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<論文>岩山が示すもの--フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって

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(1)文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 岩山が示すもの   フィリッポ・リッピ 《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱 持 あずさ Filippo Lippi s Form.. A Consideration of Rock. はじめに:問題意識  本考察の対象となるのは、フィリッポ・リッピ(1406 頃∼ 1469)が晩年に描い た《聖母子と二人の天使》(図 1 − 2)である。  絵の中には、二人の天使によって支えられた幼いイエスと、彼にむかって手を合 わせる若き聖母マリアが描かれている。天使のうち一人は、イエスの足を肩にの せ、ほほ笑みながら視線を私たちに向けている。一方、イエスとマリアの間からか ろうじて顔が見えているもう一人の天使は、こちらには気が付いていな風情で、口 を半ばあけつつ神の子を支えるのに集中しているようすである。人物たちの背後に は、赤い屋根の建物や、蛇行する川、屹立する岩山、遠方に霞む塔のある町並みな どがみとめられる、印象的な風景がひろがっている。また、画面の周囲には、灰色 の枠が描かれている。マリアの椅子や天使たちはこの描かれた枠の「前に」いるよ うに描かれており、したがってこの縁は、あたかも背後の風景をのぞむ窓の縁の役 割を果たしているようにも見える。  現在ウフィツィ美術館に所蔵されている本作品の、注文主や注文経緯などはわ かっていない。ポッジョ・インペリアーレのメディチ家別荘に由来し、1796 年に ウフィツィ美術館の所蔵となった。その来歴から、メディチ家にゆかりのある作品 だと推測されるが、制作年や当初の所蔵者についての決定的な証拠は報告されてい ない。制作年については、リッピの最晩年にあたる 1460 年代後半に位置付けられ ている1。  ルーダによれば、本作品のようにマリアのひざの間で天使がイエスを支えるとい う図像は、すでにロマネスク時代から写本装飾や彫刻作品の中に見出すことができ るという。そこでは、旧約聖書『雅歌』の伝統的解釈に基づき、受肉した神である. −208−. (. 1. ).

(2) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. キリストは花婿に、教会の象徴であるマリアは花嫁に結びつけられた。この伝統を 踏まえれば本作品の主題も、キリストとマリアの結婚、神と教会の統合であると言 うことができる。この場合、天使たちは、花婿であるキリストの友人になぞらえら れる2。  また、レーヴィンは、本作品の魅力の一つともいえる、私たちに視線を向ける天 使の微笑みについて考察した。彼女によれば、天使が微笑むのは、神(イエス)と 教会(マリア)の統合を喜んでいるからであり、リッピは現実の少年がみせるよう な笑顔によって、宗教的な喜びを表現したのである3。  このように、聖母子と天使の関係性や天使の魅力的な表情が主要な話題となって きた本作品であるが、本論で問題とするのは、主要人物の背後に描かれた風景表現 である。  フィリッポ・リッピは、多くの聖母子像を描いた。半身の聖母子像は、ルーダに よる 1993 年のモノグラフの中で、13 点確認される4。ほとんどが、錦の織物か、ま たは上部に貝殻装飾を持つニッチを背景とした構図(例えば図 3)であるが、その うち風景描写を背景とする作品を 2 点確認することができる。1 点は、この《聖母 子と二人の天使》(図 1)であり、もう 1 点はおそらく本作品のヴァリエーション として構想された《聖母子》(図 4)である5。  《聖母子と二人の天使》は、風景描写の細部にも特徴がみとめられる。とくに論 者が注目するのは、キリストの背後にそびえる岩山の表現(図 2)である。詳細に 観察するならば、この山には、地面から突き出てきたかのような、縦に線条の入っ た崖の部分と、その上部に岩盤を積み重ねたような部分がある。このような岩山の 描写は、リッピ作品の中では異色である。  岩山、または岩の描写は、リッピ作品には初期の頃からしばしば登場している。 その代表例は、1450 年代から 60 年代半ばにかけて制作された、プラート大聖堂内 陣の壁画連作のうち《荒野の洗礼者ヨハネ》(図 5)にみることができるだろう。 ここでの岩山は、単に風景上のモティーフとして描かれているだけではなく、ヨハ ネの物語を語るための舞台として巧みに構成されており、その点にリッピの創造性 を見出すことができる。一方、個々の岩の形状に着目すると、リッピが伝統的表現 を受け継いでいることがわかる。《荒野の洗礼者ヨハネ》の岩の形は、例えば世紀. (. 2. ). −207−.

