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アウトサイダー・アートに関する研究 : 美術と福祉の関係についての考察

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†障害児教育専攻 障害児教育専修 指導教員:白石恵理子 原 著 論 文

アウトサイダー・アートに関する研究

―美術と福祉の関係についての考察―

Research on outsider art

―Consideration of relation between art and welfare―

Munehiro YAMADA

キーワード:アウトサイダー・アート,社会施設実践,山下清 1.問題意識と研究の目的 1990 年以降,障害のある人の表現や造形作 品が美術関係者にも注目されるようになり,今 日では全国的にギャラリーや美術館で「アウト サイダー・アート」展が企画されるようになっ て い る。2008 年 に 行 わ れ た「ア ー ル・ブ リュット/交差する魂」展は北海道立旭川美術 館他,3 カ所1)で開催され来場者が 3 万人を超 えた。すでに日本の「アウトサイダー・アー ト」作品はスイスの「ジャポン展」,2010 年に はフランスのパリ市にあるアル・サン・ピエー ル美術館で『ART BRUT JAPONAIS』(アー ル・ブリュット ジャポネ展) とすでに国際的 にも評価がされている。 国内では 2004 年の「ボーダーレス・アート ミュージアム NO-MA」(滋賀県近江八幡市) をはじめ,「もうひとつの美術館」(栃木県那珂 川町),「アートセンター HANA」(奈良県奈良 市) などアウトサイダーアート作品の常設ギャ ラリーも開設されている。企画展もサントリー ミュージアムでの「現代美術の超新星たち ア トリエ インカーブ展」2),水戸芸術記念館での 「ライフ」展3)をはじめ,多くの展覧会が開催 され,美術関係者やキュレーターの関心も高い。 福祉施設においてもアトリエ活動を主とする事 業所4)も全国に拡がっており,「アウトサイ ダー・アート」ムーブメントが減速するような 兆しは感じない。 日頃の実践で「表現の素晴らしさは発達の素 晴らしさ」と感じながら,社会福祉実践として 「アウトサイダー・アート」をどのように捉え れば良いのか,福祉と美術の関係はどのように あるべきなのか,ということに問題意識を持っ て考えてきた。 本研究では「アウトサイダー・アート」の歴 史的展開をみながら,福祉施設実践との関係に ついて研究する。 2.「アウトサイダー・アート」とは何か ――用語の定義から考える―― 展覧会など美術分野で障害のある人が表現し, 制作した造形作品は「アウトサイダー・アート (Outsider-Art)」と称されることが一般的に な り つ つ あ る5)。ま た「ア ー ト ブ リ ュ ッ ト (Art-Brut)」と紹介されることや「エイブル アート (Able-Art)」と提唱されたり,総称的

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に「障害者アート」とも呼ぶ場合もある。 斉藤環は「『アウトサイダー・アート』につ いて語ること。それは常に定義の問題から逃れ ら れ な い」6)と 言 っ て い る。し か し,同 時 に 「私はいまだ,安定した『答え』をみつけられ ずにいる」と言う。つまり,定義付けは確立し ておらず,「アウトサイダー・アート」に対す る評価そのものが定まっていないと言える。美 術分野ではどのように障害のある人の表現や造 形作品を捉えているのか,次に考えていく。 「アウトサイダー・アート」という用語が日 本で使われ出したのは 1990 年代以降であり, その最初の展覧会として開催されたのが 1993 年に世田谷美術館で行われた「パラレル・ヴィ ジョン (Parallel Visions : Modern Artists and Outsider Art)」展である。この「アウトサイ ダ ー・ア ー ト」と い う 用 語 は「『ア ー ル・ブ リュット (生の芸術) 』という,フランスで生 まれたある芸術理念を,英語で紹介するための キャッチフレーズ」7)として拡がった。「アー ル・ブリュット」の提唱者はあるジャン・デュ ビュッフェ (Jean Dubuffet, 1901-1985 年) で 1949 年に展覧会で「文化的芸術よりも,生の 芸術を」で「芸術の教養で痛めつけられていな い連中の作品のことである。かれらにあっては 文化人の場合と反対に,真似事がどこにもない。 かれらは主題,使う材料の選択,転置の方法, リズム,書法などすべてを自分自身の根底から 引き出してくるのであって,古典芸術あるいは 流行の芸術のパターンを借りているのではない。 ここに見られるのは,自分自身の衝動からのみ はじめて,すべてがまったく再発明された,完 全に純粋で生の芸術的行為である。つまり文明 的芸術にいつも見られるカメレオンと猿の機能 でなく,発明という機能だけがあらわれた芸術 である」8)と定義している。また「アウトサイ ダー・アート」とは「美術大学などで正規の美 術教青を受けていない人が独学で制作した美術 作品」9)のことを言い,本来は精神的な疾病や 知的な障害のある人の作品を指すことばではな い。 この「アウトサイダー」という語意は美術と いう「インサイダー」からの反義語となる。 「インサイダー」は主流派とも訳せる。最近の 用語解説では「それは『ふつう』の美術の歴史 や常識,文化の因襲を超えたアートのすべてで す。具体的にいうと,唯一無二の個性を誇るア マチュア作家から,エキセントリックな独学者, 精神病者,知的障害者,幻視者まで,多種多彩 な作り手たちによるアートです。決まったルー ルもスタイルもありません。これまでのアート のシステムや文脈の内部にある『メインスト リーム』のアートを対極的に想定し,裏側から 照らし返すもの,いわば『正統派』に対する 『アンチ』,『優等生』じゃなく『異端児』とで もいいましょうか」10)と言うように,あくまで もインサイダーやメインストリームとは違う場 所に存在するものである。 この「アウトサイダー」という語意は「社会 の部外者」という意味を持つので,ノーマライ ゼーションやインクルージョンの思想や人権の 観点から相応しい用語とは言えない。しかし, この「アウトサイド」は何に対する外部なのか が重要で時代ごとに変遷をしている。1937 年 にナチス政権はモダンアートと精神に障害のあ る人の造形作品を並べて,どちらも退廃的だと 迫害し,精神に疾病のある人を虐殺している。 また,ジャン・デュビュッフェはそれまでの西 洋美術やブルジョワジーを批判しつつ,精神に 疾病のある人たちの作品に注目し「文化的芸術 よりも,生の芸術を」と提唱した。常に「アウ トサイダー・アート」はその時代のメインスト リームを意識して取り上げられると言える。そ れは同時に障害のある人たちの社会的な位置と も密接に関わっている。美術の定義にあてはま らないから「アウトサイド」なのであり,美術 の側から斉藤環が言うように「安定した答え」 は見出せないと言える。服部正は「アートの領 域においては,部外者であることは肯定的な意 味をもっている。アートの療育というのは,美 術館などの展示施設,美術学校のような教育制 度,美術雑誌や新聞などのマスメディア,さら には画廊やアートフェアのような美術市場など, アートが流通社会のシステムのことである。そ うしたアートのシステムから逸脱する部外者で あるということは,むしろアートが本来持つべ き自由さと奔放さを意味しているのではないだ ろうか。 (中略) 規制の枠内をはみ出してしま

