文教 大学女 子短 期大 学部研 究紀 要46集,51-61,2003
茅 ケ崎 の 別 荘 史
(1)別荘地の成立過程 と変遷
川
崎
衿
子
AHistoryofVillas:BuiltintheE紐rly1900,sinChigasaki(1) ErikoKawasaki 1は じめ に 西 洋 社 会 の 影 響 を 受 け た リゾ ー トが わ が 国 に 成 立 して い く過 程 は 、 鉄 道 を主 軸 と した 交 通 網 の 発 達 に大 きな 影 響 を受 け て い る。1872 (明 治5)年 の 東 海 道 線 の 営 業 開 始 に始 ま り、 1887(明 治20)年 に は横 浜 ・国 府 津 問 が 開 通 、 や が て1889(明 治22)東 京 ・神 戸 間 が 全 通 し、 並 行 して他 の 交 通 機 関 の 整 備 が 進 む と、 そ れ ま で 都 市 近 郊 に と ど ま って い た別 荘 地 は 鉄 道 沿 線 の 各 地 に 拡 大 した 。 避 暑 避 寒 や 温 泉 保 養 、 海 浜 保 養 を 目的 に外 国 人 、 政 府 高 官 な どの 上 層 階 級 、文 人 ら の知 識 階 級 が 集 ま る別 荘 地 が 多 数 出現 し、 そ れ に伴 い リゾ ー ト 生 活 の 規 範 が つ く られ て い っ た 。 そ れ らの発 展 史 お よ び別 荘 地 類 型 、 社 会 的 背 景 につ い て は安 島 、 十 代 田 ら に よる研 究 が 詳 しい1)。 1898(明 治31)年6月 に茅 ヶ崎 駅 が 開設 さ れ た 。 開 設 前 々 年 の1896(明 治29)年 に は 、 外 科 医 ・須 田 経 哲 が 茅 ヶ崎 駅 近 くに別 荘 を建 て 、 さ らに続 い て歌 舞 伎 俳 優 の 市 川 団 十郎 が 小 和 田地 区(現 在 平 和 町)に 壮 大 な別 荘 を建 設 した 。 駅 完 成 後 は 、 宮 内省 、 内 務 省 な どの 高 級 官 僚 、 政 治 家 、 軍 人 、 学 者 な どが現 在 の 中 海 岸 、 東 海 岸 方 面 に別 荘 を構 え る よ う に な っ た 。 以 後 明 治 末 に は 既 に200棟 を越 す 別 荘 が あ っ た とい わ れ る2)。 一 方、 後 に 戦 前 の最 盛 期 に は東 洋 一 の 設 備 を もつ ま で に発 展 した 結 核 専 門病 院 ・南 湖 院 が 駅 開設 の翌 年 に 開 院 した 。 南 湖 院 の 経 営 は 都 会 の 上 層 階 級 の 患 者 を優i待 した こ とか ら、 南 湖 周 辺 に は 、 い わ ゆ る 文 化 人 、 富 裕 人 が 集 ま っ た。 そ して この 存 在 は 茅 ヶ崎 を単 な る別 荘 地 と して だ け で は な く療 養 地 と して の 性 格 を広 く印 象 づ け る こ と に もな った 。 こ れ らの 動 向 は 、 人 ロ6000人 余 で あ っ た 旧 来 の 農 漁 村 ・茅 ヶ崎 の社 会 経 済 に多 様 な変 化 を もた ら した 。 そ の後 も関 東 大 震 災 、 第 二 次 世 界 大 戦 の 影 響 を受 け 、 茅 ヶ崎 の別 荘 の 様 相 は 著 しい変 貌 を遂 げ て い く。 本 研 究 で は 茅 ヶ崎 の 別荘 地 の 開発 過 程 とそ の 特 性 を 明 らか に しつ つ 、 明 治 ・大 正 ・昭 和 ・平 成 に い た る ま で の 別 荘 の 歴 史 的 変 遷 を 事 例 的 に捉 え考 察 を試 み た 。 正 別 荘 地 の 成 立 と発 展 ・・変 貌 1茅 ヶ崎 駅 の 開 業 と別 荘 誘 致 横 浜 ・国 府 津 間が 開 通 した時 点 で の 駅 設 置 条 件 は 東 海 道 線 の 旧 宿 場 ご と と さ れ た た め 、 藤 沢 ・平 塚 間 に は駅 が なか っ た 。 茅 ヶ崎 市 史 に よ れ ば 、村 に停 車 場 を求 め る 運 動 は 、 国府 一51一文教 大学 女子短 期大 学部研 究紀 要46集,51-61,2003 津 まで の 鉄 道 開 通 直 後 か ら始 め られ 、1895 (明 治28)年 に は 周 辺 の 村 会 有 力 者 の 連 署 で 厂鉄 道 停 車 場 設 置 願 」 が 鉄 道 局 長 宛 に提 出 さ れ て い る 。 中 央 管 轄 省 庁 に とっ て 茅 ヶ崎 は 未 開 の 地 で あ り、 当 初 は停 車 場 設 置 に消 極 的 で あ っ た と い わ れ る が 、1896(明 治29)年 に 歌 舞 伎 俳 優 ・九 代 目 市 川 団 十 郎 が 小 和 田 に 6000坪 の 別 荘 用 地 を購 入 し、 翌 年 に は 贅 を 凝 ら し た 別荘 ・孤 松 庵 を建 築 した こ と に よ っ て 茅 ヶ崎 の 名 は有 名 に な り、 そ れ が 駅 誘 致 に 役 立 っ た と され る。 1894(明 治27)年 、30歳 で 茅 ヶ 崎 村 長 に 就 任 し、1919(大 正8)年 に町 長 の 職 を去 る ま で の25年 間 を首 長 と して 在 任 した 伊 藤 里 之 助 は 、 村 政 基 盤 を 固 め るた め 、駅 開 設 前 後 か ら別 荘 誘 致 に積 極 的 に 関 わ っ て い った 。 例 え ば 内 務 官 僚 ・清 浦 奎 吾(1850∼1942)3)に 対 して は高 砂 の 官 有 地 を村 と し て払 い 下 げ た 上 で 、 清 浦 へ 「無代 価 譲 渡 」 す る こ と を村 議 会 は 決 議 して い る4)。 ま た 同 じ く内務 官 僚 ・ 土 方 久 元(1833∼1918)5)に は 別 荘 地 購 入 を 村 長 と して斡 旋 し6)、 同 じ く花 房 義 質(1842 ∼1917)7)も 別 荘 地 の 選 定 ・購 入 を伊 藤 に委 任 して い る8)。 ま た 、 山崎 直胤(1853∼1918) 9)は 自 身 の 別 荘 の 間 取 り 、 職 人 手 配 、幽竣 工 後 の 引 っ越 し の 段 取 り な ど を 村 長 宛 に 依 頼 し、 尚 か つ 知 人 の貸 別 荘 斡 旋 を も願 い 出 て い る10)。