〈論文〉マンガの物語論
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(2) 現するかが、文体や話法の問題と関連して文学史の重要な課題であった。. 9 6 5 ) マンガにおいてもしかりである。マンガ家自身による著書、石森(1 において、マンガにおける心理描写の困難さを説いている。小説のように 文で登場人物の心理描写を行おうとしたが、マンガは絵画的要因との共存 という点を無視したため失敗に終わったことを告白している。吹き出しゃ オノマトペのような絵画的表現との共存を実行したのは二十四年組と呼ば れる昭和 2 4年前後に生まれた萩尾望都、大島弓子、竹宮恵子といった団塊 の世代の少女マンガ家たちであった。. 2 マンガにおける表現手段 文学では文字による言語的表現手法を用いて物語を表現するしかなく、 絵画では絵による色や形による絵画的表現手段を用いて物語を表現するし かない。しかし、マンガにおいては言語的表現手法と絵画的表現手段を用 いて物語を表現している。文学における文字による言語的表現手法につい ては多くの研究があり、絵画的表現手段においてもしかりである。ここで は、漫画独特の表現手段について、一つ一つ述べていこう。. 2 . 1 吹き出し(風船) 一般的に文学においては表現対象から見ると丈は地の文、心話文、会話 文に分けられる。地の文とは作者による物語の説明で、心話文とは登場人 物の心理描写で、会話文とは登場人物の発話である。独語は心話文の一種 と見て良いと思われる。小説において会話文は括弧内に害かれるのが一般 的で、地の文と区別がなされている。 マンガにおいてはどのような手法で地の文と心話文と会話文を区別して いるのであろうか。小説における括弧の役割を吹き出しとか風船と呼ばれ る形式が果たしている。さらに吹き出しにもいくつかの種類が存在してい る。丸いもの、丸が途中でくびれたもの、雲状のもの、多角形、波型、破 裂型等が会話部分に、方形のもの、放射された線分によるもの、糠付きの. (2). [ 1 1 0 ].
(3) ものが心話文に使われている。各作家によって違いはあるものの、同一作 品内では統ーがなされていると思われる。地の文は吹き出し外で表される ことが多い。しかし、同一コマ内に会話文と心話文と地の文が共存する場 合には何らかの方法で区別がなされているが、ーコマが会話文か心語文か 地の文か単独である場合には、これらを区別する必要がない。文の内容を 読めばそれが心話文であるか会話文であるか地の文であるか分かるので吹 き出しの使い方が自由で、さらに、吹き出しを出す必要性すらなくなる。 2 . 2 文字種 文学は文字という言語手段で表現されるのが一般的ではあるが、マンガ において文字も絵画性を考慮に入れて作られている。 1980年代以前のマン ガは手書き文字が使われ、書体や大きさ等絵画的要素を持って使われてい た。図 1のように、 1 9 4 8年に書かれた『サザエさん』では、前のコマで使 われている一般的な文字に対して、強調するために白按きの強調文字と黒 字の強調文字が対照的に使われている。しかし、吉弘(1 9 9 3 )によると、. 1 飽 0年代以降、コンピューターを駆使した出版技術の草新の結果、印刷側 が介入するようになったためと思われるが、文字が印字になっている。し かし、多種の字体が使われており、会話はゴチック体で、心話は明朝体と いうように会話文と心話文を違った字体で描くなどその区別を示すことが 行われている。. 口四]. (3).
(4) 園 l 『サザエさん 2 J長谷川町子全集 2 、朝日新聞社、 1 9 9 7. 2 . 3 オノマトベ マンガには多くのオノマトペが使われている。マンガは絵画的要素と言 語的要素を組み合わせて表現行為を行っているが、オノマトペは文字とい う手段を使ってはいるものの音声との橋渡しを行っている。せりふを表す 吹き出しの中に「ホッ」ゃ「ム」という擬態語が使われる例もあり、音声 と文字の距離が一般的なオノマトペの使用と異なる。オノマトペの持つ擬 音性に依るものであるが、各言語において使われるオノマトペが異なると いうことを見ると、オノマトペも言語表象である。図 2では銀河鉄道の動 きを擬声語によって表現している。登場人物の心理描写に援態語が使われ ている。金田一(1 9 7 8 )では、「いらいら」ゃ「うっとり」のように専ら心. (4). 口回].