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う自由奔放さ,それがアウトサイダー・アート という言葉が意味する物である」11)と肯定的な 捉え方をしている。 今日では「ボーダーレス・アート」とも称さ れ「アウトサイダー・アート」は現代美術と遜 色ない位置にあるように映る。しかし,美術の メインストリームに合流したわけではなく,常 に「アウトサイド」に存在する。筆者はアメリ カの書店でアウトサイダーアートの本が欲しい と店員に尋ねたら,出口を指された体験がある。 事実 outside は外側にしか存在しない概念であ ることを実感した。しかし,これまで施設や家 庭でしか披露されなかった作品が美術館やギャ ラリーで展示されることで,一般の人々と出会 うことになる。障害のある人にとって造形作品 が社会への間口となっているのである。 また「アウトサイダー・アート」は何に対す る outside であるかということを意識して使わ なければならない用語である。社会からの out-side であれば福祉や教育の立場からは不適切 であろう。しかし「アウトサイダー・アート」 は「インサイダー・アート」の外側に存在する ことで意味を持つ。アール・ブリュットコレク ションの館長であるリュシエンヌ・ペリーは 「芸術について無知であるということによって, 彼らは素晴らしいものを手にします」と言い, ジャン・デュビュッフェは「芸術とは,我々が しつらえた寝床に身を横たえに来たりはしない。 自分の名前を人が発するのを聞いた途端に逃げ 去ってしまう。芸術が好きなのは無名であるこ とだ。芸術にとって最良のひとときとは自分の 名前を忘れているときなのだ」と語っている。 重要なのは美術が障害のある人と社会との架 け橋になっていることである。障害のある人に とって「アウトサイダー・アート」として認め られることは,社会につながる切符を手にした ようなもので人権の回復につながっていくこと に注目したい。 3.「アウトサイダー・アート」の登場と その歴史的展開 美術史の上で「アウトサイダー・アート」が 登場するのは 20 世紀になる頃と言われており, 素朴派の代表である「アンリ・ルソー」があげ られる。しかし,歴史上で注目されるのは精神 的な疾病を持つ人たちである。「アウトサイ ダー・アート」において初期段階で大きな影響 を与えたのは 1922 年にドイツのハイデンベル グ大学附属病院精神科医師だったハンス・プリ ンツホルンが精神病院の患者の精神状態を解釈 するために 4 千以上の作品を載せた『精神病者 の芸術性 (Bildnerei der Geisteskranken)』で ある。このコレクションは「シュルレアリズム 宣言」を行ったアンドレ・ブルドンが掲載され ていたアドルフ・ヴェルフリなどの作品を絶賛 し,ジャン・デュビュッフェの関心を喚起した。 この書が精神的な疾病を抱えた人たちの造形作 品を多くの人に知らしめ,美術家たちに影響を 与え,「アウトサイダーアート」の発見に寄与 した。20 世紀初頭は精神疾病のある人は「狂 人」扱いだったが精神医学や心理学の発展に よって医療の対象と考えられるようになった。 精神医学と「アウトサイダーアート」はかなり 密接な関係を持つと考えられる。当初,知的な 障害のある人の作品が取り上げられなかったの は,この時代には生存そのものが困難であった り,文化的な活動に触れることがなかったから と推測できる。おそらくこの時代に障害のある 人が生きるということ自体が厳しいなかで,比 較的,生存可能であったのは精神的な疾病のあ る人たちだったと考えられる。 また,日本では,ハンセン病の人たちは強制 的に療養所に収容されていた。筆者が「国立ハ ンセン病記念館」の学芸員に,どのような造形 活動を行っていたのか尋ねた際にに,「画材や 筆記具などが買えることなど到底出来ない貧し い暮らし」と言うのが回答であった12)。推測 すると,表現の道具や材料が身近にあった人た ちは,働いていたり,支援が受けられる条件が あるなどの状況があったのではないだろうか。 このように「アウトサイダー・アート」が存 在したり,社会で登場するにはインサイドの作 家や関係者が取り上げることが要件と言える。 「アウトサイダー・アート」の作家自身が美術 界でムーブメントを起こすことは考えにくく, つまりインサイダーアートから注目されなけれ ば「アウトサイダー・アート」して存在するこ