(3) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 初頭の、ロレンツォ・モナコによるものにきわめて近い(図 6)。両者を《聖母子 と二人の天使》の岩山と比べた場合、その違いは明らかであろう。  《聖母子と二人の天使》の岩山は、少なくとも現存する作例の中では、リッピが 従来描いていた、ゴシック的な雰囲気を残す岩山表現とは異なる初めての岩山だと いえる。このことは、今まであまり重要視されてこなかった。しかし論者は、この 岩山表現に注目したい。リッピは、なぜ本作品で従来とは違う岩山を描いたのだろ うか。  この問題意識に基づき、本論では、まず《聖母子と二人の天使》に現れた岩山の 図像的な源泉を探る。その上で、作品主題との関連から、本作品においてリッピが 新しい岩山を描いた契機について考えてみたい。リッピが描いた岩に注意を喚起 し、《聖母子と二人の天使》を解釈する際の一助とすることが本論の目的である。. 第1章 フィレンツェ絵画における風景表現 ①15 世紀イタリアにおけるフランドル絵画受容概観  本論があつかう「岩山」は、言うまでもなく風景を示す、または彩るモティーフ のひとつである。そこで、まずは《聖母子と二人の天使》の風景描写全体に目を向 けよう。《聖母子と二人の天使》の風景描写は、同時代のフランドル絵画から影響 を受けていると指摘されている6。  15 世紀フランドル絵画が同時代のイタリア絵画に与えた衝撃については、すで に多くの先学によって緻密な研究がなされてきた7。  ヤン・ファン・エイクを筆頭とする北ヨーロッパの画家達の手による作品にあら われた細密描写、豊かな感情表現、エキゾチックなモティーフは、多くのイタリア 諸侯をとりこにした。15 世紀にイタリア各地でフランドル美術が愛好されていた ことは、現存するさまざまな絵画または文字資料が示している。パドヴァには、 ファン・エイク派の磔刑図の精密な模写が残されているし8、商人であったチリア コ・ダンコーナはフェッラーラの宮廷でロヒール・ファン・デル・ウェイデンの祭 壇画を見たという証言をのこしている 9。また、ナポリ宮廷で活躍した人文主義者 バルトロメオ・ファチオは、その著書『名士伝』(1456)の中で、「画家」の項で ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ、ヤン・ファン・エイク、ピサネッロ、ロヒー. −206−. (. 3. ).

(4) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. ル・ファン・デル・ウェイデンの 4 人をあげ、ナポリはじめジェノヴァ、フェッ ラーラにあったというヤンやロヒールの作品を紹介している10。  フィレンツェにおいても、すでに 15 世紀前半からフランドル絵画に対する評価 は高まっていたようだ。文献資料としては、1492 年のメディチ家財産目録に、ヤ ン・ファン・エイクによる「書斎の聖ヒエロニムス」の記載がある11。また、作品 の中にあらわれたフランドル絵画の影響については、より早い時期のものについて 繰り返し指摘されてきた。フィリッポ・リッピの 1437 年の《タルクィニアの聖 母》12 はとりわけ早い時期の、そのような作例として知られている。場面が室内に 設定されていること、窓の外に風景描写がのぞいていることなどに、研究者たちは フランドル絵画の面影を想定している。また、続く 1440 年代半ばの《受胎告知》13 においては、最前面にこれみよがしに置かれたガラスの水差しの質感描写が、リッ ピがフランドル絵画を参照した証とされている14。  しかし、フィレンツェの芸術家たちが、より明らかに、頻繁にフランドル絵画を 参照し、吸収するようになるのは 1460 年代以降、とりわけ 1470 年代以降である。 その傾向が顕著にあらわれたのは、風景描写においてであった。. ②フィレンツェ絵画における風景表現の変遷  1460 年代以降のフィレンツェにおける風景描写の流れを概観しておこう。ヌタ ルは、『フランドルからフィレンツェへ』という著作の中で、1460 年の時点での フィレンツェ絵画の風景描写を、空間構成の観点から 3 つのタイプに分類してい る15。  ヌタルが分類した第一の型は、前景から奥へと広がる空間を構成するマザッチョ 型である。フィレンツェ、カルミネ聖堂ブランカッチ礼拝堂に描かれた《貢ぎの 銭》(図 7)をみてみよう。物語が展開する水辺では、使徒たちのいる前景から画 面の奥に向かって、大きな空間が広がっている。見る者の目は、遠近法的に後退す る建物の線や、ちらばる木々によって、遠方の山々へ導かれてゆく。  第二の型はジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ型である。1423 年に制作され たストロッツィ家のための《マギの礼拝》(図 8)では、聖母子および着飾ったマ ギたちのいる前景の狭い空間は、彼らのすぐ後ろの牛やロバのいる洞穴のある小山. (. 4. ). −205−.

(5) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. によって閉じられている。その他の人物や動物たち、田舎の風景などは、小山の上 部や横に積み重なるように描かれ、画面はタペストリーのようにモティーフで埋め られる。  第三の型は、ドメニコ・ヴェネツィアーノ型である。ヌタルによれば、《マギの 礼拝》(図 9)の風景描写において、ドメニコ・ヴェネツィアーノは前述の二つの 型を発展させているという。画家はここで、マザッチョの遠近法的な奥行きの後退 と、ジェンティーレの空間中央に山などを配置して画面を構成する手法を組み合わ せている。すなわち、中央に小山を配置して前景に狭い空間をつくり、画面の両側 では、遠方へと後退する山並みを描いているのである。  1420 年代に描かれたマザッチョとジェンティーレによるモデルに基づき、フィ レンツェで確立したこれらの風景表現に対して、1460 年代にフランドル絵画がも たらした風景描写は、全く新しい形式を持つものであった。  周知のようにフランドル絵画においては、ヤン・ファン・エイクらの作品の中 で、すでに世紀の前半から、高い視点から俯瞰的に風景を表現する「プラトー・コ ンポジション」が展開していた。プラトー・コンポジションが 1460 年代からフィ レンツェにも浸透をはじめたことは、アントニオ・デル・ポライウォーロなどの作 品が示している。ウフィツィ美術館所蔵の《ヘラクレスとヒュドラ》(図 10)で は、雄々しく戦うヘラクレスの足元に、蛇行する川や点在する植物をそなえた、パ ノラマ式の風景がひろがっている。  しかし、1480 年代になると、俯瞰的な風景描写から、より低い視点からの風景 描写へ画家の関心が変わっていくことをみとめることができるという。1480 年代 以降、フィレンツェの画家に対してより大きな影響力を持った代表的な画家はハン ス・メムリンクであった。例えばフィレンツェのドメニコ会士であったベネデッ ト・パガニョッティのためにメムリンクが描いた祭壇画からは、風景を彩る細部モ ティーフがくり返し引用された16。またベッローシは、「フランドル風の」風景の 特徴とは、植物がおいしげった土地、湿り気をおびたような水辺の風景、大気の向 こうに青く霞む山々などであるとし、イタリアでのフランドル風の風景の流行の中 でメムリンク作品が果たした役割を強調している。彼によれば、そのような意味で のフランドル風の風景描写は、フィレンツェにおいては 1470 年頃のヴェロッキオ. −204−. (. 5. ).