彼 ら4人 の 政 府 要 人 の 別 荘 は 中 海 岸 の 駅 寄 り に 互 い に 隣…接 して1897(明 治30)年 に建 て ら れ た 。 こ れ ら を は じめ と して 明 治30年 代 か ら40 年 代 に は 同 じ く政 府 要 人 、 知 名 人 や 学 者 た ち の別 荘 が 相 次 い で 建 設 され た 。 そ れ らの 別 荘 地 に つ い て も伊 藤 村 長 は 買 い 入 れ の 便 宜 を は か っ た と 同時 に 、 彼 ら別 荘 人 の 力 を村 政 に 生 か す こ と も怠 らな か っ た。 開発 が 進 む に つ れ 道 路 改 修 の 必 要 もで て き た 。 対 象 と な る道 路 を 日常 的 に使 用 す る別 荘 所 有 者 が 、 そ の 改 修 費 用 の不 足 分 を負 担 す る とい う交 渉 が 伊 藤 村 長 の も と で進 ん だ。1908 (明 治41)年8月 に は 進 経 太(石 川 島 造 船 所 取 締 役)、 瀬 脇 寿 雅(父 は幕 末 の 蘭 学 者 ・瀬 脇 節 蔵)、 広 田 精 一(工 学 博 士 、 電 気 学 校 ・ 後 の 東 京 電 機 大 学 の 創 立 者)の3名 が 発 起 人 と な っ て 別 荘 居 住 者20名 の 寄 付 を集 め 、 総 額150円 を村 に納 め て い る11)。 別 荘 地 の実 質 的 な 開発 を 目的 に した ばか り で は な く、 伊 藤 村 長 は別 荘 人 を講 師 に、 或 い は別 荘 人 の 力 を借 りて 中央 の 名 士 を招 き、 講 演 会 を開 催 す る な ど、 別 荘 を軸 と した 地 域 の 文 化 振 興 策 に も熱 心 で あ っ た 。 伊 藤 村 長 と村 会 は 別 荘 人 と協 力 関係 を保 ち な が ら明 治40年 代 以 降 、 別 荘 地 は 中 海 岸 か ら東 海 岸 、 菱 沼 ・小 和 田地 区へ と発 展 、 そ の 範 囲 を広 げ て い っ た 。 1908(明 治41)年10月 、 茅 ヶ 崎 村 ・鶴 嶺 村 ・松 林 村 は 合 併 し て茅 ヶ崎 町 が 誕 生 し た 。 1911(明 治44)年 に は 茅 ヶ崎 電 燈 株 式 会 社 が 設 立 され た。 こ の 時 の電 力 供 給 に つ い て も 前 出 の 別荘 人 ・広 田 精 一 は指 導 力 を発 揮 して い る12)。そ の 後 、 町 の 電 灯 普 及 が 著 し く進 展 した。 1917(大 正6)、 現 在 茅 ヶ 崎 ・橋 本 間 を 結 ぶJR相 模 線 の前 身 ・相 模 鉄 道 株 式 会 社 が 設 立 さ れ た 。社 長 に は 、 衆 議 院 議 員 で 憲 政 会 の 領 袖 とい わ れ 大 日本 自転 車 社 長 で もあ っ た 岡 崎 久 次 郎 が 就 任 した 。彼 も ま た 中 海 岸 地 区 に 大 規 模 別 荘 を構 え て い た 別 荘 人 で あ っ た。 相 模 鉄 道 が 実 際 に 運 行 さ れ た の は1921(大 正 10)年 の 茅 ヶ崎 ・寒 川 間 が 最 初 で あ っ た が 、 そ の 後 関 東 大 震 災 を は さ ん で1926(大 正15) 年 に は厚 木 ま で の 開 通 を 果 た す こ と が で き た 。 そ の 時 点 で の 乗 客 数 は10余 万 人 、 さ ら に厚 木 に小 田原 急 行 が 接 続 した1927(昭 和2) 年 に は 乗 客 数 は30余 万 人 と増 加 した 。1931 (昭 和6)年 に は 茅 ヶ崎 ・橋 本 間 が 全 面 開 通 し、 相 模 鉄 道 で は 海 水 浴 場 に 直 営 の海 の 家 を 開 設 す る な ど乗 客 誘 致 に努 め た 。
文教大 学女 子短期 大学 部研 究紀 要46集,51-61,2003 この よ うな 茅 ヶ崎 町 の発 展 を背 景 に大 正 後 期 か ら土 地 開発 は広 域 化 、 組 織 化 さ れ別 荘 地 分 譲 に も新 しい 動 きが で て きた 。 地 元 ・秋 本 商 事 部 が 駅 よ りの 雲 雀 ヶ 岡(現 ひ ば りが 丘) の住 宅 兼 別 荘 地 開発 を企 画 し、 そ の地 鎮 祭 が 1921(大 正10)年 に 挙 行 さ れ た 。 そ の 際 、 会 社 は 水 越 良 介 町 長(1920年9月 よ り1921年 10月 ま で在 任)宛 に 招 待 状 を し た た め て い る13)。少 し時 代 は下 が るが 、震 災 後 、 小 和 田 地 区 に は 完 成 時 に は25戸 と な る 鶴 が 浜 貸 別 荘 が 開発 され 、 そ の祝 賀 会 の様 子 が 『横 浜 貿 易 新 報 』 掲 載 さ れ て い る14)。こ の 他 に も農 家 を貸 別 荘 にす る な ど、 個 人 的 な 貸 別 荘 の 例 は 海 水 浴 客 の 増 加 と と も に多 か っ た で あ ろ う と 思 わ れ る 。 震 災 直前 頃 に は 、従 前 か らの 大 規 模 別 荘 と 中 ・小 規 模 別 荘 が 入 り組 ん で併 存 す る光 景 が 生 まれ て い った 。 や が て1923(大 正12)年9月 に起 こ っ た 関 東 大 震 災 は 、穏 や か な 別 荘 地 に大 きな 変 革 を もた ら した 。 2関 東 大 震 災 が 別 荘 地 に 与 え た影 響 関 東 大 震 災 は 当 地 に未 曾 有 の 損 害 をあ た え た 。 住 宅3426戸 の う ち3319戸 が 全 半 壊 し、 町 営 建 築 物 も壊 滅 、 交 通 網 も寸 断 され た 。 別 荘 も例 外 で は な く市 史 に よれ ば皇 族 ・華 族 ・ 名 士 の 大 規 模 別 荘 の24戸 が 全 半 壊 した こ と が 記 され て い る15)。この 結 果 、 別 荘 滞 在 者 は 減 少 し た 。 別 荘 滞 在 者 の 人 口 統 計 か らみ る と、1917(大 正6)年 に は 男 女 合 わ せ て1266 名(外 国 人 を 除 く)で あ っ た も の が 、1927 (昭 和2)年 に は 同 じ く1045名 とな っ て い る。 