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とが出来ない。これは「アウトサイダー・アー トの法則」といって良いのではないだろうか。 東京国立近代美術館の研究員である保坂健二朗 は「シュルレアリストに注目された 20 年代。 ゲオルク・パゼリッツ (GeorgBaselitz) など 新表現主義系のアーティストたちによって注目 された 70 年代。奈良美智のように,アニメや 広告など多種多様なイメージを作品に取りこむ ようになった 90 年代。それぞれの時代で,ア ウトサイダー・アートが注目された」と指摘す る。「アウトサイダー・アート」は美術史と接 点を持ちながら,美術が発展あるいは変容する 時に登場している。その状況を保坂は「いずれ もが,その前の時代にアートが成熟化し,それ が時に先鋭化しすぎたときに,いわば反動とし て生まれていた」と述べる。 このように,常に「アウトサイダー・アー ト」は「インサイダー・アート」の外側に存在 しながら,新しい美術表現が生まれる時に影響 を与えてきた。同時に,精神医学や人権の発展 など,障害のある人にとっての社会の発展とも 大 き な 関 わ り を 持 っ て い た。「ア ウ ト サ イ ダ ー・ア ー ト」を 考 え る こ と は「イ ン サ イ ダー・アート」の枠組みや定義を考えることと ほぼ同じ行為と言え,二つの概念が重なること はない。つまり「アウトサイダー・アート」は 美術界からすれば美術とは言えないと考える。 このように「イン」と「アウト」という二つの 関係を発展的に持ちながら展開されているのが 「アウトサイダー・アート」と言える。 4.日本における「アウトサイダー・ アート」のムーブメント 日本において国内外の「アウトサイダー・ アート」作品が大規模に展示された展覧会の最 初は1993年の 「パラレル・ヴィジョン (Parallel Visions : Modern Artists and Outsider Art)」 展 (世田谷美術館) である。これは 1992 年に ロサンゼルス・カウンティ・ミュージアムが企 画・主催し,93 年にマドリッド,バーゼル, 東京を巡回した「アウトサイダー・アート」と それらに影響を受けた 20 世紀の芸術家の展覧 会である。「ローザンヌのアール・ブリュット のコレクションを別にすれば,これほど多くの アウトサイダーの作品が展示されたことはかつ てなかった」13)もので,日本での「アウトサイ ダー・アート」ムーブメントに火をつけた展覧 会である。この年は日本における「アウトサイ ダー・アート」元年と言える。 一方,国内では,すでに 1964 年から京都府 亀岡市の「みずのき寮」が日本画家である西垣 籌一による絵画教室や千葉県立盲学校で西村陽 平による粘土の取り組み,滋賀での造形活動と 「土と色展」の取り組みがあった。 けれども「アウトサイダー・アート」ムーブ メントは「エイブル・アート」から始まったと 言 え る。1994 年 に 設 立 さ れ た「エ イ ブ ル・ アート・ジャパン」は「エイブル・アートの精 神を全国の人たちと共有するために,新たな ネットワークを創っています」と提起し,「エ イブルアートとは生命力を失いつつある現代社 会に生きる人たちが,アートを通して人間性を 恢復 (かいふく) させ,さらに芸術と社会の新 しいコミュニティーを築いていく市民芸術運 動」と 定 義 し て い る14)。こ の 用 語 は『Able Art (=可能性の芸術) 』という造語で,「ト ヨタ自動車株式会社」の文化貢献事業として 6 年間にわたる協力を得て,展覧会やフォーラム やワークショップが開催された。1995 年の 「魂の芸術家たちの現在」(アジアトレードセン ター/大阪) では,みずのき寮の絵画作品と, 千葉県立盲学校の粘土作品との合同展が開催さ れた。1999 年の「このアートで元気になる」 (東京都美術館) には,全国から 18 施設 45 人 の出展者があった。この「エーブル・アート」 のムーブメントは「多くの全国各地の障害者福 祉現場に表現活動の火を付けた」15)ものとはた よしこは言っており,施設職員の新たなネット ワークと構築し,「アート活動」が高まってい く契機となった。 日本の「アウトサイダー・アート」の特徴は 海外とは違い施設で作品が制作されていること と,施設職員がコーディネーター的に展覧会の 企画に参加することである。「エイブルアート」 は「『魂の芸術家』がつくる,いわゆる『障害 者芸術』は,福祉としてフィルターをとおして 見られるために低い評価しかえられなかった。