(6) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. にその起源があるという 17。  1470 年代以降のフランドル絵画のより多くの流入と「フランドル風の」風景の 流行は、フィレンツェの画家たちがそのような風景表現に知悉することを促した。 それを学び、作品の中で引用し、自らの表現の中に消化してゆく過程で、もはやそ の起源がわからなくなるほどに、「フランドル風の」風景表現は、イタリア絵画に 溶け込んでゆくのである18。  以上の流れを踏まえるならば、リッピの《聖母子と二人の天使》には、「プラ トー・コンポジション」の俯瞰的な視点が導入されていることがわかる。聖母の頭 の後ろに見える蛇行した川や、遠景まで見渡せる描写には、ポライウォーロと同様 の関心をみとめることができるだろう(図 2)。従って、すでに指摘されているよ うに本作品は、フランドル絵画の風景描写に刺激を受けている作品だとみなすこと ができる。  しかし同時に、本作品の構図が、ポライウォーロ作品ほど明確に「プラトー・コ ンポジション」に依拠していないということにも留意しておく必要があろう。全体 で見たとき、本作品はきわめて複雑な空間構成をとっている。人物と背景の風景描 写は、だまし絵的な枠によって結びつけられているが、人物たちと描かれた枠の間 には空間は感じられず、彼らはほとんど枠に接しているようだ。一方、彼らが枠の 「前に」描かれているために、絵の中からこちらに向かって突出してくるような効 果が生み出されている。実際天使の翼は、枠を越えて明確に現実世界にはみだして いるのである。聖母子や天使たちの、見る者に対する距離の近さは、親密な雰囲気 を作り出す。この雰囲気は、絵の外の私たちに向かって視線を投げかける天使の微 笑みによって、いや増している19。これらのことからは、リッピの関心が、単にフ ランドル風の風景描写の研究のみにあったのではないことが容易に理解されるだろ う。  とはいえ、本論の関心は、本作品の背景にあらわれた岩山にある。くり返すなら ば、本作品の岩山は、先行するリッピの作品中にはみられない。リッピに限らず、 先行するフィレンツェ絵画には、本作品の岩山のような描写はみられないのであ る。しかし、興味深いことに、リッピが参照したと考えられる同時代のフランドル 絵画の中には、本作品と共通の要素を持つ岩山をみることができる。すなわち、こ. (. 6. ). −203−.

(7) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. の岩山もまた、フランドル絵画への関心を明確に示すモティーフだと考えられるの だ。  次章では、フランドルの作例や、リッピ以後のフィレンツェにおける作例と比較 しながら、岩山の表現を掘り下げて検討してゆくこととしたい。. 第2章 岩山について ①フランドルの作例との比較  実は、フィレンツェの画家たちに多大な影響を与えた「フランドルの岩」が存在 する。トリノ、サバウダ美術館所蔵の、ヤン・ファン・エイクまたは工房による 《聖痕を受ける聖フランチェスコ》(図 11)である。制作年代は、1435 年から 1440 年頃とされている20。  この作品はブリュージュの商人アンセルム・アドルネスが所有していたものと考 えられている。彼は、1471 年 2 月 5 日、聖地巡礼の帰途にフィレンツェを訪れて おり、その際、この絵を携帯していたらしい。というのも、本作品を明らかに直接 参照したと考えられる作例が現存しているからだ21。  それは、フィリッピーノ・リッピとボッティチェリの共同制作とされる《マギの礼 拝》 (図 12)である。横に長い画面中央部の岩の描写を見ると、右側の岩の形状、 遠方にみえる湖、そこに浮かぶ船、湖の対岸に町がひろがっているようすなどを、 ほぼそのまま、前述の《聖フランチェスコ》から引用していることがわかる。とりわ け、薄い板状の岩盤が積み重なったような岩の描写は酷似している(図 13 − 14) 。  複数の研究者は、おそらくフィリッピーノが、アンセルム所有の《聖フランチェ スコの聖痕拝受》を直接見て、素描などをしたと考えている22。そして、そのフィ リッピーノの素描が媒体となって、ファン・エイクの《聖フランチェスコ》の風景 描写、とりわけ岩の描写がフィレンツェの画家たちの間に流通することとなった。 ロールマンは、現存する作例のなかから、《聖フランチェスコ》からの引用(また は参照した)が指摘できるものを 11 点あげている23。  ところで、フィリッポ・リッピの《聖母子と二人の天使》は、当然ながら、アン セルムが《聖痕を受ける聖フランチェスコ》を携えてフィレンツェにやって来る以 前に描かれており、リッピがこの作品を直接的に参照したと言うことはできない。. −202−. (. 7. ).