しか し再 建 さ れ た別 荘 も多 く、 前 出 の罹 災 別 荘24戸 の 中 、 約 半 数 の 再 建 が 確 認 さ れ て い る 。 一 方 、 中 ・小 規 模 別 荘 に つ い て の損 害 状 況 は 明 らか で は な い が 、 震 災 を機 会 に 当地 を 引 き上 げ た 人 は少 な か っ た で あ ろ う と い わ れ て い るQ そ の 時 期 を は さん で 、 確 認 さ れ て い る主 な 別 荘 分 布 は[図1]に み られ る 通 りで あ る。 図 は 「茅 ヶ崎 の文 化 財 を守 る会 」 世 話 人 代 表 ・岡 崎 周 氏 、お よ び 川 添 隆 行 氏 の 調 査 記 録 、 講 演 記 録 を も とに 、 本 研 究 の調 査 を加 え て 筆 者 が 作 成 した も の で あ る 。 首 都 県 全 域 の 復 旧 が 進 む に つ れ て 、 茅 ヶ崎 は 首 都 圏勤 務 者 の住 宅 地 と して の 人 気 が 高 ま り、 新 た な 住 宅 用 地 ・別 荘 用 地 と して土 地 の 売 買 が 増 加 した 。 昭 和10年 代 初 め の 高 砂 地 域 に お け る 地 所 の 区画 分 譲 広 告 に よ る と、 一 区 画 の 最 小 規 模 177坪 か ら最 大740坪 、 大 方300坪 前 後 の32区 画 が 造 成 され 分 譲 住 宅 地 と して売 りに 出 され て い る16)。そ の広 告 文 に は 「… 海 岸 を 離 れ る こ と僅 か に四 百 米 の 乾 燥 地 一 帯 の 松 林 に して 、 付 近 名 士 の 別 荘 多 し」 と うた わ れ て お り、 別 荘 地 と して の 茅 ヶ 崎 の 醸 し出 す 雰 囲気 が 、 分 譲 地 売 り出 しの 好 条 件 に な っ て い る こ とが うか が え る 。 また 神 奈 川県 も周 辺 市 町村 と調 整 を計 っ た 上 、 道 路 網 整 備 に 乗 り出 し、 海 岸 沿 い の 県 有 地 の 宅 地 化 に 着 手 した 。1935(昭 和10)年 度 に は小 和 田海 岸 地 区 の 区 画 整 理 を行 い公 的 機 関 に よ る宅 地 化 が 本 格 的 に 進 展 した。 3茅 ヶ崎 海 岸 と海 水 浴 地 域 振 興 の 活 性 化 を図 る上 で 、 海 水 浴 場 の 整 備 は重 要 な施 策 で あ っ た。 も と も と海 水 浴 の 習 慣 の無 か った わが 国 に お い て 、 海 水 浴 が 浸 透 し て い くに は二 つ の経 路 が あ る とい わ れ る 。 一 つ は 西 洋 で 行 わ れ て い た医 療 行 為 ・治 療 行 為 が 軍 や 学 校 で 採 用 さ れ た こ とで あ る。 海 水 浴 は皮 膚 を鍛 え て風 邪 に 強 い 体 をつ く り、 貧 血 病 、 腺 病 、 胃腸 炎 、 神 経 病 に効 果 が あ る と され た こ とか ら、 西 洋 の 公 衆 衛 生 学 を踏 ま え た 初 代 軍 医 総 監 ・松 本 順(良 順)や 初 代 内務 省 衛 生 局 長 ・長 与 専 斉
茅 ヶ崎 の別荘 史(1)別 荘地 の成立 過程 と変 遷 ら が 先 駆 者 と な っ て 海 水 浴 場 を 開 設 し た 。 1885(明 治18)年 に 開 設 さ れ た 大 磯iの照 ヶ 埼 海 水 浴 場 は松 本 の 指 導 で あ り、 また 同 じ頃 開設 され た 鎌 倉 海水 浴 場 は 長 与 の指 導 に よ る も の で あ る。 他 方 、 横 浜 を中 心 に居 留 地 に住 ん だ外 国人 が 根 岸 や 本 牧 の 海 岸 で 海 水 浴 を行 い 、 西 洋 風 俗 と して 鮮 烈 な 印 象 与 え た こ と も海 水 浴 浸 透 の 大 きな 要 素 とな った 。 1887隔(明 治20)年 大 磯i駅 が 設 置 され た 。 都 会 を離 れ た転 地 療 養 、 海水 浴 療 法 の 効 能 を 得 る に は1,2ヵ 月 の 長 期 滞 在 が 推 奨 され 、 そ の た め の 旅 館 も建 ち は じめ た 。 温 暖 な 気 候 は 海 水 浴 ば か りで は な く、 避 暑 避 寒 に も適 して い た こ とか ら政 財 界 の有 力 者 が 別 荘 を構 え 、 以 来 大 磯 は高 級 海 浜 保 養 地 と して評 判 を高 め る こ と と な っ た 。 大 磯 に 約10年 遅 れ て 駅 が 開 設 さ れ た 茅 ヶ 崎 で は 、 そ の 前 後 か ら 日帰 りの 海 水 浴 客 が 訪 れ は じめ て い た 。 海 岸 近 くに は い くつ か の旅 店 が 安 直 な宿 を経 営 し、 海水 用 具 や水 着 の貸 与 を始 め 、 地 引 き網 な どの 実 際 を見 せ て 集 客 を試 み た 。 大 磯 ・平塚 ・鵠 沼 な どの 海 水 浴 場 と比 べ る と、 茅 ヶ崎 は気 軽 に利 用 で き る庶 民 性 が 好 まれ た よ うで あ る 。 1899(明 治32)年 、 旅 館 ・茅 ヶ 崎 館 が 開業 し た。 後 年 著 名 人 の 常 宿 と して 有 名 と も な っ た が 、 当 初 は水 着 姿 で 海 岸 にで られ る 良好 な 海 水 浴 客 向 け の 旅 館 で あ った 。 さ ら に民 家 の 中 に は避 暑 客 の ため に 間 貸 しをす る も の も出 現 した 。 大 正 期 に な る と海 水 浴 客 の 数 は増 加 し、 そ の 様 子 は'「各 別 荘 は 勿 論 貸 別 荘 ・貸 間 は悉 く塞 が り、 昼 の海 岸 夜 の 市 中 は 到 る処 な か な か 賑 わ い つ つ あ り … 」17)と 報 じ ら れ て い る。 1914(大 正3)年 に は 、 『横 浜 貿 易 新 報 』 が 募 集 した 厂県 下 避 暑12勝 新 撰 」 で 茅 ヶ 崎 は10位 に入 り、 折 か ら の 大 戦 景 気 の 経 済 好 況 と相 ま っ て 海 水 浴 場 は 活 況 を呈 し た。 翌 年 に は 町 主 導 に よ り道 路 の 改 修 、更 衣 所 、 物 品 販 売 所 、休 憩 所 、 船 遊 び 、 大 弓場 な どが 整 え られ 、 衛 生 上 の 取 り締 ま り も強 化 され て 海 岸 の 賑 わ い は 以 前 に も増 した 。 昭 和 期 に は い る と町 営 海水 浴 場 の規 模 は拡 大 し、 ま た相 模 鉄 道 も参 入 して 海 の家 の 営 業 を手 が け る よ う に な っ た。 しか し、 そ の後 の 戦 局 の悪 化 は海 水 浴 客 を 激 減 させ 、海 岸 一 帯 は 急 速 に さ び れ て い っ た。 海 岸 が 再 び 賑 わ い を取 り戻 す に は 戦 後 の10 年 を経 な け れ ば な ら なか っ た。