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現代のアートからはまったく無視されるか,特 殊なポジションしかもらえなかった。しかし, 現代のアートが生命力を失いつつある現在にお いて,始原のエネルギーに満ちあふれた『障害 者芸術』を新しい視座で評価し,生命をおりな す新しい芸術運動として発展させていこう」と 主張する (障害のある人の芸術に「始原」とい う視点を持っているのは播磨達夫だけでなく, 吉永太一も同じであることは「アウトサイ ダー・アート」の価値を議論するときに注目す べきことである)。作品発表の場も少なく,社 会的な評価も受けられなかったが,美術館での 開催によって注目されるようになった。展覧会 は施設職員がネットワークを築きながら企画し ているものも多く,福祉での美術活動を発展さ せていく基盤が副産物的に築かれたことが 21 世紀に入ってからの「アウトサイダー・アー ト」ムーブメントを支えていると言える16) しかし,「エイブル・アート」の展覧会は突 如,企業側の支援取りやめにより失速した17) 同時期に京都市美術館で 20 年の長きにわたり 取り組まれた「土と色」展も終了し,「アウト サイダー・アート」作品を単独で展示する「美 術展」は開催されなくなっていく。21 世紀に 入ってからは,「アウトサイダーアーティスト と鯉江良二・展―土踊る―」など現代アート作 家とのコラボレーション展へとシフトしていく。 これは「エイブル・アート」でこうした方向性 が模索されていたことと,第一期のムーブメン トによって,障害のある人の芸術が注目された からである。また,「エイブル・アート」の中 心であった「たんぽぽの家」も「ろうきん」の 支援を受け,「ひと・アート・まち」展への取 り組みがはじまり,市民運動としての障害のあ る人の美術へと拡がりを見せる。「エイブル・ アート・カンパニー」の立ち上げなど,障害の ある人にとっての社会や支援のあり方を追求し てきたなかでの取り組みであり,「エーブル・ アート」の理念が時代に応じて発展している姿 と言えよう。滋賀県においては「現代アートと の展示は障害のある人の表現世界を干渉する」 と避けられてきたが,信楽青年寮では田島征三 との取り組みがすでにはじまっていた。こうし た次なるムーブメントまでの「空白」あるいは 「始動までの準備期間」は 2004 年の「ボーダレ ス・アートミュージアム NO-MA」の開設で 鼓動が高まる。この「NO-MA」は「障害のあ る人の表現活動の紹介に核を置くことだけに留 まらず,一般のアーティストの作品と共に並列 して見せることで『人の持つ普遍的な表現の 力』をリアルに感じていただくことにあります。 『障害者と健常者』『福祉とアート』『アートと 地域社会』など,様々なボーダー (境界) を超 えていくという,果敢な試みで歩んでおりま す」というのが開館の趣旨である。オープニン グ企画の森村泰昌をはじめ,有名無名にかかわ らず現代のアートシーンで活躍する美術作家と 「アウトサイダー・アート」作品とのコラボ レーション展が開催されている。「アウトサイ ダー・アート」の美術性や社会的価値を高める 取り組みが展開されている。 5.「アウトサイダー・アート」の 見えない顔と発展法則 こ こ ま で 見 た よ う に「日 本 の ア ウ ト サ イ ダー・アートに福祉関係者あり」と言え,障害 のある人の表現や造形作品の新たな価値の追求 が展覧会などの企画を通して,福祉関係者の ネットワークを形成しながら発展してきたと言 える。施設職員によるネットワークは「ボーダ レス・アートミュージアム NO-MA」でも展 開され,福祉施設の合同企画展として「ing… 〜障害のある人の進行形〜展」が開催されてい る。そこでは表現の一番そばにいる職員の視点 や感性が重視されている。施設の垣根を越えて 共同の価値が築かれていることは注目すべき展 開であろう。こうした社会福祉現場で美術とい う新しい価値観の創造に取り組みながら,福祉 を発展させるということが福祉と美術関係者が 論議しながら築かれてきたのである。それは斎 藤環が戸來貴規の幾何学模様でつづられる「日 記」を取り上げ,意味を持たないと思われてい た作品が「実は意味のある文字と数字の組み合 わせであること」に気づいたのが施設職員であ ることを紹介して「もし施設職員が彼の作品の 美しさに気づかなければ,彼の作品の作品はこ の世に存在しなかった」と言っている。このこ とは美術側だけでは決して解明できず,施設職