(5) 理描写に使われるオノマトペを「提情語」と別分類している。また、オノ マトペはグラフイツクとして使われ、絵画的要素としても活用されている。 そうすると、オノマトベは言語的要素と絵画的要素の両面を持っているも のとして理解できる。過去のマンガと現在のマンガを比べるとオノマトペ の使用が拡大している。おそらしかつてのマンガはオノマトペの言語的 要素を活用していたのに対し、現在のマンガはその絵画的要素をも活用す るようになったのではないかと思われる。日本語の文字体系にない文字を 作り出したり、図 3では困惑の表現として「?・!・…」のようなデザイ ン的な文字をも多用している。また、涙の形や汗の形のように援態記号と でもいうべき記号が使われているが、夏目( 1 9 9 7 )では「二次三次的に抽 象化され、独立した記号として働くもの」(p . 8 7 )を「形開設」と名付けてい る 。. 図 2 松本零士『G a l a x yE x p r e s s9鈎. [ 1 0 7 ]. 1 5 J小学館、 1 9 鎚 (5).
(6) 園 3 桜沢エリカ 『 フールズ・パラダイス』河出害房新社、 1 9 8 7. 2 . 4 コマ 9 9 9)では、同一ペ}ジ内のコマの構成を「画面」という用語 四方回( 1 を用いて、コマはそれぞれのコマ単独で表現しているのではなく、同一 ページ内のコマとの構成で表現を行っていると考えている。それでは、コ マはどのようにして成立したのか。永田(2 0 1 4 )では、マンガのコマは西 洋の影響が見られると考えている。すなわち、 1 8 6 2年横浜居留地でイギリ h a r l e sWirgman (チヤ」ルズ・ワ」グマン)によって『ジャパン・ ス人の C. パンチ』 という漫画雑誌が創刊され、それが明治初年まで刊行された。日 本人にも受け継がれ、明治 1 0年には 『 囲圃珍聞』 という雑誌が野村文夫に ”にちなみ「ポンチ絵」と呼ばれ よって刊行された。英国の雑誌名”Punch ているが、コマが使われている。また、画面内でのコマの読み進め方向に ついても現在の逆 Z型が一般的になるのは 1 9 7 0年ぐらいである。しかし、 このように成立したコマの構成を、少女マンガ家たちは畳場人物の心理描 写のためにあえて破壊して、新しいコマ構成を作り上げた。例えば、図 4 では、右上の 1コマ目の公園の管理人と公園の銀杏を取るために学生を連 れてきた教授の対話を描いている場面である。枠のない一番下の画面に在 日すると、その中の左上には左上のコマの木に登っている女学生のクロー ズアップした顔と足、さらに、公園の管理人の会話文を示す尖った吹き出 しと、教授の「どうして私ばかりが怒られるのだ」という心話文を示す雲 形の吹き出しと、また「怒られる」という語によって導き出された子供時 代に母親にしかられる自分の昔の姿がオノマトベを使って描かれている。. (6). 口田].
(7) 異なった画面のコマが挿入されており、空間や時間の秩序が破られている が、教授の心理描写をうまく行っている。また、「むむう」という擬情語的 なオノマトペも心理描写に使われている。. 図 4 佐々木倫子「動物のお医者さん」⑫、白水社、 1 9 9 4. [ 1 0 5 ]. (7).