皿
事例 にみ る別荘の変遷史
先 に 述 べ た と お り実 質 的 に 明 治30年 代 か ら始 ま った 別 荘 地 ・茅 ヶ崎 の歴 史 は百 余 年 の 歳 月 の 中 で 幾 多 の 変 節 を経 な が ら、 い ま もな お 著 しい 変 貌 の渦 中 にあ る。 しか しなが ら別 荘 地 と して発 展 して きた茅 ヶ崎 が 、 そ の後 どの よ う な経 緯 をた ど って今 日の よ う な町 へ と変 貌 を遂 げ た の か 、 そ れ を 知 る 人 々 は近 年 減 少 の 一 途 を た ど っ て い る。 ' そ の 薄 れ ゆ く記 憶 が 継 承 さ れ て い る今 の時 代 にお い て 、 こ れ ら を記 録 と して 残 し、 後 世 に 伝 え る こ と は意 義 深 い こ と と考 え、 本 研 究 の 調 査 を開 始 した 。 調 査 概 要 は以 下 に示 す と お りで あ る。 ・調 査 期 間:2001年9月 ∼2002年9月 ・調 査 実 施 協 力 者 湘 南 設 計 監 理 協 会 代 表 ・岸 照 弘 氏 ま ち観 まち景 フ ォー ラム 代 表 ・益 永 律 子 氏 茅 ヶ崎 市 都 市 整 備 課 ・ま ち づ く り担 当 一 級 建 築 士 ・宮 本 直 子 氏 ・調 査 方 法: [図1]に 示 され た 地 図 を も と に 旧 別 荘 跡 地 周 辺 の 実 情 を踏 査 し現 状 観 察 の 上 、調 査 対 象 住 宅 を リス トア ップ した 。 そ の 条 件 は 保 存 状 態 の 比 較 的 良 好 な長 寿 命 住 宅 と した。 リス トア ップ した対 象 住 宅 居 住 者 に 当該 住 ゴ ー55一文教 大学 女子 短期 大学 部研究紀 要46集,51-61,2003 宅 の建 設 年 、 居 住 歴 、 改 修 ・建 て 替 え歴 、 将 来 計 画 な ど の ア ンケ ー トを依 頼 、 郵 送 した 。 ・調 査 対 象 住 宅:112件 ・返 送 回 答 数:49件 約44% 以 上 の 回 答 の あ っ た事 例 の 中 か ら、 再 調 査 を依 頼 し承 諾 を得 て イ ン タ ビ ュ ー を行 い 、 さ ら に詳 しい 当 時 の 別 荘 の使 用 状 況 な ど の 聞 き 取 りを行 った 。 同 時 に住 宅 の 実 測 を行 っ た 。 そ の 結 果 、 別 荘 が 変 容 して い く過 程 は 、 一 様 で は な い も の の 、 敷 地 面 積5000坪 程 度 以 上 の 大 規 模 別 荘 と、700坪 程 度 以 下 の 中 小 規 模 の 別 荘 で は そ れ ぞ れ の 属 性 に応 じ た共 通 性 が 認 め られ た 。 そ の 共 通 性 を も と に別 荘 変 容 の 類 型 化 を試 み 、本 報 で はそ の 一 部 を考 察 し た 。 1明 治 期 の 大 規 模 別 荘 の宅 地 化 1)Ni邸(東 海 岸 北) 1910(明 治43)年 、Ni氏 は前 所 有 者Is氏 よ り5000坪 の 地 所 を譲 り受 け た 。Is氏 は維 新 の 頃 よ り医 学 の 道 に学 び 、 諸 戦 役 に 軍 医 と し て働 き、 日清 戦 争 の 論 功 行 賞 に よ り男 爵 の爵 位 を得 、1897(明 治30)年 に は 陸 軍 軍 医 総 監 に な っ た。 そ の 後 貴 族 院議 員 、 子 爵 と名 を 立 て、 西 洋 医 学 の 普 及 、 軍 医 制 度 、 医療 制 度 の 整 備 に 尽 力 した 人 物 で あ る。 初 代 当 主 ・Ni氏 は 法 学 博 士 で 、 東 京 帝 国 大 学 の 教 授 を務 め た 民 法 、 婚 姻 法 の 大 家 で あ っ た 。 東 京 ・丸 の 内 に法 律 事 務 所 を構 え 、 本 宅 は 東 京 ・小 石 川(現 文 京 区)に あ っ た 。 茅 ヶ崎 に 別 荘 を建 て た の は 幼 少 の 長 男 が 病 弱 で あ っ た こ とか ら、 療 養 に 適 した 当 地 ・茅 ヶ崎 を選 ん だ と伝 え られ る。 Ni氏 が こ こ を取 得 した 時 に は 、 既 に 明 治 20年 頃 、に建 て ら れ た で あ ろ う 旧 居 が 存 在 し てい た が 、 入 居 後 し ば ら く して 大 幅 な増 築 が 行 わ れ た 。 そ の後 、 長 年 に わ た り何 回 か の 改 修 、増 改 築 を重 ね な が ら住 み こ な しを して き た が 、1990(平 成2)年 に す べ て を取 り壊 し て現 住 居 に改 め られ た。 旧 居 は茅 葺 きの55,6坪 位 の 平 屋 で あ っ た 。 当初 浴 室 は 母 屋 と離 れ て別 棟 に置 か れ 、 更 衣 室 、 焚 き 口場 を備 え た 一 棟 建 て で あ っ た が 、 改 修 と と もに住 宅 内部 に取 り込 まれ てい った 。 Ni氏 は 、 週 末 に は 旧 丸 ビ ル 内 に あ っ た事 務 所 か ら、 茅 ヶ崎 に来 て は週 末 を過 ご し、休 養 を と り な が ら も仕 事 上 の 構 想 を練 る な ど 、 こ の 別 荘 を1944(昭 和19)年 に 亡 くな る 直 前 まで 活 用 して い た と い う。