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員でしか作品の意味を知り得ることしかできな かったということを表明しているに等しい。つ まり障害のある人の身近な人が表現を認め社会 に知らせるということが「アウトサイダー・ アート」の発展法則なのである。「アウトサイ ダー・アート」作品になるための原則があり, 福祉のあり方や実践,支援員の存在が重要なの である。日本では個人を芸術家とする方向では なく,福祉施設の実践をゆたかに発展させてい くことが重要である。 6.山下清はどのようにゆたかな表現者と なったのか――八幡学園と教育実践―― 前述した「パラレル・ヴィジョン」の前史と しては,日本で最初に多くの人が注目したは山 下清 (1922〜1971) であろう。山下は日本で知 的障害者の芸術家として有名で広く国民に知ら れている作家で,彼をモチーフにした「裸の大 将」は,テレビドラマも繰り返し放映され,長 く国民に愛されるキャラクターと言える。代表 作である「長岡の花火」をはじめ数々の貼り絵 作品は多くの人に知られ,おにぎりをほおばり スケッチブック脇に抱えて放浪する姿は多くの 人の印象にあることだろう。その彼を世に知ら しめたのは『特異児童作品展』(1938 年,早稲 田大学大隈講堂) である18)。展覧会では山下 の作品がもっとも多く出展され,1935 年の川 と自転車,1937 年のチューリップ,自画像, お化け,1938 年の花魁草,野外映画会,大会 戦図などの貼り絵と鉛筆画の昆虫も展示されて いる19)。山下は 1936 年に文藝春秋に作品が発 表され,1939 年には銀座の『青樹社』にて作 品展が開かれ梅原龍三郎や安井曽太郎から称賛 を 浴 び て い る。1956 年 3 月,栗 原 書 房 よ り 『山下清作品集』が刊行され,3 月下旬から約 1 か月間にわたり東京の大丸百貨店で山下清展が 開かれた。全国各地で開かれた巡回展を合わせ ると,観客数は相当であった。 テレビ番組などを通じて写生する姿が印象に ある人も少なくないであろう。しかし,彼は 「抜群の記憶力」で風景を覚え,作品そのもの は,保護されて連れ帰られた八幡学園で仕上げ ていた。スケッチや写生はテレビ制作の演出で 2005 年 NO-MA 他 サントリーミュージアム[天保山] アールブリュット/交差する魂展 アトリエ インカーブ展〜現代美術の超新星たち〜 2007 年 水戸芸術美術館 滋賀県立近代美術館 ライフ展 アール・ブリュット―パリ abc コレクションより― 2008 年 広島市現代美術館 一人快芸術 2009 年 「パラレル・ヴィジョン」展

(Parallel Visions : Modern Artistsand OutsiderArt) 世田谷美術館 1993 年 日本における主な「アウトサイダー・アート」展覧会20) エイブルアート近畿 ひと・アート・まち (毎年開催) 2000 年 アウトサイダー・アート・ムーブメント 第二期 O 美術館 21 世紀アートのエネルギーを見る展 2001 年 大津西武催事場 アウトサイダーアーティストと鯉江良二・展 土踊る 2002 年 NO-MA 開設 私あるいは私 〜静かなる燃焼系〜 2004 年 国立民族学博物館 高浜市やきのの里かわら美術館 きのうよりワクワクしてきた――ブリコラージュ・アート・ナウ 日常の冒険者たち――展 アウトサイダー・アート〜描かずにはいられない 表現者たち展 アジア太平洋 T/C 魂の芸術家たちの現在展 1995 年 大阪国際交流センター ABLEART ʼ96 OSAKA 展 1996 年 東京都美術館 魂の対話 エイブル・アート ʼ97 1997 年 京都文化博物館 兵庫県立近代美術館 ベネッセ・コミュニケーション・ ギャラリー 生の芸術展 アート・ナウ 98:ほとばしる表現力―アウトサイダー・アートの一 断面 エイブル・アート・コラボレーション ʼ98 VIVIRA 命のはじまり展 1998 年 東京都美術館 このアートで元気になる――エイブルアート ʼ99 1999 年 奈良市内 アウトサイダー・アート・ムーブメント 第一期