(8) 3 マンガにおける物語の類型 前田(2 0 0 4 )では、文学の物語を、 A. <語り手>の語りによる物語(三人称小説). B. <私>(一人称の語り手)が語る物語(一人称小説) C . <映し手>による物語(語り手不在の三人称小説). と分類しており、との分類を直接話法、体験話法、間接話法というような 話法や時制を使って説明している。描写の視点を考えると、 Aでは語り手 >作中人物、 Bでは需り手=作中人物、 Cでは需り手<作中人物と分類で きる。即ち、 Aは語り手が作中人物の誰より物語を知っていて、語り手は 作中人物に優越し、彼らが何を考えているかを見通している。古典的な全 知の語り手のパターンである。 Bはいわゆる一人称小説であるが、作者が 物語にどのくらい関与するかによって細分化される。 Cの映し手による物 語とは、「語り手の後退、描写の中立性、場面的措写の優位、会話の多様 性、体験話法、作中人物の意識による反映、視点の固定化という傾向が、 このタイプの小説の特徴である」(p . 1 2 9 )と書いている。 JamesJ o y c e(ジェ i r g i n i aWoolf(ヴァージニア・ウルフ)、 Kathe 白1 e イムズ・ジョイス)、 V M a n s f i e l d(キャサリン・マンスフィールド)、 Doro 仕1 yR i c h a r d s o n(ドロシー・. リチヤードソン)等の「意識の流れ」(streamo fc o n s c i o u s n e s s )の手法 を用いた作家がこの中に入る。登場人物の視点から物語を進行する文学で あり、登場人物の内的な意識を描くことによって物語が進行する。それを r l e b t eRede )とはドイツ需の話法であ 表現する話法として、体験話法(E. り、英語の摘出話法(r e p r e s e n t e ds p e e c h )とか自由間接話法(仕e ei n d i r e c t )とか呼ばれている話法に似ている。 s p e e c h また、山岡(2 0 0 1)は「語り」という表現手段に注目して物語を分析し e n e t t e(ジユラール・ジユ ているが、そこで、視点と焦点化という GerardG. ネット)の理論を適応している。「誰が見ているのか」と、「誰が語ってい るのか」を区別する必要があると考えている。ともに登場人物と語り手が 候補にあり、異なった役割を持つことが可能である。登場人物が見るのか、. (8). [ 1 0 4 ].
(9) 語り手が見るのか、それを誰が語るのか、登場人物か語り手かということ が、問題となっている。この理論では Aの<語り手>の語りによる物語は 語り手が世界を見て読者に語り、 Bの<私>(一人称の語り手)が語る物 語は読者に見られる対象である主人公が世界を見て読者に語り、 Cのく映 し手>による物語はそれぞれの登場人物が映した世界を読者が見るという 形式をとっているといえるのであろう。 マンガの大きな特徴は言語だけでなく絵画を使っても描写を行っている という点である。文学においては、「語り手」のみが物語を表現することが できる唯一の存在であるが、マンガにおいては同時に「見る」または「見 られる」存在としての登場人物を考える必要がある。図 5は「カムイ伝」 でカムイが忍者の世界を逃げ出し漁夫として初登場する章の最初のコマで あるが、叙事詩のように物語を客観的な立場から描写している。図 5のよ うに傍観者として作者は物語の背景を客観的な全知全能の作者の視点か ら絵画的措写を行うこともできるし、国 6のようにドアノプに映った自分 の姿を登場人物の視点を通して描写することもできる。あくまでも、語り 手である登場人物は、読者にみられる立場でなく、世界を「見ている」と いう立場で一貫的に描こうとする試みである。同一作者大友克洋の「 AK IRA」 (1 9 8 5 )は、登場人物を異なったカメラアングルで写し、それら を合成して連続的な映画を作っているのと同じ手法の絵の描き方をしてい る。この表現が特徴的である。上から、下から、カメラをねらい、ズーム・ アップを使い、映画のモンタ}ジュ手法と同様である。また、手塚治虫が 『新宝島』において「映画的手法」をマンガに初めて導入したといわれる画 期的手法がある。図 7を見ると、上のコマの登場人物ピート少年の「アッ 見えますッ. みえます!」という台詞が鷲の形をした岩山の次のコマへ. と「言葉と絵のズレ」とか「一人称視点」とかを用いて繋いでいる。竹内 (翻5 )では、作者が物語を登場人物の視点で描くことにより読者を登場人 物の視点に同一化させるこの方法を「同一化技法」と呼んでいる。畳場人 物の視点を読者の視点に重ね合わせ物語を展開させている。文学の描出話 法と同じ手法を用いていると考えられる。また、笹本 ( 1 9 9 6 )でも同一化. [ 1 0 3 ]. (9).