(8) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. トリノ作品に描かれた岩と《聖母子と二人の天使》の岩を比較してみても、全体的 によく似た形状とは言い難いだろう。  しかし、岩を形作っている個々の要素はどうであろうか。すでに観察したよう に、リッピの描いた岩山は、ほぼ垂直に切り立った部分とその上部の岩盤を積み重 ねたような部分で構成されている(図 2) 。この「岩盤を積み重ねたような」とい う性格は、ファン・エイク作品の岩山にもみることができる(図 13)。画面右側の 大岩では、横方向に線条が入り、とりわけ上部では、いくつもの岩が積み重なるよ うにして全体を形作っている。  また、リッピの岩山を構成しているもう一つの要素であった、大地から垂直に立 ちあがったような岩山も、ヤン・ファン・エイクの他の作例に見出すことができ る。例えば、《ヘントの祭壇画》の休日面を構成する、下段むかって左側の場面で は、騎士たちが進み行く背後に、垂直に立ちあがるような複数の岩が描かれている (図 15)。  このように、岩を形作るそれぞれの要素に着目すると、フィリッポ・リッピの描 いた岩とファン・エイクの描いた岩には共通点を見出すことができるのである。そ うだとすれば、やはりリッピが本作品で描きだした岩山の描写は、同時代のフラン ドル絵画に触発されたものだという可能性が高いのではないのだろうか。  実際、このような岩の描写は、ファン・エイク周辺で制作された多くの作例に見 出すことができる。《聖フランチェスコの聖痕拝受》は、ファン・エイク工房でく り返しコピーされたと考えられているし24、『トリノ = ミラノ時禱書』の細密画の 中では、ファン・エイク周辺の画家によるとみられる《十字架の下のピエタ》 (図 16)の背景の右側に、よく似た形状の岩が描かれている25。また、ペトルゥ ス・クリストゥスの《洗礼者ヨハネ》(図 17)にも、同様の岩の描写をみとめるこ とができるだろう。  このように、ファン・エイクが描きだした岩のイメージは、15 世紀の半ばには、 フランドル地方を中心に板絵はもちろん、写本装飾や、おそらくは素描等を通じて 流通していたと考えられる。リッピも、そのような作例のうちの一枚を目にしてい たのではないだろうか。. (. 8. ). −201−.

(9) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. ②次世代の画家との比較  続いて、同時代フィレンツェ絵画との間で、岩山の比較を行いたい。すでに述べ たように、リッピ自身の作品も含め、先行するフィレンツェの作例の中に《聖母子 と二人の天使》に描かれた岩山と同様の描写を見出すのは難しい。しかしながら、 大変興味深いことに、本作品より後に描かれた作例に、きわめて近い岩山の表現を 見出すことができる。ドメニコ・ギルランダイオによる《荒野でのイエスと少年洗 礼者ヨハネの出会い》(図 18)である26。  ここに描かれているのは、聖家族のエジプト逃避にまつわるエピソードである。 ヘロデ王による幼児虐殺を逃れるためにエジプトに非難した聖家族は、王が亡くな るとナザレに帰った。彼らはその帰路の途上、禁欲生活をおくっていた幼いヨハネ に出会ったという27。画面の右側で、ヨハネは、少年に成長したイエスに走り寄 り、かたい握手をかわしている。左側の少し離れた場所では、マリアとヨセフが描 かれている。マリアは、二人の少年をほほえましく見つめているようだ。  二人の少年の背後に現れた岩山に注目すると、それほど大きくないこの岩山が、 リッピ作品と同様に、地面から垂直に立ちあがる部分と、板状の岩が積み重なった 部分から構成されていることが確認される。とりわけ、地面から垂直に突き出たよ うな岩山の表現において、両者はきわめてよく似ていると言えるだろう。さらに細 部に注意するならば、リッピ作品の岩山の頂上にみられる丸い塊と類似したモ ティーフを指摘することができる。ギルランダイオ作品の岩山の頂上付近に描かれ た、丸い樹木の茂みである。リッピ作品では、何を示すのか判然としない描写であ るが、ギルランダイオ作品との比較を踏まえるならば、この丸い塊は植物をあらわ していると考えられるかもしれない。  このように、ギルランダイオの《荒野でのイエスと少年洗礼者ヨハネの出会い》 に登場する岩山は、リッピによる岩山の描写といくつもの共通点を持つ。同時にこ の作品は、ギルランダイオがフランドル風の風景を描いた例として、しばしば言及 されてきたのである。  ベッローシは、ギルランダイオが描いたフランドル風の風景の、とりわけ顕著な 例としてこの《荒野でのイエスと少年洗礼者ヨハネの出会い》をあげている。彼は 岩の描写にも注目しており、彼によれば、円錐形で縦方向に層が入った岩の描写. −200−. (. 9. ).