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あり,事実を曲げて伝えている。その八幡学園 は昭和 3 年に設立された福祉施設で創設者であ る久保寺保久の「踏むな,育てよ,水そそげ」 が教育理念である。山下清を八幡学園での教育 との関係でも研究している三頭谷鷹史は,「ど のみち学力優先の社会だから,子どもたちに とって山下は偉人や賢人にはならなかったが, 非常に特異な伝説的人物として頭に刷り込まれ た。この伝説の人を通して,日本人の大半が少 年少女時代に『知的障害者と美術』というテー マを考えたり,体験したことにもなる」「それ にしても八幡学園の果たした役割は大きかった。 山下清,沼祐一,石川謙二たちを保護し,創造 の芽を育て,作品を保存した。戦後は山下個人 に関心が集中し,八幡学園が背後に押しやられ てしまったが,この誤りはどうしても正さねば ならない」と述べている。つまり,天才画家と 山下は評価されるが,そこには八幡学園の教育 実践があったと主張しているのである。久保寺 保久は「私たちは低能児を偉くしようなどとは 考えていません。そんなことは不可能です。低 能という言葉はいやな言葉であるが,低能は低 能でいい,だが彼等にもやっぱり天分がある。 それを発見し見いだすことに喜びを感ずるので す。彼等にも楽しい生活をする権利がある。明 るくのびのびと,生きる権利がある。そしてそ の力も持っているのです」21)と言っている。こ の学園は自治会活動も早くから取り組まれ,こ のようなそれぞれの障害に応じてゆたかに展開 された教育実践が山下の能力を発揮させたと言 える。日本の「アウトサイダー・アート」を考 える時に福祉や教育実践との関係で捉えること が重要である。 7.草間彌生は 「アウトサイダー・アート」 ではない。現代美術作家である。 草間彌生は 1950 年代後半に渡米し日本や世 界でのアートシーンで注目される現代美術の草 分けである。草間は 1929 年長野県松本市に生 まれ,自らの幻視体験から網目模様の絵画 (無 限の網,インフィニティ・ネット),ポルカ・ ドット (水玉) やニューヨークでのハプニング など時代の寵児として「前衛画壇に草間彌生あ り」と評されている22) 一方,草間は「幼い頃より,物のまわりに オーラが見え,スミレの花や犬など,植物や動 物の話す声が聞こえると言った幻覚を体験する ようになる。絵を描くことが好きな少女だった 草間は,幻想や幻覚,幻視体験,怖れや不安感 を絵に描き始める23)」と紹介されるように, 精神的な疾病があることでもよく知られた作家 である。すでに 1939 年の自画像には幻視体験 と思われる斑点 (ドット) が描かれており,そ のドットは彼女の作品の象徴の一つとなってい る。「幼い頃からいたるところに斑点の見える 幻覚に悩まされていた彼女は,キャンヴァスの 上にも執拗に斑点を並べていく。まさしく強迫 神経症的な斑点の増殖24)」と病状から発した 表現ともとらえられている。自らも「制作に没 頭していて幻視に支配されて気がついたら病院 であった」などと入院の体験などを語り,「日 本に帰ってきて 30 年も病院にすんでいる」と インタビューに答えている。 しかし,精神病が彼女を支配しているのでは なく,彼女は精神病とつきあいながらもアー ティストとして表現活動を行っている。そうで なければ 1960 年のアートシーンで注目される ような活動や強く時代を意識した表現を生むこ とは出来なかっただろう。 草間の長野での家族との生活では父の妾など との女性関係は性への嫌悪となっていた。終生, 性への嫌悪は彼女の芸術表現に現れるが草間の アーティストとして優れているのは,浅田彰が 「ペニスを去勢するのではなく,むしろいたる ところに繁茂させ滑稽なものへと転化させるこ とによって,去勢を去勢することであり,ナル シスの鏡を割るのではなく,むしろ限りなく断 片化,複数化することによって,息苦しいナル シシズムの閉回路を自由なイメージの乱反射へ と開くことでもあるだろう。それは偉大な生の 勝利であり,そのまま偉大な芸術の勝利」であ ると言っている。そして「草間彌生の『マン ハッタン自殺未遂常習犯』――全体としては支 離滅裂といっていい混沌とした言葉の渦のなか に,『病は死よりも強いというのが,結論で あった』という戦慄的な一文がある。実際,深 く精神を病んだ彼女は,その病を引き受けて芸

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術へと転化し,『症候との同一化』を成し遂げ ることで,辛うじて今日まで生き延びてきたの だった。ドットがいたるところに増殖し,息が 詰まりそうになる――と,そのときとつぜん図 との間の網状の部分――『インフィニティ・ ネット』が軽やかに拡がってゆく」と草間の表 現と病状とを関連づけて評している。さらに 「――『アウトサイダー・アート』でもなんで もない,まぎれもない『芸術』の勝利――でも ある25)」と浅田は結んでいる。 草間はニューヨークで単身,渡米して作品を 美術賞に応募し落選する。それから賞を得たい と創作に没頭しする。賞を得た彼女は美術とい う制度にのって 1960 年のアートシーンで華々 しく展開し,時代の寵児となったわけだが,そ こにはアーティストとして認められたいという 強い意識が存在する。2005 年に国立京都近代 美術館で「草間彌生――永遠の現在」展が開催 された時に,国立美術館で展覧会が開催される ことを心から喜んでいたが26),彼女の芸術家 としての成功を体感する一つが美術界で認めら れることであったと言える。 1936 年 突然八幡学園から失踪。15 年にわたる放浪生活を始める。その旅で印象づけられた風景を貼絵にし,画 家や文学者から絶賛される数々の傑作を制作。 1940 年 放浪生活に終止符。以後数年間全国各地で作品展開催。観客動員数 800 万人という大記録を達成。 1956 年 ヨーロッパ一周スケッチ旅行にでかけ,40 余日間で数十ヶ国を廻る。 1961 年 帰国後,50 点以上の素描・水彩画をまとめ,全国巡回展を開催。大反響を呼ぶ。自分のペースで仕上げ た貼絵は全 4 作品。1 年に 1 作品という割合で,ヨーロッパの美しい風景を作り上げた。 7 月 21 日没。享年 49 歳 1971 年 大正 11 年 3 月 10 日,東京浅草に生まれる。 1922 年 山下清略歴 12 才で八幡学園に入学。貼絵の手ほどきを受け,その特異な才能が発見される。 文藝春秋に作品が発表される。 2000 年 朝日賞受賞。 2001 年 松本市美術館開館記念個展,紺綬褒章授賞。 2002 年 フランス芸術文化勲章オフィシェ受勲,長野県知事表彰 (芸術文化功労) 受賞。 2003 年 森美術館個展「クサマトリックス」(森美術館) 開催。 2004 年 ライフタイムアチーブメント賞 (芸術部門),旭日小綬賞,高松宮殿下記念世界文化賞 (第 18 回) 絵画 部門 受賞。 2006 年 京都市立美術工芸学校入学。 1948 年 草間彌生略歴 1960 年 自作自演の映画「草間の自己消滅」が第 4 回ベルギー国際短編映画祭に入賞。 1968 年 小説「クリストファー男娼窟」が第 10 回野生時代新人賞を受賞。 1983 年 フランスのカレー市美術館およびドール美術館にて個展を開催。 1986 年 ニューヨーク国際芸術センター,イギリスオックスフォード美術館にて個展を開催。 1989 年 福岡健康センター,福岡美術館,ベネッセ・アイランド直島文化村,霧島アートの森,松本市美術館, 松代駅前 (新潟),TGV リール駅前にて野外彫刻を制 作,リスボンの地下鉄通路では壁画を制作している。 1994 年 国際美術評論家連盟 ベストギャラリー賞受賞。 1996 年 国際美術評論家連盟 ベストギャラリー賞受賞。 1997 年 第 50 回芸術選奨文部大臣賞,外務大臣表彰受賞。 渡米,平面作品やソフトスカルプチャー,鏡・電飾を使いた環境彫刻を発表。 1957 年 ボディー・ペインティング,ファッションショー,反戦運動のパフォーマンスで知られるようになる。