(10) 技法と呼んでいるが、この解釈で言うと読者は場面に応じて多数の畳場人 物の視点を使い分けることになるが、そう見てよいのであろうか。客観描 写のみで内語を発しない登場人物を「見られる存在」と定義しており、「見 られる」とは他の登場人物から「見られる」のか、読者から「見られる」 のか、両方の可能性があると思われる。 C h a : 佃1 an ( 1 伺0 )は、映画の視点 について述べた著書であるが、マンガ特にアニメは映画との接点が多くて、 表現を考えるのに参考になる。フィ J レターという用語を開拓している。「登 場人物だけが構築された物語世界の住人であるので、彼らだけが「見る」、 すなわち、文字通りその世界内のある地点からものごとを知覚し、それに ついて考える物語世界の意識を持っている、と言える。その世界に内在す るのは彼らの「パースペクティヴ」だけである。彼らだけがフィルターに なれるのだ。語り手はその世界の<中で>ものごとを知覚したり、考えた りすることはできない。語り手はそこで起こったことを語るか、示すかが できるだけである」(p240 )と、考えている。 文学の語りの分類を基礎にして、マンガの物語の分類を行っていく。. 図 5 白土三平 「 決定版. ( 1 0 ). [ 1 0 2 ].
(11) 図 7 手塚治虫・酒井七馬『新宝 島』(岩下朋世『少女マンガの表 現機構JNTT出版、 2013). 3 . 1 三人祢マンガ:く語り手〉の語りによる物語. ストーリーを持ったマンガを開拓したのは手塚治虫と言われている。ス トーリーを客観的に描くという方法に徹している。その手法を具体的な作 品を見ていこう。「アドルフに告ぐ」(1985)の冒頭のーコマ図 8で「私の 名は峠草平……いわばこの物語の狂言廻しだ」(p . 1 1)と言う初老の日本人 ジャーナリストを登場させ、峠草平を語り手として物語が進められている。 主にとがった吹き出しで描かれる会話部と背景として描かれる地の文で構 成されている。心話文については語り手の峠章平の心話文のみが泡状の吹 き出しの中で字体も変えて描かれている。峠草平の一人称マンガのように 話は始まっているが、図 9のように、「その時だった 峠草平の心にふと半 年前の記憶がよみがえったのだった」(p . 2 2 )というコマの後に、過去の回 想部分が独立したコマで描かれており、背景に全知全能の語り手が地の文. [ 1 0 1 ]. ( 1 1 ).
(12) でストーリーの歴史的背景が描いている。語り手峠草平が登場しないコマ では、中心人物アドルフの絵の背景に「アドルフは父親が無性に怖かった」. ( p 2 2 1)のように地の文で全知全能の語り手が物語を進めている。そして、 アドルフの心話を描きたいときには、母親にあてた手紙という形式で心理 描写を行っている。石子( 1 9 7 4 )によると、昭和 4 0年代の「劇作家もすべ てといっていいほど、手塚マンガの強い影響の下にかれらの作品をかきだ したのだった」(p . 1 4 2 )と理解している。原作者と作園者が異なり、マンガ がプロダクションでの集団作業になっていったと恩われる。. 峠 草 平 の心 に ふと半年前 の 記憶が よ みがえっ た の だっ た. 園 8・ 9 『手塚治虫文庫本全集、アドルフに告ぐ①』講談社、 2010. 背景に描かれた解説を使い、マンガに歴史的なリアルさを持ち込んだの は白士三平で、「忍者武芸帳」(1 9 5 9 )や「カムイ伝」(1 9 6 5 )では、手法と しては、作者の注釈がコマとは異なる場所に措かれており、客観的描写を 行っている。「カムイ伝」第一部第四巻の最終ページに「第五巻は、新たな 登場人物が加わり、ドラマに大きな変化を与えることになろう」とあり、. ( 1 2 ). [1 ( ) 0 ].