住 み 込 み の 別 荘 番 夫 婦 が 常 時 こ こ を管 理 し、 建 物 と家 族 の世 話 に専 念 して い た 。 先 の大 戦 中 に東 京 の 本 宅 が 空 襲 を受 け て 焼 失 し、 家 族 は全 員 茅 ヶ崎 に移 住 す る こ と と な った 。初 代Ni氏 逝 去 後 の 地 所 の 相 続 、分 割 、譲 渡 の 詳 細 は 明 らか で は な い が 、 土 地 形 状 か ら 推 察 して 大 きな 変 更 が あ っ た もの と思 わ れ る 。 鉄 砲 道 の 建 設 はNi邸 の 敷 地 に 大 き な変 化 を与 え た 。 従 来 回 り込 ん で い た 鉄 砲 道 がNi 邸 を東 西 に貫 通 す る こ と と な り、 敷 地 の 南 北 が 分 断 され た。 道 路 部 分 は市 に 移 管 され 、 北 側 も現 在 で は 部 分 的 に他 に譲 渡 され て い る 。 現 在 は 初 代Ni氏 の孫 に当 た る3代 目 当主 が 当 家 を継 承 し、 管 理 に あ た っ て い る。 今 も っ て 当 時 の 高 級 別 荘 の 雰 囲 気 と規 模 を残 すNi 家 で は あ る が 、 当 主 は この ま ま の状 態 を維 持 で き る か に つ い て は 非 常 な 危 惧 を抱 い て い る 。 先 祖 が 残 し た環 境 を継 承 した い 気 持 ち は 充 分 に あ りな が ら も、不 動 産 に か か る税 金 の 負 担 は 重 く、 これ を支 払 うた め に は所 有 地 の 一 部 の 売 却 もや む を得 な い と して い る 。 2)Hr邸(東 海 岸 南) こ こ に 別 荘 が 建 て ら れ た の は1911(明 治 44)年 で 、 初 代Hr氏 が 結 核 療 養 の た め 南 湖 院 を頼 り、 東 京 ・麹 町(現 千 代 田 区)か ら移 住 した の が 、 こ の別 荘 の 始 ま り と され る。 Hr氏 は 、 東 京 に私 立 電 機 学 校(現 東 京 電 機 大 学)を 創 設 し、神 戸 高 等 工 業 学 校(現 神
茅 ヶ崎 の別荘 史(1)別 荘 地 の成立 過程 と変 遷 戸 大 学 工 学 部)の 初 代 校 長 を努 め る な ど電 気 科 学 教 育 に大 きな 力 を注 い だ 。 ま た一 方 、 近 代 化 の 緒 につ い た 茅 ヶ崎 を行 政 当 局 と と も に 先 導 し、 ま ち の発 展 に尽 く し茅 ヶ崎 の別 荘 地 発 展 に多 くの 業 績 を残 し た こ と で も知 られ 、 そ の先 見 性 は今 日 にお い て も多 方 面 で評 価 さ れ て い る。 最 初 は 約400坪 の 敷:地に藁 葺 きの 一 部2階 建 て の 家 が 建 て ら れ た が 、12年 後 の1923 (大 正12)年 に起 きた 関東 大 震 災 で倒 壊 、 そ の2年 後 に倒 壊 家 屋 の 廃 材 を使 用 して 敷 地 内 の 東 と西 に2棟 の 家 が 再 建 され た。 こ れ よ り先 、初 代 は風 が 吹 きつ け る海 岸 の 砂 に悩 ま され 、 そ の 策 と して 周 辺 の 別 荘 人達 と協 力 し なが ら別 荘 地 と海 岸 間 の 砂 丘 に植 林 を試 み て い た 。 この 試 行 に 当 た っ て は神 奈 川 県 と話 し合 い が な され 、 交 換 条 件 と して植 林 が 成 功 した 場 合 に は 、 県 は 当 該 土 地 をHr氏 に払 い 下 げ る とい う約 束 を 取 り交 わ して い た 。 失 敗 を重 ね な が ら も熱 心 な 努 力 が 功 を奏 し、 そ の結 果 、敷 地 南 端 か ら海 岸 に い た る ま で の 広 大 な土 地 がHr家 の もの と な っ た 。 敷 地 全 体 は約2万2千 坪(72,500㎡ 〉 へ と拡 大 し た 。 震 災 後 に建 て られ た 家 は 、 そ の 払 い下 げ の 土 地 の上 に建 て られ た 。 1931(昭 和6)年 、 初 代 が 亡 くな っ た 。 ほ ど な く して 、 そ の遺 言 に よ り県 よ り払 い下 げ ら れ た 土 地 の 大 部 分 は 電 機 大 学 に 寄 付 さ れ た 。 1947(昭 和22)年 、 電 機 大 学 は そ の 土 地 を神 奈 川 県 に売 却 、 県 は こ こ を 宅 地 造 成 して 県 営 の 戸 建 て 住 宅 を 建 て 入 居 者 を募 っ た。 何 年 か の 後 、規 定 に従 い 入 居 者 に 払 い 下 げ られ て 、 そ れ ぞ れ が 個 人 所 有 の 民 有 地 と な っ た。 2代 目 ・長 男 一 家 は 外 地 で 暮 ら して い た が 、1939(昭 和14)年 に 帰 国 し、 一 時 茅 ヶ 崎 で 暮 ら した 後 、 東 京 、 平 塚 、 川 口 と転 居 し た 。 戦 時 中、 別 荘 は贅 沢 財 産 と み な され た こ と か ら 、震 災 廃 材 で 建 て られ た 東 西2棟 の 家 は 、 貸 家 と して 管 理 ・運 用 を し た 。1946(昭 和 21)年 「西 の家 」 が 明 け渡 され 、 同時 に初 代 未 亡 人 と2代 目 ・次 男 が 入 居 した。 1954(昭 和29>年 、 西 の 家 は 火 災 に よ り 焼 失 し た 。 「東 の 家 」 の 貸 家 人 が 立 ち 退 き 、 初 代 未 亡 人 と2代 目 ・次 男 は そ ち ら に 移 住 し、 ユ963(昭 和38)年 ま で居 住 した。 東 の 家 は和 洋 折 衷 の独 特 の 意 匠 を備 え た デ ザ イ ンで あ っ た とい わ れ るが 、1964(昭 和39) 年 か ら は結 婚 問 も な い3代 目 ・長 男 一 家 が 東 京 よ り転 居 し、1969(昭 和44)年 ま で 居 住 し た。 そ の 年 に は 、焼 失 した西 の 家 の 跡 地 に 3代 目 ・長 男 の家 が 建 て ら れ 、 一 家 は 東 の 家 よ り移 り、 そ の後 東 の 家 は取 り壊 され て今 日 に至 っ て い る。 