自身もまた多様体である別の要素をあてがうことが「デザインとしての研究」であった。そ. の接続において、たしかに不足した意味がそのつど補充される。しかしその場合でも、その実質化する道行きは依然として. 」 、あるいは「奪取的 fictive. 」な性質を規定しているのである。 abductive. 複数の領野へと開かれている。その領野への開かれのうちで形象=図形がそのつど生成していくとすれば、この開かれこそ、 デザインにおける真理の「虚構的. アレゴリー的要素がある種の価値を出力するのは、それぞれのアレゴリーが、別のアレゴリーと機械的に接続することに. よって有機的機能を発揮するからである。そのときアレゴリーはそれが位置するコンテクストの潜在的可能性を顕在化さ. せ、いわばその養分を吸い出す。このとき、微視的にみるならば、あるアレゴリーの潜在的可能性(可能的な文脈可能性). と、複数の別のアレゴリーのそれが、その接続の成り行きとともにいわば掛け合わされ、内発的な力を発揮しゆくのである。. それはそのつどの表現の強度を取るであろう。そのような真善美の連関こそ、現代の技術によって再現される生命的な次元 なのだといえる。. ― 57 ―.

(18) (. (. 3. 2. 1. ちに求めようとするあり方として「現代 Moderne 」を論じる。現代とは、自らを支える根拠をいま― ここに位置する自己自身 の内部から調達する時代とされる。それが理性の自律であり、その自律の場所を理性は「主観性」のうちに見いだすことになる。. カントは、真・善・美の三つの領域へとその主観的理性を「分離」したとハバーマスは言う。これに対してヘーゲルは、主観的理. 性のこの分離状況を「分裂」ととらえ、 「自己疎外した精神の世界」を客観的精神によって統合しようと意図したとされる。ハバー. マスはヘーゲルと問題意識を同じくするが、客観的精神(絶対精神)の代わりに、討議する公共的精神を代置したといえよう。. Herbert Read, Art and Industry The Principles of Industrial Design, Harcourt Brace and. )こ の 」を区別し、後者のうちとりわけ、産業機械に「装飾 decoration 」として  本でリードは、純粋芸術と「応用芸術 Applied Art の「美」を外的に付加するような機械論的な美のあり方をウエッジウッドの製品を例として批判した。彼にとってそれと対比され. るのがウィリアム・モリスであった。. 特に第 章、「機能と装飾」、第 章「ウエッジウッドとモリス」以下を参照。 Company, New york, 1935. ) 「ひ  とつには、ひとはそのひとがそうであるものになるように教育されなければならない。他方には、ひとはそのひとがそうでな. 二〇一一年)、八二頁。この論文によれば、リードのこうした教育観は戦後日本の美術教育の理論的支柱となったという。. ) 同、九-一〇頁。. Ibid., p. 7. )本 田 (宇都宮大学教育学部紀要 第六一号 第一部、  悟郎「ハーバート・リードの美術教育論― 『芸術による教育』の今日的意義」. 前者がプラトン以来の「潜在能力を開発する」有機的教育観、後者が近代の外部注入的、機械論的教育観を指している。 Read, リード『芸術による教育』 (植村鷹千代・水沢孝策訳、美術出版社、 Education Through Art, Faber and Faber Limited, 1958, p. 2. 一九五三年)、二頁。. いところのものになるように教育されなければならない。ここでは、このように二つの相容れない可能性が少なくとも存在する。」. 8. 註. (. 7. ― 58 ―. ) 「哲  学は、さまざまな文化的価値領域を、学問と技術、法と道徳、芸術と芸術批評と、まったく形式的な視点のもとに相互に分け 隔ててしまい、しかも、それぞれをこの境界の内部で正当化するのである。」ハバーマス『近代の哲学的ディスクルスⅠ』(三島憲. ( 4. 一ほか訳、岩波書店、一九九〇年、二八頁)を参照。この本でハバーマスは、自らを正当化する根拠を過去ではなく「いま」のう. ( 5.