(13) 語りの構造を使っている。また、図 5のように「それは阻んのーときのこ とであるだろう……」のように「だろう」や「のである」「のだ」等の「の だ」文を説明に使い、物語の進行を傍観者の眼で観察し、語りの客観性を 持たせている。 諸星大二郎「西遊妖猿伝」(1 9 8 4 )は、「西遊記」を題材にした歴史活劇. 0の マンガである。特徴的なのは、講釈師というのが登場人物であり、図 1 ように、顔が出る独立したコマがあり、「それでは次回の講釈をお待ち下さ い」のように、かれが話を語るという形式でスト}リ}が展開しており、 ストーリーに歴史性を出している。全知全能の語り手としての作者が、講 釈師という媒介になる登場人物にストーリテラーの役割を託して物語を描. \ lilt /. 石 川 一 一 く ふ ⋮. 写している。. ~. I ; ・ 1 / " ¥;J 七~J:: \jf/TJJ;路 町田::;~~~:てて官ぷ'~l蛾) 3 . 2 一人称マンガ:く私〉(一人称の語り手)が語る物語 小説において、一人称小説では主人公は語り手と同一人物であり、ス トーリーの中心人物として登場する場合と傍観者としての視点、で描写する 場合のごつがある。たとえば、夏目激石の『吾輩は猫である』では、主人 公の猫は「吾輩」という一人称代名詞で語り手として主に登場するが、客 観的場面では状況を傍観者として「見る」人物としても登場して描写して いる。マンガでは、語り手の姿が絵で登場しており、他の登場人物と同じ. 【 9 9 ]. ( 1 3 ).
(14) で読者からは「見られる」人物として描かれており、さらに、主人公とし て、傍観者でなく中心的登場人物として登場するのが一般的である。読者 の側から言えば、一人称マンガの語り手は、読者から見られる登場人物で ある。しかし、他の登場人物の心話文はない。主人公の視点からの描写と いう形で物語を進行しているので、傍観者として物語を描写することはで きても、他の登場人物の心の中を描写するのは矛盾が生じるためである。 つげ義春は作者の内面の言葉をナレーションという形で持ち込んで「私 小説」的なマンガを創設したマンガ家といわれているが、図 1 1では、最 初のコマで登場する主人公の背景で「ぼく」という一人称代名詞で始まり. ( p . 4 )、全ストーリーの中心人物としてほほ全コマに登場する。常に主人公 の心話文は吹き出しの中で使われているが、会話文のとがった吹き出しと の区別がない。心話文のコマでは「ぽく」は一人称の語り手として登場し、 会話文の中で登場する場合には読者から見られる人物として描かれている。 夏目( 1 9 9 7)によると、「つげ義春は、解説ではなく作者自身の内面の言葉 と思われるナレ」ションを、作品で展開される事件とほぼ同じ時間に沿う ように書き込むことで、まるで紀行文や私小説のような流れの作品を作っ てみせました。読者は絵にとけ込むような独白的な言葉をたどり、その発 語者である作者自身を連想させる主人公の日に過剰に移入してマンガを読 み、同じ速度で周囲の人物や回想とつきあうことになります」(p . 1 0 6 1 0 7 ) と書いている。. ( 1 4 ). [98].
(15) 図1 1 つげ義春「ねじ式」 ( 1 9 6 8 ) (同『ねじ式』小学館文庫、 1 9 9 5に再録). 【 9 7 ]. ( 1 5 ).