(10) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. は、例えばメムリンクの《洗礼者ヨハネ》(図 19)などに見られるような岩を参照 しているという28。たしかに、ここにも私たちがすでにくり返し観察してきた特徴 を持つ岩が描かれている。  また、ロールマンは、《荒野でのイエスと少年洗礼者ヨハネの出会い》のイエス とヨハネの背後の岩に、ファン・エイクの《聖フランチェスコの聖痕拝受》(図 11)の岩の引用をみとめていて、ヌタルもこれを支持している29。ギルランダイオ 作品に描かれた岩山の上部は、いくぶん形式化されているものの、広い面をもつ大 きな岩と、板状の岩の組み合わせ方が、ファン・エイク作品のものと類似してい る。  研究者たちによるこれらの見解は、いずれも作品の比較検討を通して得られた納 得のゆくものである。ギルランダイオの岩山について、複数のイメージの「典拠」 が提示されていることは、この作品が描かれた 1470 年代後半には、ヤン・ファ ン・エイク由来のフランドル風の岩の描写が、それだけフィレンツェに普及してい たことを示していると考えられるだろう。本論にとって興味深いのは、すでに確認 したように、ギルランダイオ作品の岩は、《聖母子と二人の天使》の岩とも多くの 共通点があるということだ。このことは、前節で述べたように、リッピもまた、ギ ルランダイオと同様、フランドル風の岩のイメージを参照していたことを示唆して いる。従って論者は、《聖母子と二人の天使》の岩山は、1460 年代半ば、ファン・ エイク風の岩のイメージが、何らかの媒体を通じてフィレンツェのリッピの眼にと まった結果描かれたものと考えたい。  以上、作例の比較検討を通じて、フィリッポ・リッピが《聖母子と二人の天使》 で描きだした岩山には、フランドル絵画が深く関っていたことが明らかになった。  リッピが本作品で取り組んだ「岩山」は、フランドル風の風景を彩る主要なモ ティーフとして、ギルランダイオ、ヴェロッキオら後続の画家たちがさまざまに研 究することになる。とりわけ、ヤン・ファン・エイクの《聖フランチェスコの聖痕 拝受》の岩がフィレンツェの画家たちを夢中にさせたことは、すでにみたとおりで ある。したがってリッピは、より若い世代の画家たちの興味を先取りしていたとい うこともできるだろう。  しかし、前述したように、本作品においては、フランドル風の風景を描くことに. ( 10 ). −199−.

(11) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 主眼が置かれていたのではない。作品の主役は画面の最前面を占める聖母子なので ある。では、リッピにとっては新しい「フランドル風の」岩山は、作品全体の中で どのような意味を持ち、どのように位置付けることができるのだろうか。最後にこ の点に考察を加えてゆくことにしたい。. 第3章 聖母子像 ①先行研究  冒頭で紹介したように、本作品の主題は、花婿たるキリストと花嫁たるマリア の結婚、すなわち神と教会の統合である。天使は花婿の友人であり、その微笑み は、この聖なる結婚によって人類の救済が始まることに対する彼の喜びを表してい る。その中で、本作品の背景、とりわけ岩山は、どのように位置付けられるのだろ うか。先行研究が示してきた解釈を紹介する前に、もう一度、絵の中の風景(図2) をよく見てみることにしよう。  まず、ちょうどイエスの肩からマリアのあごの辺りの位置で、生け垣のような緑 の垣根が、画面を横切っているのをみることができる。緑の垣根の下側は、石が積 まれているようにも見え、全体としてこの構造物は、上部に植物が茂った石垣だと 思われる。この石垣は、マリアの首の後ろ側辺りで、画面の奥へと曲がっている。 緑の垣根の小道が、奥へと続いているのがわかるだろう。そして、マリアのヴェー ルに隠れてはいるが、小道の右側に赤い屋根の建物がみえる。この建物は、小道よ りも少し低い場所にあるようだ。建物の向こう側には、蛇行する川の流れが描かれ ている。川は山の間をぬうように走り、さらに遠方へと続いている。  一方、すでになじみ深いあの岩山が現れるのは、石垣の向こう側の、ちょうどイ エスの背後である。岩山のさらに遠方には、彼方の町に建つ塔の姿が霞んでいるの がわかるだろう。そしてこれらすべてのものの上に、青い空がひろがっている。  レーヴィンによれば、この風景に描かれたモティーフは、さまざまなマリアの象 徴と結びついている。例えば、マリアのヴェール越しに見える赤い屋根の建物は 「聖なる家」30 で、川が蛇行する中景は、マリアの象徴である「閉ざされた庭」を表 しているという。また、遠方に見える水面は海で、やはり「海の星」と形容される マリアに関連づけられる。そして岩山は、『雅歌』の次の一節を視覚化したものだ. −198−. ( 11 ).

(12) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. とする。「いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しいひとよ/さあ、 立って出ておいで。岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ/姿を見せ、声を聞 かせておくれ。お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」(『雅歌』2:13 − 14)31  ルーダは、「花婿としてのキリスト、花嫁としてのマリア」という解釈は踏襲し つつ、細部モティーフについては別の見解を示している。彼によれば、岩山はキリ ストの象徴であり、またキリストとマリアの関係性、つまり神と教会の統合を表し ているという32。  一方、岩山については別の視点からの解釈も提出されている。ホームズは、リッ ピがカルメル会修道士であったことを重視する33。ホームズによれば、《聖母子と 二人の天使》の風景にみられる、人の手の入った自然(前景の石垣、建物)と人の 住まない野生との対比は、カルメル会の象徴体系の中で特別な意味を持つという。 山や、砂漠、森、海といったモティーフは、カルメル会発祥の地である中東の地誌 と密接に関連しているのである34。  《聖母子と二人の天使》のみならず、ホームズは、リッピによる作品にくり返し 現れる岩山に、パレスチナのカルメル山の面影を見出す。リッピの芸術形成に深く 影響したカルメル会の教えがもたらすイメージは、絶えずリッピ芸術の根底にある のである。ホームズによれば、例えばベルリンの《聖母子》(図 4)の、画面右側 に描かれた岩山の上にみえる聖堂は、カルメル山上にあった、聖母に捧げられたカ ルメル会の礼拝堂である35。  個別のモティーフについては、多くの文学典拠と結びついて、多様な解釈が可能 であろう。岩山の解釈について、レーヴィンとルーダの見解は、細部の相違はある ものの、岩山を、結婚すなわちキリスト(花婿)とマリア(花嫁)の統合という主 題に結びつけているという意味では共通している。論者は、『雅歌』の特定の一節 を視覚化したというよりも、「神と教会の統合」という主題により広い意味で関連 づけるルーダの見解に賛同しておきたい。また、リッピ芸術にカルメル会士として のアイデンティティーをみとめ、岩山にカルメル山のイメージを重ねるというホー ムズの議論も示唆に富み、説得力のあるものだ。  その一方で、いずれの研究者も、《聖母子と二人の天使》の岩山が、リッピの他 作品とは異なっているという点については特に言及していない。しかしこの事実. ( 12 ). −197−.