1961(昭 和36)年 、2代 目 が 亡 くな っ た 。 遺 産 相 続 に 際 して は敷 地 は そ の ま ま2代 目未 亡 人 とそ の 子 ど も ・3代 目 姉 弟 の3人 の 共 有 名 義 に書 き改 め られ た。 1981(昭 和56)年 、 敷 地 は 著 しい 変 革 の 時 を迎 え た 。 土 地 は 前 出3人 の 共 有 名 義 か ら 個 人 帰 属 分 を 明 確 に した 登 記 変 え が 行 わ れ た 。3代 目 ・長 男 が 引 き継 い だ 部 分 は 、 敷 地 内 に 環 状 道 路 が 設 け ら れ 、 道 路 内 側 の 約 1000坪 が 自 身 の 屋 敷 と して 整 備 さ れ た 。 道 路 外 周 の 土 地 は区 画 割 り して 宅 地 分 譲 が 行 わ れ 、 敷 地 の 形 状 、 形 態 は大 き く変 化 した 。 この 由 緒 あ る屋 敷 の姿 が 大 き く変 わ っ た変 節 点 は 、1931(昭 和6)年 と1981(昭 和56) 年 で あ ろ う。 二 つ の時 期 と も先 代 の相 続 問 題 解 決 が 、 土 地 の 形 状 を変 え る きっ か け と な っ て い る 。2002(平 成14)年 現 在 、 周 辺 に は 樹 齢100年 を超 え る で あ ろ う楠 、 初 代 ゆ か り の松 林 が 残 り、 自然 環 境 に恵 ま れ た優 良 な住 宅 街 を形 成 して い る。 また 、 屋 敷 内 の 樹 木 群 は 茅 ヶ崎 市 の 保 存 樹 林 指 定 制 度 の 適 用 を受 け 、助 成 金 に よる 維 持 管 理 が 行 わ れ て い る。 一57一
文 教 大 学 女 子 短 期 大 学 部 研 究 紀 要46集,51-61,2003 2現 存 す る 昭和 初 期 の別 荘. 1)Nk邸(美 住 町) 1939(昭 和14)年 竣 工 の 木 造 平 屋 建 て で 、 建 設 当 時 とほ とん ど変 わ らぬ ま ま現 存 して い る 。[図2]は 保 存 さ れ て い る 竣 工 当 時 の 平 面 図 を 筆 者 が か き改 め た もの で あ る。 初 代 当 主 は1889(明 治22)年 生 ま れ 、 後 年 東 京 ・荏 原(現 品 川 区)に て 精 密 機 械 会 社 を創 立 し、 軍 需 事 業 で 財 を な した 。 茅 ヶ崎 に 別 荘 を構 想 した 頃 、 こ の 周 辺 一 帯 は砂 地 で 、 敷 地 は700∼800坪 で あ っ た とい う。 設 計 は 、 当 主 の 会 社 所 在 地 と同 じ東 京 ・荏 原 に事 務 所 を構 え て い た渓 恒 次 郎 が 行 っ た 。 1938(昭 和13)年 よ り設 計 が 開 始 され 、 翌 年 竣 工 した 。 施 工 は逗 子 の 大 工 ・松 井 が 当 た っ た 。 住 居 平 面 は 玄 関 脇 に洋 間 を備 え た 当 時 の 典 型 的 な 中廊 下 型 住 宅 で あ り、 和 室 部 分 に も随 所 に細 か な技 巧 が 凝 ら され て い る。 南 東 に突 き出 た 洋 間 は 、外 壁 は モ ル タル リシ ン仕 上 げ で 、突 き 出 た 二 つ の 出 隅 が切 り取 られ た形 状 で あ る 。 内壁 は腰 が 鏡 板 張 り、 上 部 は漆 喰仕 上 げ と な っ て い る 。 天 井 は 舟 形 天 井 で あ る。 分 銅 式 の 上 げ 下 げ 窓 の位 置 は 、建 設 途 中 で 設 計 変 更 が 行 わ れ た 。 図面 上 の 東 面(暖 炉 の 所)と 西 面(引 き違 い 窓 の所)に も同 じ上 げ 下 げ 窓 が 設 け られ 、 全 部 で6箇 所 の 窓 が この 洋 間 の雰 囲 気 を作 り上 げ て い る 。 壁 の 一 部 に は 木 蓮 の花 柄 の ス テ ン ドガ ラ ス の 丸 窓 が 嵌 め 込 まれ て い る。 図 面 上 計 画 され た 暖 炉 は 、 避 暑 目的 の 別 荘 用 途 を 考 え て 取 りや め と な っ た 。 窓 の 外 側 に は優 雅 な 透 か し を彫 り込 ん だ 観 音 開 きの鎧 戸 が あ り、外 観 か ら も こ の建 物 の 精 緻 な造 作 が感 じ られ る 。 建 設後 ほ どな く して大 戦 の影 響 が 深 ま る 中、 当 主 は 非 常 事 態 を想 定 して 家 具 な ど を徐 々 に 茅 ヶ崎 に移 し疎 開 の 準 備 を 進 め た。1945(昭 和20>年5月 、東 京 の 本 宅 一 帯 は 空 襲 を 受 け 家 は焼 失 した 。 た だ ち に初 代 夫 婦 と次 男(長 男 は戦 死)の3人 は 茅 ヶ崎 に転 居 した 。 1946(昭 和21>年 次 男 は 結 婚 し、2世 代4 人 の生 活 が 開 始 され た 。 そ の後 、 次 男 夫 婦 に 二 人 の 子 ど もが 生 ま れ 、6人 家 族 の 時 代 を経 て 、1958(昭 和33)年 に は 初 代 夫 婦 は 伊 豆 [図2]Nk邸 平 面 図2002.9著 者 実 測 ・作 成
茅 ヶ崎の別 荘史(1)別 荘 地 の成立 過程 と変遷 に転 居 し、 以 後 茅 ヶ 崎 で は2代 目 ・次 男 夫 婦 の 親 子4人 が 暮 らす こ と と な っ た。 そ の後 、 成 長 期 を迎 え た子 ど も達 に個 室 が 必 要 とな っ た ため 、 浴 室 は 改 装 さ れ て長 女 の 部 屋 とな り、 北 側 東 の 和 室(女 中室)は 長 男 の個 室 とな った 。 1960(昭 和35)年 頃 、 上 水 道 が 敷 設 され 、 そ れ ま で 人研 ぎで あ っ た流 し を ブ リキ仕 様 に 変 え た。1986,7(昭 和61,2)年 頃 、 台 所 の 大 改 装 を行 っ た 。 隣i接す る納 戸 と台 所 は一 体 化 され 、 設 備 を一 新 して 最 新 の ダ イニ ング キ ッ チ ン に改 造 され 、 そ の ま ま今 日 まで 使 わ れ て い る。 