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8.日本のアウトサイダー・アートと 障害者観――山下清と草間彌生に 対する芸術評価の比較―― 山下清は国民的画家と言って良いほど実によ く知られた存在であり,草間彌生は日本の現代 美術を代表するアーティストである。そして, 知的障害と精神障害という障害と同時に語られ てきた代表である。それは二人があまりにも有 名になりすぎたため,二人の表現の理由につい て障害を理由とする評論が定着してしまったこ とが大きいと考える。評論家やマスコミの責任 でもあるが,なによりもそうしたことを理由に しないと,両者の芸術性が規定の概念では説明 が出来ず社会の側のコンセンサスが得にくかっ たからではないだろうか。 しかし,これまで見たように両者に大きな違 いがある。草間彌生は病を持ちつつも,自ら アーティストして表現世界を社会に発信し続け てきた。一方の山下清は天才画家と言われたが, その表現は八幡学園の教育実践と深く結びつい ていた。また作品も彼自身が社会に発信したの ではなく著名人に「発見」されたのである。前 述したようにアウトサイダー・アートは自ら社 会に発信しようとしないし,常にその扱いも社 会や美術の側に託されている。 9.「アウトサイダー・アート」は どのように扱われるべきか はたよしこは「福祉分野だ,美術分野だ,と 分けて考えるようなことはないのではないか。 作品たちに真摯に向き合えば,自ずと視点は ボーダーレスになる。美術界を支配しがちな特 権主義や難解な理論も,福祉現場を支配しがち なおかしな平等主義や教育主義も,虚心な表現 にとって,かえってバリアーになってしまうの では意味がない」と語る。現代アートのアトリ エとしてスタートした「アトリエインカーブ」 は当初,福祉関係者から批判を受けた。日本の 「アウトサイダー・アート」の議論において, 福祉と美術の関係はしばしば論争になる。それ は障害のある人の表現や造形作品がどのように 扱われるべきかという根本問題にも関わる。 この議論はこれまで見てきたようにどちらか 一方の分野で扱われたり,評価されるというも のではない。日本の場合,福祉施設がなければ 「アウトサイダー・アート」作品はこれほど展 開することはなかっただろう。また,福祉分野 だけでは,美術の分野との共同ということは実 現できなかったであろう。つまり,どちらかの 価値観に寄るべきではなく,福祉と美術の両方 の分野が必要で,その共同のなかで価値が築か れていくものと言える。むしろ,福祉や教育と 文化や芸術はゆたかに人間らしく生きる上で欠 かせないことであり,それを共同して発展させ るような取り組みを手をつなぎあって進めてい くことが大切なのではないだろうか。 注 1 )「アール・ブリュット/交差する魂 ――ロー ザンヌ アール・ブリュット・コレクション と日本のアウトサイダー・アート」北海道立 旭川美術館 (2008/1/16-2/17),ボーダレス・ ア ー ト ミ ュ ー ジ ア ム NO-MA (2008/2/ 28-5/11),松下電工汐留ミュージアム(2008/ 5/24-7/20) 2 ) 会期 2008 年 1 月 22 日-2 月 3 日 3 ) 会期 2006 年 7 月 22 日-10 月 9 日 4 ) 関西,関東をはじめ,全国各地で障害者の福祉 制度を利用しアトリエ活動を行う事業所が設 置されている。 5 )『美術手帳』『芸術新潮』など一般美術雑誌もア ウトサイダー・アートを用語として用いてお り,論者のなかでも「アウトサイダー・アー ト」と呼ぶことが通例になってきている。 6 ) 斉藤環 「関係することがアートである」『美 術手帳』No. 923 2009 年 7 月 p. 88 7 )「アウトサイダー・アートの愛し方」『美術手 帳』No. 923 2009 年 7 月 p. 19 8 )「デュビュッフェのアール・ビュッリット館」 『芸術新潮』1968 年 7 月号 9 ) 服部 正「アウトサイダーアートと障害者自立 支援法」 10)『美術手帳』No. 923 2009 年 7 月号 p. 18-19 11) 服部正『アウトサイダー・アート』p. 16-p. 17 12) 2009 年に東京都にある国立ハンセン病記念館 の学芸員からのヒアリングの際に指摘された。 ハンセン病の人たちは画材などは得られず, 短詞が表現活動であった。 13)「序 文」モ ー リ ス・タ ッ ク マ ン (Maurice Tuchman) p. 10 (モ ー リ ス・タ ッ ク マ ン,