(19) 技術における有機論と機械論. (. ( 6. (. )こ の  ような有機的形態化の論理はロマン主義に源流を持つ。ドイツにおいては、『人間的自由の本質について』におけるシェリン グの「自己性」の概念や、ゲーテの形態論にまでそれは遡る。ゲーテはその植物形態論(『ゲーテ形態学論集 植物編』木村直司. 」と「退行 generation. 」の二つの方向性の緊張関係のうちで生成を遂げゆく生命 degeneration. 編訳、ちくま学芸文庫、二〇〇九年)において、生命の力はその原像からの拡張と収縮を反復しながらその「形態 morphē, Form 」 を生成させると論じた。この「原現象」の議論を引き継ぎ、独自のデザイン論を展開したのが向井周太郎である。向井によればデ ザインにおける造形もまた、 「生成. 的な過程である。向井周太郎『デザイン学 思索のコンステレーション』(武蔵野美術大学出版局、二〇〇九年)、板東孝明「かた ちの生成を求めて― 「形態論」の根原」(古賀徹編『デザインに哲学は必要か』武蔵野美術大学出版局、二〇一九年)を参照。. )古 賀  徹「工業化後期のデザインの美学 初期社会主義、ラスキン、モリスの社会思想」(『芸術工学研究』、二七号、三一-六四頁、 二〇一八年)、およびリード『アナキズムの哲学』(大沢正道訳、法政大学出版局、一九六八年)を参照。. )ア リ  ストテレスにとって劇中舞台の人間関係は、各人にとって有機的(自発的)であるはずの展開が他者にとっては機械的(強制 的)に現れる状況として把握される。その状況全体を見通しているのは観客だが、その観点は各登場人物から見通すことはでき. ず、コロスの歌声としてかろうじて劇中に青白く反映されるのみである。意図する行為は他者に全く違った意味作用を及ぼす、つ. まり行為者は自ら為すことを知らない。この「行為(ドラーン)」の行為遂行的性格それ自身が、遂行された行為の集積(ドラマ). を織りなしていく。悲劇において行為は筋(ミュトス)として事前にその成り行きが規定されるとしても、その筋があらかじめ先 取りされていないかぎりで、行為は運命の拘束から解き放たれると思いなされる。. ) Christopher Frayling, Research in Art and Design, Royal College of Art Research Papers, Volume 1 No.1, 1993/4, p. こ 5. の論文の 社会的背景には、欧州においてアートやデザイン系の大学機関の再編の波が一九八〇年代に生じ、美術大学をはじめとした実技系. の高等教育機関がたんに実技の修練学校ではなく独立した研究機関としての地位を得ることとなり、その結果、自前の博士号を出. す必要に迫られたことがある。そこでデザインは、実験を通じて法則を探求する自然科学や工学とは異なって、個別の実践に基づ. ― 59 ―. ) 「デ 同、二九九頁。 ィシプリンは、つねに、外部から行使される制御を含意している」 Read (1958), p.266.. (. 7. )「その文明たるや、形態と機能、仕事と余暇、芸術と工業との離婚を満足げに容認するものであり、それは、根底的には、精神と.  事物、個人的意識と集団的意識の離婚にほかならない。」 Ibid., p.216. 同、二五〇頁。. (. 8. (. 9 10 11.

(20) (. (. ( (. (. く独自の知のあり方を明確化しなければならなくなった。とりわけその議論の中心を担ったのがイギリスであり、フレイリングが. )あるかもしれ. 所属するロンドンの王立美術大学であった。 Claudia Mareis, Design als Wissenskultur: Interferenzen zwischen Design- und Wis-. sensdiskursen seit 1960, transcript, 2011, S. 54-55. )彼 は  デザインの真理探究的な側面について以下のような認識論的性格を付与する。すなわちその「研究」は、(. 1. )する手段や道具を開発し、( materializing. ない未来世界の創造や構築に関わるという意味で可能的( possible )な性格を持ち、( )そういう可能性としての世界を物質化 )潜在的に関連する様々な視野の複数性とその複合体 the pluralities and the mul-. (. 2. と 位 置 づ け、 最 後 に(. を取り扱うことのできる「方法の道具箱 a method toolbox 」を提供し、 ( )実験とし titude of potentially relevant perspectives てのさまざまなプロセスを表現し、視覚化し、記録し、( )個々の実験を、問いを提起する探求のシステムから産出されるもの. 3. ) そ れ 自 身 が デ ザ イ ン 研 究 の 実 践 を つ ね に 変 革 し つ づ け る 方 法 や 道 具 と な る、 と い う。. 5. Simon Grand,. 4. 」、すなわち「人工物の考案 devising artifacts 」という概念を一九六九年にすでに示していたのは、 device ハーバート・サイモンである。彼は、デザインを自然の科学から区別して「人工物の科学」と定義し、デザインを「ものがいかに. 「モデル化 modelling 」と呼び、その思考を「批判的 critical 」と規定していた。モデルを構築することがすでにして状況に対して 批判=批評的なのであり、クロスによればデザイン教育はまさにこの批評的思考を学生に培うことを意味する。 Nigel Cross, De-. ) Grand (2010), p. 5. )グ ラントはこの概念をナイジェル・クロスから引いている。クロスは、グラントのいう実験装置の構成に相当するものをすでに. ficial, MIT Press, 1996. p. 114.. 験に関する思考は、パースやデューイのプラグマティズムにまで遡ることができる。 Herbert A. Simon, The Sciences of the Arti-. あるべきかに関心を持ち、目的に到達するために人工物を考案すること」と規定した。装置の考案とそれによる検証、すなわち実. 8-9. )デ ザ  インにおける「装置. Martin Wiedmer, Design Fiction: A Method Toolbox for Design Research in a Complex World, proceedings of the DRS 2010, pp.. 6. signerly ways of knowing, Design Studies, Vol.3. no. 4, October 1982, pp. 221-227. )新 実  証主義の源流はむろんフレーゲの言語哲学やヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』であり、その影響を受けた新ウィーン. ― 60 ―. 12 13 15 14 16.