(13) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. は、容易に無視できないことのように思われる。その重要性は、本作品を、その ヴァリエーションとして制作されたベルリンの《聖母子》(図 4)と比較すればよ り明らかになる。ベルリン作品では、基本的な構図は《聖母子と二人の天使》から ほとんど変わっていないものの、画面右側の岩山に大きな変更が加えられており、 従来のリッピ作品によく見られるタイプの岩山表現が復活しているのだ。  ホームズの指摘のように、リッピが、どちらの岩山にもカルメル会士にとって特 別な山であるカルメル山のイメージを重ねていたとしても、以下の疑問が残るだろ う。すなわち、ベルリンの《聖母子》における岩山の変更は、単にヴァリエーショ ンの一つとして、既存のレパートリーを組み合わせた結果だとみなすべきなのだろ うか。そうではなくて、《聖母子と二人の天使》の岩山とベルリンの《聖母子》の 岩山が、主題の要請にあわせて積極的に区別されていたことを示しているのだろう か。. ②岩山が示すもの  リッピ作品において、岩や岩山は、悔悛の荒野のイメージとして重要な役割を果 たしてきた。そのことは、初期の聖ヒエロニムス(図 20)や、円熟期の一連の 「幼児キリストへの礼拝」36、プラート大聖堂の壁画《荒野の洗礼者ヨハネ》(図 5) にあらわれている。これらの作品は、いずれも聖人が苦行や禁欲生活のために入っ た荒野を舞台としているが、1430 年代から 60 年代にいたるまで、リッピは一貫し て、頂上部が平らになった岩山や階段状の岩が連なる荒野のイメージを描き出して いる。リッピにとってこのような形状の岩または岩山は、一般的な山を表すという よりも、とりわけ宗教的な実践の場、すなわち悔悛の荒野と強く結びついたモ ティーフだったと考えることができるのである。  このことは、《金門でのヨアキムとアンナの出会い》(図 21)や《聖アウグス ティヌスの幻視》(図 22)といったプレデラ作品では、ゆるやかな稜線をえがく山 並みが描かれていることからも裏付けられる。また、これらプレデラ作品にみられ る、樹木や川が描かれたより親しみやすい風景描写は、リッピが、主題によって風 景を描き分けていたことを明確に示している。以上のことを踏まえ、あらためて 《聖母子と二人の天使》の背景にひろがった風景を見るならば、キリストの背後に. −196−. ( 13 ).

(14) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. 現れた岩山は、悔悛の荒野を示すモティーフとは明らかに異なっていると理解でき よう。  ルーダが述べたように、岩山は、「見ておられると、一つの石が人手によらずに 切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました」(『ダニエル書』2:34)と いう一節から、一般的にキリストの象徴とされる。ちょうどイエスの頭の上に岩山 が見えるのは、偶然ではないだろう。またルーダによれば、この岩山は、花婿たる キリスト(神)と花嫁たるマリア(教会)の統合という、本作品の主題である両者 の結びつきを示すものであった。  そうだとすればリッピは、彼が幾度となく描いてきた悔悛の岩山では、この幸せ な結婚にはそぐわないと考えたのではないだろうか。主題の要請に従って、神と教 会の統合を表現する新しい岩山を、リッピが描いたとは考えられないだろうか。  この議論を補足するために、ベルリンの《聖母子》(図 4)における岩山表現の 変更についても、考察を加えておきたい。ウフィツィ作品と比較した際ベルリン作 品でのもう一つの主要な変更点は、聖母子像の変更である。ウフィツィ美術館の 《聖母子と二人の天使》では、天使がイエスをかつぐという特徴的な図像が用いら れていたが、ベルリン作品では天使はおらず、マリアが幼子を直接抱くという図像 に変更された。イエスがマリアにむかって手をのばす仕草も、見る者により直接的 に、母と子の情愛を伝えてくる。「花婿、花嫁としてのイエスとマリア」という明 確な主題が示されていた《聖母子と二人の天使》に対して、ベルリンの《聖母子》 は、神学上の特定の主題に結びつくというよりも、より一般的なマリアと幼いイエ スの姿を描き出しているようだ37。このことは、岩山の表現にも少なからず影響し ているのではないだろうか。つまりベルリンの《聖母子》は、まさに《聖母子と二 人の天使》のヴァリエーションとして描かれ、強い主題上の要請がなかったため に、おそらく、背景描写に、リッピがそれまでに十分培ってきた風景のイメージが より強く表れたのである。それは、ホームズが指摘したように、カルメル会の故郷 である、ナザレ近郊のカルメル山のある荒野のイメージだったとも言えるであろ う。そして再び、あの改悛の荒野に頻出していた岩山が現れたと考えられるのだ。. ( 14 ). −195−.