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キャロル・S・エリエル編『パラレル・ヴィ ジョン―20 世紀美術とアウトサイダー・アー ト』世田谷美術館,淡交社,1993 年 14)「エイブル・アート・ジャパン」 HP http : //www.ableart.org/ 15) 滋賀県障害者造形活動研究会「財団法人ポーラ 美術振興財団助成事業 滋賀における障害者 の造形活動に関する調査研究報告書」 16) 2009 年 2 月に行われた「アメニティ・美術」 展において,全国の美術活動を行っている福 祉関係者のトークセッションがあり,その時 に関係者が「離れた場所で活動をしているが, 同じ考えで実践がされていることにほっとし た」という声が聞かれた。筆者も同感であり, 改めて「福祉」という枠で障害のある人の芸 術活動に同じ方向で取り組んでいることを再 確認できた。 17) 企業の担当者が変わり,継続されなくなった。 障害のある人の芸術活動への理解は企業でも, 美術館でも関心や強力する個人によるところ が大きい。 18) はたよしこ『浮上しはじめた日本のアール・ブ リュットたち』2008 年アウトサイダー・アー トの世界 p. 17 19) 三頭谷 鷹史『宿命の画天使たち』p. 48 20) ここにあげた展覧会は福祉施設で働く関係者に たずねたものも参考にした。長野県では 1998 年「 98 アートパラリンピック長野/「長野街 かどミュージアム」(長野市内のギャラリー, 商店街のショーウィンドーなど)/「長野入選 作品展」(長野県信濃美術館)/ 2005 年「アー ト SO (スペシャルオリンピックス) 展」(長 野県信濃美術館)/ 2007 年『アンダンテ・ア ルデンテ・アルタ―つながるはじまる障がい 者アート―』長野県信濃美術館/ 2010 年『チ カクニアルセカイ―自分の感じる世界を表現 したい!障がい者アートの現在―』ホクト文 化ホール/長野県県民文化会館,長野県伊那 文化会館が開催されている。 21) 三頭谷 鷹史『宿命の画天使たち』p. 136 22) 草間彌生『無限の網』草間彌生自伝 2002 年 23) 草間彌生『クサマトリックス』2004 年 p. 96 24) 浅田 彰「草間彌生の勝利」『波』1999 年 7 月 25) 浅田 彰「彌生/やよい ふたつの出会い (損 ね) に つ い て の MemoRandom」『美 術 手 帳』 2001 年 2 月号 p. 32 26) 宮崎豊治先生がオープニングセレモニーに参加 し聞いての話。(藤田昌宏先生から聞く) 参考文献 今中博之『観点変更 なぜアトリエインカーブはう まれたか』創元社 2009 年 三頭谷鷹史『宿命の画天使たち』山下清・沼祐一・ 他 美学出版 2008 年 はたよしこ『アウトサイダー・アートの世界 ―東 と西のアール・ブリュット―』紀伊国屋書店 2001 年 吉永太市『遊技焼 ちえおくれの子ども達の創作活 動』柏樹社 1971 年 藤田晴彦 編『芸術と福祉 アーティストとしての 人間』大阪大学出版会 2009 年 服部 正『アウトサイダー・アート』光文社 2003 年 モーリスタックマン『パラレル・ヴィジョン―20 世紀美術とアウトサイダー・アート』淡交社 1993 年 草間彌生『無限の網―草間弥生自伝』作品社 2002 年 草間彌生『草間弥生永遠の現在』美術出版社 2005 年 草間彌生『クサマトリックス』角川書店 2004 年 椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社 1998 年 斉藤 環『アーティストは境界線上で踊る』みすず 書房 2008 年『山下清のすべて―放浪画家か らの贈りもの』サンマーク出版 2008 年 山下 浩『家族が語る山下清』並木書房 2000 年 滋賀県障害者造形活動研究会『滋賀における障害者 の造形活動に関する調査研究報告書』2009 年 波 新潮社 1999 年 財団法人たんぽぽの家『ABLE ART 魂の芸術家 たちの現在』たんぽぽの家 1996 年

参照

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