(16) さくらももこ「ちびまる子ちゃん」(1 9 8 9 )では、作者自身が主人公「ま るちゃん」として登場し、一人称小説のように作者の個人的過去を描いて いる。作者が自分の過去を投影した「まるこ」を登場させ、「のだ」を使い. 2背景に「これは今でも 客観的に描写しているスタイルをとっている。図 1 わたしがアウトドアライフをエンジョイできない理由のひとつだ」(p . 6 )の ように「わたし」で登場している。しかし、統ーがなく「さすがまるちゃ んより」と主人公を客観的に見る描写もある。背景の文章が過去の自分を 振り返り作者がコメントを示すというより、その場にいてコメントを出す という文体である。主人公の心理描写は抱の吹き出しが使われている。. 4 度tのエア乙. . . ;ひンウれ. めとジトl ま 蔭5つ ヨド今E. 肱 だ イ アで. 包t q~. つ. つ. て ラも きイわ なフた. いをし く 理。 が 由?. 園1 2 さくらももこ『ちびまる子ちゃん』 5 、集英社、 1 9 8 9. 3 . 3 語り手不在の三人称マンガ:〈映し手〉による物語 語り手が物語を語って物語が進行していくというより、登場人物の視点 で物語を描写し、読者は登場人物に同一化して読み進めて行くという形式 がとられている。従って、客観的描写より、登場人物の心理描写に重点、が 置かれている。 池田理代子「ベルサイユのばら」(1 9 7 6 )では、登場人物の視点で物語を. 3を見ると地の文は少なく場面背景を四角の枠内に描 進行している。図 1 き、読者は地の文であることをすぐ理解できるようになっている。主なる 部分は会話部と心話部である。会話部はとがった吹き出しと鈎裂きの吹き 出しが使われている。鈎裂きの吹き出しは激白部に使われている。心話部. ( 1 6 ). [ 9 6 ].
(17) が多く、畳場人物の絵が背景に描かれていてその畳場人物の心理描写であ ることが読者に分かるようになっている。数コマも心理描写が続く場合に は心理描写への導入部として登場人物の姿が現れている。登場人物の独自 部、または、発話部が重要である場合には吹き出しが使われていない場合 もあるが、導入部には登場人物の姿が現れている。母親への会話文とも心 話文ともとれる「教えてください母上 I Jのように、登場人物の心理描写を 中心に物語が展開する描出話法的な劇画だといえる。. 図1 3 池田理代子『ベルサイユのばら』集英社文庫、笈胸. 【 9 5 ]. ( 1 7 ).
(18) 岡崎京子「pink 」 (1 9 8 9)では心理描写は主に主人公の女性とその同居 人の恋人の心理描写を中心に描かれているが、登場人物の背景に活字で描 かれている。心理コマとでもいうべき心理描写のみで背景に何もないコマ も存在する。黒塗りの背景も存在して、心理描写を中心にストーリーが進 行している。「わかんない」という心理描写のみのコマが存在する。図 14 のように背景が単純化されていて、客観描写より心理描写に中心のあるマ ンガである。心話は主人公の女性とその同居人の恋人に限定されており一 人称で表現する登場人物が三人いる。同一コマにご人の心話文が並立する ことはなく、また一人称代名詞について女性は「わたし」、恋人は「オレ」 でどちらの心話文か混乱しないように書かれている。大塚+ザサキパラ. ( 2 0 0 1)では、「フキダシの外の台調を駆使することによって、少女マンガ はキャラクターの心を重なり合った層として、いわば奥行きのあるものと. . 6 5 )と書いている。 して描く技術を手に入れたのです」(p. ( 1 8 ). [94].
(19) υ. どう 一 てEEレ陰ここEUる母 一 と か. の. あ 由. 葺. t i e. どうして己己巴立ってるのO とか. 判 。 ぃ 者主耳し空ら立彦5. 何で? 胃で? 帽で?. どうして? どうして? どうして?. わかん怠い 担かん怠い わ企んわゆい 打力ん忽い. 量申中ガ. のよ. 7エスチヨシマ lヲ Eらけに件。つぢゅう. どうしよう どうしよう どうしょう どうし杏ラ. ﹄ねい ﹄円い h u凶 ﹂ ﹄むい. 一. 図1 4 岡崎京子『p i n k Jマガジンハウス、 1 9 8 9 江川達也「東京大学物語」(1 9 9 5 )では、大量の文を書いている。心理描 写と会話文である。図 1 5心理描写に特徴があり、画面の背景に会話文と異 なる字体で描いている。それも大量の心理描写で「オレ」や「ボク」とい う一人称を使っている。回想場面にも黒の枠組みを使い、そこにも心理描 写を行っている 。また、心理描写の時間を(0 . 1秒)のように描くのも特徴 的である 。黒枠を回想や空想に使い〔村上の空想おわり〕と作者の注釈文. 【 9 3 ]. ( 1 9 ).