1994(平 成6)年 、2代 目当 主 が 亡 くな り、 現 在 は未 亡 人 が 細 部 に ま で行 き渡 っ た管 理 を 行 い 引 き続 き居 住 して い る。 敷 地 は道 路 整 備 や 相 続 税 の工 面 な どで 削 減 され 、 現 在 約700坪 と な っ て い るが 、 邸 宅 内 の樹 林 群 は市 の 保 存 樹 林 の指 定 を受 け、 美 し い庭 園 環 境 が 維 持 さ れ て い る。 住 宅 と は別 棟 に敷 地 内 に は江 戸 時 代 に建 造 され た と い う茶 室 が あ る。 東 京 ・麹 町 の 下 屋 敷 にあ っ た もの を移 築 し、 数 寄 屋 建 築 の 専 門 家 に 修 復 を依 頼 し1年 の 工 期 を か け て1982 (昭 和57)年 に完 成 した 。 敷 地 内 に は 、 さ ら に 本 年 ・2002(平 成2) 年 に竣 工 した ば か りの 二 人 の3代 目 の た め の 二 世 帯 住 居 が あ る 。 従 っ て 、 こ こ で は19世 紀 、20世 紀 、21世 紀 の3世 紀 の そ れ ぞ れ の 建 物 を同 時 に み る こ とが で き る。 2)Tk邸(南 湖) 建 設 は1932(昭 和7)年 頃 とい わ れ る。 建 て 主 に事 情 が 生 じ、 未 完 成 の ま ま手 放 さ ざ る を 得 な か っ た も の を 、 現 在 居 住 者 のTk家 未 亡 人 ・C氏 の祖 父 が 譲 り受 け 、 そ の 後 の工 事 を継 承 した 。 従 っ て 完 全 な 竣 工 は、『購 入 後 の 1934(昭 和9)年 頃 と され る 。 祖 父 の 本 宅 は横 浜 に あ り、 こ こ は別 荘 と し て使 用 さ れ た 。 建 設 時 の 家 屋 は 、現 在 地 よ り 数100m離 れ た場 所 に位 置 して い た が 、1939 (昭 和14)年 に 引 き屋 に よ り現 在 地 に 移 設 され た 。 当 時C氏 は実 家 を離 れ 祖 父 と同 居 して い た が 、Tk氏 と結 婚 、 そ して長 女 が 生 まれ た後 、 1941(昭 和16)年 、Tk一 家 は こ こ に移 り住 む こ と と な っ た 。 や が て 戦 時 色 が 濃 く な り、 横 浜 の 本 宅 が 空 襲 を受 け全 焼 、 祖 父 も茅 ヶ崎 へ と居 を移 した。 Tk夫 妻 の4人 の 女 児 達 は こ こで 育 ち 、 や が て そ れ ぞ れ に独 立 して 家 を離 れ た 。2001 (平 成13)年 に夫 が 亡 くな り、 現 在 は88歳 に な るC氏 が 独 りで こ こ に住 ん で い る。 敷 地 面 積 は 当 初 約350坪 あ っ た が 、1965 (昭 和40)頃 に 一 部 を 売 却 し現 状 は 約300坪 で あ る。 そ の 敷 地 内 に アパ ー トを2棟 建 て 経 営 に 当 た って い る。C氏 の長 女 は この アパ ー トの 一室 に住 み 、 日常 的 に母 娘 の 親 密 な行 き 来 が 行 わ れ て い る。 住 居 平 面 は 玄 関脇 に洋 間 を備 え た 中 廊 下 型 住 宅 で あ る 。[図3]は 筆 者 が 現 状 を 実 測 の 上 、 か きお こ した平 面 図 で あ る。 洋 間 の 窓 は 分 銅 式 の 上 げ下 げ 窓 、 内 部 は漆 喰 仕 上 げ で い ず れ も当 時 の ま ま の状 態 で 、今 日 も使 わ れ て い る。座 敷 と二 つ の 和 室 の 内 部 、 造 作 は手 入 れ が 行 き届 き、 今 もな お 清 々 し さ を残 して い る。 座 敷 は床 の 間 と簡 素 な書 院 の つ い た8帖 間 で あ る。 外 周 に 広 幅 の 廊 下 が 回 っ て い る が 、 こ の廊 下 の 床 は外 側 に向 か っ て 、 ゆ る い勾 配 が つ け られ て お り、独 特 の意 匠 が 凝 ら され て い る 。 細 か な 部 分 的 な 内 部 改 装 、模 様 替 え は何 回 か繰 り返 され て は い るが 、大 き な変 更 は 昭 和 30年 頃 の 台所 と北 側 和 室(茶 の 間)ま わ り、 お よ び 昭 和40年 頃 の 南 側6帖 の 増 築 で あ る 。 従 来 台 所 と北 側 和 室 は押 入 に よ り隔 て られ て い た が 、 押 入 を 取 り払 っ て2室 を 連 続 させ 、 一59一
文 教大 学 女子短期 大学 部研 究紀要46集,51-61,2003 茶 の 間 が つ くられ た。 また 窓 も増 設 され て北 側 全 体 の環 境 は大 き く向 上 した。 南 側 和 室 は 下 屋 形 式 で 張 り出 さ れ 、現 在 はベ ッ ドル ー ム と して 使 わ れ て い る。 台 所 設 備 、浴 室 は た び た び改 修 を して お り、 そ の 詳 しい記 録 は 確 認 す る こ と は で き な い 。 斜 線 部 分 は増 築 箇 所 を示 して い る。 ベ ッ ドを は じめ 洋 服 だ ん す 、 洋 間 の テ ー ブ ル 、椅 子 、 戸 棚 、 玄 関 の下 駄 箱 な ど横 浜 に あ っ た本 宅 か ら運 び 込 まれ た もの が 今 もそ の ま ま使 わ れ て お り、 この 住 宅 の歴 史 的 価 値 を高 め て い る。 [図3]Tk邸 平 面 図2002.9著 者 実 測 ・作 成 者 の 「家 を守 る」 意 識 が 共 通 して 高 い こ とが 解 る 。 「家 」 と は も ち ろ ん 、 戸 主 支 配 の封 建 的 集 団 で は な く、 自分 が 育 っ た 空 間 、 環 境 、 家 族 な ど を含 む 総 体 的 な生 活 共 同 集 団 で あ る 。 家 を愛 す る意 識 の 強 さが 、 周 辺 環 境 の 保 全 に も貢 献 し、 茅 ヶ 崎 の ま ち の 光 景 に情 感 を 与 え て い る 。 しか し、 次 の 時 代 に 引 き継 が れ る 時 に は、 現 状 を維 持 す るの は厳 しい もの と も予 想 さ れ る 。 