(21) 技術における有機論と機械論. (. (. (. ( (. (. 学派による。これは哲学者による観念の操作(弁証法)を拒絶するという意味で、聖職者による聖書の高等批評を拒絶し聖書の文. 面への字義通りの依拠を求める神学的反知性主義の振る舞いに似ている。オットー・ノイラートも新実証主義の代表者の一人で. あるが、論文「プロトコル言明」において「決定的に確立された、純粋なプロトコル言明を科学の出発点とすることはできない」. と述べて、有名な船の比喩を展開する。坂本百大編『現代哲学基本論文集Ⅰ』所収、勁草書房、一九八六年、一六九頁。. ) Frank Hartmann, Erwin K. Bauer, Bildersprache Otto Neurath Visualisierungen, erweiterte und durchgesehene Auflage 2006, Facultas Verlags- und Buchhandes AG, Wien.. )こ う  した図像言語の意義は、今日ではコンピュータのグラフィカル・ユーザーインターフェース(GUI)においてもっともよく 実現されている。電子計算機の動作条件に意識を割かれる専門家のプログラミング言語に代わって、GUIは、目的指向の直観的. で即時的な操作、国語の差異をこえた表示システム、シンタックス・エラーが原理的に生じないアーキテクチャ等々によってハー. ドウエアを不可視化する。そのうえで、操作の対象となる要素単位と論理構造をディスプレイ上に一覧的に直観化すること、つま. り要素と推論の視覚化がそこで実現されている。またGUIを用いたスライドプレゼンテーションにおいては、まさに単語それ自. 体が要素図像としての役割を果たすことになり、まさにテクストの論理構造が一つの画面として直観的に表現される。画面により. 直観化できない言語や思考や行為は、事態に対応しない無意味なもの、非論理的で魔術的なものとして、認識と実践の領域から排 除される。. )こ の  ような実証主義的な美的連関の理想は、最先端のテクノロジーをつうじて教育格差や言語障壁を乗り越え、誰もが容易に世界. を理解し、論理的な思考を正確に駆使し、自己を効果的かつ自由に表現し、もって水平的で啓蒙的な人的ネットワークを構成しう. るという、グローバル・デモクラシーの思想へと結実する(一九九〇年代のカリフォルニア・イデオロギーはその典型である)。 これらの反知性主義的技術運動は、実証主義的な言語哲学の最良の技術的成果ということができる。. ) Karl Popper, The Logic of Scientific Discovery, Routledge, 2002, p. 30. ) Horst W. J. Rittel and Melvin M. Webber, Dilemmas in a General Theory of Planning, Policy Sciences, Vol. 4, No. 2 (1973), Else-. vier, p. 160. )た とえば治安の向上の方策を警察署長に聞けば、パトカーの台数を増やして欲しいという筋の悪い答えがきっと返って来るとい. ― 61 ―. 17 18 19 21 20 22.

(22) うように、問題の定式化とその解決をひとはより低い次元でリニアーに思考する傾向があるとリッテルはいう。. ) の項目、および. O  xford English Dictionary (2012), allegory の項目を参照。 University Press (1986), ἀλληγορέω. ) F. W. J. Schelling, Texte zur Philosophie der Kunst, Reclam, 1982, S. 191.. Liddell and Scott, Greek-English Lexicon, Abridged edition, Oxford. )こ の  点で機械論的なデザインアプローチは、結果としてアリストテレスの悲劇的構造、すなわちポイエーシスの原理へと再びはま り込んでいく。ここでは個体における機械論が不可視の有機論(運命)に屈服するという意味でも悲劇的なのである。. Issues, Vol. 8, No. 2, 1992, p. 15.. ( ) Ibid., p. 161. ( )リ ッ  テルたちの「未決定状態」についての言及は、以下を参照。 Richard Buchanan, Wicked Problems in Design Thinking, Design (. (. (. (こが・とおる 九州大学芸術工学研究院 教授). ― 62 ―. 24 23. 25 26 27.

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