(20) も入る。主人公一人だけでなく副主人公にも心理描写があり、誰の心理描 写かはせりふと背景の絵で分かる。背景に登場人物の絵が書かれていない コマも多くあり、文字によってしか誰の心理描写か分からないコマも多く ある。文字だけのコマも多く使い言語要素に多く頼り心理描写を行う場面 と、絵だけで描写を行う場面が独立してある。心理描写コマが p . 8 7から 4 ページにも渡って描かれ、そこにも絵を使って心理描写を行っている。絵 の書き方が心理描写を中心に行われるため、写実的でなく、印象的である。 顔も笑いを誘うコミックな顔と真剣な顔のご種類が使い分けられている。 コマ使いが自由であり、 2ページに渡りーコマのコマとか、反対に細かく区 切り、文字が細かく香かれているコマもある。. 4 おわりに マンガの物語論的研究は未だ十分になされているという状況にはなって いないと言わざるを得ない。文学の物語論の研究は言語的表現のみの分析 で行えるが、マンガの分析は絵画的分析も同時に行う必要があり、両面か ら分析を行える専門家が育っていないというのが大きな原因であると思わ れる。手塚治虫が自分のマンガ手法の多くを映画から取り入れたと言われ ており、多くの業績の残されている映画論はマンガの物語論研究の参考に なると恩われる。また、マンガは娯楽であり芸術ではないと考えられ低く 見られてきた歴史も研究がなされていない原因にもなっている。しかし、 マンガが多くの読者によって支持されている現状では、それぞれのマンガ. ( 2 0 ). [92].
(21) 作家の文体にも研究の幅を広げる時が来ているように思える。また、学術. 0 1 2年に京都精華大学にはマンガ研究科という博士後期 研究レベルでは、 2 課程まで設立され、京都市との連携で 2( 胤年に京都国際マンガミュージア ムも開設されており、東北大学大学院情報科学研究科では却侃年にマンガ 研究で博士号を出しており、 2 0 0 1年に始まった日本マンガ学会という研究 組織もある。いずれも最近のことであり、この論文がマンガの物語論的研 究の一歩になればよいと思う。 参者文献. Cha 出 a n ,S e y m o u r .( 1 9 卯).℃o m i n gt oT e r m s :The抽 出 ,r i co fNa r r a 包. v ei nF i c t i o na n d ”C o r n e l lU凶. v e r s i t yP r 閣.(田中秀人訳 『 小説と映画の修辞学」(1 9 9 8 )水戸社から F i l m 引用) 石子順造(1 9 7 4)『職後マンガ史ノート J(紀伊国屋新書) 石森章太郎( 1 9 6 5 )『少年のためのまんが家入門』 (秋図書店) 大塚英志+ササキパラ・ゴウ個別)『教養としてのくまんが・アニメ〉』(講談社現代新 書 ) 金田一春彦(1 9 7 8 )r 擬音語・擬態語概説」(浅野編『擬音語 擬態語辞典」所収、角川書 a. 店 ) 笹本純( 1 9 9 6 )「マンガの言寄りにおける視点とその決定困としての内需」(日本記号学会編、 「多文化主義の記号論(記号学研究 1 6 )』、東海大学出版会) 竹内オサム低肪)『マンガ表現学入門J(筑摩害房) 永田高志(2 0 1 4 )「漫画の沿革一物語表現法に焦点を当ててー」(『文学・芸術・文化』. 2 5 1 ) 夏目房之介{ 1 9 9 7 )『マンガはなぜ面白いのかJ(NHKライブラリ}) 前 回 彰 一 個X l 4 )『物語のナラトロジーJ(彩流社) 山岡賓(忽l O l )『I 語り Jの記号論』(松柏社) 吉弘幸介(1 9 9 3 )『マンガの現代史』 (丸善ライブラリー). r. 四方回犬彦{ 1 9 9 9 ) 漫画原論』(ちくま学芸文庫). 【 9 1J. ( 2 1 ).
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