(15) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. おわりに  以上、本論ではフィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景に描かれた岩 山を中心に考察を進めてきた。まとめるならば、本作品の岩山の描写には、同時代 フランドル絵画からの影響がみとめられた。さらに、リッピがそれまでの作品とは 異なる岩山表現を本作品で試みたことについて、作品の主題である「花婿たるキリ スト(神)と花嫁たるマリア(教会)の統合」を表すために、新たな岩山を描く必 要があったのではないかという見解を提示し得た。  《聖母子と二人の天使》の岩山については、今回は触れることができなかったが、 コッサやマンテーニャら北イタリアの画家が描いた岩山と関連させ、「自ら生成す る岩」という当時の自然哲学の概念と結びつけるという、興味深い解釈も提出され ている38。リッピとパドヴァ派は密接な関係を持つ39 ことからも、この視点からの 考察も、今後深めていく必要があろう。.          1. Jeffrey Ruda,. London, 1993, pp.468 - 469. 本論におけるリッピ作品. の制作年代は、このモノグラフによった。 2. Ruda, ibid., p245.; Marilyn Aronberg Lavin, The joy of the Bridegroom s Friend: Smiling Faces in Fra Filippo, Raphael, and Leonardo in , ed. by M. Barasch and L. Freeman, New York, 1981, pp.193 - 210, 特に pp.194 - 198.. 3. Lavin, ibid., pp.196 - 198.. 4. Ruda, op.cit... 5. Ibid., p.251 - 252.. 6. Paula Nuttall,. New Heaven and London, 2004, p.195.. 7 Nuttall, op.cit. またロールマンは、以下の論文で 15 世紀におけるアルプスの南北間の美術 交流を概観し、参考文献表となる詳細な註をつけている。 Michael Rohlmann, Flanders and Italy, Flanders and Florence: early Netherlandish Painting in Italy and its particular influence on Florence art; an overview in Italy. −194−. ( 15 ).

(16) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. ed. by Victor M. Schmidt, Gert Jan van der Sman et.al., Firenze, 1999, pp.39 - 67. 8 Till - Horger Borchert(ed. by) ,. London and New York, 2002,. p.255. 9. Michael Baxandall,. Oxford and NewYork, 1971, p.108 n.149.. 10. Ibid., pp.98 - 109.. 11. Nuttall, op.cit., p.107.. 12. ローマ、バルベリーニ絵画館所蔵。. 13. フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂 マルテッリ礼拝堂。. 14 F. Ames - Lewis, Fra Filippo Lippi and the Flanders in vo.42, 1979, pp.255 - 273; Painters in Padua and Netherlandish Art, 1435 - 1455 in ed. by Joachim Pesche, Müenchen, 1993, pp.179 - 202. また Nuttall, op.cit., pp.20 - 23. など。 15. Nuttall, op.cit., pp.200 - 202. また、以下の風景に関する記述は、ヌタルの論に基づ く。Ibid., pp.195 - 209.. 16. Nuttall, op.cit., pp.89, 133 - 136.. 17. ベッローシによれば、ポライウォーロが 1460 年代に描いた風景(図 10)には切り株が あり、植物もまばらで、乾燥した雰囲気である。一方同じ頃、ヴェロッキオはすでにみ ずみずしい「フランドル風の」風景を描いていたとし、例として 1470 年ごろの《聖母 子と二人の天使》(ロンドン、ナショナル・ギャラリー所蔵)をあげている。Luciano Bellosi, The Landscape alla fiammingha. in. ed. by Victor M. Schmidt, Gert Jan van der Sman et.al., Firenze, 1999, pp.97 - 108. 18. Nuttall, op.cit., p.207.. 19. リッピが本作品で作り出した親密さは、聖母子像のモデルとして続く世代に大きな影響 を及ぼした。Megan Holmes,. , London, 1999,. p.150; Ruda, op.cit., pp.249 - 251.. ( 16 ). −193−.

(17) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 20. Borchert op.cit., p.236.. 21. Nuttall, op.cit., pp.136 - 138.; Patrizia Zambrano e Jonathan Katz Nelson, Milano, 2004, pp.115.. 22. Nuttall, ibid; Zambrano e Nelson, ibid.. 23 Michael Rohlmann, Zitate flämischer Landschaftsmotive in Florentiner Quattorocentomalerei in. ed. by Joachim Poesche,. Müenchen, 1993, pp.235 - 247, 特に 242 - 243. 24. Borchert, op.cit., p.236.. 25. 1904 年の火災で焼失。フランソワ・ベスブルグ、エバート・ケーニヒ『ベリー公のい とも美しき聖母の時禱書』冨永良子訳、岩波書店、2002 年、122 - 123 頁。. 26. F.Ames - Lewis, a cura di Wolfram Prinz e Max Seidel,Firenze,1996,pp.81 - 88, 特に 83. ; Jean K. Cadogan,. New Heaven and London,. 2000, pp. 43, 246 - 247. 27. trans. by I. Ragusa, ed. by I, Ragusa and R. B. Green, Princeton, 1961, pp.81 - 84. 『キリストの生涯に関する瞑想録』として知られる本書は、 13 世紀後半にイタリアで成立したと考えられる。福音書が語らないイエスやマリアの さまざまなエピソードを含む。多くの言語に翻訳され、ヨーロッパ中に普及した。Ibid., pp.xxi - xxii.. 28. Bellosi, op.cit., p.102. 29. Rohlmann, op.cit.(n.21), p.242; Nutall, op.cit., p.136.. 30. マリアの家が、天使によって奇跡的にイタリアのロレートに運ばれたという伝説にもと づく。Lavin, op.cit., p.198.. 31 レーヴィンは、本論で「川」とした蛇行する線を、 「道」としている。Lavin, ibid., p.198 - 199. 32. Ruda, op.cit., p.248. n.22.. 33. フィリッポ・リッピは肉屋であった父親の死後、フィレンツェのサンタ・マリア・デ ル・カルミネ聖堂でカルミネ会に入信したと考えられる。修道士としての正式な宣誓 は、1421 年で、このとき彼は 15 歳であったと記録されている。Ruda, op.cit., p.23. カ ルメル会は、1155 年、パレスチナのカルメル山でカラブリアのベルトルドゥスが隠修. −192−. ( 17 ).