相 続 税 制 が 内 包 す る問 題 点 と 環 境 問 題 は互 い に相 容 れ ぬ 事 態 を 生 じ させ て い る 。 今 回 は大 規 模 別 荘 の 変 容 と 中小 規 模 別 荘 の 継 承 状 況 を対 照 的 に考 察 した が 、 類 型 化 を進 め る に は ま だ 多 くの検 証 が 必 要 で あ る。 そ れ らを これ か らの 課 題 と した い 。 最 後 に本 報 告 の 住 宅 調 査 に当 た っ て は、 実 際 に ま ち歩 き を行 い 長 寿 命 住 宅 の発 見 につ と め る な ど多 くの 方 の 協 力 を頂 い た 。 こ こ に記 して 謝 意 を表 した い 。 ま た 、 ア ンケ ー トに協 力 い た だ い た 方 、 本 報 告 に 直 接 関 係 して 下 さ っ た対 象 住 宅 居 住 者 の 方 々 には 、 そ の ご厚 意 に特 別 な感 謝 を捧 げ る もの で あ る。 皿 お わ り に 本 報 告 に あ る事 例 者 達 は幾 多 の 困 難 を乗 り 越 え て 、 初 代 が 開 い た遺 産 ・屋 敷 を継 承 し、 そ こ に居 住 し、 血 縁 を絶 や す こ と な く維 持 し て い る。 資 産 の状 態 、 所 有 地 の 状 態 は規 模 の 大 きい 別 荘 ほ ど変 化 が 激 し く、 中小 規 模 の 例 で は 変 化 が顕 著 で は ない 。 多 額 な納 税 負 担 を は じめ と して 、 屋 敷 内 の 樹 木 剪 定 、 清 掃 に 関 わ る 費 用 な ど大 規 模 別 荘 ほ ど悩 み は 多 い 。 ま た 、当 主 の死 亡 や そ れ に伴 う相 続 問題 は、 必 然 的 に建 物 や所 有 地 の 形 状 を変 化 させ る。 さ ら に 、 長 く住 み 続 け られ る 条 件 に は 居 住 脚 注 1)安 島博:幸、 十代 田朗 『日本 別 荘 史 ノー ト」 住 ま い の 図 書 館 出版 局 、1991 十 代 田 朗 、 渡 辺 貴 介 、 安 島 博 幸 厂戦 前 の 関 東 圏 に お け る別 荘 の 立 地 とそ の 類 型 に 関 す る研 究 」 日本 建 築 学 会計 画 系 論 文 報 告 集 、 第436号 、pp.79-86 2>『 横 浜 貿 易 新 報 』1912、8月18日 号 3)熊 本 出 身 。 伯 爵 で あ り第 二 次 松 方 内 閣 (明 治29年9月 ∼30年12月)の 司 法 大 臣 。 農 商務 大 臣 な ど要 職 を経 て 後 に総 理 大 臣 と な る 4)・「茅 ヶ崎 市 史2資 料 編(下)近 現 代 』 茅 ヶ 崎 市 、1978、p529(306号) 5)高 知 出 身 で幕 末 の 志 士 。 伯 爵 。 内務 大 臣 、
茅 ヶ崎 の別荘 史(1)別 荘 地 の成 立過 程 と変遷 内 閣 書 記 長 、 農 商 務 大 臣 な どを 歴 任 。 明 治 20∼31年 に 渡 り宮 内 大 臣 を務 め 、 清 浦 別 荘 の 南 の 土 地 を買 い 入 れ 、 後 に 清 浦 の 別 荘 も譲 渡 を 受 け そ の規 模 は 広 大 とな っ た 。 6)『 茅 ヶ崎 市 史2資 料 編(下)近 現 代 』 茅 ヶ 崎 市 、1978、p531(309号) 7)岡 山 出 身 。 子 爵 。 農 商 務 次 官 、 宮 中顧:問 官 、 宮 内 次 官 を歴 任 、 明 治30年 当 時 は 帝 室 会 計 審 査 局 長 で男 爵 で あ っ た。 8)『 茅 ヶ崎 市 史2資 料 編(下)近 現 代 』 茅 ヶ 馳 崎 市 、1978、p534(311号) 9)兵 庫 出 身 。 内 務 省 会 計 局 長 、 県 治 局 長 、 山 梨 県 ・三 重 県 各 知 事 、 宮 内 省 調 度 頭 な ど を務 め 、 明 治29年 に は 金 鶏 問伺 候(勅 任 官 を5年 以 上 奉 職 す る な ど功 労 の あ る も の を 優 遇 して 与 え ら れ た 資 格 。 勅 任 官 の 待 遇 を 受 け た)と な っ た。 10)『 茅 ヶ 崎 市 史2資 料 編(下)近 現 代 』 茅 ヶ崎 市 、1978、p532(310号) 11)『 『茅 ヶ 崎 市 史2資 料 編(下)近 現 代 』 茅 ヶ崎 市 、1978、p529(307号) 12)『 茅 ヶ崎 市 史4通 史 編 』1978、p615 13)『 茅 ヶ崎 市 史2資 料 編(下)近 現 代 』 茅 ヶ 崎市 、1978、p543(322号) 14)『 横 浜 貿 易 新 報 』1924、5月20日 号 15)『 茅 ヶ崎 市 史2資 料 編(下)近 現 代 』 茅 ヶ崎 市 、1978、p545(324号) 16)『 写 真 集 茅 ヶ崎 』 茅 .ヶ崎市 、1987、p157 17)『 横 浜:貿易 新 報 』1913、8月8日 号 『茅 ヶ崎 の 別 荘 を歩 い て み ま せ ん か 』 第1回 ∼ 第5回 記 録 、講 師 ・川添 隆行 、1985 『写 真 集 ・茅 ヶ崎 』 茅 ヶ崎 市 、1987 『イ サ ム ・ノ グ チ 』 上 、 下 、 ドウス 昌代 、 講 談 社 、2000 『日本 別 荘 史 ノ ー ト』 安 島 博 幸 ・十 代 田 朗 、 住 まい の 図書 館 出 版 局 、1991 『萬 鉄 五 郎 と茅 ヶ 崎 の 風 景 』 茅 ヶ 崎 市 史 編 集 委 員 会 編 、2001 拙 著 「茅 ヶ 崎 市 北 部 丘 陵 地 域 に お け る 農 家 の 生 活 環 境 一住 生 活 の 変 容 を 視 点 と して 」 『湘 南 フ ォー ラ ム ・第6号 』 文 教 大 学 湘 南 総 合 研 究 所 紀 要 、pp.40-64、2002 参 考 文 献 『私 の 生 涯 』 高橋 誠 一 、 遺 稿 集 編 集 委 員 会 編 、 茅 ケ崎 恵 泉 学 園 、1969 『明 治 の 巡 査 日記 一石 上 憲 定 「自渉 録 」』 茅 ヶ 崎 市 、1997 『茅 ヶ 崎 市 史2』 資 料 編(下)近 現 代 、層茅 ヶ 崎 市 、1978 『茅 ヶ崎 市 史4』 通 史 編 、 茅 ヶ崎 市 、1978 『茅 ヶ崎 市 史5』 概 説 編 、 茅 ヶ崎 市 、1982 一61一