(18) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. 生活を始めたことを起源とする。大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃(編)『岩波 キリスト教辞典』2002 年。 34. Holmes, op.cit., p.150.. 35. Holmes, ibid., p.182. ちなみにルーダによれば、ベルリンの《聖母子》背景は、『イザ ヤ書』第 2 章 2 - 4 節を視覚化したものである。Ruda, op.cit., p.252.. 36 「幼児キリストへの礼拝」については、以下を参照。Ruda, op.cit., chap.6. 37. Ruda, op.cit., p.252.. 38. Jacob Wamberg, Art as the Fulfilment of Nature Rock Formation in Ferrarese Quattricento Painting , in. a. cura di M. Paede, L. W. Petersen e D. Quarta, Modena, 1990, pp.129 - 149. 39. 1434 年、リッピはパドヴァに滞在し、地元の画家スクアルチョーネと交流を持ったこ とがわかっている。Ruda, op.cit., p.515. リッピとパドヴァ派の関係については、以下 も参照。E.W. Lowlands,. Ph.. Dissertation, Rutgers University, 1983; Ames - Lewis, Netherlandish Art, 1435 - 1455 , cit.(n.14). ( 18 ). −191−. Painters in Padua and.

(19) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 図1 フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》 1460 年代後半  フィレンツェ、ウフィツィ美術館. 図2 図 1 の部分. −190−. ( 19 ).

(20) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. 左:図3 フィリッポ・リッピ《聖母子》1440 年代初 ワシントン、ナショナル・ギャラリー 右:図4 フィリッポ・リッピ《聖母子》1460 年代後半 ベルリン、絵画館. 図5 フィリッポ・リッピ《荒野の洗礼者ヨハネ》 1452-1465 年 プラート大聖堂. ( 20 ). −189−.

(21) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 図6 ロレンツォ・モナコ《マギの礼拝》 1420-1422 年  フィレンツェ、ウフィツィ美術館. 図7 マザッチョ《貢ぎの銭》 1425 年頃 フィレンツェ、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂ブランカッチ礼拝堂. 図8 ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ《マギの礼拝》 1423 年 フィレンツェ、ウフィツィ美術館. −188−. ( 21 ).

(22) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. 図9 ドメニコ・ヴェネツィアーノ《マギの礼拝》 1440 年頃 ベルリン、絵画館. 図10 アントニオ・デル・ポライウォーロ《ヘラクレスとヒュドラ》 1460 -1470 年 フィレンツェ、ウフィツィ美術館. ( 22 ). −187−.

(23) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 図11 ヤン・ファン・エイク《聖フランチェスコの聖痕拝受》 1435-1440 年 トリノ、サバウダ美術館. 図12 フィリッピーノ・リッピとボッティチェリ《マギの礼拝》 1475 年頃 ロンドン、ナショナル・ギャラリー. 図13 図11 の部分. 図14 図12 の部分. −186−. ( 23 ).

(24) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. 左上:図15 ヤン・ファン・エイク《ヘントの祭壇画》より 「キリストの騎士」部分 1432 年 ヘント、シント・バーフ聖堂 左下:図16 《十字架の下のピエタ》 (『トリノ = ミラノ時禱書』第 49 葉裏)部分 15 世紀中頃 トリノ国立図書館旧蔵. 右:図17 ペトルゥス・クリストゥス《洗礼者ヨハネ》 1445 年頃 クリーヴランド、クリーヴランド美術館. ( 24 ). −185−.

(25) 文学・芸術・文化/第 22 巻第 1 号/ 2010.9. 図18 ドメニコ・ギルランダイオ《荒野でのイエスと少年洗礼者ヨハネの出会い》 1477-78 年 ベルリン、絵画館. 図19 ハンス・メムリンク《洗礼者ヨハネ》 1483 年頃  ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク. −184−. ( 25 ).

(26) 岩山が示すもの    フィリッポ・リッピ《聖母子と二人の天使》の背景をめぐって 剱持. 図20 フィリッポ・リッピ《荒野の聖ヒエロニムス》 1430 年代半ば アルテンブルク、リンデナウ美術館. 図21 フィリッポ・リッピ《金門でのヨアキムとアンナの出会い》 1440 年代初 オクスフォード、アシュモレアン美術館. 図22 フィリッポ・リッピ《聖アウグスティヌスの幻視》 1430 年代末 - 40 年代初 サンクトペテルブルグ、エルミタージュ美術館. ( 26 ). −183−.

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